田豫伝(曹操の代まで)
『三国志集解』を見つつ、田豫伝をやります。
昨日、田畴伝をやった。同姓の2人は、なにか関係があるのかなあ。
公孫瓚を離叛した劉備を見きり、県令となる
田豫は、あざなを國讓という。漁陽の雍奴の人。
ぼくは思う。 光武の初期の戦力は、この漁陽郡から出ている。
劉備が公孫瓚に奔ると、ときに年少の田豫は、みずから劉備に託した。劉備は田豫を奇とした。
劉備が豫州刺史となると、田豫は「母が老いたので帰りたい」と言った。劉備は涕泣して「田豫とともに、大事をなせないことを恨む」と言い、田豫と別れた。
1つめ。劉備がキライなら、公孫瓚の部将である段階で、劉備から離れるだろう。まあ「はじめは田豫が若すぎて、劉備のダメさに気づかなかった」という話も成り立つが、ちょっと推測がおおい。3つめ。これは口実である。笑
李光地はいう。徐庶や田豫を、老母のために帰してあげたのが、劉備の大義・盛徳であると。
ぼくは思う。バカだなー。劉備の大義・盛徳なんて、しょーもない。老母が、、という口実を鵜呑みにせざるを得ないくらい、劉備が「就職先」として、魅力がなかったわけで。いま「就職先」と言ったが、これは群雄としての意味じゃない。ふつうに、府の長官としての意味だ。後漢で、府の長官となり、みずから属官を持てる人は、みんな今日の「社長」のようなもの。長官と、いわゆる群雄のあいだは、意外と境界線があいまい(もしくは境界線が、ほぼない)のかも知れない。
ところで、たかが(と敢えて言っちゃうが)刺史になったくらいで、「大事」とか言い出す劉備は、どうなんだろう。初期から志が高いなあ!と称賛すべきなのか。もしくは、「言うことばかりデカい」という、史料編纂者の皮肉なんだろうか。刺史になり、一州を数年間、監察することが「大事」なんだろうか。
劉備が豫州刺史になるのは、公孫瓚のおかげじゃなく、陶謙のおかげだ。つまり劉備が、公孫瓚から離れたタイミングだ。つまり田豫は「わたしは、公孫瓚の部下で居続けたい」と、態度を表明しただけじゃないか。「劉備が公孫瓚から離れるなら、もう劉備についていけない」である。劉備が涕泣して口にした「大事」とは、公孫瓚から決別することだったか!
一度は幽州を離れて、徐州まで劉備に従軍したが、そこで幽州に引き返したのだ。つまり劉備が、公孫瓚のもとで平原相をしてるときまで、田豫は劉備に「託」していた。
田豫は、公孫瓚への忠誠心(というのかな)が強いなあ。
公孫瓚は、田豫を守東州令とした。
趙一清はいう。東州県でよい。『郡国志』で束州県は河間国に属し、もとは渤海郡。
陳景雲はいう。東州県でなく、泉州県である。漁陽郡にある。
盧弼は考える。陳景雲がただしい。漁陽郡の泉州県の県令だろう。ときに公孫瓚に拠るものは、幽州の地に任命された。漁陽の泉州は幽州である。河間の束州は冀州である。冀州には袁紹がいるから、公孫瓚が長官を置くことができない。
ぼくは思う。盧弼の判断根拠が、州ごとの勢力範囲というのが面白い。文字のかたちを議論しても、どうせ水掛け論になるのだ。
公孫瓚の部将・王門が、公孫瓚にそむいた。袁紹に味方して、王門が1万余人で、田豫の県を攻めた。県の衆は、「王門に降ろう」と言った。
田豫は城門にのぼり、王門に言った。「公孫瓚に厚遇されたが、あなたは去った。考えもあろうから、それは仕方ない。だがあなたが公孫瓚の属県を攻めれば、ただの乱人である。バカな者でも、もし他人に器を借りたら、それを又貸ししないものだ。
さっさと攻めろよ」と。王門は慚じて退いた。
公孫瓚は、田豫の權謀を知っていたが、うまく職務を与えられず。
史料の編者に言わせれば、「もし公孫瓚が、田豫を重用していれば、袁紹に負けなかったものを」ということだろう。だが公孫瓚は、田豫を県令にしている。この職務は、軽くない。うまく任ぜられなかったというのは、結果論であろう。
そもそも田豫は、家柄の裏づけが、とくにない。家柄が悪いから、劉備なんかに、ついて行ったのだ。その田豫を県令にしたんだから、公孫瓚は、充分に「人を見る目があった」のではないかな。
督幽州6郡事の鮮于輔を補佐し、地方官を歴任
公孫瓚が敗れた。国人は鮮于輔を推し、行太守事させた。
盧弼はいう。行漁陽太守事である。ときに鮮于輔らは、公孫瓚が任じた、漁陽太守の鄒丹を殺した。
鮮于輔は、もとより田豫と仲がよい。田豫を長史とした。田豫は鮮于輔にいった。「天下を定めるのは、曹氏である。はやく曹操に帰命せよ」と。鮮于輔は曹操に帰命して、曹操から厚遇された。
ぼくは思う。「督○○郡」という肩書もあるんだなあ。このとき幽州は、まだ袁紹がいる。公孫瓚の死と、官渡の戦のあいだは、たった1年しかな。袁紹の勢力が、どこまで幽州に食いこんだか(鮮于輔の督幽州六郡が、どこまでマジか)は不明だ。 公孫瓚は引きこもったから、そのあいだに袁紹が、幽州の郡県をおとしたのだろうか。
敵の敵は味方。公孫瓚の残党が、袁紹の敵・曹操を頼るのは、自然な政治力学だと思う。田豫がとくに、曹操の未来を見通したからでは、ないだろう。結果的に、これが繁栄の結果になっただけで。
曹操は田豫を召して、丞相軍謀掾とした。
田畴伝で、田豫が田畴を説得するシーンがあった。こっちになし。
劉虞の使者となるが、袁紹・曹操の官爵を受けない田畴伝
・田豫は、公孫瓚にベッタリゆえに、袁紹と対立し、袁紹の敵・曹操についた。
・田畴は、劉虞にベッタリ。公孫瓚とも袁紹とも対立した。曹操が幽州に遠征したので、仕方なく(慌てて)曹操に従った。
曹操についた理由は、田豫と田畴でちがう。ただし、2人に共通しているのは、消去法で曹操についたということ。もともと、田畴は劉虞の人脈、田豫は公孫瓚の人脈だった。田畴と田豫は、旧主が対立した関係同士だが、、劉虞も公孫瓚も滅びたので、対立も水に流れたのだろう。田豫は田畴に、なんといって、曹操への臣従を説得したのだろう。なし崩しで、曹操に吸収されていく、悲しい幽州人たち。
劉備も、同じ流れで、曹操に吸収される可能性が、充分にあり得たなあ!
田豫は、潁陰令、朗陵令に除された。
銭大昕はいう。大県には令、小県には長をおく。朗陵県は「長」がただしい。たとえば趙𠑊は「朗陵長」である。ここの記述は、誤りである。
弋陽太守にうつり、統治がうまかった。
洪亮吉はいう。弋陽郡は、曹魏が江夏郡と汝南郡をわけて置いた。列伝の前後の記述からも、曹操の代に置かれたと分かる。
呉増僅はいう。つぎに曹彰が遠征するのは、建安24年(じつは23年)だ。『百官志』にひく『献帝起居注』で、建安18年に豫州の6郡を整理したとき、弋陽郡がない。建安18年~建安23年に、弋陽群が置かれたのだ。
ぼくは思う。いちばん読みたい年代に、田豫の逸話がない。
代郡を平定、南陽を平定、北狄をふせぐ
鄢陵侯の曹彰が、代郡を征した。
曹彰は、田豫を相とした。易北で、異民族に攻められたが、田豫が建て直した。代郡を平定したのは、田豫の建策のおかげだ。
南陽太守にうつる。さきに郡人の侯音がそむいた。
叛乱軍は数千人。山中で群盗をなした。おおいに郡をわずらわした。前任の太守は、党与5百余人をとらえ、「死刑にしたい」と表した。田豫は囚人を諭して釈放した。南陽郡はしずまった。曹操は善しとした。
曹丕の初め、北狄がつよく、辺塞をおかした。田豫を、持節、烏桓校尉とした。鮮卑と戦った。後略。
曹操の代までは、読みました。おわり。120405
もともと田畴は劉虞につき、田豫は公孫瓚についた。旧主が対立したものの、やがて曹操に吸収された。2人は同類になったかに見えた。だが違う。曹操に吸収されたあとの、田畴と田豫は正反対。
田畴は、県令すらろくに拝命しない。爵位は、夏侯惇に背を叩かれても固辞した。
田豫は、県令をはじめ、太守を歴任して、曹魏のために働いた。
ぼくが曹操だったら、田畴にも、田豫みたいに働いてほしい。出身の州は同じだ。きっと、北狄の討伐において、田畴は役に立つだろう。田豫は、変動期や戦争が得意だ。田畴は、安定期や統治が得意そうだ。2人がセットで働いてくれたら、北方は、なんの心配も要らないのに。面倒くさいやつら!陽球め!