読書録 > 長谷川清貴氏「荀悦『漢紀』における「春秋之筆法」読書会

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長谷川論文を読む;封建と『後漢書』の性格

長谷川清貴先生の論文の読書会をしました。
レジュメは、ぼくがこちらに用意しました(PDF)
長谷川清貴氏「荀悦『漢紀』における「春秋之筆法」
長谷川清貴氏「荀悦の災異観」(『國學院中国学会報第54集』2008)
長谷川清貴氏「荀悦『漢紀』における「春秋之筆法」-昌邑王駕廃位記事を中心に-」(『國學院雑誌』第110巻第10号2009)

にゃもさん @AkaNisin 、霜梓さん @shimo_azusa とやりました。
ここでは、誰が何をしゃべったという議事録じゃなくて、
ぼくが論文を読み解いていくためのヒントだと思って、スカイプをしながら書きとめたメモを、バラバラと載せておきます。にゃもさんの「本業」のアイディアは、載せないようにします。(もし載せ過ぎていたら、教えてください)

史官としての能力

太史に求められる、能力と意識
いろんな種類の文字を扱える;書体、字数などの掛け算で9千字?
何文字以上覚えないと、官吏として登用されないという規定
『蒙求』、『小学』を読むべし。

(追記)霜梓さんから補足をいただきました。
テストの内容ですm(_ _)m
問:次の文章(崔チョと大史と南史氏の話)も参考にして、大史に求められた能力と歴史記録に対する意識を説明せよ。
答(意識):命の危険があっても、客観的に正確な歴史記録をしようとした。この意識は(史官が)世襲され受け継がれた。

九千字以上が云々あたりはプリントを見つけたので原文を抜粋してを貼っておきます。簫何草律亦著其法日太史試學童能諷書九千字以上乃得為史。吏民上書字或不正輒挙劾。

ありがとうございましたー。
(長谷川先生のテストの件は、話のマクラでした)


荀悦の思想的な立ち位置

荀悦の思想的な立ち位置がどうなのか
「合理的な知識人」の意味;無矛盾の体系性
荀悦の研究は『要覧』によると、荀悦と『申鑑』『漢紀』の研究は
日本語では、
好並隆司「荀悦の社会背景とその政策について」岡山史学2 1956
日原利国「荀悦の規範意識について」東方学18 1959

がある。
長谷川先生が論文中で参照するのは、
堀池信夫氏『漢魏思想史研究』明治書院1988の、2章「後漢期の思想」四「転換期の思想」四「荀悦論」で、「合理的知識人の系譜に属する人物」とする。
田中麻紗巳氏「荀悦の合理的思考について」(『日本大学文理学部人文科学研究所研究紀要』)第57、1933で、荀悦は事物の有用性・実用性をも考慮して、その合理性を判断していたとする。合理性について、現代からの視点で是非を論じる。

これ以降の荀悦『漢紀』にかんする研究があれば、追記します。また教えてください。

ほかに中文の論文がある(日本の大学である程度さがせる)

王充は「災異には懐疑的」と言われ、荀悦は合理的と評価されるが。王充と荀悦は、どこが同じで、どこが違うか。
堀池先生の「合理的」とは、「迷信に惑わされない」という意味ではない。後漢の「合理的」思想家は、災異を無視しない。彼らの思想が、矛盾なく組み立てられていることを「合理的」という。合理的という言葉の捉えかたに注意が必要。近代の科学とはちがう。
「合理的」という言葉が出てきたら、クエスチョンマークをつけて読みたい。『漢辞海』から見るに、日本語のぼくらのつかう「理」は、宋学の影響が流れ込んでいるかも。

荀悦は『春秋』を修得し、『左氏伝』に則って『漢紀』をつくったと、『後漢書』荀悦伝にある。内容を見て確認。隠公十一年、弑殺された隠公は「薨ず」と記される(『左氏伝』杜預注)ことを、長谷川先生が書いておられる。

荀悦の思想の立ち位置

荀悦の思想は、『申鑑』から読み取れる。『申鑑』は残存する。
荀悦の思想を仮説的に設定して、『漢紀』に込められた毀誉褒貶を演繹的に読み解くのか。『漢紀』の毀誉褒貶を読み解きながら、荀悦の思想を帰納的に見つけるのか。前者は、『申鑑』や評文に着目した、旧来の方法である。後者は長谷川先生の試みられた方法。ぼくが膨らますなら、後者をやってみたい。
先生の論文は、昌邑王にかんする一箇所に集中しているので、もっとひろい範囲で検討したい。ぼくは平帝紀と王莽のあたりでやりたい。

たとえば封建制度を、荀悦はどう考えているか。
『後漢書』荀悦伝に紹介されている著作からだけでも、荀悦の政治的な態度がうかがい知れる。長谷川先生が紹介されてる「三勢説」もまた、荀悦のスタンス。

渡邉先生による荀彧と封建

渡邉義浩氏の「陸機の「封建」論と貴族制」(『西晋「儒教国家」と貴族制』)が、荀悦を登場させる。
中国思想史において、国家の統治方法は、「郡県」-「封建」という概念により議論されてきた。前漢は、郡県と封建を併用して、郡国制とした。呉楚七国のあと、事実上の「郡県」支配を実現。後漢も「郡県」を踏襲。諸侯は、儒教により存在を認められたが、自立的な政治権力の行使は抑制された。
前漢以来の諸侯の勢力削減策は、『公羊伝』を中心とする、今文系経学の理論に基づき、白虎観会議で正統化された(日原利国1967)。後漢時代、諸侯王の権力行使は、東平憲王の劉蒼を例外として、行われない。

後漢「儒教国家」衰退を機に、後漢末から提唱された「封建」論は、『左氏伝』を典拠に、同姓諸侯を皇帝の藩屏として積極的に活用とするもの。漢魏交替期より本格的に進展する、社会の分権化に対応して、皇帝権力の分権化により、国家権力全体として集権化を目指す思考である。
西晋「儒教国家」は、儒教の理想的な統治政策として、同姓諸王の「封建」をおこない、諸侯王に都督・将軍の軍事的機能をあわせ持たせた。皇帝権力を分権化した。王には諸侯への礼遇をもとめ、諸侯には尊王をもとめた『左氏伝』の理念と乖離したので、西晋の封王の制は、八王の乱を惹起した。陸機は「五等諸侯論」を著した。聖王の経国の義は、封建にあると考える。公族の封建でなく、五等爵をもつ貴族に封土を実効支配させよと主張する。

後漢末の封建論の系譜の最初には、建安五年に『漢紀』を完成させた議論がある。荀悦『漢紀』巻5 孝恵帝紀にいう。

悅曰:諸侯之制,所由來尚矣。《易》曰:『先王建萬國,親諸侯。』孔子作《春秋》爲後世法,譏世卿不改世侯。昔者聖王之有天下,非所以自爲,所以爲民也,不得專其權利,與天下同之,唯義而已,無所私焉。封建諸侯,各世其位,欲使親民如子,愛國如家,於是爲置賢卿大夫,考績黜陟,使有分土而無分民,而王者總其一統,以御其政。

同姓諸侯の封建による、国家権力の強化を主張する。皇帝が専権的であることだけが、国家権力の大きさを意味しない。皇帝権力は、国家権力を構成する最大のものだが、1つの要素にすぎない。同姓諸侯を封建して「分土」すれば、皇帝権力は弱体する。だが皇帝と諸侯王は血縁で結ばれているため、「分民」にならない。王者は一統を総べることができる。
始皇帝や李斯が「諸侯は支配の一元化を妨げる」と認識したのと異なる。戦国の分裂を統一したい法家と、統一した漢家の儒家との時代性が異なる。西洋のフューダリズムも、諸侯という権力体が、分権化傾向を持つ社会に国家権力を強化するものである。
荀悦が「世卿をそしる」というのは、『公羊伝』隠公3年、宣公10年に「世卿をそしる。世卿は礼にあらざるなり」が典拠である。これを踏まえて後漢末の州牧につき、『申鑑』時事編では、異姓の諸侯に準えるべき州牧が、国家権力を分権化させると考えた。
同姓諸侯を封建することで君主権力を分割して国家権力の全体をつよめる。いっぽうで異姓諸侯の封建を、君主権力を分割し、国家権力を分割するものとして否定する。荀悦の封建論は、後漢・曹魏の基調である。

西晋の封建論は、司馬朗から始まる。周制の封建である五等爵制(同姓と異姓の諸侯を併置)が、秦家に滅ぼされたため、天下は崩壊しそうである。五等爵を復興すべき。だが時期尚早である。だから州軍に兵をおくべきである。井田制もあわせてと。
曹植は「求通親親表」で、同姓諸王の封建と優遇を求めた。『左氏伝』が根拠である。243年の曹冏による封建論は、『左氏伝』僖公24年、『尚書』堯典、『詩経』大雅 板を典拠とする。荀悦と同じ。また後日。

以上が渡辺先生からの引用でした。

ぼくは思う。テキストは儒家官僚がつくる。だから、テキストに忠実に歴史像を構成すると、「儒教国家」となる。歴史的事実が「儒教国家」とよぶべきものであるのと、テキストに忠実であるがゆえに「儒教国家」らしさが強調されるのと。両者を分解することは不可能だが、気にしておきたい点ではある。


さらに荀悦と封建制のこと

呉楚七国のとき、荀悦は何を言っているか。要確認。
『漢紀』をチェックしたところ、王莽の五等爵は『漢書』から削除されている。異姓王の五等爵だから、荀悦の主張する制度とは異なる。王莽が州牧に軍権を与えたが、それも削除している。実質的に異姓王の封建になるため。

『漢紀』は200年に完成した。まだ曹操の魏公や魏王には時期がとおい。荀悦は209年に死ぬ。荀悦は封建制の議論に参加していたのか。上記の『漢紀』『申鑑』に見えるように、後漢末には議論していた。黄巾の乱以降、劉焉の州牧制などから議論の対象である。
司馬朗もまた、荀悦と入れ替わる時期に、封建の問題を論じた。

曹操が後漢の爵制を整備したのは、建安20年。西暦215年。

スカイプでは、魏公より前だという話をしたけど、魏公のほうが3年早かったですね。魏公就任は、213年でした。

冬十月,始置名號侯至五大夫,與舊列侯、關內侯凡六等,以賞軍功。
魏書曰:置名號侯爵十八級,關中侯爵十七級,皆金印紫綬;又置關內外侯十六級,銅印龜紐墨綬;五大夫十五 級,銅印環紐,亦墨綬,皆不食租,與舊列侯關內侯凡六等。/臣松之以為今之虛封蓋自此始。

冬10月、はじめて名號侯をおく。五大夫まで、もとの列侯、關內侯とあわせて、6等級ある?。爵位をあたえて、軍功を賞した。
『魏書』はいう。名号侯の爵位は18級。関中侯は17級。どちらも金印紫綬である。また關內外侯は16級、銅印龜紐墨綬である。五大夫は15級、銅印環紐、また墨綬である。みな租を食まず。もとの列侯、關內侯とあわせて、6等級ある。

長谷川先生の手法をまねて、『春秋』の筆法から、荀悦の封建制に対する態度を見いだせるか。ほのめかし、無意識の編纂方針として、王莽の封建制をカットしたのではないか。恣意的な解釈になるけれど、やってみたい。
評文から演繹的に攻め、本文から帰納的に攻める。両面的なアプローチが必要。

荀悦の政治的な立場について

荀悦は献帝をどのように考えていたか。献帝は正統な皇帝だと、認識されているか。昌邑王の廃立の経緯は、劉弁の廃立とそっくりであるから。長谷川先生は、そのあたりは言及しない。ぼくのいう「ハセキヨの筆法」が発動されている。

ぼくは思う。昌邑王のつぎに立てられた、漢宣帝に対する扱いを、献帝と比べてみなければ。劉賀と劉弁ばかり見ていても、ちょっとラチがあかない。

にゃもさんはいう。霍光の行動を肯定したら、献帝の正統性があることになる。昌邑王をもちあげているなら、劉弁が正統である(献帝は正統でない)ことになる。
荀悦は、董卓をほめたくないが、曹操がかつぐ献帝をけなせない。
ぼくはいう。長谷川先生の論文では、どちらの傾向も指摘する。霍光も劉賀も、褒と貶の両方をやられる。つまり、昌邑王はひどい君主なので、霍光に下ろされて当然だと言われる。しかし君主なので、劉賀は行動を主体的に描いてもらう。かといって、霍光を絶賛するのではなく、霍光を賞賛する宣帝の詔をけずる。霍光の行いは、さすがに正しくないという補正もかかる。
ぼくは思う。宣帝の詔の件は、長谷川先生の論文に対して「そこまでは言えない」と思います。詔の内容を大幅に省略して、地の文にひらくのは、荀悦が字数削減のために、あちこちでやることだ。平帝紀などと比べても、これが言える。高祖の劉邦ですら、『漢書』高帝紀から、ハデに削られている。詔の内容がまるまる無視されたならともかく、抜粋が『漢紀』にあるなら、それは「荀悦が班固の評価に合意した」と見なすべきだろう。

ぼくは思う。『漢書』に「A帝がBだからCせよと詔した」とあると『漢紀』は「Cが行われた」と地の文に開く。長谷川氏は、A帝の詔があった事実を否定し、Bの評価が絶対化されるのを防止するという。ぼくは筆法的意図を感じない。宣帝紀の霍光の件で指摘されてたが、平帝紀にも例が多く、字数減の常套手段かと。

また、使役や受け身の表現になるのは、字数を減らすためでは。要検証。

ぼくは思う。荀悦は劉賀を「ダメなやつ」とする。班固の評価を踏襲する。つまり弘農王の劉弁もまた「ダメなやつ」と見なしたのだろう。また霍光を絶賛しないなら、「霍光がやらなくても、誰かが昌邑王を下ろすべきだった。それほど昌邑王はダメなやつだ」という理屈になる。つまり劉弁の件では、「董卓がやらなくても、誰かが劉弁を下ろしただろう。それほど劉弁はダメなやつだ」となる。 ここから理屈を展開すると、「董卓が正しかろうが正しくなかろうが(建安期には正しくない、という評価が定着しているけど)献帝は正しい。だって董卓に関係なく、劉弁はまるでダメだったから」という主張になる。こうすることで、董卓と献帝を分離することに成功する。
にゃもさんは、霍光をほめるか、劉賀をほめるかで、二者択一的に評価がバランスすると話していた。でもぼくは、霍光と劉賀を切り離すというオプションもあると思う。これは、事前にツイッターで書いていたが、スカイプのときは、とっさに復習して「なんだか複雑で、よく分からない」と思ったので、言わなかったことです。

野間文史『春秋学』を読んだ。長谷川先生の参考文献なので。
野間文史『春秋学/公羊伝と穀梁伝』を抜粋
毀誉褒貶の議論は、まるで法学が裁判記録を検討するような文体だ。「なにをやってはならないか」「違反した場合、どの程度の刑罰(記述のおとしめ)が行われるか」「その刑罰は妥当だろうか」の研究である。法学の方法論みたいなものも、目を通しておかねばならぬなあ。


たしかに董卓が廃位するとき、昌邑王の故事をつかう。
だが、董卓なきあとの献帝期に、董卓とおなじ故事の使い方をする必要はない。董卓の使い方のほうが、はるかに素直でしょう。しかし、董卓がかってに廃位して滅亡したという攪乱をやったのち、故事の用法もひねくれざるを得ないと思う。

『後漢書』荀悦伝と荀悦

荀悦伝の『後漢書』はいう。
荀悦は献帝に仕えるが、政策を提言する機会がない。だから『申鑑』を書いて、献帝のために献策をしたかった。献帝が『申鑑』に合意して、『漢紀』を書かせた。

しかし実際のところ、荀悦が献帝をどう考えていたか、書かれていない。 『後漢書』は、荀彧や孔融をほめて、曹操には冷たい。「曹操と対立した荀氏」を演出するために、荀悦の政治的立場が、『後漢書』によってゆがめられているかも。つまり、『後漢書』荀悦伝を信じるのでなく、『漢紀』『申鑑』などの著作から、荀悦の政治的な立場を帰納しなければ。范曄の脚色に惑わされないで。
「ハセキヨの筆法」で指摘されていない、荀悦の意志を指摘したい。

『後漢書』の偏向をのぞくと、リアルな荀彧はいかなる発想をしたか。著作ののこっている荀悦を題材にすれば、『後漢書』に記されない荀氏のことが分かるかも知れない。後漢時代を、『後漢書』のフィルタを経由しないで読みたい。
吉川忠夫「『後漢書』解題」で剥がすニセ後漢史の仮面
『後漢書』が描く、清流と濁流の二項対立は、范曄から見た後漢でしかない。「清流」の社会的意義について、先行研究は議論してきたが、范曄にひきずられていないか。先行研究の成果を尊重しつつ、いかに自分なりの後漢を組み立てるかに勝負がかかる。

南朝宋にできた『後漢書』で英雄視されている陳蕃と竇武。しかし1百年くらい前、東晋の葛洪『抱朴子』を見ると、陳蕃と竇武はけなされている。生命を粗末にした愚者だと。
荀彧の評価も、南北朝期に変遷している。

後漢観。『三国志』の後漢に対する見方や価値観と、『後漢書』の後漢に対する見方や価値観が、同じはずがない。同一の事件や人物の扱い方を比較して、何かが言えないかなあ。たとえば『三国志』は、党錮の事件をどう見てた/描いてたのか。ちゃんと考えたことがなかった。


にゃもさんはいう。南朝宋から見た後漢を知るべく、范曄『後漢書』を史料批判する材料として、荀悦の『申鑑』『漢紀』は興味のあるテーマ。『後漢書』そのものの史料批判を(先行研究よりも強めに)やりたい。范曄も陳寿も、編纂した「現在」に、その子孫が残っている者にしか列伝を立てない。偏向がある。
ぼくはいう。後漢末から見た漢家を知るべく、また前漢の歴史を知る材料として、荀悦の『漢紀』は興味のあるテーマ。後漢末の人々は、漢家をどのように認識していたから、袁術にNOを突きつけたのか。
にゃもさんと、ぼくとで、荀悦『漢紀』を起点にして、後ろの時代を見たり、前の時代を見たり、おもしろい。メタな構造になっている。

ツイッター用まとめ。荀悦論の射程は6百年。にゃもさんは、劉宋の范曄が記した『後漢書』を史料批判する材料として『漢紀』を参照したいそうだ。ぼくは、前漢を知る材料として、また後漢末から見た漢家のイメージを知るために(彼らはどういう認識に基づいて袁術にNOを突きつけたのかを知るべく)『漢紀』を読みたい。


その他、『後漢書』の偏向など

『漢紀』は肯定の諱を書いてあるから、ぼくらは前漢の皇帝の諱を知ることができる。『漢書』には書かれていない。宣帝は劉詢というが、ジュンの音が抵触したので、荀氏は「孫」氏だった。
黄巾は、ただの農民戦争にみえるが、張角は知識人である。波才も。
黄巾の波才は、党錮された外戚・竇武と同族
石井仁先生は、黒山は正体を「黒山白波考」で後漢の官僚と指摘。

趙典が、范曄にわるく扱われてる。有名なのに范曄はいじめてる。
『後漢書』党錮のなかに、列伝を重複してもつ人物がいるはず。どこだったか特定できず。目次ぐらい見て、紀伝体を作れよと。

ぼくは補う。尹勲でした!にゃもさん!


荀悦の災異観

荀悦は、鄭玄の思想を見ているか。
孔融や荀彧との交流は列伝から確認できる。孔融や荀彧を媒介とすれば、2次のつながりで、鄭玄につながることはないか。要確認。

『漢紀』を読み解くなら、『漢書』の災異観を、正確を読み取らねば。『漢書』は災異観に敏感。福井重雅先生が、『漢書』が董仲舒を強調している。『漢書』の特徴を踏まえて、『漢紀』でいかに取捨選択されているか、確かめねば。
『漢紀』は長谷川先生のおっしゃるとおり、『漢書』五行志を網羅的に収録している。天の変異は客観的事実だから、記載される。しかし変異に対する解釈は、客観的な事実ではない。矛盾なく合理的に読みとるには、かなり慎重になる必要がある。人間の行動との因果関係を、直接的に求めないのが、荀悦の特徴では。『漢書』ほど、雄弁に因果関係をのべない。はぶいてしまう。

「天が人間の行為を見張ってくれている」というのは、ずいぶん人間にやさしい天である。結果的に、天、天子、官僚、民、天、というサイクルは完成するかも知れない。しかし、どこにドミノ倒しの1枚目があるのかによって、意味が変わってくる。人間が原因で、それに対応して天が変異するという話もあるが、荀悦はこの立場でない。天は人間から独立して、人間に難題をなげかけるという印象を受ける。『漢書』から、災異の解釈をはぶいた『漢紀』は、荀悦のこの思想を思わせる。
ぼくは、「災異に確たる要因があるが、究明は困難という立場」という長谷川先生を支持します。

再生する漢家

「後漢は12世になった」と後漢の終焉を宣言したのは董卓。

荀悦は、王莽を含めないと、『春秋』242年に近づけなかったのがおもしろい。長谷川先生の指摘どおり、それでも10年足りなかったのだが。ぼくが漢家の史官なら、董卓を全削除してやりたい。しかし王莽を省かなかった荀悦。『漢書』のダイジェスト版という仕事を、淡々とこなしただけか。
王莽を無視すれば、前漢と後漢が接続する。漢家の永続性がわかる。ただし、「いちど亡びたが、光武帝が復活させた」というほうが、後漢の神秘性を高めることになるのかも知れない。再生を主張することに、意義があるか。
荀悦が光武帝に言及しないのは、『東観漢記』があるからか。光武帝本紀は編纂されてるから、荀悦が『漢紀』で光武帝を記す必要がなかった。

などということを話しながら、スカイプを終えたのでした。
スカイプをしたのは130507でした。作成は、130511

@AkaNisin さんはいう。やはり自分としては「荀悦の思想から『漢紀』の毀誉褒貶を読み解くのか、『漢紀』の毀誉褒貶から荀悦の思想を見つけるのか」に興味があります。前者はわかりやすいですが新発見がなく、後者は根拠に乏しくなりがち…。なのでまずは前者の事例を示すことで『漢紀』に「春秋の筆法」が含まれることを証明し、その上で後者へ発展していく、、、というアプローチが面白そうだなと思いました。
@AkaNisin さんはいう。あと、すみません。補足していただいた『後漢書』の尹勲伝なのですけど、どこを見れば重複していることが?わかるでしょうか?
ぼくはいう。『後漢書』列伝47の劉瑜伝「勳字伯元,河南人。從祖睦為太尉,睦孫頌為司徒。勳為人剛毅直方」、列伝57の党錮伝「尹勳字伯元,河南鞏人也。家世衣冠。伯父睦為司徒,兄頌為太尉,而勳獨持清操」と重複です。前者は列伝を持たない人の紹介ぽいです。お伝えしましたとおり「尹勲伝が重複してる」は、どこかの本で読んだのか、原点への注釈で読んだのかは忘れました。専伝2つではないので、范曄の明確なミスとまでは言えないかも知れませんが、諱+あざな+出身地+家系が2回書かれてるのは事実です。

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補足:堀池信夫先生の「荀悦論」

長谷川先生の参考文献である、堀池先生の「荀悦論」をまとめておきます。
堀池信夫氏『漢魏思想史研究』明治書院1988の、2章「後漢期の思想」四「転換期の思想」四「荀悦論」

漢家の復興を願う者

頴川の荀氏は、屈指の豪族。八龍の荀倹の子が、荀悦(148-209)。

堀池先生は、日原利国「荀悦の規範意識について」(『漢代思想の研究』)を参照せよという。これも愛知県図書館で借りてきた。つぎにやります。

荀倹が早卒したので、荀悦は貧しかった。冷徹な眼光は、貧しい眼光が影響したであろう。12歳で『春秋』を修得し、借りた本を暗誦した。
霊帝期に隠遁した。荀彧の紹介で、鎮東将軍の曹操に辟された。名門かつ才能がある。黄門侍郎となり、献帝と談論する。秘書監、侍中となる。曹操に実権がうつるので、献帝は、趣味的生活を過ごすのみ。

ぼくは思う。このあたりは、『後漢書』荀悦伝に基づく。


荀悦は、漢朝再興の希望を献帝に託する。その一助のため、『申鑑』を執筆した。「前鑑すでに明らかなれば、後ち復たこれを申ぶ」と。歴史上の経験にかんがみ、献帝によって新たに復興するであろう政体において、その経験をさらに展開させよう、という意図である。
『漢紀』を作成した。列伝を省略した、帝王の事績を編年的にしるす『春秋』体である。「経」としての「史」を目指した。論評には、歴史観がはっきり窺える。

ぼくは思う。『漢紀』は列伝の省略なのか?ちがうと思う。列伝もまた、本文に吸収したように見えるけれど。べつに本紀にしぼったわけじゃあるまい。


経験にもとづく、合理的な知識人

王充以来の合理的知識人の系譜に属する。
神仙・養生しそうへの懐疑的な態度。
『申鑑』俗嫌にある。自分の経験にもとづき、合理的に主張する。経験の外部にあることは、無条件に否定はしない。「人間としての神仙はあり得ないが、人間以外の怪異としての神仙は否定しない」という態度である。神仙が仮に存在したとしても、経験の外部に属するものとして、まともに議論の対象として、取り上げようとしない。荀悦にとって、超経験的なものは、生起し得ぬものとしてあったもののごとくである。
男女が転換したり、死人が蘇生することはありえる。だが人間の本質が変更されてしまうことはない。また、錬金術は不可能である。物事の本質は変化しないからである。

神仙の議論は、決して強引に論理化・合理化しない。経験の合理性の範囲に問題を限定する。超経験的で不可知的なものは、否定的(積極的に肯定しない)あるいは判断を保留する。
不老長寿は、疑っているのだが、不可能という確信はもてない。

おなじく経験合理的に反するもので、呪術的なもの、迷信的なものは、基本的に否定の態度をとる。しかし無条件に否定しない。呪術的な卜筮を、無批判に受容しない。いったん否定的にとらえ、あらためて倫理的な意味において価値があるものは採用する。冷静な態度の前にあっては、呪術は必ずしも呪術とはいえない。

ぼくは思う。出典をちゃんと書かないが。すべて『申鑑』俗嫌から。

吉凶も禍福も、まったく流動的。立場を異にする者にとっては、相反して捉えられる。方位のタブーも相対的なもの。

不老長寿や神仙術は、健康・医術とかかわる。荀悦は懐疑的な態度とは一転して、積極的になる。経験をとうとぶ立場からするなら、呼吸や導引の儀法は、人間を神仙に変容させないが、経験的に健康には効果がある。

ぼくは思う。堀池信夫先生の「荀悦論」を読んでいると、「経験」がキーワード。ハイデガーとかフッサール(とくに後者)を読みこなしておかないと、荀悦論をやれないということかも。ぎゃあ。

荀悦は、薬物や鍼灸の多用を戒めつつ、経験的に効果をみとめるものは、肯定する。錬金術のように、本質を変化させねば、絶対に生起しないことは批判する。このような認識の立場は、後漢の知識人のひとつの型である。

荀悦と天人感応の解釈

王充は、天人感応を強く否定した。荀悦は、むしろ肯定する。後漢の合理的知識の系譜に属する人物としては、異例である。

天人の応、由来するところは漸(はるか)なり。ゆえに履霜・堅氷は、一時にあらざるなり。仲尼の祷(いのり)は、一朝にあらざるなり。

天人の感応は、一朝や一時で快速に示されない。たとえば何かの天災があり、それが天譴であっても、人間のどういう事実に対応するのかは、不確定であるという。

堀池先生はいう。Ch'enはいう。荀悦は宇宙的知識(天人感応)の達成については、ほとんど確信をもたない。
ぼくは思う。これは長谷川先生もおなじ。

通常の感応説のように、はっきりしない。「天(天神)」について、超越性を認めていなかったようだ。

およそ三光の精気の変異は、これみな陰陽の精なり。そのもとは地にありて、のぼりて天に発(ひら)く。政、ここに失われれば、すなわち変、彼にあらわる。影の象形、響きの応声のごとし(『漢紀』巻六)と。

天人感応の機序はみとめるが、天の超越性は欠落する。地上にあった陰陽の精が上昇して、天の星辰になる。人間と天との感応は、天上と地上とともに、同質の陰陽の気を媒介としておこる。
天人感応は、呪術的で宗教的な天を背景としない。まったく気の物質的で自然的な反応である。

ぼくは思う。1つ1つの指摘の意味はわかるのだが。堀池先生の、蔵書リストをのぞかないと、ほんとうに仰りたい意味をつかめない気がする。なにか、哲学系の理論にもとづいて、これを書かれているはず。
Ch'enはいう。荀悦の発想は、『荀子』の系譜をひく。!!

天の譴責は、対応の不確定なものである。譴責の解釈は、人間の側から主体的に行わなければならない。

堀池注はいう。人間中心的な天人感応論である。
ぼくは思う。荀悦『漢紀』を読んだとき、人間ぎらいの歴史観だとぼくは思った。「人間にはどうしようもない。ただ客観的に天体が運行するだけ」という印象だった。堀池先生の荀悦像と、ちがうものになってしまったw

呪術的卜筮を倫理的に解釈しようとするのと、同じ態度である。

ここをもって明王はこれを見て悟り、身をいましめ己を正す。その咎をかえりみて、その過ちをしりぞければ、すなわち咎は除かれて福は生ず。自然の応なり(『漢紀』巻六)。

天人感応も「自然の応」であって、超自然的な天威のあらわれでない。天の反応が「漸」であることも、超越性の否定から生じた結果であろう。
荀悦は、天人感応を肯定するものの、自然的な人間との物質的反応と見なした。その限りにおいて、王充などの(天人感応を否定する)後漢知識人の認識にちかい。とはいえ、天人感応を肯定しているのだから、当時の風潮に妥協的である。

荀悦は、献帝に漢朝再興の希望を託して、保守的革新の立場にある。

ぼくは思う。ぼくは「保守的革新」の意味がわからない。日本の戦後政治史にマスコミを通じて積極的に関心をもった世代には、「ああ、あのことね」と分かる比喩なのか。保守と革新って対義語じゃん、と(事情を知った人からの、ため息が想定される)一番ヤボな疑問がわく。
さっとググった結果、保守というのは、国体(いまの用法なら漢家)の保守らしい。革新というのは、具体的な個別の政策の内容が、新しいという意味らしい。国体と政策が、2階建ての構造なのだ。「保守的革新」という言葉使いをする人々のアタマのなかでは。

列伝をはぶいた『漢紀』の体例によって、漢室の一尊を、他の他者から際立たせた。荀悦の天人感応に対する立場は、これと関係するだろう。

折衷的な天人感応説をとる荀悦は、なにか特異な理論をもっていたようである。だが明確に語らない。天地の構造が、宇宙の枠組としてすでに定まってしまった段階から思考を出発させる。むしろ存在者の、天地のあいだにおける運動、という点に興味が寄せられていたようである。地上の気が天体になるから。
揚雄が宇宙構造論につよい興味を示した反面、宇宙生成論には関心を示さなかったことと、興味の所在が近い。

儒家よりも、法家の重視

あるべき人間世界の姿は、 道の本は仁義のみ。五典もてこれを経し、群籍もてこれを緯す。(『申鑑』冒頭)とされる。

荀悦の儒教世界は「申鑑」の世界である。古を明らかにして後世を啓明する。古典的教説が躍動する世界である。「序を篤くする」社会倫理の貫通する世界である。かつて漢王朝に実際に存在した(と思われた)世界である。荀悦にとって、漢王朝の復興が、その方向でなされるべき世界であった。

『申鑑』政体では、『尚書』からの陰陽を複雑にくみあわせ、漢朝の前歴と来るべき姿(申鑑)とを、格調高く描写する。

日原氏の「荀悦の規範意識について」は、こうした点を中心として、荀悦の思想における国家至上主義の傾向を詳述する。
ぼくは思う。つぎにやります。待ち遠しい!

荀悦にとって、曹操の勢いを妨げることはできない。それは自明である。

ぼくは思う。荀悦がさかんに執筆した、190年代後半は、そこまで曹操の権力が確定していない。『後漢書』は曹操の弊害を、執筆の動機とするが違うだろう。董卓以後の兵乱のほうが、荀悦の筆を動かしたとぼくは考える。『後漢書』は、状況を適当にまるめたのんだろう。荀悦の思想を、『申鑑』の冒頭1文を引用することで、象徴的に表現=説明しきったかのように見せる。まるで手抜きの読書感想文である。

荀悦は、曹操とも献帝とも、日常的に接する。人物比較を、荀悦なりに行えた。政治の流れも見えた。それにも関わらず荀悦が献帝に期待したのは、献帝の個人的能力にではない。献帝を「儒教理念の人間化」として抽象化することだ。

このあたり、堀池氏はCh'en氏を踏まえるみたい。
ぼくは、なんだか空を飛んでいるような、不安な気分になる。いまググったら、空を飛ぶ夢は、欲望からの解放らしい。「史料に基づいて、着実に」という足かせがとけて、宙に浮いているような不安感なのかな。

だが荀悦の理念は、理念でしかない。
よくわかっていたが、儒教的世界は理想的世界であっても、現実の新しい世界を構築するだけの、思想的活力は少なかった。儒教的秩序は、儒教によって維持されない。天人感応を自然的なものと捉えた目は、政治の現実を、ドラスチックなものと把握した。

およそ政の大経は、法と教のみ。(『申鑑』政体)

記述の順序が「法」が先になっていることに注意。荀悦の意識の反映がある。儒教は、理念としては法の上にそびえる。だが具体的問題は、法が優先する。『申鑑』政体において、「四患」は禁令によって示される。「五政」のうち、純粋に儒教理念といえるのは、1つ「文教」のみ。重みは、のこり4つの法令に関する規定である。「教」は法令的に守るべきものと捉えられる。
復讐については、「義」について配慮しつつも、本質的かつ論理的にも、法として禁止する。

ぼくは思う。天人感応と復讐の話を、荀悦でやる。長谷川先生は、堀池先生の論文に「きっかけ」を見つけて、荀悦の三部作をお書きになったんだろう、と推測できる。


王符と似ている荀悦

荀悦の思想は、王符に近似する。ただし天神論の思想は王符と異なるが。
法に重心をおきつつ、儒法の併用を主張する。また、王符に人間観が似ている。王符と同じく、人間を3つのランクに分ける。

ぼくは思う。『漢書』の末尾の表でも、3つに分けるんじゃないか。

三段階に分けたあとの内実は異なるが(『申鑑』政体)、三段階に分けて人間を論評するところは、王符と似ている。

荀悦は儒法を並用しつつ、経済政策を現実的な根幹とする。これも王符と同じである。「五政」の第1は、「農桑をおこす」である。民衆の生命、生活を安穏にさえる経済的安定が、第一の条件という。
理念過剰の名教でない。強圧的な法治でもない。論理の出発は現実そのものである。過剰な理念で、現実を規制するのでない。理念を実現するには、現実をいかに整えるか、が荀悦の問題である。
荀悦の根本にある儒家理念は、現実性を欠いた。だが、理念を実現する手段として、法家や経済の、着実な方法論を考えていた。曹魏にも通用するものである。漢末の儒家は、荀悦のように経済について考えていた。

ぼくは思う。経済政策という側面でなく、民政の安定という観点から、儒家はもともと経済政策を言うじゃないか。べつに儒家の理念は、現実にひっぱられていないような気がするけど。というか、儒家のなかに、理念と現実という対立軸を想定できるものなのか?


なんだか、いろいろ疑問符が飛びまくったまま、おわり。130512

ぼくは思う。いまの堀池先生も、つぎの日原氏も、荀悦の断裂した2つの側面を指摘する。儒家と漢家への信仰に基づいた、理念のつっぱしり。法家に基づいた具体的な支配の政策。この両者を、どちらの先生もうまく消化できていない印象。その理由がわかりました。『後漢書』荀悦伝がわるい。
『後漢書』荀悦伝に、荀悦は曹操が献帝を圧迫するから、、と書いてある。これを前提に読むと、「献帝その人には絶望して、曹操に従わざるをえない。しかし献帝の背後にある、儒家の理想を捨てられない」という引き裂かれた荀悦像がでてくる。しかし、ちがうのだ。『後漢書』をそのまま読んではいけない。
『漢紀』が上程されたのは、200年。『申鑑』はそれより前っぽい。荀悦は209年に死ぬ。ここから考えるに、まだ曹操は丞相にすらなってない時期に、荀悦は執筆している。魏公や魏王なんて、遠い未来である。
荀悦が取り組むべきテーマは、曹操の牽制ではない。むしろ、董卓と李傕が偽造した献帝を、正統な皇帝だと、曹操とともに補強せねばならない。まだ袁紹が健在である。袁紹が献帝を伺っている。袁術だって生きている。そんな時期に荀悦が、曹操を掣肘するはずがない。むしろ掣肘するなら、袁術と袁紹である。荀悦が州牧を批判するのは、具体的には袁紹を批判しているのだろう。曹操政権の一員として、必死に献帝を盛りたてて(守りたてて)いる。荀悦の著作は、こう読まねばなるまい。
荀悦が、荀彧や孔融と親交をもった。この荀悦伝の記述を受け入れるなら。この人脈から類推して、「曹操と対立する荀悦」がザツに造形されたんじゃないか。だって荀悦の思想を、『申鑑』の冒頭から言葉を引用することで、「どうや!これだ!」と断定してしまう『後漢書』である。まあ膨大な史料の編集があるから、まとめがザツになるのは、責められないけれど。
できた。一説、できたw
荀悦『申鑑』『漢紀』につき、新しい読解の可能性がひらいた、ような気がする。范曄『後漢書』の偏向=図式化にだまされてはいけないと、ある高名な研究者(の一歩前?)の方が、言っておられた。新しい荀悦論が始まるなあ!長谷川先生の論文を更新できるようなこと、見つけたい。
きっかけは、このツイートでした。
@AkaNisin さんはいう。ジュンエツイイヨー ゴカンマツダヨー

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補足:日原利国「荀悦の規範意識について」

1『後漢書』荀悦伝から問題設定

『後漢書』荀悦伝はいう。『申鑑』の執筆動機は、曹操の専権をみて義憤を抑えがたく、著述に駆り立てられた。献帝への忠誠と、儒家的当為の所産である。直情的な行動、激越な毒舌をしない。学者的憤懣が「政体を通見する」かたちで流出した。
『漢紀』は、范曄に賛辞をもらう。『漢紀』自序いわく、「尚書は紙筆を給し、虎賁は書吏を給す」である。献帝の期待と熱意がある。
『申鑑』が、曹操への抵抗意識の発露であり、『漢紀』は歴史を素材として、正義感と批判精神を結晶したものである。

ぼくは思う。こうして『後漢書』荀悦伝に執筆動機をあわせると、読解を根本的に誤るのだ。という話を、つくっていきたい。190年代の研究家としてw

荀彧と孔融は、曹操に誅殺された。だが荀悦だけが、諫言せずに天寿を全うした。もろさや不徹底さを、いかに理解すべきか。曹操に追従したようにも見える。荀悦の思想はいかなるものか。

ぼくは思う。「追従したように見えるが、実際はどうか」という問題は、「どのように妥協的で追従的か」を明らかにする作業となっている。問題設定からして、やはり違うのだ。


2 思想の振幅でなく、論理の弾力性

荀悦は、論理形式と事実認識をおもんじている。政体「善悪は功罪に要し、毀誉は準験に効す」とは、実証主義、事実主義である。時事「学者 意を先にして借定するところ」は「天水 違行す」である。

結論ありきで、なんでも結びつけるなと。

帰納的方法にこそ、論理の生命がある。

現代的意義をうしなった主張は、価値がない。「非礼」「非典」をにくむ規範性をもつ。
時事と雑言下にある「権」と「経」の問題は、孔子も説くテーマである。固定した永遠性を盲信してはならない。「遇たま然るところ」に敏感でなければならない(『漢紀』巻21)。「礼」は「権時の宜」とつなげて強調される(『漢紀』巻20)。批判が「常典」と「時宜」を総合してこそ、意味がある(時事)。
ただし「時宜」への適合は、妥協に見られる。荀悦は、政体、俗嫌、『漢紀』巻13で、「中和」の徳に価値をみとめる。しかし、やはり妥協にすぎない。時事、『漢紀』巻20では「もし権時の宜をもってすれば、すなわち論を異にす」とむすぶ。

ぼくは思う。献帝がやっと長安を脱出して、曹操に落ち着いた。しかし曹操政権が、袁紹につぶされないか、まだ分からない。荀悦は、これ以上のことを言えない。そういう認識の反映ではないか。

卑怯な遁辞にすらみえる。

孔子の「正名」は、馬融が「百事の名を正す」というとおり、論理学的な立場である。政治と不可分である。江都王が天子の旌旗をもらったことにつき、荀悦は『漢紀』巻9で「過ぎたり」と結論し、「ただ器と名とは、もって人に仮すべからず。君の司るところなればなり」と孔子の言葉をひく。

江都王にあまり大きな権威をあずけてはいけない。君主が、たずなを持っておくべきだと。献帝の弱体化(二袁などの強盛)と対応している。荀悦は、曹操のがわにいて、袁紹と袁術を批判した者である。もし袁紹と袁術が、理論において倒れることがあるのならば、荀悦のような言論によってだろう。

「正名」は概念規定であるが、同時に「政の大節」につながる。荀悦は、概念規定に異常に執着する。概念とは、一般と個別との合一であり、形式と内容の一致である。概念規定を重視するのは、形式と内容の差異に鋭敏な証左である。「正名」とは、ある姿と、あるべき姿の合致の要求である。礼典主義である。

「江都王」という肩書と、江都王に実際に与えられた特権のあいだに、ギャップがある。荀悦は、これを怒っているのね。


雑言上「先王の道は、訓をいたす。ゆえに道に違うことなし」と、道徳政治を標榜する。ここから君主を「6主」に分類する(『漢紀』巻16)。定義と評価は、道義によってなされる。君主を、倫理的な存在とする。雑言上「礼度の典、目にむなしからず。非義の道、心にのべず」を、君主が留意すべきだ。個人的な実践道徳により、為政の準則とするのは、時事「家を正して、天下 定まる」という儒家の伝統に支えられる。

臣下を「6臣」に分類する(『漢紀』巻16)。佞臣と権力欲が、おおくの賢人をころした。『漢紀』巻23で「詩にいう、彼の讒人をとり、豺虎に投_せんとい。にくむこと深きなり」と。石顕への攻撃(『漢紀』巻22、巻23)は、後漢末の政治への批判である。直言できない。「道をもって君につかう」という王臣が理想である。政体「道のもとは、仁義のみ」と。
しょせんは、儒家の実践道徳である。人臣の場合も、個人道徳が、政治に結びつけられる。
「道実」のひとつに、「通」をかぞえる。これは政体で「変数をもって通となす」と定義される。礼典の規範性だけでなく、変数の適応性がふくまれる。

雑言下でも、変通を主張する。思想の振幅と、論理の弾力性とを誤解してはならない。荀悦は直線的な「経」のみでなく「権時の宜」を説くことがある。便乗や妥協ではなく、概念規定の段階から、すでに(便乗や妥協と結果として同じだと誤解されるような)論理の弾力性を持っている。

ぼくは思う。「つらぬけ」と定義したのに、ブレるのではない。「つらぬきつつ、ブレてもよい」と定義した上で、確信を持って意図的にブレるのだ。荀悦は矛盾していないよと。まあ、他人から見たら、結果はブレてるだけなんだが。


3 教化と法刑を折衷する

君主は、輔弼の臣がいてはじめて、理を禹を実現できる。雑言上「君臣にあらざれば、治を成さず」と。君臣は併存できない。政体「およそ政の大経は、法・教のみ」という。『漢紀』巻23で「徳・刑のならび行うは、天地の常道なり」という。二元論的である。
『漢紀』巻23で「先王の道、教化を上にして、刑法を下にする。文徳を右にして、武功を左にする」という。伝統的な見解に、後退しているように見える。二者択一するなら、荀悦は儒家に流れる。しかし為政の実際においては、徳教と法刑を対等とする。巻23「治体の終始、聖人の大徳を究めざる」である。「時」「処」「政」に起因して、適応する。時事「時宜」の適応性の問題である。

ぼくは思う。曹操政権のブレーンとして、曹操の政策立案に、荀彧とともに参加した。そりゃあ、折衷的にならざるを得ない。曹操は、献帝をもつという理念的な側面と、しかし弱小の軍閥であるという現実的な側面をもつ。このギャップは、短所ではない。むしろ、弱小なくせに献帝をもつという、ギャップを含みこむことが、曹操の卓越化の戦略なのだから。荀悦は、このディバイドから出発するしかない。


政治は「略」「簡」から始めて、漸次的に「密」「備」にゆくのが基本線。『周礼』にいう「新国を治むるには軽典をもちう」とおなじ。

ぼくは思う。「新国」とは、曹操政権である。

はじめからガチガチに刑罰をやるのは、春秋の義にも反する(『漢紀』巻23、時事)。
孔子は、徳教もはじめは簡潔に始めるべきという。「教化のさかんなる、行いを起こさざるなし」という実践に到達する。

復讐の規定も同じ。復讐は「古義」であるが、国家が放任できない。そこで折衷するため、一定の地域の外部に退出して、そこで復讐をすれば無罪とする。「これを制するに義をもってし、これを断ずるに法をもってす」である。「義・法、ならびたつ」ことが可能になる。折衷であるが。当時の典型的な復讐観を代弁したものであるが。

『孟子』の性善も、『荀子』の性悪も、反例がでてしまう。だから公孫子の「性に善悪なし」を採用する。後天的な条件によって、性質が決定されると考える。劉向は「性・情、あい応ず。性 ひとり善ならず。情 ひとり悪ならず」というが、荀悦はこれに合意する。『漢紀』巻6の三勢説も同じ。
人間には3ランクがある。上中下があるが、ほとんどの人間が中くらいである。「中人にいたりては、上下すべき者なり」という。最低でなければ、最高の堯舜レベルに上昇することもあり得る。部分的な肯定である。堯舜と桀紂のあいだで、どうにでも変化するという。性質の絶対性を否定する。
雑言下「法・教 得れば、すなわち治まる。法・教 失わるれば、すなわち乱る」と。

桀紂のように転落するのは、袁術であるw

政治の実際にあたり、君子を遇するに礼をもってする。小人を遇するに刑をもってする。中人にたいして「刑と礼、これを兼ねる」のが適切である(政体)。

4 群雄の僭越の可否、遊侠や州牧

過去のの強大な礼経国家の再現は、荀悦の幻想をかる。思想が国家主義的に傾斜する。現実批判が、強幹と弱枝になる。
荀悦の国家中心主義の判断形式は、春秋の義をあおぐ賞罰論にあらわれる。公羊学は、心意の悪質性をさばく動機主義である。趙王の趙敖、趙相の貫高は「主(高祖)を殺すの賊」である。『漢紀』巻4。高祖を殺すと思った者を、荀悦はきびしく弾劾する。

しかし矯制は結果主義である。「それ矯制のことは、先王の慎むところなり」と(『漢紀』巻23)。強大な君主権を是認する『春秋』において、「大夫に遂事なし」だが「やむを得ずして、これを行う」と例外も許される(『漢書』巻23)。「ここを出でてもって社稷を安んじ国家を利すべき者ある」場合、「これを専らにするも可なり」である(荘公19年)。

ぼくは思う。荘公19年の話は、曹操がイメージされている!
ぼくは思う。ところで、荀彧の人物像について。『三国志』荀彧伝と、『後漢書』荀彧伝を、詳細に比較したもの(書籍でも論文でもサイトでも)って、あったっけ。両者を徹底的に比較したら、何が起こるか。荀彧については何もわからないが(笑)、『三国志』と『後漢書』の史料がもつ性格が明らかになるに違いない。やるべし。

公子遂(僖公33年)は、遂事なし。公子結(荘公19年)は、遂事あり。荀悦は、徐偃の矯制と、人民本位の『春秋』解釈とを糾弾した終軍の論断が、国家権力を是とすることになった(『漢紀』巻13)。

しかし注目すべきは、荀悦がそれ以上に明確に、結果主義を表明する。『漢紀』巻23はいう。矯 大にして、功 小なる者は、これを罪する。矯 小にして、功 大なる者は、賞する」と(『漢紀』巻23)。心的態度ではなく、結果の功績により、機械的に賞罰をせよという。国家政策に逆行した徐偃は、処罰された。同じく矯制した馮奉世と甘延寿は、封賞された。政策を逆行した者でも、結果が国家にとって良ければ、賞されろという。
『漢紀』巻23では、徹底した動機主義と、功業の大小で矯制の是非を判断する結果主義が、国家的見地で統一される。2つの矛盾は「おのおの、その宜によるなり」という概念により、解消される。

国家権力を弱体化するものを憂慮すべきだ。

ぼくは思う。曹操軍の強化である。荀彧が、袁紹と曹操の戦況分析をしているとき、荀悦も違う角度から、曹操政権を分析していたのだろう。

軍備の充実を急務とする。武帝の故事にならい、「尚武の官」の設置を提案する。政体「威 強なるにあらざれば、もってこれを懲らすことなし」という。「秉威」が5政にかぞえられる。時事「教えざるの民を戦わしむ。これを棄つるという」と。だから訓練した軍備をつくれと。

遊興、遊説、遊行につき「この三遊は、乱のよりて生ずるところなり」、「法をやぶり、世をまどわす」である。国家規範を尊重するために、断罪する。

これは袁紹を断罪しているのだ!
ぼくは思う。受肉、授乳、授熱。いそいでパソコンを打っていると、荀彧、荀攸、荀悦をミスる。荀彧が曹操政権を誕生させ(受肉)、荀攸が曹操政権を守り育て(授乳)、荀悦が正統性と求心力のあつさを付与した(授熱)。という議論を、いつか展開したいと思う。いや、本気です。

三遊は「徳の賊なり」、「道をそこない、徳を害する」、「職を守って、上を奉るの道は、三遊のせいで廃された」、「親にそむき、党与のために死するのを義とする」と。巻28でも、反儒教的な面を批判する。司馬遷は、民間の秩序を維持する者として遊侠をほめたが、荀悦は「六国の罪人」という(『漢紀』巻28)。
「匹夫の細をもって、生殺の権をぬすむ。罪、すでに誅にも容らず」と反国家性をせめ、「道徳に入らず。いやしくも末流に放縦せん」と、反礼経性を批難した。『漢紀』巻28より。

荀悦は州牧の数がかわるのを「典にあらざる」といい、「いまの州牧、号して万里をなし、群国をすべる。威はとうとくして、勢はおもし。いにしえの牧伯と号を同じくして、勢を異にする」という。強大な州牧は、君主を阻害する。権力の簒奪者である。時事「幹をつよくして、枝をよわくする所以にあらざるなり。しかして民を治むの実に、益なし」と。国家権力を弱めるだけである。監察御史にあらため、直線的な統治体制にせよと、

ぼくは思う。遊侠と州牧を批判するとは、袁紹の批判である。

ただし荀悦はいう。時事「権時の宜のごときは、すなわち論を異にす」と。論理は徹底を欠き、思想の妥協性を、自分で暴露する。

ぼくは思う。袁紹が強いのは、いかんともしがたい。袁紹を破るための方策は、べつに必要である。という意味だと思う。


豪族もまた、国家権力のジャマである。10分の1税が「天下の中正」なのに、漢代は100分の1しか徴収できない。
土地所有も問題である。『漢紀』巻8と時事はいう。「諸侯は封をもっぱらにするを得ず。大夫は地をもっぱらにするを得ず」と。これが春秋の義である。「みずから封をもっぱらにする」「みずから地をもっぱらにする」のはダメ。ただし時事いわく、井田制は時代錯誤である。『漢紀』巻8で、土地と租税の政策についてのべるが、古制と現実の折衷案である。つかえない。

ぼくは思う。曹操のもとには、経済官僚みたいな人が優れてた。荀悦が出る幕がなくても、かまわないのだ。それよりも、献帝の正統性を高めてあげないと。そのための「国家主義的」な傾向なのだ。


5 同姓諸侯王を封じよ

家族道徳のおこなわれる、理想社会を実現しようとする。『漢紀』巻5はいう。「『易経』に曰く、先王は万国をたて、諸侯を親しむと」と。孔子は、世卿をそしるが、世侯を改めない。

ぼくは思う。同姓王の肯定だろう。家族の道徳というより、異姓王はダメだが、同姓王は良い、という封建制の議論ではないのか。

『漢紀』巻5と28はいう。「民に親しむこと、子のごとし。国を愛すること、家のごとし」と。君民が、強制ではなく、父子の愛情でむすばるとき、政体「天下国家は一体」となる。封建制のもとでは、「分土」はあるが「分民」は認められない。『漢紀』巻5「その一統をすべて、もってその政を御する」と。その政治は「みずから為にする所以にあらず。民の為にする所以なり」と。
呉楚七国ののち、漢家は「諸侯の権を絶つ」暴挙をした。これは「当時の制」にせよ、「百王の法」でない。あるべき政治は、家族のように、同姓諸侯を封じることだ。仁義と愛民である。雑言上「人主は、天命をうけて、もって民を養うもの」である。人民の生活がはじめだ。

ぼくは思う。同姓諸侯王は「父子」の概念的な拡張であり、異姓諸侯王は「君臣」の概念的な拡張である。君臣の関係は、父子の比喩によって把握される。父子の関係性のほうが、より根源的で身の丈にあって理解できる。だから、同姓諸侯王のほうが、すんなり儒家に主張される。


荀悦の主張は、後漢末への批判と反発の結果かもしれない。だが国家的利害が、人民の福祉に優先することは許されない。儒教道徳を優先する。『漢紀』巻3で、高祖が父の太公を拝させたことを排撃する。あくまで家族道徳が至上である。血縁関係を蹂躙する、君臣関係を許さない。
叔父の荀爽も「妻をもって夫を制するは、卑をもって尊にのぞむ」という。妻が夫を制するなという。家族道徳を重んじるのは、家門の説である。尚主の制を改めろ(時事)、三年喪をやれ(『漢紀』巻17)という。

後漢末の時勢にもとで、荀悦は国家主義の色彩が濃くなった。だが家族道徳に抵触しない範囲での、国家主義である。荀悦は、実証主義と帰納的方法をやるつつも、儒教的ドグマにからめとられる。
現実解釈においては厳しく実証的であり、すぐれて帰納的でありながら。その解決策ないし未来図の構想においては、経書からの安易な演繹、儒家的教説の不用意な援用のごとき、ドグマチズムに陥っている。儒家の病弊である。論理の徹底性と一貫性をかく。立場が脆弱で、思考が曖昧だと、誤解や非難を受けてしまうものだ。

ぼくは思う。日原氏は荀悦を「惜しい」というのだ。

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補足:池田知久氏他、天人感応に関する先行研究

以前にレジュメにまとめた、天人感応について。

平岡武生氏の天下的世界観

平岡武生「天下的世界観」(『経書の成立』1983創文社)
『尚書』等で、天と民の関係は、単一性・完全性・絶対性 をもつ
; 天は民に、つねに保護と恩恵を垂れる

国土・人民は天に属し、官僚は王に属する
; 王は官僚を通じて民(=天)を統治、悪政を天(=民)に譴責される

池田知久氏の董仲舒の話

池田知久「中国古代の天人相関論-董仲舒の場合」
(『世界像の形成』東京大学出版会1994)

「天」に属する諸現象の原因は、為政者である「人」の
主体的・能動的な 倫理・政治の善悪であるとする思想

「天」は人格を持ち、為政者を観察し、
万民への善政を要求し、譴告し、傷敗して革命を起こす


「天」は為政者の「誠に応じて」祥瑞を下す
董仲舒「対策」:諸福の物、致すべきの祥いは、畢く至らざる莫し
『墨子』天志上:天意に順う者は必ず賞を得。天意に反く者は必ず罰を得。

黄老・道家は「天」を「自然」「無為」「万物」、
機械的な循環運動とする(桓譚・王充も同じ)

董仲舒は、戦国末~漢初の諸思想の「天」「道」を、
宗教的主催者「天」にまとめ、諸思想を吸収

「天子」は、主体的・能動的な働きかけにより、
有人格の「天」と、対等または優越 … 三才の思想

『春秋繁露』王道通: 天地と人との、
中を取りて以て貫きて之を参通するを為すは、王者

渡邉義浩氏の『白虎通』の話

渡邉義浩『後漢における「儒教国家」の成立』2009

『白虎通』に現れた後漢儒教の固有性
:天子と皇帝という二つの称号の宗教性、臣下への配慮

漢魏における皇帝即位と天子即位
:『白虎通』は『尚書』顧命が典拠
; 伝位・禅譲とも、皇帝→天子即位の順

「魏公卿上尊号奏」にみる漢魏革命の正統性
: 文帝紀注引『献帝紀』、『尚書』堯典で堯舜革命に準える

「受禅表」における『尚書』の重視
『論語』堯曰・『尚書』堯典からの引用、『尚書』顧命の即位順序

などの先行研究をまとめたこともありました。130512

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