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『「三国志」軍師34選』を読む 8)阮籍、嵇康、杜預
最後の「軍師」は、竹林の七賢から2名が登場。

阮籍
阮籍は母が死んでも、肉と酒を食らった。出棺のとき「だめだ」と呟くと、血を吐いて倒れた。阮籍が不孝を装ったのは、司馬昭が曹髦殺害を「孝」で正当化し、「孝」を濫用したことを、批判するため。

◆典型的な儒将へ
父の阮瑀を、212年に3歳で失った。26歳の曹丕は、母と阮籍のために「寡婦賦」を作ってくれた。建安文学の中にいて、阮籍は3歳にして「曹室派」だった。
阮籍は、儒教を学んだ。父の阮瑀は、司空軍謀祭酒として、国政・軍事の文書を作った。族兄の阮武は『阮子正論』を著し、猛政を指向する思想を作った人。
儒教の中で法刑を重視して、「出ては将、入りては相」の王道を歩んだ。

◆後半生の韜晦
曹爽のとき、司馬懿派の名士・蒋済から、出仕を求められた。曹室派の阮籍にとって、蒋済は敵だ。阮籍は断ったが、一族は蒋済の怒りを怖がった。しぶしぶ阮籍は出仕したが、病気だと言って退いた。
曹爽が、蜀漢遠征を失敗した。政権維持のため、曹爽は専制を強めて、阮籍を招いた。「3歳から曹室派」の阮籍は応じたが、1年足らずで退いた。何晏とは思想が近く、夏侯玄と交友関係があったのだが。

司馬昭が夏侯玄を殺した。
阮籍は司馬昭に通婚を頼まれたが、60日酔いつぶれて、聞こえないふりをした。
名士は、曹操などの君主権力に対して、自律できる。だが同じ名士の司馬氏が権力を持つと、自律しにくくなる。それでも自律性を保つ難業をやったのが、阮籍だった。

◆感想
曹爽政権との関わりに、不明点が残る。
なぜ曹爽より先に、蒋済が声をかけたのか。なぜ何晏と交わらなかったのか。なぜ曹爽への協力を惜しんだか。なぜ曹爽と一緒に誅されず、司馬昭は懐柔しようとしたのか。
史料を読まねばいけませんが、いま言える仮説は「阮籍は、渡邉氏が言うほど、曹室派ではなかったのでは?」だ。父の阮瑀や、族兄の阮武は、曹室派の振る舞いをしただろうが、阮籍その人はどうか。3歳のときの周辺環境は、自力で作れるものじゃないしね。
テーマとして残しておきましょう。
嵇康
文字が消えている環境の方もいらっしゃると思います。ケイ康です。
父の嵇紹は、曹魏の督軍糧侍御史だ。
嵇康は、曹リン(曹操の子)の娘を娶った。曹リンの姉妹は、何晏の妻。つまり嵇康は、曹操・何晏と近しい姻戚だった。

◆「臥龍」だから、殺すべき
262年、嵇康は司隷校尉の鍾会に陥れられた。
「嵇康は臥龍です。毌丘倹を助けようとして、山濤に停められました。勝手な議論で、儒教を批判しています。許してはいけません」
司馬昭は、嵇康を殺した。曹髦が、曹室と縁続きの嵇康とつながり、毌丘倹のように決起したら・・・と思ったのか。
司馬昭が恐れたのは、嵇康の名士としての社会的権威だ。

◆口舌の徒の第一号
嵇康は「声無哀楽論」で、何晏と同じように「舜の無為」を褒めた。
嵇康は何晏を補って、『荘子』の用語と養生思想(不老長寿を求める)を加え、曹魏を正当化した。個人の生き方・教養のレベルまで広げて、玄学を確立した。

261年、嵇康は山濤に「絶交書」を送った。 その中で嵇康は『礼記』をあげて、意見を述べた。曰く、
―― 禅譲が行われた「大同」の時代が終わって、殷周より放伐して王朝が世襲する「小康」の時代がきた。簒奪は簒奪を促す。司馬昭が曹魏を奪うことは、受け入れられない。
と。こんなことを言うから、司馬昭に殺された。
また嵇康は、政治に自己を実現できなかったから、文学と政治を切り離した。自省の文学を始めた。

◆感想
魏末の人間関係は、ほんとうに分かりにくい。誰が味方で誰が敵なんだろう。
分かりにくい原因を挙げてみると・・・
①『三国志』と『晋書』に列伝が散らばって読みにくい、
②『三国志』と『晋書』には、違う史料批判のメスが必要だから、頭の切り替えが大変だし、
③『晋書』を通して読める、和訳本がない、
④戦争ではなく、密室で戦争が決する、
⑤当事者たちが本音を隠して言動する、
⑥さらに竹林の七賢みたいに、狂人を装われるとお手上げだし、
⑦登場人物が学者肌で、言うことが小難しくて、
⑧みんな古典が大好きだから、ぼくが読むべき量も拡散し、
⑨思想論争と派閥抗争・政治的立場が癒着しており、
⑩しかも著作が散逸しまくってる、、、
これは重症だな。
魏末の人物相関図を上手く書けたら、1つの新境地が開けそうな気がする!やるか!自信を持って「三国時代」の範疇だしね。
杜預
あらゆるものが詰まっている例えで「杜武庫」と言われた。

◆長い浪人時代
鍾会の長史だったが、ひとり失脚を免れ、秦始律令を制定し、注解もした。『春秋左氏経伝集解』を書いた。
政治・律令・暦法・経済・軍事・経学と、「博学多通」に何でもやれたのは、長い読書修学期のおかげ。父の杜恕が李豊と親しかったから、36歳まで出仕しなかった。
357年、司馬昭から「妹を娶らないか」と誘われた。雌伏が終わった。

◆杜預の『春秋左氏伝』
家学。祖父の杜畿が、荊州で学んだ。
杜預は、『春秋』という経典で尊重すべき存在を、孔子から周公に変えた。後漢を正当化するための学説である、
「孔子は麒麟に捕まった。孔子は漢の成立を予知し、漢のため『春秋』を著した。孔子は素王(無冠だが真の王)だ」
という設定をボツにした。
孔子を単なる記録官の1人とした。
「孔子は魯の役所で、前任者が残した記録を加工して、『春秋』を仕上げただけ」
とされた。孔子が手心を加える前からある、周公の時代の記録こそ、大切なんだと言った。杜預は、漢と『春秋』の関係を切った。

西晋が長期に安定するには、司馬昭が曹髦を殺したことを、きちんと正当化しておかねばならない。
杜預は『春秋左氏伝』から、無道な君主が殺された例を拾った。
後日談だが、西晋で司馬倫が皇帝を名乗ったとき、司馬頴の軍師である盧志(盧植の曾孫)は、
「司馬倫は無道だから、殺していい」
と言った。杜預が皇帝殺害を正当化したのは、中国を分裂に導く経典解釈だった。

◆感想
杜預も同じで、著作そのものを読まねば、生き様をどうこう論じてはいけない人だ。その点では、関羽や張飛は、目を通すべき文献が少なくて、ファンになる敷居が低い人だ。うっかり、
「ぼくは杜預のファンで」
なんて、話がわかる同士で告白しようものなら、途端に自分の無知を暴露されるでしょう。怖ろしい。
何はともあれ、『春秋左氏伝』は必読だと分かった。
◆読後に思ったこと
まだ蜀呉を見ていませんが、漢魏晋という主流を見られたので、読書メモは終わりです。

漢から離脱して名士が生まれ、魏は名士と対立したが、晋は名士を宥めすかして抱き込んだ。だが名士の毒は、晋の体内に確実に蓄積し、10年ほどで八王の乱が始まる。

八王の乱は、表面上は王同士の衝突だが、参謀として必ず名士が知恵を出してる。名士が、王のお面を被って、殴り合いをやってるような感じ。雰囲気に酔い、もともと名士である司馬氏たちも地金が出て、殴り合いに飛び込む。
4世紀初、名士のみならず、成り上がりを望む暴徒も参戦しますが、それは世の常です。ぼくが八王の乱に渡邉氏の名士論を投影するの反例にはなりません。三国時代だって、先祖不詳でも、武勇1つで名を残した人は多いんだから。

渡邉氏が語る名士のキーワードの1つが「自律性」だ。
元はと言えば、後漢がダメだから、名士の予備群が形成された。じゃあ後漢に代わる王朝が作れば、思考をストップさせて、光武帝に協力した豪族みたいに大人しくなるかと言うと、そうではない。
「意識しろ、覚えろ、考えろ」
を命じることはできるんだが、
「意識するな、忘れろ、考えるな」
を命じることはできない。だから名士は、魏ができても晋ができても、満足せずに理想を追う。「やるな」と言われても、やってしまうのが「自律性」の正体だからね。
「自律性」は「分裂性」とイコールなんだ。

党錮により、後漢を正当化する儒教のロジックが支持されなくなった。このとき壊れたのは、後漢のためのロジックだけではない。
「絶対に信じられる正当性がある」
という考え方の部分から、信じられなくなった。名士の「自律性」が、五胡十六国時代を招いた。頭がよく回ることが幸せとは限らない。
・・・ってそんな結論でいいんだろうか。090705
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このコンテンツの目次
『「三国志」軍師34選』を読む
1)軍師とは何か
2)郭泰と許劭
3)盧植、蔡邕、田豊
4)程昱、許攸、郭嘉、孔融
5)荀彧、呉質、陳羣
6)何晏、鄧艾、鍾会
7)司馬懿、王粛
8)阮籍、嵇康、杜預