02) 曹操、呂布、袁術をあやつり、皇帝へ
吉川永青『戯史三国志・我が糸は誰を操る』講談社2011を読みました。
陳宮の話。楽しく読みました、という前提のうえで、思ったことをメモしておきます。文字づかいや表現など、厳密に引用していません。ネタバレをしています。ごめんなさい。興味を持たれた方は、吉川氏の小説を、直接ご確認ください。
袁術を脅威に感じ、曹操に謀反する
233ページ、3章5節「糸を切る人形」。ぼくは『我が糸』につき、この1節のみで、本の価格分は楽しみました。
この本の「人形」とは、具体的には、曹操、呂布、おまけに袁術を指す。陳宮があやつり、皇帝に奉りたい人物。どうでもいいが、仮にも曹操を奉る小説で、タイトルに「操」という字をおかすのは、残念。
袁紹と袁術の同盟について、記す。曹操が青州を実効支配していると説明してある。よく分からない。あとで青州兵は、収穫のために青州に帰るという描写がある。どうも、違和感がのこります。
「袁術の同盟は、諸侯の領地が分散」とする。「盟主の袁術が連絡をとりやすいのは、淮南とわずかに州境を接する陶謙の徐州のみ」とする。孫堅の長沙は、連絡がとれないから、袁術が不利とする。これも違和感。
237ページ、193年が明けた。陳宮は、長安の王允を分析した。陳宮は、後漢を滅ぼしたい。だから王允が郭汜の降伏を入れ、郭汜と呂布が対決すればいいと考える。だが王允が郭汜をこばんだので、「漢帝国は傀儡政権のまま延命」したと。
陳宮は、曹嵩を琅邪にまねけという。なぜか。「曹操は、袁術と決着をつけるべきだ。袁術の盟友・陶謙が、曹嵩を人質としたらこまる」と。曹嵩の移動を、袁術戦へのそなえと見る。なるほど。
上で書いたとおり『我が糸』は、193年初、袁術が南陽から北上して陳留に入り、曹操にやぶれて寿春に移動する戦いを、はぶいた。曹操の快挙を、描きそこねた。
陶謙と袁術に、陳宮がほどこした対策は、『我が糸』のオリジナル。
『我が糸』には、陳宮が取りたてたという設定の、曹豹がいる。曹豹を、「呂布の推挙」といつわり、陶謙のもとに埋伏させる。
つぎに呂布へ、「袁術のもとを去るなら、兗州に来て、張邈をたよれ」と言う。もし呂布が徐州にゆき、「呂布が曹豹を推挙した」というウソがバレたら困るからだ。呂布を、袁術や陶謙と引きはなしてから、曹操が袁術を攻める。曹豹が陶謙をひっくり返す。
こうすれば曹操は、陶謙と袁術を敗れるだろうと。
曹嵩が陶謙に、「琅邪から兗州に移動したい」と言った。
青州兵の屯田が、徐州に食いこむから、陶謙は曹操がきらいという設定。陶謙は、趙彧、笮融、闕宣、陳登をあやつり、曹嵩を殺した。『我が糸』で陶謙は、曹嵩殺害の確信犯である。史料や物語によって、陶謙の責任の有無がちがうが、この話では有罪確定。
曹操は「戦の手順を変えるッ。袁術など後回しだ。まずは陶謙を討つ」と言った。陳宮は反対した。「戦略的にも、(陶謙よりも)力がある袁術を後回しにするのは、危険極まりない」と言った。曹操と陳宮は、決裂した。陳宮は「己が力で操れる皇帝が欲しい。だから、、殿(曹操)、さよならです」と言った。251ページである。
陳宮が曹操にそむく理由は、2つあがっている。1つは曹操が、袁術の脅威を、小さく見積もったこと。曹操は、袁術より陶謙を優先した。2つは、徐州の虐殺をやりすぎたこと。小説だから、2つめの感情が強調されている。1つめの観点は、2つめを説得するための材料みたいに、扱われる。だがぼくは、1つめが印象に残った。
ただ、『我が糸』に触発されて、気づくこともある。曹操が袁術を叩いた陳留の戦いと、ほぼ時期をあけずに始まった徐州の戦いは、ひとつながり、一連の戦いだということ。曹操は寿春のそばまで水路で南下し、そのドロがかわく前に、徐州を攻めた。袁術-陶謙の同盟と戦っているならば、この時期のちかさは、納得できる。
194年1月、曹操は徐州から帰り、陳宮も会議に参加した。曹操は徐州に2回行くが、陳宮がそむくのは2回目。張邈がそむいた理由を「人とのつながり、しがらみ」とする。張邈のこのキャラは、何回も説明されるが、ただの説明。小説なら、いかにも他人にひっぱられそうな、張邈のエピソードを、用意してほしかった。
262ページ、曹操が兗州にのこった3城の戦略的な重要性が説かれる。いま写しません。
陳宮は、考えた。「呂布は名が売れているから、新王朝の皇帝に押し上げやすい。呂布は、本質が臆病で、心配性だ。曹操のように、苛烈な手段をとれない。うまく誘導してやれば、力の使い方を間違うこともあるまい」と。この「力の使い方」という概念は、『我が糸』のキーワード。395ページ、陳宮から曹操への遺言でも、出てくる。抽象的だ。あまり本文で解説されつくしているとは、言えない。
曹操が兗州を平定する
270ページ、195年が明ける。呂布のもとで陳宮は、孫策と交易したい。孫策は、中原の各陣営から中立して、袁術から独立している。陳宮は、陳留から西にゆき、南陽、江夏をとおる。11日かかった。東にむき、袁術の領する廬江にはいる。さらに3日。廬江から長江に沿って、6日かけて宛陵。
孫策のもと、程普が陳宮を出むかえた。程普が、文官あつかいなのは、『三国演義』で程普が、玉璽の解説をするからだろう。陳宮は、長安で見た税収の記録に照らして、程普に兵糧をもとめた。このあたり、リアリティがある。ただ、袁術が陸康から兵糧をもらえない時代に、新興の孫策が、とおい兗州まで送るほど、兵糧を用意できるのか。『我が糸』で孫策は、袁術、劉備にも、兵糧を提供しているらしい。どれだけ、会稽郡は裕福なのだろう。
言い忘れたが、陳宮が兗州のそとに、こうして交渉にゆくシーンは、小説ならでは。胸がおどります。陳宮はこのあと、袁術への使者にも、みずからたつ。
おなじ歳の初夏、曹操は、豫州東部からの収穫にもとづき、呂布の定陶を攻撃した。ぼくは、どうして曹操が、豫州東部からの収穫を使えるのか、いまいち納得できない。べつのところで袁術は、豫州南部を支配すると書いてある。豫州の地図を、どんな色で塗っていたのか、作者に教わりたい。
兗州が戦闘再開。281ページ、陳宮は曹操を殺せる状況となる。285ページ、よけいな自信をつけた呂布が、陳宮の作戦を守らず、曹操を討ちもらした。289ページ、陳宮は曹操の陽動にひっかかった。張邈が敗走した。兗州は、曹操が平定。武帝紀や呂布伝に沿った話でした。呂布と陳宮は、徐州へ。
曹操、袁術、呂布、劉備、孫策
293ページ、孫策の使者・陸駿というオリキャラが出てくる。297ページの解説によると、孫策は劉備に、袁術を攻めさせようとしている。劉備は徐州の半分を曹操におさえられ、税収がすくない(?)。孫策は劉備に、「袁術を攻めれば兵糧やる」と交渉した。孫策は、袁術に冷遇されたので、「過日の損」を取りもどすため、袁術に歯向かっているという設定。
孫策は、爽快な青年英雄でなく、ただの借金とりである。
陳宮は言う。劉備と孫策は、呂布をつかって曹操を牽制し、袁術の淮南を獲得したい。劉備と孫策に、利用されるのは、損である。劉備は、袁術が動くと思っていない。だからウラをかいて袁術を動かし、袁術に劉備を攻めさせれば、呂布は徐州を手に入れられる。299ページ。
ぼくは思う。軍事行動が、史料にあれば、『三国演義』もそれを採用する。だが、糸を操ったのは誰かという解釈を操作することで、印象がまるで変わる。『三国演義』では、曹操のもとの荀彧が、袁術や劉備をあやつる。『我が糸』では、陳宮があやつったことにした。ぼくは、袁術がおのれの判断で動いたと思っている。
これらはすべて「史料と矛盾しないから、ウソとは言い切れないこと」に属するだろう。
ただし袁術は、陳宮のねらいどおりに動かない。「わしもまた、ひとつ、やるべきことがある。半年後に、劉備を討伐する」と。やるべきとは、なにか。袁術は、張済と董承を経由して、献帝を淮南に迎えようとしてる。303ページ。袁術は、劉備よりも献帝を優先している。いいなあ。
孫策は、劉備だけでなく、袁術にも兵糧を提供する。袁術が劉備を討つように仕向けて、留守になった淮南を、孫策がとるつもり。孫策、食えないキャラ。
袁術が献帝をねらい、呂布が徐州をとる
195年12月、袁術は献帝に2度目の使者。どこに史料があるのか、作者に聞きたい。もしないのなら、どうして、こういう記述をお書きになったのか、理由を知りたい。とても興味があることなので。
司隷と寿春で、董承と袁術がつなひき。305ページ、196年1月、曹洪が安邑にゆくが、やぶれた。袁術の部将と、董承に敗れた。この戦いは、武帝紀に書いてある。董承と袁術のつながりを、この曹洪の敗戦の記事から、ふくらましたのだろうか。
袁術が劉備を攻めた。『我が糸』曰く、袁術は、曹洪を破って、曹操の思惑を外したことを「ひと段落」とし、劉備の徐州に目を向けたと。
ぼくは思う。袁術の連続した軍事行動に、なんらかの説明をつけようとすれば、そうなる。武帝紀を追えば、言えること。だが袁術は、まだ献帝を得ていない。「ひと段落」とするには、早すぎる。何か見おとしがあるのかも。1、曹操が献帝をうばえない決定的な要因が生まれた、2、袁術が献帝をとれる見通しがたった、3、袁術が献帝をいらなくなった、4、いま袁術が徐州を攻めねばならない(もしくは、攻めたくなる)理由が生じた。4つめは、徐州が震源となったパタンだ。『我が糸』は描かないが、袁術と呂布のあいだで、なにか約束があったのかも知れない。
劉備は、陳宮の想定をうわまわり、張飛を下邳に残した。しかし314ページで、張飛は下邳を失った。史実どおり。張飛に酒をのます誘導が、くわしく書かれていて、おもしろかった。曹豹は、陳宮の登用された人という設定だから、活躍がおおい。
陳珪と陳宮の対立は、史書どおり。319ページで陳宮は、呂布に言った。「陳珪、陳登については、重用するなでなく、信用するな」と。リアリティがある。
袁術を皇帝にしたい陳宮
327ページ、呂布の家族が徐州にきた。ルートがおもしろい。并州、洛陽、北部荊州の西端、益州、益州を南下、荊州南端を通過、揚州、淮南をとおり、1ヶ月以上かけて徐州にきた。
淮南は、淮水と長江にはさまれ、麦でなく米を産する。袁術は、寿春と豫州で、22万を有する。陳宮が寿春で交渉しているとき、呂布が袁術にそむいて、劉備の家族を解放した。陳宮は袁術のまえで、呂布を罵った。ぼくは思う。つまり呂布が袁術にそむいたのは、陳宮が寿春にきて、留守にしているあいだだと、そう『我が糸』は解釈している。袁術は玉璽をちらつかせて、陳宮を勧誘した。330ページ。陳宮の袁術評。
「袁術は名門を鼻にかけた増上慢だが、曹操や呂布のような極端にいる者ではない。もっと世俗の垢にまみれて、人物も能力も中庸だ。それでこそ操りやすい」と。よくも悪くも、ふつうの人だな。
陳宮は袁術に「徐州で反乱をおこし、呂布を討ちましょう」と言った。袁術がよろこんだ。陳宮もまた、よろこんだ。
「わが意のままに従わせやすいだろう人物が、伝国の玉璽を持っている。すなわち、皇帝をつくるという野望への近道が、ひらけたのだ。曹操ほどの大器でなく、呂布ほどの愚か者でない袁術なら、なんとかなる」と。袁術を皇帝即位にしむけたのは、呂布を裏切ってきた陳宮。あたらしい解釈。
196年6月、335ページで、陳宮は呂布に反乱した。呂布伝にひく『英雄記』だ。呂布が曹性に、自白のチャンスをあげたので、陳宮が首謀者だとバレた。陳宮は、この反乱のせいで「飼い殺し」となった。出奔したら殺されるが、呂布の下にいても意見を求められないと。
ぼくは思う。『英雄記』の記述から、袁術を皇帝にしたい陳宮!を創作したのは、超たのしかった。ただ、これは『英雄記』がおぎなった話だから、陳寿の本文と、直線的にむすぶことには、慎重になりたい。つまり、陳宮が呂布に謀反したことを原因として、陳宮がうとんじられたという因果関係は、カンタンには成り立たない。その証拠に、『我が糸』は、「飼い殺し」という、よく分からない待遇に陳宮を置いた。陳寿と『英雄記』を、ムリに1本につなげると、うとんじれた陳宮が呂布のもとにいることを、「飼い殺し」とでもしないと、説明できなくなる。なんだか、不自然だよなあ。
陳宮が呂布の軍師にもどり、死ぬ
呂布が紀霊を追いかえしたので、袁術とぎくしゃくした。だが呂布が婚姻を申し出ると、快諾した。袁術は戦わずに徐州を手に入れたいから、呂布と婚姻したい。だが陳珪が「皇帝を手に入れた曹操を、敵にまわすな」と言った。
曹操は献帝のつぎに、長安を手に入れたい。曹操がくるしいなら、袁術とむすぶべきだが、陳珪がそれをさせない。
350ページより、袁術の部将・張勲が攻めてきた。陳珪は、張勲の心を突いた。「袁術への忠義と、孫策への敬愛と、どちらがつよいか」と。張勲のしたにいる、楊奉と韓暹は、離間された。353ページ、呂布は袁術に勝った。しかし陳宮から見れば、曹操の脅威が減っただけ。曹操は、張繍を攻めるだけの余裕が出てきた。余裕ある曹操は、そのうち呂布をつぶすだろう。
曹操が宛城にゆくと、陳宮は「袁術と同盟してさえいれば!」と言った。許都の守兵は、下邳よりおおい。でも袁術をプラスすれば、許都を攻めることができた。だが361ページ、「袁術も凋落の一途で、神輿の価値がなくなった」と陳宮は考えた。ふたたび陳宮は、呂布にかけた。消去法かよ。
363ページ、蔡瑁が登場して、曹操を攻めた。蔡瑁かあ!
367ページ、陳珪が劉備と曹操についたので、陳宮が軍師に返り咲いた。曹豹を使者に、袁術との同盟を立て直した。「ほんとうは、もっと勢いのある袁術と同盟できていたはずなのに、と思うと、なんとも口惜しい」と。いいなあ。
下邳が曹操に包囲された。もし曹操を追い返したら、孫策と同盟をくんで、逆転できる。『我が糸』の陳宮は、こんなふうに考える。377ページ。
「孫策はすでに袁術と険悪な関係になっているから、普通に考えれば、(袁術とむすんだ呂布と)、孫策との同盟に成算はない。しかし孫策も、曹操とは微妙な関係。曹操を攻略するまでは、袁術、孫策、呂布が連携する。曹操を攻略したら、孫策とむすんで袁術を攻略する。かつて孫策は、劉備をつかって袁術をたたこうとした。いま孫策が、呂布をつかって袁術をたたくことは、あり得る」と。
さいごは、384ページ、呂布が陳宮の謀反をうたがい、呂布は敗れた。「終章」のうまみは、前ページでネタバレしまくったので、くり返しません。
前半が董卓、後半が袁術。後半がおもしろかった。笑 110530