表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国志の前後関係を整理する

228年夏~、曹休の敗死

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

228年夏、涼州を徐邈がひきしめる

夏,四月,丁酉,京還洛陽。 帝以燕國徐邈為涼州刺史。邈務農積穀,立學明訓,進善黜惡,與羌、胡從事,不 問小過;若犯大罪,先告部帥,使知應死者,乃斬以徇。由是服其威信,州界肅清。

228年夏4月丁酉、曹叡は洛陽にかえった。
曹叡は、燕國の徐邈を、涼州刺史にした。徐邈は、農業と学術をすすめた。羌族や胡族を、小さな罪は見のがした。大きな罪は、きびしく罰した。徐邈の威信は、涼州の境界をひきしめた。

徐邈の手柄は、諸葛亮にみだされた涼州を回復したこと。


五 月,大旱。
吳王使鄱陽太守周魴密求山中舊族名帥為北方所聞知者,令譎挑揚州牧曹休。魴曰: 「民帥小丑,不足杖任,事或漏洩,不能致休。乞遣親人□箋以誘休,言被譴懼誅,欲 以郡降北,求兵應接。」吳王許之。時頻有郎官詣魴詰問諸事,魴因詣郡門下,下發謝。 休聞之,率步騎十萬向皖以應魴;帝又使司馬懿向江陵,賈逵向東關,三道俱進。

228年5月、ひでり。
孫権は、鄱陽太守の周魴に、揚州牧の曹休をだまさせた。曹休は、歩騎10万をひきいて、皖城で周魴をむかえた。
曹叡は、司馬懿に江陵へ向かわせた。賈逵は東関いった。曹休、司馬懿、賈逵は、3道から、ともに進んだ。

228年秋、曹休が石亭で、陸遜に敗れる

秋,八月,吳王至皖,以陸遜為大都督,假黃鉞,親執鞭以見之;以硃桓、全琮為 左右督,各督三萬人以擊休。休知見欺,而恃其眾,欲遂與吳戰。硃桓言於吳王曰:
「休本以親戚見任,非智勇名將也。今戰必敗,敗必走,走當由夾石、掛車。此兩道皆 險厄,若以萬兵柴路,則彼眾可盡,休可生虜。臣請將所部以斷之,若蒙天威,得以休 自效,便可乘勝長驅,進取壽春,割有淮南,以規許、洛,此萬世一時,不可失時!」
權以問陸遜,遜以為不可,乃止。

228年秋、孫権は皖城にきた。陸遜を大都督として、黃鉞を仮した。朱桓と全琮を、左右督とした。それぞれ3万で、曹休を撃った。曹休は兵数をたのみ、呉軍と戦おうとした。朱桓が、孫権に言った。
「曹休は、皇族というだけだ。曹休を破り、生け捕りましょう。寿春をとり、淮南を切りとる。許昌や洛陽をとるチャンスです」
陸遜が朱桓に反対したので、孫権は朱桓を用いず。

夏侯楙も曹休も「皇族だから、大任をあずかるが、じつは臆病で弱い」と言われる。曹真が死に、めぼしい皇族がいなくなったあと、司馬懿が登場する。皇族に方面軍を任せるべきか、否か。むずかしい問題だなあ。八王の乱まで、議論はつづくよ。笑


尚書蔣濟上疏曰:「休深入虜地,與權精兵對,而硃 然等在上流,乘休後,臣未見其利也。」前將軍滿寵上疏曰:「曹休雖明果而希用兵, 今所從道,背湖旁江,易進難退,此兵之絓地也。若入無強口,寵深為之備!」寵表未 報,休與陸遜戰於石亭。遜自為中部,令硃桓、全琮為左右翼,三道俱進,沖休伏兵, 因驅走之,追亡逐北,逕至夾石,斬獲萬餘,牛馬騾驢車乘萬兩,軍資器械略盡。

尚書の蒋済は、上疏した。「曹休は、敵地に入りこんだ。朱然が上流にいる。曹休は、やばい」と。前将軍の満寵は、上疏した。「曹休は、進みやすいが、退きづらい土地にいる。私がサポートしましょう」と。
満寵の上表がとおる前に。曹休は陸遜と、石亭で戦った。陸遜は、朱桓と全琮と、曹休を攻めた。曹休は破れた。夾石で曹休は、軍資をおおく奪われた。

初,休表求深入以應周魴,帝命賈逵引兵東與休合。逵曰:「賊無東關之備,必並 軍於皖,休深入與賊戰,必敗。」乃部署諸將,水陸並進,行二百裡,獲吳人,言休戰 敗,吳遺兵斷夾石。諸將不知所出,或欲待後軍,逵曰:「休兵敗於外,路絕於內,進 不能戰,退不得還,安危之機,不及終日。賊以軍無後繼,故至此,今疾進,出其不意, 此所謂先人以奪其心也,賊見吾兵必走。若待後軍,賊已斷險,兵雖多何益!」乃兼道 進軍,多設旗鼓為疑兵。吳人望見逵軍,驚走,休乃得還。逵據夾石,以兵糧給休,休 軍乃振。初,逵與休不善,及休敗,賴逵以免。

はじめ曹休は、周魴に応じるため、深入りした。曹叡は、賈逵を東へ行かせ、曹休と合わそうとした。賈逵は言った。「呉軍は、東関を守っていない。東関の軍を皖城に合わせ、曹休と戦うつもりだ。曹休は必ず敗れる」と。
呉軍は、夾石にいる賈逵を見て、驚いて逃げた。はじめ曹休は、賈逵と仲がわるかった。だが賈逵のおかげで、曹休は逃げることができた。

九月,乙酉,立皇子穆為繁陽王。
長平壯侯曹休上書謝罪,帝以宗室不問。休慚憤,疽發於背,庚子,卒。帝以滿寵 都督揚州以代之。
護烏桓校尉田豫擊鮮卑郁築鞬,郁築鞬妻父軻比能救之,以三萬騎圍豫於馬城。上 谷太守閻志,柔之弟也,素為鮮卑所信,往解諭之,乃解圍去。

228年9月乙酉、曹叡の皇子・曹穆を、繁陽王とした。
曹休は宗室だから、敗戦を問われない。だが曹休は背中を病み、9月庚子に死んだ。曹叡は、満寵に揚州を都督させた。満寵は、曹休の代わりだ。

曹休の前は、だれだっけ。夏侯惇かな。26軍を督したという。孫権への備えは、重要な任務だから、皇族が占めていたのだ。
ということは、西方の「曹休から司馬懿へ」より前に、皇族から、有能な臣下へ、方面軍が移されたことが分かる。司馬懿の登場を、それほど騒がなくてもいいのだ。笑

護烏桓校尉の田豫は、鮮卑の郁築鞬を撃った。郁築鞬の妻の父は、軻比能である。軻比能は、郁築鞬を救った。軻比能は3万で、田豫のいる馬城をかこんだ。上 谷太守の閻志は、閻柔の弟だ。ふだんから閻志は、鮮卑に信頼されている。閻志がさとし、包囲を解かせた。

田豫、なにげに任期がながい。田豫伝、やらねばなあ。


228年冬、諸葛亮が陳倉を攻める

冬,十一月,蘭陵成侯王朗卒。
漢諸葛亮聞曹休敗,魏兵東下,關中虛弱,欲出兵擊魏,群臣多以為疑。亮上言於 漢主曰:「先帝深慮以漢、賊不兩立,王業不偏安,故托臣以討賊。(後出師の表を略)」

冬11月、蘭陵成侯の王朗が死んだ。
諸葛亮は、曹休が敗れたと聞いた。諸葛亮は、後出師の表をあげた。

後出師の表、はぶきます。
っていうか、宮城谷『三国志』九巻は、もろ『資治通鑑』とおなじである。ピックアップする人物の、重点の置きかたが。これを見ながら、自分なりの解釈を膨らませ、小説にしたらしい。あれだけストイックな宮城谷さんが、後出師の表を、なんの文句もつけずに引用したことから、分かる。


十二月,亮引兵出散關,圍陳倉,陳倉已有備,亮不能克。
亮使郝昭鄉人靳詳於城 外遙說昭,昭於樓上應之曰:「魏家科法,卿所練也;我之為人,卿所知也。我受國恩 多而門戶重,卿無可言者,但有必死耳。卿還謝諸葛,便可攻也。」詳以昭語告亮,亮 又使詳重說昭,言「人兵不敵,無為空自破滅。」昭謂詳曰:「前言已定矣,我識卿耳, 箭不識也。」詳乃去。亮自以有眾數萬,而昭兵才千餘人,又度東救未能便到,乃進兵 攻昭,起雲梯沖車以臨城。昭於是以火箭逆射其梯,梯然,梯上人皆燒死;昭又以繩連 石磨壓其沖車,沖車折。亮乃更為井闌百尺以射城中,以土丸填塹,欲直攀城,昭又於 內築重牆。亮又為地突,欲踴出於城裡,昭又於城內穿地橫截之。

228年12月、諸葛亮は散関をでて、陳倉をかこんだ。曹休が備えたから、諸葛亮は陳倉をぬけない。諸葛亮は、郝昭と同郷の靳詳に、郝昭を説得させた。郝昭は説得をこばみ、守城した。

晝夜相攻拒二十餘日, 曹真遣將軍費耀等救之。帝召張郃於方城,使擊亮。帝自幸河南城,置酒送郃,問郃曰: 「遲將軍到,亮得無已得陳倉乎?」郃知亮深入無谷,屈指計曰:「比臣到,亮已走 矣。」
郃晨夜進道,未至,亮糧盡,引去。將軍王雙追之,亮擊斬雙。詔賜郝昭爵關內 侯。

20余日、攻防した。曹真は、将軍の費曜らに、陳倉を救わせた。曹叡は張郃を方城から召し、諸葛亮にあてた。曹叡は、河南城で張郃を見送った。

曹丕は、孫権と戦い、よく東に行った。曹叡は、諸葛亮を気にして、西の関中にゆく。父子で、軍事の重点がちがうなあ。まあ、敵に対応しているだけだ。主体的に、戦略を変えているのではない。

張郃は曹叡に言った。「私(張郃)が陳倉につくころには、諸葛亮は敗走しています」と。
諸葛亮は兵糧がつきて、引いた。将軍の王双が、諸葛亮を追った。諸葛亮は、王双を斬った。郝昭は、関内侯になった。

228年冬、公孫淵がつぎ、呂範が死ぬ

初,公孫康卒,子晃、淵等皆幼,官屬立其弟恭。恭劣弱,不能治國,淵既長,脅 奪恭位,上書言狀。
侍中劉曄曰:「公孫氏漢時所用,遂世官相承,水則由海,陸則阻 山,外連胡夷,絕遠難制。而世權日久,今若不誅,後必生患。若懷貳阻兵,然後致誅, 於事為難。不如因其新立,有黨有仇,先其不意,以兵臨之,開設賞募,可不勞師而定 也。」帝不從,拜淵揚烈將軍、遼東太守。

公孫康が死ぬと、弟の公孫恭がたった。公孫淵が、位をうばった。公孫淵は、曹叡に上書して、立場の保証をもとめた。
侍中の劉曄は言った。「公孫淵を片づけておかねば、ジャマです」と。曹叡は劉曄をみとめず、公孫淵を揚烈將軍、遼東太守とした。

吳王以揚州牧呂范為大司馬,印綬未下而卒。
初,孫策使范典財計,時吳王年少, 私從有求,范必關白,不敢專許,當時以此見望。吳王守陽羨長,有所私用,策或料覆, 功曹周谷輒為傅著簿書,使無譴問,王臨時悅之。及後統事,以范忠誠,厚見信任,以 谷能欺更簿書,不用也。

孫権は、揚州牧の呂範を、大司馬とした。大司馬の印綬をあたえる前に、呂範は死んだ。呂範は、孫策をたすけた人である。101118

呂範伝で読みました。