雑感 > 歴史小説『孫策(仮)』の作成過程を公開します

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1.歴史小説 作成の実況中継をしたい

さいきん、『資治通鑑』について調べているんですが、そのなかで、孫策に関する興味が、ふたたび高まってきました。
たとえば、今週、こんなツイートしました。
孫策は(よい意味で)記述が散らかっているから、再編成・整理をしたい!という意欲を喚起する。司馬光『資治通鑑』も苦戦している感じがする。孫策について整理すれば、袁術にかんする調査も進むことだし、ぜひやろう。
『資治通鑑』が、史料をいかに「取捨選択」してるかを調査するとき、「取」は、やや気合いをいれたら分かるが、「捨」を知るのはむずかしい。自分なりに司馬光たちと同じ作業をしてみて、「コレ、載ってない!」と気づくしかない。ないものの証明は、一筋縄ではいかず…、やっぱオレ通鑑つくらないと。その試みとして、孫策の事績を整理してみたいなー。
司馬光がもてあましてる感じがする史料の1つが、孫策(孫討逆)伝。とってつけたみたいに、季節とか年の記事の最後に、まとめて揚州の情勢が書かれる。しかも、何年のできごとなのか、年すら特定できず、『通鑑考異』でゴチャゴチャ言わねばならない。裴松之注も矛盾しあってるし、美味しそうな題材!

陳寿が本紀を立てたから、曹操の記述は『資治通鑑』で混乱や異説がなく、年月を特定できて、淡々としたもの。正確というか、これ以上、検討しようがない。おもしろくない。徐州がからむと記述が循環する劉備とか、何年に何をしたか分からない孫策とかのほうが、『資治通鑑』分析にはよい題材。


というわけで……
「孫策伝・完全版」を作り始めました。『三国志』、『三国志集解』、『後漢書』、『建康実録』など、とにかく孫策とその周辺に関する記事をすべて集めて、編年体の連続して読める漢文をつくる。これをやると、司馬光の気持ちを理解できる気がする。孫策は、記述が散らかってて最適。
『資治通鑑』を引き写して歴史小説を書いたら、ミヤ××ニ『三国志』。でも、じぶんで『資治通鑑』を作り直して、「そのまま史料を引き写して膨らませれば、歴史小説になる」という、ひとつなぎの漢文をつくってから、歴史小説にするのだったら、わりに楽しめそうな気がする。ためしに孫策でやってみる。

原典の史料を読み、史実を整理してから、歴史小説に起こしていく。そのプロセスの開示というか、歴史小説づくりの実況中継のようなものを、ウェブ上でできればと思います。
最終的に、孫策の話を小説にまとめて、同人誌にしたいと思います。孫策の話をまとめることは、のちに予定している、周瑜・魯粛・呂蒙の小説の準備にもなる。こうしてやがて、『三国志』全編を完成させて、通読できるものにする。という遊びを、加速させたいと思ってます。

『曹丕八十歳』は、いい練習になりました。


孫堅の没年について

孫策について、さっそくつまずくのが、孫堅の没年。
孫堅の没年は、正史・演義を問わずに難問。史料間で初平2年~4年と、あしかけ3年のズレがある。司馬光はもっとも早い初平2年を採る。すると袁術は、2年間「孫堅ぬきで南陽に割拠」してたことになる。孫堅が死んでから孫策が袁術に合流するまで、3年間のブランクがあく。
ただし、『資治通鑑』では、というか史実(各史料に書かれた事実)では、孫堅の死が、何年であろうと、あまり影響がない。袁術が荊州を出て、寿春に根拠地を移すのが、初平4年。この期間、劉表と牽制しあいながら、袁術は荊州にいた。袁術のこの全体の動きは、時期のズレようがない。

武帝紀で、曹操の動きとリンクするから。

「袁術が孫堅という兵器を保有して、劉表と対峙した」という期間と、「袁術が、孫堅という兵器を喪失して、劉表と対峙した」という期間の、境界線をめぐる議論なだけで、それ以上に変動がない。だから、孫堅の没年が、ブレるんだろうな。

もしも孫堅が生きていたら、もっと袁術は、劉表を積極的に攻めたに違いない。しかし袁術と劉表は、あんまり何回も戦ってない。孫堅の死を、早めに見積もったほうが、説得力があるかも。
孫堅を喪失したあと、袁術が劉表と、どういう関係を結んだか。これを想像するほうが楽しいという、個人的な都合により、司馬光の初平2年説を採用したいw


ただし、孫策は、早くに孫堅と別居しているから、あんまり小説の本編には、影響がないという感じで。
孫策伝 注引『江表伝』:堅爲朱儁所表、爲佐軍、留家著壽春。策年十餘歲、已交結知名、聲譽發聞。
孫堅が朱儁によって抜擢されるのは、孫堅伝に、
中平元年。黃巾賊帥張角、起于魏郡。……三月甲子、三十六萬、一旦俱發。天下響應、燔燒郡縣、殺害長吏。漢遣車騎將軍皇甫嵩、中郎將朱儁、將兵討擊之。儁表請堅、爲佐軍司馬
とあるから、184年には、孫堅は、孫策を置いて出て行ってしまったことになる。孫策の生年は、175年だから、このとき10歳。やがて、寿春(←場所は再検討が必要)で、名声を得ていくという『江表伝』とも符合する。
父の活躍を遠くに聞きながらも、ほとんど父とは会わずに成長したというのが、孫策の幼少期ということが分かります。
トラウマ的に、断片的にしか、孫堅は、出てこないな。「私が覚えている父とは、あの場面と、この台詞ぐらいで、あとは知らん」となるはず。そりゃ、べつに孫堅の死体を引き取ろうと思わないわけだ。死体を取りにいって、じぶんが死体になってしまう。

のちに袁術から、「孫郎のような子がいたらなあ」といわれる。孫策は、孫堅との接点がほとんどなかった。「父」という存在を補填するために、袁術とのあいだに擬似的な「父子」の関係を結んだという話にしよう。

……と、リアルタイムに、決めながら、そのプロセスをウェブ上で公開していくのが、今回の企画です。


小説のテーマは、漢末の身の振り方

孫策という1人のひとだけに光をあてると、「周瑜との友情」だの、「人望ある英雄」だの、そういう、爽快感とスピード感のあふれる青春小説?ができるだろう。しかし、そんなの、おもしろいと思わないし(ぼくが)、若々しい話なんて、書けない。
というわけで、テーマは、漢末に秩序が混乱したときの、人々の身の振り方についてです。天子になっちゃう袁術とか、はじめて献帝を得たけれども袁紹に脅かされている曹操とか、徐州からきた名士たちとか、揚州の在地勢力とか、、彼らのあいだに横たわる矛盾を、強引に縫いつけて・結びつけて、情勢を暴発させていったのが、孫策だと思う。もし孫策がいなければ、彼らは彼らなりの価値観に沿って、安穏としていられただろうに。
孫策という、おそろしく活動量のおおい若者のせいで、世の中がどのように、(良くも悪くも)ぐちゃぐちゃになるのか。どのように時代が前に進んでいくのか。そういう小説にしたいと思っています。

孫策じしんも、どういう価値基準で動くのか、きっと葛藤があったと思います。端的にいえば、袁術との関係を、どの段階でどのように位置づけるのか。史料のあいだでも、いろいろブレがあるので、小説の出番です。
孫策そのひとが、あまり悩むようなキャラじゃなくても、たとえば脇役の孫権とかに、悩ませればいい。「孫氏とは、どういう性格をもった軍閥なのか」、「孫氏と、漢王朝との関係は、どのようである(べき)か」など、孫権の口を借りて、考えさせればいい。
孫権は、先入観のない「子供の問い」を、張昭や張紘に投げかけて、孫策の歴史的意義を、小説のなかで確定させていくという……。
そして、周瑜・魯粛・呂蒙・陸遜という、のちに孫権の時代に活躍する人々も、伏線的に登場して、後漢にたいする見方とか、孫氏にたいする見方とかを、表明するのだろう。

という、漠然としたテーマ設定から、話づくりは始まりました。
あと、タイトルを募集中です……150214

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2.誕生~江南に渡るまで 【new】

これから、作成のプロセスを書いていくものの完成版は、
PDFにして、ここに保存してあります(別窓で開きます)

孫策の誕生と、父との別離

歴史小説を、何年から書き始めるかは、まだ決めてませんが、誕生にまつわるあたりの史料を整理します。「孫策伝・完全版」をつくりながら、歴史小説をつくる準備をすすめていきます。完全版は、きっとこんなふうに始まる。

長沙桓王、孫策、字伯符、呉郡富春人。世仕呉(孫堅伝注引呉書)、蓋孫武之後也(孫堅伝)。

つづいて、孫堅伝から、孫策の誕生の関係がありそうな年代の記事だけを抜いていく。簡潔をムネとするから、ひとまとまり、そこまでの原典を提示しながら、字数を削るというのが基本方針。
熹平元年、会稽妖賊許昌、起於句章、自称陽明皇帝、扇動諸県、衆以萬数。父堅、以郡司馬、募召精勇、得千餘人、与州郡合討破之。刺史列上功状、詔書、除堅塩瀆丞、数歳徙盱眙丞、又徙下邳丞(孫堅伝)。
熹平四年、策生於下邳(孫策伝曰、建安五年卒、時年二十六)。初呉夫人孕而夢月入其懐、既而生策。後年及権在孕、又夢日入其懐、以告堅曰、昔妊策、夢月入我懐、今也又夢日入我懐、何也。堅曰、日月者陰陽之精、極貴之象、吾子孫其興乎(呉夫人伝注引捜神記)。


熹平元年、孫堅が許昌を退治して、官職をもらい、数年してから、下邳丞となる。孫策の誕生は、孫策伝の没年から逆算すると、175年=熹平四年。下邳の任地で生まれたのだろう。孫権は、182年に生まれるから、やはりつぎの黄巾討伐の記事より前のことである。だから、『捜神記』の怪異な話も、ここにつなぐ。
つぎの段落で、孫堅は下邳で兵をあつめて、黄巾の討伐にいく。孫策と孫権は、下邳で生まれて、孫堅が朱儁に連れて行かれる184年までは、いっしょに過ごした。

中平元年、黄巾賊起、燔焼郡県、殺害長吏。漢遣中郎将朱儁将兵討撃之。儁表請堅為佐軍司馬、郷里少年随在下邳者皆願従。堅又募諸商旅及淮・泗精兵、合千許人、与儁并力奮撃(孫堅伝)。
堅留家著寿春、策年十餘歳、已交結知名、声誉発聞。有周瑜者、與策同年、亦英達夙成、聞策声聞、自舒来造焉。便推結分好、義同断金、勧策徙居舒、策従之(孫策伝注引江表伝)。收合士大夫、江淮間人咸向之(孫策伝)。


孫堅伝で、184年に孫堅が、下邳で兵をあつめて、朱儁にしたがう。孫堅伝は、ここから黄巾との戦いを描写するが、孫策とは、当面は関係ない。
孫策はというと、孫堅に置いていかれる。『江表伝』によれば、寿春で住んで、周瑜と出会う。周瑜と友情をむすび、舒県にうつる。孫策が十余歳、つまり185年から数年間のことです。
この期間、孫堅伝は、張温にしたがい、辺章・韓遂をたたかい、董卓を斬れといい、議郎になる。孫策にとって、董卓は、直接関係する相手ではないから、ざっくり孫堅伝をはぶく。むしろ、史料に現れてこない、孫策と周瑜の少年期のエピソードが、ここに追加されるべきです。
張温にもてあまされた孫堅は、次なる任務をもらう。

四年(資治通鑑)、長沙賊区星、自称将軍、衆萬餘人、攻囲城邑。乃以堅為長沙太守。到郡、旬月之間、克破星。周朝等起於零桂、与星相応(孫堅伝)。廬江太守陸康従子作宜春長、為賊所攻、遣使求救於堅。堅整厳救之。主簿進諫、堅答曰、太守無文徳、以征伐為功、越界攻討、以全異国。以此獲罪、何慙海内乎。乃進兵往救、賊聞而走(孫堅伝注引呉録)。遂越境尋討、三郡肅然。漢朝録前後功、封堅烏程侯(孫堅伝)。

長沙太守というポジションは、孫策とも絡みが深い、袁術との縁につながる。廬江太守の陸康とのからみは、のちに孫策が陸康を倒すことにつながる。任地の範囲を無視して、越境する孫堅は、孫氏という軍閥の性質をあらわす。このときもらう「烏程侯」は、孫策が嗣がずに、弟が嗣ぐ。
などと、孫策伝にも、影響がおおきな記事がふえる。

袁術とむすんで、董卓とたたかう

五年、霊帝崩、董卓擅朝政。初平元年、堅挙義兵、到魯陽、与袁術相見。術表堅行破虜将軍、領豫州刺吏。堅合戦於陽人、大破卓軍。二年、卓尋徙都、焚焼洛邑。堅乃前入至洛、脩諸陵、平塞卓所発掘(孫堅伝)、掃除漢宗廟、祠以太牢。堅軍城南甄官井上、旦有五色気、挙軍驚怪、莫有敢汲。堅令人入井、探得漢伝国璽、文曰、受命于天、既寿永昌(孫堅伝注引呉書)。堅得神器、潜匿不言(孫堅伝裴注)。

ついに董卓と対決する。こまかい戦いの経過は、孫策がここにいないから、孫堅伝からさらに圧縮した記述にしました。最低限、董卓を長安に追い払ったことが分かれば、孫策伝としては充分。
袁術から、豫州刺史にしてもらったという点は重要。
伝国璽を得たが、持ち逃げしたというのは、裴注から、適宜ことばを見繕って、記述してみました。真偽はともかく、そういう史料があるのだから、孫策伝に書かれてもおかしいことではない。

是時、関東州郡務相兼併以自強大、袁紹・袁術亦自相離弐。術遣孫堅撃董卓未返、紹以会稽周昂為豫州刺史、襲奪堅城。堅歎曰、同挙義兵、将救社稷、逆賊垂破而各若此、吾当誰与戮力乎。引兵撃昂、走之(孫堅伝注引呉録)。術結公孫瓚而紹連劉表、豪桀多附於紹。二年(資治通鑑)、術使孫堅撃劉表、表遣其将黄祖逆戦。堅撃破之、遂囲襄陽。堅乗勝夜追祖、祖部兵暗射堅、殺之(孫堅伝注引典略)。時年三十七(孫堅伝注引呉録)。
堅所挙孝廉長沙桓階詣表堅喪、表義而許之(桓階伝)。策還葬曲阿(孫策伝)、當嗣侯、讓與弟匡(孫策伝注引魏書)。
堅兄子賁率其士衆就袁術、術復表賁為豫州刺史。

孫堅の死に様には、裴注に異説が多いけれど、もっともシンプルでいい。『魏志』桓階伝から、記事をぬいてくるのが、クロウトな感じだけれど、『資治通鑑』のマネです。
孫堅の没年は、諸説あるけれど、このページの上のほうで書いたとおり、『資治通鑑』の説をとって、初平二年とします。
なぜ孫策は、父の爵位(烏程侯)を嗣がなかったか。『呉書見聞』さまでは、織田信長にたとえて孫策の心情を理解しておられたが、ぼくは、袁術・呉景のもとに、孫匡がいたのではないかと思う。袁術の勢力としては、漢の爵位は「資本」のひとつ。どこにいるかも分からない長子の孫策よりも、手許にいる幼児に嗣がせたほうが、確実だから。
タマゴをひとつのカゴに入れて保管してはいけないように。孫策と孫権が、揚州に残っているとしても、全員が残っているのではない。戦火で全滅する可能性がある。きっと孫匡は、孫堅が揚州を去ってからできた子で、孫堅軍とともにあったのだろう。
この期間、孫策は、まだ表舞台に出てこない。袁術・孫堅というペアが、とおく荊州の戦場で活躍するのを、聞いている程度。

孫策の徐州時代;名士との交際

初平三年は、孫策のまわりでは、とくに事件がない。孫堅を失った袁術が、荊州でジリジリしている。揚州では、刺史が死んだので、ふたたび二袁の抗争の材料となる。
揚州刺史がだれで、どのように人事が移り変わったのか。現行の史料を、どれだけ突き合わせても分からないから、『資治通鑑』に従っておく。

三年、秋八月、詔太傅馬日磾杖節鎮撫関東(范書献帝紀)。冬十月、荊州刺史劉表遣使貢獻。以表為鎮南将軍・荊州牧。
是歳、揚州刺史汝南陳温卒、袁紹使袁遺領揚州、袁術撃破之。遺走至沛、為兵所殺。術以下邳陳瑀為揚州刺史(資治通鑑)。

初平四年は、袁術が寿春に入るという事件が起こる。また、曹操が徐州の虐殺をおこなうから、孫策のまわりが騒がしくなる。翌年、孫策は、長江を渡ることになる。

四年春、劉表断術糧道、術引軍入陳留。曹操撃破之、術走九江(武帝紀)。揚州剌史陳瑀(資治通鑑)拒術不納。術退保陰陵、集兵於淮北、復進向寿春。瑀懼、走帰下邳、術遂領其州、兼称徐州伯(范書袁術伝)。車騎将軍李傕欲結術為援、以術為左將軍、假節。遣太傅馬日磾、因循行拜授。術奪日磾節、拘留不遣(陳志袁術伝)。
袁術が寿春に入る話。孫賁伝からも補わないと。
馬日磾は、前年の秋に長安を出発して、このとき寿春にくる。孫策に、官位を与えてくれないといけないから、この記述を袁術伝から省くことができない。

徐州治中東海王朗、及別駕琅邪趙昱説刺史陶謙曰、求諸侯莫如勤王、今天子越在西京、宜遣使奉貢。謙乃遣昱奉章至長安。詔拜謙徐州牧、加安東将軍。以昱為広陵太守、朗為会稽太守(王朗伝)。徐方百姓殷盛、穀実差豊、流民多帰之。而謙信用讒邪、疏遠忠直、刑政不治、由是徐州漸乱(范書陶謙伝)。汝南許劭避地広陵、謙礼之甚厚、劭告其徒曰、陶恭祖外慕声名、内非真正、待吾雖厚、其勢必薄。遂去之(范書許劭伝)。
孫策は、陶謙に虐げられるわけですが。
陶謙の政治っぷりについて、見ておきたくなる。長安に使者をやって、このタイミングで、徐州牧を手に入れる。さらに、陶謙に助言する王朗は、このとき会稽太守となり、のちに孫策の前に立ちはだかる。
孫策は、長江の北岸の江都にいる。会稽に赴任する王朗が、孫策に立ち寄るというのは、どうだろう。いや、服喪する張紘を、せっせと訪れるのが孫策という人物だから、道中で停泊する王朗を、孫策のほうから訪問するほうが、自然だな。もちろん、伏線を張るわけです。
許劭も、のちに劉繇と結んで、孫策の敵にまわる。許劭がいる広陵は、江都のすぐそば。徐州時代、孫策が名士たちのあいだを回って、関係性を結んでいく、というのは、おもしろい話だろう。

策已乃渡江、居江都。陶謙深忌策孫策伝。広陵張紘有母喪、策数詣紘曰、先君与袁氏共破董卓、功業未遂、卒為黄祖所害。策雖暗稚、竊有微志、欲従袁揚州求先君餘兵、為朝廷外藩。君以為何如。紘答曰、昔周道陵遅、斉晋並興。王室已寧、諸侯貢職。今君紹先侯之軌、有驍武之名、若投丹楊、收兵呉会、則荊揚可一、讐敵可報。拠長江、奮威徳、誅除羣穢、匡輔漢室、功業侔於桓文、豈徒外藩而已哉。当与同好俱南済也。策曰、一与君同符合契、有永固之分、今便行矣、以老母弱弟委付於君、策無復回顧之憂(孫策伝注引呉歴)
ちょっと文言を省略したので、小説をつくるときは原典に戻らねばならないが、大略はここにあるとおり。張紘が「喪中だから、答えられないよ」という、じらしプレイをする。後ろ盾のない孫策が、名士と付き合うときは、こんな感じで、煙たがられたのだろう。
張紘は、のちに曹操のところにゆき、官職をもらう。いわば、「献帝を奉じる曹操が、王朝の歴史において正統」という勝ち組のストーリーに、もっとも上手に乗っかったひと。というか、張紘をメインの参謀として、呉を描いておけば、呉は「政治的・歴史的に正しい」国となる。
張紘が、こういう正しさの上に乗っかったのは、曹操が勝利したという結果論から、たぐり寄せられるもの。実際には、張紘による戦略の立案、外交の交渉も、呉がもつ選択肢のひとつに過ぎないはず。たまたま、歴史の結果に、うまく馴染んだから、歴史書のなかで、ほこらしく扱われるだけで。
張紘は、「漢魏革命を支持する派」を担当するキャラで。歴史小説としては、これ以外の戦略・選択肢を、いかに豊かに描けるかに、おもしろさが掛かってくる。

下邳闕宣宣自称天子、謙始与合従、後遂殺之而并其衆(范書陶謙伝)。
避難在琅邪、其子操迎之。陶謙別将、掩襲前太尉曹嵩於華費間、殺之。秋、操引兵撃謙、攻抜十餘城、至彭城。謙兵敗、走保郯。操攻之不能克、乃還。凡殺男女数十萬人、鶏犬無餘、泗水為之不流(范書陶謙伝)。

孫策のまわりで、2つの大事件がおくる。
まず、陶謙(孫策を虐げる、いやなやつ)が、闕宣とつるんでおり、闕宣が天子を称する。この闕宣に対して、どういう対応をするか(どういう感想をもつか)が、孫策のキャラを規定する。なぜなら、袁術の称帝にいかに対処するか、の予行演習になるから。周瑜との会話などで、きっちり描くべきだ。

『資治通鑑』は、陶謙が闕宣とつるんだことを否定する。ぼくは、史料にあることを、「陶謙がそんなことするはずない」と否定する、司馬光の態度に、同意しない。そう書いてあるんだから、そこから出発しようよ。抹殺するなよ。
陶謙が天子を生み出すことに、ヤブサカではなかったことは、彼に、袁紹・袁術と対抗する野心があったという仮説のもとで、検証したことがあります。
袁紹と袁術に立ち向かい、袁術に敗れた野心家・陶謙伝

そして、曹操による、徐州の数十万人殺し。陶謙に虐げられても、孫策は、ぎりぎり長江の北岸にいた。名士と交わるには、北岸にいたほうが、有利だったのだろう。北岸というくらいで、陶謙のいる下邳からは遠い。陶謙に、ウザがられても、直接的な危害は、及ばなかったはず。
しかし、曹操に土地を荒らされた。孫策の渡江は、名士たちに対応したものだろう。彼らが、徐州を逃れるなら、私もついていくよと。まだ、軍閥としての未来に目処はないけれど。目の前の長江を、どんどん船が渡って、曹操から逃げていくのを見て、「じぶんも行っとこう」という感じで。

というわけで、孫策が長江に渡るのが、つぎの興平元年。
じつは、これは確定してない。『通鑑考異』では……
『魏志』『袁紀』では、どちらも初平四(193)年、袁術に命じられて、孫策が渡河する。『范書』献帝紀と『呉志』孫策伝では、興平元(194)年、渡河する。孫策伝にひく『江表伝』では、おそらく興平二(195)年に渡河したとする。
袁術は、初平四(193)年、寿春をえた。孫策伝は、袁術が徐州を攻めようとして、陸康に協力を要請したが、これは劉備が徐州を得たあとでなければならない。『呉志』劉繇伝では、伍瓊が劉繇を攻めたが、「歳余」勝てなかった。つまり、孫策の渡河は、興平元年より前のはずがない。いま、『江表伝』に基づいて、興平二(195)年に渡河したと見なす。

……と、『通鑑考異』に書いてあるわりには、『資治通鑑』で、袁術と孫策がからむ記事は、興平元年の最後にある。これは、興平元年の最後ではなく、興平二年の初めなのか。
武帝紀に、「是歲穀一斛五十餘萬錢、人相食、乃罷吏兵新募者。陶謙死、劉備代之」とある。徐州に食糧がなくなり、かつ陶謙が死んで情勢が不安定になる前後で、孫策は移動したのだろう。いや、「孫策に虐げられ」という、孫策伝の記述を重んじたいから、陶謙の生前に、孫策に渡江させたい。秋から冬に、曹操に荒らされ、寒さと飢えのために、袁術を頼ってゆく。美談、美談w
つぎにやりますが、興平元年、渡江した直後の孫策は、寿春で保護され、呉景たちの苦戦を見ていたのだろう。やがて、年齢も充分になったから、参戦を申し出ると。戦いに出るのあたり、袁術は、我が子のように心配するのだろう。ただでさえ、呉景が苦戦している場所に、こんな若い子を送り出すのかよ、と。決して孫策の自立を恐れて、、なんて話にはならない。

だいぶ、物語のイメージがつかめてきました。150215

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