表紙 > 孫呉 > 孫権の妃嬪伝:謝、徐、歩、袁、王、王、潘夫人

袁術の娘なら、二宮の変をふせげた

『三国志集解』で孫権の妻をやります。
袁術の娘がらみが、ねらい。妃嬪伝・第五です。

孫堅の夫人・呉氏は、こちらでやりました。
ほんとうは偉かった外戚、呉夫人と呉景伝
11年4月16日に、諸葛瑾の勉強会を大阪でしてきた。駅で、待ち時間があった。持ってきた、ちくま訳の5巻を読んだ。ちくま5巻には、諸葛瑾が収録されてるから。たまたま妃嬪伝を見て、とてもおもしろかった。だから、やります。


外戚の呉氏がめあわせた、謝夫人

吳主權謝夫人,會稽山陰人也。父煚,漢尚書郎、徐令。
煚子承撰後漢書,稱煚幼以仁孝為行,明達有令才。煚弟貞,履蹈法度,篤學尚義,舉孝廉,建昌長,卒官。

孫権の謝夫人は、會稽の山陰だ。父は謝煚という。後漢の尚書郎、徐県(下邳)の県令となる。
裴松之はいう。謝煚の子・謝承は、『後漢書』をつくる。

謝承『後漢書』は、武帝紀の初平元年にある。
邾陥一斉は、困学紀を聞いていう。謝承の父・謝煚は、尚書郎である。公庫に保存される文章を、こっそり読んだ。いつも高帝と光武帝について読み、将軍や宰相の策文を読んだ。ぼくは思う。謝承の執筆は、父ゆずり?

謝承は孝廉にあげられ、建昌の県長のまま、死んだ。

權母吳,為權聘以為妃,愛幸有寵。後權納姑孫徐氏,欲令謝下之,謝不肯,由是失志,早卒。後十餘年,弟承拜五官郎中,稍遷長沙東部都尉、武陵太守,撰後漢書百餘卷。
會稽典錄曰:承字偉平,博學洽聞,嘗所知見,終身不忘。子崇揚威將軍,崇弟勖吳郡太守,並知名。

孫権の母・呉氏は、孫権のために謝夫人をまねく。のちに孫権は、おばの孫・徐氏をめとる。謝夫人を、徐氏の下におきたい。謝夫人は気分をそこねた。

何焯はいう。三国の君主は、正妻を定めずに再婚する。もとの正妻を、再婚した人の下におく。だから孫権は、あとつぎが、定まらない。
ぼくは思う。袁紹、劉表、曹操、孫権。みんな後嗣がごちゃごちゃ。この時代、結婚とか後嗣について、風習が混乱したのだろうか。謝夫人は、孫権の母がめとらせたという意味で、正統である。しかし孫権は、事実上これを廃そうとした。母の支配からの脱却か。マザコン的な意味でなく、外戚との闘争という意味で。
呉夫人が死ぬのは、建安十二年(207)だ。謝夫人が、がっかりして死ぬなら、赤壁のころ。孫権が、荊州に進出して、我を通しはじめたころ。

謝夫人は、早くに死んだ。

孫覇伝はいう。孫覇の2子は、孫基と孫壱だ。祖母の謝姫とともに、会稽の烏傷にうつった。孫覇伝にしたがうなら、孫覇は、謝姫の子である。謝夫人の子でない。

のちに10余年して、謝夫人の弟・謝承が、五官郎中となり、長沙の東部都尉となる。武陵太守となる。のちに謝承は、『後漢書』100余巻をつくる。

孫亮子明伝はいう。太平二年、調査の東部を、湘東郡とした。ぼくは思う。つまり、謝承が赴任したのは、孫亮の時代の前だと。そりゃ、そうだろ。孫権は、217年に曹操に降伏します。その後だろう。呉夫人が死んでから、10余年である。
呉氏は、「曹操にしたがえ」派だ。謝氏は呉氏につらなる。赤壁で「曹操にしたがえ派」を退けたが、いま関羽から荊州を奪うために、ふたたび謝氏を用いた。

『会稽典録』はいう。謝承は、もの覚えがいい。謝承の子は、謝崇である。揚威將軍となる。謝崇の弟は、謝勖である。吳郡太守となる。どちらも、名を知られた。

そして次に、孫権が謝夫人と、取り換えようとした、徐夫人がでる!


孫策の従兄弟・徐琨、孫登を養育した徐夫人

吳主權徐夫人,吳郡富春人也。祖父真,與權父堅相親,堅以妹妻真,生琨。琨少仕州郡,漢末擾亂,去吏,隨堅征伐有功,拜偏將軍。堅薨,隨孫策討樊能、於麋等於橫江,擊張英於當利口,而船少,欲駐軍更求。琨母時在軍中,謂琨曰:「恐州家多發水軍來逆人,則不利矣,如何可駐邪?宜伐蘆葦以為泭,佐船渡軍。」
泭音敷。郭璞注方言曰:「泭,水中簰也。」
琨具啟策,策即行之,眾悉俱濟,遂破英,擊走笮融、劉繇,事業克定。策表琨領丹楊太守,

孫権の徐夫人は、呉郡の富春の人だ(孫堅と同郷)。祖父の徐真は、孫堅としたしい。孫堅は、妹を徐真にあたえる。孫堅の妹は、徐琨を生んだ。徐琨は州郡につかえた。漢末に、吏をやめた。孫堅にしたがい、討伐した。偏将軍となる。
孫堅が死ぬと、徐琨は孫策にしたがう。樊能と于麋を、横江で討つ。張英を当利口で撃つ。徐琨の母(孫堅の妹)が言った。「州家は、劉楊の味方だ。州家から船をあつめたら、不利になる。イカダをつくり、張英を攻めよ」と。

盧弼はいう。孫堅の妹も、男まさりだ。
ぼくは思う。ここは、孫策伝でやりました。呉景を助け、劉繇と戦っている。
孫策伝02) 196年、袁術の揚州支配が完成

徐琨はイカダをつくった。張英をやぶる。笮融と劉繇をやぶる。孫策は、徐琨を丹楊太守とした。

ぼくは思う。徐氏は、孫堅と同郷で、孫策の私兵とも言えるほど、べったりした一族だ。この点で、呉氏とちがう。呉氏は、孫堅が娘を求めたとき、「下品な海賊に、娘をやれるか」と、拒絶した。つまり、孫堅よりも上の豪族である。
孫氏を強くしたいなら、徐氏を活用して、呉氏を解体できたらベストだ。徐氏は忠実の部下で、孫氏に逆らわない。呉氏を解体して、勢力を吸収したい。すこし時期が早い表現だが、「孫氏の君主権力の確立」には、呉氏はジャマである。


會吳景委廣陵來東,複為丹楊守,
江表傳曰:初,袁術遣從弟胤為丹楊,策令琨討而代之。會景還,以景前在(仕)丹楊,寬仁得眾,吏民所思,而琨手下兵多,策嫌其太重,且方攻伐,宜得琨眾,乃複用景,召琨還吳。
琨以督軍中郎將領兵,從破廬江太守李術,封廣德侯,遷平虜將軍。後從討黃祖,中流矢卒。

たまたま呉景が広陵をすて、江東にもどる。
『江表伝』はいう。袁術は、従弟の袁胤を、丹楊太守とした。孫策は徐琨に、袁胤を討たせた。たまたま呉景が、広陵からもどる。丹楊は、呉景になつく。孫策は思った。「徐琨は兵がおおい。徐琨を丹楊太守にしておくと、あぶない」と。ふたたび呉景が、丹楊太守となった。徐琨は、呉郡にもどる。

ぼくは思う。デタラメである。『江表伝』だからなあ。『江表伝』は、孫策の独立を言いたいがために、けっこう曲解がおおいと思う。
事実だけ追うと、丹楊太守の呉景が、劉繇に追いはらわれたあと、袁胤、徐琨、呉景と丹楊太守が代わった。袁胤から徐琨に代わった理由は、ほかに史料がないから、わからない。ただし孫策は、さっきまで袁術のために、劉繇と戦った。その孫策が、袁胤を攻撃するのは、リクツに合わない
おそらく袁術は、呉景を広陵に投入したいから、丹楊太守を辞めさせた。しかし、丹楊太守を空席にしたら、劉繇に丹楊を与えたに等しい。だから名目だけでも、袁胤を丹楊太守とした。のちに孫策や徐琨が、劉繇を破った。その功績により袁術は、徐琨を丹楊太守とした。だが、徐州を呂布がうばい、広陵を攻める必要がなくなった。呉景が浮いた。孫策と同レベルよりも、豪族の呉景のほうが、丹楊を治めるのにふさわしい。ゆえに、呉景を丹楊太守とした。そんなとこ。
孫策の目線から見れば。「やっと、気軽な身内・徐琨が、丹楊太守になった。悦んだ。しかし、油断できない呉景が、もどってきた。呉景に、丹楊太守をとられた。くやしいなあ」というところか。袁術は、呉景でも孫策でも、自由につかえる。だったら、呉景を有効活用したい。だが孫策から見たら、そうでない。孫策は、袁術による人事に、口を出せない。

徐琨は、督軍中郎将となった。孫策にしたがい、廬江太守の李術をやぶる。廣德侯、平虜將軍。黄祖を攻めて、流矢にあたって死んだ。

李術は、孫権伝の建安五年にある。平虜将軍は、定員は1名。三品の官位だ。
ぼくは思う。徐琨は丹楊太守をはずされ、督軍中郎将になった。これは、横すべり?それとも降格?後漢末の「中郎将」は、けっこう偉いことが多いので、よく分からない。ともあれ、孫策の手勢にもどったのだ。
孫策とともに黄祖を攻め、死んだ。徐氏の勢いは、大きく削がれた。徐琨は、戦い方も、死に方も、孫策にそっくりである。親族として、孫策とともに行動をした。


琨生夫人,初適同郡陸尚。尚卒,權為討虜將軍在吳,聘以為妃,使母養子登。後權遷移,以夫人妒忌,廢處吳。積十餘年,權為吳王及即尊號,登為太子,群臣請立夫人為後,權意在步氏,卒不許。後以疾卒。 兄矯,嗣父琨侯,討平山越,拜偏將軍,先夫人卒,無子。弟祚襲封,亦以戰功至(於)蕪湖督、平魏將軍。

徐琨は、徐夫人を生む。はじめ呉郡の陸尚にとつぐが、未亡人となる。孫権が討虜将軍になったとき、妃とした。

孫権が討虜将軍になるのは、孫策が死んだ直後。曹操によって。つまり孫権は、当主になった直後から、呉氏-徐氏のことがキライだ。孫権は、孫策と「血の繋がった義兄弟」だった、徐琨の家が好きだ。自然に理解できる感情です。

徐夫人は、孫登を養育した。嫉妬深いので、孫権が遷るとき、呉郡に残された。

まえに孫権伝で、建康実録をひいた。許嵩の『建康実録』はいう。建安十三年(208)、孫権ははじめて呉郡から京口にうつる。建安一六年(211)、京口から秣陵にうつる。建安十七年(212)、秣陵を建業と改める。
孫権が徐氏を退けたのは、どのタイミングだろう。つぎに「10余年後」の話がある。孫権が呉王になるのは、220年だ。よって徐夫人が遠ざけられたのは、208年となる。謝夫人から、徐夫人へと切り替えた時期を、上記より前倒しすべきか。202年に呉景が死ぬ。その後に、謝夫人から徐夫人へと、孫権の関心が移ったか。

10余年後、孫権は呉王、呉帝となる。孫登を太子とした。郡臣は、徐夫人を皇后にしたい。だが孫権は、歩氏を皇后にしたい。孫権は、徐夫人を皇后にせず。

孫登伝はいう。孫登の母は、いやしい。徐夫人が養育した。孫登が呉王の太子となると、徐夫人を皇后に立ててほしい。孫権はみとめず。

のちに徐夫人は、死んだ。徐夫人の兄は、徐矯だ。弟の徐祚が嗣いだ。

死後に皇后を贈られた、歩夫人

吳主權步夫人,臨淮淮陰人也,與丞相騭同族。漢末,其母攜將徙廬江,廬江為孫策所破,皆東渡江,以美麗得幸於權,寵冠後庭。生二女,長曰魯班,字大虎,前配周瑜子循,後配全琮;少曰魯育,字小虎,前配硃據,後配劉纂。
吳曆曰:纂先尚權中女,早卒,故又以小虎為繼室。

孫権の歩夫人は、臨淮の淮陰の人だ。丞相の歩隲と、同族だ。漢末、母に連れられ、廬江にきた。廬江が孫策にやぶられた。江東にわたり、孫権の後庭に入る。

孫策がやぶったのは、劉勲だろう。劉勲のもとには、袁術の家族がいる。袁術の後継者として、孫策よりも劉勲のほうが、声望があったのだろう。だから歩氏も、劉勲を頼った。

2人の娘を産んだ。孫魯班、あざなは大虎は、周循と全琮にとつぐ。孫魯育、あざなは小虎は、朱拠、劉纂にとつぐ。

盧弼はいう。劉纂は車騎将軍となる。孫峻伝にある。孫魯班と孫峻は、私通した。

『呉歴』はいう。劉纂は、孫権の中女をもらうが、早くに死んだ。孫魯育をもらう。

夫人性不妒忌,多所推進,故久見愛待。權為王及帝,意欲以為後,而群臣議在徐氏,權依違者十餘年,然宮內皆稱皇后,親戚上疏稱中宮。及薨,臣下緣權指,請追正名號,乃贈印綬,策命曰:「惟赤烏元年閏月戊子,皇帝曰:嗚呼皇后,惟後佐命,共承天地。虔恭夙夜,與朕均勞。內教脩整,禮義不愆。寬容慈惠,有淑懿之德。民臣縣望,遠近歸心。朕以世難未夷,大統未一,緣後雅志,每懷謙損。是以于時未授名號,亦必謂後降年有永,永與朕躬對揚天休。不寤奄忽,大命近止。朕恨本意不早昭顯,傷後殂逝,不終天祿。湣悼之至,痛於厥心。今使使持節丞相(醴陵亭侯雍)〔醴陵侯雍〕,奉策授號,配食先後。魂而有靈,嘉其寵榮。嗚呼哀哉!」葬於蔣陵。

歩夫人は、嫉妬しない。ゆえに孫権に愛された。孫権が皇帝になると(229)、歩氏を皇后にしたい。郡臣は、徐氏を皇后にせよという。10余年、皇后が決まらない。歩夫人の死後、皇后とする策命がおりた。「赤烏元年(238)閏月戊子、孫権は歩氏を皇后にせよと言った」と。

ぼくは思う。ひとつに決まらないが、歩氏の死は、238年でいいだろう。229年からだと、「10余年」というのは、一致しないが。
どうでもいいが、『真・三國無双6』に、この歩夫人が出てきましたね。


孫晧の祖母・琅邪の王夫人

吳主權王夫人,琅邪人也。吳書曰:夫人父名盧九。夫人以選入宮,黃武中得幸,生(孫)和,寵次步氏。步氏薨後,和立為太子,權將立夫人為後,而全公主素憎夫人,稍稍譖毀。及權寢疾,言有喜色,由是權深責怒,以憂死。和子皓立,追尊夫人曰大懿皇后,封三弟皆列侯。

孫権の王夫人は、琅邪の人。孫和の母。歩夫人のつぎに、愛された。

二宮の変は、また後日。琅邪の王氏って、名門ですね。


孫休の母・南陽の王夫人

吳主權王夫人,南陽人也,以選入宮,嘉禾中得幸,生(孫)休。及和為太子,和母貴重,諸姬有寵者,皆出居外。夫人出公安,卒,因葬焉。休即位,遣使追尊曰敬懷皇后,改葬敬陵。王氏無後,封同母弟文雍為亭侯。

孫権の王夫人は、南陽の人。孫休の母。

孫亮の母・会稽の潘夫人

吳主權潘夫人,會稽句章人也。父為吏,坐法死。夫人與姊俱輸織室,權見而異之,召充後宮。得幸有娠,夢有以龍頭授己者,己以蔽膝受之,遂生(孫)亮。赤烏十三年,亮立為太子,請出嫁夫人之姊,權聽許之。明年,立夫人為皇后。性險妒容媚,自始至卒,譖害袁夫人等甚眾。

孫権の潘夫人は、会稽の句章の人だ。父は、刑死した。奴隷として織室にいたが、孫権に見出され、孫亮を生んだ。赤烏十三年(250)、孫亮が皇太子となる。翌年(251)、潘夫人は皇后となる。潘夫人は嫉妬ぶかく、袁夫人を殺した。

孫権の後嗣問題は、また今度。

吳錄曰:袁夫人者,袁術女也,有節行而無子。權數以諸姬子與養之,輒不育。及步夫人薨,權欲立之。夫人自以無子,固辭不受。

『呉録』はいう。袁夫人とは、袁術の娘だ。節行があったが、子がない。孫権は、男女を袁夫人にあずけたが、育たず。歩夫人が死ぬと(238)、孫権は袁夫人を皇后にしたい。袁夫人は、子がないので、固辞した。

これを読みたくて、このページをつくった。


權不豫,夫人使問中書令孫弘呂後專制故事。侍疾疲勞,因以羸疾,諸宮人伺其昬臥,共縊殺之,讬言中惡。後事泄,坐死者六七人。權尋薨,合葬蔣陵。孫亮即位,以夫人姊婿譚紹為騎都尉,授兵。亮廢,紹與家屬送本郡廬陵。

孫権が死んだ。孫亮が死ぬと、潘夫人の一族は、廬陵に徙された。

まとめ

孫権は、呉氏の息がかかった謝氏を正妻とする。202年、呉景が死ぬと、正妻は徐氏にうつり、徐氏に孫登を養育させる。208年、孫権が京口にうつるころ、徐氏を呉郡に置き去りにする。
孫権は、嫉妬しないことに安心し、歩夫人にうつる。しかし歩夫人は、男子がないので、皇后になりそこねた。歩夫人は、238年に死ぬ。おそらく、このとき、徐夫人も死んでいた。すでに徐夫人も歩夫人もいないので、闘争はリセット。孫権は、誰も文句を言えないように、袁夫人を皇后にしようとした。だが袁夫人は断った。
もう誰が正妻か分からず、二宮の変へと突入!二宮の決着とともに、2代皇帝・孫亮の母が、皇后となって孫権が死去。めちゃくちゃだな、孫権。袁夫人が皇后を受諾してれば、二宮の変は、回避できたかも。110420