01) 東晋からの名門・范氏
前半2回で、岩波書店の『後漢書』1巻末にある解説を読みました。カンタンな読書メモだけをアップします。
手に入りやすい本なので、詳細はいつでも本文を読めばいいはず。
後半2回で、吉川氏の解説に基づいて『後漢書』のウソを暴き、正しい三国時代の理解に導こうと仮説します。
南朝宋の范曄に興味がないときは、右枠から03) にお飛び下さい。
史書の伝統と継ぐ范曄『後漢書』
前四史とは、『史記』『漢書』『三国志』『後漢書』である。
『後漢書』は5世紀の南朝宋の范曄が1人で書いた。本紀と列伝からのみ成り、志は司馬彪『続漢書』から補われた。范曄も志を準備したようだが、政治のトラブルで謀反人として死刑になった。
後漢は光武帝から孝献帝までの200年。我々は『後漢書』によって、この王朝のイメージを与えられる。
范氏の先人たち
范曄は『宋書』巻69、『南史』巻33に列伝がある。398年、劉秀と同じ南陽郡の順陽で貴族の家に生まれた。
◆曽祖父
范曄の曽祖父は范汪で『晋書』巻75。東晋の安北将軍・徐兗二州刺史として京口に鎮守し、北府の軍団長だった。同時に博学で、『隋書』経籍志には、祭典、尚書、家伝、囲碁などの著作のタイトルがある。
范汪の人柄はどんなか。
范曄は、『後漢書』列伝43の黄憲伝に論を載せ、
曽祖父の范汪が黄憲に寄せた思いを記した。ここから、范汪のキャラクターを知ることができる。
「曽祖父は、黄憲を慕った。黄憲は何事にも順応する立場にやすらぎ、奥深くて道そのもののあり方のようで、浅深や清濁といった価値判断を超越している。もし黄憲が孔子に師事していたら、顔回と同じく聖人となっていただろう」
曽祖父の理想が、黄憲のこんな生き方だった。
◆祖父
祖父の范寧は『晋書』巻75。豫章太守に情熱を注ぎ、『穀梁伝集解』を著した。穀梁伝は范氏の家学だから、范寧1人の手柄ではない。
家学だから、范曄も継いだ。
『後漢書』の列伝20下で、道術家を論じるときに、范曄は『穀梁伝集解』の序文を引用した。
また列伝25で鄭玄の論に、范曄は祖父のことを書いた。
「祖父は、鄭玄の学統に傾倒した」
◆父
范曄の父は、范泰だ。『宋書』巻60、『南史』巻33。父の名前が「泰」なので『後漢書』で忌まれて、郭泰は郭太となり、鄭泰が鄭太となり、泰山が太山と記される。
父は416年に劉裕に九錫を授ける使者として、彭城に赴いた。だが政治は下手なので、出世しなかった。『穀梁伝集解』に加筆した。
父は晩年に建康の自宅の一部を寄進して、祇オン寺を営んで仏教に帰依した。
「儒教の古典は、世俗を救済して、政治を行なうための本である。霊性の真奥を求めるならば、仏教がピッタリである」
范曄は『後漢書』の逸民伝にて、政治に背を向けた隠者たちを褒めた。論にて、父についても言及した。
さまざまな後漢時代史
范曄は、范泰の第4子。従伯の范弘之を継いだ。だが母がトイレで産み落としたため、レンガに額をぶつけた。范曄の幼名はセンというが、レンガの意。
南朝宋の文帝432年冬、皇弟・劉義隆の母の葬儀の夜、バカ騒ぎして不興を買い、宣城太守に左遷された。ヒマなので范曄は、過去の後漢書を整理して『後漢書』を書き上げた。
范曄が参考にした後漢書は多い。
すでに班固が後漢明帝のとき、世祖本紀(光武帝紀)を書き始めた。光武帝に敵対した公孫述は載記に記された。『晋書』が五胡十六国を書いたスタイルの先駆けだ。
後漢では、東観という役所で『漢記』を作るプロジェクトが継続され、後漢の歴史書は小まめに書き足された。
桓帝時代の応奉は『漢記』を参考にして『漢事』を作り、『史記』『漢書』とともに「三史」と呼ばれた。孫権が呂蒙と蒋欽に勉強しろと命じたとき、この「三史」を読めと言った。
官製の『漢記』は評判が悪かった。呉の華覈が韋曜を弁護したとき、
「『漢記』は、班固の『漢書』にひどく及ばない」
と述べている。
『漢記』が悪かったのは、現王朝に気を使ったからだ。三国の呉蜀では、中原に偏りがちな『漢記』に地方の情報を補った。
両晋でも、たくさんの後漢書が作られた。東晋の袁宏『後漢紀』は現存している。