表紙 > 曹魏 > 孔融、袁譚、曹操に辟され、経済政策をする王脩伝

02) 曹操の司金中郎将、奉常

『三国志集解』を見つつ、王脩伝をやります。

袁譚のもとでの僚友・管統をすくう

以脩為督軍糧,還樂安。譚之破,諸城皆服,唯管統以樂安不從命。太祖命脩取統首,脩以統亡國之忠臣,因解其縛,使詣太祖。太祖悅而赦之。袁氏政寬,在職勢者多畜聚。太祖破鄴,籍沒審配等家財物貲以萬數。及破南皮,閱脩家,穀不滿十斛,有書數百卷。太祖歎曰:「士不妄有名。」

王脩は、曹操の軍糧を督した。

曹魏には、督軍糧がある。軍糧を督し、法を執った。「軍糧御史」は杜襲伝にある。『通鑑』建安9年、袁尚は従事する安平の牽招を上党におくり、軍糧を督させた。
烏丸の王に、袁紹から曹操への正統交代をとく牽招伝

楽安にもどった。袁譚が破られると、諸城はみな曹操(の督軍糧である王脩)に服した。

ぼくは思う。さっき仕事人間の話を書いた。袁紹と曹操の戦いも、役職をめぐる戦いである。袁紹も曹操も、河北に地盤がなかった。1代かぎり、役職者として、この地域を治めているだけだ。この地域の守令だって、袁氏もしくは曹操に任じられただけ。彼らだって、地盤がない。1代かぎり、役職者として、この地域を治めているだけだ。
曹操がすべきことは、「袁氏に従うより、曹操に従うほうが、仕事がうまく回りそう」と、守令たちに思わせる軍事的な優勢をつくること。私闘じゃないし、宗教戦争じゃないし、人種闘争でも階級闘争でもない。徹底的な戦いは不要である。曹操は、袁氏と守令らを結ぶ「恩」の価値を、相対的に下げてやるだけで充分である。
袁譚や袁尚その人を、曹操は殺す必要がある。彼らが死ねば、「恩」のネットワークは崩壊する。軍事的な優勢すら、不必要である。曹操が、袁譚や袁尚をしつこく殺したがるのは、それがいちばん効率的な方法だからだ。袁譚や袁尚が死ねば、それぞれの郡県を1つずつ陥落させなくても、自動的になびいてくる。
曹操は、袁熙と袁尚を追いかけて遼東までせまった。この足取りだけ見ると、非効率に見える。だがそうでない。もっとも効率的な方法を選んだ結果、遼東まで行くことになってしまった。ところで、袁熙と袁尚を遼東まで逃がした(逃げることを可能にした)のは、袁氏がバラまいた「恩」である。「恩」そのものが、曹操の敵だった。曹操はその敵と、真正面からぶつかったのだ。迂回してない。

ただ楽安太守の管統だけが、曹操に従わなかった。曹操は王脩に「管統を殺せ」と言った。

胡三省はいう。曹操は王脩に、楽安へもどって軍糧をはこばせ、管統のクビを取らせようとした。もしくは王脩に、管統のクビをつかませ、管統を降伏させたかった。

王脩は「管統は亡國之忠臣である」と取りなし、管統の縛りを解いて、曹操に会わせた。

ぼくは思う。管統は、東莱太守のときも、青州で1人だけ抵抗して、袁譚のところに戻った。妻子を捨てた。
上に書いた、土地の統治権と、辟召者への報恩という天秤でいえば。王脩は、袁譚の死により、袁譚への報恩を諦め、曹操に従った。袁譚のクビを弔ったが、曹操の官位をもらうことを躊躇しなかった。いっぽう管統は、袁譚の死後ですら、袁譚への報恩を試みた。
まとめると、いま王脩伝で、3つの類型が出てきた。
1つ、土地の統治権を最優先する人。青州で袁譚に叛いた人たちが該当する。袁譚に任命された恩よりも、目の前にある守令としての権限を大切にする。いちばんのリアリストか。
2つ、王脩のように、土地の統治権と、辟召者への報恩を、両立させる人。職務にあるうちは、辟召者の救援に積極的である。だが、辟召者が転移・死去すれば、ドライに関係を消滅させる。つぎの上司に乗り換える。
3つ、管統のように、辟召者への報恩を最優先する人。いくら軍事的に劣勢でも(青州の全てが叛く、曹操が河北を征圧する、など)、辟召者との関係をくずさない。軍事的に劣勢だから、任地の統治を保てなくなっても、辟召者との関係をくずさない。辟召者にとっては「頼れる忠臣」であり、中央集権を機能させる「君主の手足」みたいな人。いっぽうで、現実を踏まえないで、過去のある一時点に定まった価値観を変えないから、理想主義者の匂いもする。
いわゆる「仕事人間」は、どのタイプなのか。どれも、それぞれの意味で「仕事人間」だよなあ。あいまいな定義の言葉じゃ、表現できなかった。

曹操は管統をゆるした。
袁氏の政は寬である。職にあり勢いあるものは、おおく畜聚した。曹操が鄴県をやぶると、審配らの家財・物貲を、記録して没収した。家財・物貲は、萬を數えた。南皮をやぶると、王脩の家をしらべた。穀物は10斛に満たず、書が數百卷あった。曹操は歎じた「王脩の名声はダテじゃない」

期せずして、袁紹軍の状況がコミカルに描かれてる。


曹操の司金中郎將となり、塩鉄ら財政を管理する

乃禮辟為司空掾,行司金中郎將,遷魏郡太守。為治,抑彊扶弱,明賞罰,百姓稱之。

曹操は礼をもって、王脩を司空掾とし、司金中郎將を行させた。

銭大昕はいう。陳琳は袁紹のために檄文をかいた。そのとき曹操が、発丘中郎将、モ金校尉をおいたと。司金中郎将のことである。
韓暨伝はいう。韓暨は、司金都尉を加えられたと。
潘眉はいう。モ金も発丘も、墳陵をほって、金品をとる仕事を司る。敵国(袁紹軍)の陳琳が、曹操をそしって書いたことだ。本当だと決まらない。また銭大昕のように、陳琳の檄文と、司金中郎将をイコールで結ぶのは、誤りである。国は、食貨を重んじる。この列伝で曹操は、『塩鉄論』にからめて、王脩と議論する。司金中郎将とは、冶金を管理する官位であろう。蜀漢にも、司金の官がある。張裔伝に司金中郎将があり、農具や戦具をつくる。ハカホリという銭大昕の理解は、誤りである。
呉鳴鈞はいう。韓暨は監冶謁者にうつり、在職7年。うまくやったので、司金都尉を加えられた。ここから、司金とは、冶金のことだとわかる。ハカホリでない。曹魏の韓暨は司金校尉となり、蜀漢の王連は司塩校尉となった。韓暨と王連の品秩は同じである。
趙一清はいう。『後漢書』百官志はいう。郡国の塩官と鉄官は、もとは司農に属した。光武ののち、みな司農でなく、郡県に属した。曹操がはじめて司金中郎将をおいた。利権を司らせ、中央に利権を帰させた。『魏都賦』に、中央の倉庫がうたわれる。

魏郡太守に遷した。王脩の統治は、強きをおさえて弱きをたすけた。賞罰は明らか。百姓は、王脩の統治をたたえた。

魏郡の治所は、鄴県である。武帝紀の初平元年にある。


[二]魏略曰:脩為司金中郎將,陳黃白異議,因奏記曰:「脩聞枳棘之林,無梁柱之質;涓流之水,無洪波之勢。是以在職七年,忠讜不昭於時,功業不見於事,欣於所受,俯慚不報,未嘗不長夜起坐,中飯釋餐。何者?力少任重,不堪而懼也。謹貢所議如左。」太祖甚然之,乃與脩書曰:「君澡身浴德,流聲本州,忠能成績,為世美談,名實相副,過人甚遠。孤以心知君,至深至熱,非徒耳目而已也。察觀先賢之論,多以鹽鐵之利,足贍軍國之用。昔孤初立司金之官,念非屈君,餘無可者。故與君教曰:『昔遏父陶正,民賴其器用,及子媯滿,建侯于陳;近桑弘羊,位至三公。此君元龜之兆先告者也』,是孤用君之本言也,或恐眾人未曉此意。

『魏略』はいう。王脩が司金中郎将となった。

『御覧』はいう。河北で冶金の開発をはじめたので、王脩を司金中郎将とした。版本により、この記述がふえる。

王脩は、黄金と白金のちがいをのべた。さらに奏記した。「私は7年も司金中郎将をしたが、忠讜が同時代に昭らかにならず、功績がなくて申し訳ない」と。

ぼくは思う。年数から判断すると、曹操が赤壁に負けたことを指すだろう。曹操の財政を、余裕たっぷりに支えられなくて、ごめんなさい。天下統一を失敗させてしまい、ごめんなさい」と。
官渡のとき、曹操は、荀彧に「食糧がないから、撤退したい」といった。財政がテーマという点で、同じである。この王脩の話は、「赤壁で戦いが終わるなら、充分な財政は準備があった。でも赤壁で敗れた。今後も戦闘を継続するなら、そんなカネはありません。気をつけて使ってね」という意味か。部下からの悲鳴。

曹操はいう。「王脩は、功績が充分である。王脩の名声は本州(青州)に流れており、勤務成績はほめられている。名実がともなう。先賢の論を参考にすると、塩鉄の利益によって、軍国の用途にまわした。むかし私が司金の官をつくったとき、王脩がもっとも適任だった。7年前、「前漢の桑弘羊は、塩鉄で利益をあげて三公になった。王脩も桑弘羊のようになれ」と言ったときと、同じ気持ちだ。(つづく)」

『史記』貨殖伝はいう。元封元年、桑弘羊は冶粟都尉となり、大農を領した。天下の塩鉄について論じた。『漢書』百官公卿表はいう。武帝は後元2年、桑弘羊を御史大夫とした。
ぼくは補う。御史大夫が、三公にあたる。


自是以來,在朝之士,每得一顯選,常舉君為首,及聞袁軍師眾賢之議,以為不宜越君。然孤執心將有所厎,以軍師之職,閒於司金,至於建功,重於軍師。孤之精誠,足以達君;君之察孤,足以不疑。但恐傍人淺見,以蠡測海,為蛇畫足,將言前後百選,輒不用之,而使此君沉滯冶官。張甲李乙,尚猶先之,此主人意待之不優之效也。孤懼有此空聲冒實,淫鼃亂耳。假有斯事,亦庶鍾期不失聽也;若其無也,過備何害?
昔宣帝察少府蕭望之才任宰相,故復出之,令為馮翊。從正卿往,似於左遷。上使侍中宣意曰:『君守平原日淺,故復試君三輔,非有所間也。』孤揆先主中宗之意,誠備此事。既君崇勳業以副孤意。公叔文子與君俱升,獨何人哉!」後無幾而遷魏郡太守。

曹操はいう。「王脩を司金官にするとき、軍師の袁渙らが反対した。袁渙は王脩に、袁渙の官位を越して昇進させるなと言った。だが私は考えた。軍師の官位は、司金官より上である。しかし軍師よりも司金官のほうが、功績を建てやすい。

ぼくは思う。軍師の袁渙は、何をこだわったのだろう。袁渙が言ったのは「以為不宜越君」である。「おもえらく君を越すを宜しとせず」である。「君」って袁渙か王脩か。直接話法か、間接話法かで、変わるなあ。うーん。
すぐあとに曹操が、軍師と司金官を比較している。袁渙は、王脩と袁渙自身をくらべて、異議を申し立てたのか。器量がちいさいなあ。
曹操は袁渙を煙たがった。王脩を袁渙より(見かけ上は)下位に置いておいたのか。袁渙に対しては「王脩の官位は低いよ」といい、王脩に対しては「官位は低いが、重要な役職だよ」と言ったり。曹操さんも、気をつかう。

すでに私は、王脩に劣る人物にすら、官位を与えている。王脩を司金官にしなければ、私が王脩を軽んじていることになる。
むかし前漢の宣帝は、少府の蕭望之を宰相に察したいので、わざと馮翊に出した。正卿に従い、そとに出るのは、左遷のようである。宣帝は侍中をつかい、蕭望之に本意をつたえた。「いま少府にくる前、きみは平原太守をした。平原太守の経験日数が少なかったから、いま試しに三輔(馮翊太守=地方官)に出して、実績をつくってもらう。きみを遠ざけるのでない」と。私も宣帝と同じ気持ちである」と。ほどなく王脩は、魏郡太守にうつった。

曹操は、丞相のくせに、宣帝と自分を等しく見て、曹操が太守の人事を決めた。曹操は「後漢の皇帝」のように、ふるまうなあ。
宣帝のいる長安から、三輔の太守になるのは、「首都圏の地方官」である。中央官でないから遠いけど、首都圏の地方官だから近い。曹操は魏郡の鄴県にいる。魏郡太守は、前漢の三輔の太守のようなものだ。
盧弼は最後の、魏郡太守のくだりを、衍字かもという。ぼくも、おなじ疑問がある。はじめ、王脩が司金官に就くときの話だったのに、いつのまにか7年後、王脩が司金官をやり尽くしたときの話になった。「地方官にして実績を積ませる」なら、司金官に就くときにやらねばならない。だが王脩は、司空掾から、いきなり司金中郎将になった。『魏略』の長文を引いているうちに、ねじれた?
もしくは曹操は、王脩を三公レベルにあげる予定だったか。つまり、蕭望之の「少府-馮翊太守-宰相」を王脩になぞらせるため、「司金中郎将-魏郡太守-三公レベル」という道筋を用意したか。でも後漢の三公は、曹操が廃止・統合してしまったあとだ。王脩は、どんな官位に就けばいいんだろう。後漢でなく魏国の要職かな。


魏国の九卿となり、厳才の反乱に駆けつける

魏國既建,為大司農郎中令。太祖議行肉刑,脩以為時未可行,太祖採其議。徙為奉尚。
其後嚴才反,與其徒屬數十人攻掖門。脩聞變,召車馬未至,便將官屬步至宮門。太祖在銅爵臺望見之,曰:「彼來者必王叔治也。」

魏國は既に建ち、王脩は大司農の郎中令となる。曹操は肉刑を論じたが、王脩は「早い」と反対した。曹操は、王脩の議論を採用した。奉尚となる。

建安18年、魏国が初めて大司農の郎中令をおいた。黄初元年、光禄勲と改めた。
建安21年、魏国が初めて奉常をおいた。黄初元年、太常と改めた。
ぼくは思う。後漢と同じ職掌を、名前をちょっと変えて設置したのかな。曹丕が漢魏革命を成功させると、なじみのある後漢の職名に、曹魏の職名を改めた。職名をのっとった。という理解であっているのかなあ。

のちに厳才がそむいた。厳才は、彼の徒屬の數十人とともに、掖門を攻めた。王脩は車馬がくるまえに、徒歩で官属とともに宮門にきた。曹操は銅爵臺でこれを見た。「駆けつけたのは、王脩にちがいない」と。

ぼくは思う。銅雀台って、こうやって見晴台のような使い方をしたんだ。フーコーのいうように、見ることそのものが、「権力」である。敵だけじゃなく、味方の動きまで見張っていた。こわい人だなあ。
盧弼はいう。ある人がいう。北海太守の孔融が「よく難を冒して來たるは、ただ王脩のみ」と言った。王脩は死ぬまで、この評価に答えつづけた。
ぼくは思う。孔融の評価と、王脩の人柄は、相互作用をもつ。つまり、王脩のちょっとした行動を見て、孔融が評価した。孔融の評価に答えるために、王脩は危難に駆けつけ続けた。王脩の行動は、孔融の評価を強化した。孔融の評価は、曹操にも伝わった。曹操は王脩に、駆けつけを期待したし、駆けつけるものと断定した。
後漢末における人物評について、考えたいなあ。「人柄が先で、人物評が後」というモデルは、正しくない。
また曹操を理解するとき、橋玄や許劭から(強引にでも)コメントをもらったことを、曹操の優れた策略と見るのは、半分は正しくない。のちに曹操は、許劭のコメントに答え続けていかねばならない。これは義務である。逸脱して「評判と違うな」と思われたら、許劭もらったコメントの価値がなくなる。曹操は「既存の思想と対決した、自由な天才」であると同時に、橋玄や許劭の人物評という「呪い」に縛られた人生をあゆんだ。英雄だか姦雄だかになることを、他人に課されて、ムチャな行動を取ったりもした。
@sangatsu_rakshi さんはいう。銅爵台は宮殿内の最後の籠城拠点でもあるので、そこに逃げ込んでたってことは曹操はこの反乱で死ぬかもと本気で思ってたのかもしれませんね。
ぼくはいう。逃げたんでしょうか。普段から滞在しており、高みの見物、というわけではありませんか?
@sangatsu_rakshi さんはいう。普段から滞在するには場所が悪すぎる気がします。鄴は聴政の場と曹操の居住区をコンパクトにまとめるという思想に基づいた城なので、それを投げ捨ててまで銅爵台に移る理由も無いかなと。
ぼくはいう。「場所が悪すぎ」て、わざわざ「移る理由もない」銅雀台について、どんな本で知ることができますか? ほとんど知識がないんですが、、ぼくは銅雀台を、もっと良いもの、リッパな宮殿のようなもの、を想像していました。
@sangatsu_rakshi さんはいう。愛宕元『中国の城郭都市』か吉田歓『日中宮城の比較研究』で読んだのが取っ掛かりだったと思います。逃げ込み先と明確に書いてあるのは賀業鉅『中国古代城市規画史』ですね。宮殿の配置に曹操の思想が盛り込まれた城なので、それを捨て去ることは無いかなと。


相國鍾繇謂脩:「舊,京城有變,九卿各居其府。」脩曰:「食其祿,焉避其離?居府雖舊,非赴難之義。」頃之,病卒官。子忠,官至東萊太守、散騎常侍。初,脩識高柔于弱冠,異王基于幼童,終皆遠至,世稱其知人。

相國の鍾繇は、王脩にいう。「京城に変事があれば、九卿は自分の府にいるものだ」と。王脩はいった。「禄を食みながら、変事を見逃せない」と。

ぼくは思う。鍾繇が「首都の変事のときは、ジッとしていろ」というのは、魏諷に連坐する伏線だろうか。王脩をたしなめる役は、いま鍾繇でなくても良かった。
王脩と鍾繇の会話は、魏国の内側の話なんだな。魏国の内政のために、奉常(九卿レベル)の王脩と、相国(三公レベル)の鍾繇が、議論している。後漢の防衛について話しているのでなく、曹操の首都を守るために議論してる。
曹操は後漢になかに、新たに(前漢の前期に戻るように)新しい国をつくった。仕える人々の、言動などの価値観や、官位の任免の流れが、おおきく変わりそう。
曹操の肩書が「公」「王」か「天子」か。もちろん重大な差異である。だが、仕える人々の動きや流れにおいては、あまり差異がない部分もあるだろう。

このころ、王脩は在官のまま、病死した。

趙一清はいう。『カン宇記』巻24は、王脩の墓の位置をつたえる。

子の王忠は、東萊太守、散騎常侍までいたる。

東莱は、臧洪伝にある。
王脩の子が郎中を拝したことは、文帝紀の延康元年にひく『丁亥令』にある。

はじめ王脩は、弱冠のころから高柔を評価し、幼童のころから王基を評価した。高柔も王基も出世したため、世は王脩の人を見る目をほめた。

魏略純固傳以脂習、王脩、龐淯、文聘、成公英、郭憲、單固七人為一傳。其脩、淯、聘三人自各有傳,成公英別見張既傳,單固見王淩傳,餘習、憲二人列于脩傳後也。

『魏略』純固傳では、脂習、王脩、龐淯、文聘、成公英、郭憲、單固の7人で、1巻の列伝とする。『三国志』においては、王脩、龐淯、文聘の3人は、専用の列伝がる。成公英は、張既傳にくっつく。單固は、王淩傳にくっつく。餘習、郭憲の2人は、王脩伝にくっつく。

ぼくは思う。関連する列伝が、『三国志』王脩伝のあとに、いっぱいくっつく。はぶく。


田畴伝に、一瞬だけ名前が出てきたから、王脩伝をやった。けっこう長くなったけど、読み応えのある列伝でした。120411