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曹操を袁紹から引きはなした鮑信伝

『三国志集解』で、鮑勛伝をやります。
200ゼロ年代が興味の中心なので、父・鮑信の話です。

両漢に3代の司隷校尉、南陽太守

鮑勳字叔業,泰山平陽人也,漢司隸校尉鮑宣九世孫。宣後嗣有從上党徙泰山者,遂家焉。勳父信,靈帝時為騎都尉,大將軍何進遣東募兵。後為濟北相,協規太祖,身以遇害。語在董卓傳、武帝紀。

鮑勳は、あざなを叔業という。泰山の平陽の人だ。

兗州の泰山である。平陽県は、前漢がおき、後漢がはぶき、曹魏がふたたびおく。

前漢の司隷校尉・鮑宣から、9世の孫だ。鮑宣の子孫のうち、上党から泰山にうつった人がいた。

『漢書』鮑宣伝はいう。鮑宣は、あざなを子都という。渤海の高城の人。明経をまなぶ。諌大夫となる。しばしば諌める上書をした。のちに司隷校尉になる。刑されて、上党にうつる。上党の長子県にすむ。王莽にしたがわず、獄に繋がれた。自殺した。妻の桓少君は、鮑宣の死体を鹿車でひき、郷里にかえった。
『後漢書』列女伝はいう。鮑宣の子は、鮑永である。あざなを君長という。鮑永の子は、鮑昱である。あざなを文泉という。3世とも、ひとしく司隷校尉となる。京師の人はいった。「鮑氏は、3たび司隷校尉となる。馬は痩せているが、歩いてる」と。鮑昱の子は、鮑徳である。志節をおさめ、南陽太守となる。「神父」と号した。鮑徳の子は、鮑昴という。『後漢書』には、ひとしく列伝がある。
ぼくは思う。名族だなあ!前漢の後半に、司隷校尉を出したという点で、諸葛亮とおなじかと思った。諫言して、バカを見た点も、諸葛豊とおなじかと思った。しかし、後漢まで、きちんと記録がつながっている点が、諸葛氏とちがう。
曹操は、いくら2世三公とはいえ、祖父の代から新興した。鮑信は、ただの在地豪族にとどまらず、中央にパイプのある名族。

鮑勛の父は、鮑信である。霊帝のとき、騎都尉となる。大將軍の何進は、東に兵をつのる。鮑信は、濟北相となり、曹操に協規した。身をもって、殺害された。董卓伝、武帝紀にある。

石井仁『曹操』にある。騎都尉の鮑信は兗州、騎都尉の王匡は徐州、司馬の張楊は并州、張遼は河北、曹操は毌丘毅や劉備とともに、沛国・丹陽方面で募兵させられた。
泰山の募兵といえば、王匡だ。武帝紀にひく『英雄記』と『後漢書』はいう。
『英雄記』はいう。王匡は泰山の人だ。財を軽んじて、施した。任侠をもって聞こえた。何進にめされた。徐州の強弩500をつれて、洛陽にむかう。何進がやぶれ、王匡は州里にひき返した。 起家して、河内太守となった。
謝承『後漢書』はいう。王匡は、蔡邕と仲がよい。董卓に敗れて、王匡は泰山にかえった。強兵をあつめ、張邈とあわさる。王匡は、執金吾の胡母斑を殺した。胡母斑の親族は、王匡に怒った。胡母斑の遺族は、曹操とあわさり、王匡を殺した。
武帝紀 05) 虎牢関の東が、起兵する


袁紹を見捨て、曹操に兗州を与えた鮑信

魏書曰:信父丹,官至少府侍中,世以儒雅顯。少有大節,寬厚愛人,沈毅有謀。大將軍何進辟拜騎都尉,遣歸募兵,得千餘人,還到成皋而進已遇害。信至京師,董卓亦始到。信知卓必為亂,勸袁紹襲卓,紹畏卓不敢發。語在紹傳。信乃引軍還鄉里,收徒眾二萬,騎七百,輜重五千餘乘。

『魏書』はいう。鮑信の父は、鮑丹である。官位は、少府、侍中までなる。世に儒雅として顯われた。
鮑信は、少くして大節あり。寬厚で人を愛す。沈毅で謀あり。大將軍の何進は、辟して騎都尉とする。募兵させ、1千餘人をえた。鮑信が成皋にもどったとき、何進が殺害された。

成皋は、武帝紀の巻首で、盧弼が注釈した。

鮑信は京師にきた。董卓もまた、京師にきた。鮑信は、かならず董卓が亂をなすと知る。袁紹に「董卓を襲え」とすすめた。袁紹は董卓を畏れて、董卓を襲えず。この話は、袁紹伝にある。

ぼくは思う。袁紹は、のちに盟主らしくなるが、この段階では「奔走の友」の行動隊長みたいな感じ。志はあるが、軍がない。やるとしたら、董卓を殺して、自分も死ぬ、というタイプの暗殺だけだろう。袁紹は、そこまでは、やらない。

鮑信は、兵をつれて郷里にもどる。歩兵2万。騎兵700。輜重は5五千餘乘。

是歲,太祖始起兵於己吾,信與弟韜以兵應太祖。太祖與袁紹表信行破虜將軍,韜裨將軍。時紹眾最盛,豪傑多向之。信獨謂太祖曰:「夫略不世出,能總英雄以撥亂反正者,君也。苟非其人,雖強必斃。君殆天之所啟!」遂深自結納,太祖亦親異焉。

この歲、曹操は己吾で起兵した。鮑信と、弟の鮑韜は、兵をつれて曹操に応じた。曹操と袁紹は上表し、鮑信を行破虜將軍、鮑韜を裨將軍とした。

破虜将軍は、定員1名。第五品。中平六年、袁術は上表して、孫堅を破虜将軍にした。裨将軍は、定員なし。第五品。
ぼくは思う。袁術-孫堅と、袁紹-鮑信は、おなじ位置関係。鮑信は、強力な兵をもっており、軍の主力になってくれそうな人。

ときに袁紹の兵が、もっとも盛んだ。おおく豪傑が、袁紹にむく。鮑信だけは、曹操に言った。「すべての英雄をひきい、乱を正せるのは、曹操だ。曹操のように能力がなければ、強くても必ずたおれる」と。曹操は、鮑信ととくに親しくなった。

どこまで、曹操バンザイのバイアスを除けばいいのか、むずかしい。鮑信の子・鮑勛は、曹魏の重臣になっているし。しかし、いろんな史料を見ると、セリフの内容はともかく、鮑信がとくべつに曹操を見こんだことは、誤りがないだろう。鮑勛が評価しているのは、曹操の個人的な素質だ。ほかに曹操には、持ち物がない。


汴水之敗,信被瘡,韜在陳戰亡。

曹操が、汴水で徐栄にやぶれると、鮑信もキズをおう。弟の鮑勛は、戦死した。

さっき鮑信は、袁紹に「董卓を襲え」と言ったが、袁紹は襲わず。いっぽう曹操は、徐栄につっこんだ。曹操にとって、この戦いにどんな意味があるか。「名士」からの評価を得たかと考えると、論点がぼやけてしまう。結論がでない。しかし、鮑信から評価という点では、曹操はこれを勝ち取った。徐栄に挑んでよかった。
曹操は、鮑信が連れてきた泰山兵をつかわせてもらった。壊滅したけど。笑


紹劫奪韓馥位,遂據冀州。信言於太祖曰:「奸臣乘釁,蕩覆王室,英雄奮節,天下鄉應者,義也。今紹為盟主,因權專利,將自生亂,是複有一卓也。若抑之,則力不能制,祗以遘難,又何能濟?且可規大河之南,以待其變。」太祖善之。太祖為東郡太守,表信為濟北相。會黃巾大眾入州界,劉岱欲與戰,信止之,岱不從,遂敗。語在武紀。

袁紹が、韓馥の官位をうばう。鮑信は曹操に言った。「くつがえった王室をたすけるのが、義です。袁紹は盟主だが、権力により、利益をむさぼる。みずから乱をおこし、第二の董卓になる。曹操は、黄河の南で、袁紹の変事を待て」と。曹操は、これを善しとした。

ぼくは思う。鮑信は、袁紹が劉虞をかつぐことを、「義でない」と言っているのか。直接、言及がないから分からないが、そうだろう。鮑信の読みでは、献帝を否定する袁紹は、ほどなく滅亡する。さっき「必ずたおれる」と言ったり、いま「変事を待て」と言ったり、袁紹への評価が、とても低い。
曹操が、河北で袁紹の部将をやらなかったのは、鮑信の読みに頼るところが、大きいのだろう。袁紹の片腕になれば、活躍は大きいし、戦闘はラクだろうが、袁紹と共倒れする。袁紹から距離をおいて、(じつは傘下だが) 同盟相手のように距離をとれば、どうなるか。活躍は小さく、戦闘はキツいが、袁紹と共倒れしない。鮑信は、曹操にこれをやらせた。
じつは傘下だが、同盟相手のように距離をとるという前例では、劉邦の韓信とか、劉秀の竇融なんかがいるか。主君への「外交」がむずかしいが、方面を任されて、なかば独立勢力のように振る舞える。袁術の下の孫策も、おなじように距離をおきま すね。

曹操が東郡太守となると、曹操は上表して、鮑信を濟北相とした。黄巾が兗州の境界に入った。劉岱は戦いたいが、鮑信がとめた。劉岱はしたがわず、やぶれた。武帝紀にある。

ぼくは思う。曹操も鮑信も、兗州刺史・劉岱の傘下に、一時的に入ったことになる。袁紹と劉岱の関係は、どうだったのか。劉岱は、「袁紹さんの手下を、大切にあずからせてもらいます」みたいな状態だったか。鮑信と曹操は、兗州のもとで守相として、横ならびだ。曹操も鮑信とおなじく、劉岱にむけて、黄巾の討伐に関して、なにか言ったのかも知れない。そのせいで、劉岱が討ち死にしたのかも知れない。劉岱も、バカじゃなかろうから、鮑信がやめろと言ったのに、独断でつっこまない。曹操が劉岱に、黄巾の迎撃を勧めたかも。史料にないが。


太祖以賊恃勝而驕,欲設奇兵挑擊之於壽張。先與信出行戰地,後步軍未至,而卒與賊遇,遂接戰。信殊死戰,以救太祖,太祖僅得潰圍出,信遂沒,時年四十一。雖遭亂起兵,家本修儒,治身至儉,而厚養將士,居無餘財,士以此歸之。

曹操は、賊がおごるので、奇兵をもうけて壽張でやぶった。後詰の歩兵がつく前に、賊と戦った。鮑信は死戦して、曹操を救った。曹操は囲みをぬけ、鮑信は死んだ。鮑信は、41歳だった。

あーあ、死んじゃった。曹操軍の母体は、初期は泰山兵だった。兗州の泰山兵をつかって、兗州を平定したのだね。

鮑信は乱世にあわせて起兵したが、もとより儒学をおさめた。將士をあつく養い、家には餘財なし。(以下、子・鮑勛の列伝はぶく)

おしまい。鮑信は、曹操が兗州によることを考えるとき、いろいろ参考になりそうな人物。史料が書かなかった曹操をおぎなうとき、鮑信のうごきが妄想のタネになる。110524