黄巾~曹操の袁氏平定まで
『三国志集解』董昭伝を見ながら、曹操の献帝奉戴に着目。
はじめ董昭は、袁紹が献帝を無視して任命した、鉅鹿と魏郡の太守。
袁紹と張邈が対立すると、献帝を重んじる張邈に共感し、張楊に使者する。
途中、張邈が曹操に敗れる。董昭は宙にうき、献帝を救う「英雄」をさがす。
董昭は「英雄」曹操のために働き、李傕と曹操の関係をとりもつ。
洛陽にもどった献帝の周囲を、楊奉から切りくずし、許県に遷都させる。
曹操の河北平定に、全面的に協力する。献帝を無視する袁氏がキライ!
という、複雑すぎる話です。ともあれ董昭は、袁術を失敗させた重要人物。曹操と李傕をとりもったり、楊奉をたぶらかして許県への遷都を企画したり。
袁紹が献帝を無視して、鉅鹿太守に任じる
董昭字公仁,濟陰定陶人也。舉孝廉,除癭陶長、柏人令,
董昭は、あざなを公仁という。
ぼくは思う。董昭には、幼少のエピソードがない。重要度のおちる人なんだろう。
董昭は、濟陰の定陶の人だ。孝廉にあげられ、癭陶の県長、柏人の県令となる。
癭陶は、鉅鹿の郡治。武帝紀の建安14年に、盧弼が注釈した。『後漢書』賈琮伝はいう。賈琮が冀州刺史となったとき、ワイロする役人たちは、印綬をといて返却した。癭陶の県長する定陶の董昭だけは、冀州の境界で、賈琮を出迎えた。ぼくは思う。賈琮伝、読まねばならん!短いから、後日のために、全文を引用しておきます。笑
賈琮字孟堅,東郡聊城人也。舉孝廉,再遷為京令,有政理跡。
舊交阯土多珍產,明璣、翠羽、犀、象、玳瑁、異香、美木之屬,莫不自出。前後刺史率多無情行,上承權貴,下積私賂,財計盈給,輒複求見遷代,故吏民怨叛。中平元年,交阯屯兵反,執刺史及合浦太守,自稱「柱天將軍」。靈帝特敕三府精選能吏,有司舉琮為交阯刺史。琮到部,訊其反狀,鹹言賦斂過重,百姓莫不空單,京師遙遠,告冤無所,民不聊生,故聚為盜賊。琮即移書告示,各使安其資業,招撫荒散,蠲複徭役,誅斬渠帥為大害者,簡選良吏試守諸縣,歲間蕩定,百姓以安。巷路為之歌曰:「賈父來晚,使我先反;今見清平,吏不敢飯。」在事三年,為十三州最,征拜議郎。
時,黃巾新破,兵凶之後,郡縣重斂,因緣生奸。詔書沙汰刺史、二千石,更選清能吏,乃以琮為冀州刺史。舊典,傳車驂駕,垂赤帷裳,迎於州界。及琮之部,升車言曰:「刺史當遠視廣聽,糾察美惡,何有反垂帷裳以自掩塞乎?」乃命禦者褰之。百城聞風,自然竦震。其諸臧過者,望風解印綬去,惟癭陶長濟陰董昭、觀津長梁國黃就當官待琮,於是州界翕然。
靈帝崩,大將軍何進表琮為度遼將軍,卒于官。
『郡国志』はいう。伯人は、冀州の趙国。劉邦が県名を質問した。伯人は去り、とどまらなかった。だから、伯県という地名になった。
袁紹は董昭を、軍事に参じさせる。袁紹は公孫瓚を、界橋でふせいだ。鉅鹿太守の李邵や、鉅鹿の豪族は、つよい公孫瓚に属したい。袁紹はこれを聞き、(公孫瓚をふせぐため)董昭に鉅鹿をまかせた。
董昭は、袁紹があつめた「名士」の1人だろう。ただし董昭は、袁紹と対等な張邈よりは格下で、袁紹の配下にいる曹操と同格かな。袁紹は、献帝を無視して太守を任命し、支配領域をひろげてゆく。董昭は、袁紹の手駒の一人である。もともと董昭は、後漢に任命され、鉅鹿のなかで県長をした経験があった。この経験を、袁紹がかってに買いあげた。
袁紹は、献帝とは別ルートで、官位を任命しまくる。曹操の官位しかり。袁紹は、献帝と別の王朝を建てたがっている。ぼくは、これを間違いないと思う。ちゃんと、袁紹の勝手な任命の例をあつめて、まとめたい。近日、やります。
袁紹は董昭に聞いた。「どうやって公孫瓚をふせぐか」と。董昭はこたえた。「1人で、公孫瓚を撃て!と言い張っても、誰もついてこない。まず李邵らに同意して仲よくなろう。対策は、あとで考える」と。
賊が動いた。董昭は、袁紹の檄文を偽作した。「鉅鹿を攻めにくる賊を討伐するが、妻子はゆるす」と。董昭は、すばやく賊を斬った。鉅鹿は、しずまった。しずまったのち、袁紹は董昭の作戦を聞き、董昭をほめた。
とはいえ、袁紹が公孫瓚に逆転勝利したことが、大きいのではないか。これで袁紹が滅亡していたら、なんの意味もない。大きな情勢の一部として、正しく位置づけねば。
たまたま魏郡太守の栗攀が、兵に殺された。袁紹は、董昭を魏郡太守とした。すばやく魏郡を平定した。
送り手の董昭、受け手の鍾繇
董昭の弟は、董訪である。董訪は、張邈の軍中にいた。張邈と袁紹は、仲がわるくなった。袁紹は、董昭をうたがう。董昭は、献帝をむかえたいから、河内にゆく。
ぼくは思う。陳留太守の張邈は、「袁紹がおごっている」と怒った。張邈は、献帝に尽くしたいのに、袁紹が献帝を無視するからだろう。張邈は、袁紹とおなじく献帝を無視する曹操とも、仲がわるい。ゆえに張邈は、曹操の兗州支配に叛乱した。最後は、負けましたが。
張邈のいる陳留は、司隷に接するから、張邈が献帝を保護したいのは、実現可能な方針である。董昭は、張邈の使者として、献帝を迎えにいったのかも知れない。しかし張邈は、建安の直前に、曹操に敗北して死ぬ。董昭は、主人がいない使者になった。でも、献帝を迎えるという使命を守りつづけ、行動をつらぬく。
上でぼくは、「董昭は袁紹の手駒だ」と言った。袁紹が「後漢のため」に動く範囲で、董昭は袁紹に賛成である。しかし、袁紹が後漢を無視したら、ついてゆけない。以後の董昭の行動は、「後漢のため」で読むことができる。
董昭は、河内へゆき、張楊に留められた。張楊をつうじて、董昭は印綬を返した。騎都尉となった。
いつもの悪い病気ですが。献帝を重んじる張邈-董昭の親玉は、袁術ですね。笑
ときに曹操は、兗州を領する。曹操から献帝への使者は、張楊の領土をとおり、長安にゆきたい。張楊は、曹操の使者を通さず。董昭は、張楊を説得した。
董昭は張楊に言う。「袁紹と曹操は、いずれ対立します。いま曹操は弱いですが、天下の英雄です。曹操の使者を通して、恩を売るべきです」と。張楊は、董昭を認めた。張楊は献帝に上表し、曹操を薦めた。
曹操が、方針を転換したのは、いつだろう。もとは「袁紹の部将として、献帝を無視る」だったが、兗州を平定したころから、「もし可能なら、献帝を迎えたい」となった。陳留を確保したことが、直接のトリガーだろうか。張邈やその弟を排除して、司隷へのルートを確保した。袁紹から独立して、やっていく見通しを立てた。荀彧に導かれ、潁川に移動する。
つまり曹操は張邈を倒すことにより、張邈から、根拠地(陳留)、方針(献帝支持)、つかえる使者(董昭)の3つを継承したことになる。
ところで。河東太守の張楊が、アタリマエのように献帝への交信手段を持っていることに、注目したい。兗州の張邈も曹操も、献帝と交信するならば、張楊に河東を通らせてもらうことが必須だった。洛陽経由とか、ムリなのか?
董昭は曹操のために、長安の李傕や郭汜らへ手紙を書いた。
関中~河東の秩序を破壊し、曹操色にぬりかえた鍾繇伝
張楊は、曹操に使者した。曹操は西方に開通した。献帝が安邑にきた。董昭は、河内から安邑にゆき、献帝のもとで議郎となる。
献帝の動向を知るために、李傕・郭汜伝 04
楊奉から切り崩し、献帝を許県にうつす
建安元年(196)、曹操は許県で黄巾を平定し、河東に使者する。
呂布が なり損ねたハーフな騎馬隊の群雄・張楊伝
そして、荀彧が曹操に「潁川にいこう」と提案した、直接の理由は、「故郷の黄巾を平定してほしいなあ」である。少なくとも、ここの董昭伝を読む限りは、そうである。「他人の徐州なんて、二の次でいいからさあ。うちから鎮圧してよ」と。
たまたま献帝が、洛陽にくる。韓暹、楊奉、董承、張楊は、仲がわるい。楊奉は、兵馬は最強だが、党援が少ない。董昭は曹操にすすめ、楊奉に手紙を書いた。「曹操は、楊奉を援助する」と。楊奉は「曹操が、兗州から兵糧をくれる」と悦び、曹操を鎮東将軍、費亭侯とした。董昭は、符節令にうつる。
『続百官志』はいう。符節令とは、定員1名。600石。
曹操は洛陽にゆき、董昭と会った。董昭は曹操に言った。「許都に天子をうつせ」と。曹操は「梁県の楊奉がジャマだ」と言った。董昭は「すでに楊奉は、曹操の味方だ。食糧のため、天子を魯陽にうつすと言え」と答えた。曹操は、楊奉にことわってから、献帝を許県にうつした。
ぼくは思う。献帝の周囲を、「楊奉から切り崩した」というのがポイント。楊奉は、洛陽にちかい梁県に陣取っていたのに、董昭にだまされてしまった。
根本的な問題がのこる。なぜ董昭は、曹操に肩入れしたかだ。陳寿は董昭のセリフとして「曹操が英雄だから」と書いてる。残念ながら、そうなんだろうなーとしか言えない。董昭は、袁紹の手駒という意味で、もともと曹操と同レベルである。その曹操が、兗州で奮闘するのを見た。曹操が兗州を得たのち、献帝護持の態度を取るようになったのを見た。この経過から、董昭は曹操に賭けた。月並みだけど、運命はゼロベースで築かれるのでなく、既存の人脈のなかから選ぶもの。だとしたら、曹操という選択を充分に理解&説明できる。
これでもなお分からないのは、曹操である。曹操は袁紹の手先として、張邈をつぶした。しかし曹操は変節し、張邈の方針を引きついで、献帝を支持した。この変節ゆえに、董昭は曹操を助けました。曹操は節操がなく、何を考えているのか分からない。じぶんで下克上した相手の戦略を盗むという点で言えば、曹操が袁紹を破ったときも同じだが。河北を本拠に、号令しちゃった。模倣による勝者。戦後日本の工業製品か。
これにより楊奉は失望した。楊奉は、韓暹らとともに定陵(潁川)で鈔暴した。曹操は、ひそかに梁県の軍営をせめ、平定した。楊奉と韓暹は、東へゆき、袁術にくだる。
楊奉と韓暹の末路もこちら。献帝の動向を知るために、李傕・郭汜伝 04
建安3年(198)、董昭は河南尹となる。ときに張楊が、部将の楊醜に殺された。張楊の長史・薛洪、河內太守・繆尚は、城を守って袁紹をまつ。董昭は単身で入城し、降伏させた。董昭は、冀州牧となる。
張楊の死は、武帝紀11) 袁術の死、徐州の地勢
盧弼はいう。賈詡が曹操にくだったときも、冀州牧となった。このとき冀州に、袁紹がいる。董昭も賈詡も、遥領である。河北を平定したのち、冀州牧は曹操みずからが就いた。
魏郡太守・袁春卿を説得し、鄴城がおちる
曹操は、劉備に袁術をふせがせた。董昭は言った。「劉備を行かせるな」と。劉備は、徐州刺史の車胄を殺した。曹操はみずから劉備を征し、董昭を徐州牧とした。
袁紹は、顔良に東郡を攻めさせた。董昭は魏郡太守となり、顔良をふせぐ。顔良の死後、鄴城をかこむ。袁紹の同族・袁春卿が、魏郡太守として鄴城にいる。曹操は、袁春卿の父・袁元長を揚州から連れてきた。董昭は、手紙で袁春卿を説得した。
鄴城が平定されると、董昭は諫議大夫となる。
曹操が烏丸を攻めたとき、董昭は運河をひらいた。千秋亭侯となり、司空軍祭酒に転じた。のちに董昭は、五等爵を言いだし、曹操を魏公、魏王とした。おしまい。110404