いつか読みたい晋書訳

晋書_志第四巻_地理上_1/2

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です;Q&A主催者が翻訳することについて参照。 『晋書』本文に、自注(編纂者が自ら附した注釈)があり、『晋書斠注』では割注、中華書局本では小文字で記載されます。このサイトでは〈山括弧〉で表示します。地理志上は長文に及ぶため、総叙と、司州~寧州にページを分割しました。地理志下はこちら

總敘(総叙)

原文

昔者元胎無象、太素流形、對越在天、以為元首、則記所謂冬居營窟、夏居橧巢、飲血茹毛、未有麻絲者也。及燧人鑽火、庖犧出震、風宗下武、炎胤昌基、畫野無聞、其歸一揆。黃帝則東海南江、登空躡岱、至於崑峯振轡、1.(風)〔崆〕山訪道、存諸汗竹、不可厚誣。高陽任地依神、帝嚳順天行義。東踰蟠木、西濟流沙、北至幽陵、南撫交阯、日月所經、舟車所至、莫匪王臣、不踰茲域。
帝堯時、禹平水土、以為九州。虞舜登庸、厥功彌劭、表提類而分區宇、判山河而考疆域、冀北創并部之名、燕齊起幽營之號、則書所謂肇十有二州、封十有二山者也。夏功在于唐堯、殷因無所損益。周武克商、自豐徂鎬。至成王時、改作禹貢、徐梁入於青雍、冀野析於幽并。職方掌天下之土、以周厥利。保章辯九州之野、皆有分星。東南曰揚州、正南曰荊州、河南曰豫州、正東曰青州、河東曰兗州、正西曰雍州、東北曰幽州、河內曰冀州、正北曰并州。

1.中華書局本に従い、「風」を「崆」に改める。

訓読

昔者 元胎は象無く、太素 形を流し、天に応答して〔一〕、以て元首と為れば、則ち記すに所謂 冬は營窟に居し、夏は橧巢に居し、血を飲みて毛を茹(くら)ひ、未だ麻絲有らざるなり〔二〕。燧人 火を鑽し、庖犧 震に出で、風宗 武を下し、炎胤 基を昌にする〔三〕に及ぶとも、野を畫すること聞く無く、其の一揆に歸す。 黃帝は則ち海に東し江に南し、空に登りて岱を躡み、崑峯に至りて轡(くつわ)を振(むす)び、崆山に道に訪ふるは、汗竹に存諸し、厚誣す可からず〔四〕。 高陽 地に任じ神に依り、帝嚳 天に順ひ義を行ふ。東のかた蟠木を踰み、西のかた流沙を濟り、北のかた幽陵に至り、南のかた交阯を撫し、日月の經る所、舟車の至る所〔五〕、王臣に匪ざるは莫く、茲の域を踰えず。
帝堯の時、禹 水土を平らげ、以て九州と為す。虞舜 登庸せられ、厥の功 彌々劭(たか)く、提類を表して區宇を分け、山河を判じて疆域を考へ、冀北に并部の名を創め、燕齊に幽營の號を起し、則ち書に謂ふ所の十有二州を肇め、十有二山を封ずる者なり〔六〕。 夏の功は唐堯に在り、殷 因りて損益する所無し。周武 商に克ち、豐自り鎬に徂く。成王の時に至り、改めて禹貢を作り、徐梁 青雍に入れ、冀野 幽并に析(わか)つ。
職方は天下の土を掌り、以て厥の利を周(あまね)くす。保章は九州の野を辯じて、皆 分星有り。東南を揚州と曰ひ、正南を荊州と曰ひ、河南を豫州と曰ひ、正東を青州と曰ひ、河東を兗州と曰ひ、正西を雍州と曰ひ、東北を幽州を曰ひ、河內を冀州と曰ひ、正北を并州と曰ふ〔七〕。

〔一〕『詩経』周頌「清廟」に「在天に対越す」とあり、『新釈漢文大系112詩経下』(明治書院、二〇〇〇年)によると「対越」を「対揚」に解し、「天に答える」と訳している。
〔二〕『礼記』礼運篇に「昔者先王、未有宮室。冬則居營窟、夏則居橧巢、未有火化、食草木之實、鳥獸之肉、飲其血、茹其毛、未有麻絲、衣其羽皮」とあり出典。
〔三〕中華書局本は「風」と「炎」を固有名詞に扱う。未詳。
〔四〕黄帝の足取りは、『史記』巻一 五帝本紀にも収められている。
〔五〕『漢書』地理志上に「昔在黃帝、作舟車以濟不通、旁行天下」とあり、踏まえられているか。
〔六〕『尚書』尭典に「肇十有二州、封十有二山、濬川」とあり出典。
〔七〕「職方は…」以降、『周礼』職方氏が主な出典で、『周礼』保章氏への言及もある。

現代語訳

むかし天地の初元には形がなく、原始の物質は形が変転し、天で祭りをおこない、原初の状態が生じたが、これは記録(『礼記』礼運篇)にいう冬は洞窟に住み、夏は樹上に住み、獣の血をすすり毛が付いた生肉を食らい、織物を持たぬ(原始)時代のことである。燧人氏が火を起こし、庖犧氏が震(東方)から現れ、風宗が武を下し、炎胤が生産活動を盛んにしたが、土地を区切ることはなく、一続きであった。 黄帝は東にゆき海におもむき南下して江水をおとずれ、空に登って岱山を踏み、崑峯山に至ると馬を繋いで、崆峒山に行ったが、これは諸々の史書に記録され、疑う余地がない。 高陽氏(顓頊)は各地に人材を任命し神を祭り、帝嚳は天の意向に沿って道義を行った。東方で曲がった木を踏みわけ、西方で流沙を渡り、北方で幽陵に至り、南方で交阯を懐かせ、時間をかけて、船や馬車で巡った地域は、王臣の住まう範囲だけで、外部に出ることはなかった。
帝堯のとき、禹が治水に成功し、九州を定めた。虞舜が登用されると、その功績はますます高く、提案して区画を分け、山河を目印に領域を区切り、冀北に并部の名を作り、燕斉に幽営の号を立て、つまり書物(『尚書』尭典)にあるように十二州を創始し、十二山を封じたのである。 夏(禹)の功績は唐尭の(時代の)もので、これを受けて殷は増減させなかった。周武王が殷に勝つと、豐から鎬に移った。成王の時代になると、改めて『尚書』禹貢を作り、徐州を青州に併せ梁州は雍州に併せ、冀野は幽州と并州に分割した。
(『周礼』によると)職方氏は天下の土地を分掌させ、その物産を網羅した。保章氏は九州に対応する空の領域を論じ、すべてに星座を割り振った。東南を揚州といい、真南を荊州といい、河南を豫州といい、真東を青州といい、河東を兗州といい、真西を雍州といい、東北を幽州をいい、河内を冀州といい、真北を并州といった。

原文

始皇初并天下、懲㣻戰國、削罷列侯、分天下為三十六郡〈三川・河東・南陽・南郡・九江・鄣郡・會稽・潁川・碭郡・泗水・薛郡・東郡・琅邪・齊郡・上谷・漁陽・右北平・遼西・遼東・代郡・鉅鹿・邯鄲・上黨・太原・雲中・九原・雁門・上郡・隴西・北地・漢中・巴郡・蜀郡・黔中・長沙、凡三十五郡、與內史為三十六郡也〉。於是興師踰江、平取百越、又置閩中・南海・桂林・象郡、凡四十郡、郡一守焉。其地則西臨洮而北沙漠、東縈西帶、皆臨大海。
漢祖龍興、革秦之弊、分內史為三部、更置郡國二十有三〈桂陽・江夏・豫章・河內・魏郡・東海・楚國・平原・梁國・定襄・泰山・汝南・淮陽・千乘・東萊・燕國・清河・信都・常山・中山・渤海・廣漢・涿郡、合二十三也。三內史者、河上・渭南・中地也。地理志曰、高祖增二十六、武帝改河上・渭南・中地以為京兆・馮翊・扶風、是為三輔也〉。文增厥九〈廣平・城陽・淄川・濟南・膠西・膠東・河間・廬江・衡山、武帝改衡山曰六安〉。景加其四〈濟北・濟陰・山陽・北海也。宣改濟北曰東平〉。武帝開越攘胡、初置十七〈南海・蒼梧・鬱林・合浦・交阯・九真・日南・珠崖・儋耳九郡、平西南夷置牂柯・越巂・沈黎・汶山・犍為・益州六郡、西置武都郡、又分立零陵郡、合十七郡〉。拓土分疆、又增十四〈弘農・臨淮・西河・朔方・酒泉・陳留・安定・天水・玄菟・樂浪・廣陵・敦煌・武威・張掖〉。昭帝少事、又增其一〈金城也〉。至平帝元始二年、凡新置郡國七十有一、與秦四十、合一百一十有一。改雍曰涼、改梁曰益、又置徐州、復夏舊號、南置交阯、北有朔方、凡為十三部〈涼・益・荊・揚・青・豫・兗・徐・幽・并・冀十一州、交阯・朔方二刺史、合十三部〉。
光武投戈之歲、在彫秏之辰、郡國蕭條、并省者八〈城陽・淄川・高密・膠東・六安・真定・泗水・廣陽〉。建武十一年、省州牧、復為刺史、員十三人、各掌一州。明帝置一〈永昌也〉。章帝置二〈任城・吳郡〉。和順改作、其名有九〈和置濟北・廣陽、順改淮陽為陳、改楚為彭城、濟東為東平、臨淮為下邳、千乘為六安、信都為安平、天水為漢陽〉。省朔方刺史、合之於司隸、凡十三部〈其與西漢不同者、司隸校尉部郡治河南、朔方隸於并部〉。而郡國百有八焉〈省前漢八、分置五、改舊名七、因舊九十六、少前漢三也〉。桓靈頗增於前、復置六郡〈桓高陽・高涼・博陵、靈南安・鄱陽・廬陵〉。
魏武定霸、三方鼎立、生靈版蕩、關洛荒蕪、所置者十二〈新興・樂平・西平・新平・略陽・陰平・帶方・譙・樂陵・章武・南鄉・襄陽〉。所省者七〈上郡・朔方・五原・雲中・定襄・漁陽・廬江〉。而文帝置七〈朝歌・陽平・弋陽・魏興・新城・1.義陽・安豐〉。明及少帝增二〈明上庸也、少平陽也〉。得漢郡者五十四焉。蜀先主於漢建安之間初置郡九〈巴東・巴西・梓潼・江陽・汶山・漢嘉・朱提・宕渠・涪陵〉。後主增二〈雲南・興古〉。得漢郡者十有一焉。吳主大皇帝初置郡五〈臨賀・武昌・珠崖・新安・廬陵南部〉。少帝・景帝各四〈少、臨川・臨海・衡陽・湘東。景、天門・建安・建平・合浦北部〉。歸命侯亦置十有二郡〈始安・始興・邵陵・安成・新昌・武平・九德・吳興・東陽・桂林・滎陽・宜都〉。得漢郡者十有八焉。

1.義陽郡は、この後に省かれたという記述がないにも拘わらず、この巻で後ろに「晋の武帝の太康期にも設置された」という文があり、重複し矛盾している。

訓読

始皇 初めて天下を并はすに、戰國を懲㣻し、列侯を削罷し、天下を分けて三十六郡と為す〈三川・河東・南陽・南郡・九江・鄣郡・會稽・潁川・碭郡・泗水・薛郡・東郡・琅邪・齊郡・上谷・漁陽・右北平・遼西・遼東・代郡・鉅鹿・邯鄲・上黨・太原・雲中・九原・雁門・上郡・隴西・北地・漢中・巴郡・蜀郡・黔中・長沙、凡そ三十五郡、內史と與に三十六郡と為すなり〉。是に於て師を興して江を踰え、百越を平取し、又 閩中・南海・桂林・象郡を置き、凡そ四十郡、郡ごとに一守なり。其の地は則ち臨洮を西にして沙漠を北にし、東縈西帶して、皆 大海を臨む。
漢祖 龍興し、秦の弊を革め、內史を分けて三部と為し、更めて郡國二十有三を置く〈桂陽・江夏・豫章・河內・魏郡・東海・楚國・平原・梁國・定襄・泰山・汝南・淮陽・千乘・東萊・燕國・清河・信都・常山・中山・渤海・廣漢・涿郡、合せて二十三なり。三內史は、河上・渭南・中地なり。地理志に曰く、高祖 二十六を增し、武帝 河上・渭南・中地を改めて以て京兆・馮翊・扶風と為し、是 三輔と為すなり〉。文 厥の九を增す〈廣平・城陽・淄川・濟南・膠西・膠東・河間・廬江・衡山。武帝 衡山を改めて六安と曰ふ〉。景 其の四を加ふ〈濟北・濟陰・山陽・北海なり。宣 濟北を改めて東平と曰ふ〉。武帝 越を開き胡を攘ち、初めて十七を置く〈南海・蒼梧・鬱林・合浦・交阯・九真・日南・珠崖・儋耳九郡、西南夷を平らげて牂柯・越巂・沈黎・汶山・犍為・益州六郡を置き、西のかた武都郡を置き、又 分けて零陵郡を立て、合はせて十七郡なり〉。土を拓き疆を分かち、又 十四を增す〈弘農・臨淮・西河・朔方・酒泉・陳留・安定・天水・玄菟・樂浪・廣陵・敦煌・武威・張掖なり〉。昭帝 少事し、又 其の一を增す〈金城なり〉。平帝の元始二年に至りて、凡そ新に郡國を置くこと七十有一、秦の四十と、合せて一百一十有一なり。雍を改めて涼と曰ひ、梁を改めて益と曰ひ、又 徐州を置き、夏の舊號に復し、南のかた交阯を置き、北のかた朔方有り、凡そ十三部為す〈涼・益・荊・揚・青・豫・兗・徐・幽・并・冀十一州、交阯・朔方二刺史、合せて十三部なり〉。
光武 投戈の歲、彫秏の辰に在りて、郡國 蕭條たり、并省する者は八〈城陽・淄川・高密・膠東・六安・真定・泗水・廣陽なり〉。建武十一年、州牧を省き、復た刺史と為し、員十三人、各 一州を掌る。明帝 一を置く〈永昌なり〉。章帝 二を置く〈任城・吳郡なり〉。和順 改作するは、其の名 九有り〈和 置くは濟北・廣陽、順 淮陽を改めて陳と為し、楚を改めて彭城と為し、濟東を東平と為し、臨淮を下邳と為し、千乘を六安と為し、信都を安平と為し、天水を漢陽と為す〉。朔方刺史を省きて、之を司隸に合はせ、凡そ十三部なり〈其れ西漢と同じからざるは、司隸校尉部の郡治は河南、朔方は并部に隸す〉。而して郡國は百有八なり〈前漢の八を省き、分けて五を置き、舊名を改むるは七、舊に因るは九十六、前漢より三少なし〉。桓靈 頗る前に增し、復た六郡を置く〈桓は高陽・高涼・博陵、靈は南安・鄱陽・廬陵なり〉。
魏武 霸を定め、三方 鼎立し、生靈 版蕩し、關洛 荒蕪するも、置く所の者は十二なり〈新興・樂平・西平・新平・略陽・陰平・帶方・譙・樂陵・章武・南鄉・襄陽なり〉。省く所の者は七なり〈上郡・朔方・五原・雲中・定襄・漁陽・廬江〉。而して文帝 七を置く〈朝歌・陽平・弋陽・魏興・新城・義陽・安豐〉。明及び少帝 二を增す〈明は上庸なり、少は平陽なり〉。漢郡を得る者は五十四なり。蜀の先主 漢の建安の間に於いて初め郡九を置く〈巴東・巴西・梓潼・江陽・汶山・漢嘉・朱提・宕渠・涪陵〉。後主 二を增す〈雲南・興古〉。漢郡を得る者は十有一なり。吳主大皇帝 初めに郡五を置く〈臨賀・武昌・珠崖・新安・廬陵南部〉。少帝・景帝 各々四なり〈少は、臨川・臨海・衡陽・湘東。景は、天門・建安・建平・合浦北部〉。歸命侯 亦 十有二郡を置く〈始安・始興・邵陵・安成・新昌・武平・九德・吳興・東陽・桂林・滎陽・宜都〉。漢郡を得る者は十有八焉なり。

現代語訳

始皇帝が天下を統一し、戦国六国を討伐し、列侯を削って廃止し、天下を分けて三十六郡とした〈三川・河東・南陽・南郡・九江・鄣郡・会稽・潁川・碭郡・泗水・薛郡・東郡・琅邪・斉郡・上谷・漁陽・右北平・遼西・遼東・代郡・鉅鹿・邯鄲・上党・太原・雲中・九原・雁門・上郡・隴西・北地・漢中・巴郡・蜀郡・黔中・長沙、全部で三十五軍であり、内史と合わせて三十六郡とした〉。ここにおいて郡を起こして江水を超え、百越を平定し、さらに閩中・南海・桂林・象郡を置き、全部で四十郡とし、郡ごとに一守を設置した。その領地は臨洮を西端とし、沙漠を北端とし、東西を横断して、大海に接した。
漢祖が帝業を起こすと、秦の弊害を改め、内史を分けて三部とし、更めて郡国二十三を置いた〈桂陽・江夏・豫章・河内・魏郡・東海・楚国・平原・梁国・定襄・泰山・汝南・淮陽・千乗・東萊・燕国・清河・信都・常山・中山・渤海・広漢・涿郡、合計で二十三である。三内史とは、河上・渭南・中地である。『漢書』地理志にいう、高祖が二十六を増やし、武帝が河上・渭南・中地を改めて京兆・馮翊・扶風とし、これを三輔としたと〉。文帝はその九を増した〈広平・城陽・淄川・済南・膠西・膠東・河間・廬江・衡山である。武帝は衡山を改めて六安とした〉。景帝はその四を加えた〈済北・済陰・山陽・北海である。宣帝は済北を改めて東平とした〉。武帝は越地方を開拓し異民族を打ち払い、新たに十七郡を置いた〈南海・蒼梧・鬱林・合浦・交阯・九真・日南・珠崖・儋耳の九郡と、西南夷を平定して牂柯・越巂・沈黎・汶山・犍為・益州という六郡を置き、西方には武都郡を置き、さらに分けて零陵郡を立てたもので、以上合計して十七郡である〉。土地を開墾し境界を分割し、さらに十四郡を増やした〈弘農・臨淮・西河・朔方・酒泉・陳留・安定・天水・玄菟・楽浪・広陵・敦煌・武威・張掖である〉。昭帝がわずかに手を加え、さらに一郡を増した〈金城である〉。平帝の元始二(西暦二)年までに、新設された郡は七十一あり、秦の四十と、合計して百十一である。雍州を改めて涼州とし、梁州を改めて益州とし、さらに徐州を置いて、夏代の旧称にもどし、南方に交阯を置き、北方に朔方があり、全部で十三部であった〈涼・益・荊・揚・青・豫・兗・徐・幽・并・冀の十一州と、交阯・朔方の二刺史、これを足したら十三部である〉。
光武帝が起兵した年は、衰亡の時代であり、郡国は力を失っていたので、省いたり併せたりしたものは八郡である〈城陽・淄川・高密・膠東・六安・真定・泗水・広陽である〉。建武十一(西暦三五)年、州牧を省き、ふたたび刺史に戻し、定員は十三人、それぞれ一州を掌った。明帝が一郡を置いた〈永昌である〉。章帝が二郡を置いた〈任城・呉郡である〉。和帝と順帝が改編し、九郡の名を改めた〈和帝が置いたのは済北・広陽であり、順帝は淮陽を改めて陳とし、楚を改めて彭城とし、済東を東平とし、臨淮を下邳とし、千乗を六安とし、信都を安平とし、天水を漢陽とした〉。朔方刺史を省き、これを司隸に併せ、全部で十三部とした〈そのうち西漢と同じでない点は、司隸校尉部の郡治が河南であり、朔方は并部に属したことである〉。こうして郡国は百八となった〈前漢の八を省き、分けて五を置き、旧名を改めたのは七、旧来から引き継いだのは九十六で、前漢よりも三つ少なかった〉。桓帝と霊帝は大量に追加し、さらに六郡を置いた〈桓帝は高陽・高涼・博陵、霊帝は南安・鄱陽・廬陵を置いた〉。
魏武(曹操)が覇権を確立し、三方に鼎立すると、活力が枯渇し、関洛が荒廃したが、十二を置いた〈新興・楽平・西平・新平・略陽・陰平・帯方・譙・楽陵・章武・南郷・襄陽である〉。省いたのは七である〈上郡・朔方・五原・雲中・定襄・漁陽・廬江である〉。さらに文帝は七を置いた〈朝歌・陽平・弋陽・魏興・新城・義陽・安豊である〉。明帝及び少帝は二を増した〈明帝は上庸を、少帝は平陽を増やした〉。漢代の郡では五十四を獲得した。蜀の先主(劉備)は後漢の建安期に新たに九郡を置いた〈巴東・巴西・梓潼・江陽・汶山・漢嘉・朱提・宕渠・涪陵である〉。後主は二を増した〈雲南・興古である〉。漢代の郡では十一を獲得した。呉主大皇帝(孫権)は郡を五つ置いた〈臨賀・武昌・珠崖・新安・廬陵南部である〉。少帝・景帝はそれぞれ四つずつ置いた。〈少帝は、臨川・臨海・衡陽・湘東である。景帝は、天門・建安・建平・合浦北部である〉。帰命侯もまた十二郡を置いた〈始安・始興・邵陵・安成・新昌・武平・九徳・呉興・東陽・桂林・滎陽・宜都である〉。漢代の郡では十八を獲得した。

原文

晉武帝太康元年、既平孫氏、凡增置郡國二十有三〈滎陽・上洛・頓丘・臨淮・東莞・襄城・汝陰・長廣・廣甯・昌黎・新野・隨郡・陰平・義陽・毗陵・宣城・南康・晉安・寧浦・始平・略陽・樂平・南平〉。省司隸置司州、別立梁・秦・寧・平四州、仍吳之廣州、凡十九州〈司・冀・兗・豫・荊・徐・揚・青・幽・平・并・雍・涼・秦・梁・益・寧・交・廣州〉。郡國一百七十三〈仍吳所置二十五、仍蜀新置十一、仍魏所置二十一、仍漢舊九十三、置二十三〉。
以為冠帶之國、盡有殷周之土。若乃敦龐於天地之始、昭晰於犧農之世、用長黎元、未爭疆埸。而玉環楛矢、夷裘風駕、南翬表貺、東風入律、光乎上德、奚遠弗臻。然則星象麗天、山河紀地、端掖裁其弘敞、崤函判其都邑。仰觀俯察、萬物攸歸。是以洛沚咸陽、宛然秦漢、晉濱河西、同知堯禹、于茲新邑、宅是鎬京。五尺童子皆能口誦者、史官弗之書也。
昔庖犧氏生於成紀、而為天子、都於陳。神農氏都陳、而別營于曲阜。黃帝生於壽丘、而都於涿鹿。少昊始自窮桑、而遷都曲阜。顓頊始自窮桑、而徙邑商丘。高辛即號、建都于亳。孫卿子曰、不登高山、不知天之高。不臨深谿、不知地之厚也。大哉坤象、萬物資生、載崑華而不墜、傾河海而寧泄。考卜惟王、乘飛駐軫、睨𡹮山而鐫勒、覽曾城以為玩。時逢稽浸、道接陵夷、平王東遷、星離豆剖、當塗馭㝢、瓜分鼎立。世祖武皇帝接千祀之餘、當八堯之禪。先王桑梓、罄宇來歸、斯固可得而言者矣。惠皇不虞、中州盡棄、永嘉南度、綸行建鄴、九分天下而有二焉。

訓読

晉武帝の太康元年、既に孫氏を平らげ、凡そ郡國を增置すること二十有三〈滎陽・上洛・頓丘・臨淮・東莞・襄城・汝陰・長廣・廣甯・昌黎・新野・隨郡・陰平・義陽・毗陵・宣城・南康・晉安・寧浦・始平・略陽・樂平・南平なり〉。司隸を省きて司州を置き、別に梁・秦・寧・平四州を立て、吳の廣州に仍り、凡そ十九州〈司・冀・兗・豫・荊・徐・揚・青・幽・平・并・雍・涼・秦・梁・益・寧・交・廣州なり〉。郡國は一百七十三〈吳の置く所の二十五に仍り、蜀の新たに置く十一に仍り、魏の置く所の二十一に仍り、漢の舊九十三に仍り、二十三を置く〉。
以て冠帶の國と為り、盡く殷周の土を有(たも)つ。若し乃ち天地の始を敦龐し、犧農の世に昭晰せば、用て黎元に長じ、未だ疆埸を爭はず。而して玉環楛矢、夷裘風駕、南翬 貺を表し、東風 律に入り、上德を光らせ、奚遠(なん)ぞ臻らざらん。然れば則ち星象 天に麗(つら)なり、山河 地を紀し、端掖 其の弘敞を裁し、崤函 其の都邑を判す。仰觀して俯察し、萬物 歸する攸なり。是を以て洛沚咸陽、秦漢に宛然たり、晉は河西に濱し、知を堯禹に同じくし、茲の新邑に于いて、是の鎬京を宅(いへ)にす。五尺童子も皆 能く口に誦し、史官 之を書かざるなり。
昔 庖犧氏 成紀に生まれて、天子と為り、陳に都す。神農氏 陳に都して、營を曲阜に別く。黃帝 壽丘に生まれて、涿鹿に都す。少昊 窮桑自り始めて、都を曲阜に遷す。顓頊 窮桑自り始めて、邑を商丘に徙す。高辛 號に即き、都を亳に建つ。孫卿子曰く、「高山に登らずんば、天の高きを知らず。深谿に臨まずんば、地の厚きを知らざるなり」と。大なるかな坤象、萬物 資生す、崑華を載せて墜ちず、河海を傾けて寧んぞ泄さん。卜を考れば惟王、飛に乘りて軫を駐め、𡹮山を睨めて鐫勒し、曾城を覽て玩と為す。時に稽浸に逢ひ、道は陵夷に接し、平王 東遷し、星離して豆剖し、當塗の㝢を馭り、瓜分して鼎立す。世祖武皇帝 千祀の餘に接し、八堯の禪に當たる〔一〕。先王 桑梓し、宇を罄(むな)しくするとも來歸す、斯れ固(まこと)に得て言ふ可きなり。惠皇 不虞に、中州 盡く棄て、永嘉に南度し、建鄴に綸行し、天下を九分して二のみを有(たも)てり。

〔一〕八堯は未詳。

現代語訳

晋武帝の太康元(二八〇)年、孫氏の平定を終えると、合計で郡国二十三を増設した〈滎陽・上洛・頓丘・臨淮・東莞・襄城・汝陰・長広・広甯・昌黎・新野・隨郡・陰平・義陽・毗陵・宣城・南康・晋安・寧浦・始平・略陽・楽平・南平である〉。司隸を省いて司州を置き、別に梁・秦・寧・平という四州を立て、呉の広州を引き継ぎ、全部で十九州とした〈司・冀・兗・豫・荊・徐・揚・青・幽・平・并・雍・涼・秦・梁・益・寧・交・広州である〉。郡国は百七十三〈呉の置いた二十五、蜀の置いた十一、魏の置いた二十一をそのまま引き継ぎ、漢代の旧来の九十三を引き継ぎ、(晋が)二十三を新設した〉
こうして礼制の整った国となり、殷周の全域を領有した。もし天地の創始を充足し、伏羲と神農の世を知り尽くせば、万民の統治者となり、領土の争奪は起きない。玉環と楛矢、夷裘と風駕、南翬(各地の名産品)が献上され、東風が折よく吹き、優れた徳を輝かせ、(徳を慕って)到来しないものがなかろうか。そうすれば星の明滅が天につらなり、山河は境界を示し、宮門は敷地を区切り、崤函(崤山と函谷関)は都の位置を確定する。(天を)仰いだり(地を)見下ろしたりして、万物はそこに落ち着くのである。こうして雒陽と咸陽は、秦漢で同じように(都と)なり、晋は河水の西に接したが、知恵は堯と禹と等しく、ここの新邑において、その鎬京に居を構えたのである。五尺の童子ですら皆が暗誦できるから、史官はこれを記録しなかった。
むかし庖犧氏は成紀で生まれ、天子となり、陳を都とした。神農氏は陳を都として、政府を曲阜にも分けた。黄帝は寿丘に生まれ、涿鹿を都とした。少昊は窮桑から出発し、都を曲阜に遷した。顓頊は窮桑から出発し、邑を商丘に移した。高辛は君位につくと、都を亳に建てた。孫卿子(荀氏)は、「高山に登らねば、天の高さが分からぬ。深い谷に臨まねば、地の厚さが分からぬ」と言った。おおいなる大地は、万物を生育し、崑山や華山を乗せても落ちず、黄河や海を傾けても水がこぼれない。占卜によると王者とは、飛ぶような馬車を乗り付け、𡹮山をながめて名を刻み、曾城(仙郷)を見ても慰みとした。時代が下って洪水がおき、道理が衰退すると、周の平王が東遷し、星のように散り散りになり、政権の所在が流浪し、瓜のように分かれて鼎立した。世祖武皇帝は千年の後に世に現れ、八尭のような禅譲を受けた。古代の王者は故郷を守り、家を空けても(必ず)帰還したが、これは明らかなことである。ところが恵皇帝は思いがけず、中原を完全に手放し、永嘉期(三〇七~三一三)に南方に渡り、建鄴に行幸し、天下の九分の二だけを領有することとなった。

原文

昔大禹觀於濁河而受綠字、寰瀛之內、可得而言也。天有七星、地有七表。天有四維、地有四瀆。八紘之外、名為八極。地不足東南、天不足西北。八極之廣、東西二億三萬一千三百里、南北二億三萬一千三百里。自地至天、半八極之數、自下亦如之。昔黃帝令豎亥步自東極、至于西極、五億十萬九千八百八步。史臣案、凡周天積百七萬九百一十三里、徑三十五萬六千九百七十里。所謂南北為經、東西為緯。天有十二次、日月之所躔。地有十二辰、王侯之所國也。或因生得姓、因功命土、祁・酉・燕・齊、在乎茲域。
昔黃帝旁行天下、方制萬里、得百里之國萬區。則周易所謂、首出庶物、萬國咸寧者也。昔在帝堯、叶和萬邦、制八家為鄰、三鄰為朋、三朋為里、五里為邑、十邑為都、十都為師、州十有二師焉。夏后氏東漸于海、西被于流沙、南浮于江、而朔南暨聲教。窮豎亥所步、莫不率俾、會羣臣於塗山、執玉帛者萬國。
於是九州之內、作為五服。天子之國、內五百里甸服、百里賦納總、二百里納銍、三百里納秸服、四百里粟、五百里米。甸服外五百里侯服、百里采、二百里任、三百里候。侯服外五百里綏服、三百里揆文教、二百里奮武衞。綏服外五百里要服、三百里夷、二百里蔡。要服外五百里荒服、三百里蠻、二百里流。訖于四海、弼成五服、五服至于五千里。
夏德中微、遇有窮之亂。少康中興、不失舊物。自孔甲之後、以至于桀、諸侯相兼、其能存者三千餘國、方於塗山、十損其七矣。

訓読

昔 大禹 濁河を觀て綠字を受け、寰瀛の內、得て言ふ可きなり。天に七星有りて、地に七表有り。天に四維有りて、地に四瀆有り。八紘の外、名づけて八極と為す。地は東南に足らず、天は西北に足らず。八極の廣、東西は二億三萬一千三百里、南北は二億三萬一千三百里なり。地自り天に至るまで、八極の數を半し、下自りも亦 之の如し。昔 黃帝 豎亥をして東極より步かしめ、西極まで至り、五億十萬九千八百八步なり。史臣 案ずらく、凡そ周天 積は百七萬九百一十三里、徑は三十五萬六千九百七十里なり。謂ふ所 南北を經と為し、東西を緯と為す。天に十二次有り、日月の躔(めぐ)る所なり。地に十二辰有り、王侯の國とする所なり。或は生に因りて姓を得て、功に因りて土に命ぜらる、祁・酉・燕・齊は、茲の域に在り。
昔 黃帝 天下を旁行し、萬里を方制し、百里の國に萬區を得。則ち周易の謂ふ所、「庶物を首出し、萬國 咸(ことごと)く寧(やす)し」と〔一〕。昔在 帝堯、萬邦を叶和し、八家を制めて鄰と為し、三鄰を朋と為し、三朋を里と為し、五里を邑と為し、十邑を都と為し、十都を師と為し、州ごとに十有二師とす。夏后氏 東のかた海に漸み、西のかた流沙を被り、南のかた江に浮かび、而して朔南 聲教を暨べり。豎亥の步く所を窮め、率俾せざる莫く、羣臣を塗山に會し、玉帛を執る者は萬國なり。
是に於いて九州の內、作りて五服と為す〔二〕。天子の國、內五百里は甸服とし、百里の賦は總を納れ、二百里は銍を納れ、三百里は秸服を納れ、四百里は粟、五百里は米なり。甸服の外 五百里は侯服とし、百里は采、二百里は任、三百里は候なり。侯服の外 五百里は綏服とし、三百里は文教を揆(はか)り、二百里は武衞を奮ふ。綏服の外 五百里は要服とし、三百里は夷、二百里は蔡なり。要服の外 五百里は荒服とし、三百里は蠻、二百里は流なり。四海に訖(いた)るまで、五服を弼成し、五服は五千里に至る。
夏德 中微し、有窮の亂に遇ふ。少康 中興し、舊物を失はず。孔甲自りの後、以て桀に至るまで、諸侯 相兼し、其れ能く存する者 三千餘國、塗山に方ぶるに、十に其の七を損ず。

〔一〕『周易』乾 彖伝に「首出庶物、萬國咸寧」とある。
〔二〕天子の都城を中心とした名称と納税物は、『漢書』地理志上と文の共通点が多く、出典と思われる。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、一九九八年)、永田英正・梅原郁訳『漢書食貨・地理・溝洫志』(東洋文庫、平凡社、一九八八年)を現代語訳の参考にした。

現代語訳

昔 大禹は濁河を見て緑字(河図)を受け、天下の全土を、明白に理解した。天には七星があり、地には七表がある。天には四維があり、地には四瀆がある。八紘の外は、八極と名づけられた。地は東南が欠け、天は西北が欠けている。八極の広さは、東西は二億三万一千三百里、南北は二億三万一千三百里である。地から天までは、八極の距離を半分にし、下からもまた同様である。むかし黄帝は豎亥(神話上の人名)を東の端から、西の端まで歩かせたが、五億十万九千八百八歩であった。史臣が考えますに、周天(天体の一周)は積は百七万九百一十三里、徑は三十五万六千九百七十里である。南北を經といい、東西を緯といっている。天に十二次(星座)があり、日月がめぐる所である。地に十二辰があり、王侯の封じられる国である。あるものは生まれた地名を姓とし、功績によって封土を授かったが、祁・酉・燕・齊は、これに該当する。
むかし黄帝は天下をめぐり、万里の制定し、百里の国に百の区画ができた。『周易』にいう、「聖人が衆庶に抜きん出た地位に就けば、万国はことごとく安寧を得る」である。むかし帝尭は、万邦を和合し、八家の鄰とすることを定め、三鄰を朋とし、三朋を里とし、五里を邑とし、十邑を都とし、十都を師とし、州ごとに十二師があるものとした。夏后氏は東方は海まで進み、西は流沙をかぶり、南は江水に浮き、さらに朔南に教化を及ぼした。豎亥が歩いた全域をおさめ、従属しない者はおらず、群臣を塗山にあつめ、万国の主に玉帛を授けた。
こうして九州の内を、五服とした。天子の国(京師)から、五百里以内を甸服とし、そのうち百里までは稲を藁ごと納め、二百里までは銍(稲穂つきの上部)を納め、三百里までは秸服(未詳、漢書と異なる)を納め、四百里までは粟(もみ、精米の前)、五百里までは米(精米の後)を納めさせた。甸服の外の五百里(京師を去ること五百里から千里)を侯服とし、(その内側)百里は采、二百里は任、三百里は候とした。侯服の外の五百里の地域を綏服とし、(その内側)三百里は王者の文徳と教化をはかりひろめ、(外側)二百里は(天子を守るため)武力を振るわせた。綏服の外の五百里は要服とし、(その内側)三百里は夷が住み、(外側)二百里はその賦を減殺する地域である。要服の外の五百里は荒服とし、(その内側)三百里は蛮が住み、(外側)二百里は罪人を放流する地域である。四方の果てに至るまで、五服を助けて成り立たせ、五服(に含まれる地域は)は五千里先まで至った。
夏王朝は途中で衰微し、有窮氏が反乱した。少康が中興し、前体制を維持した。孔甲から後、桀の時代まで、諸侯は統廃合があり、存続できたのは三千余国であり、塗山(で会同した時点)と比べると、十分の七が損なわれた。

原文

成湯敗桀於焦、遷鼎於亳、伊摯・仲虺之徒、大明憲典。
王者之制爵祿、公侯伯子男凡五等。天子之田方千里、公侯田方百里、伯七十里、子男五十里。不能五十里者、不達於天子、附於諸侯、曰附庸。凡四海之內九州、州方千里。州建百里之國三十、七十里之國六十、五十里之國百有二十、凡二百一十國。名山大澤不以封、其餘以為附庸間田。八州、州二百一十國。天子之縣內、百里之國九、七十里之國二十有一、五十里之國六十有三、凡九十三國。名山大澤不以班、其餘以祿士、以為間田。凡九州、千七百七十三國。天子之元士、諸侯之附庸、不與。天子百里之內以供官、千里之內以為御、千里之外設方伯。五國以為屬、屬有長。十國以為連、連有帥。三十國以為卒、卒有正。二百一十國以為州、州有伯。八州八伯、五十六正、百六十八帥、三百三十六長。八伯各以其屬屬於天子之老二人、分天下為左右、曰二伯。千里之內曰甸、千里之外曰采、曰流。天子使其大夫為三監、監於方伯之國、國三人。天子之縣內諸侯祿也。外諸侯嗣也。
武王歸豐、監於二代、設爵惟五、分土惟三。封同姓五十餘國、周公・康叔建於魯衞、各數百里。太公封於齊、表東海者也。凡一千八百國、布列於五千里內。而太昊・黃帝之後、唐虞侯伯猶存。
大司徒以諸公之地封疆方五百里、其食者半。諸侯之地方四百里、其食者參之一。諸伯之地方三百里、其食者參之一。諸子之地方二百里、其食者四之一。諸男之地方百里、其食者四之一。不易之地家百畝、一易之地家二百畝、再易之地家三百畝。五家為比、使之相保。五比為閭、使之相受。四閭為族、使之相葬。五族為黨、使之相救。五黨為州、使之相賙。五州為鄉、使之相賓。小司徒以五人為伍、五伍為兩、四兩為卒、五卒為旅、五旅為師、五師為軍。以起軍旅、以作田役、以比追胥、以令貢賦。乃經土地而井牧其田野、九夫為井、四井為邑、四邑為丘、四丘為甸、四甸為縣、四縣為都。遺人則十里有廬、廬有飲食。三十里有宿、宿有路室、路室有委。五十里有市、市有候、候有館、館有積。遂人則五家為鄰、五鄰為里、四里為酇、五酇為鄙、五鄙為縣、五縣為遂。大司馬以九畿之籍、施邦國之政。方千里曰國畿、其外方五百里曰侯畿、又其外方五百里曰甸畿、又其外方五百里曰男畿、又其外方五百里曰采畿、又其外方五百里曰衞畿、又其外方五百里曰蠻畿、又其外方五百里曰夷畿、又其外方五百里曰鎮畿、又其外方五百里曰藩畿。〈畿、田限也。自王城以外、面五千里為界、有分限者九也〉。

訓読

成湯 桀を焦に敗り、鼎を亳に遷し、伊摯・仲虺の徒、大いに憲典を明らかにす。
王者の制に爵祿、公侯伯子男 凡そ五等なり。天子の田は方千里、公侯の田は方百里、伯は七十里、子男は五十里なり。五十里なる能はざる者の、天子に達せずして、諸侯に附くを、附庸と曰ふ。凡そ四海の內には九州あり、州は方千里なり。州ごとに百里の國三十を建て、七十里の國は六十、五十里の國は百有二十、凡そ二百一十國なり。名山大澤は以て封ぜず、其の餘は以て附庸間田と為す。八州、州ごとに二百一十國なり。天子の縣內は、百里の國は九、七十里の國は二十有一、五十里の國は六十有三、凡そ九十三國なり。名山大澤は以て班(わか)たず、其の餘は以て士に祿し、以て間田と為す。凡そ九州、千七百七十三國あり。天子の元士、諸侯の附庸は、與(あづか)らず。天子 百里の內 以て官に供し、千里の內 以て御と為し、千里の外に方伯を設く。五國 以て屬と為し、屬に長有り。十國 以て連と為し、連に帥有り。三十國 以て卒と為し、卒に正有り。二百一十國 以て州と為し、州に伯有り。八州に八伯、五十六正、百六十八帥、三百三十六長あり。八伯 各々其の屬を以て天子の老二人に屬し、天下を分ちて左右と為し、二伯と曰ふ。千里の內を甸と曰ひ、千里の外を采と曰ひ、流と曰ふ。天子 其の大夫をして三監と為り、方伯の國を監せしめ、國ごとに三人あり。天子の縣內の諸侯は祿するなり。外の諸侯は嗣ぐなり〔一〕。
武王 豐に歸り、二代に監(かんが)み、爵を設くること惟だ五、土を分くること惟だ三なり。同姓五十餘國を封じ、周公・康叔を魯衞に建て、各數百里なり。太公を齊に封じ、東海に表するなり。凡そ一千八百國、五千里內に布列す。而して太昊・黃帝の後、唐虞の侯伯 猶ほ存す。
大司徒は諸公の地を以て方五百里に封疆し、其の食する者は半なり。諸侯の地は方四百里、其の食する者は參の一なり。諸伯の地は方三百里、其の食する者は參の一なり。諸子の地は方二百里、其の食する者は四の一なり。諸男の地は方百里、其の食する者は四の一なり。不易の地は家ごとに百畝、一易の地は家ごとに二百畝、再易の地は家ごとに三百畝なり。五家を比と為し、之を相 保たしむ。五比を閭と為し、之を相 受けしむ。四閭を族と為し、之をして相 葬らしむ。五族を黨と為し、之を相 救はしむ。五黨を州と為し、之を相 賙(あた)へしむ。五州を鄉と為し、之を相 賓(したが)はしむといふ〔二〕。小司徒に五人を以て伍と為し、五伍を兩と為し、四兩を卒と為し、五卒を旅と為し、五旅を師と為し、五師を軍と為す。以て軍旅を起こし、以て田役を作し、以て追胥を比べ、以て貢賦を令す。乃ち土地を經して其の田野を井牧し、九夫を井と為し、四井を邑と為し、四邑を丘と為し、四丘を甸と為し、四甸を縣と為し、四縣を都と為すといふ〔三〕。遺人に則ち十里に廬有り、廬に飲食有り。三十里に宿有り、宿に路室有り、路室に委有り。五十里に市有り、市に候有り、候に館有り、館に積有りといふ〔四〕。遂人に則ち五家を鄰と為し、五鄰を里と為し、四里を酇と為し、五酇を鄙と為し、五鄙を縣と為し、五縣を遂と為すとふ〔五〕。大司馬 九畿の籍を以て、邦國の政を施す。方千里を國畿と曰ひ、其の外 方五百里を侯畿を曰ひ、又 其の外 方五百里を甸畿と曰ひ、又 其の外 方五百里を男畿と曰ひ、又 其の外 方五百里を采畿と曰ひ、又 其の外 方五百里を衞畿と曰ひ、又 其の外 方五百里を蠻畿と曰ひ、又 其の外 方五百里を夷畿と曰ひ、又 其の外 方五百里を鎮畿と曰ひ、又 其の外 方五百里を藩畿と曰ふなりといふ〔六〕〈畿は、田限なり。王城自り外を以て、五千里を面するを界と為し、分限有る者は九なりといふ〔七〕〉。

〔一〕この段落は、『礼記』王制篇を出典とする。竹内照夫『礼記上』(新釈漢文大系27、明治書院、一九七一年)を参照した。
〔二〕この段落は、『周礼』大司徒篇を出典とする。
〔三〕この段落は、『周礼』小司徒篇を出典とする。
〔四〕この段落は、『周礼』遺人篇を出典とする。
〔五〕この段落は、『周礼』遂人篇を出典とする。
〔六〕この段落は、『周礼』大司馬篇を出典とする。
〔七〕『周礼』大司馬の鄭玄注に「畿、猶限也。自王城以外、五千里為界、有分限者九」とあり、出典である。

現代語訳

成湯(殷の湯王)は桀を焦で破り、亳に遷都し、伊摯や仲虺といった高官が、大いに法典を明らかにした。
『礼記』王制篇によると爵位と俸禄は、公侯伯子男の全部で五等がある。天子の禄田は千里四方、公と侯の禄田は百里四方、伯は七十里、子男は五十里である。五十里未満の者(五等未満)であって、天子に直属せず、他の諸侯に付属する小諸侯は、附庸(の諸侯)といった。四海の内側には九州があり、千里四方を一州とした。州ごとに百里四方の国を三十、七十里四方の国を六十、五十里四方の国を百二十立てて、全部で二百十国である。名山や大沢(大きな湖沼)は封地に割り振らず、それ以外(国を建てた余り)の土地は附庸に与えるか間田(諸侯に属さぬ土地)とした。(九州のうち)八州においては、州ごとに二百一十国とした。(残り一州の)天子の管轄内には、百里の国は九、七十里の国は二十有一、五十里の国は六十三とし、全部で九十三国であった。名山と大沢は国のなかに含めず、それ以外の土地は(天子の)士の俸給とするか、未配分とした。全部で九州があり、千七百七十三国とした。天子の元士(直属の部下)、諸侯の附庸の地は、計算に含めなかった。天子は(畿内の一部分の)百里の内側(から上がる収入)によってに官属を維持し、(畿内全体である)千里の内側(から上がる収入)によってに内廷の費用をまかない、千里の外に方伯を設置し(諸侯の抑えとし)た。五国を一つの属し、属に長を定める。十国(二属)を連とし、連に帥を定める。三十国を卒とし、卒に正を定める。二百一十国を州とし、州に伯を定める。八州には八伯、五十六正、百六十八帥、三百三十六長があるわけである。八伯はそれぞれ自己の下にある諸侯を率いて天子の老(大臣)二人に分属するのであり、天下の諸侯は左右という二類に分けられ、この二大臣は二伯と称せられる。(王畿)千里の内側を甸とよび、千里の外を(甸に近い部分を)采とよび、(遠い部分を)流とよぶ。天子はその大夫たちに命じて三監とし、方伯の国を監督させ、国ごとに三人が置かれた。天子の県内(畿内)の諸侯は土地を録として(一代限り)与えられた。外(他の八州)の諸侯は世襲をした。
周の武王が豐に遷都し、二代(夏と殷)を参考に、爵位を五つだけ設け、土地を三つだけに分けた。同姓の五十余国を封じ、周公を魯に経てて康叔を衛に建て、それぞれ数百里とした。太公望を斉に封じ、東海に面した。全部で一千八百国を、五千里の内に配列した。そして太昊・黄帝の子孫や、唐虞(尭舜)の時代からの侯伯もまだ存続していた。
『周礼』大司徒篇によると諸公は地を方五百里に封建するとし、その二分の一を食ませた。諸侯は地を方四百里とし、その三分の一を食ませた。諸伯の地は方三百里とし、その三分の一を食ませた。諸子の地は方二百里とし、その四分の一を食ませた。諸男の地は方百里とし、その四分の一を食ませた。変わらぬ地は家ごとに百畝、一度変わった地は家ごとに二百畝、二回変わった地は家ごとに三百畝とした。五家を比とし、相互に保全させた。五比を閭とし、相互に授受させた。四閭を族とし、相互に埋葬させた。五族を黨とし、相互に救済させた。五黨を州とし、相互に支援させた。五州を郷とし、相互に従属させたとある。『周礼』小司徒篇によると五人を伍とし、五伍を兩とし、四兩を卒とし、五卒を旅とし、五旅を師とし、五師を軍とした。この単位で軍旅を起こし、耕作を行い、強盗を追い、貢納を命じた。土地を整え田野を"井"の形に区切り、九夫を井とし、四井を邑とし、四邑を丘とし、四丘を甸とし、四甸を縣とし、四縣を都としたとある。『周礼』遺人篇によると十里ごとに廬があり、廬には飲食する場があった。三十里ごとに宿があり、宿に路室があり、路室には委(倉庫)があった。五十里ごとに市があり、市に候(官舎)があり、候に館があり、館に貯蓄があったとある。『周礼』遂人篇に五家を鄰とし、五鄰を里とし、四里を酇とし、五酇を鄙とし、五鄙を縣とし、五縣を遂とするとある。『周礼』大司馬篇によると九畿の籍(帳簿)を使って、国政を実施した。方千里を国畿といい、その外の方五百里を侯畿をいい、さらに外の方五百里を甸畿といい、さらに外の方五百里を男畿といい、さらに外の方五百里を采畿といい、さらに外の方五百里を衛畿といい、さらに外の方五百里を蠻畿といい、さらに外の方五百里を夷畿といい、さらに外の方五百里を鎮畿といい、さらに外の方五百里を藩畿といったとある〈畿は、土地の境界である。王城の外部は、五千里を境界とし、九つに区切っている〉。

原文

于時治致太平、政稱刑措、民口千三百七十一萬四千九百三十三、蓋周之盛者也。其衰也、則禮樂・征伐出自諸侯、強吞弱而眾暴寡。春秋之初、尚有千二百國、迄獲麟之末、二百四十二年、弒君三十六、亡國五十二、諸侯奔走不得保其社稷者不可勝數、而見於春秋經傳者百有七十國焉。百三十九知其所居〈魯・邾・鄭・宋・紀・衞・西虢・莒・齊・陳・杞・蔡・邢・郕・晉・薛・許・鄧・秦・曹・楚・隨・黃・梁・虞・鄖・小邾・徐・燕・鄀・麋・舒・庸・郯・萊・吳・越・有窮・三苗・瓜州・有虞・東虢・共・宿・申・夷・向・南燕・滕・凡・戴・息・郜・芮・魏・淳于・穀・巴・州・蓼・羅・賴・牟・葛・譚・蕭・遂・滑・權・鄣・霍・耿・江・冀・弦・道・柏・微・鄫・厲・項・密・任・須句・顓臾・頓・管・雍・畢・豐・邘・應・蔣・茅・胙・夔・介・焦・沈・六・巢・根牟・唐・黎・郇瑕・寒・有鬲・斟灌・斟尋・過・有過・戈・偪陽・邿・鑄・豕韋・唐杜・楊・豳・鄶・觀・扈・邳・胡・黎・大庭・駘・岐・邶・鍾吾・蒲姑・昆吾・房・密須・甲父・鄅・桐・亳・韓・趙。三十一國盡亡其處、祭・極・荀・賈・貳・軫・絞・於餘丘・陽・箕・英氏・毛・聃・莘・偪・封父・仍・有仍・崇・鄟・庸・姺・奄・商奄・褒姒・蓐・有緡・闕鞏・飂・鬷・窮桑〉。蠻夷戎狄不在其間。五伯迭興、總其盟會。陵夷至于戰國、遂有七王〈韓・魏・趙・燕・齊・秦・楚〉。又有宋・衞・中山、不斷如綫、如三晉篡奪、亦稱孤也。
司馬法廣陳三代、曰、古者六尺為步、步百為畝、畝百為夫、夫三為屋、屋三為井。井方一里、是為九夫、八家共之。一夫一婦受私田百畝・公田十畝、是為八百八十畝、餘二十畝為廬舍、出入相友、守望相助、疾病相救。民受田、上田夫百畝、中田夫二百畝、下田夫三百畝、歲受耕之、爰自其處。其家眾男為餘夫、亦以口受田如此。士工商家受田、五口乃當農夫一口。有賦有稅、稅謂公田什一及工商・衡虞之入也、賦供車馬甲兵士從之役。民年二十受田、六十歸田。種穀必雜五種、以備災旱。田中不得有樹、以妨五穀。環廬種桑柘、菜茹有畦、瓜瓠果蓏植於疆埸、雞㹠狗豕無失其時。閭有序、鄉有庠、序以明教、庠以行禮。
司馬之法、官設六軍之眾、因井田而制軍令。地方一里為井、井十為通、通十為成、成方十里。成十為終、終十為同、同方百里。同十為封、封十為畿、畿方千里。故井四為邑、邑四為丘、丘十六井、有戎馬一匹・牛三頭。四丘為甸、甸六十四井也、有戎馬四匹・兵車一乘、牛十二頭・甲士三人・卒七十二人。是謂乘車之制。一同百里、提封萬井、除山川・坑岸・城池・邑居・園囿・街路三千六百井、定出賦六千四百井、戎馬四百匹・兵車百乘、此卿大夫菜地之大者也、是謂百乘之家。一封三百六十六里、提封十萬井、定出賦六萬四千井、戎馬四千匹・兵車千乘、此謂諸侯之大者也、謂之千乘之國。天子畿內方千里、提封百萬井、定出賦六十四萬井、戎馬四萬匹・兵車萬乘・戎卒七十二萬人、故天子稱萬乘之主焉。

訓読

時に治は太平を致し、政は刑措と稱し、民口千三百七十一萬四千九百三十三、蓋し周の盛者なり。其の衰ふるや、則ち禮樂征伐 諸侯自り出で、強は弱を吞して眾は寡を暴(あら)す。春秋の初め、尚ほ千二百國有り、獲麟の末に迄るまで、二百四十二年、弒君は三十六、亡國は五十二、諸侯 奔走して得て其の社稷を保たざるは勝げて數ふ可からず、而して春秋の經傳に見(あらは)るる者は百有七十國なり。百三十九は其の居る所を知る〈魯・邾・鄭・宋・紀・衞・西虢・莒・齊・陳・杞・蔡・邢・郕・晉・薛・許・鄧・秦・曹・楚・隨・黃・梁・虞・鄖・小邾・徐・燕・鄀・麋・舒・庸・郯・萊・吳・越・有窮・三苗・瓜州・有虞・東虢・共・宿・申・夷・向・南燕・滕・凡・戴・息・郜・芮・魏・淳于・穀・巴・州・蓼・羅・賴・牟・葛・譚・蕭・遂・滑・權・鄣・霍・耿・江・冀・弦・道・柏・微・鄫・厲・項・密・任・須句・顓臾・頓・管・雍・畢・豐・邘・應・蔣・茅・胙・夔・介・焦・沈・六・巢・根牟・唐・黎・郇瑕・寒・有鬲・斟灌・斟尋・過・有過・戈・偪陽・邿・鑄・豕韋・唐杜・楊・豳・鄶・觀・扈・邳・胡・黎・大庭・駘・岐・邶・鍾吾・蒲姑・昆吾・房・密須・甲父・鄅・桐・亳・韓・趙なり。三十一國は盡く其の處を亡ふ。祭・極・荀・賈・貳・軫・絞・於餘丘・陽・箕・英氏・毛・聃・莘・偪・封父・仍・有仍・崇・鄟・庸・姺・奄・商奄・褒姒・蓐・有緡・闕鞏・飂・鬷・窮桑なり〉。蠻夷戎狄 其の間に在らず。五伯は迭(たが)いに興り、其の盟會を總ぶ。陵夷して戰國に至り、遂に七王のみ有り〈韓・魏・趙・燕・齊・秦・楚なり〉。又 宋・衞・中山有り、斷たざること綫が如く、三晉は篡奪するが如く、亦 孤を稱すなり。
司馬法は廣く三代を陳べて、曰く〔一〕、古は六尺を步と為し、步百を畝と為し、畝百を夫と為し、夫三を屋と為し、屋三を井と為す。井は方一里、是を九夫と為し、八家 之を共にす。一夫一婦は私田百畝・公田十畝を受け、是を八百八十畝と為し、餘二十畝を廬舍と為し〔一〕、出入して相 友し、守望して相 助け、疾病あれば相 救ふ。民 田を受くること、上田夫は百畝、中田夫は二百畝、下田夫は三百畝、歲ごとに受けて之を耕し、爰に其に自ら處す。其の家の眾男を餘夫と為し、亦 口を以て田を受くること此の如し。士工商の家も田を受け、五口にして乃ち農夫の一口に當たる。賦有り稅有り、稅は公田の什一及び工商・衡虞の入を謂ふなり、賦は車馬甲兵の士從の役を供すなり。民は年二十にして田を受け、六十にして田を歸す。穀を種うるには必ず五種を雜ぜて、以て災旱に備ふ。田中に五穀を妨ぐることを以て、樹うること有るを得ず。廬を環(めぐ)りて桑柘を種え、菜茹に畦有り、瓜瓠果蓏は疆埸に植し、雞㹠狗豕は其の時を失ふこと無し。閭に序有り、鄉に庠有り、序は以て教を明らかにし、庠は以て禮を行ふ。
司馬の法、官は六軍の眾を設け、井田に因りて軍令を制む〔二〕。地は方一里を井と為し、井十を通と為し、通十を成と為し、成は方十里なり。成十を終と為し、終十を同と為し、同は方百里なり。同十を封と為し、封十を畿と為し、畿は方千里なり。故に井四を邑と為し、邑四を丘と為し、丘十六は井なり、戎馬一匹・牛三頭有り。四丘を甸と為し、甸は六十四井なり、戎馬四匹・兵車一乘、牛十二頭・甲士三人・卒七十二人有り。是を乘車の制と謂ふ〔三〕。一同は百里にして、提封するに萬井なり、山川・坑岸・城池・邑居・園囿・街路三千六百井を除き、定めて賦を六千四百井より出し、戎馬四百匹・兵車百乘、此れ卿大夫の菜地〔四〕の大なる者なり、是を百乘の家と謂ふ。一封は三百六十六里なり、提封するに十萬井、定めて賦を六萬四千井より出し、戎馬四千匹・兵車千乘、此れ諸侯の大なる者を謂ふなり、之を千乘の國と謂ふ。天子の畿內は方千里、百萬井を提封し、定めて賦六十四萬井より出し、戎馬四萬匹・兵車萬乘・戎卒七十二萬人、故に天子 萬乘の主と稱す。

〔一〕『漢書』食貨志に「六尺為步、步百為畮,……」とあり、本文と重複があるため、小竹武夫訳(ちくま学芸文庫)を参照とした。現在確認ができる『司馬法』とはテキストが異なる。
〔二〕『漢書』刑法志に「猶立司馬之官、設六軍之衆……」とあり、本文と重複が多いため、小竹武夫訳(ちくま学芸文庫)を参照とした。小竹氏は「司馬」に注釈し、夏官で卿、邦政を掌り、軍旅もこれに属したとする。なお、『周礼』夏官司馬は本文と内容が異なる。
〔三〕『漢書』刑法志は「是謂乘馬之法」とする。
〔四〕『漢書』刑法志は「采地」に作る。小竹訳注によると、采は官の意。官職に対して与えられる租税収入を生ずる土地。

現代語訳

時に(周王朝が)太平がもたらし、政治は刑罰を不要とし、民の人口は千三百七十一万四千九百三十三とされるが、周代の最盛期の数字だろう。王朝が衰退すると、礼楽や征伐は諸侯が取りしきり、強きが弱きを併合して多数で少数をしいたげた。春秋時代の初め、まだ千二百国があり、獲麟の末(春秋の最後)にいたるまで、二百四十二年あり、君主の弑殺は三十六、国家の滅亡は五十二、諸侯が出奔して社稷を保てなかったものは数え切れず、『春秋』の經伝に著されているのは百七十国である。百三十九はその所在地が分かる〈魯・邾・鄭・宋・紀・衛・西虢・莒・斉・陳・杞・蔡・邢・郕・晋・薛・許・鄧・秦・曹・楚・隨・黄・梁・虞・鄖・小邾・徐・燕・鄀・麋・舒・庸・郯・萊・呉・越・有窮・三苗・瓜州・有虞・東虢・共・宿・申・夷・向・南燕・滕・凡・戴・息・郜・芮・魏・淳于・穀・巴・州・蓼・羅・頼・牟・葛・譚・蕭・遂・滑・権・鄣・霍・耿・江・冀・弦・道・柏・微・鄫・厲・項・密・任・須句・顓臾・頓・管・雍・畢・豊・邘・応・蔣・茅・胙・夔・介・焦・沈・六・巣・根牟・唐・黎・郇瑕・寒・有鬲・斟灌・斟尋・過・有過・戈・偪陽・邿・鑄・豕韋・唐杜・楊・豳・鄶・観・扈・邳・胡・黎・大庭・駘・岐・邶・鍾吾・蒲姑・昆吾・房・密須・甲父・鄅・桐・亳・韓・趙である。三十一国は完全に所在地が分からなくなった。祭・極・荀・賈・貳・軫・絞・於餘丘・陽・箕・英氏・毛・聃・莘・偪・封父・仍・有仍・崇・鄟・庸・姺・奄・商奄・褒姒・蓐・有緡・闕鞏・飂・鬷・窮桑である〉。蠻夷と戎狄はこれに含まない。五伯は代わるがわる台頭し、その会盟を主催した。衰亡して戦国時代になり、遂に七王だけが残った〈韓・魏・趙・燕・斉・秦・楚である〉。さらに宋・衛・中山が存続し、細々と糸のように切れず、三晋(韓・魏・趙)は(主君の晋を)簒奪したようなもので、また孤と自称したのである。
司馬法は広く三代(の制度)について述べ、言うには、古は六尺を歩とし、百歩を畝とし、百畝を夫とし、三夫を屋とし、三屋を井とした。井は一里四方であり、これを九夫とし、八家はこれを共有した。一夫一婦は私田百畝・公田十畝を支給され、これを八百八十畝とし、残りの二十畝を廬舍とし、出入して友となり、見守りあって助け、病気になれば互いに救った。民への田地の支給は、上田夫は百畝、中田夫は二百畝、下田夫は三百畝とし、毎年支給してここを耕し、そこに自ら居住した。その家の男性たち(家長以外)を余夫とし、また人数に応じて同様に田地を支給した。士工商の家も田地を支給され、五人で農夫一人に相当する広さであった。賦や税が設定され、税は公田の収穫の十分の一及び工人や商人や山林の従事者の収入に課せられ、賦は車馬や甲兵を出して軍役に従事することであった。民は二十歳になると田地を支給され、六十歳で田地を返納した。穀物を植えるときは五種を混ぜて、災害や日照りに備えた。田地では穀物生育の妨げになるので、樹木を植えるのは禁じた。廬のまわりに桑柘を植え、区画を区切って野菜を育て、瓜と瓠(ひさご)と果(このみ)と蓏(くさのみ)をあぜに植えて、雞と㹠と狗と豕を飼ってその時宜を失わなかった。閭には序(学校)があり、郷に庠(学校)があり、序では教化を明らかにし、庠では礼を行ったのである。
司馬の法によると、(司馬の)官は六軍の衆兵を設け、井田によって軍令を制定した。土地は一里四方を井とし、十井を通とし、十通を成とし、成は十里四方である。十成を終とし、十終を同とし、同は百里四方であった。十同を封とし、十封を畿とし、畿は千里四方である。そして四井を邑とし、四邑を丘とし、十六丘を井であり、戎馬一匹・牛三頭を保有させた。四丘を甸とし、甸は六十四井であり、戎馬四匹・兵車一乗、牛十二頭・甲士三人・卒七十二人を保有させた。これを乗車の制という。一同は百里四方であり、総合計すると万井であるが、山川・低地・城池・邑居・園囿・街路として三千六百井を除き、(残りの)六千四百井の土地に対する賦役として、戎馬四百匹・兵車百乗を出すように定め、これは卿大夫の采地の大きなものに相当し、これを百乗の家という。一封は三百六十六里であり、総合計すると十萬井であるが、六万四千井の土地に対する賦役として、戎馬四千匹・兵車千乗を出すように定め、これは諸侯の大きなものに相当し、これを千乗の国といった。天子の畿内は千里四方で、総合計すると百万井であるが、六十四万井の土地に対する賦役として、戎馬四万匹・兵車万乗・戎卒七十二万人を出すように定め、ゆえに天子を万乗の主と称するのである。

原文

秦始皇既得志於天下、訪周之敗、以為處士橫議、諸侯尋戈、四夷交侵、以弱見奪。於是削去五等焉。漢興、創艾亡秦孤立而敗、於是割裂封疆、立爵二等、功臣侯者百有餘邑。于時民罹秦項、戶口彫弊、大侯不過萬家、小者五六百戶、而尊王子弟、大啟九國。古者有分土而無分民。若乃大者跨州連郡、小則十有餘城、以戶口為差降、略封疆之遠近、所謂分民自漢始也。
起雁門以東、盡遼陽、為燕代。常山以南、太行左轉、渡河濟、漸于海、為齊趙。穀泗以注、奄有龜蒙、為梁楚。東帶江湖、薄會稽、為荊吳。北界淮瀕、略廬衡、為淮南。波漢之陽、亙九疑、為長沙。諸侯比境、周帀三垂、外接胡越。天子自有三河・東郡・潁川・南陽、自江陵以西至巴蜀、北至雲中、西至隴西、與京師內史、凡十五郡。文帝采賈生之議分齊趙、景帝用朝錯之計削吳楚。武帝施主父之冊、下推恩之令、使諸侯王得分戶邑以封子弟、不行黜陟、而藩國自析。自此以來、齊分為七、趙分為六、梁分為五、淮南分為三。皇子始立者大國不過十餘城、長沙・燕・代雖有舊名、皆亡南北邊矣。自文景與民休息、至平帝元始二年、民戶千二百二十三萬三千六十二、口五千九百五十九萬四千九百七十八、其地東西九千三百二里、南北萬三千三百六十八里。
大率十里一亭、亭有長。十亭一鄉、鄉有三老、有秩・嗇夫・游徼各一人。縣大率方百里、民稠則減、稀則曠、鄉亭亦如之。皆秦制也。

訓読

秦始皇 既に志を天下に得て、周の敗を訪(たづ)ねて、以為へらく處士 橫議し、諸侯 尋戈し、四夷 交侵し、弱を以て奪はるると。是に於て五等を削去す。漢 興り、亡秦 孤立して敗るるに創艾し、是に於て封疆を割裂し、爵二等のみを立て、功臣の侯たる者は百有餘邑なり。時に民は秦項に罹(か)かり、戶口は彫弊し、大侯なるとも萬家を過ぎず、小さき者は五六百戶なり、而るに王の子弟を尊び、大いに九國を啟く。古者 分土有るとも分民無し〔一〕。若し乃ち大なる者は州を跨ぎ郡を連ね、小なるは則ち十有餘城、戶口を以て差降と為し、封疆の遠近を略(はか)る。所謂 分民は漢自り始まるなり。
雁門以東に起て、遼陽に盡るを、燕代と為す。常山以南、太行より左轉して、河濟を渡り、海に漸(そそ)ぐを、齊趙と為す。穀泗 以て注ぎ、龜蒙を奄有するを、梁楚と為す。東に江湖に帶び、會稽に薄(せま)るを、荊吳と為す。北のかた淮瀕に界し、廬衡を略(めぐ)るを、淮南と為す。波漢の陽、九疑に亙(わた)るを、長沙と為す。諸侯 比境し、周帀 三垂し、外は胡越に接す。天子 自ら三河・東郡・潁川・南陽を有ち、江陵自り以西 巴蜀に至るまで、北は雲中に至り、西は隴西に至り、京師の內史と與に、凡そ十五郡なり。文帝 賈生の議を采り齊趙を分け、景帝 朝錯の計を用ひ吳楚を削る。武帝 主父の冊を施し、推恩の令を下し、諸侯王をして戶邑を分けて以て子弟に封ずることを得しめ、黜陟を行はず、而して藩國 自ら析る。此自り以來、齊 分れて七と為り、趙 分れて六と為り、梁 分れて五と為り、淮南 分れて三と為る。皇子 始めて立つに大國は十餘城を過ぎず、長沙・燕・代 舊名有りと雖も、皆 南北の邊を亡へり〔二〕。
文景自り民と與に休息し、平帝の元始二年に至り、民戶は千二百二十三萬三千六十二、口は五千九百五十九萬四千九百七十八なり、其の地 東西は九千三百二里、南北は萬三千三百六十八里なり〔三〕。
大率 十里に一亭、亭に長有り。十亭に一鄉、鄉に三老有り、有秩・嗇夫・游徼 各々一人あり。縣は大率 方百里にして、民 稠なれば則ち減じ、稀なれば則ち曠くし、鄉亭も亦 之の如し。皆 秦制なり〔四〕。

〔一〕『漢書』地理志下 齊地に「古有分土、亡分民」とあり、顔師古注に「有分土者、謂立封疆也。無分民者、謂通往來不常厥居也」とある。
〔二〕この段落は、『漢書』諸侯王表を節略したもの。
〔三〕戸数と人口、領地の広さは、『漢書』地理志下が出典。
〔四〕この段落は、『漢書』百官公卿表上に共通する文が見られる。

現代語訳

秦の始皇帝が天下統一すると、周の失敗を検証し、処士がほしいままに議論し、諸侯が武力を用い、四夷が代わるがわる侵入し、弱体化して(王権を)奪われたと考えた。そこで五等爵を削り除いた。漢が興こると、亡国の秦が孤立して敗れたことを教戒とし、国土を分割し、爵二等だけを立て、侯位を与えられた功臣ならば百有余邑とした。このとき民は秦や項氏の被害を受け、戸数や人口は減少し、大侯であっても(封邑は)万家を超えず、小さいものは五六百戸であり、しかし王の子弟を優遇し、おおいに九国を作った。いにしえは分土はあるが、分民はなかった。当時大きな国は州を跨ぎ郡を連ね、小さな国は十余城であり、戸数や人口で格差を付け、封地の遠近で区別した。いわゆる分民は漢代から始まったのである。
雁門より以東、遼陽の果てまでをを、燕代とした。常山以南、太行山より左に転じ、河水と済水を渡り、海に注ぐまでを、斉趙とした。穀水と泗水よりさき、亀山と蒙山をおおう地域を、梁楚とする。東に江水と太湖を帯び、会稽にせまる地域を荊呉とする。北のかた淮水のほとりを境とし、廬山と衡山をめぐる地域を淮南とする。漢水の北(を流れに従い)、九疑山に連なる地域を、長沙とする。諸侯は境界をまじえ、三垂(北東南の三方向)をめぐりまわり、外は胡族と越族に接している。天子は自ら三河・東郡・潁川・南陽を領有し、江陵より以西の巴蜀に至るまで、北は雲中に至るまで、西は隴西に至るまで、京師の内史とともに、全部で十五郡である。文帝は賈生(賈誼)の建議を採用して斉趙を分割し、景帝は朝錯(晁錯)の計を用いて呉楚を削った。武帝は主父偃の策を施行して、推恩の令を下し、諸侯王がその邑戸を分けて子弟を封ずることができるようにし、賞罰を行わずとも、おのずと藩国が細分化された。それ以来、斉は分かれて七となり、趙は分かれて六となり、梁は分れて五と為り、淮南は分れて三となった。皇子のうち始めて建国しても大国ですら十余城を領するに過ぎず、長沙・燕・代は旧名のままであったが、いずれもその南辺や北辺を損なっていた。
文帝と景帝の時代から民を休息させ、平帝の元始二(西暦二)年に至り、民の戸数は千二百二十三万三千六十二、人口は五千九百五十九万四千九百七十八であり、その領地は東西は九千三百二里、南北は一万三千三百六十八里となった。
おおむね十里を一亭とし、亭に長がいた。十亭を一鄉とし、鄉に三老がおり、有秩・嗇夫・游徼それぞれ一人である。県はおおむね百里四方であり、人口が密集していれば面積を狭め、過疎ならば広くし、郷や亭も同じように調節した。いずれも秦代の制度である。

原文

光武中興、不踰前制、東海王彊以去就有禮、故優以大封、兼食魯郡二十九縣、其餘稱為寵錫者、兼一郡而已。至桓帝永壽三年、1.戶千六十七萬七千九百六十、口五千六百四十八萬六千八百五十六、斯亦戶口之滋殖者也。
獻帝建安元年拜曹操為鎮東將軍、封費亭侯。魏文帝黃初三年、初制封王之庶子為鄉公、嗣王之庶子為2.〔亭〕侯、[四]嗣王之庶子為亭侯 各本無「亭」字、殿本有。今從殿本、與魏志文帝紀合。公侯之庶子為亭伯。劉備章武元年、亦以郡國封建諸王、或遙採嘉名、不由檢土地所出。其戶二十萬、男女口九十萬。孫權赤烏五年、亦取中州嘉號封建諸王。其戶五十二萬三千、男女口二百四十萬。
晉文帝為晉王、命裴秀等建立五等之制、惟安平郡公孚邑萬戶、制度如魏諸王。其餘縣公邑千八百戶、地方七十五里。大國侯邑千六百戶、地方七十里。次國侯邑千四百戶、地方六十五里。大國伯邑千二百戶、地方六十里。次國伯邑千戶、地方五十五里。大國子邑八百戶、地方五十里。次國子邑六百戶、地方四十五里。3.男邑四百戶、地方四十里。武帝泰始元年、封諸王以郡為國。邑二萬戶為大國、置上中下三軍、兵五千人。邑萬戶為次國、置上軍下軍、兵三千人。五千戶為小國、置一軍、兵千五百人。王不之國、官於京師。罷五等之制、公侯邑萬戶以上為大國、五千戶以上為次國、不滿五千戶為小國。太康元年、平吳、大凡戶二百四十五萬九千八百四十、口一千六百一十六萬三千八百六十三。而江左諸國並三分食一、元帝渡江、太興元年、始制九分食一。

1.『後漢書』郡国志の注に、「永壽二年、戶千六百七萬九百六、口五千六萬六千八百五十六人」とあり、数が異なる。アラビア数字にすると、『晋書』地理志は、10,677,960戸、56,486,856口。『後漢書』郡国志注は、16,070,906戸、50,066,856口。
2.中華書局本に従い、『魏志』文帝紀に基づいて「亭」一字を加える。
3.中華書局本によると、男(爵)の国のみ、大国と次国の区別が記されていない。『太平御覧』一九九に載せる『魏志』に、咸煕元年、晋王が五等を建議し、男(爵)の国の、大国と次国の里数と戸数が記されている。『晋書』地理志に、脱文が疑われるという。

訓読

光武 中興するに、前制を踰えず、東海王彊 去就に禮有るを以て、故に優として大封に以じ、魯郡二十九縣を兼食せしむるとも、其の餘 稱して寵錫為る者、一郡を兼ぬるのみ。桓帝の永壽三年に至り、戶は千六十七萬七千九百六十、口は五千六百四十八萬六千八百五十六なり。斯 亦 戶口の滋々殖える者なり。
獻帝の建安元年 曹操を拜して鎮東將軍と為し、費亭侯に封ず。魏文帝の黃初三年、初めて制むるに王の庶子を封じて鄉公と為し、嗣王の庶子を亭侯と為し、公侯の庶子を亭伯と為す。劉備の章武元年、亦 郡國を以て諸王を封建し、或は遙かに嘉名を採り、土地の出づる所を檢むるに由らず。其の戶二十萬、男女口九十萬なり。孫權の赤烏五年、亦 中州の嘉號を取りて諸王を封建す。其の戶五十二萬三千、男女口二百四十萬なり。
晉文帝 晉王と為るや、裴秀等に命じて五等の制を建立し、惟だ安平郡公孚のみ邑萬戶とし、制度は魏諸王が如し。其の餘 縣公は邑は千八百戶、地は方七十五里なり。大國の侯の邑は千六百戶、地は方七十里なり。次國の侯の邑は千四百戶、地は方六十五里なり。大國の伯の邑は千二百戶、地は方六十里なり。次國の伯の邑は千戶、地は方五十五里なり。大國の子の邑は八百戶、地は方五十里なり。次國の子の邑は六百戶、地は方四十五里なり。男の邑は四百戶、地は方四十里なり。武帝の泰始元年、諸王を封ずるに郡を以て國と為す。邑二萬戶を大國と為し、上中下三軍、兵五千人を置く。邑萬戶を次國と為し、上軍下軍、兵三千人を置く。五千戶を小國と為し、一軍、兵千五百人を置く。王は國に之(ゆ)かず、京師に官す。五等の制を罷め、公侯の邑萬戶以上を大國と為し、五千戶以上を次國と為し、五千戶に滿たざるを小國と為す。太康元年、吳を平らげ、大凡 戶二百四十五萬九千八百四十、口一千六百一十六萬三千八百六十三なり。而して江左の諸國 並に三分して一を食し、元帝 江を渡り、太興元年、始めて九分して一を食することを制む。

現代語訳

光武帝が中興したが、前代の制度を超えるものではなく、東海王彊は出処進退が立派であったので、ゆえに優遇して大国に封建し、魯郡二十九県を合わせて食邑としたが、それ以外では寵愛された者でも、一郡を有するだけであった。桓帝の永寿三(一五七)年に至り、戸は千六十七万七千九百六十、口は五千六百四十八万六千八百五十六であった。これもまた戸数や人口がますます増えた結果である。
献帝の建安元(一九六)年に曹操が鎮東将軍となり、費亭侯に封建された。魏文帝の黄初三(二二二)年、制度を新設し、王の庶子を封じて郷公とし、嗣王の庶子を亭侯とし、公侯の庶子を亭伯とするとした。劉備の章武元(二二一)年、また郡国に諸王を封建し、あるものは遠くから良き名を取り、土地からの収入はなかった。その(蜀の)戸数は二十万、男女の人口は九十万人であった。孫権の赤烏五(二四二)年、また中原の良き名から取って諸王を封建した。その(呉の)戸数は五十二万三千、男女の人口は二百四十万であった。
晋の文帝が晋王になると、裴秀らに命じて五等の制を設立し、ただ安平郡公孚(司馬孚)だけを邑万戸とし、制度は魏の諸王と同じであった。その他の県公は邑千八百戸、地は方七十五里なり。大国の侯爵の邑は千六百戸、地は七十里四方である。次国の侯爵の邑は千四百戸、地は六十五里四方である。大国の伯爵の邑は千二百戸、地は六十里四方である。次国の伯爵の邑は千戸、地は五十五里四方である。大国の子爵の邑は八百戸、地は方五十里四方である。次国の子の邑は六百戸、地は四十五里四方である。男爵の邑は四百戸、地は方四十里である。武帝の泰始元(二六五)年、諸王の封建は郡を国とした。邑二万戸を大国とし、上中下の三軍、兵五千人を置いた。邑万戸を次国とし、上軍と下軍、兵三千人を置く。五千戸を小国とし、一軍、兵千五百人を置いた。王は国に行かず、京師で官職に就いた。五等爵の制を廃止し、公と侯の邑万戸以上のものを大国とし、五千戸以上を次国とし、五千戸未満を小国とした。太康元(二八〇)年、呉を平定し、全部で戸数は二百四十五万九千八百四十、人口は一千六百一十六万三千八百六十三となった。そして江南の諸国はいずれも三分の一を(諸王の)収入とし、元帝が江水を渡ると、太興元(三一八)年、初めて九分の一を収入とすることを定めた。

『晋書』地理志は、上(総叙司州~寧州)・下(青州~広州)より構成されています。