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『晋書』列伝68、王敦伝
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3)瑯邪に帰らせて下さい
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元帝に煙たがられた王敦。生き残るのはどっちだろう。
帝以劉隗為鎮北將軍,戴若思為征西將軍,悉發揚州奴為兵,外以討胡,實禦敦也。永昌元年,敦率眾內向,以誅隗為名,上疏曰:(以下略)
元帝は、劉隗を鎮北將軍とし、戴若思を征西將軍とした。揚州にいる奴僕を全て徴発して、兵に編入した。
「北伐して、中原の異民族を追い払う」
という名目だが、じつは元帝は王敦からの攻撃を防ぐため、兵を集めたのだ。
永昌元(322)年、王敦は兵を率いて建康に向かい、劉隗を誅せよと上疏した。
「(抄訳すると)劉隗は、邪佞諂媚な奴らを味方にして、朝廷をダメにしている。不正に税金や労役を課し、怨みを買っている。劉隗を斬首にしないと、国は滅びる。劉隗が用いられてから、刑罰は適正に行われていない。私の意見を朝臣に諮りなさい。元帝は、兵を解け」
敦至石頭,欲攻劉隗,其將杜弘曰:「劉隗死士眾多,未易可克,不如攻石頭。周劄少恩,兵不為用,攻之必敗。劄敗,則隗自走。」敦從之。劄果開城門納弘。諸將與敦戰,王師敗績。既入石頭,擁兵不朝,放肆兵士劫掠內外。官省奔散,惟有侍中二人侍帝。帝脫戎衣,著朝服,顧而言曰:「欲得我處,但當早道,我自還琅邪,何至困百姓如此!」敦收周顗、戴若思害之。以敦為丞相、江州牧,進爵武昌郡公,邑萬戶,使太常荀崧就拜,又加羽葆鼓吹,並偽讓不受。還屯武昌,多害忠良,寵樹親戚,以兄含為衛將軍、都督沔南軍事、領南蠻校尉、荊州刺史,以義陽太守任愔督河北諸軍事、南中郎將,敦又自督寧、益二州。
王敦は石頭城に至ると、劉隗を攻めたいと考えた。 王敦の部将の杜弘が、作戦を述べた。
〈訳注〉杜弘は、叛乱した杜弢の部将で、王敦が目をかけた人だ。
「劉隗は、死を恐れない兵士を多く養っています。たやすくは勝てません。石頭城を攻めるのがベストです。石頭城を守る周劄は、兵に恩を施しておらず、兵は働きません。攻めれば必ず勝てます。周劄が敗れれば、劉隗はおのずから逃げます」
王敦は、これを採用した。 。
はたして周劄は、城門を開けて、杜弘を石頭城に入れた。諸將は王敦と戦ったが、元帝軍が敗れた。王敦は石頭城を奪ったから、兵を擁して朝廷には仕えず、内外で掠奪をほしいままにした。
官吏たちは逃げてしまい、ただ侍中2人が元帝のそばにいるだけだった。元帝は兵装を解くと、朝服が下から現れた。 元帝は、王敦に言った。
「私は分相応のところに居たいのだ。建康から早々と立ち去って、東晋に幕を引き、瑯邪国に帰ろう。私が帝位にこだわって、今日のように百姓を困らせることはないのだ」
〈訳注〉この一言が聞きたかった!
王敦は、周顗と戴若思を捕らえて、殺害した。
王敦は丞相となり、江州牧、武昌郡公に進み、邑萬戸を得た。太常の荀崧に任命書を届けさせ、羽葆鼓吹を加えた。
「王敦に、東晋の帝位を禅譲する」
元帝に心ならぬことを言わせた。王敦は、禅譲を断った。武昌に戻って駐屯した。忠良な人を多く殺害し、王氏の一門を寵用した。 王敦の兄の王含は、衛將軍、都督沔南軍事となり、南蠻校尉を領ね、荊州刺史となった。義陽太守の任愔は、督河北諸軍事、南中郎將となった。王敦は自ら、寧州と益州を督した。
太甯元(323)年、元帝が崩じた。
以下は、『三国志』から離れすぎるので、列伝の末尾に飛びます。結末はと言えば、2代の明帝が、王敦を倒します。
敦眉目疏朗,性簡脫,有鑒裁,學通《左氏》,口不言財利,尤好清談,時人莫知,惟族兄戎異之。經略指麾,千里之外肅然,而麾下擾而不能整。武帝嘗召時賢共言伎藝之事,人人皆有所說,惟敦都無所關,意色殊惡。自言知擊鼓,因振袖揚枹,音節諧韻,神氣自得,傍若無人,舉坐歎其雄爽。
王敦はイケ面で、さっぱりした性格で付き合いやすく、判断力があった。『左氏』のマニアで、金儲けの話はせず、清談を好んだ。
当時はまだ、王敦の素質を知る人はいなった。だが、族兄の王戎だけは認めてくれた。
王敦は經略に精通していたから、千里之外を鎮めることが出来た。しかし手下を騒がせてしまい、大人しくさせることが出来なった。
〈訳注〉理論はできても実践はダメ、遠くは分かっても足元はダメ、という皮肉なんだろうか、うまく訳せません。
武帝がかつて王敦を召したとき、ときの賢者とともに伎藝のことを話し合った。人々はあれやこれやと意見を述べたが、王敦だけは会話に混ざらず、ブスッとしていた。
「屁理屈をこねてもツマらん。オレが伎藝の何たるかを、教えてやる」
王敦は衣をめくり上げると、自ら太鼓を撃った。演奏は神がかりで、座にいた人は王敦の雄爽に感嘆した。
石崇以奢豪矜物,廁上常有十餘婢侍列,皆有容色,置甲煎粉、沈香汁,有如廁者,皆易新衣而出。客多羞脫衣,而敦脫故著新,意色無怍。群婢相謂曰:「此客必能作賊。」又嘗荒恣於色,體為之弊,左右諫之,敦曰:「此甚易耳。」乃開後閣,驅諸婢妾數十人並放之,時人歎異焉。
石崇は贅沢を尽くして驕った。 石崇はトイレに婢(女奴隷)を10余人立たせた。みな美女で、化粧して香水を振ってあった。石崇の家でトイレに行くと、みな婢に手伝われて、新しい服に着替えることになっていた。
〈訳注〉トイレに行くたびに着替えるのは、風習らしい。赤壁前夜の孫権も、着替えると称してトイレに行った。
客は美しい婢たちの前で衣を脱ぐことを、多いに羞じた。だが王敦が古い衣を脱ぐと、下に新しい衣を着ていた。王敦は恥をかかず、平気な顔だった。
婢たちは、言い合った。
「この客は、必ず賊となって叛乱するわ」
〈訳注〉人を食ったように欺くから、「作賊」と言われた。小学生がプールの授業に備えて、予め水着をつけて登校していたら、「この児、必ず能く賊と作すべし」とコメントしたら良いのだ。
またかつて王敦は、セックスをやり過ぎて、身体がボロボロになった。左右の人が諌めると、「全然楽勝だぜ」と言った。 のちに王敦のハーレムを解放したら、婢妾が数十人出てきた。ときの人は、王敦の絶倫に驚きあきれた。
◆矛盾する王敦の正体
『晋書』の列伝にある王敦は、2つの矛盾した性質を持っているように描かれている。『晋書』は、そのギャップを埋めようと試みるが、ついに成功していない。
まず、東晋の建国に貢献した忠臣という側面。八王の乱をすり抜けて、運命のイタズラとは言え、揚州に逃れた。地縁のない司馬睿を迎えて、王朝を作ってしまったんだから、すごい。このときの王敦は、清談を好む、慎み深い君子なのだ。
次には、東晋に歯向かった手ごわい逆臣としての側面。司馬睿に「皇帝になってごめんなさい」とまで言わせてしまった。この王敦は、金も位も女も、際限なくほしい野人だ。
「どこで変節したんだろう?」
と問いかけたくなるが、この問いそのものが成立しない。なぜなら王敦は、途中で化けてない。一貫して極度の自己チューだ。
オレが不味い酒を飲むより、侍女が死ぬ方がいい。叔父を、全体の情勢が読めない戦争に駆った。もし負けても、自分のキャリアに傷が付かないからだ。西晋の公主たちに財物を捨てさせた英断は、自分の懐が痛まないから下せた。
他人には無関心だが、自分への執着は強い。 気に入った人は、東晋の逆賊であろうと保護する。自ら言い出した降格は貫徹するが、他人に命じられた昇格は好まない。
「亡命皇族の司馬睿を助けてやった」という自意識があるから、司馬睿が少しでも「浮気」することを許さない。「浮気」したら決定的にやっつけて、自分の偉さを思い知らせたい。
◆もし王敦がヒョウならば
「ハチの目があるが、ヒョウの声がない」
という人物評を、王敦は受けた。 「豺狼のような」と言えば、後漢の梁冀や董卓を思い出す。どちらも化け物じみた暴君で、他人を徹底的に弾圧する、残忍さがあった。
他人を食い殺すには、「他人をどうにかしてやろう」という心意気が必要だ。だが王敦はいつも自分を見てるから、ヒョウのように吼えない。必然、敵を放置してしまうから、やがて身を滅ぼす。
もし王敦にヒョウの性質があれば、きっと東晋を滅ぼすに到っただろう。充分に簒奪するパワーはあったのに、大規模な「叛乱」で終わってしまったのは、王敦の生来の性格に由来する。
◆自己チューの神様
中興の祖の司馬睿に、「私が悪かった。こんな事態になるなら、皇帝にならなきゃ良かった」と言わせた。
王導は、諸葛亮に並ぶ大宰相だ。王敦とは同族だから協力したが、暴走に戸惑った。隣にいる王導が、凡人キャラに見えた。
王敦の自己チューは、神の領域です。さすが曹操の歌の愛好者として、ドラマーを気取っただけあります。090506
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このコンテンツの目次
『晋書』列伝68、王敦伝
1)蜂の目、豹の声
2)曹操の楽府を熱唱
3)瑯邪に帰らせて下さい
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