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『三国志』巻六十二 是儀伝

是儀・胡綜伝について、劉咸炘は、「同典尚書辞訟為侍中」とある。

孔融→劉繇→孫権

是儀、字子羽、北海営陵人也。本姓、氏。初為県吏、後仕郡。郡相孔融、嘲儀言「氏字、民無上。可改為是」乃遂改焉〔一〕。
〔一〕徐衆評曰、古之建姓、或以所生、或以官号、或以祖名、皆有義体、以明氏族。故曰胙之以土而命之氏、此先王之典也、所以明本重始、彰示功徳、子孫不忘也。今離文析字、横生忌諱、使儀易姓、忘本誣祖、不亦謬哉。教人易姓、従人改族、融既失之、儀又不得也。

是儀は、あざなを子羽といい、北海の営陵の人。もとは姓を氏という。県吏になり、のちに郡に仕えた。北海郡相の孔融は、是儀を嘲って、「氏の字は、民に上なし。改めて是にするがいい」と。

営陵は、『魏志』王脩伝にある。北海は、もとは国で、孔融が北海相となった。建安十一年、国を除いて郡としたため、長官は太守となった。「郡相」とあるのは、誤りか。孔融が、在任のまま国が除かれ、相→太守と、肩書きが変わった可能性はないか。

孔融の言うように、氏姓から是姓に改めた。
裴注 徐衆評は、祖先から伝わる姓を、改めたことを批判する。姓とは、生まれた所・官号・祖先の名など、由来のあるもので、氏族を明らかにするもの。祖先を祭る土地を氏とすることは、先王の規範であり、子孫が孝を尽くすためのもの。孔融の言葉遊びにより、姓を改めるたから、是儀も誤りを犯した。

何焯はいう。古の氏族は、もとは上賜されたものが由来で、漢吏はみな君臣関係だから(是儀は孔融と、上司・部下の関係だから)深く責めることではない。上司から賜与されるのは、妥当である。銭大昕によると、氏と是は通用するため、徐衆の批判は外れている。
ぼくは思う。孔融が知性をひけらかし、部下の姓まで変えさせていたことが大切。改姓の妥当性とは別に。孔融の人的ネットワークは、賜姓によっても構築されたという、確かな影響力を確認したい。


後、依劉繇、避乱江東。繇軍敗、儀徙会稽。孫権承摂大業、優文、徴儀。到見親任、専典機密、拝騎都尉。呂蒙図襲関羽、権以問儀。儀、善其計、勧権聴之。従討羽、拝忠義校尉。儀陳謝、権令曰「孤、雖非趙簡子、卿安得不自屈為周舍邪。」

のちに劉繇をたよって、江東に避難した。劉繇がやぶれると、会稽にうつった。孫権が継承すると、優文もて(文筆能力に着目して)是儀を徴し、到ると親任され、専ら機密を司らせ、騎都尉を拝した。
呂蒙が関羽の襲撃を図ると、孫権は是儀に問い、是儀が賛同したから、孫権は呂蒙に襲撃を許した。関羽の討伐に従い、忠義校尉(一名、呉が置く)を拝した。是儀が陳謝すると、孫権はいった。「私は趙簡子ではないが、きみが周舎でないこともない」と。

『韓詩外伝』によると、趙簡子には、周舎という臣がいた。三日未晩、門下に立った。趙簡子が「どんな用があって私に会いたいのか」と問うと、周舎は、「私は諤諤の臣になりたいのです」と答えた。
孫権は、自分が趙簡子ほどの名君(名君なのか?)ではないかも知れないが、是儀には、周舎のように、言うべきことは、きちんと言う臣下になってほしいと、信頼を口にした。孫権は、重要なことほど、他人に相談しないタイプかと思ったが、そうでもない。是儀は、呂蒙よりも身近に感じられている。呂蒙と同じように、関羽討伐を進言したが、機密漏洩をおそれて、スルーされた全琮に比べると、是儀の近さが分かる。もっとも、事後で全琮にも報償があったから、孫権は優れた判断をしている。


既定荊州、都武昌、拝裨将軍、後封都亭侯、守侍中。欲復授兵。儀、自以非材、固辞不受。黄武中、遣儀之皖、就将軍劉邵、欲誘致曹休。休到、大破之、遷偏将軍、入闕省尚書事、外総平諸官、兼領辞訟。又令教諸公子、書学。

すでに荊州をさだめると、武昌を都とし、裨将軍を拝し、のちに都亭侯に封じられ、侍中を守した。また兵を授けようとしたが、是儀は適任でないとして、辞退した。

兵を任されそうになって断ったのは、厳畯がいた。是儀にそっくりの、学者系。是儀は、孔融の故吏→劉繇の傘下→孫権の腹心。孫権の腹心には、個人的に近い、魯粛・諸葛瑾のような人とか、在地に名声のある呉の四姓がいる。しかし是儀は、張紘・張昭に近い、北来の名士である。張紘・張昭ほど、臣下を代表した公的な発言をするでもない。孫権の配下では、めずらしいポジション。

黄武中、是儀を皖城に派遣して、将軍の劉邵と合流し、曹休を誘致しようとした。曹休が到ると、おおいにこれを破った。偏将軍に遷り、闕に入りて尚書事を省し、外にでて諸官を総平し、辞訟を兼領した。さらに諸公子に書学を教えた。

呂壱の事件

大駕東遷、太子登留鎮武昌、使儀輔太子。太子敬之、事先諮詢、然後施行。進封都郷侯。後、従太子還建業、復拝侍中、中執法、平諸官事、領辞訟如旧。典校郎呂壹、誣白故江夏太守刁嘉、謗訕国政。権怒、収嘉繋獄、悉験問。時同坐人、皆怖畏壹、並言、聞之。儀独、云、無聞。於是、見窮詰累日、詔旨転厲、羣臣為之屏息。儀、対曰「今、刀鋸已在臣頸。臣、何敢為嘉隠諱、自取夷滅、為不忠之鬼。顧以聞知、当有本末」拠実答問、辞不傾移。権、遂舍之、嘉亦得免〔一〕。

大駕が東遷すると(武昌から建業に遷都すると)太子孫登を武昌に留鎮させ、是儀に太子を輔させた。太子に敬われ、是儀に諮問したあとに実行した。都郷侯に進んだ。のちに都郷侯に進んだ。
のちに太子が建業に還ると、ふたたび侍中を拝し、執法にあたり、諸官の事を平し、辞訟を領することは、もとのまま。
典校郎の呂壹は、もと江夏太守の刁嘉が、国政を謗訕していると謗訕した。孫権は怒り、刁嘉をとらえて獄に繋ごうとし、すべて験問した。ときに同座した者(刁嘉と話をしたことがある者)は、みな呂壱を怖畏し、(刁嘉は国政を批判したと)言った。是儀だけが、「(国政の批判を)聞いていない」と答えた。是儀への訊問がきつくなって、群臣はみな心配した。是儀は、「私の首に、ノコギリが当てられている。なぜ私が刁嘉をかばって、みずから破滅を選び、(国政の批判者を野放しにして)不忠の鬼になることがありましょうか。見聞きしたままのことを証言しているのです」と。事実に基づいて答え、発言はぶれなかった。孫権は、是儀・刁嘉を処罰しなかった。

〔一〕徐衆評曰、是儀以羈旅異方、客仕呉朝、値讒邪殄行、当厳毅之威、命県漏刻、禍急危機、不雷同以害人、不苟免以傷義、可謂忠勇公正之士、雖祁奚之免叔向、慶忌之済朱雲、何以尚之。忠不諂君、勇不懾聳、公不存私、正不党邪、資此四徳、加之以文敏、崇之以謙約、履之以和順、保傅二宮、存身愛名、不亦宜乎。

徐衆評によると、是儀は遠くにゆき、呉朝に仕えて、無実の人を救おうとして殺されかけたが、正しい行いをした。祁奚が叔向をたすけ、慶忌が朱雲をたすけたことも、是儀ほどではない。このような公正な人物だから、孫権の太子2人を指導したのは、適任であった。

祁奚のことは、『左伝』襄公二十一年を参照。朱雲のことは、『漢書』朱雲伝を参照。


蜀相諸葛亮卒、権垂心西州、遣儀使蜀、申固盟好。奉使称意、後拝尚書僕射。

諸葛亮が卒すると、孫権は蜀を気にかけ、是儀を使者として、同盟を固めなおした。使者となって孫権の意思を(蜀に)伝え、のちに尚書僕射となった。

南魯二宮初立、儀以本職、領魯王傅。儀、嫌二宮相近切、乃上疏曰「臣窃以魯王、天挺懿徳、兼資文武。当今之宜、宜鎮四方、為国藩輔。宣揚徳美、広耀威霊、乃国家之良規、海内所瞻望。但、臣言辞鄙野、不能究尽其意。愚以、二宮宜有降殺、正上下之序、明教化之本」書三四上。為傅尽忠、動輒規諫。事上勤、与人恭。

(孫和が死んで)南・魯の二宮が建てられると、

銭大昕によると、赤烏五年、孫和を太子、孫覇を魯王として、二宮とよばれた。孫和が太子を廃された二年後、南陽王となったが、それは孫覇の死後である。「南・魯」と並列するのは、正しくない。
趙一清によると、南宮は、呉の太子宮のこと(南陽王の宮ではない)。呉主伝によると、赤烏十年二月、南宮に適ったとあり、ここである。

是儀はもとの官職にもとづき、魯王の傅を領した。是儀は、二宮の威信が近接しているのを嫌い、上疏した。「魯王は、文武の素質があるから、藩屏とするのが宜しい。太子と魯王の区別をつけることが、秩序の原理にかなう」と。三たび四たび、上書した。魯王の傅として忠を尽くして、細やかに指導した。是儀は、上に仕えては勤、人と与にあっては恭であった。

不治産業、不受施恵、為屋舍財足自容。鄰家、有起大宅者、権出望見、問起大室者誰、左右対曰「似是儀家也」権曰「儀倹、必非也」問、果他家。其見知信、如此。服不精細、食不重膳、拯贍貧困、家無儲畜。権聞之、幸儀舍、求視蔬飯、親嘗之。対之歎息、即増俸賜、益田宅。儀、累辞譲、以恩為戚。

産業を治めず、施恵を受けず、家屋や財産は、最低限に必要なものだけとした。隣家がおおきな邸宅を建て、孫権それを見て、「だれの邸宅か」と聞いた。左右は「是儀の家では」と言うが、孫権は「是儀は倹約家なので、ぜったいに違う」といい、果たしてその通りだった。このように、孫権から信頼されていた。

そのわりに、呂壱の事件のとき、刁嘉に連坐して、殺されそうになった。呂壱の権限は、孫権が信頼する良識者=是儀を殺すほど盛んであったと、確認できた。

衣食は貧しく、家に備蓄もない。孫権は、是儀の儀舎にゆき、いっしょに粗末な食事をした。俸賜・田宅を増やそうとしたが、是儀はかさねて辞譲し、恩を負担とした。

時時有所進達、未嘗言人之短。権常責儀、以不言事、無所是非。儀対曰「聖主在上、臣下守職、懼於不称。実不敢以、愚管之言、上干天聴。」事国数十年、未嘗有過。呂壹、歴白将相大臣。或、一人以罪聞者数四。独無以白儀。権歎曰「使人尽如是儀、当安用科法為。」及寝疾、遺令、素棺、斂以時服、務従省約、年八十一卒。

ひとを推薦することはあっても、ひとの欠点を指摘することはなかった。孫権はつねに是儀を責め、「政事について言え(ひとの欠点も聞かせろ)」と求めた。しかし是儀は、「職務に励むことで、精一杯です。愚管の言をもうしあげることはありません」と答えた。

潘眉の説によると、司馬貞は、「愚管の言」とは、愚陋管見のことであるという。華覈伝に「臣以愚管」とあり、賀邵伝注に「不勝愚管」と用例がある。のちに顧臻が司馬興に上表したときや、裴駰の『史記集解』序も、用例がある。

国に仕えること数十年、ひとつも過失がなかった。

いるんですよね。こういう過失がなく、機密をあずかった系の臣下。曹操のところなら、荀攸がこれに当たるか。
韓菼によると、機密をつかさどり、二宮(孫登・孫覇)の守り役をやり、どちらも劇任である。数十年もつとめて、過失がないというのは、正しいことを保ち、大体を得た(正道を実践した)のであり、うまく言い表すことができないと。また、当時は(呂壱のような)校事が横行したが、是儀は、ゆえに「妙於悟君(君に悟らしむるに妙なり)」、いわゆる「不言をもって言う」というやつであると。

呂壱は、将相・大臣について、罪を告発した。1人で4回も罪をチクられた者もいたが、是儀だけは1つも、告発されなかった。孫権は歎じて、「ひとが全員、是儀のようであったら、刑罰の法規は要らなくなる」と言った。

呉朝は、皇帝権力だけは、中華なみに万能なんだけど、いかんせん国家規模・官僚組織が小さい。どうしても、「箱庭のなかの窮屈さ」がある。そして、魏朝に比べると、仕事が少なくて、ヒマになりやすい。せまい空間で、うまくやるには、かなりの慎重さが必要。どこまでが、是儀の先天的な処世術なのか分からないが、かなりの成功例。
呂壱の事件・二宮の事件は、どちらも孫権後期の臣下が、避けて通れなかったこと。逆にいえば、「是儀ほどの人物でも、巻きこまれるほど、事件は呉朝の全体を巻きこんだ」と言えそう。転勤先も少ないし。

是儀は病気になった。遺言により素棺に時服でおさめられ、葬儀は質素であった。81歳で卒した。170714

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『三国志』巻六十二 胡綜伝

孫権の初期から仕える

胡綜、字偉則、汝南固始人也。少孤、母将避難江東。孫策領会稽太守、綜年十四、為門下循行、留呉、与孫権共読書。策薨、権為討虜将軍、以綜為金曹従事。従討黄祖、拝鄂長。権為車騎将軍、都京、召綜還、為書部。与是儀、徐詳、俱典軍国密事。

胡綜は、あざなを偉則といい、汝南の固始の人である。若きとき孤となり、母に連れられ江南に避難した。孫策が会稽太守を領したとき、胡綜は年十四で、門下の循行となった。呉郡に留まり、孫権とともに読書した。

『郡国志』によると、豫州汝南郡の固始県である。『続漢書』輿服志によると、公卿より以下、県の三百石長の導従? に至るまで(至県三百石長導従)、門下に五吏を置いた。『続漢書』劉昭注に引く『漢官』によると、「循行は二百三十人」とある。

孫策が薨ずると、孫権が討虜将軍となり、全琮を金曹従事とした。

『続漢書』によると、金曹は、貨幣・塩鉄の事をつかさどる。

従って黄祖を討ち、鄂長を拝した。鄂県は、呉主伝 黄初二年に見える。孫権が車騎将軍となると、京に都した。京は孫韶伝に見える。胡綜を召して還し、(車騎将軍の)書部とした。是儀・徐詳と、ともに軍国の密事を典った。

徐紹は、孫権伝 建安二十二年に見える。趙一清によると、『呉地記』に、徐詳の記事がある。孫権が徐詳を儀に派遣し、魏太祖が徐詳に「このごろ私は思う。横江の津を渡り、孫将軍(孫権)と姑蘇の上に遊び、長洲の苑で猟ができれば、わが志は足りる」と。これに対して徐詳は、「もし横江を越えて姑蘇に遊べば、これは亡秦・夫差の前例を踏襲することとなり、天下のことが去るでしょう」と答えた。太祖は笑って、「徐生(徐詳)は、逆詐することがないな」と言った。
こんなところに、徐詳伝とも言うべき、徐詳の新規性のある情報が!『三国志集解』本巻の末尾によると、『御覧』六十九に引かれる『呉地記』にあるという。


劉備、下白帝、権以見兵少、使綜料諸県得六千人。立、解煩両部。詳、領左部。綜、領右部督。呉将晋宗、叛帰魏。魏以宗為蘄春太守、去江数百里、数為寇害。権、使綜与賀斉、軽行掩襲、生虜得宗、加建武中郎将。魏、拝権為呉王。封綜、儀、詳、皆為亭侯。

劉備が白帝(先主伝 建安十七年を参照)に下ると、孫権は兵が少ないから、胡綜に諸県から6千人を徴兵させた。解煩両部を立て、徐詳が左部督を領し、胡綜が右部督を領した。呉将の晋宗が、叛して魏に帰した(晋宗のことは、呉主伝 黄武二年を参照)。魏は晋宗を蘄春太守とし、(晋宗の居城は)江を去ること数百里、しばしば寇害をなした。孫権は、胡綜をして賀斉とともに、軽行して掩襲し、晋宗を生け捕った。胡綜は、建武中郎将を加えられた。

呉主伝 黄武二年は、晋宗を生け捕った記事である。晋宗が、魏に帰服した時期を特定したい。宿題。

魏が孫権を呉王に拝すると、胡綜・是儀・徐詳はみな亭侯となった。

『三国志』巻六十二が、本来であれば、胡綜・是儀・徐詳という3人の列伝であったことは、巻末で検討されている。


皇帝孫権に仕える

黄武八年夏、黄龍見夏口。於是、権称尊号、因瑞改元。又作黄龍大牙、常在中軍、諸軍進退、視其所向。命綜作賦、曰、乾坤肇立、三才是生。狼弧垂象、実惟兵精。聖人観法、是効是営、始作器械、爰求厥成。黄農創代、拓定皇基、上順天心、下息民災。高辛誅共、舜征有苗、啓有甘師、湯有鳴條。周之牧野、漢之垓下、靡不由兵、克定厥緒。明明大呉、実天生徳、神武是経、惟皇之極。乃自在昔、黄虞是祖、越歴五代、継世在下。応期受命、発迹南土、将恢大繇、革我區夏。乃律天時、制為神軍、取象太一、五将三門。疾則如電、遅則如雲、進止有度、約而不煩。四霊既布、黄龍処中、周制日月、実曰太常、桀然特立、六軍所望。仙人在上、鑒観四方、神実使之、為国休祥。軍欲転向、黄龍先移、金鼓不鳴、寂然変施、闇謨若神、可謂秘奇。在昔周室、赤烏銜書、今也大呉、黄龍吐符。合契河洛、動与道俱、天賛人和、僉曰惟休。

黄武八年(=黄龍元年)夏、黄龍が夏口に現れた。

孫権伝に、黄龍元年夏四月、夏口・武昌で、鳳凰・黄龍が現れたという。夏口を、挙口・樊口に作るものもある。趙一清によると、『宋書』符瑞志は樊口に作るが、挙口が正しく、挙水が長江に入る口で、春秋期の柏挙である。サンズイに巨にも作り、『水経注』三十五にも見える。
盧弼によると、孫権伝は夏口・武昌に見えたといい、これは夏口の一箇所だけに限定されていないから、必ずしも夏口を改める必要はない。樊・挙は、字形が似ているから、誤って樊に作ったのである。

孫権は尊号を称して、瑞祥によって改元した。黄龍大牙をつくり、

『文選』張衡「東京賦」に、牙旗が見え、薛綜注引兵書に、「牙旗は将軍の旌である。古くは天子が出るとき、大牙旗を竿上に立て、象牙で飾ったから、牙旗という」とする。

つねに中軍におき、諸軍の進退は、その旗の向きで指示を出した。胡綜に命じて、賦を作らせた。賦については省く。なかに「黄・虞これ祖なり、越歴すること五代、世を継ぎて下に在り」とある。

『三国志集解』に引く『通志』氏族略によると、孫氏は媯を姓とし、斉の陳敬仲の四世孫である桓子・無宇の子孫である。桓子の曾孫である武は、斉の田氏・鮑氏の四族として謀って乱をなし(もしくは、乱に巻きこまれ)呉に奔って将となった。武の子である明は、富春に食邑をもち、この世代より富春の人となったと。孫堅伝にも見える。
ぼくは思う。孫権の皇帝即位の同時代に、孫権の血筋が、どのように権威づけられていたかが分かる例。

「周室には赤烏が書をくわえて運び、呉朝には黄龍が符を吐いた」と。

『呂氏春秋』によると、文王のとき、天は先に火をあらわし、赤烏が丹書をくわえ、周社に集ったという。


呉質が魏を裏切った偽書

蜀聞権践阼、遣使重申前好。綜、為盟文、文義甚美。語在権伝。権下都建業。詳綜、並為侍中、進封郷侯、兼左右領軍。時、魏降人或云、魏都督河北振威将軍呉質、頗見猜疑。綜乃偽、為質、作降文三條。

蜀は、孫権が践阼したと聞き、使者を遣わして重ねて前好を申した。胡綜は盟文をつくり、文義は甚だ美なり。語は孫権伝にある。孫権は下って建業を都とした。徐詳・胡綜は、どちらも侍中となり、進んで郷侯に封じられ、左右領軍を兼ねた。

胡三省によると、呉は中領軍および左右領軍を置いた。

ときに魏の降人が言うには、魏の都督河北・振威将軍の呉質は、ひどく猜疑されている。胡綜は、呉質が呉朝に降伏するという文を、3通偽作した。

其一曰、天綱弛絶、四海分崩、羣生憔悴、士人播越、兵寇所加、邑無居民、風塵煙火、往往而処。自三代以来、大乱之極、未有若今時者也。臣質、志薄、処時無方、繋於土壤、不能翻飛、遂為曹氏執事戎役。遠処河朔、天衢隔絶、雖望風慕義、思託大命、媿無因縁、得展其志。毎往来者、窃聴風化、伏知、陛下斉徳乾坤、同明日月、神武之姿、受之自然、敷演皇極、流化万里、自江以南、戸受覆燾。英雄俊傑、上達之士、莫不心歌腹詠、楽在帰附者也。今年六月末、奉聞吉日、龍興践阼、恢弘大繇、整理天綱、将使遺民、覩見定主。昔、武王伐殷、殷民倒戈。高祖誅項、四面楚歌。方之今日、未足以喻。臣質、不勝昊天至願、謹遣所親同郡黄定、恭行奉表。乃託降叛、間関求達、其欲所陳、載列于左。

1通目。わたくし呉質は、志が薄いが、出身地のしがらみから(土壌に繋がれ、翻飛すること能はず)、曹氏の軍務についた。遠くの河朔にいて(河北を都督し)孫権の徳を慕っています。今年六月末、皇帝に即位されたと聞きました。むかし周武王が殷を伐つと、殷の民は矛を逆さまにしました。

『尚書』武成篇に、牧野の戦いで、そうしたとある。
偽書ではあるが、呉質が降伏を思い立った、直接的なキッカケは、孫権が皇帝になったことである。この六月に皇帝に即位し、、とタイムリーな反応である。

高祖が項羽を誅するとき、四面は楚歌をうたいました。今日の(魏兵が魏に愛想を尽かせた)状況は、殷・項羽の兵よりもひどいものです。わが同郡の黄定を使者にして、呉帝に降伏します。

其二曰、昔、伊尹去夏入商、陳平委楚帰漢、書功竹帛、遺名後世。世主不謂之背誕者、以為知天命也。臣、昔為曹氏所見交接、外託君臣、内如骨肉、恩義綢繆、有合無離、遂受偏方之任、総河北之軍。当此之時、志望高大、永与曹氏同死俱生、惟恐功之不建、事之不成耳。及曹氏之亡、後嗣継立、幼沖統政、讒言弥興。同儕者以勢相害、異趣者得間其言、而臣受性簡略、素不下人、視彼数子、意実迫之、此亦臣之過也。遂為邪議所見搆会、招致猜疑、誣臣欲叛。雖識真者保明其心、世乱讒勝、餘嫌猶在、常懼一旦横受無辜、憂心孔疚、如履冰炭。昔、楽毅為燕昭王立功於斉、恵王即位、疑奪其任、遂去燕之趙、休烈不虧。彼豈欲二三其徳、蓋畏功名不建、而懼禍之将及也。

2通目。伊尹が夏を去って商に入り、陳平が楚を捨てて漢に帰したのは、『史記』殷本紀・陳丞相世家に見える。これが裏切りとされないのは、天命を知るとされるからである。私は曹氏(曹丕)と運命を共にすることを誓い、河北の任務を預かりました。しかし曹丕が死ぬと、曹叡は幼く、群臣は対立しあい、魏に仕える意義がなくなりました。むかし楽毅は、燕昭王のために斉(を破って)功績を立てたが、燕恵王が即位すると、権限を奪われて、燕を去って趙に行きました。

楽毅のように、代替わりによって立場が悪化したことを、亡命の理由としている。『史記』楽毅伝に見える。

楽毅は、徳を二三にした(蔑ろにした)のか。功名が立たず、禍が及ぼうとするのを懼れたのです。

昔、遣魏郡周光、以賈販為名、託叛南詣、宣達密計。時以倉卒、未敢便有章表、使光口伝而已。以為、天下大帰可見、天意所在、非呉復誰。此方之民、思為臣妾、延頸挙踵、惟恐兵来之遅耳。若使聖恩少加信納、当以河北承望王師、疑心赤実、天日是鑒。而、光去経年、不聞咳唾、未審此意竟得達不。瞻望長歎、日月以幾、魯望高子、何足以喻。又臣今日見待稍薄、蒼蠅之声、緜緜不絶、必受此禍、遅速事耳。

むかし私は、魏郡の周光を遣わし、商売を名目にして、魏に叛いて呉朝にゆくことを託し、ひそかに計略を伝えさせました。急なことなので、文章を持たせず、口頭で伝えました。おもうに天下が帰順し、天意が在る所は、呉でなければどこでしょうか。中原の民は、呉軍の到来を、みな望んで待ちわびております。しかし、周光を派遣して数年がたつのに、ちっとも返答がありません。われわれが呉軍を待って歎くことは、魯が高子を待った(『公羊伝』閔公二年)よりも、待ち遠しいのです。

臣私度、陛下未垂明慰者、必以臣質貫穿仁義之道、不行若此之事、謂光所伝多虚少実、或謂此中有他消息。不知臣質搆讒見疑、恐受大害也。且臣質、若有罪之日、自当奔赴鼎鑊、束身待罪、此蓋人臣之宜也。今日無罪、横見譖毀、将有商鞅、白起之禍。尋惟事勢、去亦宜也。死而弗義、不去何為。楽毅之出、呉起之走、君子傷其不遇、未有非之者也。願陛下、推古況今、不疑怪於臣質也。又念、人臣獲罪、当如伍員奉己自効、不当徼幸因事為利。然、今与古、厥勢不同、南北悠遠、江湖隔絶、自不挙事、何得済免。是以、忘志士之節、而思立功之義也。

私は魏朝において、罪もないのに罰せられそうで、商鞅・白起とおなじ禍いを被りそうです。魏朝を裏切って、呉朝に帰順しても、おかしくない状況なのです。

且、臣質又以曹氏之嗣、非天命所在、政弱刑乱、柄奪於臣、諸将専威於外、各自為政、莫或同心、士卒衰耗、帑蔵空虚、綱紀毀廃、上下並昬、想、前後数得降叛、具聞此問。兼弱攻昧、宜応天時、此実陛下進取之秋。是以、區區敢献其計。

私が思いますに、曹氏の継嗣(曹叡)は、天命を与えられておらず、政治は弱く、刑罰は乱れ、諸将が出鎮して威権を専らにし、国が分裂しそうで、財政は悪化し、君臣は分断されています。陛下が、魏を攻め取るべき時期が到来したのです。

今若内兵淮泗、拠有下邳、荊揚二州、聞声響応。臣、従河北席巻而南、形勢一連、根牙永固。関西之兵、繋於所衛、青徐二州、不敢徹守、許洛餘兵、衆不満万、誰能来東与陛下争者。此、誠千載一会之期、可不深思而熟計乎。及臣所在、既自多馬、加以羌胡常以三四月中美草時、駆馬来出。隠度、今者可得三千餘匹。陛下出軍、当投此時、多将騎士来就馬耳。此皆先定所一二知。凡両軍不能相究虚実、今此間実羸、易可克定、陛下挙動、応者必多。上定洪業使普天一統、下令臣質建非常之功、此乃天也。若不見納、此亦天也。願陛下思之、不復多陳。

もし、兵を淮水・泗水に入れ、下邳を拠点とすれば、荊州・豫州の二州は、声を聞いて饗応するでしょう。私(呉質)が、河北を席巻してから南下すれば、形勢は決して、状況が固まるでしょう。関西の兵は、持ち場を離れられず(蜀を防がねばならず)、青州・徐州は、守りを徹することがなく(敗退し)、許昌・洛陽の兵は1万に満たないから、東方で陛下と争うような軍隊は、魏にありません。いまこそ、千載一遇のチャンスです。私の管轄地域では、馬を多く産出し、くわえて羌族・胡族は、三月・四月に、草を食わせるために馬を連れてきます。これを奪えば、三千余を得られるでしょう。いま動けば、呉軍の馬不足を解消できます。呉朝が天下統一することは、天命なので、決心してください。

其三曰「昔、許子遠、舍袁就曹、規画計較、応見納受、遂破袁軍、以定曹業。向使、曹氏不信子遠、懐疑猶豫、不決於心、則今天下袁氏有也。願陛下思之。間聞、界上将閻浮、趙楫、欲帰大化、唱和不速、以取破亡。今臣款款、遠授其命、若復懐疑、不時挙動、令臣孤絶、受此厚禍。即恐、天下雄夫烈士欲立功者、不敢復託命陛下矣。願陛下思之。皇天后土、実聞其言」此文既流行、而質已入為侍中矣。

3通目。むかし許子遠(許攸)は、袁氏を捨てて曹氏に就いた。もし曹氏が許攸を信ぜず、疑って(烏巣襲撃の)決心がつかねば、いまは袁氏の天下であった。

武帝紀 建安五年と同注引『曹瞞伝』だけでなく、崔琰伝 注引『魏略』を参照。

聞けば、国境付近にいる将である、閻浮・趙楫は、呉朝に帰順したいと思ったが、行動が遅れて、魏に滅ぼされてしまった。私は、閻浮・趙楫と同じ失敗をしたくない。私の帰順を、速やかに受け入れて」と。
この文は流布され、呉質は(河北の都督をやめさせられ)入りて侍中となった。

李安渓によると、呉人はこういう詐術ばかりやり、周魴・胡綜がやり、陸遜も免れない(手を染めざるを得なかった)。陳寿が、この偽書を『三国志』に載せたのか、その意図が分からないという。
劉咸炘によると、周魴の文書に比べると、関わりがない(劣る?)。
盧弼によると、呉質のことは、『魏志』王粲伝末と注引『魏略』・『世語』・『呉質別伝』に見える。呉質は、文才による魏文帝と仲がよく、股肱の腹心となった。魏明帝もまた、名君であるから、どうして敵国=呉朝が、離間の計をできるだろうか。ただし、呉質は太和四年に侍中となっており、これは呉の黄龍二年(孫権の皇帝即位に翌年)に該当する。すなわち、孫権の皇帝即位をトリガーに、呉質が呉朝への帰順を願ったという「創作」は、あながち不整合でもない。


魏朝から偽降した隠蕃

二年、青州人隠蕃、帰呉。上書曰「臣聞、紂為無道、微子先出。高祖寛明、陳平先入。臣、年二十二、委棄封域、帰命有道、頼蒙天霊、得自全致。臣至止、有日、而主者同之降人、未見精別。使臣微言妙旨、不得上達。於邑三歎、曷惟其已。謹詣闕、拝章、乞蒙引見」権即召入。

黄龍二年、青州人の隠蕃が、呉に帰した。

隠蕃のことは、潘濬伝に引く『呉書』に見える。潘濬の子が、隠蕃と付き合おうとしたから、潘濬がそれを禁じた。案の定、隠蕃が呉朝に叛いたという。

隠蕃が上書して曰く、「臣 聞くならく、紂 無道を為せば、微子 先に出づ。高祖 寛明たれば、陳平 先に入る。臣、年は二十二、封域を委棄し、有道に帰命す。天霊に頼蒙し、得て自ら全致せん(天の霊のおかげで、呉朝で身を全うできそう)。臣 至止して日あり(帰順して日数が経ったが)、而るに主者(主客の官)は之を降人と同じうし(私を降伏者として扱って冷遇し)、未だ精別を見ず。臣をして微言もて妙旨し、上達するを得ざらしむ。於邑して三歎し、曷惟其已(詩人の語)。謹んで闕に詣り、章を拝し、引見を蒙らんことを乞ふ」と。

李安渓によると、人を詐る者は、人に詐られるのである。陳寿は、隠蕃を胡綜伝のなかに入れたが、それを示すためである。胡綜は、呉質が呉朝に降るという偽書をつくったが、隠蕃は詐って呉朝に降り、魏のために動いた。

孫権はすぐに召し入れた。

蕃謝答問、及陳時務、甚有辞観。綜時侍坐、権問何如、綜対曰「蕃上書、大語有似東方朔。巧捷詭辯、有似禰衡。而才皆不及」権又問、可堪何官、綜対曰「未可以治民。且試以都輦小職」権、以蕃盛論刑獄、用為廷尉監。左将軍朱拠、廷尉郝普、称蕃有王佐之才。普、尤与之親善、常怨歎其屈。

隠蕃は感謝して答え、時務について述べると、言葉・態度が立派であった(胡三省に基づく解釈)。胡綜は同座しており、孫権に(隠蕃の受け答えは、どうかと)聞かれた。胡綜「隠蕃の上書は、大語ぶりが東方朔に似る。巧捷の詭辯さは、禰衡に似る。しかし才覚は、東方朔・禰衡に及ばないでしょう」と。孫権は、「どの官職に適しているか」と聞いた。胡綜「まだ民政はさせられない。試みに都輦の小職をさせなさい」と。

胡三省によると、国都は輦轂のもとにあるから、都輦という。

孫権は、隠蕃が盛んに刑獄を論じるから、廷尉監とした。

胡三省によると、漢より以来、廷尉には「正」「監」「平」がある。何焯によると、けだし隠蕃は、孫権が猜疑が多いことに、投じた(付け込んだ)のである。

左将軍の朱拠・廷尉の郝普、は、隠蕃には王佐之才があると称えた。郝普は、もっとも親善し、つねにその屈(隠蕃の扱いが軽いこと)を怨歎した。

郝普のことは、呂蒙伝に見える。『三国志』蜀志『季漢輔臣賛』にある。
郝普は、もと劉備の臣として零陵太守となったが、単刀会の頃、呂蒙の計略にかかって、零陵を明け渡してしまった。蜀から呉に「降った」という扱いで、魏から呉に降った隠蕃に、かってに親近感を懐いたと思われる。その隠蕃が、けっきょく呉に叛いたから、郝普は、呉にいられず、刑死した。


後、蕃謀叛、事覚伏誅〔一〕。普、見責自殺。拠、禁止、歴時乃解。
〔一〕呉録曰、蕃有口才、魏明帝使詐叛如呉、令求作廷尉職、重案大臣以離間之。既為廷尉監、衆人以拠、普与蕃親善、常車馬雲集、賓客盈堂。及至事覚、蕃亡走、捕得、考問党与、蕃無所言。呉主使将入、謂曰「何乃以肌肉為人受毒乎。」蕃曰「孫君、丈夫図事、豈有無伴。烈士死、不足相牽耳。」遂閉口而死。呉歴曰、権問普「卿前盛称蕃、又為之怨望朝廷、使蕃反叛、皆卿之由。」

のちに隠蕃が謀反し、ことが発覚して誅に伏した。(隠蕃に肩入れした)郝普は、責められて自殺した。朱拠は禁止(禁錮)されたが、時間がたってから解除された。
『呉録』によると、隠蕃には口才がある。魏明帝は、詐って呉に降伏させ、呉朝の廷尉の職を求め、大臣を取り調べて離間しようとした。

すべて魏明帝がやっているなら、隠蕃の命をかけた、大規模な計略である。孫権のところは、校事がのさばり、孫権が横暴で、離間されるべきスキがある。
ぼくが思うに、隠蕃の降伏と、廷尉の職を得たのと、のちに魏に戻ろうとしたのは、行き当たりばったりだと思う。呉朝の君臣関係・臣下同士の交際で、うまくいかなくなり、最後に魏への回帰をねらったのでは。呉朝としては、有望な降人を、定着させ活用できなかったことが恥だから、「魏明帝の計略だった」と、意義を読み替えたように思える。

隠蕃が廷尉監となると、呉臣たちは、朱拠・郝普が隠蕃と親善しているから、隠蕃のもとに車馬が雲集し、賓客は堂に満ちた。ことが発覚すると、隠蕃は亡命して(魏に)逃げようとしたが、捕まって、党与を取り調べられた。隠蕃はなにも言わない。孫権が隠蕃を(目の前に連れてきて)入れさせ、「なぜこの肌肉をもって、人のために毒を受けねばならんのか」と聞いた。隠蕃「孫君よ、丈夫が事を図ったのだ。どうして共謀者がいないことがあろうか。烈士が死ぬとき、道連れにするまでもない」。口を閉じて死んだ。

隠蕃は、死ぬときまで、呉の君臣の離反のタネをまいた。隠蕃の共謀者が、呉朝にたくさんいることを匂わせ(実際にいたのかは不明)、その名前を告げずに死んだ。これにより、呉臣の全員が、潜在的な隠蕃の共謀者となり、孫権は疑心暗鬼にならざるを得なくなる。

『呉歴』によると、孫権が郝普に、「きみは以前、さかんに隠蕃を称賛し、隠蕃に(評価と職位とのギャップを認識させ)朝廷に怨みを懐かせた。隠蕃が叛いた原因は、郝普が作ったのだ」と言った。

孫登伝に引く『呉書』によると、廷尉監の隠蕃は、豪傑と交結し、衛将軍の全琮らは、心を傾けて接待した。ただ、羊衜・楊迪のみ、拒絶して交通しなかった。
このセリフだと、孫権のなかで隠蕃は、「呉朝に降ったが、ちっとも地位が上がらない。これなら、呉朝に叛き、魏のために功績をつくり、魏で昇進したほうがマシだ」と、スネたことになる。つまり、魏明帝の工作員として、隠蕃が潜り込んだことにはならない。この『呉歴』の孫権の理解のほうが、実態を反映しているような気がする。


胡綜の人柄など

拝綜、偏将軍、兼左執法、領辞訟。遼東之事、輔呉将軍張昭、以諫権、言辞切至。権亦大怒。其和協彼此、使之無隙、綜有力焉。

胡綜は、偏将軍を拝し、左執法を兼ね、辞訟を領した。

胡綜が偏将軍となり、ひろく詔命を伝えた。朱桓伝に見える。?

遼東の事があると、輔呉将軍の張昭は、孫権を諫めて、言辞は切至である。孫権もまた大怒した。しかし、孫権・張昭を和協させ、対立を解消したのは、胡綜のおかげである。

孫権と張昭の対立を、胡綜が仲立ちした。胡綜って、かなり重要なキャラ!


性嗜酒、酒後歓呼極意、或推引杯觴、搏撃左右。権愛其才、弗之責也。凡自権統事、諸文誥策命、鄰国書符、略皆綜之所造也。

性は酒を嗜み、酒後は歓呼して意を極め、あるいは杯觴を推引し、左右を搏撃した。孫権はその才覚を愛して、とがめなかった。
孫権が統事するようになってから、諸々の文誥・策命と、鄰国への書符は、ほぼ胡綜が作成したものである。

趙一清によると、『御覧』巻八百五に引く『胡綜別伝』に、孫権のとき銅印が掘り出されて、その意義を胡綜が答えている。 章宗源によると、『胡綜別伝』は、『類聚』『御覧』に見える。侯康によると、『類聚』巻七十および八十三に『胡綜別伝』があり、その内容は本伝に載っていない。


初、以内外多事、特立科、長吏遭喪、皆不得去、而数有犯者。権患之、使朝臣下議。綜議以為、宜定科文、示以大辟、行之一人、其後必絶。遂用綜言、由是奔喪乃断。赤烏六年、卒。子沖、嗣。沖、平和有文幹、天紀中為中書令〔一〕。
〔一〕呉録曰、沖後仕晋尚書郎、呉郡太守。

はじめ、内外が多事なので、とくに刑罰のルールをもうけ、長吏が親族を亡くしても、職を離れられないと定めた。しかし、しばしば違反者があった。孫権はこれに患って、朝臣に議論させた。胡綜は、「明文化して、違反者1人に刑罰を執行すれば(見せしめにすれば)、違反者はいなくなる」といった。これが採用され、服喪のために離職する人がなくなった。

胡綜の議論は、呉主伝の嘉禾六年に見える。この列伝に再掲されているから、編集が不充分であると。

赤烏六年、卒した。

『隋書』経籍志によると、呉の侍中の『胡綜集』二巻があり、梁に一巻を録したものがあった。厳可均『全三国文』は、六篇を載せる。『太子賓友目』も、胡綜の作ったものであり、孫登伝に引く『江表伝』に見える。胡綜は、『諸王を立つることを請ふ表』をつくり、『芸文類聚』巻五十一にあるが、孫権伝 赤烏五年注に、すでに引かれている。

子の沖が嗣いだ。沖は、平和に文幹あり、天紀中に中書令となった。

胡沖は『呉歴』をあらわした。文帝紀 黄初七年注にある。

『呉録』によると、胡沖は晋に仕えて尚書郎、呉郡太守となった。

侯康によると、『太平御覧』巻二百二十に引く薛瑩『條列呉事』に、胡沖のことが見える。刀筆の才があり(『呉歴』を書いて)、時事に閑である。中書令となったが、(国政を)匡正することはできず、また自守して媚びなかった。


類書などに載せる『胡綜別伝』

『太平御覧』巻三百三十九:吳胡綜《大牙賦》曰:狼弧垂曜,實惟兵精。聖人觀法,是效是營。始作器械,爰求厥成。明明大吳,實天生德,乃律天時,制其神軍。取象太一,五將三門。疾則如電,遲則如雲。進止有度,約而不煩。四靈既布,黃龍處中。周制日月,實曰大常。桀然特立,六軍所望。

『太平御覧』七百三:《胡綜別傳》曰:時有掘得銅匣,長二尺七寸,以琉璃為蓋,布云母於其上,開之得白玉如意,所執處皆刻螭虎文、蠅蟬等形,時人莫有識者。太常以問綜,綜答曰:「昔秦始皇帝東游,以金陵有天子氣,乃改名,掘鑿江湖平諸,山南處處輒埋寶物以當王氣。其事見於《秦記》。」
『太平御覧』巻八百五:《胡綜別傳》曰:吳時,掘得銅印,以琉璃為蓋,畫布雲母於其上。開之,得白玉如意。太皇帝以問君,君曰:「秦皇以金陵有天子氣,處處埋寶物,以當王士之氣,此抑是也。」

『芸文類聚』巻五十一:《吳胡綜請立諸王表》曰:受命之主,繫天而王,建化垂統,為一代制,雖禮有損益,事有質文,至於崇建懿親,列土封爵,內蕃國朝,外鎮天下,古今同契,其揆一也。周室之興,寵秩子第,姬姓之國,五十有五,諸王子受國者漸多,光武中興,四海擾攘,眾諸制度未遍,而九子受國,明章即位,男則封王,女為公主。故詩曰:既受帝祉,施于子孫,陛下踐阼以來,十有二載,皇后無號,公主無邑,臣下歎息,遠近失望,是以屢獻愚懷,依據典禮,庶請具陳,足寤聖心,深辭固拒,不蒙進納,恐天下有識之士,將謂吳臣闇於禮制,不知陛下謙以失之也。加今仰夏,盛德在上,大吳之慶,於是乎始,開國建號,吉莫大焉。唯陛下割謙謙之德,副兆民之望,留臣祐許,天下幸甚。

『芸文類聚』巻六十:吳胡綜《大牙賦》曰:黃初八年,黃龍見夏口,孫權稱號,因瑞改元,作黃龍大牙,常在軍中,進退視其所向。命綜為賦曰:狼狐垂蒙,實惟兵精,聖人觀法,是效是營,始作器械,爰求厥成,明明大吳,實天生德,仍律天時,制其神軍,取象太一,五將三門,疾則如電,遲則如雲,進止有度,約而不煩,四靈既布,黃龍處中,周制日月,實曰太常,傑然特立,六軍四望。
『芸文類聚』巻七十:《胡綜別傳》曰:時有掘地得銅匣,長二尺七寸,開之,得白玉如意,所執處,皆刻螭蟬等形,時人莫知其由,吳大帝以綜多識,乃問之,綜答云,昔秦始皇東遊,以金陵有王者氣,乃鑿諸山崗,處處埋寶物,以當王者之氣,此抑是乎。
『芸文類聚』巻八十三:《胡琮別傳》曰:吳時掘地,得銅匣,以琉璃為蓋,布雲母於其上,開之,得白玉如意,大皇帝以問琮。對曰:秦始皇以金陵有天子氣,處處埋寶物以當王土之氣,此抑是乎。


徐詳伝

徐詳者字子明、呉郡烏程人也。先綜死。

徐詳は、あざなを子明といい、呉郡の烏程のひと。胡綜に先んじて亡くなった。烏程は、孫堅伝に見える。

『三国志集解』本巻の末尾は、徐詳伝の復元を試みる。
徐詳は、呉郡の烏程の人。孫権が車騎将軍となり、京に都すると、徐詳は、胡綜・是儀とともに軍国の密事を典した(胡綜伝)。建安二十二年、都尉に遷り、孫権の使者として曹操に降伏を申し入れた(呉主伝)。曹操は徐詳に、「横江の津を越えて、孫将軍と姑蘇の上に遊び、長洲の苑で猟をすれば、わが志は足りる」と言った。徐詳は、「大王 至順を奉りて以て諸侯と合し、もし横江を越えて姑蘇に遊ばば、これ亡秦を踵みて夫差を躡むなり。天下のこと去るを恐る」と答えた。曹操は笑って、「徐生、得て逆詐なきや」と(『御覧』六十九に引く『呉地記』)。これにより、修好の使者を交わし、結婚を重ねることを誓った(呉主伝)。
劉備が白帝に下ると、孫権は徐詳に、解煩左部督を領させた。魏が孫権に呉王を拝すると、徐詳を亭侯に封じた(胡綜伝)。侍中・偏将軍となった。孫権が初めて節度官を置くと、軍糧を典掌させ、これは漢制ではなかった。はじめは徐詳を用い、つぎに諸葛恪を代わりに用いた(諸葛恪伝 注引『江表伝』)。孫権が践阼すると、建業に都した。進んで郷侯に封じられ、胡綜とともに左右領軍となった。胡綜に先んじて死んだ(胡綜伝)。

評曰、是儀、徐詳、胡綜、皆孫権之時幹興事業者也。儀、清恪貞素。詳、数通使命。綜、文采才用。各見信任、辟之広夏、其榱椽之佐乎。

評に曰く、是儀・徐詳・胡綜は、いずれも孫権のときに基幹として事業を興した者である。是儀は清恪で貞素。徐詳は、しばしば使命に通ず。胡綜は、文・采の才で用いられた。それぞれ信任された。大きな建物の、梁のように支えにたのである。

陳景雲はいう。徐詳は列伝がないのに、評に見える。列伝に表記すべき事績が伝わらないが、是儀・胡綜の同類であると、陳寿が考えたからであろうが、史書の体裁には合わない。徐詳が曹氏への使者となったのは、呉主伝に1回しか見えないが、陳寿は「しばしば」使者になったとする。評のなかで、是儀→徐詳→胡綜の順序で書いているから、体裁から見えるような、「胡綜伝 附徐詳伝」という扱いではない。徐詳伝が、胡綜伝の前にあったはずだが、たまたま逸したのである。『江表伝』によると、徐詳は侍中・偏将軍となり、節度官となり、軍糧を掌典したという。その幹略を見ることができるが、それ以外の事績は不明である。
朱邦衡によると、徐詳は列伝を立てるべきだが、事績が失われ、評だけでに書かれた。司馬遷・班固が、同じ形式を使っており、必ずしも逸脱ではない。
劉咸炘によると、胡綜・徐詳は、列伝を合わせたのであり、徐詳伝は、胡綜伝の附伝として書かれたのではない。巻末に徐詳のあざな・本貫地があるが、これも便宜的にこうなったのであり、陳寿と別のひとが、追加したのではない。

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