『易経』を引用して袁術を批判した、何夔伝
『三国志集解』で、何夔伝をやります。
車騎将軍の曾孫だが、党錮にあう
何夔字叔龍,陳郡陽夏人也。曾祖父熙,漢安帝時官至車騎將軍。
何夔は、あざなを叔龍。陳郡の陽夏の人だ。曾祖父の何熙は、後漢の安帝のとき、車騎將軍までのぼる。
華嶠『漢書』はいう。何熙は、あざなを孟孫。身長は8尺5寸。孝廉にあがり、謁となる。殿中で、何熙の声がよくとおる。和帝は何熙をみとめ、司隸校尉、大司農を歴任した。永初三年(109)、南単于と烏丸が、ともに反した。
『資治通鑑』108年・109年、飢饉、羌と匈奴が初めて離反
何熙は、行車騎將軍となり、南匈奴と烏丸を征した。功績あり。烏丸は降伏をこい、単于はもとのように後漢の藩臣を称した。たまたま何熙は、暴疾して死んだ。
夔幼喪父,與母兄居,以孝友稱。長八尺三寸,容貌矜嚴。
何夔は、おさなくして父をうしなう。母と兄と、生活した。孝友をたたえられた。身長は8尺3寸で、容貌は矜嚴だ。
『魏書』はいう。漢末に宦官がはびこる。何夔の從父・何衡は尚書となるが、直言したので、党錮された。諸父兄は、みな禁錮された。
何夔は、『易経』から引用して、歎じた。「天地は閉じた。賢人は隱れた」と。ゆえに何夔は、宰司の命に応じない。
袁術の謀臣に、袁術の悪口をいう
避亂淮南。後袁術至壽春,辟之,夔不應,然遂為術所留。久之,術與橋蕤俱攻圍蘄陽,蘄陽為太祖固守。術以夔彼郡人,欲脅令說蘄陽。
何夔は、淮南に乱をさけた。のちに袁術が寿春にきて、何夔を辟した。何夔は応じないが、袁術にとどめられた。
謝鍾英はいう。袁術伝はいう。興平元年(194)、袁術は建号して、九江太守を淮南陰とした。『魏略』楊沛伝はいう。曹操が輔政すると、沛遷を九江太守とした。これは曹操が、淮南を九江にもどした証拠である。
盧弼はいう。袁術が建号したのは、建安二年である。建号とは、袁術伝では「僭号」と書かれる。謝鍾英は、誤りだ。ぼくは思う。「僭号」を、フェアに書こうとすると「建号」になることが、わかりました。
ところで何夔の家は、車騎将軍だ。袁術が好みそうなタイプである。
ひさしくして、袁術は橋蕤とともに、蘄陽をかこむ。蘄陽は、曹操のために、固守した。袁術は、何夔が蘄陽郡の人だから、何夔をおどして、蘄陽を説得させようとした。
趙一清はいう。蘄陽は、漢代には沛国の蘄県だった。しばしば陳寿は、蘄陽を郡として記す。後漢末に、蘄陽郡ができたのか。また何夔は、陳郡の人である。蘄陽は、沛郡である。いま袁術は「何夔は、蘄陽の人だから」と言った。なにが文字が欠けているか。
ぼくは思う。沛郡も蘄陽も陳郡も、近接している。袁術は、大雑把に「何夔は、地元の人だから」という口実で、仕事を任せたかったのではないか。会社でも、よくある。「あなたは、前任はコレコレで、この分野に詳しい。この仕事を任せたい」と。「いやあ、前任で近接した仕事はしたけれど、べつに詳しくはないよ」と思いつつ、受けざるを得ないことがある。
いま袁術が何夔を「脅して」とあるが、これは史家によるアトヅケ。辟に応じない人に、仕事をムリヤリ頼むことを、「脅す」と表現しただけ。
夔謂術謀臣李業曰:「昔柳下惠聞伐國之謀而有憂色,曰'吾聞伐國不問仁人,斯言何為至於我哉'!」遂遁匿灊山。術知夔終不為己用,乃止。術從兄山陽太守遺母,夔從姑也,是以雖恨夔而不加害。
何夔は、袁術の謀臣・李業に言った。「むかし柳下惠は言った。国を伐つ相談は、仁者にしないものだ。なぜ袁術は私に、国を伐つ相談をしてきたのでしょう」と。
ところで、袁術の「謀臣」の名が出たことに、おどろき。何夔は、袁術の謀臣と、個人的なジョークを言える関係である。何夔は「私は仁者です」と、うぬぼれている。ジョークと皮肉をまぜて、これを言ったのだろう。もし何夔が、曹操に移籍したあとに、この話をアトヅケしたのだとしたら、あまりにもカッコツケである。
何夔は、灊山に遁匿した。
ぼくは思う。寿春から逃げるとき、灊山はぴったりらしい。袁術からにげた何夔、袁術その人、袁術の残党である陳蘭は、みな灊山にもぐった。
ついに袁術は、何夔を用いられないと知り、あきらめた。
袁術の従兄は、山陽太守の袁遺だ。袁遺の母は、何夔の從姑だ。ゆえに袁術は、何夔を恨んだが、殺さなかった。
正論を吐きすぎて、袁術に持てあまされたか
建安二年,夔將還鄉里,度術必急追,乃間行得免,明年到本郡。頃之,太祖辟為司空掾屬。時有傳袁術軍亂者,太祖問夔曰;「君以為信不?」夔對曰:「天之所助者順,人之所助者信。術無信順之實,而望天人之助,此不可以得志於天下。夫失道之主,親戚叛之,而況於左右乎!以夔觀之,其亂必矣。」太祖曰;「為國失賢則亡。君不為術所用;亂,不亦宜乎!」
建安二年(197)、何夔は郷里にかえろうとした。袁術は何夔を急追するはずだから、間道をぬけた。袁術からまぬがれた。
何夔は、袁術の外征には、いまいち協力しなかったが、揚州を離れるほどではなかった。事実、袁術の寿春に、攻めこむ勢力はなかった。寿春は、安全だったのだ。しかし、袁術が皇帝即位したら、そんな場所には、いたくなくなった。これが動機。
皇帝即位する前後に、袁術はさかんに、豫州に出兵する。とくに陳郡は、袁術が重点的に攻めた地域。袁術-寿春-陳郡-汝南-潁川-献帝、とつながる。豫州と、ヒトやモノの交流が盛んになり、逃げるキッカケができたのかも知れない。これが状況。
動機と状況が、どれくらいの比率で、何夔に揚州脱出を決断させたか、わからん。
翌年(198)、陳郡にきた。曹操は何夔を辟して、司空の掾属とした。ときに、袁術の軍が乱れたという話があった。曹操は、何夔に問うた。「何夔は、袁術の軍が乱れたという話を、信じるか否か」と。
何夔は、『易経』を引用してから、こたえた。「天が助けるのは順で、人が助けるのは信だ。袁術は、信順の實がないのに、天人の助を望む。これでは、天下に志を得られない。そもそも失道の主というのは、親戚すら、そむく。まして左右の臣下は、そむいて当然。私が見たところ、袁術の乱れは、必然です」と。
「国のために、賢者を失えば、国は亡びる。袁術は、何夔を用いなかった。乱れることは、必然だな」と。
揚州にいた何夔は、あんまり役に立たないから、袁術に重用されなかったとか。正論ばっかり吐くから、草創期の組織にとって、お荷物だったとか。何夔が正論ばかり吐いて、やや曹操でも持てあますのは、列伝のつづきを読めば、わかることです。
太祖性嚴,掾屬公事,往往加杖;夔常畜毒藥,誓死無辱,是以終不見及。
曹操は、性格が厳しい。掾属は、仕事のことで、しばしば杖で打たれた。何夔はつねに毒薬をたくわえた。杖で打たれて恥をかくなら、すぐ死ねるようにした。何夔は、杖で打たれず。
党錮を味わった人は、理想&極端に走るから、扱いにくいなあ。社会学?風にとらえるなら、党錮の禁は、ひとつかふたつの世代がもつ精神の性質を、まとめて病理的に歪めてしまった。失われた20年。ザツな議論で、すみません。
出為城父令。
魏書曰:自劉備叛後,東南多變。太祖以陳群為酂令,夔為城父令,諸縣皆用名士以鎮撫之,其後吏民稍定。
何夔は、城父令となる。
『魏書』はいう。劉備がそむいてから、東南では変事がおおい。曹操は、陳羣を酂令、何夔を城父令にした。名士たちに、諸県を鎮撫させた。のちに吏民は定まった。
陳羣は、かつて劉備のもとにいた。何夔は、かつて袁術のもとにいた。東南を治める役割を、ゆかりある人物として期待されたのだろう。
何夔は、長広太守となる。
袁譚は、この地域の黄巾に、官位をくばった。長広の管承は、3千余家をひきいる。何夔は、管承を降伏させた。矣平県を、張遼とともに平定した。東牟県が、昌陽県をおどした。旬月のうちに、平定した。
巻17・張遼、楽進、于禁、張郃、徐晃、朱霊伝、初期の曹操軍
つぎ、法律や制度について、何夔が論じています。後日、やります。ともあれ、袁術かんする議論を読むことができたので、所期の目的は果たしました。110520