02) 曹操の爵位・賜物を受けず
『三国志集解』を見つつ、田畴伝をやります。
袁紹に従わず、曹操に従い、盟約を違える
つねに田畴は、烏桓が右北平郡の冠蓋を殺したことを、怒っていた。烏桓を討ちたいが、討てずにいた。
と思ったけど、『後漢書』劉虞伝を見ると、右北平太守の劉政が、中平四年(187) に殺されてる。烏桓校尉、遼東太守も、烏桓の「大人」に殺された。田畴が怒っているのは、このことだろうか。まだ10年前とかだから。
袁紹が烏桓と和睦したということは、袁紹は、太守を殺した烏桓を許したことになる。間接的にでもね。漢家の権威を示したければ、烏桓を討伐すべきだ。かと言って、公孫瓚のような方法を、田畴を認めておらず。こじれる問題だなあ。
ともあれ、河北の支配者は、烏桓対策について、なんらかの方針を持っていないと、務まらないことだけは分かる。
建安十二年(207)、曹操が烏桓を北征した。曹操は烏桓につく前に、使者して田畴を辟した。
ぼくは思う。邢顒は、河間の人。三公から召されたこともある。田畴のもとには、邢顒のような、異郷の士人が身を寄せていたのだ。田畴は、徐無山中の昔からの住人だけを治めたのではない。
そして、邢顒が「曹操に従う」というと、田畴は賛同したことになってる。田畴の曹操に対する態度は、史料上は一貫している。もっとも人間だから、長らく曹操を値踏みしたのだろうが。同一の事実でも、見方を変えれば、「曹操が袁尚を追い払い、冀州牧になるまで静観した」と言うこともできる。官渡の201年時点なんかでは、全然動かない。袁紹が死んだ202年時点でも、全然動かない。
また曹操は田豫に命じて、田畴に説明させた。
ぼくは補う。田豫は、漁陽の人。公孫瓚のもとにいる劉備にちかい。公孫瓚に叛いた部将を、詰問した。公孫瓚は、田豫を扱いきれず。鮮于輔を漁陽太守にたてて、曹操に従えと導いた。
つまり田豫は、公孫瓚に近い人なのだ。公孫瓚をボイコットして、徐無山中に入った田畴から見れば、「同州人だけど、政治判断が正反対の人」である。「近くて違う」は、いちばん仲が悪くなるパタン。
田畴は門下を戒め、装いをととのえ、曹操のところに行くという。
門人がいう。「むかし袁紹が5回さそったが、田畴は屈さなかった。いま曹操が1回さそえば、すぐに田畴はいく。時期が? 及ばないのを恐れているようだ。なぜか」と。
田畴は笑って応じた。「きみの識るところでない」と。
唐庚はいう。むかし後漢の明帝が、呉良にきいた。「光武が召しても、あなたは到らず。だがあなたは、驃騎のユウ何にしたがった。なぜか」と。呉良はこたえた。「光武は、礼をもって私を召したので、私も礼をもって進退をきめた。驃騎は、法をもって私を召したので、私は法に屈して従わざるを得なかった」と。田畴がゆるい袁紹に従わず、きつい曹操に従ったのは、呉良と同じく、法に屈したからだろう。その証拠に、ついに田畴は、曹操か封爵を受けなかった。田畴は、真意を口にしなかった。
ぼくは思う。おもしろい仮説!
盧弼は考える。劉虞の従事する漁陽の鮮于輔らは、劉虞の報仇のため、公孫瓚を攻めた。閻柔は、劉和をむかえた。袁紹の部将・麹義とあわさった。鮑丘で公孫瓚をやぶった。このときこそ、田畴が報仇すべきときだ。田畴は、盟約を守らない軽薄な人物になってしまった。
ぼくは思う。当初の盟約は、ずっと守らないとダメなのか?うーん。田畴は、門人から曹操に従った理由を聞かれたとき、その内容を答える前に、「質問する権利はお前にはない」と言っている。こんなふうに、質問そのものを封殺したのは、答えたくない事情があったと思うのだが、、
徐無山中から、出てこられない、という状況があっただけでは? まあね、「田畴が曹操に従った理由が分からない」という問いを、留保したままにしておく、というのが大事なのです。笑って答えてるという記述も、意味ありげ。笑
田畴は、曹操の使者に従い、曹操軍にゆく。司空の戸曹掾に署された。
曹操に引見した。翌日、曹操は「田畴をわたしの属吏にできない」と言い、茂才にあげ、蓨令とした。
胡三省はいう。蓨県は、前漢では、信都に属す。後漢では、渤海に属す。
ぼくは思う。ともあれ冀州や幽州のあたりで、田畴は県令となりましたと。県令は、司空する曹操の属官じゃない。このあたり、地名だけを見ていると、光武の統一戦争の初期のようだ。
田畴は県令に着任せず、郡にしたがい、無終にゆく。
もし「曹操をほんとうの主君とあおぐ」「曹操のきびしい法規に屈する」ならば、大人しく県令に赴任するところだ。曹操に「属官にするのは惜しい」と重んじられ、曹操から任命されたくせに、平気で逆らう。主君説、法規説は、どちらもコケたな。
烏桓・袁尚を討伐するが、爵位を受けない
ときに夏の雨で、海浜は通れない。
田畴は、曹操を道案内した。「このルートをつかえば、戦わずに、蹋頓の首を得られる」と。曹操は「よし」と言った。
曹操は田畴にしたがい、徐無山にのぼり、廬龍にでて、平岡をとおり、白狼堆にのぼる。柳城まで2百餘里。烏桓の単于はおどろいた。
曹操は烏桓を北におい、柳城にいたる。田畴を侯爵とし、邑5百戸。
『先賢行状』は、曹操が表して、田畴の功績を論じた文を載せる。
「幽州は、胡族と漢族が雑居する。田畴は、無終山(正しくは徐無山)に避難し、北は廬龍を防いだ。
袁紹の父子が幽州を支配すると、田畴は、とおく烏桓と結んだ。
烏桓は遠いから、直接は手出ししない。みんなと、名目上は結んだのかな。
易県(河間国)で私と合流し、私を案内してくれた。田畴は功績がある。
田畴は、侯爵を固辞した。曹操は、辞退をゆるした。
『魏書』は曹操の令をのせる。「夏禹は伯成に、強要しなかった。わたしも田畴に、強要しないでおこう」と。
遼東は、袁尚の首を送ってきた。曹操が「袁尚のために哭したら斬る」と令した。田畴は、かつて袁尚に辟されたので、袁尚を弔った。曹操は田畴を不問にした。
裴松之はいう。袁尚が死んだのは、田畴の建策による。田畴は、袁尚を殺しておいて、首を弔うなんて、矛盾している。
王脩が袁譚のために哭したが、田畴とは事情がちがう。
ぼくは補う。何焯の言うには、田畴は、劉虞の仇の公孫瓚、右北平の仇の烏桓、どちらも憎かった。前者はすでに死んだが、後者は生きてた。ゆえに、袁尚には「とうとい犠牲」になって頂き、烏桓の討伐を優先したのだと。
姚範はいう。田畴は、烏桓と鮮卑を討ちたかった。また公孫瓚も討ちたかった。公孫瓚は、袁紹が討ってくれた。袁紹は、劉虞の故官ではないが、田畴にとっては、良いニュースだった。いま袁尚が、田畴のせいで死んだ。田畴はこれを恥じたから、曹操の官爵を受けなかったのだ。裴松之の議論は、あたっている。
ぼくは思う。田畴が矛盾しまくっている原因は、幽州の情勢が、複雑すぎるためだ。劉虞の死から、曹操の北伐まで、約10年、徐無山に籠もっていた。もっとも複雑な期間を、田畴は生き延びることができた。
曹操から、爵位や賜物を受けとらない
田畴は、すべての家属と宗人3百家をひきい、鄴県に住んだ。
曹操は車馬穀帛をあたえたが、田畴は宗族や和知に、散じた。
曹操は荊州にゆくとき、「やっぱり田畴は、爵位を受けろ」と強制した。
『先賢行状』は曹操の命を載せる。「田畴は、爵位を受けろよ」と。
魏略載教曰:「昔夷、齊棄爵而譏武王,可謂愚闇,孔子猶以為『求仁得仁』。畴之所守,雖不合道,但欲清高耳。使天下悉如畴志,即墨翟兼愛尚同之事,而老耼使民結繩之道也。外議雖善,為復使令司隸以決之。」
魏書載荀彧議,以為「君子之道,或出或處,期于為善而已。故匹夫守志,聖人各因而成之」。鍾繇以為「原思辭粟,仲尼不與,子路拒牛,謂之止善,雖可以激清勵濁,猶不足多也。畴雖不合大義,有益推讓之風,宜如世子議。」
臣松之案呂氏春秋:「魯國之法,魯人有為臣妾於諸侯,有能贖之者取其金於府。子貢贖人而辭不取金,孔子曰:『賜失之矣。自今以來魯人不贖矣。』子路拯溺者,其人拜之以牛,子路受之。孔子曰:『魯人必拯溺矣。』」案此語不與繇所引者相應,未詳為繇之事誤邪,而事將別有所出〔耳〕?
田畴は4回ことわった。曹丕は、辞退をゆるした。尚書令の荀彧、司隷校尉の鍾繇もゆるした。
『魏書』はいう。曹丕「辞退した田畴を、罰してはいけない」
『魏略』はいう。曹操「辞退をゆるせば、墨子や老子の政治になってしまう」
『魏書』はいう。荀彧「田畴の意思を尊重する」、鍾繇「田畴の謙譲もよし」
裴松之はいう。鍾繇がひく孔子の故事は、『呂氏春秋』と合致しない。
仲良しの夏侯惇ですら、田畴を説得できなかった。夏侯惇は去りぎわに、田畴の背にふれた。「田君、曹操の意向は殷勤である。顧みないわけにはいかない」と。
曹操はあきらめた。議郎を拝し、田畴は46歳で死んだ。子も早く死んだ。曹丕は、田畴の従孫・田続を関内侯とした。
田畴は、とってもいい材料だ。いろいろ「使えそう」だ。後日。120404