表紙 > 蜀漢 > 漢家を滅ぼす、ねじけた辺境根性・諸葛亮伝

01) 豫章から南陽に逃げる

原稿用紙550枚の小説を1本書いたので、また「日常」にもどり、『三国志集解』を読んでゆきます。なぜか後回しにしてた、諸葛亮伝。

このサイトのスタンスを忘れているのですが(ぼくが)、あとから自分が史料を参照するとき、原典にもどる手間をはぶくために、これを作っています。
また、その史料に触れた直後、いちばん熱いときに思いついたことを、書き留めてゆきます。たとえば『三国志集解』諸葛亮伝について、いちばん詳しいのはイマのはず。ぼくの人生のアトにもサキにも、これ以上のときはこない。もちろん、学術論文や解説書とか、ほかの史料との関係から、いろいろ思いつくことは多いですが、「原典を読んで気づく」のは、イマがピークだと思います。
2011年秋、小説に挑戦してみて、たしかに自分にとって、このサイトが役に立ったので、作成を継続します。長らく放置していて、すみませんでした。
すでに要らぬ注記だと思いますが、緻密さや正確さは、二の次です。思いつき優先です。緻密さや正確さをお求めならば、『三国志集解』を直接ご覧ください。


袁術の豫章太守・従父の玄に養われる

諸葛亮字孔明,琅邪陽都人也。漢司隸校尉諸葛豐後也。父珪,字君貢,漢末為太山郡丞。亮早孤,從父玄為袁術所署豫章太守,玄將亮及亮弟均之官。會漢朝更選硃皓代玄。玄素與荊州牧劉表有舊,往依之。

諸葛亮は、あざなを孔明。琅邪の陽都の人だ。

出身地の件は、「魏志」諸葛誕伝を見よと。そうですね。
諸葛亮伝のはじめは、1年半前にやってるが、重複してもいいや。忘れてた。
袁術は、諸葛亮の生存&人格形成に濃厚に関わった

前漢の司隸校尉、諸葛豐の後裔である。

諸葛豊のことも、諸葛誕伝に盧弼がかいた。
銭大昕はいう。諸葛亮、諸葛瑾、諸葛誕は、三国にわかれて仕え、列伝をたてられた。3人とも、出身の郡県が記される。諸葛亮と諸葛誕は、諸葛豊の子孫だという。魏志、呉志、蜀志」を、セットで見たり、バラで見たりしたから、重複をゆるしたのだろう。「魏志」鍾繇伝と鍾会伝は、2人が親子なのに、どちらも出身地をかく。重複の例である。

父の諸葛珪は、あざなを君貢という。漢末に太山郡の丞となる。

元本では、あざなを「子貢」とする。
『百官志』はいう。郡ごとに太守1人2千石と、丞1人をおく。
上司にあたる泰山太守はだれだろうなーというのが、みんなの関心になる。

はやくに父が死んだ。従父の諸葛玄が、袁術の豫章太守に任じられた。諸葛玄は、亮と均をつれて着任した。漢家は、豫章太守に朱晧をかぶせた。諸葛玄は、旧縁ある劉表をたよった。

ぼくは思う。いつ旧縁が生まれたのか。劉表は何進や董卓のとき、洛陽にいた。このとき洛陽で出会ったのか? それとも諸葛玄は、190年以降、荊州にいたのか。荊州だと思う。なぜか。上の記事でぼくは、諸葛珪は泰山丞になれる家長で、諸葛瑾を遊学させるヨユウがある一方で、諸葛玄は貧しいと確認した。諸葛玄に養われた諸葛亮は、遊学させてもらっていない。諸葛玄も洛陽に行けないだろう。
劉表と袁術は、荊州に同居するときは仲がわるいが、曹操と敵対するという点で利害が一致する。消極的にせよ同盟関係ならば、劉表の人材=諸葛玄を、袁術がもちい、荊州に接した豫章に置いたことは、友好のアカシになる。献帝の前にだすと色がかすむ諸葛玄でも、劉表と袁術という閉じた世界では、価値があがる。


獻帝春秋曰:初,豫章太守周術病卒,劉表上諸葛玄為豫章太守,治南昌。漢朝聞周術死,遣硃皓代玄。皓從揚州太守劉繇求兵擊玄,玄退屯西城,皓入南昌。建安二年正月,西城民反,殺玄,送首詣繇。此書所雲,與本傳不同。

『献帝春秋』はいう。はじめ、豫章太守の周術が病死した。劉表が上して、諸葛玄を豫章太守として、南昌においた。漢家は周術が死んだと聞き、諸葛玄のかわりに朱晧を置いた。

ぼくは思う。劉表が「上」したが、受理されなかったのか。劉表は、漢家の裏づけを取ろうとして、周術の死を報せてしまい、とんだヤブヘビになったなあ。結果論だけどね。
ここで争っているのは、漢家に従うか否かでない。漢家に従いつつも、政策の結論をどちらに持って行くかだ。

朱晧は、揚州刺史の劉繇にしたがい、兵をもらい諸葛玄を撃った。諸葛玄は、南昌から西城にしりぞく。南昌に朱晧が入った。

揚州太守は「刺史」の誤りだと盧弼がいうので直した。
以上が、建安元年のできごと。つぎの記述でわかる。

建安二年正月、西城の民がそむき、諸葛玄を殺して、首級を劉繇におくる。

胡三省はいう。西城は、豫章郡の南昌県の西。
『通鑑考異』はいう。『献帝春秋』は、劉表が諸葛玄を豫章太守に上して領させたという。『後漢書』陶謙伝でも、劉表が諸葛玄をもちゐたという。『三国志』諸葛亮伝では、袁術がもちいたという。劉表と袁術のどちらか。 許劭が劉繇に「劉表を頼れ」と勧めたことから、劉繇が、劉表がもちいた諸葛玄を攻めるのはおかしい。だから司馬光は、諸葛亮伝にしたがい、諸葛玄をもちいたのは袁術だとする。 盧弼は考える。『後漢書』陶謙伝には、この記述がない。『通鑑考異』が何を見て、これを言っているのかわからない。
趙一清はいう。『方輿紀要』84はいう。豫章の西に子城がある。西の子城は、牙城ともいう。

裴松之は思う。陳寿と『漢晋春秋』がちがう。

ぼくは思う。3つの問題がある。1つ、諸葛玄が豫章太守に「上」されたのはいつか。2つ、劉表と袁術を区別する意味があるのか。3つ、それでも劉表と袁術を区別する場合、『通鑑考異』の推測でよいのか。
1つめは、興平二年(195)か、建安元年(196)の夏まで。曹操が献帝を196年8月に手にいれるが、それ以前だろう。袁術も劉表も、曹操と敵対している。曹操の手許にいる献帝に「上」しても仕方がない。
195年秋に、曹操が兗州牧、劉繇が揚州牧になった。長安から洛陽のあいだをフラフラしている時期、受け入れ先を見つけるため、献帝は官位を濫発したのだと思う。諸葛玄や朱晧の任命は、この時期だろうか。袁術もしくは劉表は、競って地方官バブルにのった。 (劉繇が朱晧に兵を与えるほど強いのだから、揚州牧になった後かな。周術の死がトリガーだから、時期を完全にそろえるには到らないが)
2つめは、区別するメリットが少ないと思う。袁術と劉表も、対立していない。劉表は襄陽、袁術は寿春にいて、どちらも長江から、だいぶ北にいる。豫章まで、こままく血が行き渡らない。互いにとって、都合の悪くない人をおく、という程度の認識だろう。
ただし、区別するメリットが少なくても、区別するなとは、ぼくは言わない。劉表が袁術かと聞かれたら、史料の信頼度から、ぼくも司馬光とおなじく陳寿を採用して、袁術とすればいいと思う。
3つめ。袁術にやぶれた劉繇が、許劭から「劉表を頼れ」と言われたことから、劉繇と劉表をトモダチとして良いか。ちがうと思う。諸葛玄の任命と、劉繇の落ち目とのあいだには、袁術の皇帝即位がある。1つめに時期を問題にしたのは、これを言うため。皇帝即位の前後で、まわりの人の関係が変わってくる。前提がかわるのに、それを無視して、一貫した話をつくってはいかん
つまり、袁術と劉表が諸葛玄をおし、劉繇が朱晧をおした。このとき劉表と劉繇は敵対。だが袁術の皇帝即位後は、劉表が袁術にウンザリして、旧敵の劉繇すら受容する気持ちになったのかも知れない。
ぼくは『通鑑考異』の推論の道筋には反対。でも結論には賛成。という話でした。


玄卒,亮躬耕隴畝,好為梁父吟。

漢晉春秋曰:亮家于南陽之鄧縣,在襄陽城西二十裏,號曰隆中。

諸葛玄が死に、みずから諸葛亮はたがやし、梁父吟をした。

盧弼はいう。のちに成都に桑を植えた。農業のノウハウがある。
『史記』秦始皇本紀28年に、禅梁父がある。兗州の泗水県の北80里。
『後漢書』光武紀の中元元年、梁父で禅した。章懐注はいう。梁父は、泰山のもとにある小山だ。
郝経はいう。曹操が孔融を殺すのは208年だから、孔融の死をいたんで梁父吟したのでない。漢末に名士が禁錮され、宦官がのさばったことに、ガッカリしたのか。

『漢晋春秋』はいう。諸葛亮の家は、南陽の鄧縣。襄陽の城西、20里にある。隆中とよぶ。

『三国志集解』の場所の注釈はながいが、どこでもいいなあ。ぼくは、現地の観光協会に勤務しているのではない。
それよりも、どうやって豫章でやぶれて、南陽にきたかが気になる。袁術の残党が飛びちって、劉表に合流したのだろう。孫策に付き合いきれなかったり、孫権に仕える気がしない人が、荊州にきたのだろう。劉表の死後、孫権に再合流したとき、転職の履歴を抹消したのかもしれない。
赤壁のとき、みょうに荊州と揚州が親和する。近いから、という理由だけでなく、人的なつながりも大きかったのかも。長坂で劉備にしたがい、いつの間にか消えた人たちも、該当するのかも。荊州の南部と、揚州の南部は、シームレス。周瑜さんも、孫権に半分くらい協力しつつ、劉表と結びついていたのかも。
孫権と黄祖の対立という「点」だけで、「線分」や「面積」を見失ってはいかんなあ。


都合のわるい友人・石韜と孟建

身長八尺,每自比於管仲、樂毅,時人莫之許也。惟博陵崔州平、潁川徐庶元直與亮友善,謂為信然。

博陵の崔州平と、頴川の徐庶だけが理解者。

博陵は、「魏志」張燕伝、夏侯玄伝にある。
崔州平は、名が記録されなかった。


按崔氏譜:州平,太尉烈子,均之弟也。

『崔氏譜』はいう。崔州平は、太尉の崔烈の子。

『隋書』『唐書』に、『崔氏譜』は載らない。
『後漢書』崔駰伝(列伝42)はいう。崔駰は涿郡の安平の人。子は崔瑗、崔実。崔実の従兄は崔烈。太守、九卿を歴任した。霊帝から、5百万銭で司徒を買った。霊帝は「1千万銭をとれた」と悔やんだ。程夫人が「私が崔烈に買わせた」と言って、崔烈の名声が衰えた。太尉となった。
崔均は、わかくから英豪とまじわり、西河太守となる。献帝初、袁紹とともに山東で起兵した。董卓は崔烈を郿県の獄にとらえた。董卓が死んだので、崔烈は城門校尉となる。李傕に殺された。
恵棟はいう。崔烈のあざなは威考。崔駰の孫、崔瑗の兄の子だ。崔駰の子は崔盤。崔盤が崔烈を生んだ。 博陵太守の孔彪碑陰はいう。司徒掾する博陵の崔烈は、あざなを威考という。崔鈞はあざなを州平という。『九州春秋』はいう。崔鈞は、あざなを元平。崔鈞が州平というのは誤り。
『梁ソ魏国統』はいう。崔州平の兄・元平は、議郎となる。忠直をたたえられた。董卓の乱のとき、父の崔鈞が殺された。崔元平は、つねに抱腹のチャンスをねらった。病気になって死んだ。

崔州平は、崔均の弟だ。

ぼくは思う。袁紹は袁隗を殺されたが、崔均は崔烈を殺されなかった。袁氏よりも、官位がかるく、董卓から見たときの脅威が小さいから、崔氏の死刑執行が遅れたのだろう。しかし崔氏は、袁氏とおなじ系統の人である。ミニ袁氏とも言える。ミニ袁氏と諸葛亮が、南陽でだらだら付き合っていたのかー。
崔州平は、献帝の長安脱出からこぼれて、張済や張繍にしたがい、荊州に流れてきたのかも知れない。荊州の人脈のあつさ、学問や政治の充実は、長安からのおこぼれが多いのかも? 劉表の荊州統治が安定するのは、200年以降だ。曹操が収容しきらなかった人士のおかげだな。劉表が曹操に張り合えるとしたら、この人士が理由だ。劉表は、長安と寿春という、2つの「朝廷」からあふれた人を、あつめていた。すごいぞ、劉表。
劉表の死後、荊州の人士が曹操に接収されるから、もとどおりになる。


魏略曰:亮在荊州,以建安初與潁川石廣元、徐元直、汝南孟公威等俱遊學,三人務於精熟,而亮獨觀其大略。每晨夜從容,常抱膝長嘯,而謂三人曰:「卿三人仕進可至刺史郡守也。」三人問其所至,亮但笑而不言。後公威思鄉裏,欲北歸,亮謂之曰:「中國饒士大夫,遨遊何必故鄉邪!」

『魏略』はいう。建安初、諸葛亮は頴川の石廣元、徐元直、汝南の孟公威らと遊学した。

石廣元は、石韜という。『魏略』にある。 孟公威は、「魏志」温恢伝にひく『魏略』にある。
ぼくは思う。頴川と汝南は、ふつうに南陽にちかい。同一の経済圏とされる。「人材の豊作地帯だから、諸葛亮の友達を多く輩出した」という特徴は語れないだろう。

諸葛亮は「きみらは刺史や太守までゆける」「士大夫のたくさんいる故郷に、わざわざ帰らなくていい」と言った。

ぼくは思う。よく諸葛亮の志の大きさを語るエピソードとして引かれる。諸葛亮伝の裴注だから、諸葛亮ファンの目につく。もし「魏志」に埋もれてたら、無名だろう。
でも注意したい。この話は『魏略』だし、うえの盧弼注で、『魏略』が石韜と孟公威を詳しく説明することがわかった。つまりこのエピソードは、石韜と孟公威のための記録なのだ。どちらかと言えば、中原の曹魏に仕えた2人は、判断力に富んでいて偉いなあ、という意図で記述されたのだろう。曹魏の刺史といえば、劉備や孫権なみの領域をうけもつ。人材のおおい中原に出ても、2人はちゃんと名前をのこした。「自分の限界を悟り、井蛙に甘んじた諸葛亮とは違うよ!」という記事なのだ。
はじめは劉表と袁術、つぎは劉備と孫権が、中原から距離をたもって、ミニ帝国ごっこをやる。諸葛亮は、このミニ帝国ごっこの、筋金いりのプレイヤーなのだ。ローカルルールでだけ強い、麻雀打ちみたいなもの。ローカルから外には出ない。
劉表、袁術、劉備、孫権が勝てば、諸葛亮は成功者&先駆者になったが、まだ時代の趨勢として、中央が強かった。


臣松之以為魏略此言,謂諸葛亮為公威計者可也,若謂兼為己言,可謂未達其心矣。老氏稱知人者智,自知者明,凡在賢達之流,固必兼而有焉。以諸葛亮之鑒識,豈不能自審其分乎?夫其高吟俟時,情見乎言,志氣所存,既已定於其始矣。若使游步中華,騁其龍光,豈夫多士所能沈翳哉!委質魏氏,展其器能,誠非陳長文、司馬仲達所能頡頏,而況於餘哉!苟不患功業不就,道之不行,雖志恢宇宙而終不北向者,蓋以權禦已移,漢祚將傾,方將翊贊宗傑,以興微繼絕克復為己任故也。豈其區區利在邊鄙而已乎!此相如所謂「鶤鵬已翔於遼廓,而羅者猶視於藪澤」者矣。公威名建,在魏亦貴達。

裴松之はいう。『魏略』は、諸葛亮に「私は陳羣や司馬懿にかなわない」と言わせてしまった。おかしい。諸葛亮は、漢家を復興するため、曹魏に仕えなかったのだ。

『魏略』が諸葛亮をおとしめる、おとしめないまでも、石韜らをもちあげる意図で書かれているのだから、これでいいじゃん。ぼくは思う。裴松之も、諸葛亮を理想化しすぎて、よく分からん観念論を吐いている。漢家の復興というのは、劉備が益州に入ってから、曹操と対抗するためにもってきた議論であり、二の次だと思う。

孟公威は、孟建という。曹魏で貴達した。

ほーら、孟建のほうが、諸葛亮よりスゴかった。笑
陳寿があげた諸葛亮の友達は、はじめから存在価値のない無能な徐庶と、ミニ袁氏として後漢とともに没落した崔州平だけ。諸葛亮をもちあげるなら、この2人がよかった。
いっぽうで『魏略』があげた諸葛亮の友達は、中原でも実力を発揮できた、石韜や孟建。諸葛亮について研究した陳寿が、石韜や孟建との交際を知らないことはないだろう。『三国志』をつくるとき、『魏略』を無視することは、なかっただろう、たぶん。
でも、諸葛亮が色あせるのを恐れ、石韜と孟建を意図的にはぶき、友達をショボい連中だけにした。陳寿の理解において、『魏略』がひいたセリフが、もし諸葛亮の志の大きさや、漢家への忠誠をアピれるものなら、陳寿はこれを引用して、諸葛亮伝にプラスしたはずだ。徐庶と崔州平を書いたのだから、諸葛亮伝のなかに「若年期の友情の記述」というパラグラフはあるのだ。
裴松之は「諸葛亮は漢家のために劉備につかえ、曹操につかえなかった」と論評するために、『魏略』をひいたようだ。でも意図が裏目にでて、せっかく陳寿が隠した、諸葛亮がショボいという史料を紹介してしまった。


次回、劉備が登場します。111203

ぼくは思う。諸葛亮は劉備をつかい、「ミニ帝国ごっこ」を成功させようとする。中原にいったら埋没してしまう、という自分の限界をふまえ、地方政権を画策する。
これのどこが、中央政権=漢家の復興なのだろうか。むしろ曹操よりも、革新的というか、革命的というか、既存の秩序をひっくり返そうとしている。アウトサイダーが活躍の場をつくるには、ひっくり返すしかないのだが。
今さらだが、不思議に思う。
どっから出てきた誰のニーズで、今日も常識とされているのだろう。「諸葛亮=漢の忠臣」という話は。劉備政権の政治声明&ムチャな強弁に、後世のぼくらが付き合うことはないだろうに。
ぼくは「諸葛亮のやってることが、漢家の存続にとって、プラスかマイナスか」という議論が重要だ(というか、おもしろい)と思う。後漢から、地理も時間も隔絶し、後漢の利害から解放されたぼくは、「正義」をかけて議論することはない。ただ、結果を傍観できる者として、漢家の終わる様子を観察したいのだ。単純な興味。
ぼくの見通しでは、諸葛亮は、後漢を終わらせる方向にこそ動くが、続かせる方向には動かない。後漢にトドメを刺していないが(益州に籠もっていて、漢家の命運に関与できるはずがない)、埋め終わった墓土を、上からパンパンと叩くくらいはしたと思う。
「漢家の終わりざま」に興味があるぼくにとっては、諸葛亮の軍事能力が、高いか低いか、なんてどちらでもいい。
ついでに言うと、姜維はバカみたいに、辺境パワーをつかって破壊活動をやるが(自国も敵国もこわす)、諸葛亮の行動のベクトルも、同じようなものかも知れない。後継者というキャッチコピーは、設定した人の意図とは違うが、言い得てミョウ、なのかも。
バカの辺境パワーというと、貶しているみたいだ。そうです、貶している(笑)。でも、ぼくが『三国志』を読む興味は、秦漢帝国がこわれ、遠心力によって魏晋南北朝になり、日本列島に政治集団?が形成されていくという流れがあるから。だって、ここが日本だから。『三国志』に興味を持ったのも、日本前史だからだった。
漢家の前提からは、バカらしかったり、むやみに暴力的だったりする遠心力を、ぼくはおもしろいと思う。袁術も諸葛亮も、魯粛さんも、興味がある。魯粛さんは、そのうちまた書きます。今日は諸葛亮だ。つづきをやろう。