02) 袁術にブラ下がった、寒門
諸葛亮の、父や叔父の史料を「網羅」しておきます。
諸葛亮伝の本文より
諸葛亮字孔明,琅邪陽都人也.漢司隸校尉諸葛豐後也.
諸葛亮は、あざなを孔明という。
琅邪郡の陽都県の人だ。
諸葛瑾字子瑜,琅邪陽都人也。漢末避亂江東。
諸葛誕字公休,琅邪陽都人,諸葛豐後也。
出身県まで同じ。家格にちがいはあったが、諸葛瑾や諸葛誕と、同族と見なされたことには、間違いがない。
漢の司隷校尉、諸葛豊の後裔である。
しかし司隷校尉は、めちゃめちゃ偉くはない。それに、諸葛豊ひとりは世に出たが、それ以来、ひとりも有名人が出ていない。「いちおう士大夫の階級だが、パッとしない家」くらいの位置づけではないのか?
父珪,字君貢,漢末為太山郡丞.亮早孤,從父玄為袁術所署豫章太守,玄將亮及亮弟均之官.
諸葛亮の父は、諸葛珪、あざなは君貢だ。諸葛珪は、後漢のおわりに、泰山郡の丞になった。諸葛亮は、早いうちに父を失った。
早くに死に別れてしまえば、逸話がなくても、不自然ではない。
ちなみに諸葛珪は、『三国志』ではここだけ登場、『後漢書』には登場しない。諸葛珪は、諸葛亮を(諸葛氏内の)名門に接続するために作られた、架空の人物だ。…さすがに、そこまでは言わない。だが、諸葛珪の実在性をいうために、比較&検証する史料がないのは事実だ。
従父(父方のおじ)諸葛玄は、袁術より、豫章太守に任じられた。
諸葛玄は、諸葛亮と、弟の諸葛瑾をつれて、豫章郡にいった。
會漢朝更選朱皓代玄.玄素與荊州牧劉表有舊,往依之.玄卒,亮躬隴畝,好為梁父吟.
おりしも献帝は、諸葛玄のかわりに、朱晧を豫章太守に任命した。
諸葛玄は、もとより荊州牧の劉表と、仲が良かった。諸葛玄は、劉表をたより、荊州にいった。
諸葛玄が死んだ。諸葛亮は、みずから畑を耕し、梁父吟を好んだ。
袁術に食わしてもらった、寒門
今回ぼくは、名門の諸葛珪と、諸葛亮を切り離した。
すると、諸葛玄が見えてくる。諸葛玄は、袁術に食わしてもらわねば、食いつなげない、貧乏な士大夫だ。
諸葛玄は徐州黄巾に押され、荊州に避難した。
190年代。荊州をめぐり、劉表と袁術が対立した。諸葛玄は、劉表と袁術を見比べて、袁術こそ英雄だと思い、従ったのだろう。
どこが、英雄か。
劉表は、荊州の南方を攻め、交州へのルートを拓く志があった。
袁術は対照的で、荊州北方をそこそこ治め、豫州や徐州、揚州に出ていく志があった。徐州が故郷の諸葛玄としては、故郷に帰りたいから、袁術を支持した。袁術が北伐を始めると、諸葛玄はきっと従軍した。
諸葛玄は、袁術に豫章太守にしてもらった。このとき諸葛玄は、袁術の部将である。袁術が大将軍とした、張勲や橋ズイより軽い。劉勲とか紀霊とかと同類だろう。
諸葛玄は「諸葛亮の従父」だから、三国志のつづきを知っているぼくらは、重く見る。でも当時は、ザコキャラである。名前だけ出てきて、関羽が準備運動がてら、サクッと斬り捨てる扱いだ。
袁術が敗れた。諸葛玄は、主君を選ぶ目がなかった。
諸葛玄は、劉表を頼った。
「有旧」とある。諸葛玄が劉表と知り合うとしたら、チャンスは2つだ。1つは劉表が洛陽で「八俊」をやっているとき。2つは劉表が、荊州に赴いてから。ぼくは、2つめだと思う。
1つめの洛陽は、あり得ない。なぜなら、諸葛玄のような寒門は、劉表に相手してもらえない。
2つめの荊州。劉表が荊州に赴任したばかりのころ、在地の人を、味方につけようと工作したはずだ。劉表は、袁術になびく諸葛玄さえも、もてなしただろう。
「袁術が滅びたから、やっぱ劉表で。そういえば昔、劉表は私を、手厚くもてなしてくれた。よし、頼ろう」
諸葛玄は節操がない。生きることに、必死だったのでしょう。
これはぼくの妄想だが、劉表は諸葛玄を拒んだ。劉表は権力が安定した。誰かれ構わず、もてなす必要がない。諸葛玄の死因は、劉表にあるのではないか。
諸葛亮が、荊州の名士と親交しながら、劉表に仕えなかった理由も、諸葛玄の死にからむのではないか。妄想がすぎた。笑
献帝春秋では、劉表が諸葛玄を、豫章太守に封じる
獻帝春秋曰:是歲,繇屯彭澤,又使融助皓討劉表所用太守諸葛玄。許子將謂繇曰:「笮融出軍,不顧(命)名義者也。硃文明善推誠以信人,宜使密防之。」融到,果詐殺皓,代領郡事。入居郡中。繇進討融,為融所破,更複招合屬縣,攻破融。融敗走入山,為民所殺,繇尋病卒。
劉繇伝にひく、献帝春秋がいう。
この歳、劉繇は彭澤にいた。劉繇は、笮融に命じ、朱晧を助けて、諸葛玄を討たせた。諸葛玄とは、劉表が任命した豫章太守である。
許子將が、劉繇にいった。
「朱晧さんに、伝えましょう。笮融を警戒すべきだと」と。
はたして笮融は、助けるはずだった朱晧を、殺した。笮融は、豫章郡に陣取った。劉繇は笮融を攻めたが、敗れた。劉繇は、民に殺された。笮融は民に殺され、劉繇は病没した。
獻帝春秋曰:初,豫章太守周術病卒,劉表上諸葛玄為豫章太守,治南昌.漢朝聞周術死,遣朱皓代玄.皓從揚州太守劉繇求兵擊玄,玄退屯西城,皓入南昌.建安二年正月,西城民反,殺玄,送首詣繇.
諸葛亮伝にひく、献帝春秋がいう。
豫章太守の周術が病死した。劉表は上表し、諸葛玄を豫章太守にした。諸葛玄は、南昌にいる。漢室は、朱晧をつぎの豫章太守にした。朱晧は、揚州刺史の劉繇に頼み、諸葛玄を討った。諸葛玄は西城に逃げ、朱晧が南昌に入った。
197年正月、諸葛玄は西城の民に殺された。諸葛玄の首は、劉繇に送られた。
『献帝春秋』は、貴重な異聞なのに、筋が通らない。
劉繇と対立するのは、袁術である。劉繇が諸葛玄を攻撃するなら、諸葛玄は袁術に部下でなければ。
劉繇も諸葛玄も、民に殺されたことになっている。混同されたか? まあ、可能性ゼロではないが、諸葛亮が荊州に住むストーリーに繋がらない。陳寿本文が優れている。
おわりに
袁術は、革命派である。既存の体制では、いまいち偉くなれない人が集まる。対する劉表は、いろいろ解釈はあるが、地道な穏健派だ。劉表は、既存の秩序を保護した。
諸葛玄は、袁術に従った。袁術から太守に封じられて、本気で豫章太守の気分になった。
よほど出自が卑しくないと、袁術には従わない。諸葛玄は傍流で、よほど窮していた。
諸葛亮は、故郷の琅邪郡のブランドも、「兄」諸葛瑾の人脈も、頼れなかった。荊州で、いちから名声を作り直した。その理由は、「父」諸葛玄が袁術にしたがい、悪評を食らったからではないか。
諸葛亮は神経質に、劉氏に仕えた。「父」諸葛玄が袁術の易姓革命に参加し、ひどい目にあったのを、反面教師にしたからかも。100505