表紙 > 曹魏 > 『三国志』武帝紀を読んで、原点回帰する

10) 二袁と劉表、三面の敵

言わずと知れた、『三国志』巻1、武帝紀。
原点回帰とレベルアップをはかります。『三国志集解』に頼ります。
献帝を奉戴したせいで、三方を敵に囲まれ、曹操が四苦八苦する話。

張繍の登場

呂布襲劉備,取下邳。備來奔。程昱說公曰:「觀劉備有雄才而甚得眾心,終不為人下,不如早圖之。」公曰:「方今收英雄時也,殺一人而失天下之心,不可。」

196年、呂布は、劉備をおそい、下邳をとった。劉備が、曹操に逃げてきた。程昱は曹操に、劉備を殺せと言った。

呂布は195年、兗州で曹操にやぶれて、劉備を頼った。下邳の西にいた。
「魏志」郭嘉伝にひく『傅子』はいう。郭嘉も、劉備を殺せと言った。程昱伝でも、郭嘉は劉備を殺せと言う。だが程昱伝にひく『魏書』は、郭嘉が殺すなという。『資治通鑑』は、『魏書』にしたがう。盧弼は考える。郭嘉は、のちに劉備を警戒した。郭嘉は、劉備を殺せと言ったはずだ董昭も、劉備を殺せと言った。程昱、郭嘉、董昭は、曹操の忠臣である。
ぼくは思う。郭嘉の発言がちがうのは、典拠がちがうから。郭嘉が意見を変えたのでなく、著者がちがうからだ。この話、去年やりました。
渡邉義浩『最高のリーダーは誰か』に反論、郭嘉は謀臣ではない

曹操は言った。「劉備をころして、天下の心をうしなうな」

張濟自關中走南陽。濟死,從子繡領其眾。二年春正月,公到宛。張繡降,既而悔之,複反。公與戰,軍敗,為流矢所中,長子昂、弟子安民遇害。

張済は、関中から南陽ににげた。張済が死に、張繍がつぐ。建安二年(197)春正月、曹操は宛県にきた。いちど張繍はくだったが、反した。曹操は矢をうけ、曹昂と曹安民が死んだ。

張済は、「魏志」張繍伝と、「魏志」董卓伝にある。
今回の曹操の敗戦は、典韋伝、于禁伝、曹丕『典論』序にある。引用は、はぶく。盧弼はいう。曹操は、何進の娘・尹氏(何晏の母)、秦宜禄の妻(曹爽伝、関羽伝)をめとる。曹丕は、袁煕の妻をめとる。張済の妻をめとっても、ありがちなことだ。劉備は、劉瑁の妻・呉氏をめとる。孫権は、陸尚の妻・徐氏をめとる。当時の風俗である。前漢では、、はぶく。
趙一清はいう。曹昂は、列伝がある。曹操の弟(曹安民の父)は、わからない。東海王・曹キ伝、樊安公・曹均伝あたりがあやしい。盧弼は考える。曹操の弟は、曹徳という。興平元年にある。注釈は、一名を曹疾とする。『後漢書』宦者伝、卞皇后伝の注釈はいう。樊安公の曹均は、張繍の娘をめとる。ぼくは思う。曹均、どういう因果で?


魏書曰:公所乘馬名絕影,為流矢所中,傷頰及足,並中公右臂。世語曰:昂不能騎,進馬於公,公故免,而昂遇害。

『魏書』はいう。曹操は絶影にのる。矢をくらう。
『世語』はいう。曹操は、曹昂から馬をもらう。曹昂が死ぬ。

公乃引兵還舞陰,繡將騎來鈔,公擊破之。繡奔穰,與劉表合。公謂諸將曰:「吾降張繡等,失不便取其質,以至於此。吾知所以敗。諸卿觀之,自今已後不復敗矣。」遂還許。

曹操は舞陰(南陽)で、張繍をやぶる。張繍は、穣県(南陽)にゆき、劉表と連合した。曹操は反省して、許県にもどる。

曹丕も、一緒にいた。『典論』にある。盧弼はいう。曹操は、赤壁のとき同じ失敗をした。反省はウソである。
ぼくは思う。いつも曹操は、やり過ぎる。無謀にも徐栄にいどんだ。袁術を揚州まで追い回した。徐州で陶謙をいびった。いま張繍をなじった。袁紹の子たちを追い、烏桓まで北伐した。赤壁で、荊州にとまらず、揚州まで行った。馬超のせいで死にかけた。曹操が学び、初めて踏みとどまったのが、「隴をえて蜀をのぞむ」ときだ。結果、三国が鼎立しちまったじゃねーか。劉備がおらず、孫権だけなら、曹魏は天下を統一した。とどまるべきとき進み、進むべき最後の一手で、慎重になった。曹操が失敗してくれたから、三国志が面白いのだが。


世語曰:舊制,三公領兵入見,皆交戟叉頸而前。初,公將討張繡,入覲天子,時始複此制。公自此不復朝見。

『世語』はいう。旧制では、三公が兵をつれて皇帝と会うとき、三公のくびに戟をつきつける。曹操が張繍を討ちにいくとき、この旧制にもどした。曹操は兵をつれて、ふたたび皇帝に会わない。

『後漢書』伏皇后紀はいう。許都をまもる兵で、曹操の兵でない者はない。議郎の趙彦は、かつて曹操を殺せと言った。献帝は、曹操に手出しできない。曹操が兵をつれて献帝と会うとき、虎賁が刀をとり、曹操につきつけた。曹操は背中に汗をながした。
ぼくは思う。旧制は、何のためのルールか。もし三公が、兵に「皇帝を殺せ」と命じるや否や、三公のクビをサクッと切り落とすためだ。だから三公は、兵を皇帝攻撃につかえないと。映画にしたら、おもしろそう。っていうか、実際に行われていたのか?


197年、袁術が皇帝を称す

袁術欲稱帝於淮南,使人告呂布。布收其使,上其書。術怒,攻布,為布所破。秋九月,術侵陳,公東征之。術聞公自來,棄軍走,留其將橋蕤、李豐、梁綱、樂就;公到,擊破蕤等,皆斬之。術走渡淮。公還許。

袁術は、淮南で皇帝を称したい。呂布につげた。呂布は、袁術の使者をとらえ、曹操にチクった。

「魏志」呂布伝はいう。袁術は、娘を呂布にあたえたい。韓胤が使者となった。沛国の陳珪は、呂布に結婚をことわらせた。呂布は、韓胤のクビを許都におくる。

袁術は怒ったが、呂布に敗れた。
197年秋9月、袁術は陳国をせめる。曹操は東へゆく。袁術は、みずから曹操が来たと聞き、にげた。橋蕤、李豐、梁綱、樂就をのこした。曹操はすべて斬る。袁術は淮水をわたって逃げた。曹操は、許都にもどる。

何焯はいう。『通鑑考異』はいう。『後漢書』呂布伝はいう。呂布は、橋蕤を生けどったと。このときだ。また橋蕤は、生けどられそうになり、かえったともいう。しかし「魏志」呂布伝で、橋蕤を生けどる話がない。范曄『後漢書』の誤りだ。ぼくは補う。呂布は、橋蕤を生け捕っていない。つまり、曹操が袁術の部将を、陳国で破る戦いに、呂布は参加しない。


公之自舞陰還也,南陽、章陵諸縣複叛為繡,公遣曹洪擊之,不利,還屯葉,數為繡、表所侵。冬十一月,公自南征,至宛。魏書曰:臨淯水,祠亡將士,歔欷流涕,眾皆感慟。表將鄧濟據湖陽。攻拔之,生擒濟,湖陽降。攻舞陰,下之。

はじめ曹操が舞陰からもどると、南陽と章陵の諸縣(荊州)が、張繍に味方し、曹操に反した。曹操は、曹洪をおくるが、勝てずに葉県にいる。しばしば張繍に攻められた。

ぼくは思う。劉表と張繍は、「曹操=献帝政権」を支持していない。
えらくアッサリ書いてあるが。197年の記事は、もうすぐ終わる。少ない。袁術との戦いが、意外に大変だったのではないか。献帝をむかえたばかりの曹操は、やることが無限にある。武帝紀に記されるべきことも、無限にあるはずだ。しかし、許県の南、陳国や南陽あたりをウロウロ戦って、終了である。政治が進んでいない。曹操は、袁術と張繍の二面作戦を強いられ、文字どおり「東奔西走」している。じつは、軍事的に、危機だったのでは?
曹操は兗州の地盤を、数年がかりで築いたのに、いきなり潁川なんかに飛び込んだ。そりゃ、安定しない。
史家は、強調したい。「献帝を手に入れた曹操は、水戸黄門の印籠を拾ったかのように安泰だ」と。だから、戦闘をアッサリ書きたがる。しかし、これで1年使っちゃったのは、蔽いきれない事実だ。比較的、近距離の戦いだ。移動時間だけで、1年の大半を費やした、とも言えない。官渡なみの激戦だと考えたほうが自然?

冬11月、曹操は南征し、宛城にきた。劉表の部将・鄧濟は、湖陽(南陽)にいる。曹操は、これをくだした。

魏書曰:臨淯水,祠亡將士,歔欷流涕,眾皆感慟。

『魏書』はいう。曹操が、淯水で戦死者をとむらった。みな感動した。

198年、張繍を攻めそこねる

三年春正月,公還許,初置軍師祭酒。三月,公圍張繡於穰。夏五月,劉表遣兵救繡,以絕軍後。

建安三年(198)春正月、曹操は許都にもどり、はじめて軍師祭酒をおく。

盧弼が、親のカタキのように、軍師祭酒を注釈する。はぶく。

3月、曹操は張繡を穰県にかこむ。夏5月、劉表は張繍をすくい、曹操のうしろを断つ。

荀攸伝はいう。荀攸の作戦を曹操はもちいず。ぼくは思う。劉表が、積極的に出陣して、張繍をすくいにきた。そんなこと、あるんだなあ。曹操は、袁術と劉表と同時に戦ってる。戦略の設計が下手だなあ。劉表と袁術は、荊州の領有にかんして対立したが、いま間接的に協調してる。


獻帝春秋曰:袁紹叛卒詣公雲:「田豐使紹早襲許,若挾天子以令諸侯,四海可指麾而定。」公乃解繡圍。

『献帝春秋』はいう。袁紹を反した兵士が、曹操に言った。「田豊は袁紹に言った。許を襲い、天子をうばえば、天下が定まると」と。 曹操は、穰県のかこみを解く。

『後漢書』袁紹伝はいう。袁紹は曹操に、献帝を鄄城にうつせといった。曹操はこばんだ。田豊は言った。献帝を得ろと。袁紹は田豊に従わず。周寿昌はいう。袁紹を反した兵士は、袁紹を失敗させ、曹操を成功させた。
ぼくは思う。この時期の曹操は、劉表と袁術だけでなく、袁紹も敵である。献帝を得てから、官渡が終わるまで、息つくヒマがない。これが献帝を擁するデメリットである。ちゃんと理解&納得した上で、四方に敵を抱えてるのかな。


公將引還,繡兵來,公軍不得進,連營稍前。公與荀彧書曰:「賊來追吾,雖日行數裏,吾策之,到安眾,破繡必矣。」到安眾,繡與表兵合守險,公軍前後受敵。公乃夜鑿險為地道,悉過輜重,設奇兵。會明,賊謂公為遁也,悉軍來追。乃縱奇兵步騎夾攻,大破之。秋七月,公還許。荀彧問公:「前以策賊必破,何也?」公曰:「虜遏吾歸師,而與吾死地戰,吾是以知勝矣。」

曹操は兵をひく。張繍が追うから、曹操は進めない。曹操は荀彧に手紙した。「安衆(南陽)で、張繍を破ろう」と。曹操は伏兵で、張繍を破る。秋7月、曹操は許都にもどる。曹操は荀彧に言った。「帰る兵を、死地においた。兵法的に、ぜったい勝つ」と。

盧弼はいう。張繍は、賈詡の作戦をもちいた。曹操が勝った。賈詡伝にある。兵法はいう。帰る兵と戦うな。死地におけば、かえって生き延びると。有名な『孫子』だ。
ぼくは思う。献帝を得た直後、曹操にとって、もっとも直接的な脅威は、張繍と劉表だ。張繍は、広義では董卓の残党だ。献帝を、わがものにしたい。劉表は、李傕政権によって荊州牧になった人。献帝を、わがものにしたい。劉表が積極的に献帝をとりにきた戦いが、一連の南陽での戦闘である。曹操は、勝てないなりに、自分から攻めておかねばならない。だって、張繍&劉表軍が、潁川に北伐してきたら、超こわいから。「献帝を得た曹操をみだす」という、またまた乱世を長引かせるような作戦が、賈詡のものだ。ひどいやつだ。


呂布を殺す

呂布複為袁術使高順攻劉備,公遣夏侯惇救之,不利。備為順所敗。九月,公東征布。冬十月,屠彭城,獲其相侯諧。進至下邳,布自將騎逆擊。大破之,獲其驍將成廉。追至城下,布恐,欲降。陳宮等沮其計,求救於術,勸布出戰,戰又敗,乃還固守,攻之不下。

呂布は袁術のために、高順をつかって劉備を攻める。曹操は夏侯惇をやるが、勝てない。9月、曹操は東にゆく。

高順のことは、呂布伝にひく『英雄記』に見える。先主伝はいう。劉備の妻子が、高順につかまった。ぼくは思う。曹操は、張繍&劉表に勝てないから、呂布&袁術をつぶしにきた。もし、これで呂布も片付かなければ、曹操は戦線を減らすことができず、滅ぶしかない。だから、みずから東にゆく。
荀攸伝にひく『魏書』はいう。議者はいう。劉表&張繍をのこして、呂布を攻めるのはあぶないと。荀攸は言った。「劉表&張繍は、さっき破った。いっぽう、呂布が淮水や泗水のあいだで強ければ、豪傑たちが呂布につく。だから呂布を破るべきだ」と。
ぼくは思う。曹操は、ギリギリである。得意になって、呂布をつぶすのでない。呂布を、あと1年でも放置したら、もう手がつけられない脅威となるから、仕方なく呂布を伐つのだ。マイナスとマイナスの葛藤である。
【追記】曹操が討伐する優先順位。張繍と呂布は、ウザさにおいて、甲乙つかない。「議者」は張繍討伐をやり切れと言ったが、荀攸が呂布を優先させた。なぜか。袁術と袁紹の連合を恐れたからでは。張繍の黒幕は劉表、呂布の黒幕は袁術だ。劉表は、二袁のどちらとも結合しないだろう。劉表は袁紹に非協力的で、劉表と袁術は荊州時代の敵。いっぽう二袁は、血縁だから、結合するかも知れない。徐州と青州の海沿いをとおれば、地理的にも結合できる。曹操が献帝を得たあとのゲームは、勝利条件が二袁の各個撃破で、敗北条件が二袁の結合だ。だから曹操は、すくない兵をさらに分割し、たりない兵糧をさらにしぼって、ピンボールみたいに戦いつづける。

冬10月、彭城(東海)をほぐる。彭城にいる相の侯諧をとらえた。下邳で、呂布が迎撃した。呂布の負け。呂布は、降りたい。呂布は籠城した。

呂布伝にひく『先賢行状』はいう。曹操が下邳にくると、広陵太守の陳登が、曹操を先がけた。ぼくは思う。陳登は、徐州のなかで、袁術に味方する呂布を、きらう勢力。徐州の内部の亀裂は、陶謙や劉備のときから、ずっと同じだ。
方詩銘氏の劉備論「『争盟淮隅』的失敗」を抄訳する


時公連戰,士卒罷,欲還,用荀攸、郭嘉計,遂決泗、沂水以灌城。月餘,布將宋憲、魏續等執陳宮,舉城降,生禽布、宮,皆殺之。太山臧霸、孫觀、吳敦、尹禮、昌豨各聚眾。布之破劉備也,霸等悉從布。布敗,獲霸等,公厚納待,遂割青、徐二州附於海以委焉,分琅邪、東海、北海為城陽、利城、昌慮郡。

呂布に籠城されたので、士卒たちは帰りたい。

盧弼はいう。袁紹に許都を突かれることを恐れた。ぼくは思う。張繍と劉表も、突いてくるかも。荀攸は心配ないと言ったが、わからない。曹操、あちこちに敵をつくって、火の車!しかも籠城した相手を討つことなんて、『孫子』がよほどでないと成功しないと、戒めている戦い方だ。ぜひ呂布だけでも討ち、袁術を黙らせないと、いけなかった。脅威を減らしたい。

荀攸と郭嘉は、泗水と沂水で、下邳の城をひたした。1ヶ月余、宋憲や魏続が、陳宮をとらえて降った。呂布と陳宮を生けどった。どちらも殺した。

曹操が秦宜禄の妻・杜氏をめとるのは、このとい。明帝紀の青龍元年にひく『魏氏春秋』にある。
『通鑑考異』はいう。『後漢書』呂布伝はいう。下邳城を3ヶ月ひたしたと。「魏志」呂布伝も3ヶ月という。武帝紀で曹操は、10月に下邳にきて、1季のうちに呂布を殺した。3ヶ月かからない。『資治通鑑』は武帝紀にしたがうと。
趙一清はいう。『後漢書』献帝紀はいう。呂布を斬ったのは、198年12月だ。『後漢書』呂布伝はいう。3ヶ月かこまれた。これが正しい。盧弼は考える。呂布伝で陳宮をしばったのは、侯成だ。武帝紀で、陳宮はさきに捕えられた。すぐ下で、ふたたび「陳宮を生けどった」とするのは、余計である。ぼくは思う。10月に囲みはじめ、12月に落城した。でOK?
盧弼は考える。呂布伝にひく『英雄記』はいう。呂布は魏続の兵をうばい、高順にあたえた。魏続は呂布にそむいた。呂布は無謀である。

太山の臧霸、孫觀、吳敦、尹禮、昌豨は、兵がおおい。呂布が劉備をやぶると、すべて呂布に従う。呂布が敗れると、曹操は臧覇らをとらえ、厚遇した。

孫觀は、臧覇伝にひく『魏書』にある。荀攸伝にひく『魏書』に、臧覇たちの動きがある。陳羣伝はいう。陳羣の父は、陳紀だ。陳紀は、徐州で呂布に属した。曹操は陳羣を辟し、司空西曹掾属とした。ぼくは思う。占領した地域の役人を吸収するのは、ふつうの話。臧覇たちも、無教養な武装集団というより、在地の大姓なんだろう。

青州、徐州の海にちかい地域をゆだねた。琅邪、東海、北海を割いて、城陽、利城、昌慮郡をつくる。

盧弼は、このあたりの郡の変遷をしるす。曹操の東方支配に興味をもったら、帰ってきたい場所だ。青州と徐州のあいだの区画を、行ったりきたりしている。


初,公為兗州,以東平畢諶為別駕。張邈之叛也,邈劫諶母弟妻子;公謝遣之,曰:「卿老母在彼,可去。」諶頓首無二心,公嘉之,為之流涕。既出,遂亡歸。及布破,諶生得,眾為諶懼,公曰:「夫人孝於其親者,豈不亦忠於君乎!吾所求也。」以為魯相。

東平の畢諶は、張邈の叛乱で、やむなく曹操をそむいた。曹操は、孝行な畢諶を信じ、魯相とした。

盧弼はいう。西晋の吏部・畢卓は、父を畢諶という。別人だ。何焯はいう。曹操が畢諶の孝行をたたえたのは、劉備と徐庶とおなじだ。『郡国志』はいう。豫州の魯国は、国治は魯県だ。ぼくは思う。兗州で、曹操と張邈の戦いは、畢諶のみならず、兗州の官吏たちを板ばさみにしただろう。っていうか、しばらく陳留にいた張邈が、自然な流れでゆけば、兗州をとれる。あとから、曹操が尻をねじこんできたから、乱れたのだ。


魏書曰:袁紹宿與故太尉楊彪、大長秋梁紹、少府孔融有隙,欲使公以他過誅之。公曰:「當今天下土崩瓦解,雄豪並起,輔相君長,人懷怏怏,各有自為之心,此上下相疑之秋也,雖以無嫌待之,猶懼未信;如有所除,則誰不自危?且夫起布衣,在塵垢之間,為庸人之所陵陷,可勝怨乎!高祖赦雍齒之讎而群情以安,如何忘之?」紹以為公外讬公義,內實離異,深懷怨望。臣松之以為楊彪亦曾為魏武所困,幾至於死,孔融竟不免於誅滅,豈所謂先行其言而後從之哉!非知之難,其在行之,信矣。

『魏書』はいう。袁紹は、もと太尉の楊彪、大長秋の梁紹、少府の孔融と、仲がわるい。袁紹は、楊彪らを殺したい。

『後漢書』楊震伝はいう。曾孫の楊彪は、、はぶく。ぼくは思う。楊彪は、袁術と友達である。しかし袁紹と仲がわるい。いいネタを見つけた。王沈『魏書』だから、信じるより仕方ない、と言えそうだし。盧弼はいう。楊彪の子・楊修は、曹植伝とその注釈にある。
孔融は、崔琰伝とその注釈、荀彧伝の注釈にある。

曹操は袁紹に反対し、楊彪らを弁護した。袁紹は、曹操がさからったので、怨んだ。裴松之はいう。けっきょく曹操は、楊彪を殺しかけ、孔融を殺した。袁紹とおなじだ。

次回、建安四年(199)です。呂布が退場し、クライマックスです。110225