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『春秋左氏伝』の価値判断が、三国志を読み解くカギ

竹内康浩『「正史」はいかに書かれてきたか』大修館書店2002
気になった内容を抜粋しつつ、感想を書きとめます。

内容のまとめ

ぼくなりにまとめます。ビジネスの報告でよく言われるところの、
「事実と意見を区別しなさい」
という文句を、正史にたいして付けつづける本。
中国の正史は、事実と意見を根ぶかく混同する。これは孔子が書いたとされる『春秋』から始まったこと。これよりあと、正史において、どのように事実と意見の混同がつづいたかを、紹介する本。

事実だけを、完全に客観的に記すことは、不可能だとぼくは思う。19世紀や20世紀の哲学者たちが、言ってきた。しかしその不可能について、作者は触れていません。そこまで突き詰める前に、いくらでも正史には、カイゼンすべきところがあるだろう。竹内氏は、そういう立場でした。

ぼくは思います。筆者は、あまりにムチャを言っています。正史の文章から、意見や評価を除けというのは、たとえば、
「このカキ氷、冷たいじゃないか!冷たくないカキ氷を持ってこい」
と叫ぶのと同じくらい、困ったクレーマーである。以下、内容。

はじめに

隋の文帝・楊堅は、593年に命じた。
「国史を編集し、人物に評価を加えることを禁じる」
後漢の班固は「私に国史を改作した」から、投獄された。
中国で歴史は、民間人が語ってはいけなかった。

1章『春秋』の虚実_2

最初の歴史書は『春秋』だ。魯国の記録。BC722-BC484。
周王を頂点とする秩序体系を、理想とする。
「孔子が編纂に関わった」と孟子が記したから、儒家の教科書。
孔子が関与したかの真偽より、孟子の記述が信じられたことが重要。

カンタンな記述。宋の王安石「官報の切れっ端」という。
3種類の注釈。『左氏伝』『公羊伝』『穀梁伝』が紀元前からあり
『春秋左氏伝』が分留がおおく、説話がおおく、参考になる。

夏五月鄭伯克段于エンの9文字に、含蓄あり。
弟を弟といわず、兄を兄と云わないのは、行動がふさわしくないから。
「克」は戦争に用いる表現。個人の対立がエスカレートしたから。
事件の結末を書かないのは、勝者にも後ろめたさが残るから。など。

3種の記述を、ならべて印刷した『春秋三伝比義』という本があるらしい。いちど読みたいが、きっと手に余るんだろうなあ。

『春秋』は、わざと文を切り詰めた。同時代の毛公鼎は、字数が多い。

『春秋』の歴史意識が見える、2つの事例。
前548、崔杼は「崔杼が君主を殺した」と記した歴史家を、3人も殺した。歴史家とは、命がけで事実を書くイキモノである。
前607、董狐は「趙盾が君主を殺した」と記した。趙盾は、実行犯ではない。董狐は考えた。趙盾は宰相だから、君主が殺された責任を負えと。

2つの事例は、朝廷内に公開された。悪事を暴いた。
事実をゆがめた「書法」は、「かくあるべし」を明らかにする。
事実よりも評価を前面におす。中国の歴史書のパタンが定まった。

2章『史記』の成立

『史記』の執筆動機は、司馬談が前漢武帝の封禅にゆけないから。
司馬遷は、『春秋』をついで、道徳を示そうと序文で宣言した。
五宗世家で、前漢景帝の息子と子孫の淫乱をあばく。

司馬遷はいう。紀伝体では、形式と内容が即応する。

竹内氏は、この司馬遷の意図に文句をつける。「世家なんて、要らない。列伝にふくめて充分じゃないか」と。ひどいなあ。
『漢書』以降、世家がなくても、歴史書は成立している。しかし、結果からさかのぼり、司馬遷を批判してはいかんだろ。

司馬遷は『ウ本紀』をみた。本紀は、司馬遷の発明でない。
天命を受けた人に、在位期間の長短にかかわらず、本紀をたてた。
本紀は、形式的には帝王の尊さをしめす。
だが本紀の内容では、帝王の人格的な欠損をあばく。ギャップが滑稽。

司馬遷が、前漢をそしったという説は『三国志』にある。
明帝紀はいう。明帝は王粛に聞いた。司馬遷は、前漢武帝にあてつけて『史記』を書いたのか。王粛はちがうという。劉向や揚雄がいうように、司馬遷はすぐれた歴史家だ。うらみがあったのは、武帝のほうだ。
また『後漢書』蔡邕伝はいう。
司馬遷のように悪口を残されたくないから、王允は蔡邕を殺した。
これらのウワサは、『史記』武帝紀が早くに失われたせいで生じた。

3章「正史」の形成と展開_56

王莽が、前漢を滅ぼしたと認識された。班彪が着手。子の班固がつぐ。
班固は「国史を改作」して、投獄された。
すべての権威・価値を発する、皇帝に挑戦したと、受けとられた。

班彪は『史記』を批判。儒教道徳に反し、貨殖と遊侠列伝を立てたから。
司馬遷は、金儲けでなく、智恵や努力を礼賛した。班彪は理解せず。
『史記』と『漢書』は、班馬の争いとして競合する。
『史記』は呂后本紀に悪事を書くが、『漢書』は悪事を外戚伝に移動。
『漢書』の本紀は、人徳と智恵のある名君のみ。漢王朝に配慮。

どうせどこかに書いてあっても、書いてある場所によって重要度がちがう。論文集をつくるとき、とても大切なポイントですね。
外戚伝については、漢室のカゲの部分が記してありそうで、興味深い。以下の論文を、夏休みに読みました。呂后本紀の評価は、いま読んでいる竹内氏とはちがいますが。
小林春樹『漢書』外戚伝、元后伝、王莽伝につき、論文を抜粋


『三国志』にて、正史で正統論が発生。君主の呼称に落差。
竹内氏は、事実を確定する前に、記述に評価をまぜこむことを怒る。

4章 記録する側の論理

創業皇帝の出生は、作為的だ。
劉邦は、個人情報がさみしいのに、神秘的な逸話はゆたか。
だが『三国志』は現実路線統一王朝の君主ではないからか。

そういえば、陳寿本文は、現実路線だ。再認識しておきたい。

司馬炎の髪が長いから、後継者になったというのは、意味不明。
北魏の道武帝、南朝の君主は、龍を思わせる神秘。

神秘的な出生は、なぜ描かれるか。支配される側に
「なぜあの人に支配されねばならないか」
を納得させるため。この意味でなら、充分に合理的だ。
政治をおこなう側が自信をうしなうと、神秘的な話ができる。

陳寿は、西晋による天下統一の永続を、疑っていなかったのでは? だから曹操に神秘性を与えなかった。陳寿が死んだのは、後期の八王の乱が始まる前だ。『三国志』は、ハッピーエンドが約束された本である。
この点、南朝宋でバッドエンドの伏線として書かれた『後漢書』とちがう。


反乱者の扱いは、正史の筆者によって正反対。洪秀全が例。

洪秀全が好例なのは『清史稿』と『清史』で正反対に描かれるから。複数の歴史書で、プラスとマイナスを両面的に比べることができるのは、すばらしいこと。『三国志』では、たとえば「孫晧を名君に書いたらどうなるか」を、妄想でおぎなうしかない。


正史がつかう「蛮夷」は、『礼記』にある由緒正しい言葉。
東西南北の蛮夷がそろうのは、唐代に入ってから。
異民族による征服王朝のとき、蛮夷でなく「外国伝」となる。

三国時代をあつかう範囲では、蛮夷にたいする認識は変わらない。


終章 北魏・国史事件の意味するもの_156

北魏の崔浩は、鮮卑の王朝につかえた。
崔浩は、鮮卑の習俗を事実どおり書いて、殺された。歴史書は破棄。
歴史書は事実でなく、権力者の自信と誇りを満たすために、書かれた。

この北魏のやり方を、竹内氏は批難する。「歴史は『上書き保存』ではいけない」のだそうだ。竹内氏の意見は、意見として、聞き流しましょう。


おわりに:『春秋左氏伝』をやる必要性

以上で、本からの抜粋は終わりです。 ぼくは思いました。
『三国志』を理解するには、『春秋左氏伝』が必須だなと。

歴史書に、価値判断や評価、意見がまじるのは、避けられない。
中国正史の「ゆがみ」は分かりやすいが、程度にちがいがあるだけ。
ぼくら21世紀の人間にも、事実だけの客観的な記述なんてムリ。

出口のない議論よりも、もっと生産的な感想を。
『春秋左氏伝』が提示した価値判断は、三国の人をしばったはず。
歴史の認識とか、儒教の規範とか、既定の分野をこえて、
三国の人の行動原理を形づくったはず。読まねばなるまい。
なにせ『春秋』は、歴史書のルーツだから。
『漢書』も読みたいのに。やることが多いなあ。 100825