表紙 > 考察 > 長江の中下流域に、とつぜん出現した大きな袁術帝国

江夏蛮の水軍を強みに、荊州と揚州を押さえた袁術

ツイッターを書いていたら、ひとりで勝手にエスカレート。
ツイッターは見づらいので、加筆&抜粋。
連続投稿してしまい、画面が埋まった方、ごめんなさい。

袁術水軍の可能性を、ほのめかした人がいた

孫権の水軍のルーツについて、ぼくの周囲で諸説あり。
ゼロから新設にしては、赤壁のとき3万はおおい。
史書にない、山越から調達か。
甘寧方式で、益州から流着したか。黄祖から奪取か。
袁術水軍の存在を唱える声も(ぼくが言い出したのではありません)

今回の考察(悪ふざけ)でもっとも重要なのは、ここです。はじめに袁術水軍を思いついたのが、ぼくではないということ。ぼくが思う袁術は中原志向で、長江に興味がないと決めつけていました。

孫呉の水軍のルーツは、どこだろう。
後漢の江夏蛮-孫堅-袁術の死-黄祖-孫権だと、今回は考えました。

190年代の劉表は、長江周辺におよばない

黄祖の水軍は、どこから来たか。
もとは、劉表に不服従な現地勢力だ。江夏蛮の流れをくむ。
190年過ぎ、劉表は単騎で荊州北部に入城。
江夏や長沙を平定した記事が、司馬彪『戦略』にある。
裴注の位置のせいで、190年代前半に平定した印象だが、ちがう
長沙の張羨が叛いたように、長江周辺は、劉表に従わず。
199年、張羨の子・張懌を降して初めて、劉表が長江周辺を平定。

199年以前、荊州中部は袁術になびいた?

黄祖と孫呉の初戦は、199年。
劉表が荊州中部(長江周辺)を平らげた直後に、
黄祖と孫策が衝突したことになる。意外と忙しい。

では、199年以前は、どんなか
敵の敵は味方という論法を取れば、荊州中部の諸勢力は、
劉表の敵・袁術とつながっていた可能性がある。
曹操と張羨がむすびついた話は有名。袁術も同様に想定可能)

劉表が荊州の中南部をとれたのは、袁術の死のおかげ

袁術はかつて、桂陽や零陵を平らげた孫堅軍団を吸収した。
孫堅の死と、南陽からの脱出の2つを理由に、
袁術は荊州に地盤を失った」という評価が一般的。
だが劉表が荊州中部を平らげたのが199年だと確認すれば、
それ以前は、袁術が荊州中部に影響をもった可能性がある。
奇しくも199年は、袁術の没年。
劉表は、袁術が死んだから、荊州中南部にすすめたのかも。

孫策は袁術の後継者として、荊州のキープを試みた。黄祖に負けた。
孫策と孫権が、ねちっこく黄祖を攻める動機は、
父の仇討ちはもちろんだが、袁術領の回復が目的か?
小説が仇討ちを強調しすぎて、見えなくなっていた視点だ。

黄祖と孫策がぶつかったのは、袁術が死んで、この地域の支配が動揺した199年。1年の猶予もない
曹操と孫権がぶつかったのは、劉表と黄祖が死んで、この地域の支配が動揺した208年。1年の猶予もない
「群雄割拠」というと、バランスよく安定した構図がうかぶ。ちがう。空白地域は、ただちに攻める。1年も油断できない時代なのです。兵をいつでも出せねばならない。江夏郡は、必争の荊州のなかでも、必争の郡だ。


荊州中部から東シナ海につながる、袁術帝国

袁術の寿春入城は、まぐれや、気まぐれでない。
兗州で曹操に敗れたのは失敗だが、
荊州中部から寿春をへて海まで繋げて、長江の一帯を抑えている。
称帝も、むやみな強がりではない。

ちまたで荊州を抑えたとされる劉表の領土は、じつは襄陽周辺のみ。
袁術には面白くないものの、局地的な虫食いだ。打撃は僅少。

州治を抑えることが、イコールで「州の支配」ならば、劉表は荊州を抑えていると云える。だが袁術は、荊州の北部一帯を失ったものの、ひろい荊州の中南部を抑えている。税収は、圧倒的に袁術のもの。
ぼくが『群雄勢力マップ』を塗ったら、荊州の中部が、うすい袁術の色になってしまうだろう。大間違いだと思います。知っています。笑

長江の中下流域に、袁術帝国&水軍を妄想するに到りました。笑

袁術は、孫堅の江夏蛮を吸収し、孫権にバトンタッチ

袁術水軍の母体となったのは、荊州の江夏蛮だろう。
元海賊&後漢の長沙太守の孫堅が、江夏蛮を手なずけた。
袁術水軍は、南陽から寿春への移動の武力的裏づけ。
袁術の死後、劉表の黄祖がついだ。
孫策と孫権が10年かけて、黄祖から水軍を奪った。甘寧をふくむ。
孫堅の子に返却されたことに。この水軍が赤壁で曹操を破った。

袁術のモデルは、新末の更始帝だ

長江中部(江夏郡)の兵力で天下を取ったのは、新末の更始帝・劉玄。
莽新の役人からのがれ、故郷の南陽から南下した。
緑林軍から分岐した、その名も「下江軍」らとともに荊州を北上。
洛陽と長安を抜き、いち早く皇帝を名のった。

『後漢書』の列伝を、抄訳&考察しました。
『後漢書』劉玄伝を抄訳、袁術が目標とした、一番のりの皇帝

袁術は、更始帝を戦略の参考とし、荊州中部に着目。
董卓の洛陽から、荊州の南陽に逃げた。誰より早く称帝した。笑

袁術の大帝国を想定する、5つのメリット

黄河の中下流域に、大袁術帝国。この妄想のウリは5つ。
 1.南陽を離れた袁術が、淮南で蘇生した説明がつく。長江の道。
 2.異民族(荊州蛮)の兵力に着目した、新説っぽい雰囲気。
 3.190年代に劉表が、領土をゆっくり拡げた過程を確認。
 4.孫堅が果たした功績が大きくなり、孫呉ファンが嬉しい。
 5.孫堅から孫権への水軍継承という、ドラマみたいなご都合主義。
これらについて、近日まとめます。

新しい史料が発掘されたわけじゃないのに、
ちょっと見方を変えるだけで、とつぜん大帝国が出現!
偏向ある妄想ですが、史料に基づく否定は、微妙に難しいはず。笑
シロウトとして三国志を読む楽しさ、これにきわまる。100825