蜀漢 > カネ勘定の三国志小説『李厳伝』を構想する

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第1回:南陽の郡吏、劉表の配下として

『三国志集解』李厳伝は、3年前にやってます。
孔明に敗戦の責任をなすられた李厳伝

今回は、柿沼陽平『劉備と諸葛亮_カネ勘定の『三国志』』(文春新書、二〇一八)を歴史小説にしようとする試みです。
「カネ勘定の『三国志』」を歴史小説にするなら、李厳が主人公が適任か。劉表のもとで郡県を歴任し、曹操と接触、劉璋に成都令に任命され、劉備に重用され、越嶲夷の高定と戦い、「独裁者」諸葛亮を牽制して「嵌め」られた。
まず、李厳伝を整理するところから始めたい。

李厳の年齢=165年頃の生まれか

キャラを作るために、李厳の年齢を定めたい。

@GiShinNanBoku 魏晋南北ブログさんはいう。数値があるのは楊戯伝(季漢輔臣賛)の費観との年齢差ぐらいでしょうか?費観は享年と死んだ凡その時期が分かるので、足がかりにはなります。


楊戯伝 附『季漢輔臣賛』より、費観伝:

賛費賓伯、賓伯、名観、江夏鄳人也。劉璋母、観之族姑。璋又以女、妻観。観、建安十八年參李厳軍、拒先主於緜竹。与厳俱降。先主既定益州、拝為裨将軍、後為巴郡太守、江州都督。建興元年封都亭侯、加振威将軍。観為人、善於交接。都護李厳、性自矜高、護軍輔匡等年位与厳相次、而厳不与親褻。観、年少厳二十餘歳、而与厳通狎如時輩云。年三十七卒。失其行事、故不為伝。

費観は、江夏郡の人。劉璋の母は、費観のおば(同族の一世代上)。劉璋は、娘を費観にめとらせた。

費禕と同族。どのタイミングで益州に行ったか確認。

費観は、建安十八(213)年、李厳の軍に参じ、劉備を緜竹でふせぐ。李厳とともに降伏。劉備が益州を定めると、裨将軍となり、のちに巴郡太守、江州都督。
建興元(223)年、都亭侯に封じられ、振威将軍を加えられた。
費観の人となりは、ひととの交際がうまい。都護の李厳は、プライドが高い。護軍の輔匡らは、年位が李厳に次いだが、李厳はなれあわず。
費観は、李厳よりも二十余歳も若いが、李厳は同輩のように打ちとけた。費観は、三十七歳で死んだ。

費観の極官は、223年の任命。任命直後に死んだとして、もっとも生年を遅く見積もると、223年に37歳だから、187年生。李厳が、もっとも若いと想定した費観より、20歳年長とすると、167年生まれ。費観が、極官に到達してから生きた年数が延びると、李厳の生年が遅くなる。年齢差である「二十余歳」の「余」を延ばすと、李厳の生年が早くなる。綱引きさせて、165年生まれくらいか。劉備が161年生まれだから、少し下。234年に死んだとすると、李厳の享年は70歳。おかしくはない。


『季漢輔臣賛』より、李厳のすぐ下の年位の輔匡伝:

賛輔元弼、劉南和、輔元弼、名匡、襄陽人也。随先主入蜀。益州既定、為巴郡太守。建興中、徙鎮南、為右将軍、封中郷侯。

輔匡は、あざなを元弼という。襄陽の人。劉備に随って入蜀し、益州が定まると、(巴郡)〔巴東〕太守となった。

銭大昕によると、巴郡は巴東に作るべき。『華陽国志』によると、南郡の輔匡は、巴東太守になったという。ぼくは思う。襄陽郡を作ったのは曹操だから、南郡に作るほうがよいか。

建興期(223-227)、鎮南(将軍?)に徙され、右将軍となり、中郷侯となった。

李厳よりも、年位がすぐ下の輔匡。だが、年齢は分からず。


輔匡伝は参考になりませんでしたが、李厳が、165年頃の生まれとして、話を進めます。

南陽郡の郡吏として

李厳伝は、「少爲郡職吏、以才幹稱。荊州牧劉表、使歷諸郡縣」とある。若いときに郡府に出資し、才覚を評価された。賄賂の通じない、厳格な人柄だったとか。
記述順序から、劉表が荊州牧になるより前に、南陽郡に仕えたと分かる。上の仮定で、165年生まれとすると、184年に二十歳となり、出仕しうる。
黄巾の乱のとき、南陽が戦場になるが、そこに参加できる。しかし、あんまり遡ると話がのびる。

『後漢書』董卓伝によると、董卓が郡士を抜擢したなかに、潁川の張咨(李賢注によると『献帝春秋』は張資に作る)がいた。これが、初平元年以前の記事だから、189年のことと分かる。

潁川張氏は、宦官の張譲がいるが、関係は不明。

李厳は、190年に孫堅に殺された、南陽太守の張咨(潁川の人)に、黄巾の乱後に登用されたところから描こう。

張咨の前任の南陽太守は誰か。184年の黄巾の乱のとき、南陽太守の秦頡が出てくる。しかし秦頡は、186年に死んだようで、すると、186年~189年がブランクになる。

張咨は、孫堅への協力を惜しんだから、殺された。州にも匹敵するほど豊かな南陽郡を「戦いの原資」とすることについて、張咨と孫堅の対立に、李厳を立ち会わせることができる。

比至南陽,眾數萬人。南陽太守張咨聞軍至,晏然自若。

英雄記曰:咨字子議,潁川人,亦知名。
獻帝春秋曰:袁術表堅假中郎將。堅到南陽,移檄太守請軍糧。咨以問綱紀,綱紀曰:「堅鄰郡二千石,不應調發。」咨遂不與。

孫堅伝によると、孫堅は数万で南陽に到達した。張咨は、孫堅軍の到達をきいても、晏然自若としていた。
孫堅伝 注引『献帝春秋』によると、袁術は孫堅を仮中郎将とした。孫堅は南陽に至ると、太守に檄を移し、軍糧の供出を求めた。張咨が(部下の)綱紀に質問すると、綱紀は、「孫堅は隣郡の二千石(長沙太守)です。調発に応じる必要はありません」と言った。張咨は、ついに孫堅に供出しなかった。

堅以牛酒禮咨,咨明日亦答詣堅。酒酣,長沙主簿入白堅:「前移南陽,而道路不治,軍資不具,請收主簿推問意故。」咨大懼欲去,兵陳四周不得出。有頃,主簿複入白堅:「南陽太守稽停義兵,使賊不時討,請收出案軍法從事。」便牽咨於軍門斬之。郡中震栗,無求不獲。

吳曆曰:初堅至南陽,咨既不給軍糧,又不肯見堅。堅欲進兵,恐有後患,乃詐得急疾,舉軍震惶,迎呼巫醫,禱祀山川。遣所親人說咨,言病困,欲以兵付咨。咨聞之,心利其兵,即將步騎五六百人詣營省堅。堅臥與相見。無何,卒然而起,按劍罵咨,遂執斬之。此語與本傳不同。

孫堅伝によると、孫堅は牛酒をもうけて張咨と会談した。長沙の主簿が、「南陽は、道路を修繕せず、軍糧を供給しません。南陽の主簿を問い詰めよう」と孫堅に提案した。張咨は怖れたが、逃げられない。張咨は、孫堅に斬られた。
孫堅伝 注引『呉歴』によると、張咨は孫堅に会おうともしない。孫堅は、後患となるのを怖れた。仮病をつかって、「張咨に兵を預けたい」といって呼び出し、ベッドから起きて殺した。孫堅伝と異なると。

名前が見えないが、南陽の主簿を李厳に設定したら、歴史小説として好ましい。「史料にないが、史料と矛盾しない」という逸話です。南陽郡を、自軍の供給基地にしたい孫堅と、それに抵抗する南陽太守たち。
孫堅に制圧されたことで、袁術の収入源になってしまう。南陽郡から見れば、「ブラック」の第一歩です。

@daradara3594 さんはいう。零陵先賢伝によれば、劉巴の父の劉祥は江夏太守・盪寇将軍の官にあり、張咨を殺害して南陽を制圧した孫堅の協力者だった。その為に彼を恨む南陽の士大夫と民衆らが挙兵し、劉祥は敗死に追い込まれた。協力者の劉祥すらこの有様だから、主犯の武烈様への南陽人士の恨みはいかばかりか。司馬彪の戦略に出てくる、劉表が荊州入部時に討伐したという、襄陽を占拠していた江夏の賊張虎、陳生。たぶん江夏太守劉祥の部将だったんでは。劉祥をぶっ殺した「南陽の士民」たち。あっさりした記述でも、実態は馬超を追放した天水四姓のような前漢以来の名家だったり、功曹やら歴任して千人ぐらいの手勢を抱えてる強面な連中なんだろう。そういう人々を五十人37564にした劉表さんコワイ。


劉表のもとで、郡県を歴任

着任したばかりの劉表と、袁術との対立は、「荊州の財政優先」の劉表と、「荊州は兵站基地」の袁術として、分析できる。李厳は、劉表のほうに味方したはず。

兵站基地から、容赦なく軍糧を取り立てる袁術。豊かな荊州だから、一時的には袁術の搾取に耐えられるが、徐々にファンダメンタルズが崩れていく。のちの諸葛亮の益州統治のうまさを引き立てるため、袁術は、ノープランに振る舞ってもらいましょう。

李厳伝は、「諸郡県」を歴任したとある。故郷の南陽郡から出て、太守を任されたのだろうか。劉表政権の支配の浸透と、劉表が皇帝を気取るところに付きあった李厳。劉表政権による、州内完結の財政を描くことができる。

劉表と劉焉・劉璋は、緊張関係にある。いっぽうで、益州と荊州の貿易のようなものも、描けるかも知れない。
曹操が建安十三年、荊州を降伏させたとき、劉璋は曹操に使者を送っている。境界線の秭帰にいる李厳は、この動きに巻きこまれただろう。ここまでが、李厳のお話の序盤です。180527

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予備考察:中平期の南陽太守の変遷

南陽太守は、186年に秦頡が江夏の賊に殺され(『范書』霊帝紀)、189年に董卓が張咨を任命して(『范書』董卓伝)、その張咨が直後に孫堅に殺されてます。186年~189年(中平三~六年)のあいだの南陽太守が誰だったか、史料から埋まりますか。

これに対して、『魏晋南北ブログ』さまに、教えていただきました。

@GiShinNanBoku さんはいう。『後漢書』羊続伝によると、秦頡の後任の南陽太守は羊続であり、189年まで在任していたようです。また、英雄記(公孫瓚伝注)では劉虞が太尉を譲ろうとする際に推薦した人物に「南陽太守羊續」がいることから、霊帝が死ぬ前後まで在任していたと思われます。

さらに、おさっちさんに、教えていただきました。

@osacchi_basstrb さんはいう。厳耕望「両漢太守刺史表」によると、羊続と張咨の間に灌恂と公孫慶という人物が南陽太守とされています。応劭「風俗通義」の過譽編・汝南陳茂君因に灌恂が、同じく十反編・宗正劉祖奉に公孫慶が出てきますが、それらの中の登場人物が正史で見つからず私は正しいのかよく分かりません…。風俗通義の翻訳をされている道家春代さんの論文へのリンクを張っておきます。
過誉編(上) http://hdl.handle.net/2237/26449
十反編(中) http://hdl.handle.net/2237/26473


そういうわけで、李厳が本貫の南陽郡に仕えていたときの上司として、
秦頡→羊続→張咨が考えられますが、
羊続と張咨のあいだに、灌恂・公孫慶なる人物が挟まるか、検討してみました。

南陽太守の灌恂の就官時期

応劭『風俗通義』過誉篇によると、汝南の陳茂(字は君因)が荊州刺史となったとき、南陽太守が灌恂であったという。
厳耕望「両漢太守刺史表」によると、霊帝末期の南陽太守として、羊続と張咨のあいだに灌恂が見えるという。いったい灌恂は、羊続の後任であり、張咨の前任と考えるべきなのでしょうか。

頼りになるのは、灌恂が登場する『風俗通義』のみ。
灌恂の伝記が未詳であるため、ヒントとすべきは、『風俗通義』の逸話でセットに出てくる、荊州刺史の陳茂です。

『范書』霊帝紀によると、中平三(186)年二月、南陽太守の秦頡が江夏の趙慈に殺され、同年六月、荊州刺史王敏(王叡と同一人物か?)が趙慈を斬る。中平四(187)年、孫堅が零陵・桂陽を平定した。荊州刺史の王叡は、零陵・桂陽を孫堅とともに平定している(『陳志』孫堅伝 注引『王氏譜』)。
王叡の刺史着任は、もしも王敏と同一人物であれば、遅くとも中平三年六月までに完了している。もしも王敏と別人であり、王敏→王叡という、王氏のあいだのバトンタッチがあれば、着任は中平三年秋~中平四年。
『范書』羊続伝によると、中平三年、趙慈が南陽太守の秦頡を殺すと、羊続が南陽太守となり、荊州刺史の王敏とともに趙慈を討伐という。羊続は、その中平三年から中平六年まで、南陽太守であり続けた。

中平三年の荊州刺史は王敏(『范書』霊帝紀・羊続伝)、中平四年の荊州刺史は王叡(『陳志』孫堅伝 注引『王氏譜』)で確定。その王叡は、中平六年か初平元年、孫堅に殺された。王敏と王叡が、同一人物か否かに拘わらず、『風俗通義』の伝える荊州刺史の陳茂の着任を、この期間に挟むのは、むずかしい。

厳耕望が羊続と張咨のあいだの南陽太守として、灌恂を置くという。灌恂は『風俗通義』で、荊州刺史の陳茂を迎えている(既述)。
だが中平三年、羊続が南陽太守になったとき、荊州刺史は王敏であり、羊続は中平六年まで南陽太守から動いてくれない。羊続の任期は、王敏(交替があったなら途中から王叡)と重複している。灌恂・陳茂が挟まる余地がない。
厳耕望は、『風俗通義』に目を通したものの、灌恂の着任時期を不明とし、便宜的に霊帝末に置いただけと考えられる。

ちょっと、ムリをしてみましょう。
『范書』に中平三年に見える荊州刺史の王敏と、孫堅伝(本文・裴注)で中平四年に見える荊州刺史の王叡を別人と仮定すれば、数ヵ月間だけ、あいだに荊州刺史の陳茂の任期を突っ込めるかも知れない。だが、荊州刺史は、表記のユレに付けこんで、割りこむ余地があっても、この期間に南陽太守の羊続がどいてくれないので、やはりムリだろう。

言わずもがなだが、『范書』でヒットする陳茂は、莽新の人物であり、後漢後期ではない。荊州刺史となり、南陽太守の灌恂と接点をもったという、南陽出身の人ではない。


南陽太守の公孫慶の就官時期

応劭『風俗通義』十反篇によると、(のちに)宗正となる南陽の劉祖(字は奉?)が、(これより先に)薛丞(字は君卓)とともに郡に出仕したとき、太守は公孫慶であったとある。
厳耕望「両漢太守刺史表」は、霊帝末期の南陽太守として、羊続と張咨のあいだに公孫慶を置く。

道家春代氏の『風俗通義』訳注は、劉祖・薛丞・公孫慶を未詳とする。
どのように、時期の検討をすべきか。
劉祖・薛丞は、『風俗通義』所録の美談の結果、孝廉になったとある。
霊帝末期の南陽の孝廉の合格者を網羅的に潰せば、原則として孝廉には人数制限があるから、消去法をつかって、「186年~189年の南陽郡から上がった孝廉は、この2人でない」と言えるだろう。
しかし、人口の多い南陽郡で、孝廉を全員つぶせるとは思えない。
逸話に登場する、「宗正」から攻めるしかないだろう。

劉祖が当該期(186年~189年)よりも後、つまり、霊帝末~献帝期に宗正になっていないと判明すれば、
「宗正の劉祖」の若い頃の逸話として、彼が南陽の郡属曹吏となり、太守の公孫慶に仕えたことを、中平後期に置くことが不可能となる。

背理法です。もしも公孫慶が、羊続と張咨のあいだに南陽太守となっていれば(=公孫慶が太守であったのが、186年~189年であれば)、この期間に孝廉にあげてもらった劉祖は、それより後に、後漢の宗正になっているはず。後漢は220年に終わるから、劉祖が宗正になれるとすれば、189年~220年である。この期間、劉祖が宗正になっていない(べつの人が宗正に就いている)ことが確認できれば、『風俗通義』の逸話は、186年~189年のことと考えることができない。すると公孫慶は、羊続と張咨のあいだの南陽太守ではない。
ただし、孝廉にあがった直後、いきなり宗正(九卿のひとつ)になるとも思えず、190年代前半に宗正になったとは考えにくいか。

189年~220年、劉祖が宗正になっていなければ、羊続・張咨のあいだ(186年~189年)に、公孫慶が割り込めなくなる。この解き方でいきましょう。……なんか、数学の問題を解いているみたいだ。

『范書』劉虞伝によると、中平初(184)以降、張温が辺章を討伐する前(185)、劉虞が宗正となり、張純が叛いた翌年、幽州牧に(188)。
『范書』董卓伝によると、195年の献帝東遷のとき、宗正の劉艾が見え、216年に曹操が魏王になるときも宗正は劉艾。劉虞→劉艾の継承なら、劉祖が挟まる余地がなくなる。
だが劉艾は、『范書』董卓伝に、董卓の長史である劉艾、のちに侍中の劉艾が見え、同名異人かも知れないが、即刻、「188年、劉虞が宗正を辞めた後、すぐ劉艾が宗正を継いだ」とは言えない。劉虞と劉艾のあいだに、誰か挟まった可能性を否定できない。それが劉祖だったことも否定できない。

州牧設置を建言する前、のちの益州牧の劉焉が宗正をやっているが、時期から、劉虞の後任と見ることはむずかしい。


『范書』劉虞伝に、「宗正劉虞為幽州牧、皆以本秩居職」とあるから、宗正の秩をもらいながら、幽州に赴任した。宗正は、劉虞が兼務(とは言わないか)で、中央には不在だったかも知れない。
193年に劉虞が公孫瓚に殺害されたことを知り、長安で侍中の劉艾が任命されたと考えると整合する。劉虞→劉艾が密着すれば、劉祖は挟まらない。
劉虞と劉艾のあいだに、宗正に劉祖が挟まらず、
かつ、曹操を魏王に任命した後で、わざわざ宗正が劉艾→劉祖に交替していなければ(そんな史料は見当たらない)、
劉祖は霊帝末期~献帝期に宗正になっておらず、背理法が成功する。
つまり、『風俗通義』に見える宗正劉祖の逸話(南陽太守が公孫慶だった頃の美談)は、中平期に置くことはできない。霊帝末の南陽太守は、秦頡→羊続→張咨の順で確定できる。

結論:灌恂・公孫慶は、挟まらない

厳耕望「両漢太守刺史表」が、『風俗通義』に見える名を引き、
南陽太守の羊続・張咨のあいだに、灌恂・公孫慶を置いたが、
「霊帝期までの就官者」として仮置きしたと思われる。「少なくとも、献帝期ではない」という、消極的な意味だろう。 中平後期に彼らが在任であったと考えることはできない。秦頡→羊続→張咨は確定。

灌恂・公孫慶は、ご本人の史料は見つけられなかったが、『風俗通義』で彼らの逸話に登場する高官をつぶすことで、消去法により、中平後期に南陽太守になったとは考えられないと判明した。灌恂は荊州刺史、公孫慶は宗正の人事から推定することができた。180528

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