03) 銅臭の曹嵩と、曹操の就職
言わずと知れた、『三国志』巻1、武帝紀。
原点回帰とレベルアップをはかります。『三国志集解』に頼ります。
『三国志集解』、むずかしくて、わからないなあ、、
曹操の父・曹嵩
養子嵩嗣,官至太尉,莫能審其生出本末。
養子の曹嵩が、曹騰を嗣いだ。
曹嵩は、太尉にまで到った。
『後漢書』曹騰伝はいう。霊帝のとき、官位が販売され、曹嵩が買った。華嶠『後漢書』もおなじ。袁紹がつくらせた陳琳の檄文で、曹嵩の悪口をいう。章懐注は『続漢書』をひく。霊帝のとき、曹嵩は太尉となったと。
『水経注』はいう。譙郡の城南に、曹嵩の墓がある。
曹嵩の出自は、よくわからない。
續漢書曰:嵩字巨高。質性敦慎,所在忠孝。為司隸校尉,靈帝擢拜大司農、大鴻臚,代崔烈為太尉。黃初元年,追尊嵩曰太皇帝。
『続漢書』はいう。曹嵩は、司隷校尉となった。霊帝のとき、大司農、大鴻臚となった。
崔烈にかわり、曹嵩は太尉となった。黄初元年、太皇帝と贈られた。
吳人作曹瞞傳及郭頒世語並雲:嵩,夏侯氏之子,夏侯惇之叔父。太祖於惇為從父兄弟。
呉人がつくった『曹瞞伝』と、
ぼくは思う。タカとイヌは、「遊蕩」したという、悪口なんですね。袁術も、おなじことをしてた、という記述がありました。定型文のようです。
郭頒『世語』はいう。
曹嵩は、夏侯惇の叔父だ。曹操と夏侯惇は、いとこだ。
『三国志集解』で夏侯惇を知る
就職するまでの曹操
嵩生太祖。
太祖少機警,有權數,而任俠放蕩,不治行業,故世人未之奇也。
曹嵩は、曹操を生んだ。曹操は権數を好んだ。任侠で、放蕩した。曹操は、世間から評価されない。
『世説新語』に登場する、曹操を総ざらい!
劉昭『幼童伝』はいう。曹操は10歳のとき、譙水でミズチを斬った。みながミズチを畏れたが、曹操はミズチを畏れなかった。ふーん。
『曹瞞伝』はいう。曹操は、タカを飛ばし、イヌを走らせた。放蕩して、キリがない。叔父に「中風です」と言って、だました。
惟梁國橋玄、南陽何顒異焉。玄謂太祖曰:「天下將亂,非命世之才不能濟也,能安之者,其在君乎!」
ただ梁国の橋玄と、南陽の何顒だけが、曹操を評価した。
何顒は、『後漢書』何顒伝がある。荀爽、荀彧ともつながる。『何顒別伝』はいう。何顒は、同郡の張仲景にたいしてコメントした。張仲景とは、医学をやった張機である。ぼくは補う。張機は、建安初期に、長沙太守だったらしい(ウィキペディアより)。何顒は、袁紹伝にひく『英雄記』、荀攸伝にひく張ハン『漢紀』にもある。
橋玄は、曹操に言った。「天下を安んじるのは、キミだ」と。
續漢書曰:玄字公祖,嚴明有才略,長於人物。
『魏書』はいう。橋玄は、曹操に言った。「妻子を託す」と。
『続漢書』はいう。橋玄は、厳明で、才略があった。
張璠『漢紀』はいう。橋玄は、名臣だった。
『世語』はいう。橋玄は曹操に「許子將に会え」と言った。
孫盛『異同雜語』はいう。曹操は中常侍の張譲の家に入った。誰も、曹操に手出しできない。曹操は、兵法にくわしい。
『後漢書』宦者伝に、張譲がある。盧弼は、『孫子』に注釈するが、はぶく。兵法書については、建安25年の注釈にも見える。
許子將に「治世の能臣、乱世の奸雄」と言われた。曹操は、大笑した。
ぼくは思う。南朝宋になって、はじめて、曹操に遠慮せずに筆を振るえるようになった。おもしろい指摘だと思います。
曹操が就職する
年二十,舉孝廉為郎,除洛陽北部尉,遷頓丘令,
曹操は20歳のとき、孝廉にあがる。郎となる。洛陽北部尉、頓丘の県令となる。
曹植伝から、曹操から頓丘令となったとき、23歳だとわかる。
『曹瞞伝』はいう。洛陽北部太の曹操は、五色棒で、小黄門・蹇碩の叔父を殺した。曹操は、頓丘令にうつされた。
ぼくは補う。曹操が八校尉になるのは、もっとあとだ。八校尉に編入されたとき、気まずいなあ。八校尉のトップは、かつて自分が叩き殺した人の、おいなんだから。
徵拜議郎。
曹操は、議郎となった。
『後漢書』劉陶伝はいう。司徒する東海の陳耽は、議郎の曹操とともに、公卿が人事権を私物化したと、上言した。『通鑑考異』はいう。官位と行動があわない。すでに陳耽が司徒なら、議郎の曹操と、ともに上言するのはおかしい。王沈『魏書』はいう。この歳、災異の得失を、ひろく問うた。曹操は、きつく諌めた。陳耽とともに、上言したのでない。
ぼくは思う。「専務が社長を諌めるため、担当の事務員を連れてきた」と同じくらい、おかしい。ところで、なんで陳耽が紛れ込んだんだろう。『資治通鑑』を読んだときも思ったが、『後漢書』劉陶伝は、読まずにはおけない。
『魏書』はいう。曹操の従妹の夫は、宋奇だ。宋奇が誅され、曹操は免官された。
曹操は、古学に明るいから、また議郎となる。大将軍の竇武、太傅の陳蕃が殺された件を、霊帝に抗議した。霊帝は、曹操を用いない。
ぼくは思う。曹操は、ほんとうに、竇武と陳蕃について、文句を言ったのか。王沈『魏書』が、曹操をほめるために、創作したのでは?「曹操は、党人の後継者ですよ」と宣伝することは、曹魏にメリットがある。後漢が滅びたあとなら、エピソードを追加しほうだいだ。『後漢書』が曹操の抗議を記さない。陳寿も、記さない。マユツバではないか。
霊帝は三公に、人事を見直せと命じた。曹操は、三公を批判したが、聞かれず。
三公の機能が停止した理由を、盧弼は売官に求める。光和元年、西園で官位を売った。劉陶伝はいう。光和五年、霊帝は三公に、人事を見直せと命じた。ときの三公は、太尉の許イク、司空の張済である。2人はワイロを受けとり、人事を見直さない。
ぼくは思う。『後漢書』劉陶伝と、王沈『魏書』の記述が、一致している。光和5年の出来事なんだ。アタリマエかも知れないが、驚いた。王沈が、劉陶の話にかこつけて、曹操の手柄を創作した、なんてことは、ないかなあ。どうせ、採用されなかった意見である。どんなアトヅケをしても、ほかの史料と矛盾しない。
次回、黄巾の乱が起きます。曹操その人に興味がなくはないが、それよりも、190年代の情勢を知りたい。はやく「初平元年」まで、いけないものか。『三国志集解』で、あと5ページ!まだしばらく、曹操は脇役。110218