両晋- > 晋書巻二 景帝紀(司馬師)を読む

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1.和刻本を読み始める

このページは、正史『晋書』完訳プロジェクト_いつか読みたい晋書訳の一環です。翻訳を「読みたい」人から資金を募り、専門家に翻訳を依頼。翻訳ページは近日公開に向けて、準備しています。
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Q&A 3.主催者が翻訳することについてを参照。晋書に関する発信をしていくため、主催者である私が、晋書巻二を読んでみようという趣旨です。

校勘

本来、「段落」という概念はないのですが、便宜的に、中華書局版『晋書』で改行・段落ちされている区切りを採用します。
まず、原文を入力するわけですが、とても時間がかかるので、台湾の中央研究院・歴史語言研究所『漢籍電子文献資料庫』から、原文を借りてきます。

晉書卷二/帝紀第二/景帝
景皇帝諱師,字子元,宣帝長子也。雅有風彩,沈毅多大略。少流美譽,與夏侯玄、何晏齊名。晏常稱曰:「惟幾也能成天下之務,司馬子元是也。」魏景初中,拜散騎常侍,累遷中護軍。為選用之法,舉不越功,吏無私焉。宣穆皇后崩,居喪以至孝聞。


中国語と日本語とでは、記号が異なるので、「、」を「・」に一斉置換し、「,」を「、」に一斉置換します。置換の順序を誤ると、グチャグチャになります。ちなみに、中国語「、」と日本語「・」は、並列の記号。「司馬師・司馬昭」というやつ。中国語「,」と日本語「、」は、文の切れ目。「司馬師は、」というやつ。
そして、原文に台詞などを示すカギカッコは不要なので、除きます。コロン「:」も要りません。今回だと、何晏がつねに称して曰く……というあたりです。

晉書卷二/帝紀第二/景帝
景皇帝諱師、字子元、宣帝長子也。雅有風彩、沈毅多大略。少流美譽、與夏侯玄・何晏齊名。晏常稱曰、惟幾也能成天下之務、司馬子元是也。魏景初中、拜散騎常侍、累遷中護軍。為選用之法、舉不越功、吏無私焉。宣穆皇后崩、居喪以至孝聞。


今回のプロジェクトは、底本(もとになるテキスト)は、『晋書斠注』と指定しています。ネットで拾った文が、『晋書斠注』と合っているとは限らないので、1文字ずつ照合します。ぼくは、指でなぞりながら、音読みで、お坊さんのように読み上げます。
「ケー・コー・テー・いみな・シー、ジー・シー・ゲン」という調子。「諱」の音読みは「キ」ですが、一瞬で思い浮かばなかったので、訓読みを容認しています。文字の照合が目的なので。
今回は、異なるところなし。つぎに、念のために、中華書局の『晋書』とも照合します。今回は、異なるところなし。

訓読

『和刻本正史 晋書 1』を見て、訓読をします。この通りに訓読する必要はありませんが、まずはこれを参考にし、必要に応じて変えていけばいいと思います。

景皇帝諱師、字子元、宣帝長子也。雅有風彩、沈毅多大略。

景皇帝、諱は師、

中国語では、ここに読点(,)はなかったのですが、和刻本には付いているし、日本語として読むなら、読点があったほうが分かりやすいので、「、」を挿入するか。
ちなみに『三国志』後主伝は、中央研究院では「後主諱禪,字公嗣」とあり、和刻本は手元にないのですが、『全訳三国志』では「後主 諱は禪」と、半角スペースを入れてます。今回も、半角スペースの挿入でもいいかも知れません。
もし、訓読で、景皇帝「、」と、点を付けるならば、原文のほうも変えて、「、」を付けるべきです。今回は、原文をいじるほどではないので、半角スペースにしちゃいましょう。

景皇帝 諱は師、

と変更しました。

字(あざな)は子元、宣帝の長子なり。

「也」という字を、「也」のままとするか、「なり」と開く(かなにする)かは、ひとによって違います。唯一の正解はないはずです。ぼくは、かなにしちゃいますが、翻訳者のあいだで統一をするつもりはありません。統一の作業じたいが、膨大になってしまうので。
訓読をするとき、もとの漢字になくても、「なり」という助動詞?を挿入することがあります。区別をするならば、かなにするのは得策ではありませんが、読みにくいです。原文も表示すれば、かなにしてもいいのでは…と思います。
『全訳三国志』後主伝では、「先主子也」を「先主の子なり」と、かなにしてました。ときどき、参考にしていこうと思います。

雅(もと)より風彩有り、沈毅にして大略多し。

和刻本だと、こんなふう。

和刻本に、「雅ヨリ」と書いてあり、『漢辞海』を調べると、「もと-より」という訓読みがある。つねづね、の意味。『後漢書』張衡伝が例文で、「安帝雅聞」を「安帝 雅(つね)に聞く」とある。「つねに」と読むことが出来るが、同じ意味で、和刻本が「より」と送り仮名をしているので、「もとより」で行きます。
生半可に「雅(みやび)やかにして」と読んではダメです。


和刻本を読むときに、カタカナが今日と違います。

benricho.org/kana/wa.html より。
合略仮名(仮名合字)。これ以外にもあれば、出てきてから考えます。

少流美譽、與夏侯玄・何晏齊名。晏常稱曰、惟幾也能成天下之務、司馬子元是也。

少(わか)くして美譽を流ふ。

「流」の下の文字の読み方が分かりません。「美誉を流(ながら)ふ」だと語感がしっくりこず、「流ふ」にべつの訓読みがあるのか、「フ」みたいな形のカタカナを読めていないのか(「ふ」じゃないのか)。

和刻本は、古訓である「つたフ」で読んでおり、いまは「ながス」と読み、「伝え広げる」の意味で取るそうです。


夏侯玄・何晏と名を齊(ひと)しくす。晏 常に稱して曰く、「惟(た)だ幾(キ)なり能く天下の務を成すといふは、司馬子元 是なり」と。


「惟」の左側に傍線があるので、訓読みする。「幾」の右側に傍線があるので、音読みする。和刻本の指示があるので、そのとおりにすると、こうなります。
「惟(た)だ」なのか「惟(こ)れ」なのか。にわかには分かりませんが、分からなくてよいのです。これは、『周易』繋辞上伝に、「夫易、聖人之所以極深而研幾也。唯深也、故能通天下之志。唯幾也、故能成天下之務」とあって、下線部を踏まえているはずです。
不必要に分かりにくく、読めなかったら、出典があることが疑われます。適当に範囲をくぎって、ネットで検索です。中央研究院では、経書(儒家経典)が収録されているので、ヒットするでしょう。
『周易』と分かりました。
こういうときは、『周易』を訓読した本を見て、それを参考にします。手元にはないので、宿題とします。とりあえず、和刻本から読み取れる範囲で、訓読したらこうなります、と示すにとどめました。
……岩波文庫の高田真治・後藤基巳訳『易経(下)』によると、「ただ幾なり、故によく天下の務めを成す」と訓読し、現代語訳が「その(聖人が)究明し得るところがまったく幾微におよんでいるからこそ、天下万人の為すべき務めを成就させることもできるのである」とある。岩波文庫に従い、「惟(た)だ」で読みます。「唯」と「惟」が揺れていますね。『晋書』では「惟」です。
「といふは」は、和刻本にもとづいて加えましたが、「~といふ」がかかるのは、「惟だ~成す」までですね。『周易』繋辞上伝からの引用だからです。なんとなく、「なり」で読点を入れたくなりますが、中華書局も和刻本も、読点がないです。ただし、読点を入れたら誤り!とも言えないでしょう。岩波文庫の『易経(下)』では、読点があります。引用の範囲を見失わぬよう、読点を抜いているのでしょうか。


魏景初中、拜散騎常侍、累遷中護軍。為選用之法、舉不越功、吏無私焉。宣穆皇后崩、居喪以至孝聞。

魏の景初中、散騎常侍に拜し、累(しき)りに中護軍に遷る。

「累(しき)りに」は、『漢辞海』だと「しばしば」の意味。『全訳三国志』来敏伝で「累遷為光祿大夫」を「たびたび遷って光禄大夫となり」と訳してました。

選用の法を為(をさ)め、

為には「メ」の送り仮名があるから、「をさ-める」で、管理するという意味か。「為(つく)り」とも読みたくなる。このあたりは、史実(司馬師が、人材の選抜・登用の制度を新設したのか)を踏まえ、訓読を調整します。決定打となる、司馬師が新設した!という人事ルールを、ぼくが知らないので、おさめる(管理する)とします。

舉(キョ)は功を越えず、

「越ゆ」なので「越えず」です。「越へず」ではないです。
なお、今回の『晋書』完訳プロジェクトでは、歴史的仮名遣いをするかどうかは、翻訳者ごとにお任せしています。

吏(リ)は私すること無し。宣穆皇后 崩ず、

崩には「ス」しか送り仮名がないが、「崩ずるや」と読みたい。

喪に居(を)りて至孝を以て聞こふ。

訓読まとめ

景皇帝 諱は師、字は子元、宣帝の長子なり。 雅(もと)より風彩有り、沈毅にして大略多し。少くして美譽を流(なが)す。夏侯玄・何晏と名を齊(ひと)しくす。晏 常に稱して曰く、「惟(た)だ幾(キ)なり能く天下の務を成すといふは、司馬子元 是なり」と。魏の景初中、散騎常侍に拜し、累(しき)りに中護軍に遷る。選用の法を為(をさ)め、舉(キョ)は功を越えず、吏(リ)は私すること無し。宣穆皇后 崩ずるや、喪に居(を)りて至孝を以て聞こふ。

つぎは、現代語訳ですね。続きます。200306

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2.現代語訳と注釈をつくる

景帝紀を読んでいます。

『晋書斠注』より

昨日読んだ部分では、『晋書斠注』において、「美誉」のあとに注釈があります。
今回の『晋書』完訳プロジェクトでは、『晋書斠注』の注釈の文字起こし・完訳は求めていません。現代語訳をするとき、参考にして頂く程度です。必要に応じ、注釈を付けて下さい。…とお願いしています。

1回目なので、『晋書斠注』を文字起こしをすると、「世説言語篇注魏書曰以道徳清粋重於朝廷」とあります。
訓読すると、「世説言語篇注 魏書に曰く、「道徳清粋を以て朝廷に於いて重んぜらる」と」となりましょうか。

『世説新語』言語第二に、司馬景王(司馬師)が、上党の李喜(李憙)を辟するエピソードがあり、その注釈として(どの編者のものか分からないが、王沈か)『魏書』の文が引かれている。
『魏書』に司馬師の列伝っぽい文があったが、のちに晋が建国され、帝紀に入れられることになったから省かれたか。

댕댕박사 @213_316_ さんによると、『世說新語』德行篇の注に「魏書曰、文王諱昭、字子上、宣帝第二子也」とあり、司馬師・司馬昭の列伝があったか。


『解體晉書』景帝紀より

晋書翻訳の先行サイトは、『解體晉書』です。そこには、NOB氏による景帝紀の現代語訳が載っています。
http://jinshu.fc2web.com/
これを参照しながら、現代語訳を作っていきましょう。

景皇帝は諱を師、字を子元といい、宣帝(司馬懿)の長子である。つねに立派な立ち居ふるまいをし、

「風采」は、『漢辞海』によると『漢書』霍光伝に「りっぱな立ち居ふるまい」の意味で載っているという。参照箇所を調べると、『漢書』巻六十八 霍光伝に、霍光のこととして、「天下想聞其風采」とある。ぼくが思うに、霍光と司馬師の共通点は、皇帝を補佐するに留まらず、皇帝を交代させること。晋書の言葉選びに、霍光のイメージが重ねられていた可能性がある。
『解體晉書』は、「風采は雅(みやび)やか」としているが、和刻本に依って「雅」を「もと-より」と読んだので、「つねに」の意味で訳しました。

落ち着きがあって意志がかたく、

沈毅(ちんき)は、『漢辞海』によると『後漢書』蔡肜伝にあるといい、この訳語を示している。参照箇所を調べると、『後漢書』列伝十 祭遵伝付蔡肜伝に、「肜性沈毅內重、自恨見詐無功」とある。
『解體晉書』は「落ち着きがあって意思が強く」とするから、同系統の説明を見ているかも知れない。ちなみに『漢辞海』は、改版を重ねている。ぼくは、最新ではないが、第三版を使っています。2002年は、『漢辞海』ならば第一版が出ていました。

遠大な計略をおおく発想した。

大略は、『漢辞海』によると『史記』酈生伝にあり、この訳語が示されている。
『解體晉書』は「人並みすぐれた知略をもっていた」とする。「人並みすぐれた」は、やや語感がピンときません(人並み外れた?人より優れた?)。また訓読では、大略が「多い」といっている。優劣より、多寡を表現したい。
またぼくは、ここの「略」は、知略ではなく、計略ではないかと思います。能力を数値化するゲームだと「知略が多い」という言い方になじみますが、ここでは取りません。


若いときから名声が知れわたり、

「流」は、古訓では「つたふ」で、いまは「ながす」です。伝わる、流れている…という意味で、流布という訳語が、最初に思い付いた候補です。「流」字を保存できます。ですが、『解體晉書』の「名声を博す」のほうが、こなれているし、カッコいいですね。「博す」には、広がっている、という意味が含まれています。

夏侯玄・何晏と同等の評価を得ていた。

『全訳三国志』ならば、夏侯玄・何晏に、必ず注釈が必要ですが(巻一宣帝紀に2人が登場していない場合に限る)そこまでは、今回はやりません。
『解體晉書』は、「若い頃から評判がよく、夏侯玄・何晏と並ぶ名声を博していた」としています。
ひっかかったのが「名をひとしくす」の「名」は、nameの「名」であり、「名声」というときの「名」は、goodの意味だと思うんです。
ぼくが訓読したとき、名声の流布と、夏侯玄らとの比肩、という2つに分けました。『解體晉書』のようにすると、「名」の意味が混ざるし、文の区切りも曖昧になってしまうので、ぼくは訳文を変えました。「名」のダブル・ミーニングを、感性で織り込めたらいいのですが、美文は目指しません。

何晏はいつも、「(聖人は)機微に通じて天下の務めを成すことができると(『周易』繋辞上伝に)いうが、司馬子上こそがこれに該当する」と称賛していた。魏の景初期に、散騎常侍を拝命し、たびたび異動して中護軍に遷った。人材登用の方法を(適正に)管理し、

『解體晉書』は、「人材登用の法を整備し」とあるが、人事に関する法整備は、中護軍の職分ではないと思いますし、このとき、法改正があったことを(ぼくが)知らないので、運用レベルの話と解釈しました。

功績を越えて(不釣り合いに高い官職に)推薦することはなく、私情をはさんで役人に登用することはなかった。

「吏」は「吏(り)とす」と読み、役人にすること。「挙」は推薦して昇進させること、「吏」は登用して就職させること、という区別がされており、その区別による対句と解釈しました。「挙は……吏は……」と。
『解體晉書』は、推挙する人材を誤ることがなく、役人は私心を持たず、悪事をしなくなった、としていますが、私心を挟まなかったのは、司馬師だとぼくは読みました。

宣穆皇后(実母の張氏)が崩御すると、喪に服するさまが至孝(孝のきわみ)であると言われた。

『解體晉書』は、喪に服したことにより孝名が広まった、としていますが、だれでも喪に服するので、服すること自体がエライのではないと思います。


現代語訳まとめ

景皇帝は諱を師、字を子元といい、宣帝(司馬懿)の長子である。つねに立派な立ち居ふるまいをし、落ち着きがあって意志がかたく遠大な計略をおおく考えついた。若いときから名声を博し、夏侯玄・何晏と同等の評価を得ていた。何晏はいつも、「(聖人は)機微に通じて天下の務めを成すことができると(『周易』繋辞上伝に)いうが、司馬子上こそがこれに該当する」と称賛していた。魏の景初期、散騎常侍を拝命し、たびたび異動して中護軍に遷った。人材登用の方法を(適正に)管理運用し、 功績を越えて(不釣り合いに高い官職に)推薦することはなく、私情をはさんで役人に登用することはなかった。 宣穆皇后(実母の張氏)が崩御すると、喪に服するさまが至孝(孝のきわみ)であると言われた。

注釈をつける

『全訳三国志』の順序に従うと、原文(テキストの提示)→校勘(テキストの検討)→訓読→注釈(補注)→現代語訳です。
掲載するときは、この順序になるのですが、翻訳者のあたまのなかでは、とくに、後ろ3つが有機的に繋がり、なん往復もしています。現代語訳が思い浮かんでいないと、訓読なんてできないし、訓読するとき、注釈に載せるべきことを加味しています。注釈の内容は、もちろん現代語訳に反映されます。

もっというと、校勘のときに、「この文字に変わると、こういう意味になるな(現代語訳)」とか、「この文字に変えないと、出典からの引用がおかしいな(注釈)」という観点もあります。ほんと、分離不可能です。しかし、会社の仕事で、「分離不可能」とかいうと、「説明の手を抜くな」って怒られるやつです。


意味を伝える都合上、『全訳三国志』と同様に、注釈を付けるのは、訓読に対してです。なぜか。現代語訳すると、消えてしまう事柄に対し、注釈を付けたい場合があるからです。意味を伝えるための、技術的な問題です。
たとえば、さっき、「霍光伝に同じ表現がある!」って見つけまして、おもしろいから、注釈したいんですけど(笑)現代語訳の「立派な立ち居ふるまい」に、霍光伝と同じ文がある!って言っても、それってウソです。「風彩」という語句に付けないと、意味不明になります。

『後漢書』蔡肜伝・『史記』酈生伝は、べつに要らないですね(笑)

あと、晋書では「風彩」と、漢書では「風采」とあり、文字が揺れていますが、これに抵触しないかたちで、注釈を付けていきましょう。

訓読を再び呼び出し、注釈を挿入します。現代語訳をやり、句読点をちょっと調整したくなったので、それも反映。

景皇帝 諱は師、字は子元、宣帝の長子なり。 雅(もと)より風彩〔一〕有り、沈毅にして大略多し。少くして美譽を流(なが)し〔二〕、夏侯玄・何晏と名を齊(ひと)しくす。晏 常に稱して曰く、「惟(た)だ幾(キ)なり能く天下の務を成す〔三〕といふは、司馬子元 是なり」と。魏の景初中、散騎常侍に拜し、累(しき)りに中護軍に遷る。選用の法を為(をさ)め、舉(キョ)は功を越えず、吏(リ)は私すること無し。宣穆皇后 崩ずるや、喪に居(を)りて至孝を以て聞こふ。

〔一〕『漢書』巻六十八 霍光伝に、霍光のこととして「天下想聞其風采」とある。
〔二〕『世説新語』言語篇に引く『魏書』に「以道徳清粋重於朝廷」とあり、『晋書斠注』景帝紀に言及がある。なお、『世説新語』言語篇第二は、司馬師が上党の李喜(李憙)を登用した逸話を載録している。
〔三〕『周易』繋辞上伝に、「夫易、聖人之所以極深而研幾也。唯深也、故能通天下之志。唯幾也、故能成天下之務」とあり、出典である。

これくらいですか。ホームページには、思い付いたことを、ゴチャゴチャ書くのが楽しいんですが、あんまり書きすぎると、使いにくくなるし、品位が下がるので(笑)。言及すべき事柄にモレがあったら、ご指摘をお願いします。

固有名詞、人名・官名・年号などは、あえて付けていません。


完成品

◆原文
景皇帝諱師、字子元、宣帝長子也。雅有風彩、沈毅多大略。少流美譽、與夏侯玄・何晏齊名。晏常稱曰、惟幾也能成天下之務、司馬子元是也。魏景初中、拜散騎常侍、累遷中護軍。為選用之法、舉不越功、吏無私焉。宣穆皇后崩、居喪以至孝聞。

◆校勘:なし

◆訓読
景皇帝 諱は師、字は子元、宣帝の長子なり。 雅(もと)より風彩〔一〕有り、沈毅にして大略多し。少くして美譽を流(なが)し〔二〕、夏侯玄・何晏と名を齊(ひと)しくす。晏 常に稱して曰く、「惟(た)だ幾(キ)なり能く天下の務を成す〔三〕といふは、司馬子元 是なり」と。魏の景初中、散騎常侍に拜し、累(しき)りに中護軍に遷る。選用の法を為(をさ)め、舉(キョ)は功を越えず、吏(リ)は私すること無し。宣穆皇后 崩ずるや、喪に居(を)りて至孝を以て聞こふ。

◆注釈
〔一〕『漢書』巻六十八 霍光伝に、霍光のこととして「天下想聞其風采」とある。
〔二〕『世説新語』言語篇に引く『魏書』に「以道徳清粋重於朝廷」とあり、『晋書斠注』景帝紀に言及がある。なお、『世説新語』言語篇第二は、司馬師が上党の李喜(李憙)を登用した逸話を載録している。
〔三〕『周易』繋辞上伝に、「夫易、聖人之所以極深而研幾也。唯深也、故能通天下之志。唯幾也、故能成天下之務」とあり、出典である。

◆翻訳
景皇帝は諱を師、字を子元といい、宣帝(司馬懿)の長子である。つねに立派な立ち居ふるまいをし、落ち着きがあって意志がかたく遠大な計略をおおく考えついた。若いときから名声を博し、夏侯玄・何晏と同等の評価を得ていた。何晏はいつも、「(聖人は)機微に通じて天下の務めを成すことができると(『周易』繋辞上伝に)いうが、司馬子上こそがこれに該当する」と称賛していた。魏の景初期、散騎常侍を拝命し、たびたび異動して中護軍に遷った。人材登用の方法を(適正に)管理運用し、 功績を越えて(不釣り合いに高い官職に)推薦することはなく、私情をはさんで役人に登用することはなかった。 宣穆皇后(実母の張氏)が崩御すると、喪に服するさまが至孝(孝のきわみ)であると言われた。

ルビの見せ方、注釈の示し方は、おいおい調整します。200307

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3.曹爽の誅殺、司馬懿の死

◆原文
宣帝之將誅曹爽、深謀祕策、獨與帝潛畫、文帝弗之知也、將發夕乃告之。既而使人覘之、帝寢如常、而文帝不能安席。晨會兵司馬門、鎮靜內外、置陣甚整。宣帝曰、此子竟可也。初、帝陰養死士三千、散在人間、至是一朝而集、眾莫知所出也。事平、以功封長平鄉侯、食邑千戶、尋加衞將軍。及宣帝薨、議者咸云伊尹既卒、伊陟嗣事、天子命帝以撫軍大將軍輔政。

◆校勘:なし

◆訓読
宣帝の將に曹爽を誅せんとするや、深謀祕策、獨り帝とのみ潛(ひそ)かに畫す。文帝 之を知ること弗きなり。將に發せんとするに夕(ゆふ)に乃ち之を告ぐ。

「夕」は和刻本では訓読みをさせる。
『解體晉書』に、「「發夕」は宿舎を離れる、の意。一説には夕方に出発して夜をかけて行くことを指すともいわれているが、ここでは実際に行動を起こしたのは夜明け頃であるので、前者の意であろう」とあり、訳語は「出発しようという時になって」とある。ぼくが読解を試みるに、同サイトは、「宿舎を出発しようという時になって」と解釈し、なじまないので「宿舎を」を省いたと思われる。
今回ぼくは、「夕」を「ゆふ」と読み、夜(朝の対義語)と理解する。つぎに睡眠の話がある。前夜に告げ、睡眠を取ってから、翌朝に決行したという解釈で、無理がないと思われる。

既にして人をして之を覘(うかが)はしめば、

「覘」は、「うかがふ」「のぞく」と読める。盗み見ること。和刻本は、送り仮名が「ハ」なので、「うかがふ」で読む。

帝 寢(ぬ)ること常の如く、

「寝」は、終止形が「ぬ」という動詞。活用は、「ね/ね/ぬ/ぬる/ぬれ/ねよ」なので、連体形は「ぬる」。

而るに文帝 席を安んずること能はず。晨(あした)に兵を司馬門に會し、內外を鎮靜し、陣を置くこと甚だ整ふ。

動詞の「そろえること」は「ととの-ふ」で、形容詞の「そろったさま」も「ととの-ふ」。完全無欠なさまも指し、「完整」という熟語がある。

宣帝曰く、「此の子 竟に可(よ)きなり」と。

『晋書』景帝紀で、宣帝が景帝を評したセリフ。「可」の右下にあるのは「之(シ)」で合ってますか?「此の子 竟(つひ)に可(よ)し」と訓読し、『漢辞海』によると「竟に」には、思いがけず、結果的に、の意味がある。司馬師は思いがけず活躍が目覚ましかった、という評価だと思うのですが。

しかし、「也」を「なり」と読みたければ、「可きなり」となる。すると、「シ」の送り仮名と合わなくなる。「なり」は読まなくてもよい。今回は読まない。
@yiyushui さんより。この合字「ナリ」でなかったでしたっけ。
調べました。https://benricho.org/kana/wa.html より。

いちばん右に似ていますね。不勉強が痛々しくてすみません。


初め、帝 陰かに死士三千を養ひて、人間に散在せしめ、

和刻本は「散在人間」が分かりにくくて、「人間(じんかん)」を「たみのあひだ」とルビを振っているように見えるが、「散在」がよく分かりません。和刻本から離れて、「サンザイせしめ」と読んでも意味が取れるので、大問題には発展しないのですが。

「散じ在(お)く」と読むそうです。

是に至るや一朝にして集(あつ)む。

あつめるの意味で「あつむ」と読みましたが、和刻本は送り仮名が「ル」なので、「いたる」と読んでいるのかも。

眾 出づる所を知るもの莫きなり。事 平らぎて、功を以て長平鄉侯に封ぜられ、食邑は千戶、尋(つ)いで衞將軍を加へらる。宣帝の薨ずるに及び、議者 咸 「伊尹 既に卒して、伊陟 事を嗣ぐと」云ひ、

伊尹から伊陟に継承された故事は、出典を示したい。経書(儒家経典)から引くのが正しいのですが、便宜的に済ますならば、『史記』が網羅的で便利です。
『史記』巻三 殷本紀に「帝太戊立伊陟為相」とあり、『史記集解』に「孔安國曰、伊陟、伊尹之子」とある。孔安国が実際に書いた(と言ってよい)のか、準備不足で答えられませんが、『史記集解』にこのようにあるのは事実なので、お茶を濁すことができます。掘り下げる余地、おおいにありです。
司馬懿-司馬師の役割継承の意義とか正当性、それが伊尹に仮託されたこと。論じるべきテーマですが、順序としては、表面的な翻訳を目指しています。

天子 帝に命じて撫軍大將軍を以て政を輔(たす)けしむ。

『晋書斠注』に目を配る

今回は、長平郷侯のところに注釈が付いています。
『魏志』三少帝紀 注引『魏書』によると、「大将軍・武陽侯たる臣師」が名を連ねている上奏文がある。

嘉平六(二五四)年、曹芳を廃位するとき、「羣臣共為奏永寧宮曰」として連盟で、皇太后に文書を提出したときの署名です。

(潘眉が編纂した)『三国志攷證』巻二によると、『魏書』に出てくるのは司馬師のこと。『晋書』景帝紀によると、はじめ長平郷侯に封じられ、嘉平四年、大将軍に遷ったとする。

あとで出てきます。

ところが景帝紀には、進んで武陽侯に封じられたという文がない。この上奏に従い、武陽侯に封建されたという経歴を補うべきであると。(潘眉の指摘は続き)この年の三月、九千戸を増邑され、以前のものと合わせて四万戸になったという。

『晋書』景帝紀で、正元元(二五四)年三月のこととある。嘉平六年=正元元年なので、「この年の」と書いてある。

つまり、増邑される直前に、すでに三万一千戸を保有していたことであり、郷侯ではないことは明らかである。

郷侯のままで、食邑31,000戸をもつのは不自然という、潘眉の指摘。

ここまでが、『晋書斠注』です。

関心が発火してしまったので、『三国志集解』三少帝紀を見る。
潘眉によると、「大将軍・武陽侯たる臣師」は司馬師のこと……と、『晋書斠注』と同じく、潘眉の指摘を引用したのち、盧弼のコメントがつく。
盧弼曰く、「武陽」は「舞陽」に作るべきである。司馬懿が、舞陽侯に封建され、司馬師が爵位を嗣いだからである。『三国志』陳留王紀の咸煕元年五月癸未に、「追命舞陽宣文侯為晋宣王、舞陽忠武侯為晋景王」とある。『資治通鑑』もまた、舞陽忠武侯司馬師が許昌に卒したとある。潘眉は誤りであると。

ぼくなりに、盧弼の指摘をなぞってみましょう。
司馬師が、長平郷侯のあと、さらに上位の封建を受けたことは、潘眉のいうとおりでしょうと。どうやら、『晋書』景帝紀には、書きモレが疑われる。
発展させて潘眉は、『魏志』三少帝紀にひく『魏書』に基づき、「武陽侯」への封建記事を補うべきとする。これに対して盧弼は、景帝紀の書きモレは支持しながらも、『魏書』の「武陽」は「舞陽」の誤りであるとし、潘眉の後半部分を退けている。

注釈を作ってゆく

調べると、『晋書』巻十四 地理志上 豫州に、襄城郡に属する県として「舞陽」をあげ、「宣帝始封此邑」とする。盧弼の指摘と、整合性がとれる。
盧弼に却下されたので、調べる必要はないが、『晋書』巻十四 地理志上 益州に、犍為郡に属する県として「武陽」があるが、関係ないだろう。司馬師との関わりは書かれていないし、益州は関係なさそう。

盧弼を支持し、景帝紀を整理するならば、
司馬師は、249年、曹爽の討伐に成功し、長平郷侯となった。251年、父司馬懿の死を受けて、武陽侯を継承した。爵位の父子継承は、特異な出来事ではないから、わざわざ景帝紀が書かなかった……かも知れない(笑)
司馬懿が死んだのは、251年で、司馬師が「武陽(正しくは舞陽)」として上奏文に登場するのは、254年である。先後の整合性は取れている。

以上が検討の経緯ですが、注釈を長々と書いてもジャマなので、簡潔を旨として、文を作ってみましょう。
『三国志』巻四 斉王芳紀 嘉平六(二五四)年に引く『魏書』に、「大将軍・武陽侯臣師」と見え、潘眉『三国志攷證』によると、これは司馬師のことである。ただし、盧弼『三国志集解』によると、『魏書』に見える「武陽」は、「舞陽」に改められるべきである。舞陽は、『晋書』巻十四 地理志上 豫州によると、襄城郡に属する県である。
……という注釈ができた。これは、長平郷侯そのものへの説明ではないので、ひと工夫が必要ですね。下で完成品を載せます。
ちなみに、『解體晉書』は、この爵位の問題に触れていません。

司馬懿の死の表記について

『晋書斠注』は、もう1つあり、『廿二史考異』十八によると、皇帝ならざる司馬懿・司馬師・司馬昭の死を、「崩」とするか、「薨」とするかに触れていますが、よくある話ですし、書き換えがあったとしても検証不能なので、注釈を付けません。

完成品

◆訓読
宣帝の將に曹爽を誅せんとするや、深謀祕策、獨り帝とのみ潛(ひそ)かに畫し、文帝 之を知ること弗きなり。將に發せんとし夕(ゆふ)に乃ち之を告ぐ。既にして人をして之を覘(うかが)はしめば、 帝 寢(ぬ)ること常の如く、而るに文帝 席を安んずること能はず。晨(あした)に兵を司馬門に會するに、內外を鎮靜し、陣を置くこと甚だ整ふ。 宣帝曰く、「此の子 竟に可(よ)きなり」と。 初め、帝 陰かに死士三千を養ひて、人間に散(さん)じ在(お)き、是に至り一朝にして集(あつ)む。眾 出づる所を知るもの莫きなり。事 平らぎて、功を以て長平鄉侯に封ぜられ〔一〕、食邑は千戶、尋(つ)いで衞將軍を加へらる。宣帝の薨ずるに及び、議者 咸 「伊尹 既に卒して、伊陟 事を嗣ぐと」云ひ、天子 帝に命じて撫軍大將軍を以て政を輔(たす)けしむ。

◆注釈
〔一〕司馬師の爵位の変遷について、『晋書斠注』に指摘がある。『三国志』巻四 斉王芳紀 嘉平六(二五四)年に引く『魏書』に、「大将軍・武陽侯臣師」と見え、潘眉『三国志攷證』によると、これは司馬師のことである。ただし、盧弼『三国志集解』によると、『魏書』に見える「武陽」は、「舞陽」に改められるべきである。舞陽は、『晋書』巻十四 地理志上 豫州によると、襄城郡に属する県。司馬懿がここに封建され、かれが死ぬと(二五一年)、司馬師が爵位を継承したと考えられる。司馬師が舞陽県侯であったことは、『三国志』陳留王紀 咸煕元年五月の文からも確認できる。

◆現代語訳
宣帝が曹爽を誅殺しようとしたが、熟慮の秘策は、ひそかに景帝とだけ検討し、文帝には知らされなかった。いざ決行するときは(宣帝が二子に対し)前夜にこれを告知した。

『解體晉書』は、司馬昭(だけ)が直前に知らされた、としている。しかしそれだと、あらかじめ計画を知っていた司馬師が、余裕を見せていたことは当然でしょう?となってしまい、司馬師のスゴサが表現できない。この文は、司馬師のスゴサ(司馬昭との違い)を見せつけたいはず。
ぼくは、司馬懿が「明日やる」と決行を伝えたことが、司馬師・司馬昭の両方にとってショッキングであり、しかし司馬師は落ち着いていた…と解釈しました。
師は、計画があることは知っていたが、いつかを決めるのは懿の専権事項。司馬師も、タイミングまでは知らなかった。いざタイミングを知らされても、平然としていたと。師が驚ける(驚き得る)余地がないと、逸話として成り立たない。

知らせてから(宣帝が)ひとをやって偵察させると、景帝は普段どおり眠っていたが、文帝は落ち着いていられなかった。翌朝に兵を司馬門に集合させると、(景帝は)内外(の兵)を鎮静し、完全に整列させていた。宣帝は、「この子は思いがけず優れていたな」と言った。これより先、景帝はひそかに死士三千人を養って、民間に散らして紛れこませ、ここに至り(決行を知らされると)一夜にして集合させた。兵衆がどこから出てきたか分かる者はいなかった。事変がかたづくと、功績によって長平郷侯に封建され、食邑千戸をあたえられ、さらに衛将軍を加えられた。宣帝が薨去すると、議者がみな「伊尹が死去すると、(子の)伊陟が事業を嗣いだ」と述べたので、天子は(故事に基づいて)景帝に命じて撫軍大将軍として輔政させた。

おまけのツイート(感想)

『解體晉書』景帝紀は2002年に上がっており、ぼくもこの訳文によって第一印象を形成したんですが、なんか変なんです。15年来、引っ掛かってました。
曹爽を殺す直前の逸話について。司馬師は余裕で寝て、司馬昭は落ち着かない。でも、師は計画段階から相談され、昭は直前に知ったのだから、反応の差は当然だし、師のすごさを示す逸話なのか?と。

今回読んで、司馬懿が「明日だ」と決行を伝えたことが、兄弟両方にとってショックであり、しかし師は落ち着いていた…という逸話だと考えるようになりました。
タイミイングは懿の専権事項。いざ決行を告げられても、平然としていてすごいと。師が驚ける(驚き得る)余地がないといけない。どうでしょうか。

司馬懿は曹爽誅殺の成功確率を上げるため、前夜に突然、二子に決行を告げた。司馬師は死士を散らしていたが、集合命令だけを出し、自分はさっさと安眠した。死士は、たった一夜で見事に詰めかけ、完全な陣を作った。だれにも居場所がつかめない人々にモレなく短期間で伝達し、軍として仕上げたことがすごい。準備の周到さと迅速さが、父を驚かせた…という逸話かと。200307

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4.嘉平四年・五年

その1

◆原文
魏嘉平四年春正月、遷大將軍、加侍中、持節・都督中外諸軍・錄尚書事。命百官舉賢才、明少長、卹窮獨、理廢滯。
◆校勘:なし
◆訓読
魏の嘉平四年、春正月、大將軍に遷り、侍中・持節・都督中外諸軍・錄尚書事を加へらる。百官に命じて賢才を舉げ、少長を明らかにし、窮獨に卹(めぐ)み、廢滯を理(をさ)めしむ〔一〕。

「廃滞」を正史で用例を見つけることが難しく、字義どおりだと、廃棄されたもの、打ち捨てられたもの。『解體晉書』は「長い間用いられていなかった賢人を用いた」とするが、人材登用に限った話ではなく、社会福祉政策だと思われる。放置され、リクルートがモレている賢人というのは、意味を読み過ぎでは。
「理」は「をさ-む」、責任をもって治めること。


◆注釈
〔一〕『北堂書鈔』巻五十九に引く王隠『晋書』に、当該時期のこととして、「司馬景王為撫軍大將軍・持節・都督中外諸軍・錄尚書事、上初揔萬機、正身平法、朝政肅然」とある。

『晋書斠注』より。そのとおりなので、注釈を挟む。『北堂書鈔』のテキストは、『中國哲學書電子化計劃』より。
https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=303895


◆現代語訳
魏の嘉平四(二五二)年、春正月、大將軍に遷り、侍中・持節・都督中外諸軍・錄尚書事を加えられた。百官に命じて賢才を挙げ、長幼(年齢による秩序)を明らかにし、貧窮者や独身者を救済し、廃棄され放置されているものを把握して管理させた。

その2

◆原文
諸葛誕・毌丘儉・王昶・陳泰・胡遵都督四方、王基・州泰・鄧艾・石苞典州郡、盧毓・李豐掌選舉、傅嘏・虞松參計謀、鍾會・夏侯玄・王肅・陳本・孟康・趙酆・張緝預朝議。四海傾注、朝野肅然。或有請改易制度者、帝曰、不識不知、順帝之則、詩人之美也。三祖典制、所宜遵奉。自非軍事、不得妄有改革。
◆校勘:なし
◆訓読と注釈
諸葛誕・毌丘儉・

『晋書斠注』によると、『羣書拾補』によれば、「諸葛誕」の字の上に「於是」二字の脱落がある。→どうでもいいので注釈に拾わず。
次に『晋書斠注』は、毌丘氏の姓について説明がある。→興味と異なるので省く。

王昶・陳泰・胡遵は四方を都督し、

ここから、誰々は……をし、誰々は……をし、という役割分担の話なので、主語を並列して対比するため、主語に、和刻本にない「は」を追加した。

王基・州泰・鄧艾・石苞は州郡を典(つかさど)り、盧毓・李豐は選舉を掌(つかさど)り、

『晋書斠注』は、盧毓・李豊が『三国志』のどこに記載があるかを紹介している。固有名詞の注釈は、ひとまず付けていないので、省く。つぎの傅嘏・虞松も同じ。

傅嘏・虞松は計謀に參(あづか)り、

和刻本は「参」に送り仮名なし。係わりあう、加わる、参加するという意味で、「あづか-る」という用法がある。

鍾會・夏侯玄・王肅・陳本・孟康・趙酆・張緝は朝議に預る。四海 傾注し、朝野 肅然たり。

「朝野肅然」は、上の注釈で引いた、『北堂書鈔』所引 王隠『晋書』に見える「朝政肅然」に通じる。

或(ある)ひとの制度を改易せんと請ふ者有るに、帝曰く、「識らず知らず、帝の則に順(したが)ふことは、詩人の美なり〔二〕。三祖の典制、宜しく遵奉すべき所なり。自(も)し軍事に非ずんば、妄(みだ)りに改革すること有るを得ず」と。

「自」に「ンハ」という送り仮名があり、『漢辞海』によると、「自非…」で「もシ…ニあらザレバ」とある。あらずんば、あらざれば、は同じなので、「んば」で読みました。


◆注釈
〔二〕『毛詩』大雅 文王之什に「不識不知、順帝之則」とあり、出典である。

『全訳三国志』許慈伝の補注(二)に、毛詩は、『詩経』毛伝のこと。他の三伝が今文であることに対して、古文であった。鄭玄が箋をつけたことで尊重され、現在まで伝わったとある。


◆現代語訳
諸葛誕・毌丘儉・王昶・陳泰・胡遵は四方を都督し、王基・州泰・鄧艾・石苞は州郡を統治し、盧毓・李豐は人材登用と配置を担当し、傅嘏・虞松は(国家運営の)計略に参画し、鍾會・夏侯玄・王肅・陳本・孟康・趙酆・張緝は朝廷での議論に参預した。天下全土から(国力や人材が)集約され、官界も在野も粛然となった。

『解體晉書』は、「天下が〔司馬師を〕敬慕して、官民ともに乱れはなかった」とする。四海(天下全体)が傾注するというのは、ぼくの訳語のような意味だと思います。司馬師は、敬慕されていた(そういう事実があった/晋書の編者がそう思っていた)かも知れないが、景帝紀には、書いていないと思います。
そうそうたる人材を列挙して「傾注」ぶりを示したのでしょう。
「朝野」の訳語に苦戦していますが、要するに、朝廷の内外を問わず、魏王朝のALLが、司馬師の政権に協力したということ。「官民」としてしまうと、「民」というのが、被支配層のことに見えてしまいますが、晋書はそこまでは言っていないと思います。在野にひそんだ支配階級、官僚予備群までを指しているのでは。

あるひとが(魏王朝の)制度の変更を提案したが、景帝は、「知らず知らずのうちに、帝王の規範に沿っているのは、『詩経』が賛美していることである。三祖(武帝・文帝・明帝)が定めた制度は、尊んで従うべきものである。もし(臨機応変が必要な)軍事に係わることでなければ、軽々しく変更してはならない」と言った。

完成品

◆原文
魏嘉平四年春正月、遷大將軍、加侍中、持節・都督中外諸軍・錄尚書事。命百官舉賢才、明少長、卹窮獨、理廢滯。諸葛誕・毌丘儉・王昶・陳泰・胡遵都督四方、王基・州泰・鄧艾・石苞典州郡、盧毓・李豐掌選舉、傅嘏・虞松參計謀、鍾會・夏侯玄・王肅・陳本・孟康・趙酆・張緝預朝議。四海傾注、朝野肅然。或有請改易制度者、帝曰、不識不知、順帝之則、詩人之美也。三祖典制、所宜遵奉。自非軍事、不得妄有改革。
◆校勘:なし
◆訓読
魏の嘉平四年、春正月、大將軍に遷り、侍中・持節・都督中外諸軍・錄尚書事を加へらる。百官に命じて賢才を舉げ、少長を明らかにし、窮獨に卹(めぐ)み、廢滯を理(をさ)めしむ〔一〕。諸葛誕・毌丘儉・王昶・陳泰・胡遵は四方を都督し、王基・州泰・鄧艾・石苞は州郡を典(つかさど)り、盧毓・李豐は選舉を掌(つかさど)り、傅嘏・虞松は計謀に參(あづか)り、鍾會・夏侯玄・王肅・陳本・孟康・趙酆・張緝は朝議に預る。四海 傾注し、朝野 肅然たり。或(ある)ひとの制度を改易せんと請ふ者有るに、帝曰く、「識らず知らず、帝の則に順(したが)ふことは、詩人の美なり〔二〕。三祖の典制、宜しく遵奉すべき所なり。自(も)し軍事に非ずんば、妄(みだ)りに改革すること有るを得ず」と。

◆注釈
〔一〕『北堂書鈔』巻五十九に引く王隠『晋書』に、この時期のこととして、「司馬景王為撫軍大將軍・持節・都督中外諸軍・錄尚書事、上初揔萬機、正身平法、朝政肅然」とある。
〔二〕『毛詩』大雅 文王之什に「不識不知、順帝之則」とあり、出典である。

◆現代語訳
魏の嘉平四(二五二)年、春正月、大將軍に遷り、侍中・持節・都督中外諸軍・錄尚書事を加えられた。百官に命じて賢才を挙げ、長幼(年齢による秩序)を明らかにし、貧窮者や独身者を救済し、打ち捨てられて顧みられぬものを把握して管理させた。諸葛誕・毌丘儉・王昶・陳泰・胡遵は四方を都督し、王基・州泰・鄧艾・石苞は州郡を統治し、盧毓・李豐は人材登用と配置を担当し、傅嘏・虞松は(国家運営の)計略に参画し、鍾會・夏侯玄・王肅・陳本・孟康・趙酆・張緝は朝廷での議論に参預した。天下全土から(国力や人材が)集約され、官界も在野も粛然となった。あるひとが(魏王朝の)制度変更を提案したが、景帝は、「知らず知らずのうちに、帝王の規範にかなっているのは、『詩経』が賛美していることである。三祖(武帝・文帝・明帝)が定めた制度は、尊んで従うべきものである。(臨機応変が必要な)軍事に係わることでない限り、軽々しく変更してはならない」と言った。

ペースが上がってきたので、プロセス省略してゆきます。



嘉平五(二五三)年

◆原文
五年夏五月、吳太傅諸葛恪圍新城、朝議慮其分兵以寇淮・泗、欲戍諸水口。帝曰、諸葛恪新得政於吳、欲徼一時之利、并兵合肥、以冀萬一、不暇復為青徐患也。且水口非一、多戍則用兵眾、少戍則不足以禦寇。恪果并力合肥、卒如所度。帝於是使鎮東將軍毌丘儉・揚州刺史文欽等距之。儉・欽請戰、帝曰、恪卷甲深入、投兵死地、其鋒未易當。且新城小而固、攻之未可拔。」遂命諸將高壘以弊之。相持數月、恪攻城力屈、死傷太半。帝乃敕欽督銳卒趨合榆、要其歸路、儉帥諸將以為後繼。恪懼而遁、欽逆擊、大破之、斬首萬餘級。
◆校勘:なし
◆訓読
五年夏五月、吳の太傅たる諸葛恪 新城を圍むや、朝議 其の兵を分けて以て淮泗を寇せんことを慮り、

『漢辞海』によると、「慮」の「おもんぱか-る」には、心配する、憂うの意味がある。

諸々の水口を戍(まも)らんと欲す。帝曰く、「諸葛恪 新たに政を吳に得、一時の利を徼(もと)めんと欲し、兵を合肥に并(あは)せて、以て萬一を冀(こひねが)ひ、復た青徐の患と為るに暇(いとま)あらざるなり。

「暇」は「いとま-あり」で、何かをするゆとりがある、時間的に可能である。

且つ水口は一に非ず、戍(まも)りを多くするときは則ち兵を用ふること眾(おほ)く、戍りを少なくするときは則ち以て寇を禦ぐに足らず」と。恪 果たして力を合肥に并(あは)せ、卒(つひ)に度する所の如し。

「卒」は「つひ-に」で、結局は。

帝 是に於いて鎮東將軍の毌丘儉・揚州刺史の文欽等をして之を距(ふせ)がしむ。儉・欽 戰はんと請ふに、帝曰く、「恪 卷甲して深く入り、

「巻甲」で、ヨロイを巻く。軽装ですばやく行動すること。『孫子』軍争篇に見えるという。「巻」は、「ま-く」と「をさ-む」と読める。和刻本は「甲を巻き」と開いているが、熟語としておく。つぎにある「死地」も『孫子』より。

兵を死地に投じ〔一〕、其の鋒 未だ當たること易からず。且つ新城 小さけれども固し、之を攻むるとも未だ拔く可からず」と。遂に諸將に命じ壘を高くして以て之を弊(つか)れしむ。

和刻本は「弊」に「カス」とある。宿題。

相ひ持すること數月、恪 城を攻むるも力は屈し、

「屈す」は、尽きるという意味がある。

死傷すること太半なり。帝 乃ち欽に敕して銳卒を督して合榆に趨(おもむ)き、其の歸路を要(むか)へ、

和刻本は「要」に「シ」とある。音読みにせよとあるので、「よう-し」でいいか。意味は、帰り道に待ち伏せさせた。

儉をして諸將を帥ゐて以て後繼を為さしむ。恪 懼れて遁ぐるや、欽 逆(むか)ひ擊ちて、大いに之を破り、首を斬ること萬餘級なり。

◆注釈
〔一〕巻甲は『孫子』軍争篇にみえ、死地は『孫子』九地篇にみえる。

◆翻訳
(嘉平)五(二五三)年夏五月、吳の太傅である諸葛恪が(合肥)新城を包囲すると、朝廷では(恪が)その兵を分けて淮水・泗水一帯を侵略することを懸念し、各地の河口を防衛せよという議論がおきた。

『解體晉書』は「諸水口」を「川のほとりにあるそれぞれの関所」とする。「口」は、川の合流点だと考えます。

景帝は、「諸葛恪は新たに呉で政権を獲得し、短期的な利益を求め、兵を合肥に集約して、(ここを一点突破するという)万に一つの賭けに出ており、

『解體晉書』は「万に一つの幸運を願っても」とあり、だれが何を願っているのか、訳文が分からなかった。諸葛恪が、合肥新城に兵を集め、ラッキーで城を抜けることに賭けている。とぼくは解釈しました。

さらに(兵を回して)青州や徐州を脅かすほどの余力はない。しかも河口は一箇所ではないから、守兵を増やそうとすれば大量の人数が必要となり、(兵力が分散して)守兵が少なくなれば敵軍を防ぐには不足する」と言った。諸葛恪は果たして全兵力を合肥に集中し、結局は(景帝が)分析した通りとなった。ここにおいて景帝は鎮東將軍の毌丘儉・揚州刺史の文欽らにこれを防がせた。毌丘倹・文欽が交戦を求めたが、景帝は、「恪は甲(よろい)を巻いて(軽装ですばやく動いて)深入りし、兵を死地に投じており、その士気が高いのでまだ対処しづらい。しかも新城は小さいが堅固であり、これを攻めてもまだ抜けないだろう」と言った。こうして諸将に命じて土塁を高くして(守りに徹し)敵軍を疲弊させた。攻防は数ヶ月におよび、恪は城を攻めたが力尽き、死傷者が大半となった。すかさず

「乃ち」は、その途端に、即座に。

景帝は文欽に命じて精兵を督して合榆に赴き、敵軍の帰路で待ち受けさせ、毌丘倹には諸将をひきいて(文欽の)後続を務めさせた。諸葛恪が懼れて逃げると、文欽は迎え撃って、おおいにこれを破り、一万餘の首を斬った。

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5.正元元年(=嘉平六年)

段落1

◆本文
正元元年春正月、天子與中書令李豐・后父光祿大夫張緝・黃門監蘇鑠・永寧署令樂敦・宂從僕射劉寶賢(一)等謀以太常夏侯玄代帝輔政。帝密知之、使舍人王羨以車迎豐。豐見迫、隨羨而至、帝數之。豐知禍及、因肆惡言。帝怒、遣勇士以刀鐶築殺之。逮捕玄・緝等、皆夷三族。
◆校勘
(一)『三国志』巻九 諸夏侯曹 夏侯玄伝・『資治通鑑』巻七十六は、「劉賢」に作る。
◆訓読
正元元年春正月〔一〕、天子 中書令の李豐・后の父たる光祿大夫の張緝・黃門監の蘇鑠・永寧署令の樂敦・宂從僕射の劉寶賢等と與(とも)に太常の夏侯玄を以て帝に代へて輔政せしめんと謀る。帝 密かに之を知り、舍人の王羨をして車を以て豐を迎へしむ。豐 迫られ、羨に隨ひて至るに、帝 之を數(せ)む。豐 禍の及ぶを知り、因りて惡言を肆(はな)つ。帝 怒りて、遣勇士をして刀鐶〔二〕を以て之を築(つ)き殺さしむ。玄・緝らを逮捕し、皆 夷三族とす。

「築」は「つ-く」で、打撃すること。
「夷三族」は、和刻本では「三族を夷(たい)らぐ」とあるが、術語なので開かない。

◆注釈
〔一〕嘉平六年十月、正元と改元された。この記事は春のことなので、まだ年号は嘉平である。この出来事は、『三国志』巻四 斉王芳紀では二月とし、『晋書』巻十三 天文志下に、「正元元年……二月、李豐及弟翼・后父張緝等謀亂、事泄、悉誅」とあるため、正月とする景帝紀の誤りが疑われる。
〔二〕刀鐶は刀環に通じ、刀の頭(柄の先端)に付いた輪。「刀鐶」は『晋書』では、巻百九 慕容翰載記・巻百二十七 慕容徳載記にも見える。
◆現代語訳
正元元年春正月、天子(曹芳)は中書令の李豊・皇后の父である光祿大夫の張緝・黃門監の蘇鑠・永寧署令の樂敦・宂從僕射の劉寶賢らとともに太常の夏侯玄を(担ぎ上げて)景帝に代えて輔政をさせようと計画した。景帝はひそかにこれを知り、舍人の王羨に馬車で李豊を迎えにゆかせた。李豊は脅されて、王羨に連れてこられると、景帝はかれを追及した。李豊は禍いが及んだ(計画が知られた)ことを悟り、遠慮なく悪言を浴びせた。景帝は怒って、勇士に刀環でかれを打ち殺させた。夏侯玄・張緝らを逮捕し、いずれも夷三族とした。

段落2

◆原文
三月、乃諷天子廢皇后張氏、因下詔曰、姦臣李豐等靖譖庸回、陰構凶慝。大將軍糾虔天刑、致之誅辟。周勃之克呂氏、霍光之擒上官、曷以過之。其增邑九千戶、并前四萬。帝讓不受。
◆校勘:なし
◆訓読
三月、乃ち天子に皇后張氏を廢せんことを諷し、

和刻本と読み順を変えてますが、「諷して……廃し」とすると既成事実のように見えてしまい、「諷して……廃せしめんとし」だと冗長に感じたので。
「諷」は、遠回しに言ってすすめる。「さと-す」と読める。和刻本は、読みの指定はなく、「ふう-す」と「さと-す」のどちらかは不明。しかし、「ふう-す」が好き。

因りて詔を下して曰く、「姦臣李豐等 譖を靖(はか)りて回なるを庸(もち)ゐ〔一〕、

和刻本は「靖」に「ミシ」か「ミレ」の送り仮名。宿題。
「回」は形容詞で心がよこしまなさま(姦回の用法)がある。うまい訓読みがないので、和刻本も「かい-なる」で逃げている。
「庸」は和刻本は「庸し」とするが、「もち-ゐる」のほうがよい。
読みにくいなと思ったら、案の定、出典ありでした。『春秋左氏伝』岩波文庫 小倉芳彦訳に「讒言を撒きちらし徒党を組んで」とあるので、借用します。

陰かに凶慝を構ふ。大將軍 虔(つつし)みて天刑を糾し〔二〕、 之を誅辟に致す。周勃が呂氏に克ち〔三〕、霍光が上官を擒ふ〔四〕は、曷(いづく)んぞ以て之に過ぎんか。其れ邑九千戶を增し、前を并はせて四萬とす」と。帝 讓りて受けず。
◆注釈
〔一〕『春秋左氏伝』文公 伝十八年に「靖譖庸回」とあり、出典である。
〔二〕『国語』魯語下に「司載糾虔天刑」とあり、出典である。
〔三〕周勃は、前漢の臣。外戚の呂氏を排除した。
〔四〕霍光は、前漢の臣。外戚の上官傑を排除した。
◆現代語訳
三月、(景帝が)天子に皇后張氏の廃位を勧めると、詔が下され、「姦臣の李豊らは讒言をまき散らして徒党を組み、ひそかに凶悪なことを計画した。大将軍がつつしんで天の刑罰を行い、かれら全員を誅殺した。周勃が呂氏に勝ち、霍光が上官氏を捕らえたことですら、これを上回るものではない(今回の誅殺のほうが、前漢の先例よりも優れた処置であった)。そこで食邑九千戸を増やし、既存のものと合計して四萬戸とする」と言った。景帝は辞退して受けなかった。

段落3

◆原文
天子以玄・緝之誅、深不自安。而帝亦慮難作、潛謀廢立、乃密諷魏永寧太后。秋九月甲戌、太后下令曰、皇帝春秋已長、不親萬機、耽淫內寵、沈嫚女德、日近倡優、縱其醜虐、迎六宮家人留止內房、毀人倫之敘、亂男女之節。又為羣小所迫、將危社稷、不可承奉宗廟。帝召羣臣會議、流涕曰、太后令如是、諸君其如王室何。咸曰、伊尹放太甲以寧殷、霍光廢昌邑以安漢。權定社稷、以清四海。二代行之於古、明公當之於今、今日之事、惟命是從。帝曰、諸君見望者重、安敢避之。乃與羣公卿士共奏太后曰、臣聞天子者、所以濟育羣生、永安萬國。皇帝春秋已長、未親萬機、日使小優郭懷・袁信等裸袒淫戲。又於廣望觀下作遼東妖婦、道路行人莫不掩目。清商令令狐景諫帝、帝燒鐵炙(一)之。太后遭合陽君喪、帝嬉樂自若。清商丞龐熙諫帝、帝弗聽。太后還北宮、殺張美人、帝甚恚望。熙諫、帝怒、復以彈彈熙。每文書入、帝不省視。太后令帝在式乾殿講學、帝又不從。不可以承天序。臣請依漢霍光故事、收皇帝璽綬、以齊王歸藩。奏可、於是有司以太牢策告宗廟、王就乘輿副車、羣臣從至西掖門。帝泣曰、先臣受歷世殊遇、先帝臨崩、託以遺詔。臣復忝重任、不能獻可替否。羣公卿士、遠惟舊典、為社稷深計、寧負聖躬、使宗廟血食。於是使使者持節衞送、舍河內之重門、誅郭懷・袁信等。
◆校勘
(一)中華書局本は「灸」に作る。
◆訓読
天子 玄・緝が誅せらるを以て、深く自ら安ぜず。而して帝も亦 難の作(お)こることを慮り、潛かに廢立を謀り、乃ち密かに魏の永寧太后に諷す。秋九月甲戌、太后 令を下して曰く、「皇帝の春秋 已に長じて、萬機を親らせず、

「みづか-らす」という読みがあるが、「しん-せず」でもいいか。

淫して內寵に耽り、嫚して女德に沈み、日に倡優に近づき、其の醜虐を縱にし、六宮の家人を迎へて內房に留止し、人倫の敘を毀ち、男女の節を亂す。又 羣小の迫る所と為り、將に社稷を危ふくせんとし、宗廟を承奉す可からず」と。帝 羣臣を會議に召し、流涕して曰く、「太后の令 是の如し、諸君 其れ王室を如何せん」と。咸曰く、「伊尹は太甲を放ちて以て殷を寧んじ、霍光 昌邑を廢して以て漢を安んず。權もて社稷を定め、以て四海を清す。二代 之を古に行ひ、明公 之を今に當たる。

和刻本は「当」に「ことはる」とルビ+送り仮名を付ける。

今日の事、惟だ命あらば是れ從はん」と。帝曰く、「諸君 望まるることは重し、安ぞ敢えて之を避けんか」と。乃ち羣公卿士〔一〕と共に太后に奏して曰く、「臣聞く天子なるものは、羣生を濟育し、萬國を永安する所以なり。皇帝の春秋 已に長ずるとも、未だ萬機を親せず、日に小優の郭懷・袁信等をして裸袒し淫戲せしむ。又 廣望觀下に於いて遼東の妖婦と作し〔二〕、道路の行人 掩目せざる莫し。清商令の令狐景 帝を諫むるも、帝 鐵を燒にて之に炙す。太后 合陽君〔三〕の喪に遭ふも、帝 嬉樂として自若たり。清商丞の龐熙 帝を諫むるも、帝 聽かず。太后 北宮に還り、張美人を殺すや、帝 甚だ恚望す。

和刻本は「恚望」を「うらみうらむ」とする。

熙 諫むるや、帝 怒り、復た彈を以て熙を彈ず。

『解體晉書』の注釈が言い尽くしている。以下引用。
『三国志』魏書第四「斉王紀」注に引かれている『魏書』によると、龐煕が諌めたのは張美人の件ではなく、「お側付きの家来と天子が手を繋ぐのは穏当ではない」という別件だとされている。また、「またも龐煕をはじきでお撃ちなさり」というのは、『魏書』ではこれ以前に曹芳が令孤景をはじきで撃ったことが記されており、それをうけてのことと思われる。『晋書』に記されるときに、令孤景の件だけが削られ「またも」の部分が残ったため、このような文章になったのだろう。引用終わり。

文書 入るる每に、帝 省視せず。太后 帝に令して式乾殿に在りて講學せしめども、帝 又 從はず。以て天序を承く可からず。臣 請ふらくは漢の霍光が故事に依り、皇帝の璽綬を收めて、齊王たるを以て歸藩せしめんことを」と。奏可し、是に於いて有司 太牢を以て策を宗廟に告げ、王 乘輿の副車に就きて、羣臣 從ひて西掖門に至る。帝 泣いて曰く、「先に臣 歷世の殊遇を受け、先帝 崩に臨みて、遺詔を以て託せらる。臣 復た重任を忝くするも、能く可を獻じ否に替へず。

熟語なので無理に訓読しなくてもよいか。よいものを勧進し、悪いものと交換すること。

羣公卿士、遠く舊典を惟みて、社稷の為に深計し、寧ろ聖躬に負(そむ)くとも、宗廟をして血食せしめん」と。是に於いて使者をして持節して衞送せしめ、河內の重門に舍(を)り、

『三国志』斉王芳紀に「営斉王宮於河内重門、制度皆如藩国之礼」とある。藩王として河内に重門を建造してもらい、そこで生活した。

郭懷・袁信等を誅す。
◆注釈
〔一〕一連の文は、『三国志』斉王芳紀 注引『魏書』が節略されたもの。『魏書』には、司馬孚を筆頭とした、三公九卿以下の連名が掲載されている。
〔二〕ちくま学芸文庫の訳は「遼東の妖婦のかっこうをさせて」とし、その内容を「不詳」としている。
〔三〕合陽君は、皇太后の母である杜氏。郃陽君。
◆翻訳
天子は夏侯玄・張緝が誅殺されたので、ひどく不安になった。そして景帝もまた政変が起こることを心配し、ひそかに皇帝廃立を画策し、ひそかに魏の永寧太后(明帝の郭皇后)にほのめかした。秋九月甲戌、太后は令を下して、「皇帝(曹芳)はすでに成年に達しているが、親政することなく、お気に入りの婦人におぼれ、みだりに女色にふけり、日々役者を引き入れ、その醜悪な戯れをほしいままにし、後宮女官の親族を迎え入れて宮殿内部に留めおき、ひとの倫理をこわし、男女の節度を乱している。またつまらぬ者どもに感化され、もはや社稷を絶やそうとしており、宗廟を継承する資格を持たない」と言った。

ちくま学芸文庫『三国志』の翻訳を参考にした。
『晋書』翻訳を学者が出版しない理由の1つに、スタンド・アローン(単独で役に立つ)ものでないことがある。司馬師が曹芳を廃位する記事は、裴松之注を含む『三国志』の節略です。『三国志』にないもの、違う箇所を探すのは『晋書』研究にはなるが、史実探究には無用な感じ。史実を知りたければ、間違いなく『三国志』を見たほうがいいんです。
ただし、たまたま景帝紀の当該部分がそうというだけで、『晋書』全体が無用であるはずがないし、これら事情を分かったうえでも、現代語訳を完成させ、興味をもったひとが、『晋書』にはどんなことが書いてあるのか、見通しを得やすくしよう!というのが、正史『晋書』完訳プロジェクトなのです。

景帝は群臣を会議に召し、涙を流して、「太后の令はこの通りだが、諸君よ王室をどうしたものか」と言った。みな、「伊尹は太甲を放逐して殷王朝を安寧にし、霍光は昌邑王を廃位して漢王朝を安泰にしました。かりの措置で社稷を安定させ、四海を清めたのです。古くは二王朝(殷・漢)がこれを行い、現代は明公が同じ局面に当たっておられます。今日のことは、ただ命令があれば従います」と言った。景帝は、「諸君の期待は高い、どうして避けようか」と言った。こうして群公卿士とともに太后に上奏し、「臣が聞きますに天子というのは、衆民を養育し、万国を永続させるものです。(ところが)皇帝は年齢がすでに成人に達しても、まだ親政をならさず、日々つまらぬ役者の郭懐・袁信らを裸にして戯れさせています。また広望観のもとで遼東の妖婦をまね、道行くひとは目を覆わぬものはありません。清商令の令狐景が皇帝を諫めても、皇帝は鉄を熱してかれに焼き付けました。太后が(実母)合陽君を亡くされたときも、皇帝は嬉々として普段どおりでした。清商丞の龐熙が皇帝を諫めても、皇帝は聞きません。太后が北宮に還り、張美人を殺すと、皇帝は怨恨を抱きました。龐熙が諫めると、皇帝は怒り、しかも弾丸でかれを撃ちました。文書が提出されようとも、皇帝は閲覧しません。太后は皇帝に式乾殿で講学させようとしましたが、皇帝は従いません。天の秩序を受ける(帝位におる)資格がありません。臣らは請願します、前漢の霍光の故事に依拠し、皇帝の璽綬を取りあげ、斉王として封国に帰らせんことを」と言った。上奏が認可されると、担当官が太牢をそなえて命令書を宗廟に報告し、斉王(曹芳)は乗輿の副車に乗り、群臣は随従して西掖門に至った。景帝は泣いて、「かつて臣(司馬氏)は累代の厚遇を受け、先帝(曹叡)が崩御する際、遺詔により(後事を)託された。臣もまた重要な任を承ったが、悪しき状況を変えられなかった。群公卿士よ、遠く旧典を参照し、社稷のためによく考え、たとえ皇帝個人にそむこうとも、宗廟祭祀を永続させてゆこう」と言った。ここにおいて使者に持節して護送させ、(斉王を)河内の重門に居住させ、郭懐・袁信らを誅した。

段落4

◆原文
是日、與羣臣議所立。帝曰、方今宇宙未清、二虜爭衡、四海之主、惟在賢哲。彭城王據、太祖之子、以賢、則仁聖明允、以年、則皇室之長。天位至重、不得其才、不足以寧濟六合。乃與羣公奏太后。太后以彭城王先帝諸父、於昭穆之序為不次、則烈祖之世永無承嗣。東海定王、明帝之弟、欲立其子高貴鄉公髦。帝固爭不獲、乃從太后令、遣使迎高貴鄉公於元城而立之、改元曰正元。天子受璽惰、舉趾高、帝聞而憂之。及將大會、帝訓於天子曰、夫聖王重始、正本敬初、古人所慎也。明當大會、萬眾瞻穆穆之容、公卿聽玉振之音。詩云、示人不佻、是則是效。易曰、出其言善、則千里之外應之。雖禮儀周備、猶宜加之以祗恪、以副四海顒顒式仰。
◆校勘:なし
◆訓読
是の日、羣臣と立つる所を議す。帝曰く、「方今 宇宙は未だ清からず、二虜 衡を爭ひ、四海の主、惟だ賢哲在るべし。彭城王據、太祖の子なり、賢を以てせば、則ち仁聖明允たり、年を以てせば、則ち皇室の長なり。天位は至重なり、其の才を得ずんば、以て六合を寧濟するに足らず」と。乃ち羣公と與に太后に奏す。太后 彭城王は先帝の諸父たるを以て、昭穆の序に於いて不次と為り、

「次」は「つい-づ」で、順序に並べる、序列を決める。和刻本はレ点を付けているので「ついでざるとなり」となるのでしょうが、へんなので「不次」で読んでしまいます。

則ち烈祖の世 永(とこし)へに承嗣無し。東海定王は、明帝の弟なり、其の子たる高貴鄉公髦を立てんと欲す。帝 固く不獲を爭ひ、

和刻本は、不獲にレ点を付けている。「獲ざる」か。ダメなこと。あえて開かず。

乃ち太后の令に從ひ、使を遣はして高貴鄉公を元城に迎へしめて之を立て、改元して正元と曰ふ。天子 璽を受くるも惰(おこ)たり、

和刻本は「堕」に作り「をとし」とする。璽を落っことしたと。採らず。

舉趾は高く〔一〕、帝 聞きて之を憂ふ。

ぼくは思う。高貴郷公曹髦は、『三国志』では即位当初は慎み深く、期待をあおる書き方がされており、その最期はドラマチックな印象。『晋書』景帝紀では、最初から傲慢でうっかり者で、司馬師が反対したにも拘わらず即位してしまう。司馬氏がかれを殺害することは、「だから言ったでしょ」という伏線回収ていど。もちろん作為によるもの。

將に大會せんとするに及び、帝 天子に訓じて曰く、「夫れ聖王は始めを重んじ、本を正し初を敬ふは、古人の慎む所なり。明に大會に當たり、萬眾 穆穆の容を瞻(み)、公卿 玉振の音を聽く。詩に云はく、人に示すこと佻(かろ)からず、是れ則ち是れ效す〔二〕。易に曰く、其の言を出すこと善なれば、則ち千里の外も之に應ず〔三〕と。禮儀 周備すると雖も、猶ほ宜しく祗恪を以て之に加へ、以て四海の顒顒として式仰するに副ふべし」と。
◆注釈
〔一〕『春秋左氏伝』桓公 伝十三年に「莫敖必敗、舉趾高、心不固矣」とあり、出典である。莫敖がつま先を高くあげて(反り返り)、慎重さに欠くといった。
〔二〕『毛詩』小雅 鹿鳴之什に「視民不恌。君子是則是傚」とあり、出典である。
〔三〕『周易』繋辞上伝に「子曰、君子居其室。出其言善、則千里之外應之」とあり、出典である。

景帝紀と文節の区切りが異なるが、岩波文庫の訳によると、君子がじぶんの部屋にいて言葉を出した場合、その言葉が善ければ、千里の外にある人もこれに感応する。

◆翻訳
この日、群臣とともに立てるべき人物を議論した。景帝は、「方今この世界はまだ騒がしく、二虜(呉と蜀)が権勢を競っているから、天下の主(魏帝)は、もっぱら賢哲な人物でなければならない。彭城王の曹據は、太祖(武帝)の子であり、賢さでは、仁聖明允(最高評価)であり、年齢では、皇室の最年長である。帝位はきわめて重く、かれの才覚でなければ、天下を平穏にできない」と言った。そこで群公とともに太后に上奏した。太后は彭城王が先帝の親世代であり、世代の序列が逆転するため、烈祖(明帝)の系統が永久に途絶えてしまう(と思った)。東海定王ならば、明帝の弟であり、その子である高貴郷公の曹髦を立てたいと考えた。景帝は強く反対したが、太后の令に従い、使者を派遣して高貴郷公を元城に迎えに行かせてこれを立て、正元と改元した。天子(曹髦)は璽を受け取ったが気が緩み、つま先を高くあげた(慎重さに欠けた)ため、景帝は聞いてこれを憂慮した。 いざ群臣と一堂に会するとき、景帝は天子を諭し、「そもそも聖王は始めを重んじ、もとを正して初めを敬うものであり、(この教えは)古人が守ってきたことです。明日は群臣と面会しますが、百官は麗しい顔を仰ぎ見、公卿は美しい声に耳を立てています。『詩』に、『ひとに示すことは軽くなく、これを実行する』とあります。『易』に、『その発言が優れていれば、千里の外からで呼応する』といいます。礼義を完全に備えた上で、さらに慎み深くし、四海からの敬慕と期待に応えなさい」と言った。

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