涼州の部将、『三国志』巻18、龐徳、龐淯、閻温伝
驢馬の会にむけて、龐徳伝、龐イク伝、閻温伝を予習。
『三国志集解』を読むだけですが。
馬騰と馬超の、いちばんの部下・龐徳
龐德字令明,南安狟道人也。
少為郡吏州從事。初平中,從馬騰擊反羌叛氐。數有功,稍遷至校尉。建安中,太祖討袁譚、尚於黎陽,譚遣郭援、高幹等略取河東,太祖使鍾繇率關中諸將討之。德隨騰子超拒援、幹於平陽,德為軍鋒,進攻援、幹,大破之,親斬援首。
龐德は、あざなを令明。南安の狟道の人だ。
狟道は、『漢書』で天水に属す。『郡国志』で、涼州の漢陽郡に属す。『秦川記』はいう。霊帝の中平五年、漢陽をわけて、南安郡をおく。狟道は、南安の郡治となる。武帝紀の建安十九年にみえる。
郡吏、州從事。初平のとき、馬騰にしたがい、羌氐をうつ。校尉。建安のとき、曹操は袁譚と袁尚を、黎陽でうつ。袁譚は、郭援と高幹らに、河東を寇させた。曹操は鍾繇に、關中の諸將をつかわせた。龐徳は、馬超にしたがい、郭援をふせぐ。平陽で郭援を斬った。
ぼくは思う。州郡につかえる若者が、馬騰の配下にいる。馬騰は「反乱する異民族」でなくて、後漢の役人である。涼州が乱れると、後漢の軍隊を吸収して、ひきいている。馬援の子孫はジョークとしても、いい家柄。
魏略曰:德手斬一級,不知是援。戰罷之後,眾人皆言援死而不得其首。援,鍾繇之甥。德晚後於鞬中出一頭,繇見之而哭。德謝繇,繇曰:「援雖我甥,乃國賊也。卿何謝之?」
『魏略』はいう。龐徳は、郭援のおじ・鍾繇に気づかった。
拜中郎將,封都亭侯。後張白騎叛於弘農,德複隨騰征之,破白騎於兩殽間。每戰,常陷陳卻敵,勇冠騰軍。後騰徵為衛尉,德留屬超。太祖破超於渭南,德隨超亡入漢陽,保冀城。後複隨超奔漢中,從張魯。太祖定漢中,德隨眾降。太祖素聞其驍勇,拜立義將軍,封關門亭侯,邑三百戶。
中郎將、都亭侯。張白騎が弘農でそむく。
張白騎は、張燕伝にひく『典略』にある。へえ!
馬騰ともに、兩殽間(河南の宜陽県)で、張白騎をうつ。馬騰が徵されて、衛尉となると、馬超につく。曹操が馬超をやぶると、漢陽にゆき、冀城をたもつ。
『御覧』巻897は、元乗輿馬賦をつたえる。「馬超は、蘇氏の塢をやぶる。塢中には、駿馬が1百余匹がいた。みずから馬超は、肥えた馬を、うばいとる。龐徳は、見すぼらしい馬をもらう。みな龐徳を笑った。のちに渭南で曹操と戦った。龐徳の馬は速くて、馬超に遅れない。みな龐徳の、馬を見る目をほめた」と。
漢陽の郡治は、冀城。武帝紀の建安十八年にある。
漢中で張魯にしたがう。曹操が漢中を平定し、曹操にしたがう。立義將軍、關門亭侯、邑三百戶。
胡三省はいう。曹操は、龐徳がみずから漢中より去り、曹操のもとに来たから、「立義将軍」とした。
ぼくは思う。関羽と戦うところは、めぼしい盧弼の注釈がないので、はぶきます。関羽の口調から、「龐柔(従兄)が蜀漢にいるので、龐徳は蜀漢に味方して当然」と思われていたことが、わかる。龐徳は、馬騰-馬超の軍でトップの部将だったから、馬超と運命がおなじだと思われていた。なぜ龐徳が、馬超より曹操をとったのか。史料から、龐徳が劉備を評価していないことを、うかがい知れる。ほかに理由はないのかなあ。
遂為羽所殺。太祖聞而悲之,為之流涕,封其二子為列侯。文帝即王位,乃遣使就德墓賜諡,策曰:「昔先軫喪元,王蠋絕脰,隕身徇節,前代美之。惟侯式昭果毅,蹈難成名,聲溢當時,義高在昔,寡人湣焉,諡曰壯侯。」又賜子會等四人爵關內侯,邑各百戶。會勇烈有父風,官至中尉將軍,封列侯。
関羽に殺された。子の龐会は、関内侯となる。中尉將軍、列侯。
王隱蜀記曰:鍾會平蜀,前後鼓吹,迎德屍喪還葬鄴,塚中身首如生。臣松之案德死於樊城,文帝即位,又遣使至德墓所,則其屍喪不應在蜀。此王隱之虛說也。
王隠『蜀記』は、でたらめ。
沈家本はいう。『隋書』に、書名がない。『唐書』には、『補蜀記』7巻を雑史とする。『蜀記』を補ったものか。王隠の著作はウソで、裴松之が批判するとおりだ。
邯鄲商を殺した張猛を責めた、龐淯伝
龐淯字子異,酒泉表氏人也。初以涼州從事守破羌長,會武威太守張猛反,殺刺史邯鄲商,猛令曰:「敢有臨商喪,死不赦。」淯聞之,棄官,晝夜奔走,號哭喪所訖,詣猛門,衷匕首,欲因見以殺猛。猛知其義士,敕遣不殺,由是以忠烈聞。
龐淯は、あざなを子異。酒泉の表氏の人。
「子冀」と「子異」の2とおりの版本がある。
『郡国志』はいう。涼州の酒泉に、表氏県がある。
はじめ、涼州從事となり、破羌長となる。
『郡国志』はいう。涼州の金城に、破羌県がある。ぼくは思う。「羌族の首長をやぶる」と、バカみたいに訓読してしまった。すぐ直したけれど。王先謙はいう。曹魏のとき、西平郡に属した。
『後漢書』馬援伝はいう。建武十一年、馬援は、隴西太守となった。ときに朝臣は、金城が西にへだたるから、破羌県を放棄しようと言った。馬援は上表し「破羌県は、軍事でも産業でも、必要な土地だから、放棄するな」と言った。光武帝は、馬援をもちいた。
ぼくは思う。馬超にかかわらず、後漢の西方政策をみるなら、馬援伝から始めないと。驢馬の会が、もう始まるのに、やってない!
たまたま武威太守の張猛がそむき、雍州刺史の邯鄲商を殺した。張猛は「邯鄲商をとむらえば、殺す」と言った。龐淯は、張猛を殺すつもりで、邯鄲商をとむらう。
盧弼は、邯鄲氏という姓、暗殺道具の匕首について、いろいろ書いてる。はぶく。それよりも、ぼくは、張猛が邯鄲商を殺したのが、いつなのか知りたい。いまググったら、209年だ。馬超の反乱と、つなげて読むべき事件。
魏略曰:猛兵欲來縛淯,猛聞之,歎曰:「猛以殺刺史為罪。此人以至忠為名,如又殺之,何以勸一州履義之士邪!」遂使行服。
典略曰:張猛字叔威,本敦煌人也。猛父奐,桓帝時仕曆郡守、中郎將、太常,遂居華陰,終因葬焉。建安初,猛仕郡為功曹,是時河西四郡以去涼州治遠,隔以河寇,上書求別置州。詔以陳留人邯鄲商為雍州刺史,別典四郡。時武威太守缺,詔又以猛父昔在河西有威名,乃以猛補之。商、猛俱西。
『魏略』はいう。張猛は、龐淯をしばって言った。「私は、刺史の邯鄲商を殺した。忠義の龐淯までも、殺すことができない」
『典略』はいう。張猛は、敦煌の人。父は、張奐。
建安はじめ、張猛は郡につかえ、功曹となる。河西の4郡(金城、酒泉、敦煌、張掖)は、とおい。詔して、陳留の邯鄲商を、雍州刺史として、4郡を典させた。
『後漢書』献帝紀はいう。興平元年(194)6月、涼州の河西4郡をわけて、雍州とした。章懐注はいう。4郡とは、金城、酒泉、敦煌、張掖である。
ぼくは思う。献帝紀によれば、献帝がまだ長安で李傕に飼われているとき、雍州をわけた。曹操の政策でない。献帝紀は興平といい、『魏略』のいう建安はじめと、時期が異なる。ぼくは、献帝紀を信じる。なぜか。李傕政権は、初平四年(193)、漢陽をわけて、永陽郡をつくった。長安のまわりの行政区分を細かくしてる。長安に、安定的にとどまる予定だったと推測できる。州をつくっちゃうのは、李傕のしわざだろう。
ときに、武威太守が欠員である。張奐が河西で威名をもつから、張猛を武威太守とした。邯鄲商と張猛は、ともに西へゆく。
初,猛與商同歲,每相戲侮,及共之官,行道更相責望。暨到,商欲誅猛。猛覺之,遂勒兵攻商。商治舍與猛側近,商聞兵至,恐怖登屋,呼猛字曰:「叔威,汝欲殺我耶?然我死者有知,汝亦族矣。請和解,尚可乎?」猛因呼曰;「來。」商逾屋就猛,猛因責數之,語畢,以商屬督郵。督郵錄商,閉置傳舍。後商欲逃,事覺,遂殺之。是歲建安十四年也。
張猛と邯鄲商は、おない歳だ。はじめ、ふざけて侮りあった。やがて、悪みあった。張猛は、邯鄲商を殺した。これが、建安十四(209)年である。
ぼくは思う。張猛と邯鄲商のコンビは、雍州ないし涼州を、15年くらい治めた。充分に立派な治績だと思う。この時期、鍾繇が関中を治めたことになっている。だが鍾繇は、張猛と邯鄲商に協力してもらって、治めたのだろう。馬騰や馬超との関係は、どうなるのか。いちいち、ナゾがのこる。
至十五年,將軍韓遂自上討猛,猛發兵遣軍東拒。其吏民畏遂,乃反共攻猛。初奐為武威太守時,猛方在孕。母夢帶奐印綬,登樓而歌,旦以告奐。奐訊占夢者,曰:「夫人方生男,後當複臨此郡,其必死官乎!」及猛被攻,自知必死,曰:「使死者無知則已矣,若有知,豈使吾頭東過華陰曆先君之墓乎?」乃登樓自燒而死。
建安十五年(210)、韓遂は上書して、張猛を攻めた。吏民は、張猛を殺した。
『魏略』は、母の夢占いをのせてる。はぶく。韓遂が、秩序を回復するため、みずから上書して、動いているのが面白い。どうやら、張猛が邯鄲商を殺したせいで、この土地のバランスがくずれたゆえだ。
『魏略』で強調されているが、張猛と邯鄲商は、着任も年齢もおなじ。道中、ふざけあうのだから、無二の同僚だったのだと思う。なぜ張猛が、邯鄲商を殺したか、気になる。曹操が赤壁で敗れたことと、関係があるのだろうか。赤壁があたえた関中へのインパクトという点では、馬超よりも、張猛を見るべきだ。
太守徐揖請為主簿。後郡人黃昂反,圍城。淯棄妻子,夜逾城出圍,告急於張掖、敦煌二郡。初疑未肯發兵,淯欲伏劍,二郡感其義,遂為興兵。軍未至而郡城邑已陷,揖死。淯乃收斂揖喪,送還本郡,行服三年乃還。太祖聞之,辟為掾屬。文帝踐阼,拜駙馬都尉,遷西海太守,賜爵關內侯。後徵拜中散大夫,薨。子曾嗣。
酒泉太守の徐揖は、龐淯を主簿とした。のちに郡人の黃昂がそむき、城をかこむ。龐淯は妻子をすて、張掖、敦煌の2郡に救いを求めた。
建安のとき、酒泉太守の徐揖は、郡中の豪族・黄氏を誅した。黄昴はにげて、徐揖を攻めた。閻温伝にひく『魏略』、楊阿若伝にある。
ぼくは補う。『魏略』で話が飛んだので、整理すると。209年に、張猛が邯鄲商を殺したとき、破羌長だ。政治の表舞台に立っていない。
ぼくは思う。徐揖は、黄氏を族殺するから、復讐されたのだ。龐淯が、徐揖に義理をたてていることから、徐揖が狂ったとは思いにくい。つまり族殺は、酒泉太守の仕事の一部である。この土地が、いかに治めることが難しいか、、わかります。黄氏といえば、酒泉の黄華が、つぎの閻温伝にある。黄氏は、族殺されたにも関わらず、残党だけの力で、酒泉郡を陥としてしまった。つよいなあ!
命がけで援軍をひきだしたが、徐揖は死んだ。徐揖のために、龐淯は3年喪した。曹操は辟して、龐淯を掾屬とした。曹丕が踐阼すると、駙馬都尉、西海太守、關內侯。中散大夫。
盧弼は、西海郡について、たくさん注釈してる。はぶく。
初,淯外祖父趙安為同縣李壽所殺,淯舅兄弟三人同時病死,壽家喜。淯母娥自傷父讎不報,乃幃車袖劍,白日刺壽於都亭前,訖,徐詣縣,顏色不變,曰:「父讎己報,請受戮。」祿福長尹嘉解印綬縱娥,娥不肯去,遂強載還家。會赦得免,州郡歎貴,刊石表閭。
龐淯の母は、父の敵討をして、ほめられた。
皇甫謐『列女傳』は、はぶきます。時間の都合!
夏侯淵をよんで、馬超に殺された、閻温伝
閻溫字伯儉,天水西城人也。以涼州別駕守上邽令。馬超走奔上邽,郡人任養等舉眾迎之。溫止之,不能禁,乃馳還州。超複圍州所治冀城甚急,州乃遣溫密出,告急於夏侯淵。賊圍數重,溫夜從水中潛出。明日,賊見其跡,遣人追遮之,於顯親界得溫,執還詣超。超解其縛,謂曰:「今成敗可見,足下為孤城請救而執於人手,義何所施?若從吾言,反謂城中,東方無救,此轉禍為福之計也。不然,今為戮矣。」溫偽許之,超乃載溫詣城下。溫向城大呼曰:「大軍不過三日至,勉之!」城中皆泣,稱萬歲。超怒數之曰:「足下不為命計邪?」溫不應。時超攻城久不下,故徐誘溫,冀其改意。複謂溫曰:「城中故人,有欲與吾同者不?」溫又不應。遂切責之,溫曰:「夫事君有死無貳,而卿乃欲令長者出不義之言,吾豈苟生者乎?」超遂殺之。
閻温は、あざなを伯儉という。天水の西城の人だ。
銭大昕はいう。天水に、西城県はない。西県の誤りだ。
涼州別駕となり、上邽(漢陽)令となる。馬超が上邽ににげると、郡人の任養らは、馬超をむかえた。閻温は、馬超への支持を、とめられない。閻温は、涼州(冀城)にもどる。馬超にかこまれると、夏侯淵をよびにゆく。
ぼくは思う。上の龐淯、この閻温も、援軍を呼びにゆくのが、決死の仕事。名声のタネ。涼州方面は、治める城数がおおいわりに、兵が少なかったのだろう。
閻温は、冀城のなかに、夏侯淵の援軍を知らせた。馬超に殺された。
ぼくは思う。手に汗にぎる描写だが、盧弼はスルーしている。
先是,河右擾亂,隔絕不通,敦煌太守馬艾卒官,府又無丞。功曹張恭素有學行,郡人推行長史事,恩信甚著,乃遣子就東詣太祖,請太守。時酒泉黃華、張掖張進各據其郡,欲與恭(艾)並勢。就至酒泉,為華所拘執,劫以白刃。就終不回,私與恭疏曰:「大人率厲敦煌,忠義顯然,豈以就在困危之中而替之哉?昔樂羊食子,李通覆家,經國之臣,甯懷妻孥邪?今大軍垂至,但當促兵以掎之耳;原不以下流之愛,使就有恨於黃壤也。」恭即遣從弟華攻酒泉沙頭、乾齊二縣。恭又連兵尋繼華後,以為首尾之援。別遣鐵騎二百,迎吏官屬,東緣酒泉北塞,徑出張掖北河,逢迎太守尹奉。於是張進須黃華之助;華欲救進,西顧恭兵,恐急擊其後,遂詣金城太守蘇則降。就竟平安。奉得之官。黃初二年,下詔褒揚,賜恭爵關內侯,拜西域戊己校尉。數歲徵還,將授以侍臣之位,而以子就代焉。恭至敦煌,固辭疾篤。太和中卒,贈執金吾。就後為金城太守,父子著稱於西州。
ここ、読みたいのだが、時間がなくなってしまった。後日。
以下、裴松之の注釈をはぶく。『世語』『魏略』。後日やりたい。
最後が、超絶に超ザツで、すみません。110617