01) 劉虞が死に、徐無山中へ
『三国志集解』を見つつ、田畴伝をやります。
董卓に義兵を起こし、劉虞の使者となる
田畴は、あざなを子泰という。
王鳴盛はいう。「無終に田子春がいて、節義は士雄をなす」という本がある。宋代に、すでに子泰か子春かを決められない。盧弼が思うに、子春が正しいだろう。
ぼくは思う。固有名詞だから、論じても仕方ない。それよりも、字形が似ているだけで、固有名詞そのものの存在が揺らぐというのが、おもしろい。固有名詞は、唯一無二のものだが(定義からしてもね)それが文字で伝えられることを理由に(他に伝える手段がない)、字形によって揺らいでしまう。儚いなあ!
田畴は、右北平の無終の人である。
というわけで、武帝紀をみる。ちょうど武帝紀に、田畴が登場する場所だった!
建安12年夏5月、曹操は無終にいたる。胡三省はいう。春秋時代の、無終子の国である。宋白はいう。無終は、唐代の薊州玉田県である。恵棟はいう。『魏土地記』で、無終は右北平の西北130里にある。
無終子って誰だ。『春秋』を、読まなきゃなー。
武帝紀で田畴は、請いて郷導をなす。盧弼はいう。田畴伝で曹操は田畴に、その衆をひきいさせ、郷導させる。武帝紀では田畴が申し出たが、田畴伝では曹操が申しつけた。記述が異なる。
ぼくは思う。結果的に、田畴は曹操を案内した。言い出しっぺがどちらか、を問題にする必要があるだろうか。あとで問題になってきたら、また考えるけど。本紀・列伝の性質として、ただ主語が異なるだけでは? この差異から、政治的な記述の意図(曹操の強制か、田畴の自発か)までを、論じることはできないだろう。おなじ『魏志』のなかだし。
武帝紀を見たついでに、先走ってしまった。
田畴は、読書と撃剣をした。初平元年(190)、田畴は義兵を起こした。
このとき田畴は、どこにいたんだろう。故郷から離れたという記述がない。右北平で、兵を起こしたのか。しかし右北平から、董卓を討つなんて、ムリだ。董卓と袁紹の混乱により、右北平のような遠方ですら、治安が乱れたのかな。
董卓が長安に、皇帝をうつした。幽州牧の劉虞が歎じた。「董卓が乱をなし、朝廷がうつされた。四海は俄然とし、固志がない。わたしは宗室の遺老である。衆と同じではいられない。
うーん。史実が云々というより、ニュアンスの問題だが。
「遺老」は、先代からの老臣、なのかな。「死にぞこないの老いぼれ」くらいの意味だと思った。ともかく、自分をへりくだっている。
つぎに「衆」の意味。おおぜい。おおくの臣下。または庶民。集団をなした人間の集団。ふつうの人。
劉虞が「私は同じでいられない」と言うところの、劉虞とは異なる「衆」とは、誰のことか。文脈をよむと、俄然とし、固志がなくなっちゃった人だ。つまり、董卓に動揺している、四海の人たちだ。それは、ちくまの言うように、一般民衆なのかも知れない。さらに言えば、袁紹たち官人かも知れない。袁紹、曹操、袁術、孫堅たちは、明らかに動揺している。そして、袁紹と袁術が対立を始めるように、「固志」があるようには見えない。ぼくは、劉虞が差別化をはかった相手は、袁紹と袁術だと思うなあ。
(ロコツに名指ししないところが、面白くもあり、嫌らしくもあり)
だから劉虞は、「私は宗室だから」と言ったのだ。もし「一般民衆」との差異を言い立てたければ、「私は士人だから」と言えば充分なのだ。劉虞から見れば、二袁は、劉氏をないがしろにする勢力に、とっくに見られていた。バレバレ!
『後漢書』劉虞伝では、この直前に、韓馥と袁紹が、劉虞を皇帝に建てようとしてた。「衆」の迷いって、この話かも知れない。
皇帝に使者をおくりたい。誰がいいか」と。
衆議は、みな「田畴がいい。田畴は若い。だが多くの人が、田畴の奇をたたえる」と答えた。田畴は、22歳だった。
このとき田畴は、義兵を起こしているときだ。しかし、劉虞は義兵の田畴を知らない。だから衆議が、わざわざ「若いけどね」と断っている。『三国演義』の劉備のように、「幽州太守」だったかの「劉焉」に応募したのとは、状況がちがうようだ。義兵は、地方官に応募せず、なかば自立勢力のようだったか。
董卓を討てるわけじゃないのに、とりあえず起兵して、政治的なポーズだけは示す。これが政治的に有効な手法なんだろうなあ。実際に、劉虞に見出された。
現代社会で、社長の子は、社長になりやすい。父親が、どんな小さな町工場でもいいから、社長であれば、子はそれを見て育つ。田畴は、義兵といい、のちの自治といい、行動派のリーダーになりがち。家系も、リーダー系だったのか。
田畴の家系は、何も書いていない。少なくとも、累代の官僚とか、地域の豪族ではなさそう。「読書と撃剣」くらいなら、独学できそうだ。もし正統な教育を受けていれば、学師と科目(書名)が書いてありそうなもの。あまり文化資本のない家に生まれ、後天的に身につけたか。上昇志向が見え隠れするのも、成り上がりタイプの行動。
劉虞は、礼をそなえて、田畴とあった。劉虞の署の従事とし、
「署」とは、幽州牧か、大司馬か。まあ、区別する意味(メリット)を、今のところぼくは見出してないし、区別するにも難しかろう。
劉虞は田畴のために、(長安にゆくための)車騎を具えさせた。
出発のとき、田畴がいった。「道路がふさがれ、寇虜があばれる。官の使者だといえば、衆に名指されるでしょう。長安への使者を成功させるため、プライベートに行きたい」と。劉虞はみとめた。
官の使者だと名指されると(使者の身分がバレると)、長安への使者に失敗する。田畴は婉曲しているが、つまり、漢官は世論に支持されていないってことだ。ちょっと前は、漢官は優先的に通れただろうが、いまは正反対だ。田畴は「寇虜」と言っているが、本来的に「寇虜」である人間なんていない。ただ、劉虞と田畴から見て、寇虜というだけ。この時点ですでに、漢家の統治は崩れている。というのが、田畴の認識だな。
そして、劉虞は、田畴の申し出を認めた。
そもそも劉虞だって、漢家のピンチだという認識がある。でないと、長安に使者なんか出さない。使者の人選に悩んだりしない。
史書の記述方針や、魏晋から見返した正統性の問題はヌキにして。この時点で劉虞と田畴は、幽州から長安にいたる経路が、漢家にとって「外側」になっていることを認識してる。少なくともその経路の上では、漢家は滅びている。
かくして、田畴は「幽州牧の使者」を辞退した。すげー。
田畴は帰り、みずから家客と、年少の勇壯のうち田畴を慕う者を、20騎をえらんだ。劉虞は、みずから送り出した。
ところで田畴は、何をしにいったんだ。劉虞はみずから見送ってまで、田畴に何を言わせたかったんだ。「皇帝さん、こんにちは」では、あるまい。『後漢書』劉虞伝を見ると、「長安から洛陽に帰るための、道中を整えますよ」と伝えたかったらしい。列伝の直後に、侍中する子の劉和をつかい、献帝を武関から出す計画がうごく。
初平元年、劉虞は董卓から、大司馬にしてもらった。今回の使者は、「董卓さん。大司馬にしてくれて、ありがとう」という用件では、なさそうだなー。
『先賢行状』はいう。出発のとき、田畴は劉虞に警告した。「公孫瓚に警戒せよ。殺せ」と。劉虞は、ゆるさず。
幽州において、公孫瓚と田畴が対立しており、、なんて話を膨らましたら、面白いのだろうか。そういう対立が「必要」なときだけ、恣意的に引いてくることができるカードである。
もしくは、
田畴は劉虞に、幽州牧の権限において、公孫瓚を処断させようとしたのか。
『三国志』公孫瓚伝で、董卓のとき公孫瓚は、奮武將軍、薊侯として、右北平にいた。右北平は、田畴の故郷である。公孫瓚による兵の徴発がきびしいので、田畴は、腹を立てていたのかも。田畴が不在のうちに、公孫瓚が田畴の家を解体することを恐れたとか。だから劉虞をつかい、公孫瓚を片づけろと言ったとか。だが劉虞は、田畴の家を守るよりも、公孫瓚の武力のほうを、漢家のために優先したとか。以上、想像。
劉虞のために哭し、公孫瓚に皇帝の文書を渡さず
田畴は、西関(居庸関)から、塞外にでて、北山(陰山)にそい、朔方から長安にゆく。騎都尉を詔拝した。田畴は、騎都尉を受けず。三公らは、田畴を辟したが、どれも就かず。
皇帝から劉虞への返信をもらい、田畴が幽州にもどる途中に、劉虞が公孫瓚に殺された。
後漢書』劉虞伝 漢文を改行&スペース挿入(PDF)
劉虞と袁紹を知るために、公孫瓚伝
袁紹と袁術がらみの「陰謀」で読むと楽しいのだが、今日は別の面が気になる。劉虞を殺した公孫瓚は、河北に刺史を任命しまくる。つまり劉虞と公孫瓚は、河北の州長官をめぐって、対立していたことになる。
劉虞は、『後漢書』公孫瓚伝で、六州を都督した。公孫瓚は、『後漢書』劉虞伝で、前将軍+仮節督幽并司(青)冀(劉虞伝)。なぜ本人の列伝で、スパッと分からせてくれないかと、イライラするけど。ともかく、河北の州長官をめぐって、2人は対立してる。
性格や方針の不一致が、史料に見える。温和でやさしい劉虞と、冷酷できびしい公孫瓚という図式で。この図式も、一面の真理であるが、州長官としての対立、というのも別面の真理。
かつてぼくは、上司と部下の対立だと思ったが、、争奪の対象は、州長官だったのだ。それも、幽州だけでなく、河北の数州の長官。どうやら、劉虞、公孫瓚、袁紹、曹操の順番で、移ったらしい。
田畴は、劉虞の墓前で哭泣した。
ぼくは思う。田畴から見ると劉虞は、官位に推薦してくれた主人だ。公孫瓚の不興を買うのに泣いたのは、推薦の恩があるからだ。2人は、個人的な親交を深める時間がなかった。さっさと田畴が、長安に出発したから。個人的な親交でなく、社会的な関係性にもとづいて、泣いた。「劉虞のためでなく、挙主のために泣く」という、不思議な感じ。
でも、全ての人間関係は、そんなもんかもなー。「人間は肩書じゃない」と思いたいが、全ての肩書を省いていったら、何も残らない。いや、肉塊くらいは残るか。そんなの、人間とは呼べないよなー。
公孫瓚は、田畴を捕らえて聞いた。「どうして劉虞のために哭礼したか。どうして私に、皇帝の返信を送らないか」と。
田畴は答えた。「劉虞だけが忠節を失わなかったから、劉虞のために泣いた。皇帝の返信は、公孫瓚にとってツマランから、送らなかった」と。田畴はさらにいう。「公孫瓚は大事業をやるのだろう。だが、劉虞だけでなく、私をも殺せば、燕趙の人士は、だれも公孫瓚に従わない」と。
公孫瓚は、衆心を失いたくないから、田畴をゆるした。
いま、田畴を殺して失う世論より、田畴を殺して得られる後味のほうが、小さいと見積もった。だから、田畴を殺さなかっただけのことである。「壮とす」とか「義士です」とか、表現は何でも良いのだ。
公孫瓚が皇帝の返信を欲しがったのは、皇帝による権威の裏づけを取りたいからだろう。公孫瓚は、あんまり皇帝と関わりなく動いているように見えたが(北辺だしな)、皇帝を気にせずにはいられない。
だが、待つべきだ。
皇帝の返信が、ほんとうに公孫瓚と1ミリも関係ないものなら、手に入れても仕方ない。公孫瓚から見ると、公孫瓚に関係がある内容だと期待されたから、公孫瓚は欲しがったのだ。内容はなにか。ぼくが思うに、皇帝を、長安から洛陽にうつす相談だろう。協力の依頼、もしくは協力の御礼だ。数年前に、劉虞の子・劉和、公孫瓚の弟・公孫越が、袁術とからまって、ごちゃごちゃしたから。
劉虞は193年に死んだ。つまり、公孫瓚と田畴の問答は、董卓の死後に行われている。董卓の重しはない。「李傕から皇帝をすくい、東帰させる」。群雄のトップに躍り出るには、是非やりたいテーマだ。実際に実行されるのは、2年後の195年からだが。この2年の変化といえば、李傕と郭汜が対立したことくらい。つまり、193年時点で、皇帝が東帰することは、「可能」である。クリプキの言う意味で。
田畴が公孫瓚に、返信をわたさなかった理由は、正しいが、ちょっと不自然。喋りすぎているようにも見える。理由をコジツケた感じもする。無言の駆け引きがあるんだろうなー。ほんとうは公孫瓚が「長安に兵を出す、正統な口実をよこせ」と言い、田畴が「誰がキサマなんかに」と言ってる。田畴を殺したら、皇帝の返信が永久に手に入らないから(隠し場所が分からなくなる)、公孫瓚は田畴を殺せない、とか。
この駆け引きがあったとしたら、「義士」という評価とか、「燕趙の人士」の世論とか、マジどうでもいい! 言葉遊びである。
徐無山中で3万人弱を集め、20余条を定める
田畴は(故郷に)北帰できた。宗族と、付従する数百人をひきい、徐無山中にいく。
ぼくは思う。故郷を捨てたのでなく、郡内での移動である。ギリギリ、本拠地の規制力がきく範囲である。魯粛さんと対比してみると。魯粛は、長江を渡った。つまり、本郡から離れた。田畴の行動と、魯粛さんの行動を、同列に捉えることはできないなあ。
田畴は故郷を去るとき、地を掃いて「劉虞を報仇せねば、世に立てない」と盟った。
自分の感情をスッキリさせるだけなら、「世に」とは言わない。世間に対して、世間との関係性において、このままじゃあ、すまさんぞ。という決意表明である。
なぜ田畴は故郷を去ったか。
端的には、公孫瓚の支配を免れるためだと思う。っていうか、それしかない(とぼくは思う)。漢家から背を向けたというより、公孫瓚から背を向けたのだ。漢家から背を向けていない証拠は、3つだ。田畴は、劉虞をしたう。皇帝につめたい袁紹をこばむ。皇帝を擁する曹操にしたがう。
また微妙なのが、田畴は烏桓と敵対する。烏桓にやさしい劉虞と袁紹とは意見がことなり、烏桓につめたい公孫瓚と曹操とは意見がおなじだ。つまり田畴は、劉虞と袁紹と対立し、公孫瓚と曹操と協同しても良さそう。だが田畴は、袁紹と公孫瓚と対立し、劉虞と曹操と協同した。異民族政策を主要因に、官僚の人脈が形成されるとしたら、田畴の行動は支離滅裂である。ここから、異民族対策は、官僚の人脈の主要因にならないことがわかる。少なくとも田畴はそうだし、わりに一般化できると思う。それより、推薦した・されたの関係のほうが、主要因となる。田畴は、これにこだわる。後述。
深險に營し、敞地を平らげて住んだ。みずから耕して、父母を養った。
百姓が帰した。数年のうちに、5千余家。田畴は父老に、計画を話した。
田畴は、20余条のルールをつくった。婚姻と学校をさだめた。道でものをひろう人がいなくなり、烏桓と鮮卑から、使者がきた。
渡邉義浩氏の『構造と「名士」』を復習しておく。
076ページ。田畴集団は、川勝「豪族共同体」論のモデルである。田畴は、劉虞の使者に選ばれ、州レベルの「名士」となった。長安で三公に評価され、全国レベルの「名士」となった。公孫瓚は「名士」を抑圧した。公孫瓚は、全国レベルの「名士」田畴の権威に憚って、釈放した。
田畴は、谷川道雄氏のいう「衆望」ではなく、あくまでも父老(豪族)との約にて、自己の権力を浸透させた。豪族を媒介に、支配権力を確立した。「名士」の権威が、徐無山中という特別な場において、擬似的な支配権力を有した。これは特殊な例である。なぜなら、在地社会の再生産機構から乖離していることが、「名士」の性質だからだ。
陳寔が裁判を代行したように、「名士」が社会統合的機能を果たすことはあった。在地社会を支配する豪族層に「名士」が支持されることにより、「名士」は再生産機構と結びつくこともあった。
うーん。。
ぼくは思う。徐無山中に、百姓が集まってきた。百姓が「民のみ」「豪族とその民」のどちらであろうが、その中には上下関係の秩序があるはずだ。まったくフラットな3万人弱というのは、あり得ない。百姓のなかのリーダー「父老」を、「豪族」と見なすかどうかは、いまは議論する準備がないけど。彼らリーダーを媒介に、3万人を治めるのは、当然だよなあ。ギリシャだかの「直接民主制」というのは、虚構らしいし。虚構じゃないにしろ、物理的に3万人が集まり、平等に意見を主張するのは、ムリである。
袁紹が田畴をまねき、ただちに将軍の印を授けたが、うけず。袁紹が死に、袁尚が田畴を辟したが、ゆかず。
このまま田畴が死んだら、「田畴は劉虞に私的に心服していた」と言える。だが、ほいほい曹操に従う。田畴は何に基づいて動いているか。劉虞も曹操も、皇帝に近いからだと考えると、いちおうスジがとおる。袁紹は、どう見ても安定勢力だ。物理的な安全だけを考えたら、袁紹をこばみ、塢堡を保っておく理由がない。
それに、辟されちゃったら、恩が生じる。慎重になるよなー。
次回、田畴が曹操にしたがいます。120404