表紙 > 和訳 > 『資治通鑑』巻72、231-234年を抄訳

全章
開閉

太和五年(辛亥,公元231年)

ひさしぶりに『資治通鑑』をやります。目標は西晋末まで。福原啓郎先生の本を読んで、西晋までやりたくなった。三国の後半を、概説書レベルでしか知らない。だから、知識のインターバルを埋めるために、三国の後半をやる。121105

春、潘濬が五谿蛮を攻め、諸葛直が誅さる

春,二月,吳主假太常潘濬節,使與呂岱督諸軍五萬人討五溪蠻。濬姨史蔣琬為諸 葛亮長史,武陵太守衛旍奏濬遣密使與琬相聞,欲有自托之計。吳主曰:「承明不為此 也。」即封旍表以示濬,而召旍還,免官。
衛溫、諸葛直軍行經歲,士卒疾疫死者什八九,亶洲絕遠,卒不可得至,得夷洲數 千人還。溫、直坐無功,誅。

231年春2月、孫権は、太常する潘濬に節を仮し、呂岱とともに、諸軍5萬人を督させ、五溪蠻を討たせた。 潘濬の姨の兄(妻の兄)である蔣琬は、諸葛亮の長史である。武陵太守の衛旍は上奏した。「潘濬はひそかに蒋琬と通じて、計略をめぐらす」と。孫権はいう。「潘濬が、蒋琬と通じるはずがない」と。孫権は衛旍の文書を密封して、潘濬に提示した。衛旍を召還して、武陵太守を免じた。

ぼくは思う。武陵蛮は、関羽が失敗するまでは、馬良を通じて蜀漢に属していた。孫呉が武陵を征伐するとき、どうしても蜀漢との関係がデリケートになる。まして、蒋琬と潘濬が、妻を媒介に義兄弟ではねえ。呉蜀の緊張がわかるエピソード。また、諸葛亮の死後に執政する蒋琬は、潘濬の義兄弟なのね。そんなこと言ったら、諸葛亮は諸葛瑾の実弟か。

前年より海外に派遣された衛温と諸葛直は、遠征して1年が経過した。士卒のうち、病気や死亡は8割か9割である。亶洲は絶遠であり、到達できない。夷洲から数千人を連れ帰った。衛温と諸葛直は、功績がないので誅された。

胡三省はいう。孫呉が、衛温と諸葛直を派遣したのは、上巻上年にある。
ぼくは補う。彼らが出発したのは230年。昨年である。2年前に抄訳した。
『資治通鑑』230年、曹休と長雨、満寵の合肥


春、上邽で司馬懿が諸葛亮を畏れる

漢丞相亮命李嚴以中都護署府事。嚴更名平。亮帥諸軍入寇,圍祁山,以木牛運。
於是大司馬曹真有疾,帝命司馬懿西屯長安,督將軍張郃、費曜、戴陵、郭淮等以御之。
三月,邵陵元侯曹真卒。自十月不雨,至於十月。

蜀漢の丞相する諸葛亮は、李厳に命じて中都護を以て府事を署させた。

胡三省はいう。蜀漢は、左右中の3つの都護をおく。都護は府事を署す。李厳の中都護は、関中の留府の事を署した。

李厳は李平と改名した。諸葛亮は、諸軍を統帥して、曹魏に入寇した。祁山を囲み、木牛で軍資を運んだ。

胡三省はいう。『諸葛亮集』に木牛の記述あり。はぶく。

このとき大司馬する曹真が病気になる。曹叡は、司馬懿を西にゆかせ、長安に屯させた。司馬懿は、将軍の張郃、費曜、戴陵、郭淮らを督して、諸葛亮を防いだ。
3月、邵陵元侯の曹真が卒した。
昨年10月から雨がふらず、この年の10月まで雨が降らなかった。

司馬懿使費曜、戴陵留精兵四千守上邽,餘眾悉出,西救祁山。張郃欲分兵駐雍、 郿,懿曰:「料前軍能獨當之者,將軍言是也。若不能當而分為前後,此楚之三軍所以 為黥布禽也。」遂進。亮分兵留攻祁山,自逆懿於上邽。郭淮、費曜等徼亮,亮破之, 因大芟刈其麥,與懿遇於上邽之東。懿斂軍依險,兵不得交,亮引還。

司馬懿は、費曜と戴陵に精兵4千をつけて、上邽を守らせる。その他の兵はすべて長安を出て、西にゆき祁山を諸葛亮から救う。張郃は「兵を分割して、雍県と郿県(いずれも扶風郡)に留めたい」という。

胡三省はいう。上邽は、前漢は隴西郡に属する。後漢は漢陽郡に属する。
じかに関係ないけど。ぼくはいう。漢魏洛陽城と隋唐洛陽城は、場所(経度と緯度)がちがう。だがどちらも「洛陽」という。ぼくの感覚では、地名と場所は一対一で対応する。もちろん日本史でも地名は変遷するが、変遷する場合は断りが入る。「大地の『任意』の場所に城壁を築けば、そこが都市ね」という意識を体得せねば。
@yunishio さんはいう。古代中国の郡県って場所じゃなくて、名簿の問題なんだよね。だから場所としては存在しない雲中郡とか定襄郡とかの出身者がいる。
ぼくは思う。経度と緯度にひもづいた土地は、けっこう必然性がない。まして、土地における共同体も、けっこう流動的である。解体もする。そうじゃなく、名簿の上でどういう位置を占めるかが重要。これって「言語」のことですね。無限にあるぶよぶよの現実を分節して、関係性のネットワークのなかに位置づける。宙に浮いた網みたいなものだ。結び目どおしのつながり方に意味があるけれども、それ以外には何の意味もない。漢代の州、州と郡、郡と県、県と人も同じだな。つくづく、これは「言語」ですね。史書や戸籍は、まさに「言語」ですね。

司馬懿はいう。「もし兵を分割して、前軍だけでも諸葛亮に勝てるなら、張郃の発言は正しい。もし前軍だけで諸葛亮に勝てないのに、兵を前後に分割すれば、曹魏は敗れる。まるで項羽が軍を分割して、鯨布に捕らえられたように」と。

胡三省はいう。鯨布の戦いは、漢高帝11年にある。司馬懿は、自分の才能が諸葛亮に敵わないと思って、軍を分割しなかった。

ついに司馬懿は、全軍で進んだ。諸葛亮は、兵を分けて祁山に留め、みずから司馬懿を上邽で迎え撃つ。諸葛亮は、郭淮と費曜らをやぶり、現地のムギを刈った。

ぼくは思う。詳しい兵数は知らんが。司馬懿は長安にわずかな守りを残して、全軍で防ぐ。諸葛亮は、祁山に兵を分割して、司馬懿と戦う。司馬懿は分けないのに敗れ、諸葛亮は分けても勝ったのか。兵数こみで論じないと、何とも言えないが。

諸葛亮は、司馬懿と上邽の東で遭遇した。司馬懿は軍をおさめて、険阻な土地にかくれる。軍兵は交戦できず、諸葛亮はひき還した。

懿等尋亮後至於 鹵城。張郃曰:「彼遠來逆我,請戰不得,謂我利不在戰,欲以長計制之也。且祁山知 大軍已在近,人情自固,可止屯於此,分為奇兵,示出其後,不宜進前而不敢逼,坐失 民望也。今亮孤軍食少,亦行去矣。」懿不從,故尋亮。既至,又登山掘營,不肯戰。 賈詡、魏平數請戰,因曰:「公畏蜀如虎,奈天下笑何!」懿病之。諸將鹹請戰。

司馬懿らは、諸葛亮の後ろをたずね、鹵城にいたる。

ぼくは補う。【尋】たずねる、あたためる、ついで。アタツ、オフ、スナハチ、タチマチ、タツヌ、ツイテ、ツネニ、モチヰル。漢文に頻出するが、いつも迷う漢字。「ついで」と読むとき分からない。しかし、飛ばしてもだいたい意味は通じるかも?ここでは「たずね」か。
@yunishio さんはいう。自分は「程なく」って訳しますね。そのあとすぐに、という語感です。「即」「乃」の「すなはち」と同じで、原因と結果を結びつける言葉ですね。原因待ちなので、条件がそろったら即結果が出る。「たづねる」はものごとの原因を突きとめる、という意味合い。普通は「たづねる」と訳す箇所ですね。まず諸葛亮の行動があり、そしてそれに対する結果として司馬懿の行動があり…ということですよね。

張郃はいう。「諸葛亮は遠征したが、曹魏と戦い損ねた。曹魏は戦わなければ有利だ。長期的な作戦により、諸葛亮を制圧できる。ただし、祁山には蜀漢の大軍がおり、魏軍の近くにいて、戦意がたかい。魏軍を分けて奇兵をつくり、祁山の後ろに出没しよう。もし魏軍を進めず、蜀軍を放置するなら、曹魏の民を失望させる。いま諸葛亮は食糧が乏しい。諸葛亮を攻めるべきだ」
司馬懿には考えがある。張郃の意見に従わず、諸葛亮の後ろを追いかける。

胡三省はいう。司馬懿に意図があったから「故」とある。「尋」とは、随って、その後ろを踏むこという。
ぼくは思う。祁山の蜀軍を攻めたい張郃に対して、あくまで諸葛亮を追いかけまわす司馬懿。張郃から見ると、「曹魏の領土に居座っている蜀軍を排除せねば、周囲の民まで曹魏から離叛する」と思う。しかし司馬懿は、占領されそうな祁山よりも、諸葛亮軍そのものにこだわる。

司馬懿は諸葛亮に追いつき、山を登り、軍営を掘るが、諸葛亮との対決を許さない。賈詡や魏平が、しばしば「諸葛亮と戦いたい。司馬懿は蜀漢を虎のように畏れる。天下に笑われる」という。司馬懿は気に病んだ。みな諸将は、諸葛亮と戦いたいと司馬懿に請うた。

胡三省はいう。司馬懿はじつに諸葛亮を、虎のように畏れた。また張郃が諸葛亮を防げば、司馬懿よりも張郃の名声が、関右に著われる。だから司馬懿は、張郃の功績をジャマした。だから司馬懿は、諸将に笑われた。
ぼくは思う。胡三省は、司馬懿がキライなのか!司馬懿と諸葛亮のやりとりも、抜粋してくる史料によって、だいぶ印象が変わるはず。このあたりは、『三国志』なのか、そのなかでも『魏書』なのか『蜀書』なのか、それとも『晋書』なのか。また考える。


夏、張郃が木門で射られる

夏, 五月,辛已,懿乃使張郃攻無當監何平於南圍,自案中道向亮。亮使魏延、高翔、吳班 逆戰,魏兵大敗,漢人獲甲著三千,懿還保營。
六月,亮以糧盡退軍,司馬懿遣張郃追 之。郃進至木門,與亮戰,蜀人乘高佈伏,弓弩亂髮,飛矢中郃右膝而卒。

231年夏5月辛已、司馬懿は張郃に、無當監の何平を南圍で攻めさせた。

胡三省はいう。「無當」とは、けだし蜀軍の部隊の名である。その軍の精勇を意味する。敵に当たれる者がいないから「無當」というのだろう。王平にこの舞台を監護させた。ゆえに王平は「無當監」という。「南囲」とは、蜀兵が祁山を包囲しているものの南屯である。

司馬懿は、中道から諸葛亮にむかう。

胡三省はいう。司馬懿は兵を道ごとに分けて、進軍した。祁山の包囲を解かせるためである。司馬懿は中道をゆき、諸葛亮の本隊と向き合った。

諸葛亮は、魏延、高翔、吳班に、司馬懿を迎撃させた。魏軍は大敗した。蜀軍は、甲著3千を得た。司馬懿は還って、軍営にとりでした。6月、諸葛亮は軍糧がなくなり、撤退した。司馬懿は張郃に諸葛亮を追わせた。張郃は、木門で諸葛亮と戦った。張郃は、右膝に矢を受けて卒した。

秋、曹叡が皇族をゆるめ、諸葛亮が李厳を罰する

秋,七月,乙酉,皇子殷生,大赦。
黃初以來,諸侯王法禁嚴切。吏察之急,至於親姻皆不敢相通問。東阿王植上疏曰:(中略)。 詔報曰:「蓋教化所由, 各有隆敝,非皆善始而惡終也,事使之然。今令諸國兄弟情禮簡怠,妃妾之家膏沐疏略, 本無禁錮諸國通問之詔也。矯枉過正,下吏懼譴,以至於此耳。已敕有司,如王所訴。」

231年秋7月乙酉、曹叡に皇子の曹殷が生まれた。大赦した。
黃初より以来、曹魏の諸侯王の法禁は、厳しくてキツい。吏察がシバき、血縁者でも情報交換できない。東阿王の曹植が上疏した。
曹植の上疏を受けて、曹叡が詔で報いた。「たしかに親族に苛酷である。もとより、諸国の兄弟が、通問することを禁じていない。行きすぎを是正する」と。

ぼくは思う。ザックリ省略してすみません。曹魏の皇族の政策については論文がありそうですし、来年あたりに修士論文で発表される方がいそうなので、はぶきます。


八月,詔曰:「先帝著令,不欲使諸王在京都者,謂幼主在位,母后攝政,防微以 漸,關諸盛衰也。朕惟不見諸王十有二載,悠悠之懷,能不興思!其令諸王及宗室公侯 各將適子一人朝明年正月,後有少主、母后在宮者,自如先帝令。」

8月、曹叡は詔した。「先帝の曹丕は、法令を著した。諸王を洛陽に住ませないのは、幼主がたち、母后が執政して、政事の盛衰に関与するのを防ぐためだった。私は、諸王に12年も会わない。

胡三省はいう。文帝の黄初元年、曹植らを封国にゆかせた。12年前だ。

これだけ諸王に会わないと懐かしい思いがおこる。諸王および宗室の公侯は、来年の正月に、嫡子1名を洛陽におくれ。幼主がたち、母后が王宮にいる場合は、(母后の干渉を防止するため) 曹丕の法令のまま、洛陽の居住を禁じる」と。

漢丞相亮之攻祁山也,李平留後,主督運事。會天霖雨,平恐運糧不繼,遣參軍孤 忠、督軍成籓喻指,呼亮來還;亮承以退軍。平聞軍退,乃更陽驚,說「軍糧饒足,何 以便歸!」又欲殺督運岑述以解己不辦之責。又表漢主,說「軍偽退,欲以誘賊與戰。」 亮具出其前後手筆書疏,本末違錯。平辭窮情竭,首謝罪負。

諸葛亮が祁山を攻めたとき、李平が後方に留まって、運事をつかさどった。長雨により食糧を運べないことを恐れ、参軍の馬忠、督軍の成籓を派遣して、諸葛亮に撤退の指示をほのめかした。

胡三省はいう。劉禅が「軍糧の運搬を継続できない」と言ったかのように、諸葛亮に理解させたのだ。

諸葛亮が撤退すると、李平はわざと驚き、「軍糧はあったのに、なぜ撤退したか」という。李平は「督運の岑述を殺すから、わたしを許して」という。また李平は劉禅に「諸葛亮が状況を偽って撤退したのは、魏軍を誘うためだ」と上表した。諸葛亮は、文書によって李平のウソを証明した。

ぼくは思う。李厳=李平が、かなりワザとらしく、悪質に描かれている。もっと多面的に見せなきゃ、多様な読みを留保してくれなきゃ、史料がおもしろくないと思う。


於是亮表平前後過惡,免 官,削爵土,徙梓潼郡。復以平子豐為中郎將、參軍事,出教敕之曰:「吾與君父子戮 力以獎漢室,表都護典漢中,委君於東關,謂至心震動,終始可保,何圖中乖乎!若都 護思負一意,君與公琰推心從事,否可復通,逝可復還也。詳思斯戒,明吾用心!」亮 又與蔣琬、董允書曰:「孝起前為吾說正方腹中有鱗甲,鄉黨以為不可近。吾以為鱗甲 者但不當犯之耳,不圖復有蘇、張之事出於不意,可使孝起知之。」孝起者,衛尉南陽 陳震也。

諸葛亮は、李平の前後の過惡を上表した。李平を免官し、爵土をけずり、梓潼郡にうつす。

胡三省はいう。李平は、けだし、かつて侯爵に封じられた。

また李平の子・李豊を中郎將、參軍事とした。「わたし諸葛亮と、きみ李豊の父子は、漢室のために力を尽くす。李平を都護として、漢中を典させた。李豊に東関(江州)をゆだねた。これから李豊は、父親の罪のぶんまで、がんばれ」と。
諸葛亮は、蒋琬と董允に文書をあたえた。「孝起(陳震)は、むかし『李平は腹中に鱗甲がある』といった。陳震と李平は同郷であるが、馴れあわなかった。わたしは陳震の警告を聞かず、李平の口先を信用した。図らずも李平は、蘇秦と張儀のような失敗をやってくれた。陳震はこれを教えたかったのか」と。
陳震は、南陽の人で、衛尉をした。

ぼくは思う。司馬光、李厳=李平を、よほど悪んでいるなあ。


冬、揚州刺史の王淩と、都督の満寵が対立

冬,十月,吳主使中郎將孫布詐降,以誘揚州刺史王凌,吳主伏兵於阜陵以俟 之。布遣人告凌雲:「道遠不能自致,乞兵見迎。」凌騰布書,請兵馬迎之。征東將軍 滿寵以為必詐,不與兵,而為凌作報書曰:「知識邪正,欲避禍就順,去暴歸道,甚相 嘉尚。今欲遣兵相迎,然計兵少則不足相衛,多則事必遠聞。且先密計以成本志,臨時 節度其宜。」會寵被書入朝,敕留府長史,「若凌欲往迎,勿與兵也。」凌於後索兵不 得,乃單遣一督將步騎七百人往迎之,布夜掩襲,督將迸走,死傷過半。

231年冬10月、孫権は、中郎將の孫布をいつわって曹魏に投降させ、揚州刺史の王凌を誘った。孫権は、阜陵に伏兵して、王淩をまつ。

胡三省はいう。阜陵県は、漢代は九江郡に属する。曹魏は、九江を淮南郡に改める。『晋書』地理志はいう。阜陵県は、後漢の明帝のとき、麻湖に淪(しず)んだ。
ぼくは思う。曹魏の兵は、水辺にくると、病気になるよ!大室幹雄『干潟幻想』で、潮の満ち引きによって水没する場所は、中原の統一権力になじまないと言っていた。

孫布は人を派遣して、王淩に告げた。「遠くて自分で行けない。兵で迎えにきて」と。王淩は、孫布の文書を中央に伝えて、兵馬を請求した。征東將軍の滿寵は、孫布の偽りに気づき、兵馬を王淩に与えない。満寵が「孫布のワナだ」と記した文書が中央に届いた。曹叡は留府の長史に勅した。「王淩に兵を与えるな」と。のちに王淩は、1督将に歩騎7百をつけて、孫布を迎えにゆき、過半を死傷させた。

胡三省はいう。孫権は、自国の国力を知っている。曹魏を倒せないと知る。だから敵を誘って倒すような謀略をつかう。諸葛亮のように、天下を争う心がない。
ぼくは思う。『資治通鑑』に登場する人物は、みんな一面的。諸葛亮は、とことん天下をねらう有能な政治家。司馬懿は、諸葛亮を恐れる臆病者。李厳=李平は、諸葛亮を妨害する悪役。いま王淩は、まったくのマヌケ。編年体で、ひとつづきの記述にすると、矛盾した話を並べにくい。矛盾した話を1つの本に収録できるという意味で、紀伝体は優れているなあ!班固が『史記』を加工して、呂太后の残虐を分かりにくくする、というような芸当ができる。


凌,允之兄子 也。先是凌表寵年過耽酒,不可居方任。帝將召寵,給事中郭謀曰:「寵為汝南太守、 豫州刺史二十餘年,有勳方岳;及鎮淮南,吳人憚之。若不如所表,將為所窺,可令還 朝,問以東方事以察之。」帝從之。既至,體氣康強,帝慰勞遣還。

王淩は、王允の兄の子である。 かつて王淩は「満寵が酒びたりで、方面司令官が務まらない」と上表したことがある。曹叡が満寵を召還しようとすると、給事中の郭謀がいった。「満寵は汝南太守、豫州刺史を経験した。

胡三省はいう。建安のとき、曹操は満寵を汝南太守にした。太和3年、豫州刺史となった。この年=太和5年、満寵は揚州を都督した。
ぼくは思う。揚州刺史の王淩と、揚州都督の満寵。後者が前者を監理する、という関係性である。都督制の論文で扱われていたっけ。満寵が赴任して同年に、王淩は「満寵は酒びたり」と苦情をいい、満寵は「王淩は敵に騙されている。王淩に兵馬を与えるな」という。めちゃめちゃ仲がわるい。この2人の険悪さ加減に、都督制の性質が表れるのだろう。

20余年にわたり、満寵は地方統治で功績がある。満寵が淮南に鎮すると、孫呉が満寵をはばかる。もし王淩の言うとおり、満寵を揚州からはずせば、東方が動揺する」と。曹叡はこれをみとめ、満寵をねぎらっただけで、使者を揚州からもどした。

胡三省はいう。曹魏より以下、州を督することを「方岳の任」という。その職制は、古代の方伯、岳牧とおなじだ。ぼくは補う。都督制!


十一月,戊戌晦,日有食之。
十二月,戊午,博平敬侯華歆卒。 丁卯,吳大赦,改明年元曰嘉禾。

11月戊戌みそか、日食した。12月戊午、博平敬侯の華歆が卒した。

胡三省はいう。『諡法』によると、朝夜に警戒する者を「敬」という。善にあい、法にのっとる者を「敬」という。

12月丁卯、孫呉で大赦して、翌年から嘉禾と改元した。121105

胡三省はいう。会稽の南始平で、嘉禾が生じたから改元した。

閉じる

太和六年(壬子,公元232年)

春、曹叡が孫娘を失い、孫権が遼東に馬を求む

春,正月,吳主少子建昌侯慮卒。太子登自武昌入省吳主,因自陳久離定省,子道 有闕;又陳陸遜忠勤,無所顧憂。乃留建業。
二月,詔改封諸侯王,皆以郡為國。

232年春正月、孫権の少子である建昌侯の孫慮が卒した。太子の孫登が、武昌からきて、孫権にあった。孫登は「孫権に孝行していない」と陳べた。

胡三省はいう。『記曲礼』はいう。人の子の礼とは、冬に親を温め、夏に親を清くし、日が暮れれば「定」め、夜が明ければ「省」ると。ぼくは補う。いま孫登は「定省を久しく離る」という。つまり、親へのフォローを長らく欠いているのだ。

孫登は「陸遜は忠勤で、武昌を顧憂しなくてよい」といい、建業に留まった。
2月、曹叡は詔して、諸侯王を改封した。すべての封地の郡を国とした。

帝愛女淑卒,帝痛之甚,追謚平原懿公主,立廟洛陽,葬於南陵。取甄後從孫黃與 之合葬,追封黃為列侯,為之置後,襲爵。帝欲自臨送葬,又欲幸許。
司空陳群諫曰: 「八歲下殤,禮所不備,況未期月,而以成人禮送之,加為制服,舉朝素衣,朝夕哭臨, 自古以來,未有此比。而乃復自往視陵,親臨祖載!願陛下抑割無益有損之事,此萬國 之至望也。又聞車駕欲幸許昌,二宮上下,皆悉俱東,舉朝大小,莫不驚怪。或言欲以 避衰,或言欲以便移殿捨,或不知何故。臣以為吉兇有命,禍福由人,移走求安,則亦 無益。若必當移避,繕治金墉城西宮及孟津別宮,皆可權時分止,何為舉宮暴露野次! 公私煩費,不可計量。且吉士賢人,猶不妄徙其家,以寧鄉邑,使無恐懼之心,況乃帝 王萬國之主,行止動靜,豈可輕脫哉!」
少府楊阜曰:「文皇帝、武宣皇後崩,陛下皆 不送葬,所以重社稷,備不虞也;何至孩抱之赤子而送葬也哉!」帝皆不聽。三月,癸 酉,行東巡。

曹叡は、娘の曹淑を愛した。曹淑が卒したので、曹叡は痛んで、平原懿公主と追諡して、洛陽に廟を立てて、南陵に葬った。甄皇后(曹叡の母)の從孫である甄黄を、曹淑と合葬した。甄黄に列侯に追封して、甄黄の子孫に爵位を嗣がせた。

ぼくは思う。曹叡は、ほんとにマザコンだなあ。儒教の義例をとおりこして、マザコンなのが問題だなあ。よほど曹丕と、うまくいかなかったようだ。皇帝という、父性原理のトップにいて、マザコンを貫く。バランスがとれるのだ。

曹叡は、曹淑をみずから葬送するため、許都にゆきたい。
司空の陳羣がいさめた。許都にゆくな。 少府の楊阜がいう。「文帝の曹丕、祖母の卞太后が死んでも、曹叡はみずから葬送しなかった。社稷を重んじたからだ。なぜ幼子の葬送をやるのか」と。
曹叡は陳羣と楊阜をきかず、3月癸酉、東にゆく。

吳主遣將軍周賀、校尉裴潛乘海之遼東,從公孫淵求馬。初,虞翻性疏直,數有酒 失,又好抵忤人,多見謗毀。吳主嘗與張昭論及神仙,翻指昭曰:「彼皆死人而語神仙, 世豈有仙人也!」吳主積怒非一,遂徙翻交州。及周賀等之遼東,翻聞之,以為五溪宜 討,遼東絕遠,聽使來屬,尚不足取,今去人財以求馬,既非國利,又恐無獲。欲諫不 敢,作表以示呂岱,岱不報。為愛憎所白,復徙蒼梧猛陵。

孫権は、將軍の周賀、校尉の裴潛を、海路で遼東にゆかせ、公孫淵に馬をもとめた。

ぼくは思う。大室幹雄『園林都市』で、南朝からみて北朝の魅力ある交易品は、たかがウマだけ。ウマ以外、べつにほしいものが北方にないという。孫権も、とりあえずウマを求めた。公孫淵の文化レベルの高さを認めるなら、もっと文化的なものを求めただろうに。わざわざ船で運びにくそうなウマかよ。

はじめ虞翻は、疏直な性格で、酒の失敗もおおく、人にさからい、そしられた。かつて孫権は、張昭と神仙を論じた。虞翻は張昭を指さして、「神仙を語るのは死人だ。張昭は死人だ」と言った。孫権は怒り、虞翻を交州にながした。
いま周賀らが遼東にいくと聞き、虞翻は「遼東に行っても国益がない。五渓を討て」という。虞翻は、呂岱に意見書を示したが、呂岱は孫権に取り次がず。個人的な感情のトラブルにより、虞翻は蒼梧の猛陵に徙された。

胡三省はいう。猛陵とは、蒼梧郡に属する。そうだわな。
ぼくは思う。虞翻のエピソードは、遼東に将軍を送ることに関するおまけ。まあ、虞翻は性格に問題はあるかも知れないが(だから『資治通鑑』の読者である皇帝は、虞翻のような臣下を煙たがるだろうが)結果的に正しいことも言いますよ。という事例の紹介だ。もともと歴史書とは、王朝や皇帝のために作成されるものだが。『資治通鑑』に到っては、n+1次の編集により、さらに読み手としての皇帝をつよく意識したものになっている。実務の参考書だから。


秋冬、曹魏が遼東を攻め、孫呉の使者を斬る

夏,四月,壬寅,帝如許昌。 五月,皇子殷卒。
秋,七月,以衛尉董昭為司徒。 九月,帝行如摩陂,治許昌宮,起景福、承光殿。

夏4月壬寅、曹叡は許昌にゆく。5月、皇子の曹殷が卒する。
秋7月、衛尉の董昭が司徒となる。
9月、曹叡は摩陂にゆく。許昌の宮殿を修復する。景福殿、承光殿をつくる。

ぼくは思う。陳羣の諫言のなかに、あちこち行幸して、建物の修復や新築ばかりするんじゃないよ、という話もあった。福原啓郎先生によると、曹操を敬愛する曹叡は、曹魏の権威を示すため、建設しまくったと。ただの愚行ではないと。しかし『資治通鑑』において曹叡は、いいところがない。司馬光は読者に「濫費をつつしめ」と言いたいのだろう。


公孫淵陰懷貳心,數與吳通。帝使汝南太守田豫督青州諸軍自海道,幽州刺史王雄 自陸道討之。
散騎常侍蔣濟諫曰:「凡非相吞之國,不侵叛之臣,不宜輕伐。伐之而不 能制,是驅使為賊也。故曰:『虎狼當路,不治狐狸。』先除大害,小害自己。今海表 之地,累世委質,歲選計、孝,不乏職貢,議者先之。正使一舉便克,得其民不足益國, 得其財不足為富;倘不如意,是為結怨失信也。」
帝不聽。豫等往,皆無功,詔令罷軍。

公孫淵はひそかに曹魏に二心をいだき、しばしば孫呉と通じた。曹叡は、汝南太守の田豫に、青州の諸軍を督させ、海路から遼東を攻める。幽州刺史の王雄は、陸路から遼東を攻める。

胡三省はいう。海路とは、東莱から海にでる。陸路とは、遼西から遼水をわたる。

散騎常侍の蔣濟が、曹叡を諫めた。「遼東は、相吞之國でなく、侵叛之臣でもない。軽々しく討伐するな。

胡三省はいう。「相吞之國」とは、光武帝が竇融にあたえた文書が出典。光武帝は竇融に「わたしとお前は、相吞之國でない」という。「侵叛之臣」とは『左伝』より。

遼東は遠いが、年ごとに上計(会計報告)させて、孝廉を挙げさせれば、わるくない統治ができる。軍事行動をして、怨みを買うのは良くない」と。
曹叡は蒋済の意見を聞かず。田豫らの遠征は、功績がない。遠征をやめた。

豫以吳使周賀等垂還,歲晚風急,必畏漂浪,東道無岸,當赴成山,成山無藏船之處, 遂輒以兵屯據成山。賀等還至成山,遇風,豫勒兵擊賀等,斬之。吳主聞之,始思虞翻 之言,乃召翻於交州。會翻已卒,以其喪還。

孫呉の使者・周賀は、遼東から海路で還るとき、青州に寄港した。田豫は周賀を斬った。孫権はこれを聞いて「虞翻に従えば良かった」と後悔した。虞翻を召還しようとしたが、虞翻は死んだ。虞翻の死体が帰国した。

十一月,庚寅,陳思王植卒。 十二月,帝還許昌宮。

11月庚寅、陳思王の曹植が卒した。

胡三省はいう。『諡法』はいう。前過を追悔を「思」とする。

12月、曹叡は許昌宮に還る。

曹叡に迎合する劉曄、曹叡に忠たる陳矯

侍中劉曄為帝所親重。帝將伐蜀,朝臣內外皆曰不可。曄入與帝議,則曰可伐;出 與朝臣言,則曰不可。曄有膽智,言之皆有形。中領軍楊暨,帝之親臣,又重曄,執不 可伐之議最堅,每從內出,輒過曄,曄講不可之意。後暨與帝論伐蜀事,暨切諫,帝曰: 「卿書生,焉知兵事!」暨謝曰:「臣言誠不足采,侍中劉曄,先帝謀臣,常曰蜀不可 伐。」帝曰:「曄與吾言蜀可伐。」暨曰:「曄可召質也。」詔召曄至,帝問曄,終不 言。後獨見,曄責帝曰:「伐國,大謀也,臣得與聞大謀,常恐瞇夢漏洩以益臣罪,焉 敢向人言之!夫兵詭道也,軍事未發,不厭其密。陛下顯然露之,臣恐敵國已聞之矣。」 於是帝謝之。曄見出,責暨曰:「夫釣者中大魚,則縱而隨之,須可制而後牽,則無不 得也。人主之威,豈徒大魚而已!子誠直臣,然計不足采,不可不精思也。」暨亦謝之。
或謂帝曰:「曄不盡忠,善伺上意所趨而合之。陛下試與曄言,皆反意而問之,若皆與 所問反者,是曄常與聖意合也。每問皆同者,曄之情必無所復逃矣。」帝如言以驗之, 果得其情,從此疏焉。曄遂發狂,出為大鴻臚,以憂死。

侍中の劉曄は、曹叡に重んじられた。朝臣が「蜀漢を伐つべきでない」というが、劉曄だけは曹叡に「蜀漢を伐てる」という。中領軍の楊暨が劉曄の意見をさぐった。

胡三省はいう。中領軍とは、中塁、五校、武衛らの3営をつかさどる。建安4年、曹操の丞相府に中領軍をおいた。曹丕が践祚すると、はじめて領軍将軍をおく。のちに、資質が充分なものは領軍将軍となり、資質が軽いものは中領軍となる。

劉曄は「蜀漢を伐つべきでない」という。楊暨が「劉曄は意見が一貫しない」と責めると、劉曄は「機密をペラペラしゃべるほうが不注意だ」と説明した。
劉曄は曹叡の意見に迎合して、発言に一貫性がなかった。劉曄は、曹叡の意図を見失うと、発狂して憂死した。

《傅子》曰:巧詐不如拙誠,信矣!以曄之明智權計,若居之以德義,行之以忠信, 古之上賢,何以加諸!獨任才智,不敦誠愨,內失君心,外困於俗,卒以自危,豈不惜 哉!
曄嘗譖尚書令陳矯專權,矯懼,以告其子騫。騫曰:「主上明聖,大人大臣,今若 不合,不過不作公耳。」後數日,帝意果解。

『傅子』はいう。巧詐の劉曄はよくない。

ぼくは思う。劉曄をくさす史料ばかり、採用されている。陳寿や裴松之を見れば、もっといろんな劉曄が見えるのにね。
『資治通鑑』の書名は、「史実がガーン!」と分かる編纂物という意味でない。皇帝が政事の参考にする史料である。だから、真相は何かなあ、人物には多面性があるよ、史料によって記述が違うなあ、などのような「史実」をめぐる歴史学風の考察は必要ない。実際の劉曄がどうであろうが、ある任意の史料に描かれた(デフォルメされた)劉曄を見せて、この劉曄のように振る舞う人物は最低だ! という説教ができれば、『資治通鑑』が編纂された目的にかなうのである。その意味で、歴史学のための史料ではなくて、実務の教科書なのだ。
ぼくは思う。曹叡を愚者として、司馬懿を臆病者として、劉曄をへつらい者として、李厳を卑怯者として、単純化する。これにより、もしかしたら事実/史実から離れるかも知れないが、ちっとも怖くない。「こういう類型の人間がいるんだ」と読み手に教えることができれば良いんだ。この一貫性は、必ずしも「記述を1本につなぐために、仕方なくやった加工」ではない。もっと目的のために、積極的に加工されている。聖なる諸葛亮、卑怯な李厳、臆病な司馬懿、へつらう劉曄などと人物を単純化し、良悪を論じて、その対処法を教示する。

かつて劉曄は「尚書令の陳矯が専権する」とそしった。陳矯は懼れて、子の陳騫に話した。陳騫はいう。「曹叡は明聖である。もし誤解しても、分かってくれる」と。数日後、曹叡から陳矯への誤解がとけた。

尚書郎樂安廉昭以才能得幸,昭好抉擿群臣細過以求媚於上。黃門侍郎杜恕上疏曰: 「伏見廉昭奏左丞曹璠以罰當關不依詔,坐判問。又雲:『諸當坐者別奏。』尚書令陳 矯自奏不敢辭罰,亦不敢陳理,志意懇惻。臣竊愍然為朝廷惜之!(中略)」恕,畿之子也。
帝嘗卒至尚書門,陳矯跪問帝曰:「陛下欲何之?」帝曰:「欲案行文書耳。」矯 曰:「此自臣職分,非陛下所宜臨也。若臣不稱其職,則請就黜退,陛下宜還。」帝慚, 回車而反。帝嘗問矯:「司馬公忠貞,可謂社稷之臣乎?」矯曰:「朝廷之望也,社稷 則未知也。」

尚書郎する樂安の廉昭は、才能があり、曹叡に重んじられた。廉昭は、群臣の小さな過ちを見つけて、曹叡にチクった。黄門侍郎の杜恕が上疏した。
「廉昭は、左丞の曹璠が詔に違反したといい、曹璠を告発した。

胡三省はいう。『続漢書』はいう。尚書には左右丞が1人ずついる。以下はぶく。

廉昭は、曹璠に同席する者たちも、詔に違反したという。だが尚書令の陳矯は、罰の執行を先送りにしている。曹叡の正しい判断を待っているのです。廉昭のような者が、のさばることを残念に思う」と。 杜恕は、杜畿の子である。
かつて曹叡は、尚書の台(役所)の門にきた。陳矯はひざまづき、曹叡に「何をしに来ましたか」ときいた。曹叡は「文書を見たい」と言った。陳矯は「文書のチェックは、尚書の職分です。曹叡は還りなさい」という。曹叡は馬車を引き返し、「司馬公の忠貞は、社稷の臣というべきか」と聞いた。陳矯は「朝廷の聖ではあるが、社稷の臣であるかは分からない」と答えた。

胡三省はいう。陳矯と賈逵は、どちらも曹魏に忠だった。だが2人の子である、陳騫と賈充は、どちらも晋初に佐命した。


満寵が陸遜を防ぎ、合肥新城を築く

吳陸遜引兵向廬江,論者以為宜速救之。滿寵曰:「廬江雖小,將勁兵精,守則經 過。又,賊捨船二百裡來,後尾空絕,不來尚欲誘致,今宜聽其遂進。但恐走不可及 耳。」乃整軍趨楊宜口,吳人聞之,夜遁。

陸遜が廬江にむかう。曹魏で論者は「速やかに廬江を救え」という。満寵は「廬江は小さい城だが、兵がつよいから耐える。また呉兵は、船を200里も後ろに捨ててきた。後続がいない。魏側に誘い出し、好きに進ませよう。孫呉が深入りしてくれないことだけが心配だ」という。曹魏が軍を整えて、楊宜口(廬江の楊泉)に向かうと聞き、呉軍は夜逃げした。

胡三省はいう。陽泉は、霊帝のときに、黄琬が侯国に封じられた。
ぼくは思う。孫呉は両生類だから、陸地に深入りすると、心細くなる。わざわざ魏軍が水辺にいけば、呉軍に迎撃されるが、呉軍から攻めてくるなら怖くない。満寵は方面司令官だから、これで良い。だが、天下統一すべき曹魏の天子は、満寵のように余裕をかませない。


是時,吳人歲有來計。滿寵上疏曰:「合肥 城南臨江湖,北遠壽春,賊攻圍之,得據水為勢;官兵救之,當先破賊大輩,然後圍乃 得解。賊往甚易,而兵往救之甚難,宜移城內之兵,其西三十裡,有奇險可依,更立城 以固守,此為引賊平地而掎其歸路,於計為便。」
護軍將軍蔣濟議以為:「既示天下以 弱,且望賊煙火而壞城,此為未攻而自拔;一至於此,劫略無限,必淮北為守。」帝未 許。

このころ孫呉は、数年がかりの計画を立ててきた。満寵は上疏した。「合肥は、城南が江湖にのぞむ。北は寿春が遠い。孫呉が、江湖を水軍の勢いにのって囲む。合肥が囲まれたら、まず孫呉の大軍をやぶれば、自然と合肥の包囲が解けるだろう。孫呉は合肥を攻めやすいが、曹魏は合肥を救いにくい。合肥の現在地から、西30里の険阻な地に城を作り直したい」と。

ぼくは思う。水辺では、孫呉がつよい。険阻な陸地に近づければ、曹魏がつよい。合肥の現在地に、じつはあまり必然性がないから、気軽に西30里を移せるのだ。「合肥新城」とかいうが、これは合肥のリニュアルである。合肥という名称と、現在地の経度・緯度は、密接に結びつかないことが、よくわかる。

護軍将軍の蒋済が議した。「もし現在の合肥をやめて、西に合肥を後退させれば、天下に曹魏の弱いことを示してしまう。遠くに孫呉の軍煙を見ながら、現在の合肥を自軍で壊すな。もし孫呉に、現在の合肥の地を与えてしまえば、淮水まで防衛線が後退する」と。曹叡は、合肥の移動を許さない。

ぼくは思う。満寵の合肥新城の意義。これは、前線の合肥と、後退した合肥新城の2段がまえの防御でない。現在の合肥城を捨て、合肥を後方に移転したという理解でいいですか?満寵と蒋済の議論はそう読めます。蒋済は前線の後退を懸念してます。漢魏と隋唐の洛陽のように、経度・緯度と地名の結びつきは必然でないし。


寵重表曰:「孫子言:『兵者,詭道也,故能而示之不能,驕之以利,示之以懾,』 此為形實不必相應也。又曰:『善動敵者形之。』今賊未至而移城卻內,所謂形而誘之 也。引賊遠水,擇利而動,舉得於外,而福生於內矣!」尚書趙咨以寵策為長,詔遂報 聽。

満寵は重ねて上表した。尚書の趙咨が、満寵に賛同した。ついに曹叡は、合肥を西に移すことを許した。

胡三省はいう。趙咨とは、けだし曹丕の黄初のとき、孫呉から曹魏にきた使者である。曹丕に重用された。
ぼくは思う。けっきょく曹魏にいついて、孫呉に不利な働きをしている。まさか趙咨がスパイで、満寵の「弱気な作戦」に、いつわって賛同して、曹魏の力を削いだとか。まさかね。小説にはなりそうだが。

閉じる

青龍元年(癸丑,公元233年)

春、孫権が遼東に使者を出し、張昭が反対する

春,正月,甲申,青龍見摩陂井中,二月,帝如摩陂觀龍,改元。
公孫淵遣校尉宿舒、郎中令孫綜奉表稱臣於吳;吳主大悅,為之大赦。三月,吳主 遣太常張彌、執金吾許晏、將軍賀達將兵萬人,金寶珍貨,九錫備物,乘海授淵,封淵 為燕王。舉朝大臣自顧雍以下皆諫,以為:「淵未可信而寵待太厚,但可遣吏兵護送舒、 綜而已。」吳主不聽。張昭曰:「淵背魏懼討,遠來求援,非本志也。若淵改圖,欲自 明於魏,兩使不反,不亦取笑於天下乎!」(中略) 然卒遣彌、 晏往。昭忿言之不用,稱疾不朝。吳主恨之,土塞其門,昭又於內以土封之。

春正月甲申、青龍が摩陂の井中にあらわれた。2月、曹叡は摩陂にゆき、龍を見た。青龍と改元した。
公孫淵は、校尉の宿舒、郎中令の孫綜を遣わして、孫呉に稱臣を表した。孫権は大悅し、大赦した。

胡三省はいう。『姓譜』によると、宿氏は、もとは風氏である。伏羲の子孫である。宿に封じられた。『風俗通』はいう。漢代に雁門太守の宿詳がいた。
『晋書』職官志はいう。王国には、郎中令がいる。公孫淵は王でないが、かってに郎中令を置いた。

3月、太常の張彌、執金吾の許晏、將軍の賀達に、兵1万人と九錫をもたせ、海路から遼東にゆき、公孫淵を燕王にする。顧雍や張昭らが孫権をいさめた。孫権は、張昭の反対を押しきり、遼東への使者をゆかせた。

ぼくは思う。孫権と張昭の戦いはおもしろいけど、ここで訳さなくてもいいや。


夏秋、并州で鮮卑が叛き、陘嶺より北を放棄

夏,五月,戊寅,北海王蕤卒。 閏月,庚寅朔,日有食之。
六月,洛陽宮鞠室災。

夏5月戊寅、北海王の曹蕤が卒した。 閏月庚寅ついたち、日食あり。
6月、洛陽宮の鞠室で火災あり。

胡三省はいう。鞠室とは、地面に蹴鞠のためのフィールドを画いた場所のこと。これに因み、室の名になった。


鮮卑軻比能誘保塞鮮卑步度根與深結和親,自勒萬騎迎其累重於陘北。并州刺史畢 軌表輒出軍,以外威比能,內鎮步度根。帝省表曰:「步度根已為比能所誘,有自疑心。 今軌出軍,慎勿越塞過句注也。」比詔書到,軌已進軍屯陰館,遣將軍蘇尚、董弼追鮮 卑。軻比能遣子將千餘騎迎步度根部落,與尚、弼相遇,戰於樓煩,二將沒,步度根與 洩歸泥部落皆叛出塞,與軻比能合寇邊。帝遣驍騎將軍秦朗將中軍討之,軻比能乃走幕 北,洩歸泥將其部眾來降。步度根尋為軻比能所殺。

鮮卑の軻比能は、鮮卑の步度根を誘って、とりでを保った。軻比能は、みずから1万騎をひきい、陘北で歩度根を迎えた。

胡三省はいう。陘北とは、陘嶺の北である。

并州刺史の畢軌は、上表してすぐに出陣した。畢軌は、外で軻比能を威圧し、内で歩度根を鎮圧しようとした。
曹叡は、畢軌の上表を見ていう。「歩度根はすでに軻比能の誘いにのり、曹魏に従うつもりがない。畢軌は、城塞を越えるな。句注まで行くな」

胡三省はいう。霊帝末期、羌胡が、定襄、雲中、五原、朔方、上郡をおおいに乱した。流徒が分散した。建安20年、新興郡にまとめた。陘嶺よりも北は棄てた。ゆえに、句注を城塞(もしくは境界)とした。
ぼくは思う。曹叡は「句注より北は、もう魏領というか、漢族の住処でないから、棄てなさい。畢軌は死ぬことになるよ。費用がムダだよ」と言っている。曹操ですら放棄した土地だから、曹叡が棄てる発言をしても、べつに良いのかな。

曹叡の文書が到着したころ、すでに畢軌は陰館(雁門)まで進軍していた。將軍の蘇尚と董弼に、鮮卑を追わせた。軻比能は、子に1千余騎をひきいさせ、歩度根の部落に迎えに行かせた。軻比能の子は、魏軍と遭遇した。樓煩(雁門)で戦い、魏軍の2将軍は戦没した。歩度根と洩歸泥の部落は、どちらも塞外に出て、曹魏から叛いた。軻比能とあわさり、国境を寇した。

ぼくは思う。ここで鮮卑がいちばん強い。諸葛亮は、せっかくのチャンスなのに、国力の回復をやっている。まあ魏軍はおおいから、鮮卑に中央軍を割いても、充分に司馬懿が諸葛亮を防ぐだろうが。

曹叡は、驍騎將軍の秦朗に中央軍をひきいさせ、軻比能と歩度根を討った。

『晋書』職官志はいう。驍騎将軍、遊撃将軍は、どちらも漢代の雑号将軍である。曹魏では、中軍のなかに、驍騎将軍と遊撃将軍がおかれた。

軻比能は幕北ににげ、洩歸泥は部衆をひきいて来降した。(魏軍が優勢になるとすぐに) 歩度根は軻比能に殺された。

冬、公孫淵が孫権にそむき、張昭の正しさが判明

公孫淵知吳遠難恃,乃斬張彌、許晏等首,傳送京師,悉沒其兵資珍寶。冬,十二 月,詔拜淵大司馬,封樂浪公。吳主聞之,大怒曰:「朕年六十,世事難易,靡所不嘗。 近為鼠子所前卻,令人氣踴如山。不自截鼠子頭以擲於海,無顏復臨萬國。就令顛沛, 不以為恨!」

公孫淵は、孫呉が遠くて頼りにならないので、孫呉の使者を斬って、洛陽に送った。兵と珍宝をうばった。冬12月、曹叡は公孫淵を、大司馬、楽浪公とした。
これを聞いて、孫権は怒った。

胡三省はいう。張昭の言うとおりになった。
ぼくは思う。『資治通鑑』の読者である皇帝は、張昭のような重臣と張りあわずに、おとなしく言うことを聞きなさい、という編纂の意図だろう。史書を編纂するのは、原則として皇帝でない人物でしょ。唐代に指示した皇帝はいたが、やはり作業は臣下がやる。こういう事情により、「皇帝が誤って、臣下が正しかった」話が、選択的に残るんじゃないか。皇帝と臣下のせめぎあいは、史書をつくる臣下の自己主張が見せる「幻想」かも知れない。さすがに幻想でないにしろ、わりに強調されているのだろう。


陸遜上疏曰:「陛下以神武之姿,誕膺期運,破操烏林,敗備西陵,禽羽荊州。斯 三虜者,當世雄傑,皆摧其鋒。(後略)」
尚書僕射薛綜上疏曰:「昔漢元帝欲御樓船,薛廣德 請刎頸以血染車。何則?水火之險至危,非帝王所宜涉也。今遼東戎貊小國,無城隍之 固,備御之術,器械銖鈍,犬羊無政,往必禽克,誠如明詔。(後略)」
選曹尚書陸瑁上疏曰:「北 寇與國,壤地連接,苟有間隙,應機而至。夫所以為越海求馬,曲意於淵者,為赴目前 之急,除腹心之疾也。(中略) 願陛下抑威任計,暫寧六師,潛神 嘿規,以為後圖,天下幸甚!」吳主乃止。
吳主數遣人慰謝張昭,昭因不起。吳主因出,過其門呼昭,昭辭疾篤。吳主燒其門, 欲以恐之,昭亦不出。吳主使人滅火,住門良久。昭諸子共扶昭起,吳主載以還宮,深 自克責。昭不得已,然後朝會。

陸遜、尚書僕射の薛綜、選曹尚書の陸瑁らが、「孫権は遼東に出兵するな」と諫めた。孫権は、やっと思い留まった。

ぼくは思う。ここは、孫権が遼東に出兵しなかったという事実は、重要でない。というか、何もしなかったんだから、重要になりようがない。そうでなく、君主の無謀を諫める言葉たちが、『通鑑』の読者たる皇帝にとって、有益なんだ。いや、有益だと司馬光が考えたのだ。だから、たくさん読まされる。ぼくらは皇帝ではないので、はぶいた。

孫権は、なんども人をやって張昭に謝ったが、張昭は許さない。孫権は、張昭の門に火をつけた。張昭はやむをえず朝廷に出てきた。

ぼくは思う。曹叡も孫権も、君主として、『通鑑』の読者の代わりに説教される役回りである。そもそも『通鑑』が、いくつもの王朝を縦断して描くものである。特定の君主を、輝かしく持ち上げることがない。だって、どうせどの王朝も滅びるから。このあたりが、断代史の正史類とは異なる。正史類では、とくに初代とか中興とかの君主を、やたら持ち上げる。しかし『通鑑』はそれをやらない。むしろ、臣下から説教を引き出した君主が「編者にとって便利」なのだ。ありがとう孫権!


初,張彌、許晏等至襄平,公孫淵欲圖之,乃先分散其吏兵,中使秦旦、張群、杜 德、黃強等及吏兵六十人置玄菟。(中略) 旦等見 吳主,悲喜不能自勝。吳主壯之,皆拜校尉。

はじめ、孫権から遼東への使者である、張弥や許晏は、襄平にいた。公孫淵は、彼らを殺そうとした。孫呉の使者は、公孫淵に殺されたが、生き残りが高句麗の協力をえて、孫権のもとに戻った。みな孫権から校尉に任じられた。

ぼくは思う。遼東から逃げてくる、孫権の使者の「冒険活劇」が描かれるのだが、はぶく。おそらくメタメッセージは、「愚かな君主の判断によって、いかに悲惨な事態が起こるか」である。殺されまくり、仲間をおいて逃げのび、朝鮮半島まで回って、、かわいそうに!と読者が思えば、司馬光は成功である。


合肥新城が孫権に勝ち、庲降都督が反乱を平定

是歲,吳主出兵欲圍新城,以其遠水,積二十餘日,不敢下船。滿寵謂諸將曰: 「孫權得吾移城,必於其眾中有自大之言。今大舉來,欲要一切之功,雖不敢至,必當 上岸耀兵以示有餘。」乃潛遣步騎六千,伏肥水隱處以待之。吳主果上岸耀兵,寵伏軍 卒起擊之,斬首數百,或有赴水死者。吳主又使全綜攻六安,亦不克。

この歳、孫権は合肥新城を囲みたい。だが新城は川水から遠い。20余日たっても、孫権は船から下りない。満寵は諸将にいう。「孫権は、わたしが合肥を西に後退させたから、強気の発言をしただろう。だから、ムリにでも戦果をあげにくる」と。

ぼくは思う。満寵は、司馬光を味方につけたらしい。言うこと為すこと、すべてが成功する。たしかに、孫権を川水から引き離したことは、うまかった。日本のように「面」で戦さをするのでなく、「点と線」で戦さをする。確かに素朴な感覚として、面積を敵に譲り渡すことを、蒋済のように嫌う人はいるだろうが、じつは重要でない。それよりも、点と線の繋がりを、自分の思うとおりに設計したものが勝つ。最終的に、面積も上回る。満寵は、面積を減らしてでも、川水と合肥城という2点の距離をのばすことで、有利になった。

満寵は、歩騎6千を肥水に伏せて、呉軍を待った。果たして孫権は上陸して、伏兵に引っかかった。全琮は六安を攻めたが、こちらでも魏軍が勝った。

蜀庲降都督張翼, 用法嚴峻,南夷豪帥劉冑叛。丞相亮以參軍巴西馬忠代翼,召翼令還。其人謂翼宜速歸 即罪。翼曰:「不然,吾以蠻夷蠢動,不稱職,故還耳。然代人未至,吾方臨戰場,當 運糧積穀,為滅賊之資,豈可以黜退之故而廢公家之務乎!」於是統攝不懈,代到乃發。 馬忠因其成基,破冑,斬之。
諸葛亮勸農講武,作木牛、流馬,運米集斜谷口,治斜谷邸閣;息民休士,三年而 後用之。

蜀漢の庲降都督する張翼は、法律の運用が厳峻なので、南夷の豪帥の劉冑が叛いた。諸葛亮は、參軍する巴西の馬忠を、張翼の後任に代える。馬忠は「張翼を成都にもどれ」という。張翼は「庲降都督をはずれても、わたしは戦場にいるのだから、反乱者をやぶる。官職がなくなっても、蜀漢のために働いてから成都に還る」という。蜀軍は統制が持続し、馬忠は反乱者を斬ることができた。
諸葛亮は、農を勧めて、武を講ずる。木牛、流馬をつくり、米を運んで斜谷口に集める。斜谷の邸閣を治めた。人民と兵士を休息させ、前の戦いから3年目で、ふたたび使い物になる。121105

胡三省はいう。翌年、諸葛亮は斜谷に北伐する。これが3年の意味である。祁山を攻めてから、3年目である。ぼくは補う。翌年は、献帝と諸葛亮が死ぬ。わりに重要な歳だなあ!「三国志の最後の1年」だから。笑

閉じる

青龍二年(甲寅,公元234年)

春夏、諸葛亮が最期の北伐、献帝が卒す

春,二月,亮悉大眾十萬由斜谷入寇,遣使約吳同時大舉。 三月,庚寅,山陽公卒,帝素服發喪。 己酉,大赦。
夏,四月,大疫。 崇華殿災。

春2月、諸葛亮は全軍10万で、斜谷に入寇した。使者をおくり、呉軍と同時に曹魏を攻めることを約した。

司馬光『通鑑考異』はいう。『晋書』景懐夏侯后伝によると、この歳に夏侯后が死んだ。列伝には「夏侯后は司馬懿が魏の純臣でないことを見ぬいたので、司馬懿に鴆毒を飲まされた」とする。このとき司馬懿は、曹叡から方面軍を任されている。禅譲の気配を見せない。ゆえにこの鴆毒の暗殺はウソである。司馬師による鴆殺もありえない。だから『資治通鑑』本文に載せない。
ぼくは思う。司馬光は、いちおう「合理的」な編纂方針を持っている。ただし上記のように、編纂の目的は、皇帝の手引書をつくることだ。孝「紹介する事例がウソなら、教訓もウソになる」というロジックによって、鴆殺の記事をはぶいたのだろう。
ぼくは思う。もし皇帝に訓戒を垂れたいなら、そのまま書けば良い。しかし説得力がない。きちんと儒教の作法に従い、先行史料に誠実に依拠するポーズを見せながらでないと、訓戒を垂れる資格を獲得できない。こういう「形式をふんで、本題を迂回せざるを得ないこと」はおおいなあ!

3月庚寅、山陽公の劉協が卒した。曹叡は、素服して喪を発した。

献帝は、禅譲してから14年で死んだ。54歳だった。
ぼくは思う。諸葛亮の最期の北伐開始と、献帝の死は、歳だけでなく、月レベルでも一致するのか。「諸葛亮が献帝の死を知ったあとに進軍する」という因果関係は認められない。諸葛亮は3年ずっと国力を回復させていた。因果関係が見つからないことを、運命というのだろう。

3月己酉、曹叡は大赦した。夏4月、大疫あり。崇華殿が火災。

この歳、ふたたび崇華殿を改めて、九龍殿とした。穀水をひいて、九龍殿のまえを通過させた。


諸葛亮至郿,軍於渭水之南。司馬懿引軍渡渭,背水為壘拒之,謂諸將曰:「亮若 出武功,依山而東,誠為可憂;若西上五丈原,諸將無事矣。」亮果屯五丈原。雍州刺 史郭淮言於懿曰:「亮必爭北原,宜先據之。」議者多謂不然,淮曰:「若亮跨渭登原, 連兵北山,隔絕隴道,搖蕩民夷,此非國之利也。」懿乃使淮屯北原。塹壘未成,漢兵 大至,淮逆擊卻之。亮以前者數出,皆以運糧不繼,使己志不伸,乃分兵屯田為久駐之 基,耕者雜於渭濱居民之間,而百姓安堵,軍無私焉。

諸葛亮が郿県にきて、渭水の南に進軍する。司馬懿は渭水をわたり、背水して塁をつくり、諸葛亮をふせぐ。司馬懿は諸将にいう。「もし諸葛が武功に出て、山に依って東すれば、憂うべきだった。もし諸葛が西して五丈原(郿県の西、渭水の南)に登れば、諸将は無事である」と。諸葛亮は五丈原に屯した。

ぼくは思う。これは、諸葛亮が進路を間違えたということ?「司馬懿は何でも見抜いていた、諸葛亮は地理が分かっていない」ということ?

雍州刺史の郭淮は、司馬懿にいう。「諸葛亮はかならず北原を争う。さきに魏軍が北原を占拠しよう」と。反対された郭淮は、再反論した。「もし諸葛亮が渭水をわたって北原に登れば、兵を北山につらね、隴道を遮断する。これは魏国に不利だ」と。司馬懿は郭淮を北原にいかせた。塹塁が完成するまえに、蜀軍が北原にきたが、郭淮が迎撃した。

ぼくは思う。「やはり諸葛亮は北原をねらっていた。郭淮が先回りしたおかげで、魏軍は不利にならずにすんだ」ということだ。大陸はひろいから、「遭遇してからいかに勝つか」よりも、「いかに有利に遭遇するか」「いかに不利に遭遇しないか」という、地理の読みがおおいなあ。むしろ地理の読みあいで、ほぼ決まる。

諸葛亮は、これまで軍糧にこまったので、兵を分けて屯田させた。耕す蜀兵は、渭浜の民のあいだに雑居した。百姓は安堵した。蜀軍は無私である。

ぼくは思う。諸葛亮をもちあげてる。ミクロで見れば、山がちな地域は、国家の統制が及びにくい。国家の正統性よりも、いかに生産力の向上に協力してくれるかが、協力の条件なのだろう。


夏、孫権が合肥を攻め、満寵が陥落を恐れる

五月,吳主入居巢湖口,向合肥新城,眾號十萬;又遣陸遜、諸葛瑾將萬餘人入江 夏、沔口,向襄陽;將軍孫韶、張承入淮,向廣陵、淮陰。六月,滿寵欲率諸軍救新城, 殄夷將軍田豫曰:「賊悉眾大舉,非圖小利,欲質新城以致大軍耳。宜聽使攻城,挫其 銳氣,不當與爭鋒也。城不可拔,眾必罷怠;罷怠然後擊之,可大克也。若賊見計,必 不攻城,勢將自走。若便進兵,適入其計矣。」

5月、孫権は巢湖口(柵江口)に入り、合肥新城にむかう。10万と号する。

ぼくは思う。司馬光は、満寵が好きだなあ!諸葛亮の面倒を見るのは、おもに司馬懿だが、わりと高官も従っている。しかし孫呉の面倒は、ほぼ満寵が1人で見ている。戦闘で勝ちまくるのでなく、ただ、川水から遠いところに合肥を移転するという一事のみで、孫権をあしらった。「江南の勢力は天下統一ができない」は本当だなあ。いくら国内で反映しても、中原に出て行けない。ぎゃくに中原の勢力は、一時的になら水軍を整えて、江南を攻めることができる。手こずるけど。

陸遜と諸葛瑾は、江夏、沔口に入り、襄陽に向かう。將軍の孫韶、張承は、淮水に入り、廣陵、淮陰に向かう。

ぼくは思う。孫権は、少なくとも諸葛亮が期待する水準までは「真剣に」戦っている。しかし、いちど南方に降ると、なかなか勝ち上がれない。孫権に誠意がないのでなく、なぜか構造的に南から北にいけない。「洪積世の者が、沖積世の者を圧倒する」のと同じ構図をくり返すことしか、人類には許されていない。淮水から、広陵や淮陰をねらうなんて、袁術サマを思い出すよ。

6月、満寵は諸軍をひきて、合肥新城を救いたい。だが、殄夷將軍の田豫はいう。

胡三省はいう。殄夷将軍は、けだし曹魏がおく。沈約のあげる40号将軍に含まれず。

「孫権軍の鋭気を、合肥新城の防御でいなせ。いま鋭気のある孫権軍にあたってはいけない。孫権軍がくじけたら、そこを敗れ」と。

ぼくは思う。田豫さんは、合肥新城が、さっさと陥落や降伏してしまう可能性をカウントしていない。それほど合肥新城は、守りが固いのか。もしくは、合肥新城だけでなく、城というものは概して固いので、とりあえず鋭気を殺すことはできるのか。


時東方吏士皆分休,寵表請召中軍兵,並召所休將士,須集擊之。散騎常侍廣平劉 邵議以為:「賊眾新至,心專氣銳,寵以少人自戰其地,若便進擊,必不能制。寵請待 兵,未有所失也,以為可先遣步兵五千,精騎三千,先軍前發,揚聲進道,震曜形勢。 騎到合肥,疏其行隊,多其旌鼓,曜兵城下,引出賊後,擬其歸路,要其糧道。賊聞大 軍來,騎斷其後,必震怖遁走,不戰自破矣。」帝從之。寵欲拔新城守,致賊壽春,帝 不聽,曰:「昔漢光武遣兵據略陽,終以破隗囂,先帝東置合肥,南守襄陽,西固祁山, 賊來輒破於三城之下者,地有所必爭也。縱權攻新城,必不能拔。敕諸將堅守,吾將自 往征之,比至,恐權走也。」

ときに東方に配属された兵士は、交代で非番である。満寵は、中央軍の兵を揚州にあつめ、さらに非番の兵も召したい。
散騎常侍する廣平の劉邵は満寵に反対した。曹叡も満寵を許さない。満寵は、合肥新城がぬかれて、孫権が寿春に到達しそうだと考えた。だが曹叡は「先帝によれば、合肥、襄陽、祁山を固めておけば問題ない。わたしが揚州に行くが、わたしが到着する前に、孫権は敗走しているだろう」という。

ぼくは思う。合肥の陥落を心配する満寵は、ぼくよりの常識人に見える。しかし、曹叡らは、合肥新城が落ちないという。「合肥新城が落ちた後の作戦がある」のでなく、落ちないと考えている。合肥新城をつくった満寵が心配しているが、遠方にいる曹叡のほうが、合肥新城の堅固さを信頼している。よくわからない構図だ。史書が改竄したのかなー。曹魏の都合のいいように。結果は孫権の負けであり、これは譲らないが、その過程のコミュニケイションは、いじりようがある。


乃使征蜀護軍秦朗督步騎二萬助司馬懿御諸葛亮,敕懿: 「但堅壁拒守以挫其鋒,彼進不得志,退無與戰,久停則糧盡,虜略無所獲,則必走; 走而追之,全勝之道也。」

曹叡は、征蜀護軍の秦朗に歩騎2万をつけ、司馬懿を助けさせた。曹叡は司馬懿に「ただ守れ。諸葛亮の鋭鋒をくじけ。そうすれば食糧がなくて撤退する」という。

秋、孫権が撤退、諸葛亮が死去、魏延が夷三族

秋,七月,壬寅,帝御龍舟東征。滿寵募壯士焚吳攻具,射 殺吳主之弟子泰;又吳吏士多疾病。帝未至數百裡,疑兵先至。吳主始謂帝不能出,聞 大軍至,遂遁,孫韶亦退。

秋7月壬寅、曹叡は龍舟にのり、東征する。滿寵は、壯士をつのり、孫呉の攻具を焼いた。孫権の弟の子・孫泰を射殺した。また孫権の吏士は、疾病がおおい。曹叡の接近を知り、孫権はにげた。淮水をすすむ孫韶もひいた。

陸遜遣親人韓扁奉表詣吳主,邏者得之。諸葛瑾聞之甚懼,書與遜雲:「大駕已還, 賊得韓扁,具知吾闊狹,且水干,宜當急去。」遜未答,方催人種葑、豆,與諸將奕棋、 射戲如常。瑾曰:「伯言多智略,其必當有以。」乃自來見遜。遜曰:「賊知大駕已還, 無所復憂,得專力於吾。又已守要害之處,兵將意動,且當自定以安之,施設變術,然 後出耳。今便示退,賊當謂吾怖,仍來相蹙,必敗之勢也。」乃密與瑾立計,令瑾督舟 船,遜悉上兵馬以向襄陽城。魏人素憚遜名,遽還赴城。瑾便引船出,遜徐整部伍,張 拓聲勢,步趣船,魏人不敢逼。行到白圍,託言往獵,潛遣將軍周峻、張梁等擊江夏、 新市、安陸、石陽,斬獲千餘人而還。

陸遜と諸葛瑾は、孫権がひいたので、損害を出さぬように撤退した。魏軍は陸遜を警戒して、手出しをしない。陸遜は、將軍の周峻や張梁らをひそかに使い、新市と安陸(江夏)、石陽を攻めた。

胡三省はいう。魏初に文聘が江夏太守となり、石陽にいた。船や車が石陽には豊富である。呉軍はここを攻めた。ぼくは思う。曹操が赤壁のとき、江陵をおさえた。これの報復だなあ。孫権が敗れたので、陸遜は潰走しても良さそうなものだが、無事に撤退するどころか、さらに曹魏の江夏郡にダメージをあたえた。
沈約はいう。江夏の曲陵県は、もとは石陽という。司馬炎の太康元年、曲陵に改めた。南朝宋の明帝の泰始6年、曲陵を安陸県にあわせた。

孫呉は、江夏の魏軍を1千余も斬獲して撤退した。

群臣以為司馬懿方與諸葛亮相守未解,車駕可西 幸長安。帝曰:「權走,亮膽破,大軍足以制之,吾無憂矣。」遂進軍至壽春,錄諸將 功,封賞各有差。 八月,壬申,葬漢孝獻皇帝於禪陵。 辛巳,帝還許昌。

群臣は「まだ司馬懿は諸葛亮と戦っている。曹叡は長安にゆけ」という。曹叡は「孫権が敗れれば、諸葛亮ももたない。長安にゆく必要はない」という。曹叡は寿春に進軍し、諸将を封賞した。
8月壬申、献帝を禪陵に葬る。8月辛巳、曹叡は許昌に還る。

司馬懿與諸葛亮相守百餘日,亮數挑戰,懿不出。亮乃遺懿巾幗婦人之服。懿怒, 上表請戰,帝使衛尉辛毘杖節為軍師以制之。護軍姜維謂亮曰:「辛佐治杖節而到,賊 不復出矣。」亮曰:「彼本無戰情,所以固請戰者,以示武於其眾耳。將在軍,君命有 所不受,苟能制吾,豈千里而請戰邪!」
亮遣使者至懿軍,懿問其寢食及事之煩簡,不 問戎事。使者對曰:「諸葛公夙興夜寐,罰二十已上,皆親覽焉;所啖食不至數升。」 懿告人曰:「諸葛孔明食少事煩,其能久乎!」亮病篤,漢主使尚書僕射李福省侍,因 諮以國家大計。福至,與亮語已,別去,數日復還。亮曰:「孤知君還意,近日言語雖 彌日,有所不盡,更來亦決耳。公所問者,公琰其宜也。」福謝:「前實失不咨請,如 公百年後誰可任大事者,故輒還耳。乞復請蔣琬之後,誰可任者?」亮曰:「文偉可以 繼之。」又問其次,亮不答。

司馬懿と諸葛亮は、1百余日むきあう。司馬懿は挑戦を受けない。婦人服をもらっても受けない。曹叡は、衛尉の辛毗に杖節をもたせ、出撃をとめた。護軍の姜維は「辛毗がきたら司馬懿は出てこない」という。諸葛亮は「戦場で君命は受けない。もとから司馬懿は戦意がない」という。
諸葛亮の使者に、司馬懿は諸葛亮の寝食をきく。

胡三省はいう。司馬懿は諸葛亮を恐れているから、諸葛亮の寿命を知るために、寝食のことを聞いたのである。ぼくは思う。五丈原の司馬懿と諸葛亮ほど、史家の編纂方針の裁量が大きなところはない。というか、ここで曲筆しなくて、史家は他になにをやるのか。というわけで、個別のエピソードは、小説として楽しみたい。五丈原だけは、史料に対して、ニヒリズムを発動しても、仕方がないと思う。

諸葛亮の病が篤くなった。劉禅は、尚書僕射の李福を諸葛亮のそばにゆかせ、国家の大計をきく。諸葛亮は「蒋琬、つぎに費禕」という。

胡三省はいう。諸葛亮は費禕のつぎに名前をあげないのは、蜀漢に人材がいないからだ。ああ!ぼくは思う。ああ!


是月,亮卒於軍中。長史楊儀整軍而出。百姓奔告司馬懿,懿追之。姜維令儀反旗 鳴鼓,若將向懿者,懿斂軍退,不敢逼。於是儀結陳而去,入谷然後發喪。百姓為之諺 曰:「死諸葛走生仲達。」懿聞之,笑曰:「吾能料生,不能料死故也。」懿案行亮之 營壘處所,歎曰:「天下奇才也!」追至赤岸,不及而還。

この月、諸葛亮は軍中で卒した。長史の楊儀は、軍を整えて撤退した。司馬懿が追った。姜維は、楊儀に旗をかえし鼓をならさせた。死せる諸葛が、生ける仲達を走らせた。司馬懿は諸葛亮の営塁にきて「天下の奇才なり」といった。

胡三省はいう。司馬懿は、もし諸葛亮が五丈原にゆけば、魏軍の諸将は無事だといった。諸葛亮が死んでから、司馬懿は諸葛亮の営塁を見て「天下の奇才」といった。ここから考えるに、司馬懿はすでに諸葛亮が五丈原にいくことを知っており、推測しており、諸葛亮に勝てないことも知っていたから、諸将を安心させるために、「無事だ」とハッタリを言ったのだ。
ぼくは思う。諸葛亮の軍事機密はモレていたのか。司馬懿は(機密をもらすような)諸葛亮に、自分が勝てないと思っていたのか。メチャクチャだなあ!
ぼくは思う。南宋の袁枢は『通鑑紀事本末』をつくった。司馬光『資治通鑑』は曹魏が正統だが、『通鑑紀事本末』では蜀漢が正統とされる。だが司馬光も、けっこう諸葛亮の聖なる動機をほめ、司馬懿の臆病をけなす。胡三省は諸葛亮ファン。すでに『資治通鑑』の段階で、かなり蜀漢びいきが準備されてる。
@yunishio さんはいう。諸葛亮を「天下の奇才」と司馬懿が言った、とするのは諸葛亮を美化する『漢晋春秋』が出典で、前後に矛盾があるなら『漢晋春秋』がらみを疑ったほうがいいです。『漢晋春秋』には他には出てこない諸葛亮の美談がいっぱいw
ぼくはいう。諸葛亮が死ぬ年の記事で、これ見よがしに、習鑿歯による評を、司馬光がひいてます。司馬光は『三国志』魏書に依拠しつつも、けっこう習鑿歯『漢晋春秋』に共感しながら、この部分の『資治通鑑』を書いたんでしょうね。「司馬光らしくない混乱」を楽しめば良いんでしょうか。笑
@yunishio さんはいう。司馬光は司馬懿の子孫と言われますが、祖先のライバルに格別の愛着を持っていたのかもしれませんねえ。
ぼくはいう。これから『資治通鑑』の晋代に読み進もうと思っているんですが、祖先に対する偏向の可能性(あくまで可能性ですけど)があるんですね。いろいろ邪推して楽しもうと思います!
@yunishio さんはいう。あるかもしれないですw なにか発見したらぜひリポートを!w
ぼくは思う。このように、先輩方から「あるかも」「できるよ」と言って頂くと、とてもがんばれます。とくに根拠がなくても、直感でなんとなく賛同して下さるということは、何らかの望みがあるはずなので。こういうのは、直感を信じるのが大切!
@goushuouji さんはいう。胡注の「観此則知懿己料亮之必屯五丈原~」の「知」は司馬懿が知ったのではなく、「観此則知~」で「以上のことから~であることがわかる。」と胡三省さんが意見を申してる部分で、その意見の内容が「懿己料亮之必屯五丈原~」 つまり「司馬懿は『諸葛亮が必ず五丈原に駐屯するはずだが、諸葛亮を制圧できない』とすでに推測しており(原文の『料』)、(以下略)」とうことで、 司馬懿があらかじめ知っていたということではないと思います。
ぼくはいう。「知」と「料」は、前者が知識で、後者は推測ですね。だとしても、諸葛亮が五丈原に行くことは、司馬懿に料(推測)されており、然るべき対策(諸将を安心させる)が打たれていたと胡三省は考えるわけですよね。諸葛亮は後手に回ったという解釈ですね、、


初,漢前軍師魏延,勇猛過人,善養士卒。每隨亮出,輒欲請兵萬人,與亮異道會 於潼關,如韓信故事,亮制而不許。延常謂亮為怯,歎恨己才用之不盡。楊儀為人干敏, 亮每出軍,儀常規畫分部,籌度糧谷,不稽思慮,斯須便了,軍戎節度,取辦於儀。延 性矜高,當時皆避下之,唯儀不假借延,延以為至忿,有如水火。亮深惜二人之才,不 忍有所偏廢也。
費禕使吳,吳主醉,問禕曰:「楊儀、魏延,牧豎小人也,雖嘗有鳴吠之益於時務, 然既已任之,勢不得輕。若一朝無諸葛亮,必為禍亂矣。諸君憒憒,不知防慮於此,豈 所謂貽厥孫謀乎!」禕對曰:「儀、延之不協,起於私忿耳,而無黥、韓難御之心也。 今方掃除強賊,混一函夏,功以才成,業由才廣,若捨此不任,防其後患,是猶備有風 波而逆廢舟楫,非長計也。」

はじめ、前軍師の魏延は、韓信の故事のように潼関にゆきたかった。

胡三省はいう。蜀漢は、中軍師、前軍師、後軍師をおく。

諸葛亮の配下で、魏延と楊儀が対立した。諸葛亮は、2人の才能を惜しんで、役割を奪わなかった。
費禕が孫呉に使者にゆき、孫権に「楊儀と魏延は、つまらん人物だ。もし諸葛亮がいなくなれば、対立が表面化する」と言われた。費禕は「鯨布と韓信のように失敗させない。曹魏を倒すために、2人の才能を使いこなす」と答えた。

亮病困,與儀及司馬費禕等作身歿之後退軍節度,令延斷後,姜維次之;若延或不 從命,軍便自發。亮卒,儀秘不發喪,令禕往揣延意指。延曰:「丞相雖亡,吾自見在。 府親官屬,便可將喪還葬,吾當自率諸軍擊賊;雲何以一人死廢天下之事邪!且魏延何 人,當為楊儀之所部勒,作斷後將乎!」自與禕共作行留部分,令禕手書與己連名,告 下諸將。禕紿延曰:「當為君還解楊長史。長史文吏,稀更軍事,必不違命也。」禕出 門,奔馬而去。延尋悔之,已不及矣。

諸葛亮が病気になると、楊儀と司馬の費禕は、諸葛亮の没後にそなえた。魏軍の追撃を、魏延と姜維が遮断する。もし魏延が従わねば、魏延を置いてゆく。

胡三省はいう。諸葛亮は、魏延が楊儀の命令を聞かないことを知っていた。ぼくは思う。いちばん怪しい将軍を最後尾において、曹魏に魏延を斬らせる。ナイスなアイディア。こわいなあ!諸葛亮と費禕さん。

諸葛亮が死ぬと、楊儀が撤退をしきる。費禕が魏延に指示をした。魏延は指示をこばみ、費禕を留めた。

胡三省はいう。ときに費禕は、諸葛亮の司馬である。魏延は、楊儀が自分に従わないことを知る。だから費禕がくると、費禕を自分の手許に置こうとした。諸葛亮の死体を成都に送る者は、ひきつづき曹魏と戦えと魏延は求めた。

費禕は、魏延を言いくるめて脱出した。魏延は悔いた。

延使人覘儀等,欲案亮成規,諸營相次引軍還,延大怒,攙儀未發,率所領徑先南 歸,所過燒絕閣道。延、儀各相表叛逆,一日之中,羽檄交至。漢主以問侍中董允、留 府長史蔣琬,琬、允鹹保儀而疑延。儀等令槎山通道,晝夜兼行,亦繼延後。延先至, 據南谷口,遣兵逆擊儀等,儀等令將軍何平於前御延。平叱先登曰:「公亡,身尚未寒, 汝輩何敢乃爾!」延士眾知曲在延,莫為用命,皆散。延獨與其子數人逃亡,奔漢中, 儀遣將馬岱追斬之,遂夷延三族。蔣琬率宿衛諸營赴難北行,行數十裡,延死問至,乃 還。始,延欲殺儀等,冀時論以己代諸葛輔政,故不北降魏而南還擊儀,實無反意也。

魏延を無視して、諸営は撤退をした。魏延は怒り、先回りして閣道を焼いた。魏延と楊儀がぶつかった。劉禅は、侍中の董允、留府長史の蒋琬に、仲裁にゆかせた。楊儀は、魏延の退路を遮断した。魏延は南谷口(褒谷道の南口)に拠る。楊儀は、将軍の王平に魏延の攻撃を防がせた。王平の説得により、魏延の兵は散じた。魏延は漢中ににげ、馬岱に斬られた。夷三族された。魏延は、諸葛亮のかわりに輔政したかった。ゆえに魏延は曹魏にくだらず、南して楊儀と戦った。反意はなかった。

胡三省はいう。魏延に反意がなくても、もし魏延が輔政したら、蜀漢はすぐに滅びただろう。ぼくは思う。胡三省って、ひどいこと言うなあ!


呉懿が漢中、蒋琬が国事、宗預は孫呉に外交

諸軍還成都,大赦,謚諸葛亮曰忠武侯。初,亮表於漢主曰:「成都有桑八百株,薄田 十五頃,子弟衣食自餘饒,臣不別治生以長尺寸。若臣死之日,不使內有餘帛,外有贏 財,以負陛下。」卒如其所言。丞相長史張裔常稱亮曰:「公賞不遺遠,罰不阿近,爵 不可以無功取,刑不可以貴勢免,此賢愚之所以歛忘其身者也!」

諸軍が成都にもどった。劉禅は大赦した。諸葛亮を「忠武侯」とした。諸葛亮の遺産はすくなかった。丞相長史の張裔は、つねに諸葛亮の節制をほめた。

初,長水校尉廖立,自謂才名宜為諸葛亮之副,常以職位游散,怏怏怨謗無已,亮 廢立為民,徙之汶山。及亮卒,立垂泣曰:「吾終為左衽矣!」李平聞之,亦發病死。 平常冀亮復收己,得自補復,策後人不能故也。
蜀人所在求為諸葛亮立廟,漢主不聽。百姓遂因時節私祭之於道陌上,步兵校尉習 隆等上言:「請近其墓,立一廟於沔陽,斷其私祀。」漢主從之。

長水校尉の廖立は、諸葛亮につぐ才能があると自負した。諸葛亮は廖立をしりぞけた。諸葛亮が死ぬと、廖立は哀しんだ。李平=李厳は、諸葛亮の死を悲しんで死んだ。

司馬光は習鑿歯をひく。諸葛亮は、対立者も公正に扱った。だから廖立と李厳は、諸葛亮の死を悲しんだ。無私ですばらしいなあ!

蜀民は、諸葛亮の廟を立てたいが、劉禅がゆるさず。歩兵校尉の習隆らはいう。「諸葛亮の墓は近くにつくり、廟を沔陽につくれ。各自が私で諸葛亮を祭らぬよう、歯止めになるから」と。劉禅はゆるした。

漢主以左將軍吳懿為車騎將軍,假節,督漢中;以丞相長史蔣琬為尚書令,總統國 事,尋加琬行都護,假節,領益州刺史。時新喪元帥,遠近危悚,琬出類拔萃,處群僚 之右,既無戚容,又無喜色,神守舉止,有如平日,由是眾望漸服。
吳人聞諸葛亮卒, 恐魏承衰取蜀,增巴丘守兵萬人,一欲以為救援,二欲以事分割。漢人聞之,亦增永安 之守以防非常。漢主使右中郎將宗預使吳,吳主問曰:「東之與西,譬猶一家,而聞西 更增白帝之守,何也?」對曰:「臣以為東益巴丘之戍,西增白帝之守,皆事勢宜然, 俱不足以相問也。」吳主大笑,嘉其抗盡,禮之亞於鄧芝。

劉禅は、左將軍の吳懿を車騎將軍、假節として、漢中を督させた。丞相長史の蔣琬を尚書令として、国事を総統させた。このために蒋琬を、行都護、假節として、益州刺史を領させた。蒋琬は、諸葛亮の死後の混乱をしずめた。
孫呉は諸葛亮が死に、曹魏が蜀漢をうばうと考え、巴丘の守兵を1万ふやした。蜀漢を救えるし、奪えもする。蜀漢は、永安の守兵をふやした。劉禅は、右中郎將の宗預を孫呉に遣わせ、緊張を緩和させた。宗預は、鄧芝につぐ礼遇をうけた。

胡三省はいう。劉備が死んで、諸葛亮が執政したとき、鄧芝が孫呉にいった。諸葛亮が死んで、蒋琬が執政するとき、宗預が孫呉にいった。ぼくは思う。皇帝もしくは執政が代わるたびに、とりあえず軍事的にチョッカイをかけてみるのが、孫呉のやりかたである。曹丕の死後などに、孫権はうごく。


冬、諸葛恪が丹陽の山越を徴発する

吳諸葛恪以丹楊山險,民多果勁,雖前發兵,徒得外縣平民而已。其餘深遠,莫能 禽盡,屢自求為官出之,三年可得甲士四萬。眾議鹹以為:「丹楊地勢險阻,與吳郡、 會稽、新都、番陽四郡鄰接,周旋數十裡,山谷萬重。其幽邃民人,未嘗入城邑,對長 吏,皆仗兵野逸,白首於林莽;逋亡宿惡,鹹共逃竄。山出銅鐵,自鑄甲兵。俗好武習 戰,高尚氣力;其升山赴險,抵突叢棘,若魚之走淵,猿狖之騰木也。時觀間隙,出為 寇盜,每致兵征伐,尋其窟藏。其戰則蜂至,敗則鳥竄,自前世以來,不能羈也。」皆 以為難。

丹陽の山が険しく、民が強い。前から兵を徴発しているが、外県の平民しか徴発できない。諸葛恪は「3年で4万の兵を得る」と宣言した。衆議は「丹陽はけわしい。呉郡、会稽、新都、鄱陽に隣接して、山が連なる。難しい」と考えた。

恪父瑾聞之,亦以事終不逮,歎曰:「恪不大興吾家,將赤吾族也!」恪盛陳 其必捷,吳主乃拜恪為撫越將軍,領丹楊太守,使行其策。

父の諸葛瑾は、諸葛恪の宣言を聞いて「わが一族を滅ぼすなあ」と歎じた。諸葛恪は、孫権に成功を主張して、撫越將軍、丹楊太守にしてもらった。丹陽の山越の徴発をやる。

胡三省はいう。山越を撫すから「撫越」将軍である。


冬,十一月,洛陽地震。 吳潘濬討武陵蠻,數年,斬獲數萬。自是群蠻衰弱,一方寧靜。十一月,濬還武昌。

冬11月、洛陽で地震あり。
孫呉の潘濬が、武陵蠻を討つ。数年して、數萬を斬獲した。これより、蛮族たちは衰弱して、寧靜となった。11月、潘濬は武昌にもどる。121106

胡三省はいう。太和5年、孫呉は潘濬を武陵に遣わした。

閉じる