涼州刺史・韋氏につかえ、馬超をこばむ楊阜伝
驢馬の会をうけて、楊阜伝を復習。『三国志集解』を読みます。
荀彧が推す韋端につかえ、関中で袁紹に敵対
魏略曰:阜少與同郡尹奉次曾、趙昂偉章俱發名,偉章、次曾與阜俱為涼州從事。
楊阜は、あざなを義山という。天水の冀県の人。
胡三省はいう。漢陽郡は、晋代に天水にうつる。だから陳寿は、漢陽でなく天水と書いた。冀県は、涼州の州治だった。
馬興龍はいう。閻温伝はいう。馬超は、州治の冀城をかこむ。楊阜伝はいう。ただ冀城だけが、州郡をたてまつり、馬超をこばんだ。霊帝の中平より以後、建安の末年まで、涼州の州治は、冀県だった。
王先謙はいう。魏代、冀県は天水郡だった。
『魏略』はいう。わかい楊阜は、同郡の尹奉(あざなは次曾)と、趙昂(あざなは偉章)とともに、名を知られた。尹奉、趙昴と、楊阜は、ともに涼州從事となる。
ぼくは思う。涼州の人名を、まとめて整理したい。まだ散発的にしか、知らない。
楊阜は州從事となり、涼州牧の韋端のために、許県にゆく。安定長史となる。
長史について。『続百官志』はいう。郡ごとに、太守1人、丞1人をおく。辺境の郡では、丞のことを長史とした。ぼくは補う。楊阜は、安定の丞みたいなもの。献帝が東遷して、涼州は混乱したけれど、現地のすぐれた人材は、ちゃんと把握されていた。献帝のまわりだけ、コップのなかの嵐。
楊阜は、許都から涼州にかえる。關右の諸將は、楊阜に聞いた。「袁紹と曹操は、どちらが勝つか」と。楊阜は言った。「曹操が勝つ」と。
ぼくは思う。これはぼくの推測だが、関中の世論は、袁紹への支持だろう。荀彧伝で、袁紹が関中まで囲いこみ、天下を統一する戦略が書いてある。世論にさからい、曹操を支持したから、わざわざ楊阜伝で強調してあるのだ。なにが言えるか。献帝がぬけたあと、関中は、袁紹支持にかたむいた。曹操が献帝を保持しているが、袁紹が官渡をわたり、関中から挟みうてば、曹操はつぶれる。
楊阜は、長史の職務をこのまず、官位をさった。韋端は徵されて、太僕となる。韋端の子・韋康が、涼州刺史となる。韋康は楊阜を辟して、別駕とした。楊阜は、孝廉に察され、丞相府に辟された。韋康は上表して、楊阜をとどめ、涼州の軍事に參じさせた。
曹操は、河北と関中に挟みうたれているから、涼州に手をぬけない。韋端が中央にきた理由は、年齢のせいかな。べつに韋端が、失敗したのでない。失敗したなら、子の韋康がつぐことはない。
冀県にこもり、馬超に刺史と太守を殺される
馬超は渭南でやぶれ、諸戎をたもつ。曹操は安定にきたが、河間で蘇伯がそむくので、曹操は東にかえる。
楊阜は曹操に言った。「曹操が東にかえれば、隴西、南安、漢陽、永陽は、曹操の領土じゃなくなる」と。曹操は東にかえる。馬超が、諸戎の渠帥をひきい、隴上の諸県をおとす。ただ冀県だけ、馬超をふせぐ。張魯は、大将の楊昂に1万余人をつけ、馬超をたすける。
楊阜は、将士と宗族をつかい、馬超をふせぐ。楊阜の弟・楊岳は、偃月の軍営をつくる。正月から8月まで、馬超をこばむ。曹操軍は、助けにこない。
涼州(刺史の韋康)は、ひそかに別駕の閻溫に求救させたが、馬超に殺された。刺史も太守も、失色した。
韋康らは、馬超にくだりたい。楊阜は流涕して、いさめた。「田単みたいに、守城しよう」と。だが、刺史も太守も、馬超にくだる。馬超は、楊岳を冀城にとらえる。馬超は、張魯の大将・楊昂にめいじ、刺史と太守を殺した。
盧弼はいう。裴注『列序伝』はいう。刺史の韋康は、吏民をあわれみ、馬超に請和した。「魏志」荀彧伝にひく『三輔決録注』はいう。韋康は馬超にかこまれ、救援がこないので殺されたと。
盧弼は考える。馬超は、羌胡、隴右の軍勢、張魯の援軍がいる。韋康は、救援がこなくて、弱い。8月、閻温はぬけだし、殺された。つよい馬超が、よわい韋康の約束をまもらず、韋康を殺したのは、アンフェアである。だから馬超は、復讐された。
ぼくは思う。馬超は、韋康をたすけなかった。この、卑怯かつ強硬な行動が、みなに怒られている。史料を見ると、馬超が、秩序をまったく求めていないことがわかる。
ぼくはいま、佐伯啓思『現代文明論講義』を読んでます。ここに「なぜ人を殺してはいけないか」が出てくる。「自分が殺されたくないから」という相互性を、その答えとする意見がある。だがこの意見は、「オレは殺されてもいい。だからオレは、人を殺してもいい」と考える人を、とめられない。馬超は、これに似ているかも。「オレは家族を殺されてもいい。約束をやぶられてもいい。だから、家族を殺すし、約束をやぶる」と。論理は整合しているけど、支持されるかは、べつの話。
馬超から冀城をうばい、趙昂の妻・王異もたたかう
楊阜は、馬超にむくいたい。このころ楊阜は、妻の葬儀のため、休暇をもとめた。楊阜の外兄・姜敘は、曆城にいた。
『水経注』は、歴城の位置をのせる。のちに、建安と改められた。宋白はいう。晋室は、仇池郡をおき、歴城を郡治とした。
姜敘は、撫夷将軍となり、兵をつれて、歴城にいた。
かつて楊阜は、姜敘の家で育てられた。冀城の話をして、楊阜は泣いた。「馬超は、父親と主君にそむいた。馬超を殺したい」と。姜敘の母は、慨然として、姜敘に「楊阜をたすけろ」と言った。
同郷の姜隱、趙昂、尹奉、姚瓊、孔信、武都の李俊、王靈と、馬超をころす作戦をねる。從弟の楊謨をおくり、冀県に牢獄にいる楊岳とはなす。安定の梁寬、南安の趙衢、龐恭らとむすぶ。
建安十七年(212)9月、楊阜と姜敘は、鹵城で起兵した。
銭大昭はいう。武帝紀、夏侯淵伝をみると、馬超との戦いを、建安十九年とするが、これは誤りである。盧弼は考える。楊阜と姜敘が起兵したのが、建安十八年9月で、鄴県に勝報がとどいたのが、建安十九年正月だ。ぼくは補う。盧弼のいうとおり、いま下線をつけたとおりで、正解なのだろう。
鹵城は、夏侯淵伝、閻温伝にある。冀県、西県のあいだにある。
馬超を、冀城から閉めだす。馬超は、姜敘の母に「馬騰と韋康を殺した」と、ののしられた。馬超は姜敘の母を殺した。楊阜は、5つのキズを受け、宗族7人が死んだが、馬超をやぶる。馬超は、張魯をたよる。
隴右を平定したので、楊阜は関内侯となる。曹操は言った。「姜敘の母は、霍光に廃立をうながした、楊敞の妻にまさる」と。
ぼくは思う。
裴松之はいう。『列女伝』は楊阜を、姜敘の姑子とする。陳寿は、姜敘が楊阜の「外兄」という。同じでない。
盧弼はいう。夏侯玄伝はいう。夏侯玄は、曹爽の姑子だ。ひく『魏書』は、夏侯玄の親が、曹爽の「外弟」だとする。夏侯淵伝にひく『魏略』はいう。夏侯玄は、曹爽の外弟だ。これは、姑子を「外兄」「外弟」とよぶ用例だ。
ぼくは思う。盧弼は、陳寿も『列女伝』も、どちらも成立すると言っている。
『列女伝』は、趙昂の妻について載せる。王異は、もと益州刺史した天水の趙昂の妻である。趙昂は羌道令となり、王異は西県にのこる。
同郡の梁雙がそむき、西城を攻めた。王異は、2子を殺された。服毒した。
建安のとき、趙昂は参軍事となる。冀県にゆく。馬超にせめられた。王異も、馬超をこばむ。馬超は、趙昂と王異の子・趙月を人質にした。王異と趙昂は、祁山をたもち、馬超に囲まれた。30日して、曹操の援軍がきた。馬超は、趙月を殺した。冀城と祁山で、王異は9たび、作戦をたてた。
劉備が下弁にせまり、武都を小槐裏にうつす
曹操が漢中を征すると、楊阜を益州刺史とした。もどり、金城太守となる。赴任する前に、武都太守になる。武都は、蜀郡や漢中と接する。楊阜は、龔遂の前例にならい、武都を安んじるだけにした。
たまたま劉備は、張飛と馬超をやり、沮道から下辯にゆく。
氐族の雷定らは、7万餘落で、劉備におうじる。曹操は、都護の曹洪をやり、馬超をふせぐ。曹洪が宴会をしたので、楊阜がいさめた。
劉備は漢中をとり、下弁にせまる。曹操は、武都が孤遠だから、吏民をうつしたい。楊阜は、吏民や氐族をうつし、京兆、扶風、天水の境界に1万餘戶を住まわす。武都の郡治を、小槐裏にうつす。百姓は、乳児をせおい、楊阜にしたがう。
ぼくは思う。武都を、蜀漢でなく曹魏の領土にしたのは、楊阜の功績。このあと楊阜伝は、諫言を載せまくる。はぶく。諫言というのは、自分のなかに「あるべき姿」があるから、できること。楊阜は、曹操に追従したのでなく、みずから思う「国家とは、こうあるべき」というヴィジョンに殉じて、馬超と戦ったのだと思う。もし「曹氏がつよいから、曹氏にしたがう」という人物なら、「馬超がつよいから、馬超にしたがう」という行動をとったはず。馬超は、涼州での割拠に成功しただろう。曹操に涼州を与えたのが、楊阜だ。
曹丕は、侍中の劉曄に聞いた。「武都太守の楊阜は、どんな人か」と。みな、楊阜の公輔之節をたたえた。曹丕が楊阜をもちいる前に、曹丕が崩じた。武都に10餘年おり、徵されて城門校尉となる。(中略) 楊阜は、きつく曹叡に諫言した。死んだとき、家に余財なし。孫の楊豹が嗣いだ。
おわりです。馬超を失敗させたのは、曹操のバックアップすら必要としない、楊阜の「国家の秩序をたもとう」という気概だった。涼州は辺境だから、曹操との関係が、それほど行動を決定づけない。純粋に「国家とは、どうあるか」という思想にもとづいて、拘束すくなく、フラットに動ける。馬超は涼州を切りとりにかかり、楊阜はだれに頼まれたでもないのに、涼州をたもった。110623