表紙 > 読書録 > 吉川忠夫「『後漢書』解題」で剥がすニセ後漢史の仮面

02) 『後漢書』セールスポイント

前回は、東晋の名族・范氏の祖先と、
范曄が参考にした後漢書の前身たちを見ました。
ついに主役の范曄が登場です。

六朝の歴史ブーム

六朝時代は、史学が学術の1ジャンルとして自立した時期だ。それまでは経学に従属していた。
後漢が滅びたあと、呉の謝承を筆頭にして後漢書のラッシュが続いた。その理由は、六朝の人が自分たちの淵源を明らかにしたいという欲求に駆られたからだろう。

吉川氏は確かな意図を持ち、自明のこととして書かれていると思うんだが、ぼくは新鮮な驚きを得ました。
六朝の人が、自分たちの淵源を知りたかったと書いてあります。六朝は、孫呉からカウントします。つまり、洛陽が五胡に奪われた東晋時代からではなく、早くも孫呉に仕えた人士たちが、自分の原点探しを始めていたんだね。
魏に転職すれば、原点に帰れるよ」
とアドバイスをしてあげても、孫呉の人たちは首を横に振るってことだ。東晋の人と同じ喪失感を、孫呉の人たちは描いていた。
正閏論の主役は魏蜀だが、どちらもウソ臭い。だから本当に後漢を慕う人ならば、正統性にうるさくなく、ウソのない孫呉に移って、コツコツと研究に励んだ。孫呉が単なる第3勢力から、歴史&物語&正閏論の主役に格上げされる日は近いかも?

范曄もまた、すでに後漢時代史はいくらでもあったのに、自分なりに『後漢書』を撰述したかった。

范曄は紀伝体を採用した。
『隋書』巻58の魏タン伝に、范曄の言葉の引用がある。
編年体の『春秋』は、簡潔すぎる。紀伝体の『史記』『漢書』は、とても詳しい。紀伝体の方が、きちり書き込むには便利である」
范曄は多くを華嶠『後漢書』から引用した。
范曄の編集方針は、雑伝に見ることが出来る。循吏伝、酷吏伝、宦者伝、儒林伝、文苑伝、独行伝、方術伝、逸民伝、列女伝がある。『史記』『漢書』になくて范曄オリジナルなのは、宦者伝、文苑伝、独行伝、方術伝、逸民伝、列女伝である。党錮伝も他にない。

「反逆者」范曄

范曄は王朝に大逆した。范曄を引き込んだのは、孔熙先である。孔熙先は、父子2代の恩義を、彭城王の劉義康に抱いていた。孔熙先は才能に溢れたが、員外散騎侍郎の閑職にあった。
440年に劉義康が中央から失脚すると、孔熙先は劉義康を皇帝即位を助けようとした。文帝に対する謀反である。
孔熙先は謀反の計画に、范曄を巻き込んだ。失敗して、446年1月23日に建康で公開処刑された。范氏は族滅させられた。范曄は48歳で死んだ。
『宋書』は范曄について論じないが、梁の裴子野『宋略』や、清の王鳴盛『十七史商カク』では、范曄が冤罪だったと弁護している。

范曄の性格はルーズだったようだ。文帝は『宋書』で、
「范曄は性格が疎なので、主簿の沈ハクがよく輔佐しろ」
と言っている。
この沈ハクとは、『宋書』を編纂した沈約の父だ。

沈約にとって、前王朝の謀反人・范曄は、父親の上司だった。同時代の歴史を編修するのは、近すぎて難しいことです。
范曄と沈約の歴史家としての才能を云々することが盛んのようです。

范曄の心の軌跡「諸甥姪に与うる書」

范曄の遺言である。
「私は罪人になった。弁解できない」
から始まる。この中で『後漢書』について述べている。
「私は歴史書に関心がなく、よく分からん本だと思っていた。古い著述や評論を詳しく眺めてみると、下らないものばかりだ。班固の『漢書』は有名だが、行き当たりばったりである。巻末の賛には道理がない。ただ『志』だけが、体系立って素晴らしい」

皮肉なことですが、范曄は『後漢書』に、お好みの「志」を付けずに死にました。お手並みを拝見したかったですね。

この点につき、范曄が『後漢書』班固伝で述べるには、
「班彪と班固は、儒教の価値にそぐわないから、司馬遷を批判した。だが私=范曄から見ると、班彪と班固はますらおぶりに欠ける。もっと仁義を重んじ、直線的に節を守り通すべきだ」
范曄は烈しい行為に傾倒したから、独行伝を立てた。独行伝とは、他の巻に収めると全体の調和を失ってしまうほどの、常識を外れた生き方をした人の記録である。

学術論文でも同じですが、先行研究を批判するところに価値が生まれます。
范曄が班固との違いを強調したこの部分が、范曄なりの『後漢書』の執筆動機です。少なくとも吉川氏は、そう解説してる。


再び「諸甥姪に与うる書」に戻ります。
「私が書いた雑伝の論は、天下の傑作である。会心の出来だから『過秦論』にすら劣らない。

セールスポイントを自ら言っている!

また私は『漢書』にある限りの『志』は、全て『後漢書』にもつけようと思った。だが未完成である。私の『後漢書』は本紀と列伝しかないが、まず大綱を示したものだ。古来から、体がでかくて、神経が細やかな人がいた試しはない

分量が少ないことへの言い訳ですね。世間の身体の大きな人が聞いたら、きっと怒ります。きっと范曄は平均未満の体格だったのでしょう (笑)

班固の『漢書』には「志」が10ある。范曄は少なくとも10は書くつもりだったはずだ。『後漢書』の列伝で「志」へのリンクを貼ってある。書く予定があったことが分かる。

以下、省略

范曄は声調の研究者だった。琴の名手だった。書道はあまり上手くなかった。そんなネタが「諸甥姪に与うる書」の話題になっています。でも『後漢書』と直接は関係ないので、吉川氏を引用しません。
続いて吉川氏は、
 ◆范曄『後漢書』以後
 ◆刊本の時代を迎えて
という節を設けていらっしゃいますが、范曄の話題から離れるので、やはり引用しません。

次回、今回の引用を踏まえて、感想を書きとめます。『後漢書』を読むためのヒントを想像します。