袁紹を嫌い、官渡のあと曹操に合流した司馬朗伝
『三国志集解』で、巻15・司馬朗伝をやります。
200年代前半まで。
袁紹や曹操のせいで、故郷の安全をあきらめる
司馬朗字伯達,河內溫人也。
司馬朗は、あざなを伯達という。河內の溫県の人だ。
ぼくは思う。司馬炎が西晋をつくるから、「司馬芝が傍系で、司馬朗が直系」みたいなイメージになる。しかし、陳寿『三国志』の列伝の順序では、司馬芝のほうが、さきに載っている。陳寿の、どういう配慮だろうか。
『司馬彪序傳』はいう。司馬朗の祖父は、司馬俊。あざなを元異。身長は8尺3寸。鄉党や宗族がしたった。潁川太守となる。
司馬朗の父は、司馬防という。『漢書』名臣の列傳をこのむ。洛陽令、京兆尹をつとめ、老いたので騎都尉。諸子は、司馬防が命じなければ、進まず、座らず、言わず。父子のあいだは、このとおり厳粛だ。71歳で、建安24年に死んだ。8人の子がいた。司馬朗が長男、次男は司馬懿。
ぼくは思う。司馬氏は、ふつうに官位がたかい。太守のレベルを、コンスタントに、4代くらい輩出してきた。べつに『晋書』の補正をかけなくても、リッパな家だ。後漢末のふるまいに、この観点から注目したい。
司馬朗が9歳のとき、父のあざなを言われた。「他人の親をあなどる人は、自分の親を敬わない人だ」と言い返した。12歳のとき、経書をためされ、童子郎となる。身長が大きいので、年齢をうたがわれた。「私の家は、代々、身長が大きい」と言い返した。
のちに関東が起兵した。もと冀州刺史の李邵は、家が野王にある。険しい山にちかいから、家を温県にうつしたい。
張邈の使者として張楊に発ち、楊奉を切りくずす董昭伝
司馬朗は、李邵に言った。「野王から温県にきても、リスクはおなじ。むしろ李邵の移動により、民衆が動揺する」と。司馬朗をきかず、李邵は温県にきた。まわりの山で、民衆が乱れた。山から平地に出てきて、寇鈔した。
ともあれ、司馬朗が、故郷の安全をあきらめているのが、おかしい。董卓に荒らされるのでなく、関東が起兵したことにより、秩序が壊れてしまった。後漢をほろぼしたのは、間接的には董卓だが、直接的には関東である。あんまり言うと、曹操の悪口になるから、書いてない。
この話は、事実のうえでも、史料のうえでも、魏晋革命をささえるのかも。曹魏は、曹操がいたずらに関東を乱して、立ち上げた。司馬氏は、関東の兵乱の被害者である。乱しがちな曹魏でなく、司馬氏が、戦乱(三国鼎立)を、終わらせるのだと。
董卓の亡き子に扮して、董卓をみちびく
このとき董卓は、天子を長安にうつした。董卓だけは、洛陽にとどまる。司馬朗の父・司馬防は、治書禦史となり、長安にうつる。司馬防は、司馬朗に命じて、家属をひきいて、本県にかえらせた。
ある人が「司馬朗がにげる」と、チクった。司馬朗は、董卓にとらわれた。董卓は言った。「司馬朗と、私の亡き子は、おない歳だ。あやうく、そむかれた」と。
臣松之案朗此對,但為稱述卓功德,未相箴誨而已。了不自申釋,而卓便雲「吾亦悟之,卿言有意」!客主之辭如為不相酬塞也。
司馬朗は、言い返した。
「董卓は高世の德がある。群穢を清除し、廣く賢士を舉げれば、至治が興こる。威德はたかく、功業はあらわれる。しかし今日、兵難が起きたので、州郡は鼎沸した。民は安業しない。うまく関東を取り締まれば、董卓は、伊尹や周公にならぶ」
司馬朗は、董卓の前だから、お世辞を言っているのが。ぼくは、ちがうと思う。父・司馬防が長安に行ったように、司馬氏は、董卓におおむね賛成である。「賢士をあげた」とは、司馬氏の任用もふくむ。司馬朗は、董卓の子の代役を、ちゃんとやっている。
董卓は言った。「司馬朗の言うとおりだ」と。
裴松之は考える。司馬朗は、董卓をほめているだけだ。董卓は、司馬朗の発言を、歓迎している。司馬朗と董卓の会話は、成立していない。
黎陽に避難し、袁紹がくると脱出する
司馬朗は、かならず董卓が滅亡すると知った。財産をばらまき、郷里にかえった。
しかし新たに、董卓が洛陽を追い出された。軍人として董卓が、弱ければ、これ以上はついていけない。
司馬朗は、郷里の父老に言った。「この河内郡と洛陽は、隣接する。洛陽の東には、成皋の要害がある。北には、黄河がある。天下の義兵が、洛陽に進めなければ、この河内郡にとどまるだろう。四分五裂する、戰爭之地となってしまう」
司馬朗は言った。「黎陽にゆこう。黎陽の営兵は、監營謁者として、趙威孫がひきいる。趙威孫は、私たちと同郷で、婚姻している」と。
ぼくは思う。袁紹が戦略をねる前から、黎陽の兵は、後漢の建国をさせた、最強の部隊だった。知らなかった。袁紹も司馬朗も、地理に関する目のつけどころは、一緒だとわかる。2人とも、兵力の基盤として、冀州をもとめた。洛陽を攻める拠点が、温県だと判断した。たまたま司馬朗は、温県が故郷だから、避難するか否かを検討することになった。この点だけ、司馬朗は、袁紹とちがうけれど。
父老は、故郷が恋しくて、はなれず。同県の趙咨だけが、司馬朗にしたがう。数ヶ月のち、関東の諸州郡が起兵した。滎陽にあつまり、河內におよぶ。諸将は統制がとれず、鈔掠した。人口の半分が死んだ。
曹操が、袁紹から分離独立するのも、集団の性質に、アキアキしたからだろう。
久しくして、関東の兵が散った。(193) 曹操と呂布は、濮陽でにらみあう。司馬朗は、家属をひきいて、温県にもどる。
ではこの時期、何があったか。袁紹が、あらかた冀州を抑えた。司馬朗は、袁紹の支配をきらって、黎陽を脱出したのだろう。「乱世の原因は、お前じゃないか。っていうか、袁紹がいるせいで、冀州は、余計に乱れるわ。洛陽や温県は廃墟だけど、袁紹がいないぶんだけ、安全でマシやわ」という意見だろう。
飢饉で、人が食らいあう。司馬朗は宗族をいたわり、諸弟を教訓した。世が衰えたときにありがちな、ゆるい学業をさせない
。
22歳のとき、曹操に辟され、司空の掾属となる。
ぼくは思う。おなじ疑問に、読みながら気づいた。司空の掾属になるのが、22歳でなく、26歳だと考えれば、47歳という享年が正しくなる。
どちらにせよ、曹操が献帝を得て、袁紹から独立したあと、司馬朗は曹操にしたがった。献帝をかろんじる袁紹をきらい、献帝をおもんじる曹操についた。一貫しているなあ。史料にないが、河内太守の張楊をつうじて、献帝とつながったかも知れない。曹操とのつながりを強調するために、無視されてしまったか。
成皋令。病気でさり、堂陽長。治務は寬惠で、鞭杖しなくても、民は犯禁しない。県城のなかに移住してきた人は、船をつくる命令に従えない。司馬朗は、船づくりを助けた。元城令、丞相主簿。(後略)
咨字君初。子酆字子,晉驃騎將軍,封東平陵公。並見百官名(志)。
はじめ司馬朗とともに、黎陽にうつったのは、趙咨である。太常までなる。
趙咨は、あざなを君初。子は趙酆である。
司馬朗が曹操に仕えたのは、官渡のあと?
司馬氏は、袁紹をきらい、献帝につかえるという態度を、つらぬいたことがわかった。後漢の高官の家として、いちばん常識的な態度だろう。では、司馬朗が曹操に仕えたのは、いつだろうか。司馬朗伝を読むと、司馬朗は、故郷の河内が、洛陽や潁川に近いことも手伝い、早めに曹操に合流したように見える。
だがじつは、司馬朗が司空の掾属になり、曹操に合流した時期が分からない。「司馬朗が22歳のとき」という記述は、おなじ列伝のなかで矛盾する。これを「分からない」という。笑
『晋書』宣帝紀には、「漢建安六年,郡舉上計掾。魏武帝為司空,聞而辟之。」とある。建安六年の記述のあと、曹操が「司空として、司馬懿のウワサを聞いて、辟した」と。建安六年は、201年。官渡のあと。たとえば196年、曹操が司馬朗だけ辟して、司馬懿を知らないというのは、おかしい。司馬朗が曹操の掾属となったのは、官渡のあとかも知れない。
司馬懿は、179年生まれ。201年で、23歳。曹操が官渡の前に、司馬懿を辟しても、べつに「若すぎる」ということはない。ということは、司馬氏は、曹操が袁紹をやぶるまで、曹操に合流しなかったことになる。曹操は献帝を擁したものの、袁紹を叩いてみるまでは、信頼されなかったことになる。「曹操も、張楊や楊奉のように、コケるかも知れない」と、見定めていたことになる。自然な判断だなあ。
司馬朗伝なのに、袁紹の話ばかり、してしまった。110527