表紙 > 旅行他 > 松尾亜希子「蜀漢の南中政策と「西南シルクロード」」への質疑応答

『漢晋春秋』は怪しいし、支配の定義がわからない

三国志学会の第5回大会、行ってきました。
松尾亜希子氏「蜀漢の南中政策と「西南シルクロード」を聞きました。
ぼくは、報告にたいして質問をしました。
報告内容と、質疑応答と、渡邉義浩先生の補足を書きとめます。

あとから思いついたことも、書き加えます。学会の翌日、ぼくとおなじく学者でない人たちと、感想交流会をしました。そのときの話も、反映。


松尾氏の発表の結論

蜀漢の南中支配は、前漢や後漢とはちがう。
郡県として支配しない。ルートを支配するのみである。

学会でかかげられた紙のタイトルが「南中支配」でした。あとから配られたレジュメが「南中政策」でした。蜀漢は、南中を支配していない、というのが発表の要点だ。致命的な、タイトルのゆらぎだなあ。笑

蜀漢が支配したのは、ルートから利益を得ていた、異民族や大姓。
蜀漢は、南中の大姓と孫呉のむすびつきを、ふせぐ。

感想交流会で真っ先にでたのが、満田剛氏の著作を、踏まえていないこと。交州の士燮も。今回は、この点はくわしく書きませんが、、


松尾氏の発表の内容

秦王や始皇帝のとき、テンを軍事討伐。一時的な支配。

前漢の武帝のとき、西南シルクロードを「発見」
交易ルートとして認識した。張騫が重要性を主張。
前109年、前漢は益州郡をおく。
だがシルクロードの交通は、昆明にはばまれる

武帝のとき、まだシルクロードが機能してないことに注意。


後漢の明帝が、永昌郡をおく。69年に西南シルクロードが開通。
ルートを支配。交通施設を設置。
しかし後漢の安帝のとき、反乱が頻発して断絶。
蜀漢の諸葛亮が再開するまで、西南シルクロードは途絶える。

西南シルクロードをつかえたのは、長く見積もっても50年である。
まえ満田先生が「北伐のとき、魏延が主張した最短ルートは、安帝のときから通行禁止だった」とおっしゃってた。
安帝のとき、道路が寸断されまくった。気候のせいか、後漢が後退したせいか。安帝紀を見たけど、該当箇所を見つけられず。
諸葛亮が魏延に反対した理由が、道がドロドロのせいか、異民族に攻撃されるせいか。気になってきたが、今日の本題ではないので、宿題。


蜀漢は、西南を直接支配しない。根拠は『漢晋春秋』だ。

『漢晋春秋』が、主張のキモとなる史料で、だいじょうぶなんでしょうか。同時代史料じゃない。あてにならない「小説」の部類だと思うが。

ぼくなりに意訳します。諸葛亮はいう。蜀漢の役人を南中においても、リスクとコストばかり大きい。蜀漢の兵をおかず、食糧の供給もせず、現地の人たちに秩序の形成は任せよう、と。

諸葛亮の統治手腕(ないしは人徳)を、バンザイするための史料にしか見えない。これにもとづき『三国演義』が書かれるから、信じ込みやすいが。諸葛亮の存命中も、南中で反乱があったことは、史料にあることです。


『漢晋春秋』から、松尾氏がみちびく。
「諸葛亮は、郡県制に組むこむための遠征をしない。
 蜀郡や永昌郡をおいた、前漢の武帝、後漢の明帝とはちがう」
根拠は2つ。
 ・南征による成果は、西南シルクロードの再開(だけ)
 ・遠征が短期間だから、沿線の大姓に、示威するための行軍
のちに張嶷は、西南の国に朝貢させた。

張嶷伝の記事が、いつなのか。感想会で、提出された疑問です。ぼくは蜀漢の史料をそれほど読んでないので、自発的にいだけない疑問でした。
諸葛亮の死後に、あまり興味をもたないから、蜀漢の時系列による変遷に気をかけない人がいると。たしかに、よくないですね。。

西南地域で大姓がもつ規制力を前提にして、
蜀漢は南中から、経済・軍事の利益をえた。

ぼくの松尾氏への質問

せっかく愛知から東京にいったので、聞きました。

うまく喋れませんでしたが、まとめると、こんなことを聞きました。

以下、質問の内容。
漢族の王朝による南中政策は、ご報告のなかで2つありました。
 ・郡県を設置する
 ・交通ルートを整備する
蜀漢は郡県を設置せず、交通ルートのみを整備した。
だから蜀漢の支配の目的は、ルートの支配だけだと仰いました。
しかし、郡はすでに両漢で置かれており、
諸葛亮は新設の必要がなかったのではありませんか。
諸葛亮は回復をするだけで、充分だったのではないですか。

諸葛亮の南征の範囲は、両漢の版図の、内側にとどまる。

この史料だけで、蜀漢に「南中を郡県制で支配する目的がなかった」
とは、言えないと思います。いかがですか。

松尾氏のご回答

蜀漢のとき南中で、郡太守に、現地の大姓が任命されています。
張嶷が、異民族をもちいたという史料があります。
ルートだけの支配に、留まっていたと考えます。
また諸葛亮の北伐にする人が、増えます。これが大姓です。

ぼくの再質問

ご報告のなかで「独自の目的」という言葉が出てきます。
ルートの支配だけが、諸葛亮の「目的」ですか。
ルートだけでなく、郡県制の直接統治を望んだのではありませんか。
これについて、諸葛亮の真意や目的は、
史料的な制約で「分からない」と理解するしかありませんか。

松尾氏のご回答

はい。「分からない」でよいと考えます。

渡邉先生の補足

周辺の漢族でない地域が、自立する動きと関わらせて、
理解する必要があります。
楽浪郡から、三韓が自立します。日本の自立も、おなじです。

諸葛亮が奇跡的に大成功したら、南中をどう支配しただろうか。豫州や兗州のノリで、きめ細かく支配しただろうか。
きっと、ちがうだろう。三韓が独立にむかったように、南中も独立への動きがあるはずだ。諸葛亮の胸のうちが「郡県バリバリの支配」だったとしても、思いどおりになるかは、怪しいものだ。


翌日、感想会での意見

蜀漢は南中に、庲降都督を置いた。
劉備が漢中王になったときから、庲降都督があった。建安19年だ。
軍事的に、南中を軍事支配する気が満々である。

これをおっしゃったのは、参謀本部 電網課の徳本さん。

馬忠や張翼について触れずに、蜀漢の南中政策を語れない。
属国都尉についても、目をくばる必要がある。

また「ルートの断絶」というのは、公式見解にすぎない。
史料で「開通」する前から、
地元の人には「ずっと前から、人が通っているよ」であり、
史料で「断絶」した後だって、人は往来している。騒ぐほどでもない。

感想会に前後した、ぼくの疑問

感想会で、ぼくは疑問に思いました。
「支配って、なんだろう」

高校生みたいな疑問ですが、けっこうキー概念だと思う。蜀漢の南中政策を、どのように解釈するか。これを議論する限りは。

ビジネス書に頻出する概念で、恐縮ですが、考えてみる。
 ・ヒト:被支配者、生産従事者や兵士
 ・モノ:農作物、名産品
 ・カネ:便宜的に、税収をここに置きましょう
 ・情報:支配者(渡邉先生の定義するところの名士?)

ヒトの場所に、名士(士大夫でも豪族でもいいが)を設置すると、生産従事者や兵士と混ざって、うまく分類できない。支配者層は、情報のところに置いてみました。思いつき!

前漢武帝や後漢明帝と、諸葛亮のめざした「支配」は、
ここにあげた4つについて、どこが違うんだろう。
ぼくは、ちがいが見出せない。
目的のちがいというより、達成度&浸透度のちがいにしか見えない。

もうひとつ、ぼくは疑問に思いました。
「軍事支配」「民政支配」「ルート支配」って、なにがちがう?
外見は、広い土地のなかに、ポツーンと王朝の出張所があるだけ。
実態はこれだけで、どれも同じなのでは?
もし「将軍府」とフダが掛かっていれば、軍事支配で、
平和になって「将軍府」のフダを降ろせば、民政支配になり、
そこに旅人をお世話する機能がつけば「ルート」支配なのかなあ?

軍政支配なら、出張所にいる人は、ものものしい肩書きをもっている。いわゆる民政の役所よりは、兵士がおおいだろう。でも、被支配者すべてにヤリを突きつけて「オレにしたがえ」と脅しはしない。頭数が足りない。それなら、役所の外から見たら、地域全体を空から見たら、軍政と民政のどこに、本質的な差異があるのだろう?
今回松尾氏がご紹介された「ルートの支配」は、むしろ福利厚生施設の整備である。馬や車をメンテナンスしてくれる。支配って、なんだろうなあ。


よく「郡が陥落し、国土から離脱した」と史料から読めるが、
けっきょく郡の役所1つが、攻め落とされただけだ。
大陸に点在する出張所について、いろんな意味を背負わせすぎ。

2つのバイアスを意識すべきだ。「為政者がつくった史料から眺めている」「国土のちいさな日本の常識をもちこんでいる」と。バイアスは除けないが、意識したい。
ところで、ゲームにでてくる「ポケモンセンター」は、歴史家が分析したら、どんな種類の支配機構だろうか。笑

支配の「目的」とか、「質的」な差異とか、言えるのか?

おわりに

とりあえずぼくは「蜀志」を読まねばなあ、、
三国志学会ネタ、断続的に、しばらく扱ってゆきます。100914