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01) 孫策をつぎ、曹操の方面司令官に

『三国志集解』で孫権伝をやります。
なぜ、今までやらなかったのか、自分でも分からないほど、重要かつ楽しい。

200年、孫権が孫策をつぎ、廬江が反す

孫權字仲謀。兄策既定諸郡,時權年十五,以為陽羨長。

孫権は、あざなを仲謀。孫策が諸郡を平定すると、15歳(建安元年)で、陽羨(呉郡)の県長となる。

孫策が勝ち、袁術の揚州支配が完成したとき、就職したんだ。孫氏を、いっぱい採用してもらえた。その流れにのった。わかりやすい。


江表傳曰:堅為下邳丞時,權生,方頤大口,目有精光,堅異之,以為有貴象。及堅亡,策起事江東,權常隨從。性度弘朗,仁而多斷,好俠養士,始有知名,侔於父兄矣。每參同計謀,策甚奇之,自以為不及也。每請會賓客,常顧權曰:「此諸君,汝之將也。」

『江表伝』はいう。孫堅が下邳丞のとき(光和四年)、孫権が生まれた。誕生の神話をもつ。孫策は賓客に会うたび、孫権に言った。「この賓客らは、お前の部将になるのだ」と。

『江表伝』が、ロコツに孫権の皇帝即位を正統化する史料だとわかる。神話はともかく、孫策に「孫権が君主となる」と言わせるなんて、おかしい。孫策は、みずから若く健康で、子供がバカかどうかも分からないとき。弟にあとを嗣げという人はいない。
『江表伝』の作者は、西晋の虞溥で、孫権を正統化すべき利害関係がない。だが編集方針を、王朝をからめた利害関係だけで語れないことも、あるだろう。個人的?な動機で書かれる文書は、いくらでもある。


郡察孝廉,州舉茂才,行奉義校尉。漢以策遠脩職貢,遣使者劉琬加錫命。琬語人曰:「吾觀孫氏兄弟雖各才秀明達,然皆祿祚不終,惟中弟孝廉,形貌奇偉,骨體不恆,有大貴之表,年又最壽,爾試識之。」
建安四年,從策征廬江太守劉勳。勳破,進討黃祖於沙羨。

呉郡から孝廉、揚州から茂才にあがる。行奉義校尉となる。

孫権が15歳のとき(196)、呉郡太守の朱治は、孫権を孝廉にあげた。朱治伝と、諸葛瑾伝にある。揚州刺史の厳象は、孫権を茂才にあげた。孫策伝にある。
孫策伝にひく『呉録』は、奉業都尉とする。

献帝は、孫策がとおくから貢献したので、劉琬をつかわす。もどって劉琬は言った。「孫氏の兄弟のうち、長生きするのは、孫権だ」と。

『宋書』符瑞志は、ここから、孫権の外見をひく。ぼくは思う。陳寿も、孫権の帝王神話を載せている。でも、リアリティが損なわれない範囲である。
ちなみに劉琬が来たのは、孫策が曹操のために働いているから。献帝の忠臣。

建安四年(199)、孫権は孫策にしたがい、廬江太守の劉勲をうつ。すすんで沙羨で、黄祖を討つ。

孫策が根拠地をカラにしてまで、曹操のために劉表を牽制した戦い。
孫策04) 袁術の遺族を攻め、曹操につく


五年,策薨,以事授權,權哭未及息。策長史張昭謂權曰:「孝廉,此甯哭時邪?且周公立法而伯禽不師,非違父,時不得行也。況今奸宄競逐,豺狼滿道,乃欲哀親戚,顧禮制,是猶開門而揖盜,未可以為仁也。」乃改易權服,扶令上馬,使出巡軍。

建安五年(200)、孫策が死んだ。長史の張昭が、孫権をはげました。「周公の故事に見ても、落ちこんでいる場合でない」と。張昭は孫権の喪服をぬがせ、馬に乗せ、軍をめぐらせた。

周公について、裴松之と盧弼が言ったことは、はぶく。セリフはどうあれ、孫策から孫権への継承を、張昭が支持したのは、否定できん。


是時惟有會稽、吳郡、丹楊、豫章、廬陵,然深險之地猶未盡從,而天下英豪布在州郡,賓旅寄寓之士以安危去就為意,未有君臣之固。張昭、周瑜等謂權可與共成大業,故委心而服事焉。曹公表權為討虜將軍,領會稽太守,屯吳,使丞之郡行文書事。待張昭以師傅之禮,而周瑜、程普、呂範等為將率。招延俊秀,聘求名士,魯肅、諸葛瑾等始為賓客。分部諸將,鎮撫山越,討不從命。

このとき、會稽、吳郡、丹楊、豫章、廬陵だけを、孫権がたもつ。険阻な山地は、まだ従わない。

潘眉はいう。廬陵のしたに、「廬江」を加えるべきだ。沈家本はいう。孫策は廬陵を得たが、李術が孫権に従わないので、廬江と書かない。建安十九年、孫権は皖城を征し、廬江太守の朱光をとらえた。孫権は、李術を破っても、廬江をたもたなかった。
盧弼はいう。『資治通鑑』には、廬江がある。孫策は、会稽、呉郡、丹陽、豫章をもつ。分割して、廬陵を置いた。淮南、廬江、江夏は、ついに曹魏と孫呉で分割した。ゆえに陳寿は、ここで記さない。
ぼくは思う。廬江は、揚州の北西の端だ。汝南や江夏と接する。孫権が孫策をついだとき、この土地が離脱したのは、とても頷ける話。孫策は、曹操の部将として死んだ。孫策が死ねば、曹操にしたがうのだ。

張昭、周瑜は、孫権をささえた。

張昭伝はいう。孫策が死ぬとき、張昭に孫権を託した。周瑜伝はいう。建安五年(200)、周瑜は兵をひきいて、孫策の死にかけつけた。呉郡にとどまり、中護軍となり、張昭とともに孫権をたすけた。

曹操は上表し、孫権を討虜將軍とし、會稽太守を領させた。曹操は、孫権を呉郡におく。会稽は、副官が統治を代行した。

曹操は、孫策が死んだので、呉郡を討ちたい。張紘がとがめた。胡三省はいう。討虜将軍は、はじめて見える官位だ。
会稽太守は、山陰が郡治だ。孫権が呉郡にいるのは、軍事に便利だから。顧雍伝はいう。孫権は会稽太守なのに、会稽にゆかない。顧雍が、会稽太守を代行した。
趙一清はいう。顧雍が代行したのは、会稽太守の陸昭である。盧弼は考える。陸昭が会稽太守となったのは、孫策伝にひく『呉録』にある。
ぼくは思う。顧雍が代行したのは、孫権か陸昭か。結論なし?

張昭に師傅の禮をとる。周瑜、程普、呂範らは、軍をひきいる。俊秀をまねき、魯肅、諸葛瑾らが、賓客となる。諸将に山越を討たせた。

江表傳曰:初策表用李術為廬江太守,策亡之後,術不肯事權,而多納其亡叛。權移書求索,術報曰:「有德見歸,無德見叛,不應複還。」權大怒,乃以狀白曹公曰:「嚴刺史昔為公所用,又是州舉將,而李術兇惡,輕犯漢制,殘害州司,肆其無道,宜速誅滅,以懲丑類。今欲討之,進為國朝掃除鯨鯢,退為舉將報塞怨仇,此天下達義,夙夜所甘心。術必懼誅,複詭說求救。明公所居,阿衡之任,海內所瞻,原敕執事,勿複聽受。」是歲舉兵攻術於皖城。術閉門自守,求救於曹公。曹公不救。糧食乏盡,婦女或丸泥而吞之。遂屠其城,梟術首,徙其部曲三萬餘人。

『江表伝』はいう。孫策は、汝南の李術を、廬江太守とした。孫権をみとめず、李術に亡命する人がおおい。李術は言った。「亡命した人は帰さない。徳があれば頼られ、徳がなければ捨てられるのだ」と。孫権は曹操にチクった。「李術は、揚州刺史の厳象を殺した。李術を殺してくれ」と。この歳(200?)、孫権は、李術をかこみ、首級をさらした。曹操は、李術をたすけず。孫権は、3万余人を移住させた。

李術が厳象を殺したことは、「魏志」荀彧伝にひく『三輔決録』にある。「呉志」孫韶伝にひく『呉書』はいう。孫河は、孫権にしたがい李術を討つ。李術をやぶり、孫河を廬江太守とする。
曹操は、官渡の戦いをやってる。李術を救えないよな。ただし、孫権も李術も、たがいを曹操にチクりあっているのが重要だ。曹操の管轄下で、太守同士が、人民をうばい合っている。末期の孫策も、孫権も、曹操の下にいる。


曹操の方面司令官として、揚州を平定

七年,權母吳氏薨。八年,權西伐黃祖,破其舟軍,惟城未克,而山寇複動。還過豫章,使呂范平鄱陽,(會稽)程普討樂安,太史慈領海昏,韓當、周泰、呂蒙等為劇縣令長。
九年,權弟丹楊太守翊為左右所害,以從兄瑜代翊。

七年(202)、孫権の母・呉氏が死んだ。八年(203)、黄祖を討った。山越が動いたので、豫章にもどる。

呉夫人伝にひく『志林』はいう。呉后は、建安十二年に死んだ。
孫策伝にひく『江表伝』はいう。黄祖は水軍5千で、劉勲を助けた。ぼくは思う。孫策と孫権の黄祖攻撃は、曹操が河北で動きやすいように、劉表を牽制する支援行動ですね。袁術が滅亡したあと、孫氏は曹操(というか献帝)を頼っているので。

豫章に呂範をおき、鄱陽(鄱陽)を平らげる。程普をおき、楽安(鄱陽)を討つ。太史慈は海コンを領す。関東、州泰、呂蒙らは、治めづらい県の令となる。

豫章の鄱陽である。劉昭はいう。建安十五年、孫権は豫章を分けて、鄱陽郡をつくる。郡治は鄱陽。盧弼はいう。本文に「会稽」の2字があるが、いらない。会稽は、孫策が平定したので、呂範が平らげる必要はない。
沈家本はいう。治めづらい県とは、山越のでる県だ。韓当は楽安の県長。州泰は、宜春の県長。呂蒙は広徳の県長だ。必ずしも、この1年で任命されたのでない。ぼくは思う。陳寿は、よく出来事をひとまとめにする。
盧弼はいう。この歳(202)、賀斉は平定の戦争をした。賀斉伝にある。ぼくは思う。孫権から孫策に代わったが、軍事に一辺倒だ。方針は、かわっていない。孫権のキャラは、孫策とはちがうだろうが、期待される役割はおなじだ。張昭と周瑜がかためているから、孫権のキャラは関係ない。孫権が自分の色を出せるのは、もっと後だ。魯粛や諸葛瑾をつかい始めてから。この巻き返し過程が、おもしろい。

九年(204)、孫権の弟・丹陽太守の孫翊が、左右に殺された。

孫翊伝はいう。建安八年、孫翊は丹陽太守となる。ときに20歳ちょい。くわしくは孫韶伝と、そこにひく『呉歴』がいる。劉琬の言うとおり、孫権の兄弟は、みな早死にだ。
ぼくは思う。曹操が河北で、袁尚や袁譚と戦っている時期だ。曹操は河北担当、孫権は長江担当。そんな暗黙の分担があり、献帝をいただく秩序を、大急ぎで建設している。孫権は積極的に、曹操の「方面司令官」を演じている。袁術がコケて、献帝が「正しい」ことが証明された。孫権が生き残る道は、これしかない。
孫翊が死んだのは、急激な拡大政策の犠牲である。孫策の死因と同じだ。曹操に協力したせいで、孫氏がしはらった代償である。

従兄の孫瑜を、丹陽太守とした。

吳錄曰:是時權大會官寮,沈友有所是非,令人扶出,謂曰:「人言卿欲反。」友知不得脫,乃曰:「主上在許,有無君之心者,可謂非反乎?」遂殺之。友字子正,吳郡人。年十一,華歆行風俗,見而異之,因呼曰:「沈郎,可登車語乎?」友逡巡卻曰:「君子講好,會宴以禮,今仁義陵遲,聖道漸壞,先生銜命,將以裨補先王之教,整齊風俗,而輕脫威儀,猶負薪救火,無乃更崇其熾乎!」歆慚曰:「自桓、靈以來,雖多英彥,未有幼童若此者。」弱冠博學,多所貫綜,善屬文辭。兼好武事,注孫子兵法。又辯於口,每所至,眾人皆默然,莫與為對,鹹言其筆之妙,舌之妙,刀之妙,三者皆過絕於人。權以禮聘,既至,論王霸之略,當時之務,權斂容敬焉。陳荊州宜並之計,納之。正色立朝,清議峻厲,為庸臣所譖,誣以謀反。權亦以終不為己用,故害之,時年二十九。

『呉録』はいう。孫権は沈友を殺した。沈友が孫権に「献帝が許都にいるのに、なぜ献帝に逆らうのか」と言ったからだ。沈友は、呉郡の人。11歳のとき、華歆に声をかけられ、賢さを発揮した。孫権に殺されたとき、沈友は29歳だった。

沈友が死んだのは、裴松之の注釈の場所によれば、建安九年(204)である。ときに沈友は29歳という。盧弼はいう。沈友が11歳なのは、中平三年である。霊帝が生きていた。華歆の「桓帝や霊帝のとき」と、霊帝を過去にあつかうセリフと合わない。『呉録』の矛盾は、こんな感じである。
ぼくは思う。都合よく『呉録』が矛盾してくれた。沈友は、孫権が曹操に謀反したあと、つまり赤壁後に、殺されたんじゃないか。ぼくの話では、このとき孫権は、曹操の方面司令官である。沈友が華歆と会った11歳が、霊帝が死んだあとだと考えれば。孫権が赤壁を起こす、4年後まで遅らせることが可能。方面司令官の話は、くずれない。


建安十三年(208)、黄祖を殺し、郡県をおく

十年,權使賀齊討上饒,分為建平縣。十二年,西征黃祖,虜其人民而還。
十三年春,權複征黃祖,祖先遣舟兵拒軍,都尉呂蒙破其前鋒,而淩統、董襲等盡銳攻之,遂屠其城。

建安10年(205)、孫権は賀斉をやり、上饒を討って、建平県(鄱陽)をつくる。

銭大昕はいう。『晋書』に、建平がない。『宋書』は鄱陽郡にあるという。賀斉伝にくわしい。孫権伝の本文では飛ばされるが、建安十一年(206)、マホで山賊を撃った。周瑜伝、孫瑜伝にある。ぼくは思う。この時期、孫権は、山地に入っていった。献帝の税収を増やすためかな。この地域は、後漢のとき、そもそも税金を取れていたのか。

建安十二年(207)、西へ黄祖を征す。人口を持ちかえる。

『資治通鑑』はいう。孫権の母は、この歳に死んだ。
ぼくは思う。前に『建康実録』を読んだとき、赤壁前までの期間、外戚の呉氏に牛耳られたと書いた。張昭も呉氏も、献帝に逆らわないのだから、孫権は曹操の部将に徹するしかない。魯粛や諸葛瑾など、孫権とおなじ次世代の人材は、くすぶっていたか。
周瑜の行動が、よくわからない。赤壁で、いきなり曹操に敵対する周瑜さんは、このときは、大人しい。周瑜は、献帝支持に納得していなかったが、袁術の失敗が身にしみて、大人しくしていたのだろう。とりあえず、わかい孫権を育てることが優先。赤壁の戦いは、周瑜による、張昭ら曹操の官吏へのクーデターだろうね。孫権へのクーデターではない。孫権は、クーデターを起こす対象となる「君主」ですらない。
孫権は、本音では「曹操きらい」と思っていたが、若いから、赤壁のときは、煮え切らない。いちおう「曹操をたすける」という態度を取りつづける。最後、皇帝即位するんだから、本音を明らかにするのですが。周瑜や孫策、孫権らがもつ「後漢はダメ」という反発心は、はじめは袁術に託された。袁術が腐ったので、行きどころを探す。孫権の成熟を待つ。笑

建安十三年(208)春、孫権は黄祖を討つ。水軍がはばむ。都尉の呂蒙が、先鋒となる。凌統、董襲が、黄祖の城をほふる。

盧弼はいう。孫権は、甘寧の計略で、黄祖を攻めた。黄祖の水軍は、董襲伝にある。呂蒙は、平北都尉である。黄祖の都督・陳就を斬った。水陸あわせて、孫権は進軍した。
ぼくは思う。黄祖討伐は、曹操のオツカイ戦さである。だから、張昭が反対したりしない。張紘は許都にいて、「孫権は、曹操のために、荊州を戦っていますよ」と、宣伝するのを忘れないだろう。
だが若い軍人たちには、べつの意味があるだろう。揚州の上流を抑えて、いつかの独立にそなえる。軍人の権限を、揚州の役所のなかで大きくする。戦いが起きれば、軍人の発言が大きくなるのは、必然だから。張昭は、献帝の忠臣として、分別ある大人として、軍人をコントロールせねばならない。
いま呂蒙は、荊州へ斬りこむ先鋒となった。のちに頭脳戦で、関羽を殺す人。因果。


祖挺身亡走,騎士馮則追梟其首,虜其男女數萬口。是歲,使賀齊討黟、歙,黟音伊。歙音攝。分歙為始新、新定、吳錄曰:晉改新定為遂安。犁陽、休陽縣, 吳錄曰:晉改休陽為海寧。以六縣為新都郡。

黄祖はにげた。黄祖のクビをさらす。数万口の人口を得た。この歳、賀斉が黟、歙を討った。歙を分割して、始新県、新定県をおいた。

賀斉伝にある。ぼくは思う。誰にも書けないような、いかにも異民族の地名をやめた。いかにも征服したみたいな、すがすがしい地名にした。

『呉録』はいう。晉は、休陽を海寧と改めた。
孫権は6県から寄せあつめて、新都郡をつくった。

盧弼はいう。晋は、新安郡と改めた。ぼくは思う。「都」という字に、孫権が揚州で独立したいという気持ちが、ちょっと見える。でも、都=独立王朝の首都、というわけじゃない。ちょっとした反抗。ほのめかし。笑
黄祖を斬ることができたのは、曹操が南下したからか。荊州をハサミウチにした。曹操と孫権の共同作戦である。荊州の世論は、劉表が死ぬか死なないかのうちから、メチャメチャになり、防御力が落ちたのだろう。この時点で孫権は、曹操の忠実な部将。


次回、赤壁の戦い。つづく。