192年秋冬:曹操が李傕を支援
『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
192年秋:李傕政権の基盤がため
秋7月庚子、太尉の馬日磾を太傅とし、録尚書事させた。
8月、車騎将軍の皇甫嵩を、太尉にした。詔した。
「太傅の馬日磾と、太僕の趙岐に、節をあたる。関東をしずめよ」
9月、李傕を車騎将軍にとし、司隷校尉をかね、節を仮る。郭汜を後将軍とした。樊稠を右将軍とした。張済を驃騎将軍とした。みな侯にふうじた。李傕、郭汜、樊稠が、政治をみる。張済は、弘農にでた。
司徒の趙謙をやめた。
甲申、司空の淳于嘉を司徒とした。光禄大夫の楊彪を、司空とし、録尚書事させた。
はじめ董卓が関中に入ったとき、韓遂と馬超は、山東の諸侯とともに図った。馬騰は長安にむかった。董卓が死んだので、李傕は馬騰を、鎮西将軍にした。馬騰を金城にかえらせた。馬騰は、征西将軍となり、ビにとどまる。
192年冬10月、劉表が荊州牧に
冬10月、荊州刺史の劉表が、使者をおくり、献帝に貢献した。劉表を、鎮南将軍、荊州牧として、成武侯にふうじた。
袁術が南陽を追い出されるのは、このすぐ翌年である。
袁術が南陽で強制徴収したとしたら、192年の収穫だろう。どうせ劉表に奪われるなら、自分で手に入れよう!と。
192年冬12月、曹操が青州兵をえる
12月、太尉の皇甫嵩をやめた。光禄大夫の周忠を、太尉とした。録尚書事に参じさせた。
曹操は黄巾を、済北でくだした。兵30万をえた。人口100余万をえた。青州兵とよぶ。
曹操は、陳留の毛カイを、治中従事にした。毛カイは曹操に、天子奉戴と、屯田を提案した。曹操は、その提案をみとめた。
曹操は、河内の張楊に使者をやり「西の長安への道をあけてくれ」と頼んだ。張楊は、曹操をことわった。定陶の董昭は、張楊に説いた。
「曹操は弱いが、いまに袁紹を超える。ただ道をあけるだけです。曹操に恩を売っておくのがよい」
董昭は、曹操を代筆して、献帝に手紙を書いた。献帝は云う。
「関東の諸侯は、自前で天子を立てようとしている。だが曹操は、献帝に誠実である。よいことだ」
黄門侍郎の鍾繇は、李傕と郭汜に、曹操が献帝を支持しているよと説いた。鍾繇は、鍾晧の曾孫である。
曹操はいち早く、李傕と郭汜に味方した。「即位の経緯がどうあろうと、皇帝は皇帝だ。絶対服従!」という曹操は、さすが宦官の孫である。皮肉じゃなくてね。笑
袁紹や袁術のように、董卓系をにくんでいては、曹操のようなカメレオンはできない。荀彧が袁紹を見限ったのは、袁紹のフットワークの重さゆえか。荀彧が特別に、劉協その人に、こだわる理由はない。
ただ袁氏は、ジレンマである。
袁氏が支持を集めるのは、袁氏なりの主義主張があるから。曹操のように、コロコロ変わらない、脈絡ある正義があるから。大きな船は、すぐに方向転換できないが、安全性は高い。それと同じだ。
徐州刺史の陶謙は、朱儁を太師にした。
李傕は、太尉の周忠と、尚書の賈詡の作戦をつかった。李傕は、朱儁を長安に召した。朱儁は受けない。つぎは朱儁を、太僕とした。
公孫瓚は、袁紹を龍ソウに攻めた。平原郡の境界である。袁紹は公孫瓚をやぶった。公孫瓚は幽州にひっこみ、二度と幽州から出てこない。
揚州刺史をつとめる汝南の陳温が、死んだ。袁紹は、袁遺を揚州に送った。袁術は、袁遺を追いはらった。袁遺は、沛国に逃げたが、殺された。袁術は下邳の陳瑀を、揚州刺史にした。
『考異』は献帝紀をひく。193年3月、袁術は陳温を殺して、淮南によった。「魏志」の袁術伝は、袁術が陳温を殺したという。裴松之は『英雄記』をひく。陳温は病死した。袁術が殺したのではない。『九州春秋』がいう。192年に揚州刺史の陳禕が死んだ。袁術は、陳瑀を揚州刺史にした。陳禕と陳温は、どちらも192年に死んだとされる。
193年につづく。袁術と曹操がぶつかります。100519