190年夏冬:公孫度の自立
『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
190年夏:董卓が関東におくった和解の使者
夏4月、幽州牧の劉虞を太傅にした。道がふさがって、任命の使者は、劉虞に届かない。
このとき幽州は、胡族に荒らされた。歳入が足りず、青州と冀州から、2億の援助を受けた。道がふさがり、援助が届かないが、劉虞は倹約して凌いだ。農桑をすすめ、上谷の市場をひらき、漁陽の塩鉄でうるおった。青州と徐州の人100余万口は、劉虞をたよって幽州に避難した。移住の切なさを忘れた。
5月、司空の荀爽が死んだ。
6月辛丑、光禄大夫のチュウ払を、司空とした。チュウ払は、チュウ邵の父だ。
董卓は、名士を送って、袁紹たちに和解を説いた。大コウロの韓融と、少府の陰脩と、執金吾の胡母斑と、将作大匠の呉脩と、越騎校尉の王カイが送られた。胡母斑、呉脩、王カイは、河内についた。袁紹は、王匡に名士たちを殺させた。
袁術もまた、陰脩を殺した。韓融だけは、徳があるから、袁術にゆるされた。
董卓は、五シュ銭を作った。小さい銭を作った。洛陽と長安の銅人をとかして、貨幣にした。物価が高騰し、1石の穀物が、数万銭になった。
190年冬:公孫度の自立
孫堅は、魯陽城の東で宴会した。董卓の歩騎数万が、突っこんだ。孫堅は談笑したまま。孫堅軍は、整然としていた。
「董卓軍に驚いたら、パニックになるだろう。だから、悠々と酒を飲んでいたんだ」
董卓は孫堅を攻めれず、撤退した。
王匡は河陽津にいた。董卓は、王匡を大破した。
左中郎将の蔡邕は、和帝よりあとの廟号をなくせと云った。蔡邕の云うとおりになった。
中郎将の徐栄は、同郡でもと冀州刺史の公孫度を、董卓に推薦した。董卓は、公孫度を遼東太守にした。公孫度は、現地の豪族を殺し、高句麗を攻めた。西に烏丸を討った。
公孫度が親しむ柳毅と陽儀は、云った。
「漢室はおわりだ。諸侯は、天下を狙っている。遼東郡を分け、遼西郡と遼中郡をおき、太守を送りましょう。海を渡り、東莱郡に、営州刺史おきましょう。自立して、遼東侯、平州牧を名乗りましょう。劉邦と劉秀を祭り、天子の体裁を整えましょう」
と。
191年につづきます。100513