表紙 > 和訳 > 『資治通鑑』巻75、246-252年を抄訳

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正始七年(丙寅,公元246年)

春夏、毋丘倹が高句麗の丸都をほふる

春,二月,吳車騎將軍硃然寇柤中,殺略數千人而去。 幽州刺史毌丘儉以高句驪王位宮數為侵叛,督諸軍討之;位宮敗走,儉遂屠丸都, 斬獲首虜以千數。句驪之臣得來數諫位宮,位宮不從,得來歎曰:「立見此地將生蓬 蒿。」遂不食而死。儉令諸軍不壞其墓,不伐其樹,得其妻子皆放遣之。位宮單將妻子 逃竄,儉引軍還。未幾,復擊之,位宮遂奔買溝。儉遣玄菟太守王頎追之,過沃沮千有 餘里,至肅慎氏南界,刻石紀功而還,所誅、納八千餘口。論功受賞,侯者百餘人。

春2月、孫呉の車騎将軍の朱然が、柤中に寇して、数千人を殺略して去った。

ぼくは思う。曹魏の目線で書くと、孫呉がいかにも単なる迷惑な賊のようだ。このような印象を与えるのが、さすが国家の歴史家の筆法だなあ。様式美というか、機能美というか、ともあれ筆法による印象操作のすごさを感じる。

幽州刺史の毋丘倹が、高句麗王の位宮を討伐した。丸都をほふった。数千を斬獲した。高句麗の臣である得来は、曹魏に従うように高句麗王を諫言して、餓死した。毋丘倹は、得来の遺族を厚遇した。位宮は、東溝ににげた。

ぼくは思う。東夷伝などで、胡三省が地理を説明しているが、はぶく。とにかく遠いなあ!ということが分かればいいや。このように、十把一絡げでまとめてしまうなかに、当然ながら日本列島も含まれちゃうけど。

毋丘倹は、玄菟太守の王頎に位宮を追わせた。石碑に功績をきざんだ。論功により賞を受け、侯爵を与えられた者は1百余人。

秋冬、孫呉が荊州を分割、劉禅の大赦と声楽

秋,九月,吳主以驃騎將軍步騭為丞相,車騎將軍硃然為左大司馬,衛將軍全琮為 右大司馬。分荊州為二部:以鎮南將軍呂岱為上大將軍,督右部,自武昌以西至蒲圻; 以威北將軍諸葛恪為大將軍,督左部,代陸遜鎮武昌。

秋9月、孫呉で驃騎将軍の歩隲が丞相となる。車騎将軍の朱然が左大司馬となる。衛将軍の全琮が右大司馬となる。荊州を2部に分けた。鎮南將軍の呂岱は、上大將軍として、荊州の右部を督する。武昌から西は蒲圻まで。

胡三省は、蒲圻について『水経注』などから注釈する。

威北將軍の諸葛恪は、大將軍として、荊州の左部を督する。死んだ陸遜の代わりに、武昌に鎮した。

ぼくは思う。陸遜が憤死して、子が領兵と任務を継いだかと思いきや。すぐに孫権からの評価がたかい諸葛恪に交代させられてしまう。君主権力がつよいなあ!


漢大赦,大司農河南孟光於眾中責費禕曰:「夫赦者,偏枯之物,非明世所宜有也。 衰敝窮極,必不得已,然後乃可權而行之耳。今主上仁賢,百僚稱職,何有旦夕之急, 而數施非常之恩,以惠奸宄之惡乎!」禕但顧謝,踧□而已。
初,丞相亮時,有言公惜赦者,亮答曰:「治世以大德,不以小惠,故匡衡、吳漢 不願為赦。先帝亦言:『吾周旋陳元方、鄭康成間,每見啟告治亂之道悉矣,曾不語赦 也。若劉景升、季玉父子,歲歲赦宥,何益於治!』」由是蜀人稱亮之賢,知禕不及焉。
吳人不便大錢,乃罷之。

蜀漢で大赦があった。大司農する河南の孟光は、みなの前で費禕を責めた。

胡三省はいう。孟光は、河南の洛陽の人。後漢末に、蜀にに逃げてきた。ぼくは思う。洛陽の人って、おおいようで少ない。いまの日本の東京みたいに、人の出入りは激しいが、「江戸っ子」はそれほど多くない。というような感じ?ちがうかなあ。

「大赦というのは、衰退した朝廷のやることだ。いま蜀漢は、君主が仁賢であり、百官はきちんと働いている。わざわざ非常時のように恩をばらまき、悪人にまで恵むのか」と。費禕は「そうでした」と畏まった。
はじめ諸葛亮が丞相のとき、恩赦を提案する者があると、諸葛亮は必要がないと説明した。「劉表や劉璋の父子は、恩赦しまくったが治まらなかった」と。これにより蜀漢の人は、諸葛亮の賢さと、費禕の及ばなさを知った。

胡三省は陳寿の評をひく。諸葛亮は、軍旅をしばしば興したが、みだりに恩赦を下さない(でも治まった)。なんと優れているだろうか。
ぼくは思う。つまり孟光の現状認識とは異なり、費禕から見れば蜀漢は、わりと末期症状だったのだ。だから恩赦によって、罪人まで含んだ人民に対して、恵みを施しておかないと、国家が保てないと思ったのだ。前年の『資治通鑑』では、黄皓がのさばっていたし、姜維が北伐をするし。費禕を攻めるのは、お門違いだ。諸葛亮をほめるために、費禕をおとしめる。陳寿において、これが顕著。つまり費禕は、諸葛亮信仰の「犠牲者」なのね。かわいそうに!

孫呉で大銭を鋳造したが、流通しないから辞めた。

胡三省はいう。青龍4年、1枚で5百銭の貨幣を鋳造した。景初2年、1枚で1千銭の貨幣を鋳造した。
ぼくは思う。この高額貨幣は、なにを表しているのか。インフレ対策で、取引しやすくしたか。ちがうだろう。おそらくは、贈物として貨幣をつかい、その贈物に威信をくっつけるため、こんなムチャな金額にしたんだ。いまの日本なら1億円札をつくった場合、もっぱら政治家や財界人の贈答に使われるだろうな、、市場経済とは関係ないだろうな、、と。これにより「強い円」ひいては「強い日本」をアピールできるはず。経済よりも、むしろ威信の応酬にとって意味がある。とかかな。推測で書いた。


漢主以涼州刺史姜維為衛將軍,與大將軍費禕並錄尚書事。汶山平康夷反,維討平 之。
漢主數出游觀,增廣聲樂。太子家令巴西譙周上疏諫曰:「昔王莽之敗,豪傑並起 以爭神器,才智之士思望所歸,未必以其勢之廣狹,惟其德之薄厚也。於時更始、公孫 述等多已廣大,然莫不快情恣欲,怠於為善。世祖初入河北,馮異等勸之曰:『當行人 所不能為者。』遂務理冤獄,崇節儉,北州歌歎,聲布四遠。(後略)」漢主不聽。

劉禅は、涼州刺史の姜維を衛將軍とした。大將軍の費禕とともに錄尚書事させる。汶山の平康夷がそむく。姜維がこれを平らげた。

胡三省はいう。前漢の武帝の元封2年、蜀郡の北部を分けて汶山郡をおく。宣帝のとき蜀郡に合わせる。また分ける。平康県をつくり、汶山郡に属させた。
ぼくは思う。このとき姜維は、涼州刺史でありながら、録尚書事した。中央にいたのか?地方にいたのか?中央にいないと、録尚書事はムリだと思うけど、そうでもない?

劉禅はしばしば游觀に出て、声楽をした。太子家令する巴西の譙周が上疏して諫めた。「後漢初、遊びまくっていた勢力は滅びた。更始帝や公孫述である。法刑を正した光武帝が勝った。だから劉禅は、遊びまくってはいけない」と。劉禅は聴かず。

ぼくは思う。声楽もまた、儒教による秩序の表現だし、文化資本の獲得&誇示でもある。負けた勢力が、声楽のようなことをやっていると、「遊んでいるから負けるのだ」と言われる。だが、これは結果論である。勝った勢力がこれをやれば、「威信の高まりによって他勢力を圧倒した」という解釈になる。同じことが曹叡の建設ぐるいにもあるだろう。曹魏が天下統一しないから、「遊びまくってて、ダメね」となる。蕩尽を野次られる。
しかし蕩尽こそ、君主のやるべき、君主にしかできない、卓越化の闘争の形態である。譙周は、何も分かってないなあ!

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正始八年(丁卯,公元247年)

春夏、孫権が建業に遷り、司馬懿が引退

春,正月,吳全琮卒。
二月,日有食之。
時尚書何晏等朋附曹爽,好變改法度。太尉蔣濟上疏曰:「昔大舜佐治,戒在比周; 周公輔政,慎於其朋。夫為國法度,惟命世大才,乃能張其綱維以垂於後,豈中下之吏 所宜改易哉!終無益於治,適足傷民。宜使文武之臣,各守其職,率以清平,則和氣祥 瑞可感而致也!」

春正月、孫呉の全琮が卒した。2月、日食あり。
ときに尚書の何晏らは、曹爽とべたつき、法度の改変を好む。太尉の蔣濟が上疏した。「むかし虞舜が唐堯を輔政したとき、法度をころころ変えなかった。何晏は法度を変えるな」と。

吳主詔徙武昌宮材瓦繕修建業宮。有司奏言:「武昌宮已二十八歲,恐不堪用,宜 下所在,通更伐致。」吳主曰:「大禹以卑宮為美。今軍事未已,所在賦斂,若更通伐, 妨損農桑,徙武昌材瓦,自可用也。」乃徙居南宮。三月,改作太初宮,令諸將及州郡 皆義作。

孫権は、武昌宮の材瓦をうつして、建業宮を繕修する。有司が奏した。「武昌宮は、建築して28年がたつ。材木はもう古いから、新たに伐採せよ」と。

胡三省はいう。献帝の建安24年、孫権は武昌にきた。28年前である。

孫権はいう。「大禹は倹約を美徳とした。リユースすべきだ」と。孫権は建業の南宮にうつる。3月、孫権は太初宮を改作した。

胡三省はいう。晋の『太康地記』はいう。孫呉には太初宮があった。1辺が3百丈ある城だった。 

諸将および州郡には、建設を助けさせた。

大將軍爽用何晏、鄧颺、丁謐之謀,遷太后於永寧宮;專擅朝政,多樹親黨,屢改 制度。太傅懿不能禁,與爽有隙。五月,懿始稱疾,不與政事。 吳丞相步騭卒。

大將軍の曹爽は、何晏、鄧颺、丁謐の策謀をもちいて、太后を永寧宮に遷した。

胡三省はいう。後魏は、永寧寺を銅駝街の西にたてた。これは、前魏の永寧殿の跡地である。陳寿『三国志』によると、もとから太后は永寧宮にいた。徙されていない。これは晋臣が曹爽の悪事をでっちあげたのである。
ぼくは思う。胡三省がここまで暴いてくれるのも珍しい。おもしろいなあ!陳寿が、徙されたあとだけに着目して記述しており、「じつはこの移動があった」が正解だった、なんてことはないかなあ。ともあれ太后は、のちの司馬懿のクーデターで、司馬懿にお墨付きを与える。

曹爽が朝政を專擅した。親黨をおおく用いて、しばしば制度を変えた。司馬懿は、曹爽の専断を禁じられず、曹爽との関係が悪化した。5月、司馬懿は病気といい、政事からはずれた。
孫呉の丞相の歩隲が卒した。

秋冬、曹芳が皇后宮で騎乗し、孫権が揚州をねらう

帝好褻近群小,游宴後園。秋,七月,尚書何晏上言:「自今御幸式乾殿及游豫後 園,宜皆從大臣,詢謀政事,講論經義,為萬世法。」冬,十二月,散騎常侍、諫議大 夫孔乂上言:「今天下已平,陛下可絕後園習騎乘馬,出必御輦乘車,天下之福,臣子 之願也。」帝皆不聽。

曹芳は、下級の官僚を連れて、後園を游宴するのを好む。秋7月、尚書の何晏が上言した。「今より式乾殿(皇后宮)にゆき、後園に游豫するときは、大臣を従えなさい。移動するときも、政事や経義について話なさい」と。

ぼくは思う。何晏ちゃんが、なんか正しいことを言っている。曹芳は、のちに司馬師に廃位されるから、くだらん人物に描く必要がある。だから、司馬懿の敵である何晏よりも、さらに低ランクの人物として扱われている。曹芳がウロウロするのは、のちに曹芳と曹爽が洛陽の外にゆき、司馬懿のクーデターに敗れることの伏線である。皇帝が都城の周りを遊ぶことは、後漢からたびたびあったが、曹芳にいたっては、重要な伏線として描かれる必要がある。史家もストーリーテラーとして、気をつかう!

冬12月、散騎常侍、諫議大夫の孔乂が上言した。「天下はすでに平らいだ。曹芳は後園で騎乗の練習をする必要がない。輿車に乗りなさい」と。曹芳はきかず。

ぼくは思う。騎乗は軍事、輿車は平時。曹芳が、騎乗という「身体性の遊び」に取り憑かれるのでなく、輿車という頭でっかちの都市の儀礼のなかに、閉じ籠もることを願った。大室幹雄氏のモデルにあてはめると、よくわかる。そして孔乂は、意図的に「もう天下は平らいだ」と行っているのね。さすが孔氏!
胡三省はいう。晋代に諫大夫が置かれ、漢魏は諌議大夫という。


吳主大發眾集建業,揚聲欲入寇。揚州刺史諸葛誕使安豐太守王基策之,基曰: 「今陸遜等已死,孫權年老,內無賢嗣,中無謀主。權自出則懼內釁卒起,癰疽發潰; 遣將則舊將已盡,新將未信。此不過欲補衣定支黨,還自保護耳。」已而吳果不出。
是歲,雍、涼羌胡叛降漢,漢姜維將兵出隴右以應之,與雍州刺史郭淮、討蜀護軍 夏侯霸戰於洮西。胡王白虎文、治無戴等率部落降維,維徙之入蜀。淮進擊羌胡餘黨, 皆平之。

孫権は建業に大軍をあつめて、「曹魏を攻めよう」と声をあげた。揚州刺史の諸葛誕は、安豊太守の王基に献策させた。王基はいう。「陸遜が死に、孫権が老いた。ろくな後嗣も軍師もいない。新たに着任した将軍は信頼されていない。孫権は攻めてこない」と。果たして孫権は、曹魏を攻めない。

ぼくは思う。孫権が武昌から建業にうつったのは、曹魏の揚州刺史のいる寿春を攻めるためだったのか。孫権は晩年になって、曹魏への働きかけを強化するのね。これは、二宮で内政に失敗したから、求心力を増すためだろうか。内政の危機を、外部に転化するのは、どこかでよく見る話だ。また、孫権の死後に諸葛恪が、ムリなほど外征するのも、孫権の死後に求心力が低下するのを懼れた結果かも。べつに「功績に逸る小人物」ではなかろう。

この歳、雍州と涼州の羌胡がそむき、蜀漢にくだる。姜維は隴右から出陣して、羌胡に応じた。雍州刺史の郭淮と、討蜀護軍の夏侯霸は、姜維と洮西で戦う。

胡三省が洮西の位置について注釈する。はぶく。つぎに出てくる異民族の名は、『魏志』と『蜀志』で異なるのだとか。まあ、どっちでも良いけど。

胡王の白虎文、治無戴らは、部落をひきいて姜維にくだる。姜維は蜀の領土に移住させた。郭淮は、のこりの羌胡を撃破した。 121111

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正始九年(戊辰,公元248年)

春夏、孫資と劉放が引退する

春,二月,中書令孫資,癸巳,中書監劉放,三月,甲午,司徒衛臻各遜位,以侯 就第,位特進。

春2月、中書令の孫資が官位を返上した。2月癸巳、中書監の劉放が官位を返上した。3月甲午、司徒の衛臻が官位を返上した。官位の代わりに、侯爵、特進を与えられた。

ぼくは思う。あんまり引退の記事は見ない。「骸骨をこう」ことは少ない。彼らが曹芳の朝廷に見切りをつけたのでないとすれば、この引退の動機はなにか。もうすぐ司馬懿のクーデターがある。なにか関係があるのか。孫資と劉放は、あまりにも引き際の見極めが的確である。曹叡が死ぬとき、曹宇や曹肇を退けたのは彼らであり、曹爽に恩があるはずなのに、曹爽の政権では重んじられていない。うーん、よく分からない。
ぼくは思う。孫資と劉放の「わからなさ」は、彼らが機密をみて動いているから仕方ないとしても。同時に引退した、司徒の衛臻から何かが分かるかも知れない。衛臻のことは、課題とする。課題として保留できることが見つかってよかった。まったく手がかりなし、よりはマシなので。


夏,四月,以司空高柔為司徒,光祿大夫徐邈為司空。邈歎曰:「三公論道之官, 無其人則缺,豈可以老病忝之哉!」遂固辭不受。
五月,漢費禕出屯漢中。自蔣琬及禕,雖身居於外,慶賞威刑,皆遙先咨斷,然後 乃行。禕雅性謙素,當國功名,略與琬比。

夏4月、司空の高柔が司徒となる。光祿大夫の徐邈が司空とする。徐邈は歎じた。「三公は道を論ずる官位であり、適任者がいなければ、空席にする。私には務まらない」と。徐邈は司空を受けなかった。

ぼくは思う。そんなこと、できるんだ!官位を受けないのは、だんだん後漢末に似てきた。もちろん、曹操を個人的に断った人間はいたが、それは曹操が軍閥として流動していたときの話。曹魏が安定してからは、いちおう官位を受けるものになった。だが徐邈は、呉蜀を頼るでなく、魏内にいて三公を辞退した。曹芳もしくは曹爽とのあいだに、ポトラッチを仕掛けるのか。そもそも「ポトラッチを仕掛けられる」と、対戦相手に見なされている時点で、皇帝権力が衰退している証拠だと思う。

5月、費禕が漢中に出屯した。蒋琬と費禕は、成都にいないが、適切に政事や罪刑をおこなった。費禕の名声は、蒋琬に匹敵した。

秋、曹爽が桓範の忠告を聞かず、郊外で遊ぶ

秋,九月,以車騎將軍王凌為司空。
陪陵夷反,漢車騎將軍鄧芝討平之。
大將軍爽,驕奢無度,飲食衣服,擬於乘輿;尚方珍玩,充牣其家;又私取先帝才 人以為伎樂。作窟室,綺疏四周,數與其黨何晏等縱酒其中。弟羲深以為憂,數涕泣諫 止之,爽不聽。爽兄弟數俱出游,司農沛國桓范謂曰:「總萬機,典禁兵,不宜並出。 若有閉城門,誰復內入者?」爽曰:「誰敢爾邪!」

秋9月、車騎將軍の王凌が司空となる。
陪陵の夷族がそむく。車騎將軍の鄧芝が討平した。

胡三省はいう。涪陵県は、漢代は巴郡に属する。蜀漢が涪陵郡に分割した。宋伯はいう。後漢の涪陵県にきて、劉備が長江の水源をおさえた。ここに涪陵郡をたてた。漢平県と漢葭県を領する。その他、中華書局で1頁分の注釈。はぶく。

大将軍の曹爽はおごって何晏と遊ぶ。弟の曹羲が諫めた。曹爽の兄弟は、しばしば連れだって出游する。司農する沛國の桓范はいう。「萬機を総べ、禁兵を典する。並わせて出るは宜しからず。もし城門を閉らば、誰かまた内に入らん」と。曹爽は「誰が城門を閉めるかよ」と取り合わない。

初,清河、平原爭界,八年不能決。冀州刺史孫禮請天府所藏烈祖封平原時圖以決 之。爽信清河之訴,雲圖不可用,禮上疏自辨,辭頗剛切。爽大怒,劾禮怨望,結刑五 歲。久之,復為并州刺史,往見太傅懿,有忿色而無言。懿曰:「卿得并州少邪?恚理 分界失分乎?」禮曰:「何明公言之乖也!禮雖不德,豈以官位往事為意邪!本謂明公 齊蹤伊、呂,匡輔魏室,上報明帝之托,下建萬世之勳。今社稷將危,天下兇兇,此禮 之所以不悅也!」因涕泣橫流。懿曰:「且止,忍不可忍!」

清河郡と平原郡の境界が8年前から決まらない。冀州刺史の孫禮は、天府が所蔵する曹叡を平原王に封じたときの地図を見たい。曹爽は清河の訴えを信じるので、「平原の地図なんて見る必要なし」という。しつこく孫礼が「地図を見せて」とせがむ。曹爽は孫礼を5年の結刑とした。

胡三省はいう。結刑とは、ただ結ばれて5年を過ごす刑罰である。輸作させられない。

のちに孫礼は、并州刺史となる。司馬懿に会いにゆく。司馬懿はいう。「并州という任地の収入が少ないから不満なのか。それとも天下の境界線が道理を失うのが不満なのか」と。

胡三省はいう。曹魏の并州は、太原、上党、西河、雁門、新興を統べる。冀州は、諸州のなかでもっとも大きい。并州は遠くて荒れている。ゆえに司馬懿は「冀州を少なしとするか」と質問した。司馬懿は権数がおおいから、孫礼の真意をあぶろうとした。

孫礼はいう。「私が不満なのは、自分の官位の優劣でない。司馬懿は、曹叡から魏室を助けよと託されたのに、曹爽の横暴を見のがしている。これが不満なのだ」と。司馬懿は「やめろ。忍べないことでも忍べ」という。

胡三省はいう。ここに至り、孫礼は司馬懿の術数のなかにハマった。


冬、司馬懿の仮病、李勝と何晏の油断

冬,河南尹李勝出為荊州刺史,過辭太傅懿。懿令兩婢侍,持衣,衣落;指口言渴, 婢進粥,懿不持杯而飲,粥皆流出沾胸。勝曰:「眾情謂明公舊風發動,何意尊體乃 爾!」懿使聲氣才屬,說:「年老枕疾,死在旦夕。君當屈并州,并州近胡,好為之備! 恐不復相見,以子師、昭兄弟為托。」勝曰:「當還忝本州,非并州。」懿乃錯亂其辭 曰:「君方到并州?」勝復曰:「當忝荊州。」懿曰:「年老意荒,不解君言。今還為 本州,盛德壯烈,好建功勳!」勝退,告爽曰:「司馬公屍居餘氣,形神已離,不足慮 矣。」他日,又向爽等垂泣曰:「太傅病不可復濟,令人愴然!」故爽等不復設備。

冬、河南尹の李勝が荊州刺史として赴任する。太傅の司馬懿にあいさつする。司馬懿は「并州にいくのか」と聞き間違えて、老病のふりをする。曹爽は李勝から報告を受けて「司馬懿が病気で哀しい」と垂泣して、司馬懿への防備を解いた。

ぼくは思う。有名な話なので、詳細をはぶく。
胡三省はいう。声を出さずに涙を流すことを「垂泣」という。


何晏聞平原管輅明於術數,請與相見。 十二月,丙戌,輅往詣晏,晏與之論《易》。
時鄧颺在坐,謂輅曰:「君自謂善《易》,而語初不及《易》中辭義,何也?」輅曰: 「夫善《易》者不言《易》也。」晏含笑贊之曰:「可謂要言不煩也!」因謂輅曰: 「試為作一卦,知位當至三公不?」又問:「連夢見青蠅數十,來集鼻上,驅之不去, 何也?」輅曰:「昔元、凱輔舜,周公佐周,皆以和惠謙恭,享有多福,此非卜筮所能 明也。今君侯位尊勢重,而懷德者鮮,畏威者眾,殆非小心求福之道也。又,鼻者天中 之山,『高而不危,所以長守貴。』今青蠅臭惡而集之,位峻者顛,輕豪者亡,不可不 深思也!願君侯裒多益寡,非禮不履,然後三公可至,青蠅可驅也。」颺曰:「此老生 之常譚。」輅曰:「夫老生者見不生,常譚者見不譚。」輅還邑捨,具以語其舅。舅責 輅言太切至,輅曰:「與死人語,何所畏邪!」舅大怒,以輅為狂。

何晏は、平原の管輅が術數に明るいと聞き、会いたいと請うた。12月丙戌、管輅は何晏に会いにきた。何晏と『易』を論じた。
ときに鄧颺が同じ席にいた。鄧颺が管輅をからかった。何晏は管輅に、卦と夢から占わせた。「何晏は三公に至るほど栄えるが、自滅して死ぬ」と答えた。管輅が帰宅すると、舅が管輅のきわどい発言を責めた。管輅はいう。「死人(何晏)と語ったのだ。なにを畏れるか」と。舅は怒って、「管輅が狂った」と見なした。

ぼくは思う。青ハエが鼻に集まるとは、、などの言葉遊びはぶく。


吳交趾、九真夷賊攻沒城邑,交部騷動。吳主以衡陽督軍都尉陸胤為交州刺史、安 南校尉。胤入境,喻以恩信,降者五萬餘家,州境復清。
太傅懿陰與其子中護軍師、散騎常侍昭謀誅曹爽。

孫呉の交趾と九真で、夷族が城邑を攻め落とした。交州が騒動した。衡陽督軍都尉の陸胤を交州刺史とした。陸胤が、荊州から交州に入ると、5万余家が降った。
太傅の司馬懿はひそかに、中護軍の司馬師と、散騎常侍の司馬昭とともに、曹爽を謀誅する計画をねった。

胡三省はいう。司馬懿は病気と良いながら、2子を要職におく。

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嘉平元年(己巳,公元249年)

春正月、正始の変、司馬懿が曹爽を夷三族

春,正月,甲午,帝謁高平陵,大將軍爽與弟中領軍羲、武衛將軍訓、散騎常侍彥 皆從。太傅懿以皇太后令,閉諸城門,勒兵據武庫,授兵出屯洛水浮橋,召司徒高柔假 節行大將軍事,據爽營,太僕王觀行中領軍事,據羲營。因奏爽罪惡於帝曰 (中略)。爽得懿奏事,不通;迫窘不知所為,留車駕宿伊水南,伐木 為鹿角,發屯田兵數千人以為衛。

春正月甲午、曹芳は高平陵に詣でる。

胡三省はいう。高平陵とは、曹叡の陵墓である。洛陽から90里である。

大將軍の曹爽、弟の中領軍の曹羲、武衛將軍の曹訓、散騎常侍の曹彦が、みな曹芳にしたがう。太傅の司馬懿は、皇太后令を以て、洛陽の城門を閉じる。武庫をおさえる。兵をさずけ洛水の浮橋に出屯する。司馬懿は、司徒の高柔を召して、假節行大將軍事として、曹爽の軍営におさえる。太僕の王觀を行中領軍事として、曹羲の軍営をおさえる。曹爽の罪を、曹芳に上奏した。

胡三省による状況のまとめ。司馬懿は太后を手に入れて、曹爽と対決した。しかし皇帝は曹爽のもとにいる。だから、なんども上奏せねばならない。
ぼくは思う。司馬懿は、曹爽のかわりに高柔を大将軍として、曹羲のかわりに王観を中領軍とする。どちらも皇帝の許可がないから、代行だけど、ともあれ洛陽城内で兵を抑えることができる。

曹爽は司馬懿の上奏を見ても、曹芳まで通さない。曹爽はどうして良いかわからず、車駕を伊水の南にとめる。木を伐って、鹿角で防御した。屯田の兵を数千人も発して、曹爽を防衛させた。

胡三省はいう。曹爽が創業したときから、州郡には田官がいる。ゆえに洛陽の周辺にも、屯田している兵がいる。ぼくは補う。曹爽は屯田の兵を自分のもとにつけて、洛陽城内の司馬懿がもつ軍と対決する。


懿使侍中高陽、許允及尚書陳泰說爽宜早自歸罪,又使爽所信殿中校尉尹大目謂爽, 唯免官而已,以洛水為誓。泰,群之子也。
初,爽以桓范鄉里老宿,於九卿中特禮之,然不甚親也。及懿起兵,以太后令召范, 欲使行中領軍。范欲應命,其子止之曰:「車駕在外,不如南出。」范乃出。至平昌城 門,城門已閉。門候司蕃,故范舉吏也,范舉手中版以示之,矯曰:「有詔召我,卿促 開門!」蕃欲求見詔書,范呵之曰:「卿非我故吏邪?何以敢爾!」乃開之。范出城, 顧謂蕃曰:「太傅圖逆,卿從我去!」蕃徒行不能及,遂避側。懿謂蔣濟曰:「智囊往 矣!」濟曰:「范則智矣,然駑馬戀棧豆,爽必不能用也。」
范至,勸爽兄弟以天子詣許昌,發四方兵以自輔。爽疑未決,范謂羲曰:「此事昭 然,卿用讀書何為邪!於今日卿等門戶,求貧賤復可得乎!且匹夫質一人,尚欲望活; 卿與天子相隨,令於天下,誰敢不應也!」俱不言。范又謂羲曰:「卿別營近在闕南, 洛陽典農治在城外,呼召如意。今詣許昌,不過中宿,許昌別庫,足相被假;所憂當在 谷食,而大司農印章在我身。」羲兄弟默然不從,自甲夜至五鼓,爽乃投刀於地曰: 「我亦不失作富家翁!」范哭曰:「曹子丹佳人,生汝兄弟,犬屯犢耳!何圖今日坐汝 等族滅也!」

司馬懿は、侍中する高陽の許允と、尚書の陳泰を曹爽のところに行かせ、「罪に帰せよ」と説得した。曹爽が信任する殿中校尉の尹大目が、曹爽に「免官されるだけだ。司馬懿に殺されまい。洛水に誓約しよう」という。陳泰とは陳羣の子である。

胡三省はいう。魏晋の制では、殿中将軍、殿中中郎、殿中校尉、殿中司馬がある。尹大目の発言は、まだ司馬氏を疑っていない。あとから文欽のセリフを聞いて、司馬氏がマジだと思い知る。

はじめ曹爽は、桓範が郷里の老宿であるから、九卿の特礼で迎えた。桓範は、洛陽の平昌城門の門候する司蕃に「お前は私の故吏だろ」と言って、洛陽の城外に突破した。司馬懿は蒋済に「智嚢が曹爽のもとに去った」という。蒋済は「曹爽には桓範を活用できないから問題なし」という。
桓範は、曹爽の兄弟に「曹芳を許昌にうつし、四方の兵をつかえ。洛陽の典農中郎将をつかえ」という。曹爽は桓範を用いずに諦めた。桓範は「曹真は佳人だったが、豚や牛のような子を産んでしまった。曹爽とともに族滅されるとは」と哭した。

ぼくは思う。いかにも桓範が賢く、曹爽が腰抜けだが。もしこれで、洛陽と許昌が戦争していたら、八王の乱の先取だ。皇帝をまきこみ、重臣たちが国家の軍隊を、それぞれ振り回したら、国土が荒廃する。曹爽は「魏の忠臣」なんだと思う。呉蜀にチャンスを与えなかった。こういう負けた側の曹爽のステイトメントは、史書には残らない。


爽乃通懿奏事,白帝下詔免己官,奉帝還宮。爽兄弟歸家,懿發洛陽吏卒圍守之; 四角作高樓,令人在樓上察視爽兄弟舉動。爽挾彈到後園中,樓上便唱言:「故大將軍 東南行!」爽愁悶不知為計。
戊戌,有司奏:「黃門張當私以所擇才人與爽,疑有奸。」收當付廷尉考實,辭雲: 「爽與尚書何晏、鄧颺、丁謐、司隸校尉畢軌、荊州刺史李勝等陰謀反逆,須三月中 發。」於是收爽、羲、訓、晏、颺、謐、軌、勝並桓范皆下獄,劾以大逆不道,與張當 俱夷三族。

曹爽は司馬懿の上奏にしたがう。曹芳に免官を申請した。曹芳を洛陽宮にもどした。曹爽は洛陽の自宅に帰る。司馬懿は、洛陽の吏卒に、曹爽の自宅を固めて監視させる。
正月戊戌、有司は奏した。「黃門の張當は、曹爽が私に採用した人物だが、有奸の疑いがある」と。張当を廷尉について取り調べた。張当が自白した。「曹爽と、尚書の何晏、鄧颺、丁謐、司隸校尉の畢軌、荊州刺史の李勝らは、曹芳に謀反する計画があった。3月に発動する予定だった」と。司馬懿は、名のあがった曹爽の党派と、桓範を下獄した。張当とともに夷三族した。

『通鑑考異』はいう。『魏氏春秋』によると、司馬懿は何晏に、曹爽らの監獄を典治させた。何晏は党与が追いつめられたので、曹爽らを助けたい。司馬懿は「8族を罰する」という。何晏が7族までしか数えられないと、司馬懿が「何晏の何氏も罰するのだ」という。司馬光が考えるに、何晏も曹爽の党派なのに、何晏だけが監獄のそとにいるのはウソである。


正始の変、敗者の側のエピソード集

初,爽之出也,司馬魯芝留在府,聞有變,將營騎斫津門出赴爽。及爽解印綬,將 出,主簿楊綜止之曰:「公挾主握權,捨此以至東市乎?」有司奏收芝、綜治罪,太傅 懿曰:「彼各為其主也。宥之。」頃之,以芝為御史中丞,綜為尚書郎。
魯芝將出,呼參軍辛敞欲與俱去。敞,毘之子也,其姊憲英為太常羊耽妻,敞與之 謀曰:「天子在外,太傅閉城門,人雲將不利國家,於事可得爾乎?」憲英曰:「以吾 度之,太傅此舉,不過以誅曹爽耳。」敞曰:「然則事就乎?」憲英曰:「得無殆就! 爽之才非太傅之偶也。」敞曰:「然則敞可以無出乎?」憲英曰:「安可以不出!職守, 人之大義也。凡人在難,猶或恤之;為人執鞭而棄其事,不祥莫大焉。且為人任,為人 死,親暱之職也,從眾而已。」敞遂出。事定之後,敞歎曰:「吾不謀於姊,幾不獲於 義。」
先是,爽辟王沈及太山羊祜,沈勸祜應命。祜曰:「委質事人,復何容易!」沈遂 行。及爽敗,沈以故吏免,乃謂祜曰:「吾不忘卿前語。」祜曰:「此非始慮所及也!」

曹爽が洛陽から出るとき、司馬の魯芝が将軍府にとどまる。変事があると聞き、大将軍の兵をひきいて、曹爽のもとに行きたかった。また主簿の楊綜は、曹爽が印綬を解くのを止めた。司馬懿は「彼らは上官のために働いたのだ」と言って許した。魯芝は御史中丞、楊綜は尚書郎となる。
魯芝が曹爽を助けにゆくとき、參軍の辛敞をよび、ともに洛陽から脱出しようと誘った。辛敞は辛毗の子である。辛敞の姉の辛憲英は、太常の羊耽の妻である。辛敞は洛陽の外に出ようとしたが、辛憲英に止められた。おかげで辛敞は、曹爽に連坐しなかった。
これより先、曹爽は、王沈泰山の羊祜を辟した。羊祜は慎重になり、曹爽に仕えず。王沈は曹爽に仕えた。曹爽が敗れ、王沈は曹爽の故吏だから免じられた。王沈は羊祜に「お前の言うとおりだった」という。羊祜は「この結末までは予想していなかった」と言った。

胡三省はいう。羊祜は、知幾の名を得ることを嫌った。
ぼくは思う。このあたりは、正始の変にまつわる、おもに負けた側、ひやりとした側のエピソードの羅列。司馬懿がいかにして勝ったか、という話はあまり書いてない。どうしてだろう。成功から教訓は引き出せないが、失敗からなら教訓を引き出せる。そんな感じかな。永続した王朝が1つもない中国史だから、ただ記すだけで「失敗=教訓の事例集」が完成する。よかったね!


爽從弟文叔妻夏侯令女,早寡而無子,其父文寧欲嫁之;令女刀截兩耳以自誓,居 常依爽。爽誅,其家上書絕昏,強迎以歸,復將嫁之;令女竊入寢室,引刀自斷其鼻, 其家驚惋,謂之曰:「人生世間,如輕塵棲弱草耳,何至自苦乃爾!且夫家夷滅已盡, 守此欲誰為哉!」令女曰:「吾聞仁者不以盛衰改節,義者不以存亡易心。曹氏前盛之 時,尚欲保終,況今衰亡,何忍棄之!此禽獸不行,吾豈為乎!」司馬懿聞而賢之,聽 使乞子字養為曹氏後。
何晏等方用事,自以為一時才傑,人莫能及。晏嘗為名士品目曰:「唯深也故能通 天下之志,夏侯泰初是也。唯幾也故能成天下之務,司馬子元是也。唯神也不疾而速, 不行而至,吾聞其語,未同兇其人。」蓋欲以神況諸己也。

曹爽の従弟は、曹文叔である。曹文叔の妻は、夏侯令女である。

胡三省はいう。名を令女という。

夏侯令女は、早くに夫の曹文叔を亡くしたが、鼻と耳を切り落として、再婚を拒んだ。曹爽のもとにいた。司馬懿は曹爽を族滅したが、夏侯令女には曹氏の子孫を養わせた。
何晏はかつて名士を品定めした。「唯深也故能通天下之志とは、夏侯泰初(夏侯玄)である。唯幾也故能成天下之務とは、司馬子元(司馬師)である。唯神也不疾而速、不行而至とは、誰のことだか分からない」という。けだし最後の人物評は、何晏が自分自身のことをいう。

胡三省はいう。何晏は『易大伝』から言葉をひいて人物評価している。


選部郎劉陶,曄之子也,少有口辯,鄧颺之徒稱之以為伊、呂。陶嘗謂傅玄是「仲 尼不聖。何以知之?智者於群愚,如弄一丸於掌中;而不能得天下,何以為聖!」玄不 復難,但語之曰:「天下之變無常也,今見卿窮。」及曹爽敗,陶退居裡捨,乃謝其言 之過。
管輅之舅謂輅曰:「爾前何以知何、鄧之敗?」輅曰:「鄧之行步,筋不束骨,脈 不制肉,起立傾倚,若無手足,此為鬼躁。何之視候則魂不守宅,血不華色,精爽煙浮, 容若槁木,此為鬼幽。二者皆非遐福之象也。」
何晏性自喜,粉白不去手,行步顧影。尤好老、莊之書,與夏侯玄、荀粲及山陽王 弼之徒,競為清談,祖尚虛無,謂《六經》為聖人糟粕。由是天下士大夫爭慕效之,遂 成風流,不可複製焉。粲,彧之子也。

選部郎の劉陶は、劉曄の子である。口数が少ない。鄧颺の徒党は、劉陶を伊尹や呂望にたとえる。劉陶は傅玄にいう。「孔子は群愚に埋もれ、天下をとらず。孔子は聖でない」と。傅玄は「天下の形勢は変化する。いまに分かるよ」という。曹爽や鄧颺が滅びると、劉陶は思い知って、傅玄に謝った。劉陶は里舎に退居した。

ぼくは思う。劉曄が司馬光によって悪く書かれ、その子の劉陶まで、たいして重要でないエピソードで恥をかかされる。ひどいなあ!

管輅は舅に、何晏と鄧颺が死ぬと予言した理由を説明した。
何晏はおしろいを塗り、自分のかげを見た。老荘を好んだ。夏侯玄、荀粲、山陽の王弼らは、競って清談した。『六経』は聖人の糟粕(かす)という。天下の士大夫は、何晏の人脈につながりたい。風潮が制御できない。荀粲とは荀彧の子である。

春、夏侯覇が亡命し、朱然が死ぬ

丙午,大赦。 丁未,以太傅懿為丞相,加九錫,懿固辭不受。 初,右將軍夏侯霸為曹爽所厚,以其父淵死於蜀,常切齒有報仇之志,為討蜀護軍, 屯於隴西,統屬征西。征西將軍夏侯玄,霸之從子,爽之外弟也。爽既誅,司馬懿召玄 詣京師,以雍州刺史郭淮代之。 霸素與淮不葉,以為禍必相及,大懼,遂奔漢。漢主謂曰:「卿父自遇害於行間耳, 非我先人之手刃也。」遇之甚厚。姜維問於霸曰:「司馬懿既得彼政,當復有征伐之志 不?」霸曰:「彼方營立家門,未遑外事。有鐘士季者,其人雖少,若管朝政,吳、蜀 之憂也。」士季者,鐘繇之子尚書郎會也。

正月丙午、大赦した。正月丁未、太傅の司馬懿を丞相とし、九錫を加える。司馬懿が固辞した。
はじめ右将軍の夏侯覇は、曹爽に厚遇された。父の夏侯淵を蜀漢に殺されたので、討蜀護軍として隴西にいる。征西将軍の府に属した。征西将軍の夏侯玄は、夏侯覇の從子であり、曹爽の外弟である。司馬懿が夏侯玄を京師に召して、雍州刺史の郭淮を征西将軍とした。
夏侯覇は郭淮と仲が良くないので、蜀漢ににげた。夏侯覇は姜維に「鍾会に気をつけろ」と教えた。鍾会は鍾繇の子で、尚書郎である。

三月,吳左大司馬硃然卒。然長不盈七尺,氣候分明,內行修潔,終日欽欽,常若 在戰場,臨急膽定,過絕於人。雖世無事,每朝夕嚴鼓,兵在營者,鹹行裝就隊。以此 玩敵,使不知所備,故出輒有功。然寢疾增篤,吳主晝為減膳,夜為不寐,中使醫藥口 食之物,相望於道。然每遣使表疾病消息,吳主輒召見,口自問訊,入賜酒食,出賜布 帛。及卒,吳主為之哀慟。

3月、左大司馬の朱然が卒した。孫権は病気を心配し、哀慟した。

ぼくは思う。ただの朱然伝なのではぶく。君臣の美しい関係性として、司馬光が紹介したのだろう。とくに時系列に乗らないから、死亡記事といっしょに、朱然の人となりを記してある。


夏、都郷侯の蒋済が、曹爽を気に病んで死ぬ

夏,四月,乙丑,改元。
曹爽之在伊南也,昌陵景侯蔣濟與之書,言太傅之旨,不過免官而已。爽誅,濟進 封都鄉侯,上疏固辭,不許。濟病其言之失,遂發病,丙子,卒。

夏4月乙丑、熹平と改元した。
曹爽が伊南にいるとき、昌陵景侯の蔣濟が、曹爽に文書を与えた。「司馬懿は、曹爽を免官にするだけだよ」と。曹爽が誅され、蒋済は都郷侯に進むが、固辞した。蒋済は発病し、4月丙子に卒した。

胡三省はいう。曹爽にウソを言い、司馬懿に手を貸したことを気に病んだのだ。


秋、陳泰と鄧艾が、姜維を追い返す

秋,漢衛將軍姜維寇雍州,依□山築二城,使牙門將句安、李歆等守之,聚羌胡質 任,侵逼諸郡。征西將軍郭淮與雍州刺史陳泰御之。泰曰:「□城雖固,去蜀險遠,當 須運糧;羌夷患維勞役,必未肯附。今圍而取之,可不血刃而拔其城;雖其有救,山道 阻險,非行兵之地也。」淮乃使泰率討蜀護軍徐質、南安太守鄧艾進兵圍□城,斷其運 道及城外流水。安等挑戰,不許,將士困窘,分糧聚雪以引日月。維引兵救之,出自牛 頭山,與泰相對。泰曰:「兵法貴在不戰而屈人。今絕牛頭,維無反道,則我之禽也。」 敕諸軍各堅壘勿與戰,遣使白淮,使淮趣牛頭截其還路。淮從之,進軍洮水。維懼,遁 走,安等孤絕,遂降。淮因西擊諸羌。

秋、衛將軍の姜維が雍州に寇した。麹山に2城を築く。

胡三省はいう。麹山とは、けだし羌中にある。曹魏の雍州の西南の境界である。郭淮伝によると、為翅の上にある。為翅とは、要地のことであり、曹魏が屯兵して守る。

姜維は、牙門將の句安、李歆らに、2城を守らせる。羌胡から任子をとり、曹魏の諸郡を侵逼する。征西將軍の郭淮は、雍州刺史の陳泰とともに、姜維をふせぐ。陳泰はいう。「麹城は蜀漢から遠くて、物資を運びにくい。麹城を包囲すれば、勝てる」と。陳泰は、討蜀護軍の徐質、南安太守の鄧艾をひきい、麹城にすすみ、運道を断ち、城外の流水を止める。姜維が救援にきて、牛頭山から出てくる。

胡三省はいう。牛頭山は、けだし洮水の南にある。いい形なので名山とされる。魏收『地形志』によると、後魏の真君4年、仇池群をおき、階陵県を郡治とした。これが牛頭山にある。

陳泰はいう。「牛頭山の道を断てば、姜維と戦うことなく、姜維を捕虜にできる」と。陳泰は姜維と戦わず、郭淮に使者して、姜維の退路を断たせた。姜維は逃げさり、麹城は降伏した。郭淮は西して諸羌をうつ。

ぼくは思う。ひらたく言うと、「陳泰が姜維に勝った」と。姜維が張り切って、前線の要地に出城をつくった。しかしその出城は、出城ゆえに孤立した。姜維が出城を救おうとしても、姜維が出て行かねばならず、退路を断たれると、ひとたまりもない。


鄧艾曰:「賊去未遠,或能復還,宜分諸軍以備 不虞。」於是留艾屯白水北。三日,維遣其將廖化自白水南向艾結營。艾謂諸將曰: 「維今卒還,吾軍人少,法當來渡;而不作橋,此維使化持吾令不得還,維必自東襲取 洮城。」洮城在水北,去艾屯六十裡,艾即夜潛軍徑到。維果來渡,而艾先至據城,得 以不敗,漢軍遂還。

鄧艾は「また姜維が戻るかも」と考え、白水の北に屯する。3日後、姜維は、部将の廖化をやる。廖化は、白水から南して鄧艾の陣地にむかう。鄧艾は「姜維は私を廖化にひきつけ、東して洮城を襲うつもりだ」という。洮城は、洮水の北にあり、鄧艾の陣地から60里の場所。鄧艾は夜に洮城に先回りして、姜維を追い返した。

秋、令孤愚と王淩が、曹芳と曹彪を代える

兗州刺史令狐愚,司空王凌之甥也,屯於平阿,甥舅並典重兵,專 淮南之任。凌與愚陰謀,以帝闇弱,制於強臣,聞楚王彪有智勇,欲共立之,迎都許昌。

兗州刺史の令狐愚は、司空の王凌の甥である。平阿に屯する。

胡三省はいう。『水経注』はいう。淮水は、当塗県の北をすぎる。また北して沙水が淮水にそそぐ。淮水の西には、平阿県の古城がある。『晋書』地理志では、平阿県は淮南郡に属する。塗山がある。

王淩と令孤愚は、舅と甥で兵権をにぎり、淮南の任を専らにする。曹芳が闇弱で、強臣に制される。楚王の曹彪は、智勇があるという。王淩と令孤愚は、曹彪を天子に立てて、許昌に迎えたい。

ぼくは思う。従父と従子を、近くに置いてはいけない。ましてや、淮南の方面の軍事権を2人で掌握させてはいけない。後漢の三互の法は厳しすぎたかも知れないが、曹魏はちょっと配置に問題があったなあ。令孤愚たちが「忠臣」なのか「逆臣」なのか、ほんとに判定が難しい問題だなあ。結果的に曹芳は、曹魏の滅亡を早めたのだし。


九月,愚遣其將張式至白馬,與楚王相聞。凌又遣捨人勞精詣洛陽,語其子廣。廣曰: 「凡舉大事,應本人情。曹爽以驕奢失民,何平叔虛華不治,丁、畢、桓、鄧雖並有宿 望,皆專競於世。加變易朝典,政令數改,所存雖高而事不下接,民習於舊,眾莫之從, 故雖勢傾四海,聲震天下,同日斬戮,名士減半,而百姓安之。莫之或哀,失民故也。 今司馬懿情雖難量,事未有逆,而擢用賢能,廣樹勝己,修先朝之政令,副眾心之所求。 爽之所以為惡者,彼莫不必改,夙夜菲懈,以恤民為先,父子兄弟,並握兵要,未易亡 也。」凌不從。

9月、令孤愚は部将の張式を白馬にやる。楚王と面会した。

胡三省はいう。曹彪は、武帝の子である。黄初3年、白馬に移されて県王となる。白馬県は、東郡に属する。ぼくは補う。白馬県で、ロコツに曹彪を口説きにいったわけか。白馬は、あの官渡の前哨戦で、関羽が顔良か文醜を斬ったところ。

王淩は、舎人の勞精を洛陽にやり、子の王広に語った。王広は「たしかに曹爽や何晏は悪政をしたが、司馬懿は悪政でない。曹芳を天子から降ろすことはない」という。王淩は、王広に従わず。

冬、令孤愚が死に、王淩が太尉となる

冬,十一月,令狐愚復遣張式詣楚王,未還,會愚病卒。
十二月,辛卿,即拜王凌為太尉。庚子,以司隸校尉孫禮為司空。

冬11月、令孤愚が、ふたたび張式を曹彪のところに送る。張式が帰ってくる前に、令孤愚が病死した。

ぼくは思う。史上最強の無責任な死だと思う!

12月辛卯、王淩を太尉とした。12月庚子、司隷校尉を孫禮を司空とした。

胡三省はいう。王淩は寿春にいながら、太尉を受けた。ぼくは思う。中央官をつけて、昇進させながら、地方で蓄えた軍権を剥奪する。よくある話。


光祿大夫徐邈卒。邈以清節著名,盧欽嘗著書稱邈曰:「徐公志高行潔,才博氣猛, 其施之也,高而不狷,潔而不介,博而守約,猛而能寬。聖人以清為難,而徐公之所易 也。」或問欽:「徐公當武帝之時,人以為通;自為涼州刺史,及還京師,人以為介, 何也?」欽答曰:「往者毛孝先、崔季珪用事,貴清素之士,於時皆變易車服以求名高, 而徐公不改其常,故人以為通。比來天下奢靡,轉相仿效,而徐公雅尚自若,不與俗同, 故前日之通,乃今日之介也。是世人之無常而徐公之有常也。」欽,毓之子也。

光祿大夫の徐邈が卒した。盧毓の子・盧欽は、かつて文書で徐邈をほめた。ある者が盧欽に問う。「徐邈は曹操のとき、人を以て通とした。曹叡の太和初、涼州刺史となった。京師にもどり、人を以て介とした。なぜか」と。盧欽はいう。「かつては毛玠や崔琰のように清素の士がいた。みなが車服を変えて名声を求めるとき、徐邈は車服を変えなかった。曹叡のとき天下が奢侈になっても、徐邈は奢侈にならない。この行動を、曹操の時代は通といい、曹叡の時代は介という。評価の言葉は変わっても、周囲に同じない徐邈が性格は不変である」と。121111

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嘉平二年(庚午,公元250年)

夏、姜維を退けた郭淮が車騎将軍となる

夏,五月,以征西將軍郭淮為車騎將軍。
初,會稽潘夫人有寵於吳主,生少子亮,吳主愛之。全公主既與太子和有隙,欲豫 自結,數稱亮美,以其夫之兄子尚女妻之。吳主以魯王霸結朋黨以害其兄,心亦惡之, 謂侍中孫峻曰:「子弟不睦,臣下分部,將有袁氏之敗,為天下笑。若使一人立者,安 得不亂乎!」遂有廢和立亮之意,然猶沉吟者歷年。峻,靜之曾孫也。

夏5月、征西将軍の郭淮が車騎将軍となる。
はじめ会稽の潘夫人は、孫権に寵愛されて孫亮を産む。全公主は、太子の孫和と不仲なので、孫亮をほめた。全公主の夫の兄子である全尚の娘を、孫亮の妻とした。孫権は、魯王の孫覇が兄を害したので、孫覇を悪んだ。孫権は侍中の孫峻にいう。「子弟や臣下が分裂する。袁紹のように天下の笑い物になる」と。孫権は、太子を孫和から孫亮にかえたい。何年も悩んだ。孫峻は孫静の曽孫である。

胡三省はいう。全公主と孫和の不仲は、正始6年に始まる。
胡三省はいう。のちに孫綝は全尚を殺して、孫亮を廃する。この原因を作ったのが全公主である。胡三省はいう。孫静とは、孫堅の末弟である。建安元年にある。


秋、孫和を廃太子して、魯王の孫覇を殺す

秋,吳主遂幽太子和。驃騎將軍硃據諫曰:「太子,國之本根。加以雅性仁孝,天 下歸心。昔晉獻用驪姬而申生不存,漢武信江充而戾太子冤死,臣竊懼太子不堪其憂, 雖立思子之宮,無所復及矣!」吳主不聽。據與尚書僕射屈晃率諸將吏泥頭自縛,連日 詣闕請和;吳主登白爵觀,見,甚惡之,敕據、晃等「無事匆匆」。
無難督陳正、五營 督陳象各上書切諫,據、晃亦固諫不已;吳主大怒,族誅正、象。
牽據、晃入殿,據、 晃猶口諫,叩頭流血,辭氣不撓。吳主杖之各一百,左遷據為新都郡丞,晃斥歸田裡, 群司坐諫誅放者以十數。

秋、孫権は太子の孫和を幽閉した。驃騎将軍の朱拠が諫めたが、孫権は聞かず。朱拠は、尚書僕射の屈晃とともに、将吏をひきい、泥頭自縛して、孫和を許せと請うた。孫権は白爵観にのぼり、朱拠の懇願を見て、気分を害した。 無難督の陳正、五營督の陳象は「孫和を許せ」と諫めたので、族誅された。
朱拠と屈晃が黙らないので、孫権は杖で1百ずつ叩いた。朱拠を新都郡丞に左遷し、屈晃を田里に帰らせた。廃太子を諫めて誅された者は、十数を数えた。

ぼくは思う。身分の高い者が罪をおかすと、左遷もしくは免官。身分の低い者が罪をおかすと、さっくり殺されてしまう。この不平等こそが秩序である。曹爽も、自分が尊いから、免官ですむと期待したんじゃないかな。族誅のリスクがないのだから、朱拠のような身分の高い者は、誰よりも先んじて、諫める役を引き受けなければならない。


遂廢太子和為庶人,徙故鄣,賜魯王霸死。殺楊竺,流其屍於 江,又誅全寄、吳安、孫奇,皆以其黨霸譖和故也。初,楊竺少獲聲名,而陸遜謂之終 敗,勸竺兄穆令與之別族。及竺敗,穆以數諫戒竺得免死。硃據未至官,中書令孫弘以 詔書追賜死。

孫和を庶人として、故鄣に徙す。

胡三省はいう。故鄣県は丹陽に属する。秦代には、鄣郡の治所であった。ぼくは補う。ゆえに「故」なのかな。

魯王の孫覇に死を賜る。楊竺を殺して、死体を長江に流す。全寄、吳安、孫奇を誅した。孫覇の党派を形成したからである。

胡三省はいう。孫和が徒党を組んで、孫和をそしったのは、正始6年にある。

はじめ楊竺は名声があったが、陸遜は「いい最期を迎えない」という。陸遜は、楊竺の兄の楊穆を、楊竺と別族とした。楊竺が族誅されても、楊穆は死なずにすんだ。朱拠が官につく前に、中書令の孫弘が詔書を持ってきて、朱拠に死を賜った。

冬、文欽が偽叛し、王昶が孫呉の討伐

冬,十月,廬江太守譙郡文欽偽叛,以誘吳偏將軍硃異,欲使異自將兵迎己。異知 其詐,表吳主,以為欽不可迎。吳主曰:「方今北土未一,欽欲歸命,宜且遼之。若嫌 其有譎者,但當設計網以羅之,盛重兵以防之耳。」乃遣偏將軍呂據督二萬人,與異並 力至北界,欽果不降。異,桓之子;據,范之子也。
十一月,大利景侯孫禮卒。
吳主立子亮為太子。 吳主遣軍十萬作堂邑塗塘以淹北道。

冬10月、廬江太守する譙郡の文欽が、いつわって曹魏にそむき、孫呉の偏将軍の朱異をさそう。朱異はウソを見抜いた。孫権は「ホントかも知れない」といい、偏将軍の呂拠に2万を督させ、朱異と呂拠で文欽を迎える。やはり文欽は降らない。朱異は朱桓の子である。呂拠は呂範の子である。
11月、大利景侯の孫禮が卒した。孫権は孫亮を太子にした。孫権は10万を動員して、堂邑に塗塘をつくり、北道をふさぐ。

胡三省はいう。堂邑県とは、前漢で臨淮郡に属した。後漢では広陵郡に属した。魏呉の境界にあり、棄てられた。杜佑はいう。揚州の六合県である。春秋の楚の棠邑があった。漢代に堂邑となった。北道をふさぐとは、曹魏の兵が建業を窺えないようにすること。孫権は老いて、良将は死んだ。自保することだけ考えた。


十二月,甲辰,東海定王霖卒。
征南將軍王昶上言:「孫權流放良臣,適庶分爭,可乘釁擊吳。」朝廷從之,遣新 城太守南陽州泰襲巫、秭歸,荊州刺史王基向夷陵,昶向江陵。昶引竹絲亙為橋,渡水 擊之,吳大將施績,夜遁入江陵。昶欲引致平地與戰,乃先遣五軍案大道發還,使吳望 見而喜;又以所獲鎧馬甲首環城以怒之,設伏兵以待之。績果來追,昶與戰,大破之, 斬其將鐘離茂、許旻。
漢姜維復寇西平,不克。

12月甲辰、東海定王の曹霖が卒した。
征南將軍の王昶が上言した。「孫権は、朱拠のような良臣を手放した。後嗣のことで争った。孫呉を撃つチャンスだ」と。朝廷は従った。新城太守する南陽の州泰が巫県、秭歸を襲う。荊州刺史の王基は夷陵にむかう。征南将軍の王昶は江陵に向かう。

胡三省はいう。曹魏の荊州刺史と、征南将軍は、どちらも宛城にいた。このとき、すでに新野に移動したあとである。

王昶は竹をしばって橋をつくり、漳水を渡りたい。

胡三省はいう。孫呉は沮漳の水をひいて、江陵の北を浸し、曹魏の兵を制限したい。ゆえに王昶は、橋をつくって渡った。

孫呉の大將の施績は、夜に江陵ににげこむ。

胡三省はいう。施績とは朱績である。朱然の子である。朱然は、もと施然であったが、朱治の子となった。曹魏の記録は、本来の姓で記す。

王昶は、施績を平地に引きずり出したい。王昶は施績を大破した。孫呉の部将である、鐘離茂と許旻を斬った。
姜維がまた西平に寇したが、克たず。121111

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嘉平三年(辛未,公元251年)

春夏、司馬懿が寿春の王淩を殺す

春,正月,王基、州泰擊吳兵,皆破之,降者數千口。
三月,以尚書令司馬孚為司空。
夏,四月,甲申,以王昶為征南大將軍。 壬辰,大赦。

春正月、王基と州泰は、呉兵をすべて破る。数千口が降る。

ぼくは補う。前年に王昶が言い出した、伐呉の続きです。

三月、尚書令の司馬孚が司空となる。
夏4月甲申、王昶が征南大將軍となる。4月壬辰、大赦した。

太尉王凌聞吳人塞塗水,欲因此發兵,大嚴諸軍,表求討賊:詔報不聽。凌遣將軍 楊弘以廢立事告兗州刺史黃華,華、弘連名以白司馬懿,懿將中軍乘水道討凌,先下赦 赦凌罪,又為書諭凌,已而大軍掩至百尺。凌自知勢窮,乃乘船單出迎懿,遣掾王彧謝 罪,送印綬、節鉞。懿軍到丘頭,凌面縛水次,懿承詔遣主簿解其縛。(中略) 五月,甲寅, 凌行到項,遂飲藥死。
懿進至壽春,張式等皆自首。懿窮治其事,諸相連者悉夷三族。發凌、愚塚,剖棺 暴屍於所近市三日,燒其印綬、朝服,親土埋之。

太尉の王淩は、孫呉が塗水を塞いだときく。

胡三省はいう。前年に孫権が、堂邑・塗塘をふさいだことを指す。

王淩は孫呉を討ちたいが、曹芳が許さず。王淩は、将軍の楊弘をやり、兗州刺史の黄華に「天子を曹芳から曹彪に代えよう」と誘った。楊弘と黄華は、司馬懿にチクった。司馬懿は中軍を水路にのせて、王淩を討つ。さきに王淩の罪を赦すといい、大軍を百尺堰まで近づけた。

胡三省はいう。『水経注』はいう。沙水は東南して陳県をすぎる。また東南に流れて、頴水にそそぐ。ここを交口という。ここに大きな堰がある。百尺堰という。

王淩は司馬懿の中軍に勝てないから、船に乗って司馬懿を迎える。掾の王彧をやり、印綬と節鉞を返却した。司馬懿は丘頭にきた。王淩は面縛した。司馬懿は、主簿に縄を解かせた。中略。5月甲寅、王淩は項県で毒薬を飲んだ。

ぼくは思う。このあたり、司馬懿と王淩のかけひきを省いたが、『三国志』王淩伝にある。6年前、ちくま訳だけを見て、楽しく誤読した。再び貂蝉ありせば。王淩伝

司馬懿は寿春にいたる。張式らは、みな自首した。司馬懿は事態を収束させ、連なる者を夷三族とした。王淩と令孤愚の遺骸をあばいた。印綬、章服を焼いて、土に埋めた。

初,令狐愚為白衣時,常有高志,眾人謂愚必興令狐氏。族父弘農太守邵獨以為: 「愚性倜儻,不修德而願大,必滅我宗。」愚聞之,心甚不平。及邵為虎賁中郎將,而 愚仕進已多所更歷,所在有名稱。愚從容謂邵曰:「先時聞大人謂愚為不繼,今竟雲何 邪?」邵熟視而不答,私謂妻子曰:「公治性度,猶如故也。以吾觀之,終當敗滅,但 不知我久當坐之不邪,將逮汝曹耳。」邵沒後十餘年而愚族滅。
愚在兗州,辟山陽單固為別駕,與治中楊康並為愚腹心。及愚卒,康應司徒辟,至 洛陽,露愚陰事,愚由是敗。懿至壽春,見單固,問曰:「令狐反乎?」曰:「無有。」 楊康白事,事與固連,遂收捕固及家屬皆系廷尉,考實數十,固固雲無有。懿錄楊康, 與固對相詰,固辭窮,乃罵康曰:「老傭!既負使君,又滅我族,顧汝當活邪!」康初 自冀封侯,後以辭頗參錯,亦並斬之。臨刑,俱出獄,固又罵康曰:「老奴!汝死自分 耳。若令死者有知,汝何面目以行地下乎!」
詔以揚州刺史諸葛誕為鎮東將軍,都督揚州諸軍事。

はじめ令孤愚が無官のとき、みな「令孤愚が一族を興隆させる」と期待した。族父の弘農太守する令孤邵だけが、「令孤愚は卓異だから、徳を修めずに大きなことを願う。必ず一族を滅ぼす」と言った。果たして令孤愚は、廃立を企み、一族を滅ぼした。

胡三省はいう。これは晋代の歴史家が、魏代のことを記したものだ。ぼくは補う。令孤愚がいかにダメか、司馬懿がいかに正当なことをやったか、が証明されている。もともと滅亡する予定の令孤愚が、族父の予言どおりにムチャをした。だから司馬懿が、始末してあげたと。

令孤愚が兗州にいるとき、山陽の単固を辟して、別駕とした。侍中の楊康とともに、令孤愚の腹心となった。令孤愚が死ぬと、楊康は司徒の辟に応じて洛陽にゆき、令孤愚の陰謀を暴露した。司馬懿は寿春にくると、 単固に「令孤愚は謀反したか」と聞いた。単固は「いいえ」と言うので、司馬懿は単固が令孤愚と同調していると判断した。単固は廷尉につながれ、拷問を受けた。楊康から情報が漏れたことを知り、単固は楊康を罵った。「老奴め。もし死者に知覚があるなら、呪ってやる」と。単固の自白により、楊康ものちに連坐した。
揚州刺史の諸葛誕を、鎮東将軍として、都督揚州諸軍事とした。

胡三省はいう。王淩が死に、諸葛誕を用いる。諸葛誕も、最期は曹魏に殉じる。司馬懿の明達でも、諸葛誕が曹魏に殉じ、司馬氏に敵対することを見抜けなかったか。大敵は境にあり、帥は其の才を難しとするなり。


吳主立潘夫人為皇後,大赦,改元太元。 六月,賜楚王彪死。盡錄諸王公置鄴,使有司察之,不得與人交關。

孫権は、潘夫人を皇后とした。大赦して、太元と改元した。
6月、楚王の曹彪に死を賜った。諸王公を鄴県に集めて、有司に監察させた。諸王公は、人と交流できない。

胡三省はいう。楚王の曹彪のような異変を起こさないためである。


秋、司馬懿が死に、鄧艾が匈奴の脅威をいう

秋,七月,壬戌,皇後甄氏殂。 辛未,以司馬孚為太尉。
八月,戊寅,舞陽宣文侯司馬懿卒。詔以其子衛將軍師為撫軍大將軍,錄尚書事。

秋7月壬戌、皇后の甄氏が殂じた。 7月辛未、司馬孚を太尉とした。
8月戊寅、舞陽宣文侯の司馬懿が卒した。衛將軍の司馬師が撫軍大將軍となり、錄尚書事した。

胡三省はいう。史書は、司馬懿の死を王淩のタタリとする。信じられるか。『資治通鑑』は怪異を語らない。司馬懿を人臣としてのみ表現した。
魏晋の制では、以下に大将軍がくっつくと、位は三公につぐ。驃騎、車騎、衛、伏波、撫軍、都護、鎮軍、中軍、四征、四鎮、龍ジョウ、典軍、上軍、輔国など。録尚書事すれば、朝政を専制する。


初,南匈奴自謂其先本漢室之甥,因冒姓劉氏。太祖留單于呼廚泉之鄴,分其眾為 五部,居并州境內。左賢王豹,單于於扶羅之子也,為左部帥,部族最強。城陽太守鄧 艾上言:「單于在內,羌夷失統,合散無主。今單于之尊日疏而外土之威日重,則胡虜 不可不深備也。聞劉豹部有叛胡,可因叛割為二國,以分其勢。去卑功顯前朝而子不繼 業,宜加其子顯號,使居雁門。離國弱寇,追錄舊勳,此御邊長計也。」又陳「羌胡與 民同處者,宜以漸出之,使居民表,以崇廉恥之教,塞奸宄之路。」司馬師皆從之。

はじめ南匈奴は、漢室の甥を称して、劉氏とする。曹操は単于の呼廚泉を鄴にとどめて、5部に分割し、并州の境内におく。

胡三省はいう。建安21年である。

左賢王の劉豹は、於夫羅の子である。左部帥となり、部族は最強である。城陽太守の鄧艾は、上言した。

胡三省はいう。前漢は城陽国をおく。後漢には瑯邪国に編入される。曹操が青州を平らげたとき、ふたたび城陽郡をおく。鄧艾はそこの太守である。
ぼくは思う。べつに城陽の話ではなく、天下全体を見渡した議論。鄧艾は視点が高いのだ。そしてこれは、西晋の滅亡の伏線でもある。鄧艾はすごいなあ!蜀漢を滅ぼすだけでなく、西晋の滅亡のシナリオまで予見した。

「単于が内地にいて、羌族や夷族は統率を失った。いま南単于は鄴にいるので、名声があっても脅威でない。だが左賢王の劉豹は外地で威信を高めている。胡族への備えをすべきだ。劉豹の部族には、曹魏にそむく胡族を取りこむ。去卑は献帝の護送(興平元年)をしたが、子は事業を継がない。去卑の子に顕号を加えて、雁門に住まわせよ。匈奴を劉豹とそれ以外に分割して、劉豹の脅威を弱めよ」と。
また鄧艾はいう。「羌胡と漢族が同居している地域では、民族を分割せよ。じわじわと羌胡を外地に閉め出せ」と。司馬師はどちらの意見にも従った。

胡三省はいう。鄧艾の発言は『徙戎論』に先んじる。司馬師がこれを採用したが、永嘉の乱を防げなかった。「じわじわと」への対応が、ゆっくり過ぎたのか。


吳立節中郎將陸抗屯柴桑,詣建業治病。病差,當還,吳主涕泣與別,謂曰:「吾 前聽用讒言,與汝父大義不篤,以此負汝;前後所問,一焚滅之,莫令人見也。」

孫呉は、立節中郎將の陸抗を柴桑に屯させた。建業で治病させた。陸抗の病気がよくなり、柴桑にもどる。孫権は涕泣して陸抗と別れた。「まえに讒言を聞いてしまい、きみの父の陸遜を疑った(正始6年)。陸遜を問責した文書は、すべて焼いて人が読めないようにした」と。

冬、孫権が孫和を召したく、諸葛恪を迎える

是時,吳主頗寤太子和之無罪,冬,十一月,吳主祀南郊還,得風疾,欲召和還; 全公主及侍中孫峻、中書令孫弘固爭之,乃止。吳主以太子亮幼少,議所付托,孫峻薦 大將軍諸葛恪可付大事。吳主嫌恪剛很自用,峻曰:「當今朝臣之才,無及恪者。」乃 召恪於武昌。恪將行,上大將軍呂岱戒之曰:「世方多難,子每事必十思。」恪曰: 「昔季文子三思而後行,夫子曰:『再思可矣。』今君令恪十思,明恪之劣也!」岱無 以答,時鹹謂之失言。

このとき孫権は、孫和が無罪だったと思い、冬11月、孫権は南郊から帰り、風疾を得たので、孫和を召還したい。全公主と侍中の孫峻、中書令の孫弘が、つよく諫めた。

胡三省はいう。孫和が太子にもどると、自分たちにとって患いとなるから、全公主たちは孫権を諫めたのだ。ぼくは思う。死の直前になって、「やっぱり孫和が良い」と言い出す孫権は、明らかに老害。この記述からなら「孫呉が滅びても仕方ない」と思える。この孫和の子が孫皓なので、なおのこと、よくできた伏線だと思う。

孫権は、太子の孫亮が幼少なので、誰かに託したい。孫峻は、大将軍の諸葛恪を推薦した。孫権は、諸葛恪の性格が剛很なので心配した。孫峻は「諸葛恪ほどの人材はいない」と押し切った。諸葛恪を武昌に召した。

胡三省はいう。このとき孫呉の国内は、上下とも諸葛恪の才能を認めた。だから孫峻は、諸葛恪を推薦した。もとから孫峻に諸葛恪を殺す意図がない。諸葛恪が孫峻に殺されたのは、諸葛恪の自分のせいである。また孫峻が孫綝に殺されるのも、孫峻の自分のせいである。

諸葛恪が行こうとすると、上将軍の呂岱が諸葛恪を戒めたが、諸葛恪は呂岱をやり込めた。孫呉の朝廷は黙ってしまった。

ぼくは思う。ここで虞喜の論がひかれる。はぶく。


恪至建業,見吳主於臥內,受詔床下,以大將軍領太子太傅,孫弘領少傅;詔有司 諸事一統於恪,惟殺生大事,然後以聞。為制群官百司拜揖之儀,各有品序。又以會稽 太守北海滕胤為太常。胤,吳主婿也。

諸葛恪が建業にきた。孫権は臥したまま、詔をだす。諸葛恪は、大将軍となり太子太傅を領する。孫弘が少傅を領する。朝廷の秩序をすべて諸葛恪が決める。また、會稽太守する北海の滕胤が太常となる。滕胤は、孫権のむこである。

十二月,以光祿勳滎陽鄭沖為司空。
漢費禕還成都,望氣者雲:「都邑無宰相位。」乃復北屯漢壽。 是歲,漢尚書令呂乂卒,以侍中陳祗守尚書令。

12月、光禄勲する滎陽の鄭沖を司空とする。
費禕が成都にもどる。気を望む者が「都邑に宰相の位がない」という。費禕は北して漢寿に屯する。

胡三省はいう。費禕の才識は、気を望む者のセリフまで理解できるほど、優れたものである。葭萌県は、漢代は広漢郡に属する。劉備が漢寿県に改め、梓潼郡に属させた。

この歳、蜀漢の尚書令の呂乂が卒して、侍中の陳祗が尚書令となる。121111

胡三省はいう。陳祗が尚書令となると、黄皓が自ら政事するようになる。

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嘉平四年(壬申,公元252年)

春、司馬師が大将軍、張緝の娘が皇后

春,正月,癸卯,以司馬師為大將軍。 吳主立故太子和為南陽王,使居長沙;仲姬子奮為齊王,居武昌;王夫人子休為琅 邪王,居虎林。
二月。立皇後張氏,大赦。後,故涼州刺史既之孫,東莞太守緝之女也。召緝拜光 祿大夫。 吳人改元神鳳,大赦。 吳潘後性剛戾,吳主疾病,後使人問孫弘以呂後稱制故事。左右不勝其虐,伺其昏 睡,縊殺之,託言中惡。後事洩,坐死者六七人。

春正月癸卯、司馬師が大將軍となる。
孫権は、もと太子の孫和を南陽王とし、長沙に居させる。仲姬の子の孫奮を齊王とし、武昌に居させる。王夫人の子の孫休を琅 邪王とし、虎林に居させる。

胡三省はいう。虎林は、長江に浜する。孫呉が督をおいて守った。のちに孫綝は朱異をつかわし、虎林から夏口を襲い、兵は武昌に至る。夏口督の孫壱は曹魏にはしる。すなわち虎林は、武昌の下流にある。

2月、曹芳は皇后に張氏を立てて大赦する。皇后は、もと涼州刺史の張既の孫である。東莞太守の張緝の娘である。張緝を召して光禄大夫とする。

胡三省はいう。東莞県は、漢代は瑯邪郡に属する。魏代に分割して郡とする。沈約はいう。司馬炎の泰始元年、瑯邪をわけて東莞郡をつくる。これは魏代に分け、また合わせ、また分けたのか。
のちに司馬師は、皇后の父の張緝を殺す。

孫呉で神鳳と改元して大赦する。
孫呉の潘皇后は、性格が剛戾である。孫権が病気になると、孫弘に前漢の呂后が稱制した故事を問うた。左右の者は、潘皇后の虐待にたえられず、皇后を縊殺した。「皇后は暴病で死んだ」と言い触らした。のちに殺害がバレて、6,7人が死んだ。

胡三省はいう。皇后は殺されるほどの虐待をしたか。これは孫呉の歴史を、誰かが飾ったものである。さすがに皇后の殺害は起きていない。


夏、孫権が死に、諸葛恪が太傅となる

吳主病困,召諸葛恪、孫弘、滕胤及將軍呂據、侍中孫峻入臥內,屬以後事。夏, 四月,吳主殂。孫弘素與諸葛恪不平,懼為恪所治,秘不發喪,欲矯詔誅恪。孫峻以告 恪,恪請弘咨事,於坐中殺之。乃發喪。謚吳主曰大皇帝。太子亮即位,大赦,改元建 興。閏月,以諸葛恪為太傅,滕胤為衛將軍,呂岱為大司馬。恪乃命罷視聽,息校官, 原逋責,除關稅,崇恩澤,眾莫不悅。恪每出入,百姓延頸思見其狀。

孫権の病気がおもい。諸葛恪、孫弘、滕胤および將軍の呂據、侍中の孫峻を召して後事を託した。
夏4月、孫権は殂した。孫弘は諸葛恪と仲が悪いので、孫権の死を隠し、詔書を偽造して諸葛恪を召して殺そうとした。孫峻が諸葛恪にバラしたので、孫弘は殺された。孫権の死が発表され、大皇帝と諡される。

胡三省はいう。孫権は71歳だった。沈約はいう。『諡法』には「大」の規定がない。ぼくは思う。どうして儒教の伝統をあえて外した諡号をつけちゃうんだろう。センスがない。だから正統性がないのだ。

太子の孫亮が即位した。大赦して建興と改元した。閏月、諸葛恪が太傅、滕胤が衛將軍、呂岱が大司馬となる。諸葛恪は校官を廃止した。

孫亮はあざなを子明。即位のとき10歳。
胡三省はいう。孫権は校官をおいて、諸官府や州郡の文書を検閲した。皇帝の耳目として、専権した。諸葛恪は、この校官による検閲を廃止した。
ぼくは思う。これは皇帝権力の後退かなあ。「名士」の勝ちなのか。

関税を撤廃して、恩沢を崇び、みなに悦ばれた。諸葛恪が出入りするたび、百姓は首をのばして諸葛恪を見つけた。

胡三省はいう。古代に関税はなかったから、関税を辞めるのが正しい。
ぼくは思う。首をのばして、、と、出ました!慣用句!


恪不欲諸王處濱江兵馬之地,乃徙齊王奮於豫章,琅邪王休於丹楊。奮不肯徙,又 數越法度,恪為箋以遺奮曰 (中略)。王得箋,懼,遂移南昌。

諸葛恪は、諸王を長江のそばの兵馬の地に置きたくない。齊王の孫奮を豫章に、琅邪王の孫休を丹楊に徙した。孫奮は動きたくない。孫奮はしばしば法度に違反したので、諸葛恪が文書で諭した。

ぼくは思う。諸葛恪の文書はぶく。中華書局2395頁。
ぼくは補う。丹陽にいる瑯邪王の孫休が、つぎの3代皇帝に就任する。

孫奮は諸葛恪を懼れて、おとなしく南昌にうつる。

冬、諸葛恪と丁奉が東興で魏軍をやぶる

初,吳大帝築東興堤以遏巢湖,其後入寇淮南,敗,以內船,遂廢不復治。冬,十 月,太傅恪會眾於東興,更作大堤,左右結山,俠築兩城,各留千人,使將軍全端守西 城,都尉留略守東城,引軍而還。
鎮東將軍諸葛誕言於大將軍師曰:「今因吳內侵,使文舒逼江陵,仲恭向武昌,以 羈吳之上流;然後簡精卒攻其兩城,比救至,可大獲也。」是時征南大將軍王昶、征東 將軍胡遵、鎮南將軍毋丘儉等各獻征吳之計。朝廷以三征計異,詔問尚書傅嘏。嘏對曰 (中略)。司馬師 不從。

はじめ孫権は、東興に堤を築き、巢湖をふせぐ。のちに孫権は淮南に入寇し、敗れて撤退したのち、東興の堤を修復しない。冬10月、諸葛恪は東興の堤を修復した。左右の山とつなぎ、1千人ずつを留める。將軍の全端が西城を守り、都尉の留略が東城を守る。諸葛恪は建業にかえる。

胡三省はいう。孫権は黄龍二年に東興堤をつくる。
孫権が敗れたのは、正始二年の芍陂である。巣湖をふさぎ、孫呉の船戦が有利になったが、巣湖のなかで敗れると撤退できないので、堤を修復せずにおいた。堤と東西の山について胡三省の注釈あり。
『姓譜』はいう。留氏とは、衛太傅の留封の子孫である。後漢末に会稽に逃げてきた。東陽にいて郡の豪族となった。ぼくは思う。本籍地から逃げてきても、郡の豪族になれる好例だなあ。

鎮東將軍の諸葛誕は、大将軍の司馬師にいう。「孫呉が、魏領に入りこんでいる。王昶は江陵、毋丘倹は武昌を攻め、長江の上流を抑えたら、迎撃する呉軍を捕らえられる」と。このとき征南大將軍の王昶、征東將軍の胡遵、鎮南將軍の毋丘儉らは、それぞれ征吳之計を考えた。曹魏の朝廷は、3人の計略が異なるから、尚書の傅嘏に問うた。傅嘏の回答ははぶく。司馬懿は傅嘏に従わず。

十一月,詔王昶等三道擊吳。十二月,王昶攻南郡,毋丘儉向武昌,胡遵、諸葛誕 率眾七萬攻東興。甲寅,吳太傅恪將兵四萬,晨夜兼行,救東興。胡遵等敕諸軍作浮橋 以度,陳於坻上,分兵攻兩城。城在高峻,不可卒拔。諸葛恪使冠軍將軍丁奉與呂據、 留贊、唐咨為前部,從山西上。奉謂諸將曰:「今諸軍行緩,若賊據便地,則難以爭鋒, 我請趨之。」

11月、王昶らに3道から孫呉を撃たせる。12月、王昶は南郡を、毋丘倹は武昌を、胡遵と諸葛誕は7万をひきいて東興を攻める。12月甲寅、諸葛恪が4万をひきいて、東興を救いにくる。胡遵らは浮橋で渡り、東興の東西2城を攻める。抜けない。諸葛恪は、冠軍將軍の丁奉と呂據、留贊、唐咨を前部として、山を西から登らせる。

乃辟諸軍使下道,奉自率麾下三千人徑進。時北風,奉舉帆二日,即至東 關,遂據徐塘。時天雪,寒,胡遵等方置酒高會。奉見其前部兵少,謂其下曰:「取封 侯爵賞,正在今日!」 乃使兵皆解鎧,去矛戟,但兜鍪刀楯,夥身緣堨。魏人望見,大 笑之,不即嚴兵。吳兵得上,便鼓噪,斫破魏前屯,呂據等繼至。魏軍驚擾散走,爭渡 浮橋,橋壞絕,自投於水,更相蹈藉。

寒いので、胡遵は酒を飲んでおり、丁奉の攻撃を受けた。胡遵は敗走した。つづいて呂拠が魏軍を攻めた。浮橋が壊れ、魏軍は水中に沈んだ。

ぼくは思う。勇ましい戦闘の描写だが、おもしろいだけなので、ザックリはぶく。柴田錬三郎の小説で、このあたりを初めて読んだなあ。7年前とかかな。


前部督韓綜、樂安太守桓嘉等皆沒,死者數萬。 綜故吳叛將,數為吳害,吳大帝常切齒恨之,諸葛恪命送其首以白大帝廟。獲車乘、牛 馬、騾驢各以千數,資器山積,振旅而歸。

曹魏では、前部督の韓綜、樂安太守の桓嘉が戦死した。韓綜はもと呉将だったが、曹魏に寝返ってしばしば孫呉に損害を加えた。諸葛恪は、韓綜の首級を孫権廟にそなえた。孫呉は戦果を獲得した。

韓綜が叛いたのは、曹叡の太和元年にある。


初,漢姜維寇西平,獲中郎將郭循,漢人以為左將軍。循欲刺漢主,不得親近,每 因上壽,且拜且前,為左右所遏,事輒不果。

はじめ姜維が西平を寇したとき、中郎将の郭循をとらえた。蜀漢は郭循を左将軍とする。郭循は劉禅を殺したいが、暗殺は成功しない。121112

姜維が西平を攻めたのは、嘉平2年である。郭「循」の名について、胡三省がいろいろ検討している。はぶく。ぼくは思う。費禕が暗殺される伏線が、この巻の最後に不気味に置かれる。司馬光は、噺家としてのサービスを忘れない。

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