郭嘉は、渡邉氏のいう「謀臣」ではない
渡邉義浩『「三国志」最高のリーダーは誰か』ダイアモンド社2010
発売から10日おくれで入手しました。
仕方なく週末、名古屋に出ました。名古屋で最大の在庫がある本屋にも、並んでいない。くやしいので、店員に聞きました。
アホな結末でした。
渡邉先生の本は、たっぷり平積みになり、いちばん上に、ちがう本が乗っていた。これじゃあ、だれも見つけられるわけがない。
先週、知人がおなじ本屋で探して、発見できなかったという。おそらく原因はおなじだ。発売直後の1週間、ずっと平積みのまま、封印されていた。
今回は、渡邉氏の本にある軍師タイプ4「謀臣」の説明が、
成立していないことを指摘します。
渡邉氏はいう。郭嘉は、臨機応変に主張を変えたと。
主張を変えたことを理由として、郭嘉は「謀臣」にあたるのだと。
ぼくは思う。郭嘉は、状況に応じて主張を変えていない。
軍師タイプ4「謀臣」
渡邉氏はいう。
謀略とは、敵国の内部に入りこみ、敵国にダメージをあたえる策略だ。
謀臣とは、謀略をつかって、敵を分断する軍師だ。
状況におうじて、臨機応変の戦術を駆使する軍師だ。言動をかえる。
謀臣は、周囲から「主張にブレがある」と思われる。信用されない。
人格をうたがわれ、警戒される。だから処世術を身につける。
結果として謀臣は、孤立無援になってしまうことがある。
この謀臣にあたるのが、郭嘉だ。
「謀臣」と「軍略家」とのちがい
謀臣と対照されるのは、軍略家だ。
軍略家にあたるのは、諸葛亮や魯粛である。
軍略家は、長期的な行動計画をたてる。主張が終始一貫する。
たとえば魯粛は、劉備が荊州南部を火事場泥棒しても、
「荊州を貸す」という名目で呉臣を説得し、劉備を支援しつづけた。
まえに書きました。魯粛の最終目的は、地方割拠ではないと。
渡邉義浩氏の魯粛への反論『最高のリーダーは誰か』より
これ以外にも、渡邉氏の魯粛への疑問はある。
●魯粛は、赤壁のまえから「割拠」だけでなく「鼎立」を考えたか
●魯粛の「鼎立」プランに、劉備が選ばれたのはいつか
などです。史料の問題をふくむ。後日検討。
魯粛の首尾一貫は、郭嘉の前言撤回とはちがう。
渡邉氏は「謀臣」が、孤立無援になりやすいと指摘する。42ページ。
いま、謀臣と対置された軍略家も、19ページで「言動が理解されにくい」「旧臣から排除された」とある。どちらにせよ、孤独なんですね。笑
郭嘉が「謀臣」である根拠
渡邉氏はいう。郭嘉は、劉備への対応が正反対になる。
はじめ郭嘉は、曹操に「劉備を殺すな、劉備を庇護せよ」と云った。
だが、いちど劉備を見た郭嘉は、「劉備を殺せ」と云った。
この正反対ぶりが、謀臣の面目躍如であると。
だが注意したい。郭嘉が前言撤回した例は、本のなかで、劉備への対応ひとつだけしか紹介されていない。もし郭嘉が、劉備にかんして前言撤回していなければ、郭嘉=「謀臣」という話はくずれる。
郭嘉は、前言を撤回していない
ぼくが見るに。郭嘉は劉備について、意見を変えていない。
曹操の手先として、司法権・警察権を濫用した、郭嘉伝
以下、郭嘉が意見を変えたと、
少なくとも『三国志』の史料から読みとれないことを説明します。
まず郭嘉は、陳寿本文で、劉備についてコメントしていない。
郭嘉が劉備についてコメントするのは、もっぱら裴松之の注釈。
そして、裴松之の注釈のうち、
●王沈『魏書』で、郭嘉は劉備を生かせと云った。
●傅玄『傅子』で、郭嘉は劉備を殺せと云った。
郭嘉は、劉備と直接対面したから、意見を変えたのではない。
根拠となる史料がちがうから、郭嘉の発言がちがうだけだ。
郭嘉は、臨機応変に前言撤回したのではない。
劉備にかんする郭嘉の発言のちがいは、
史料の性格を比較することから、解きあかすべきテーマだ。
王沈と傅玄は、同時代人だ。
のみならず、いっしょに『魏書』を編集した。
彼らが見ることができた史料は、だいたい同じだろう。
王沈と傅玄が矛盾するなら、編集方針のちがいを想定したい。
王沈は「劉備來奔,以為豫州牧」のときとする。
傅玄は「初,劉備來降,太祖以客禮待之,使為豫州牧」のときとする。
どちらも、曹操が劉備を、豫州牧としたときだ。時期のちがいを、見出すほうがむずかしい。それに王沈も傅玄も、郭嘉がとちゅうで意見を変えたなら、意見の変更について、なにか記すだろう。仄めかすだろう。
郭嘉は、劉備を生かせと云った
ついでなので、妄想をしておきます。
ぼくは、王沈にくみする。郭嘉は、劉備を生かせと云ったと思う。
『傅子』を信じない理由は、
傅玄『傅子』が、郭嘉バンザイに偏向しすぎているから。
世代がくだる傅玄は、のちに劉備が益州で独立して、曹操にとってジャマになることを知っている。だから傅玄は、さかのぼって「郭嘉は、劉備の厄介さを見抜いていた」というフィクションをつくった。
劉曄伝がヒドいから。5ヶ月前にやりました。
「劉曄伝」:『三国志集解』を横目に、陳寿と裴注の違いをぶつける
傅玄は、劉曄をロコツにけなした。傅玄のえがく劉曄は、陳寿本文(王沈による部分が大きいとされる)と矛盾した。傅玄は、自身の政治的立場を反映させ、史料に毀誉褒貶を持ちこみすぎる人だ。とりあえず、マユツバで読んでいいと思う。
郭嘉についても、子の郭奕がらみで、傅玄との利害関係があった?
もっとも「王沈が事実を記した」とまで、ぼくは云わない。あくまで傅玄と比較したら、まだマシだという態度です。理由は、まだ王沈の史料のほうが、ほかの史料と一致するから。
もちろん、陳寿を筆頭に、全員が共犯で「ウソ」をついていると、お手上げです。王沈や陳寿たちに「後世人をあざむこう」という悪気がなくても「ウソ」は多いだろう。時代の制約などで「ウソ」は生まれる。しかし、これを言い出すと『三国志』を読めなくなる。言いっこなしである。笑
陳寿と、裴松之がひく複数の史料を、好きなようにつなげて、
1本のストーリーをつくってはいけない。
裴注がひく複数の本を、1つの話につなげてはいけない
郭嘉を読むとき、王沈と傅玄をつなげてはいけない。
郭嘉は、前言撤回をしたのではない。
郭嘉について、興味ぶかい指摘
渡邉氏の話を批判しましたが、2つ勉強になりました。
●猜疑心のつよい曹操は、謀臣にとって最悪の君主
●曹操が郭嘉を愛したのは、『論語』子カン篇にある「後生」だ
渡邉氏の今回の本は、ほかにも気になります。また書きます。100905