董卓を正当化し、笑いに変える漫画でした
末広氏の『超アレ国志』(メディアファクトリー2008) という漫画。
知人の勧めで、読みました。いま5回くらい読んだ。
ギャグ漫画として楽しく読んでいます。しかし、それだけでない。中国古代の歴史書を編纂するときと、おなじ脳の部分をつかって、書かれている気がする。つまり、毀誉褒貶を読み換えている。行動の意味に、ちがった解釈をぶつけている。
この物語は「とうたくさん」が主人公です。モデルは、董卓です。この「とうたくさん」は、かわいい主人公です。髪がピンク色で、ツノの髪飾り?をしてます。『三国志』にあるような、ただの暴君ではない。愛嬌のあるキャラに仕上がってます。
ぼくは、このキャラが好きです。
董卓をモデルにして、このキャラを仕立てるためには、『三国志』や『後漢書』を忠実に踏まえるだけでは、ダメです。『三国志』や『後漢書』の記述に、1段階の史料批判をはさみ、董卓の評価を、善いほうに修正したあと、ギャグへと仕立ててあります。今回は、末広氏による解釈?をまとめます。
袁氏から後漢王朝を守った、外戚風の宮廷政治家・董卓伝
本の扉に、正史『三国志』や『演義』との関係について言及してある。「一切関係ない」「一切貶めるものでない」と。出版するって、大変だなあ。ふつうに、読んで楽しければ、ぼくはそれでいいのに。このページは、『超アレ国志』が好きだという前提のうえで、書きます。
羌族を理解して、兵力を活用する
冒頭で、「とうたくさん」は、「三国一の大悪人、このお話の主人公だよ!?」と紹介される。一般的に董卓が、主人公になりにくいことを、作者は笑いにしてる。
「夏炉冬扇」の回では、黄巾討伐を命じられたが、寝ころがって本を読み、出撃しない。『後漢書』で董卓は、盧植に代わって、北中郎将として冀州平定を命じられたが、戦功がない。皇甫嵩に代わられた。董卓は、黄巾討伐に手をぬいた、なんて小説もあったか。董卓を主人公にするとき、黄巾討伐の不振は、名誉でない。目を背けたいこと。それを、ギャグに転じてごまかす。歴史書の常套手段だなあ。笑
「とうたくさん」は、羌族がペット。「辺境異民族」の回では、皇甫嵩に、羌族の従軍を断られた。「とうたくさん」は、「羌人も、皆と同じ人間ですっ、どんな人たちか学んで仲良くすべきです」と、正しすぎることを言う。「羌人は、とっても楽しい生き物だよ!?」という紹介もある。前時代を生きる皇甫嵩と異なり、羌族への理解が深かったことが、表現されてる。歴史書が強調したがらない、董卓の長所。
「続辺境異民族」の回では、「羌族」が「トランスフォーム」して、「鮮卑族」になる。董卓はこの「芸」を理解している。つまり異民族は、出現する場所により、漢室から、違う名前が与えられる。しかし名前に、科学的な根拠はない。じつは同一の種族が、移動しているだけのこともある。「とうたくさん」は、これを分かっている。
異民族を弁護する「とうたくさん」を、皇甫嵩は剣で刺す。皇甫嵩は、ツッコミ役に見えて、じつは皇甫嵩の無知が、笑いになってる。
「叛」の回では、「とうたくさん」のペットの羌族が、韓遂にたぶらかされて、反乱に投じる。董卓は、涼州の反乱を鎮圧する立場。韓遂になびく羌族を、ひどい表情で、「ダメェェーッ!!」と、ちゃんと止めている。
羌族は、「とうたくさん」になつくが、韓遂の指示は聞かない。「人畜無害」の回で韓遂は、辺章も羌族も、うまく動かせない。相対的に、董卓の人望や、指揮能力をほめているのだ。「造反無道」の回で、「とうたくさん」は韓遂に圧勝した。辺章は、韓遂を助けない。タッチはギャグだが、かなり董卓バンザイの漫画。いいなあ。
愚かな少帝を、劉協とともに廃す
洛陽で政変あり。「安全運転」の回で「とうたくさん」は、「天子の車号」に乗り、低速で洛陽にむかう。「急げーっ、この機に乗じて、洛陽をのっとるのだ」と言いつつ、遅い。董卓が強引に洛陽をうばったのでなく、みずから洛陽は、董卓に奪われるような状況を用意した。こういう解釈か。あくまで「とうたくさん」は、時機を与えられた側。
ちなみに、「天子の車号」は、のちに蔡邕に諌められる、アレのことか。
洛陽では、何進、何皇后、袁紹、袁術が、相互に殴りあっている。袁紹と袁術は、十常侍を殺そうとするが、狙いが定まらず、盧植を攻撃する。洛陽の人たちは、袁氏を筆頭に、愚かに描かれる。董卓の敵だから、扱いが悪いのだ。
「洛陽にのり込もうとしたら、偶然、帝に出会っちゃったよ。ワザとじゃないんです!! 事故なんですーっ!!!」と、「とうたくさん」が言っている。天命による必然なんだな。笑
少帝は、万人が毛嫌いするような顔。ギャグにすら、なっていない、憎たらしい顔。鼻血を流して、チョコを「くっちゃ、くっちゃ」と食べている。「とうたくさん」は、悪意なく、少帝を「天子の車号」で轢く。
少帝の廃位は、もっとも董卓への批判が集中するところ。この漫画では、少帝を、最低なキャラにすることで、董卓の評価を下げさせない。
「問鼎軽重」の回は、回のタイトルがすでに不穏当だ。「とうたくさん」は言う。「少帝よりも、陳留王の方が、帝らしくない?」と。まったく史書を踏み外さないセリフ。とても不穏当。しかし、つぎのコマで、少帝が鼻水を垂らして「今ブログ書いてんのに、うるせーよっ」と言うから、董卓は正当化された。少帝は「今、で・ん・わ!し・て・る・のっ!うるせーってばっ」とも言う。董卓の正当化は、著しい。読者は、少帝をウザいと思う。
「強権発動」の回で、少帝は言う。「ていうか、歴史とかダセッ!全然分かんねーしっ、人多過ぎだろ!? 三国史?とかって元々何?ゲーム?」と。少帝のセリフを受けて、陳留王・劉協が、少帝の顔面を蹴る。少帝のセリフは、作者が考えるところの、『三国志』ファンを、もっとも怒らせる言葉なんだろう。これを少帝に言わせて、少帝の廃位を確実にする。劉協にまで、少帝を攻撃させた。
廃立は、董卓が横車を押したのでない。廃立は、劉協も同意のもとで行われた。これを、歴史書に特有の「正当性の操作」と言わずして、ほかになんと言うか。笑
王允、張邈をけなし、呂布のせいで洛陽を焼く
荀攸は、董卓を暗殺するために狙っているはずが、そうでない。「とうたくさん」のファン、カメラ小僧。荀攸は、「とうたくさん」が好き。
蔡邕は「とうたくさんですら、NOと言えないほどの威圧感を放つ。宮中一の文士。とうたくさんの横暴を、いさめる。力ずくで」というキャラ。しかし蔡邕が力ずくで、殴る&蹴るのは、盧植など。董卓政権は、士大夫に掣肘されていた。これを、無視はしないが、そのまま描きもしない。士大夫は、派閥を形成して、足をひっぱりあう。士大夫の争いの外にいて、「とうたくさん」は、あくまで自由だ。
やがて蔡邕は、「とうたくさんを見守っている、師父的な人」という解説がつく。
王允は人望がなく、貂蝉にも慕われない。董卓の敵だから、扱いが悪い。王允は拗ねつつも、「むしろオレ、とうたくさんが来てから、出世してるし!」と言う。董卓の恩を強調した。王允につく解説は、どうしようもない。「忠臣だったり、謀略家だったり、いろいろと大変な人。正体はハゲ」と。王允の謀略はつたなく、バレバレ。王允こそ、董卓の最大の敵。顕著に、損な役回り。
曹操も、董卓の敵。友人が1人もおらず、周囲には太鼓もちだけ。お菓子に目がない、おっさん顔のチビ。孫堅も、董卓の敵。そそっかしくて、まっすぐ歩けない。玉璽をなくす。だから孫堅は荊州で犬死したのだなと、妙に納得させてくれる弱さ。
張邈は、関東を不和にする、最低のヒーロー。袁紹とテーブルをかこみ、酒とタバコをやる。「めんどいし、ヒマ」という理由で、董卓を討つための同盟を解散しちゃう。
「とうたくさん」は、徐栄、華雄、呂布など、味方の武将をこわがる。董卓軍は荒くれ者のあつまりだが、この荒さを「とうたくさん」は怖がった。こう解釈すれば、ひとり「とうたくさん」のみ、愛されるべきキャラに留まることができる。
呂布の容姿がコロコロかわる。呂布が変貌したせいで、ショックを受け、「とうたくさん」は、洛陽を焼いて、皇室の陵墓を発掘した。「とうたくさん」が好きでやったのでない。呂布のせいなんだ。歴史書にありがちな、責任転嫁!
董卓は死ぬが、献帝も巻きこまれる
貂蝉は、董卓を殺す練習をするつもりが、献帝を殴りまくる。
最期は「奉詔討賊臣董卓」という、マジメなタイトル。しかし「とうたくさん」は、かわいい哀愁を残して退場する。「なんだか急に、さみしくなってきた…、楽しい事でも思い出そう。そういやここまで、いろんな事があったな。いっぱい思い出ができたよ」と言う。
呂布に「ごちんっ」と頭を叩かれて「パタリ」と死んだ。最期まで、ちゃんとかわいく、主人公らしく。
「とうたくさん」だけが死ぬのは、許されない。貂蝉によって、献帝がボコボコに殴られた。表向きは、「貂蝉は、ドジでかわいい」という話。しかし、ちがう。董卓だけ殺されては、気がすまない。董卓に擁立された献帝は、一蓮托生だ。今後の献帝は、正統性があやぶまれて、苦労するよ、という話。
ラストで蔡邕は、ちゃんと大泣きしてる。董卓のへそに、、なんてシーンはない。お星様になって、ニコニコした「とうたくさん」で締めくくられた。あー、おもしろい漫画だった。
おわりに
もし、董卓が「後漢の忠臣」という評価を維持したり、これはあり得なさそうだが「王朝の始祖」となったら。この漫画に描かれた「とうたくさん」みたいに、出来事の読み替えが行われたんだと思います。
おなじ作者で、『アレ国志』(メディアファクトリー2007) もあります。
こちらは、3回くらい読みました。110503