表紙 > >孫呉 > 張邈の使者として張楊に発ち、楊奉を切りくずす董昭伝

黄巾~曹操の袁氏平定まで

『三国志集解』董昭伝を見ながら、曹操の献帝奉戴に着目。
はじめ董昭は、袁紹が献帝を無視して任命した、鉅鹿と魏郡の太守。
袁紹と張邈が対立すると、献帝を重んじる張邈に共感し、張楊に使者する。
途中、張邈が曹操に敗れる。董昭は宙にうき、献帝を救う「英雄」をさがす。
董昭は「英雄」曹操のために働き、李傕と曹操の関係をとりもつ。
洛陽にもどった献帝の周囲を、楊奉から切りくずし、許県に遷都させる。
曹操の河北平定に、全面的に協力する。献帝を無視する袁氏がキライ!

という、複雑すぎる話です。ともあれ董昭は、袁術を失敗させた重要人物。曹操と李傕をとりもったり、楊奉をたぶらかして許県への遷都を企画したり。

袁紹が献帝を無視して、鉅鹿太守に任じる

董昭字公仁,濟陰定陶人也。舉孝廉,除癭陶長、柏人令,

董昭は、あざなを公仁という。

沈欽韓はいう。司馬昭を諱み、名を「照」「曜」とするものだ。董昭が「照」とされる文書もある。韋曜とは、韋昭である。周寿昌はいう。張昭は、名を改められない。「魏志」にある、胡昭、郝昭、呂昭は、そのまま書いてある。
ぼくは思う。董昭には、幼少のエピソードがない。重要度のおちる人なんだろう。

董昭は、濟陰の定陶の人だ。孝廉にあげられ、癭陶の県長、柏人の県令となる。

済陰の郡治は、定陶である。武帝紀の初平4年(193)に、盧弼が注釈した。ぼくは補う。兗州ですね。曹操が根拠地にしようとする土地。
癭陶は、鉅鹿の郡治。武帝紀の建安14年に、盧弼が注釈した。『後漢書』賈琮伝はいう。賈琮が冀州刺史となったとき、ワイロする役人たちは、印綬をといて返却した。癭陶の県長する定陶の董昭だけは、冀州の境界で、賈琮を出迎えた。ぼくは思う。賈琮伝、読まねばならん!短いから、後日のために、全文を引用しておきます。笑
賈琮字孟堅,東郡聊城人也。舉孝廉,再遷為京令,有政理跡。
舊交阯土多珍產,明璣、翠羽、犀、象、玳瑁、異香、美木之屬,莫不自出。前後刺史率多無情行,上承權貴,下積私賂,財計盈給,輒複求見遷代,故吏民怨叛。中平元年,交阯屯兵反,執刺史及合浦太守,自稱「柱天將軍」。靈帝特敕三府精選能吏,有司舉琮為交阯刺史。琮到部,訊其反狀,鹹言賦斂過重,百姓莫不空單,京師遙遠,告冤無所,民不聊生,故聚為盜賊。琮即移書告示,各使安其資業,招撫荒散,蠲複徭役,誅斬渠帥為大害者,簡選良吏試守諸縣,歲間蕩定,百姓以安。巷路為之歌曰:「賈父來晚,使我先反;今見清平,吏不敢飯。」在事三年,為十三州最,征拜議郎。
時,黃巾新破,兵凶之後,郡縣重斂,因緣生奸。詔書沙汰刺史、二千石,更選清能吏,乃以琮為冀州刺史。舊典,傳車驂駕,垂赤帷裳,迎於州界。及琮之部,升車言曰:「刺史當遠視廣聽,糾察美惡,何有反垂帷裳以自掩塞乎?」乃命禦者褰之。百城聞風,自然竦震。其諸臧過者,望風解印綬去,惟癭陶長濟陰董昭、觀津長梁國黃就當官待琮,於是州界翕然。
靈帝崩,大將軍何進表琮為度遼將軍,卒于官。
『郡国志』はいう。伯人は、冀州の趙国。劉邦が県名を質問した。伯人は去り、とどまらなかった。だから、伯県という地名になった。


袁紹以為參軍事。紹逆公孫瓚於界橋,钜鹿太守李邵及郡冠蓋,以瓚兵強,皆欲屬瓚。紹聞之,使昭領钜鹿。問:「禦以何術?」對曰:「一人之微,不能消眾謀,欲誘致其心,唱與同議,及得其情,乃當權以制之耳。計在臨時,未可得言。」

袁紹は董昭を、軍事に参じさせる。袁紹は公孫瓚を、界橋でふせいだ。鉅鹿太守の李邵や、鉅鹿の豪族は、つよい公孫瓚に属したい。袁紹はこれを聞き、(公孫瓚をふせぐため)董昭に鉅鹿をまかせた。

趙一清はいう。李邵は、『三国志』司馬朗伝にある。楊儀『季漢輔臣賛』はいう。李邵は、あざなを永南という。ぼくは思う。蜀にいく人か?見てみないとなあ。
董昭は、袁紹があつめた「名士」の1人だろう。ただし董昭は、袁紹と対等な張邈よりは格下で、袁紹の配下にいる曹操と同格かな袁紹は、献帝を無視して太守を任命し、支配領域をひろげてゆく。董昭は、袁紹の手駒の一人である。もともと董昭は、後漢に任命され、鉅鹿のなかで県長をした経験があった。この経験を、袁紹がかってに買いあげた。
袁紹は、献帝とは別ルートで、官位を任命しまくる。曹操の官位しかり。袁紹は、献帝と別の王朝を建てたがっている。ぼくは、これを間違いないと思う。ちゃんと、袁紹の勝手な任命の例をあつめて、まとめたい。近日、やります。

袁紹は董昭に聞いた。「どうやって公孫瓚をふせぐか」と。董昭はこたえた。「1人で、公孫瓚を撃て!と言い張っても、誰もついてこない。まず李邵らに同意して仲よくなろう。対策は、あとで考える」と。

「計在臨時,未可得言」は、ちくま訳も盧弼も、「みだりに口に出したら、作戦が成功しなくなる。作戦は、まだ言わないよ」というニュアンスで読んでいる。それでもいいだろうが。ぼくは、「状況が変わってみないと、現時点では、何とも言えないなあ」と読める。つまり、ノープランである。展望なし!だって鉅鹿郡すべて、公孫瓚の味方だから、絶望的。


時郡右姓孫伉等數十人專為謀主,驚動吏民。昭至郡,偽作紹檄告郡雲:「得賊羅候安平張吉辭,當攻钜鹿,賊故孝廉孫伉等為應,檄到收行軍法,惡止其身,妻子勿坐。」昭案檄告令,皆即斬之。一郡惶恐,乃以次安慰,遂皆平集。事訖白紹,紹稱善。

賊が動いた。董昭は、袁紹の檄文を偽作した。「鉅鹿を攻めにくる賊を討伐するが、妻子はゆるす」と。董昭は、すばやく賊を斬った。鉅鹿は、しずまった。しずまったのち、袁紹は董昭の作戦を聞き、董昭をほめた。

董昭は、なぜ袁紹の檄文を「偽作」したか。袁紹は味方である。内容は、賛成してもらえるはず。それなら、時期がポイントだろう。袁紹にお伺いを立てていたら、間に合わなかった。さらに、妻子に罪をおよぼさない安心感が、鉅鹿を安定させたのか。
とはいえ、袁紹が公孫瓚に逆転勝利したことが、大きいのではないか。これで袁紹が滅亡していたら、なんの意味もない。大きな情勢の一部として、正しく位置づけねば。


會魏郡太守栗攀為兵所害,紹以昭領魏郡太守。時郡界大亂,賊以萬數,遣使往來,交易市買。昭厚待之,因用為間,乘虛掩討,輒大克破。二日之中,羽檄三至。

たまたま魏郡太守の栗攀が、兵に殺された。袁紹は、董昭を魏郡太守とした。すばやく魏郡を平定した。

送り手の董昭、受け手の鍾繇

昭弟訪,在張邈軍中。邈與紹有隙,紹受讒將致罪於昭。昭欲詣漢獻帝,至河內,為張楊所留。因楊上還印綬,拜騎都尉。時太祖領兗州,遣使詣楊,欲令假塗西至長安,楊不聽。昭說楊曰:

董昭の弟は、董訪である。董訪は、張邈の軍中にいた。張邈と袁紹は、仲がわるくなった。袁紹は、董昭をうたがう。董昭は、献帝をむかえたいから、河内にゆく。

李龍官はいう。このとき「献帝」と呼ぶのはおかしい。そうだね。
ぼくは思う。陳留太守の張邈は、「袁紹がおごっている」と怒った。張邈は、献帝に尽くしたいのに、袁紹が献帝を無視するからだろう。張邈は、袁紹とおなじく献帝を無視する曹操とも、仲がわるい。ゆえに張邈は、曹操の兗州支配に叛乱した。最後は、負けましたが。
張邈のいる陳留は、司隷に接するから、張邈が献帝を保護したいのは、実現可能な方針である。董昭は、張邈の使者として、献帝を迎えにいったのかも知れない。しかし張邈は、建安の直前に、曹操に敗北して死ぬ。董昭は、主人がいない使者になった。でも、献帝を迎えるという使命を守りつづけ、行動をつらぬく。
上でぼくは、「董昭は袁紹の手駒だ」と言った。袁紹が「後漢のため」に動く範囲で、董昭は袁紹に賛成である。しかし、袁紹が後漢を無視したら、ついてゆけない。以後の董昭の行動は、「後漢のため」で読むことができる。

董昭は、河内へゆき、張楊に留められた。張楊をつうじて、董昭は印綬を返した。騎都尉となった。

ぼくは思う。董昭がもっていたのは、鉅鹿太守か、魏郡太守の印綬。もとは後漢の印綬だが、袁紹が暴力でうばいとったものだ。董昭は、こんなものを、持っていたくない。だから、後漢から「正式」に任じてもらった。董昭は、任地のない、騎都尉になった。
いつもの悪い病気ですが。献帝を重んじる張邈-董昭の親玉は、袁術ですね。笑

ときに曹操は、兗州を領する。曹操から献帝への使者は、張楊の領土をとおり、長安にゆきたい。張楊は、曹操の使者を通さず。董昭は、張楊を説得した。

「袁、曹雖為一家,勢不久群。曹今雖弱,然實天下之英雄也,當故結之。況今有緣,宜通其上事,並表薦之;若事有成,永為深分。」楊於是通太祖上事,表薦太祖。昭為太祖作書與長安諸將李傕、郭汜等,各隨輕重致殷勤。楊亦遣使詣太祖。太祖遺楊犬馬金帛,遂與西方往來。天子在安邑,昭從河內往,詔拜議郎。

董昭は張楊に言う。「袁紹と曹操は、いずれ対立します。いま曹操は弱いですが、天下の英雄です。曹操の使者を通して、恩を売るべきです」と。張楊は、董昭を認めた。張楊は献帝に上表し、曹操を薦めた。

曹操が兗州牧になるのは、董昭のおかげか。武帝紀で、195年10月。
曹操が、方針を転換したのは、いつだろう。もとは「袁紹の部将として、献帝を無視る」だったが、兗州を平定したころから、「もし可能なら、献帝を迎えたい」となった。陳留を確保したことが、直接のトリガーだろうか。張邈やその弟を排除して、司隷へのルートを確保した。袁紹から独立して、やっていく見通しを立てた。荀彧に導かれ、潁川に移動する。
つまり曹操は張邈を倒すことにより、張邈から、根拠地(陳留)、方針(献帝支持)、つかえる使者(董昭)の3つを継承したことになる。
ところで。河東太守の張楊が、アタリマエのように献帝への交信手段を持っていることに、注目したい。兗州の張邈も曹操も、献帝と交信するならば、張楊に河東を通らせてもらうことが必須だった。洛陽経由とか、ムリなのか?

董昭は曹操のために、長安の李傕や郭汜らへ手紙を書いた。

このとき、受信者の側には鍾繇がいた。鍾繇は、李傕や郭汜に「曹操は、いい奴ですよ。付き合ってあげましょうよ」と宣伝した。送り手の董昭、受けての鍾繇。この2人が、曹操と李傕を結びつけた。互いに知り合いでなさそうだが、曹操の将来性にかけた。
関中~河東の秩序を破壊し、曹操色にぬりかえた鍾繇伝

張楊は、曹操に使者した。曹操は西方に開通した。献帝が安邑にきた。董昭は、河内から安邑にゆき、献帝のもとで議郎となる。

献帝が、安邑で人心地ついた195年、諸臣があつまる。重要なタイミング。
献帝の動向を知るために、李傕・郭汜伝 04


楊奉から切り崩し、献帝を許県にうつす

建安元年,太祖定黃巾于許,遣使詣河東。會天子還洛陽,韓暹、楊奉、董承及楊各違戾不和。昭以奉兵馬最強而少黨援,作太祖書與奉曰:「吾與將軍聞名慕義,便推赤心。今將軍拔萬乘之艱難,反之舊都,翼佐之功,超世無疇,何其休哉!方今群凶猾夏,四海未寧,神器至重,事在維輔;必須眾賢以清王軌,誠非一人所能獨建。心腹四支,實相恃賴,一物不備,則有闕焉。將軍當為內主,吾為外援。今吾有糧,將軍有兵,有無相通,足以相濟,死生契闊,相與共之。」奉得書喜悅,語諸將軍曰:「兗州諸軍近在許耳,有兵有糧,國家所當依仰也。」遂共表太祖為鎮東將軍,襲父爵費亭侯;昭遷符節令。

建安元年(196)、曹操は許県で黄巾を平定し、河東に使者する。

曹操が潁川に移動するとき、河東の張楊と、密接につながっていたみたい。袁紹との関係を切るかわりに、張楊と結びついて、存続をはかっていたのか。張楊と袁紹の関係は、また陳寿と裴松之の記述が混乱して、わかりにくかった。
呂布が なり損ねたハーフな騎馬隊の群雄・張楊伝
そして、荀彧が曹操に「潁川にいこう」と提案した、直接の理由は、「故郷の黄巾を平定してほしいなあ」である。少なくとも、ここの董昭伝を読む限りは、そうである。「他人の徐州なんて、二の次でいいからさあ。うちから鎮圧してよ」と。

たまたま献帝が、洛陽にくる。韓暹、楊奉、董承、張楊は、仲がわるい。楊奉は、兵馬は最強だが、党援が少ない。董昭は曹操にすすめ、楊奉に手紙を書いた。「曹操は、楊奉を援助する」と。楊奉は「曹操が、兗州から兵糧をくれる」と悦び、曹操を鎮東将軍、費亭侯とした。董昭は、符節令にうつる。

曹操の爵位については、武帝紀で盧弼が論じた。
『続百官志』はいう。符節令とは、定員1名。600石。


太祖朝天子於洛陽,引昭並坐,問曰:「今孤來此,當施何計?」昭曰:「將軍興義兵以誅暴亂,入朝天子,輔翼王室,此五伯之功也。此下諸將,人殊意異,未必服從,今留匡弼,事勢不便,惟有移駕幸許耳。然朝廷播越,新還舊京,遠近跂望,冀一朝獲安。今複徙駕,不厭眾心。夫行非常之事,乃有非常之功,原將軍算其多者。」太祖曰:「此孤本志也。楊奉近在梁耳,聞其兵精,得無為孤累乎?」昭曰:「奉少黨援,將獨委質。鎮東、費亭之事,皆奉所定,又聞書命申束,足以見信。宜時遣使厚遺答謝,以安其意。說'京都無糧,欲車駕暫幸魯陽,魯陽近許,轉運稍易,可無縣乏之憂'。奉為人勇而寡慮,必不見疑,比使往來,足以定計。奉何能為累!」太祖曰:「善。」即遣使詣奉。徙大駕至許。

曹操は洛陽にゆき、董昭と会った。董昭は曹操に言った。「許都に天子をうつせ」と。曹操は「梁県の楊奉がジャマだ」と言った。董昭は「すでに楊奉は、曹操の味方だ。食糧のため、天子を魯陽にうつすと言え」と答えた。曹操は、楊奉にことわってから、献帝を許県にうつした。

胡三省はいう。曹操に天下之命をもたらしたのは、董昭である。荀彧と荀攸におとらない。魯陽は、劉表伝に盧弼が注釈した。
ぼくは思う。献帝の周囲を、「楊奉から切り崩した」というのがポイント。楊奉は、洛陽にちかい梁県に陣取っていたのに、董昭にだまされてしまった。
根本的な問題がのこる。なぜ董昭は、曹操に肩入れしたかだ。陳寿は董昭のセリフとして「曹操が英雄だから」と書いてる。残念ながら、そうなんだろうなーとしか言えない。董昭は、袁紹の手駒という意味で、もともと曹操と同レベルである。その曹操が、兗州で奮闘するのを見た。曹操が兗州を得たのち、献帝護持の態度を取るようになったのを見た。この経過から、董昭は曹操に賭けた。月並みだけど、運命はゼロベースで築かれるのでなく、既存の人脈のなかから選ぶもの。だとしたら、曹操という選択を充分に理解&説明できる。
これでもなお分からないのは、曹操である。曹操は袁紹の手先として、張邈をつぶした。しかし曹操は変節し、張邈の方針を引きついで、献帝を支持した。この変節ゆえに、董昭は曹操を助けました。曹操は節操がなく、何を考えているのか分からない。じぶんで下克上した相手の戦略を盗むという点で言えば、曹操が袁紹を破ったときも同じだが。河北を本拠に、号令しちゃった。模倣による勝者。戦後日本の工業製品か。


奉由是失望,與韓暹等到定陵鈔暴。太祖不應,密往攻其梁營,降誅即定。奉、暹失眾,東降袁術。三年,昭遷河南尹。時張楊為其將楊醜所殺,楊長史薛洪、河內太守繆尚城守待紹救。太祖令昭單身入城,告喻洪、尚等,即日舉眾降。以昭為冀州牧。

これにより楊奉は失望した。楊奉は、韓暹らとともに定陵(潁川)で鈔暴した。曹操は、ひそかに梁県の軍営をせめ、平定した。楊奉と韓暹は、東へゆき、袁術にくだる。

定陵は、鍾繇伝で盧弼が注釈した。
楊奉と韓暹の末路もこちら。献帝の動向を知るために、李傕・郭汜伝 04

建安3年(198)、董昭は河南尹となる。ときに張楊が、部将の楊醜に殺された。張楊の長史・薛洪、河內太守・繆尚は、城を守って袁紹をまつ。董昭は単身で入城し、降伏させた。董昭は、冀州牧となる。

鍾繇は司隷校尉で、董昭は河南尹。つくづく、ペアです。
張楊の死は、武帝紀11) 袁術の死、徐州の地勢
盧弼はいう。賈詡が曹操にくだったときも、冀州牧となった。このとき冀州に、袁紹がいる。董昭も賈詡も、遥領である。河北を平定したのち、冀州牧は曹操みずからが就いた。


魏郡太守・袁春卿を説得し、鄴城がおちる

太祖令劉備拒袁術,昭曰:「備勇而志大,關羽、張飛為之羽翼,恐備之心未可得論也!」太祖曰:「吾已許之矣。」備到下邳,殺徐州刺史車胄,反。太祖自征備,徙昭為徐州牧。

曹操は、劉備に袁術をふせがせた。董昭は言った。「劉備を行かせるな」と。劉備は、徐州刺史の車胄を殺した。曹操はみずから劉備を征し、董昭を徐州牧とした。

袁紹遣將顏良攻東郡,又徙昭為魏郡太守,從討良。良死後,進圍鄴城。袁紹同族春卿為魏郡太守,在城中,其父元長在揚州,太祖遣人迎之。昭書與春卿曰:「蓋聞孝者不背親以要利,仁者不忘君以徇私,志士不探亂以徼幸,智者不詭道以自危。足下大君,昔避內難,南遊百越,非疏骨肉,樂彼吳會,智者深識,獨或宜然。曹公湣其守志清恪,離群寡儔,故特遣使江東,或迎或送,今將至矣。就令足下處偏平之地,依德義之主,居有泰山之固,身為喬松之偶,以義言之,猶宜背彼向此,舍民趣父也。且邾儀父始與隱公盟,魯人嘉之,而不書爵,然則王所未命,爵尊不成,春秋之義也。況足下今日之所讬者乃危亂之國,所受者乃矯誣之命乎?苟不逞之與群,而厥父之不恤,不可以言孝。忘祖宗所居之本朝,安非正之奸職,難可以言忠。忠孝並替,難以言智。又足下昔日為曹公所禮辟,夫戚族人而疏所生,內所寓而外王室,懷邪祿而叛知己,遠福祚而近危亡,棄明義而收大恥,不亦可惜邪!若能翻然易節,奉帝養父,委身曹公,忠孝不墜,榮名彰矣。宜深留計,早決良圖。」鄴既定,以昭為諫議大夫。

袁紹は、顔良に東郡を攻めさせた。董昭は魏郡太守となり、顔良をふせぐ。顔良の死後、鄴城をかこむ。袁紹の同族・袁春卿が、魏郡太守として鄴城にいる。曹操は、袁春卿の父・袁元長を揚州から連れてきた。董昭は、手紙で袁春卿を説得した。

袁春卿、袁元長って、だれだろう。盧弼は注釈せず。そして、鄴城は力攻めでおとしたのであって、董昭の手紙でおちたのでない。このエピソードの重要度は、ちょっと下がりますね。

鄴城が平定されると、董昭は諫議大夫となる。

後袁尚依烏丸蹋頓,太祖將征之。患軍糧難致,鑿平虜、泉州二渠入海通運,昭所建也。太祖表封千秋亭侯,轉拜司空軍祭酒。 後昭建議:「宜脩古建封五等。」以下略。

曹操が烏丸を攻めたとき、董昭は運河をひらいた。千秋亭侯となり、司空軍祭酒に転じた。のちに董昭は、五等爵を言いだし、曹操を魏公、魏王とした。おしまい。110404

献帝奉戴までの董昭の行動と、曹操を魏王とする董昭の行動。矛盾するように見える。曹操を魏王にすることの、どこが「後漢のため」なんだとか。どのように結びつけて理解するかは、後日の課題です。あまりにおおくが、入りくみすぎるから。