曹魏 > 「荀彧の死」勉強会の準備/順次追記

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『三国志』荀彧伝の後半

『三国志集解』を読んで、抜粋・抄訳をしておきます。
荀彧は、いちどやってるが、今回はより細かく。
「荀彧伝」:赤壁を撤退させ、曹操の天下統一を妨げたのは荀彧だ

建安9年、九州の議論

九年太祖拔鄴、領冀州牧。或說太祖「宜復古、置九州。則冀州所制者廣大、天下服矣」太祖將從之。彧言曰「若是、則冀州當得河東、馮翊、扶風、西河、幽、幷之地所奪者衆。前日公、破袁尚禽審配、海內震駭。必人人、自恐不得保其土地、守其兵衆也。今使分屬冀州、將皆動心。且、人多說、關右諸將以閉關之計。今聞此、以爲必以次見奪。一旦生變、雖有善守者、轉相脅爲非。

建安9年、曹操が鄴県をぬき、冀州牧を領す。

『太平御覧』181にひく『荀氏家伝』はいう。太祖がすでに冀州を定めると。公(荀彧)のために、大第を鄴県に起てた。諸将は、おのおの功績の序列をもって、居第を受けた。太祖はこれ(荀彧の大第)に親游する。笑っていう。「これまた、六勲の差である」と。
ぼくは補う。荀彧のもらった邸宅は、ほかの臣下と比べて、6段階のグレードが(グレードのなかで?)高いものだったのだろう。

或者が太祖に説く。「宜しく古に復し、九州を置くべし。則ち、冀州の制する所は廣大であれば、天下は(曹操に)服する」と。曹操は従いそう。荀彧はいう。 「もし九州制に戻せば、冀州は、河東、馮翊、扶風、西河を吸収します。幽州や并州でも、領地を奪われる人が、多く発生します。曹操は、袁尚を破り、審配をとらえたとき、海内は震駭した。

『范書』では、曹操が「鄴城をほふったとき」とある。
ぼくは思う。内容は完全に同じなのだが、どうしてこのような差異が生まれるか、のほうに興味がある。あとから書いたほうが、「より分かりやすく」「より具体的に」と、アレンジしたのか。

必ずや人々は、領地を保てないのを恐れて、その兵衆を守るでしょう。いま分けて冀州に属させれば、みな心が動揺する。おおくの人が、関右の諸将に「関を閉じろ。つぎに曹操に奪われるのは関中だ」と計略を説くでしょう。
いちど変が生じれば、善く守れる者でも、転じて相い脅し、非をなす。

則袁尚得寬其死、而袁譚懷貳、劉表遂保江漢之間、天下未易圖也。願公急引兵先定河北、然後修復舊京、南臨荊州、責貢之不入。則天下咸知公意、人人自安。天下大定、乃議古制、此社稷長久之利也」太祖遂寢九州議。

袁尚はその死を寛げることができ、袁譚は二心を懐くだろう。劉表は江漢の間を保ち、天下はいまだ図り易くない(図るのが難しくなる)。
曹操は引兵して、さきに河北を定めろ。しかる後、舊京を修復し、南して荊州に臨み、貢之不入を責めろ。

『范書』はいう。南は楚郢にのぞみ、王貢の不入を責めろ、と。
ぼくは思う。「荊州」よりも、地名が広範囲になってる。まあ、南朝宋の范曄の段階では、後漢の行政区画と、同時代が大きく変わってしまったので、より一般的な地名で書いたのだろう。南朝宋の人が思い浮かべる「荊州」は、範囲がせまいとか。

すなわち、天下は、みな曹操の意を知れば、人人は自安する。天下が大定すれば、古制を議せよ。これが、社稷の長久之利である」と。

何焯はいう。すでに時務の要にあたるが、荀彧は「旧京を修復せよ」という。またなお、王室に心を寄せていたのだ。
顧千里はいう。「六国の後裔を立てる議論のとき、留侯(張良)はこれを非とした。九州を復古する議論とき、荀彧はこれを非とした。時制の宜しきにより、それぞれ攸当がある。明るくて審らかな者は、両得する。闇くて用いる者は、両失する。
ぼくは思う。顧千里は、当時の状況と、採用すべき制度について、両者があっていれば「状況が好転し、制度も整備される」と言っているのだろう。あわなければ、「状況は悪くなり、制度もぐちゃぐちゃ」と言っているのだ。

太祖は、ついに九州議を寢む。

『范書』荀彧伝はいう。曹操は報じた。「もし荀彧の相難(反対)がなければ、私は失うものが多かった」と。
『漢辞海』はいう。【微】なかりせば。事実に反する内容を仮定する。
ぼくは思う。荀彧は、制度について詳しそうだが。とりあえずは、まず現実の軍事で勝ち抜くことを優先する。軍事で勝ってしまえば、制度はどのようにでも改変できる。曹操が皇帝になる話だって、曹操の軍事的な状況(孫呉がのこっている)ことが、必ず荀彧の胸に引っかかっていると思う。曹操が天下統一(というか、少なくとも州規模で献帝に反対する勢力がいない状態)をなせば、荀彧の封王にたいする態度は変わってきたはず。永久にわからんけど。


河北の征圧が、荀氏の最盛期

是時荀攸、常爲謀主。彧兄衍、以監軍校尉、守鄴、都督河北事。太祖之征袁尚也、高幹、密遣兵謀襲鄴。衍、逆覺、盡誅之、以功封列侯。

このとき荀攸は、つねに謀主となる。荀彧の兄・荀衍は、監軍校尉をもって、鄴県を守り、河北事を都督する。太祖が袁尚を征すると、高幹がひそかに鄴県を襲おうと謀った。荀衍はぎゃくに覚り、高幹の兵をすべて誅した。この功績で、列侯に封じられた。

ぼくは思う。荀彧の兄弟といえば、袁紹についた荀諶がいる。ほかにも、兄弟で活躍している人がいたんだ。


荀氏家傳曰。衍字休若、彧第三兄。彧第四兄諶、字友若、事見袁紹傳。陳羣與孔融論汝、潁人物、羣曰「荀文若、公達、休若、友若、仲豫、當今並無對。」

『荀氏家傳』はいう。

沈家本はいう。『荀氏家伝』は、『隋書』に載らず、『旧唐書』では譜牒類にのる。『荀氏家伝』は、10巻。荀伯子が撰した。『新唐書』でも10巻だが、撰人は書いてない。荀伯子は『宋書』に列伝がある。東陽太守となるが、『荀氏家伝』を記したとは書いてない。ぼくは思う。荀伯子への仮託なのか?
章宗源はいう。『世説』徳行篇で、荀巨伯を『荀氏家伝』で注する。排調篇で、荀隠を『荀氏家伝』で注する。ここにも世々『荀氏家伝』があったとするだけで、よく分からない。『文選』の注釈にも『荀氏家伝』が出てくるから、南朝宋に『荀氏家伝』は残存していたのだろう。
ぼくは思う。南朝「貴族」である荀氏が、自分の家のことを書いた歴史書。という認識は、少なくともブレていない。

荀衍は、あざなを休若。荀彧の第三兄である。荀彧の第四兄である荀諶は、あざなを友若、袁紹伝にある。

『魏志』袁紹伝はいう。田豊、荀諶、許攸を謀主とすると。荀彧の弟・荀諶は、袁紹に任じられたと、この荀彧伝にもあった。ただ荀彧の弟なのか「第四兄」なのかがちがう。 ぼくは思う。曹操が「袁紹に仕えやがって」という理由で殺した官僚って、いるのだろうか。もちろん戦いの最中にはいるのだが、戦いが終わってからいたか。荀諶の子孫が、曹魏に仕えたからって、それは「荀氏が重んじられた」とは言えない。

陳羣と孔融が、汝南と頴川の人物を論じた。陳群「荀文若、公達、休若、友若、仲豫は、當今で対等の者がない」と。

衍子紹、位至太僕。紹子融、字伯雅、與王弼、鍾會俱知名、爲洛陽令、參大將軍軍事、與弼、會論易、老義、傳於世。諶子閎、字仲茂、爲太子文學掾。時有甲乙疑論、閎與鍾繇、王朗、袁渙議各不同。文帝與繇書曰「袁、王國士、更爲唇齒、荀閎勁悍、往來銳師、真君侯之勍敵、左右之深憂也。」終黃門侍郎。

荀衍の子の荀紹は、位は太僕に至る。荀紹の子・荀融は、あざなを伯雅。王弼と鍾會とともに名を知らる。洛陽令となり、大將軍の軍事に参じる。王弼と鍾会とともに、『易』『老』の義を論じる。世に伝わる。

『魏志』鍾会伝にひく王弼伝はいう。王弼は『易』に注釈する。頴川の荀融は、王弼の『大衍義』を難じる。王弼は、はじめ荀融と仲が善かったが、のちに仲が壊れた。

荀諶の子の荀閎は、あざなを仲茂。太子文學掾となる。ときに甲乙の疑論あり。荀閎は、鍾繇・王朗・袁渙と、議論がそれおぞれ異同がある。
文帝(曹丕)は、鍾繇に文書を与える。「袁渙と王朗は国士である。あらためて唇歯とする。荀閎は勁悍で、銳師を往來する。真に君侯の勍敵であり、左右の深憂である」と。黄門侍郎に終わる。

厳可均『全三国文』は、荀閎の奏事と、賜エキ議を載せる。


閎從孫(惲)[煇]字景文、太子中庶子、亦知名。與賈充共定音律、又作易集解。仲豫名悅、郎陵長儉之少子、彧從父兄也。

荀閎の從孫である荀惲は、あざなを景文。太子中庶子であり、また名を知られる。賈充とともに『音律』を定める。『易集解』をつくる。
荀仲豫は、名を荀悦という。郎陵長の荀倹の少子である。荀彧の從父兄である。

『後漢書』荀悦伝をみよと。
胡三省はいう。荀悦『申鑑』は、その立論は精切で、国家の興亡の大到において、荀彧や荀融にも勝っている。中略。曹操は姦雄であり、荀彧と荀融を親信した。だが荀悦は(荀彧と荀攸と違い、曹操になびかず)天子の左右にいた。荀悦は、荀彧と荀攸に比ぶのでない。だが曹操は荀悦を忌まず。けだし曹操は、荀悦がただ持論できるだけで、才能は弁じられないと考えたからだ。ああ後漢末に、荀淑は名徳をもって称された。だが荀彧と荀攸は、知略をもって済された。荀悦は、けだしその祖父(荀淑)を彷彿とさせる(荀淑と同系統の)人物だったのだ。才能は世に用いるには足らないが、わずかに残る発言から判断しても、荀悦が天下国家を語る議論は、世にとうとばれ、深く味わわれた。荀悦が漢室に「忠」であることが分かり、天下国家において「補」ある者である。
ぼくは思う。胡三省によると、荀彧と荀攸は「智略」によって姦雄の曹操に使われた。対照的に荀悦は、荀淑からの家風である「名徳」を守って(実務に使い道がないが)後漢の忠臣だと。荀悦-荀彧-荀攸の順番で「名徳」「忠臣」のランクが下がる。最上の荀悦は『申鑑』『漢紀』を遺し、最下の荀攸は策略が遺らない。荀攸の思考の結晶は、曹操政権そのものだとも言えるけど。
ぼくは思う。胡三省の分類は、わりと正しくて。荀彧が忠臣であれば、荀悦のように振る舞うべきであり、また荀悦が献帝のそばに密着できたのだから、荀彧も望めば同じことができたはずだ。荀彧は、侍中・尚書令なんだし。それでも荀彧は、曹操の謀主として振るまった。荀攸に近い人間である。こういうのを「漢の忠臣」とは言えなかろう。ねえ范曄さん。
ぼくは思う。会社である部署に配属されるとする。わずかに希望も聞いてもらえるが、それよりも「辞令ありき」である。ただし、実際の働き方や、どの上司により接近するかは、各人の自由に任される。たまたま荀彧は「赤字の部署」に配属されたが、「黒字になりそうな部署」の上司に可愛がられたので、そちらのとの人脈が濃かった。それくらいの「受けとった辞令と、もとの配属希望とのギャップ」みたいな引き裂かれ方を、荀彧は味わっていただけでは。卑近にしすぎだが、そんなものんかなあと。


張璠漢紀稱悅清虛沈靜、善於著述。建安初爲祕書監侍中、被詔刪漢書作漢紀三十篇、因事以明臧否、致有典要。其書大行于世。

張璠『漢紀』は、荀悦を称して、清虚・沈静であり、著述に善しという。建安初、祕書監侍中となる。詔を被り、『漢書』を削って『漢紀』30篇をつくる。事に因り、臧否を明らかにする。致は典要にあり。その書は、世に大行する。

李ジュはいう。荀悦『漢紀』は、班固を出ない。だがときには、削除も追加もした。司馬光『通鑑』が、班固をすてて、荀悦をい採用していることもある。


太祖以女、妻彧長子惲。後稱安陽公主。彧及攸、並貴重、皆謙沖節儉。祿賜、散之宗族知舊、家無餘財。十二年復增彧邑千戶、合二千戶。註06-02

曹操は娘を、荀彧の長子・荀惲にめとらす。のちに「安陽公主」という。荀彧および荀攸は、どちらも貴重され、謙沖・節儉する。祿賜されると、これを宗族・知舊に散じる。家には餘財なし。建安12年、ふたたび増邑した。荀彧は邑1戸を増やされ、あわせて2千戸となる。

彧別傳曰。太祖又表曰「昔袁紹侵入郊甸、戰於官渡。時兵少糧盡、圖欲還許、書與彧議、彧不聽臣。建宜住之便、恢進討之規、更起臣心、易其愚慮、遂摧大逆、覆取其衆。此彧覩勝敗之機、略不世出也。及紹破敗、臣糧亦盡、以爲河北未易圖也、欲南討劉表。彧復止臣、陳其得失、臣用反斾、遂吞凶族、克平四州。向使臣退於官渡、紹必鼓行而前、有傾覆之形、無克捷之勢。後若南征、委棄兗、豫、利既難要、將失本據。彧之二策、以亡爲存、以禍致福、謀殊功異、臣所不及也。是以先帝貴指縱之功、薄搏獲之賞。古人尚帷幄之規、下攻拔之捷。前所賞錄、未副彧巍巍之勳、乞重平議、疇其戶邑。」

『彧別伝』はいう。曹操は表した。荀彧のおかげで勝ち残れた。封邑をあげたい。

彧深辭讓、太祖報之曰「君之策謀、非但所表二事。前後謙沖、欲慕魯連先生乎?此聖人達節者所不貴也。昔介子推有言『竊人之財、猶謂之盜』。況君密謀安衆、光顯於孤者以百數乎!以二事相還而復辭之、何取謙亮之多邪!」太祖欲表彧爲三公、彧使荀攸深讓、至于十數、太祖乃止。

荀彧は、ふかく辭讓した。曹操は荀彧に報せる。「君の策謀は、ただ上表した2事(官渡の持久と、劉表より河北を優先)だけでない。前後に謙沖するのは、魯連先生を慕いたいからか。

『史記』はいう。趙王が秦王を尊ぼうとすると、魯連がとどめた。平原君は、魯連を封じたい。魯連は笑った。「天下の死に貴ばれる。これで封地をもらってしまえば、私は商賈の士になってしまう。私は自分が商賈の士と見られたくない。

魯連のやり方は、聖人の達節する者が、貴ばないものだ。むかし介子推はいった。人の財をぬすむのを「盗」というと。荀彧は手柄があるじゃないか。

『左氏伝』はいう。介子推は、晋文公の臣である。
ぼくは、荀彧が封戸をもらうことが「盗」ではないよと、曹操が言っているのだと思った。でも、ちくま訳は、曹操が荀彧の手柄を「盗」むことになるから、封戸をもらってくれ、というと解釈してた。

曹操は表して、荀彧を三公にしたい。荀彧は、荀攸に深讓させること、十回を数える。曹操はやめた。

『范書』荀彧伝では、曹操は「正司を以て授けたい」とある。李賢はいう。荀彧はさきに尚書令を守したが、いま正式に任命したいと。ぼくは補う。つまり「正式な尚書令にしたい」であって、三公ではない。
潘眉はいう。荀彧は尚書令を守する。位は九卿の下にあって、三公になれない。
李安渓はいう。荀彧は、曹操の功績がおおきく、必ずや帝位にせまると考えた。ゆえに、なんども辞退して、身をもって曹操を諫めた。ぼくは思う。こういう無責任な印象論が、荀彧の死の事情をワケわからなくするのだ。まあ李安渓にとっては、歴史はこのように教訓を引き出す前提で、読むものなんだろうが。


太祖將伐劉表、問彧策安出、彧曰「今華夏已平、南土知困矣。可顯出宛葉、而閒行輕進。以掩其不意」太祖遂行、會表病死。太祖直趨宛葉、如彧計。表子琮、以州逆降。

太祖は、劉表を伐そうとし、彧に策を問う。荀彧「いま華夏は已に平ぎ、南土は困を知る。宛県・葉県(南陽)には顕わに出よ。いっぽうで軽進して、劉表の不意をおそえ」と。曹操がついに行くとき、劉表が病死した。太祖は、直ぐに宛県・葉県に趨り、荀彧の計のごとくす。劉琮は、州をもって逆降する。

ぼくは思う。赤壁に向けて、曹操という矢を江南に放ったのは、荀彧である。しかし荊州を降したのちのことを、曹操はなにも荀彧から聞いていない。赤壁は、曹操の不運であり、荀彧の責任ではない。荊州に出発するとき、荀彧に言えることはない。むしろ、魯粛と諸葛亮の発想が「異常」なのだ。
というか荀彧は、河北の脅威を重く見積もっていた。曹操を、北伐に長年しばりつけたのは、荀彧である(戦略としては正しいのだけど)。


曹操の魏公就任に反対する

十七年董昭等謂、太祖宜進爵國公九錫備物、以彰殊勳。密以諮彧。彧以爲、太祖本興義兵以匡朝寧國、秉忠貞之誠、守退讓之實。君子愛人以德、不宜如此。太祖由是心不能平。

建安17年、董昭らは、曹操を魏公に進め、九錫を授けようと考えた。

九錫については、武帝紀の建安18年をみよ。
武帝紀の建安17年-21年を読む
ぼくは九錫の注釈を、すっ飛ばしてるけど。

ひそかに董昭は、荀彧に相談した。

北宋の版本では、ひそかに詔して荀彧に諮ったとする。沈家本はいう。『范書』はひそかに董昭が荀彧を訪った。このとき董昭が建議しており、「詔」はおかしい。

荀彧は反対した。「曹操は、漢室を正すために兵を興した。曹操は、忠貞之誠をとり、退讓之實を守る。君子は、仁徳によって、人を愛す。

これは『礼記』檀弓が出典である。

魏公に昇るな」と。曹操は、心が平穏でいられない。

『范書』荀彧伝はいう。荀彧「曹操はもとは義兵を興して、漢朝を匡振した。勲庸は崇著だが、なお忠貞の節をとる。君子は人を徳を以て愛す。かくのごとく、宜しからず。事ついに寝し、曹操の心は平らかなる能わず。ぼくは補う。だいたい同じことを言ってる。
ぼくが4年前に書いたことより。荀彧は、曹操の官僚としてのあり方に、心を砕いている。「曹操は(功績を上回る)高位に就くな」と。これが反対の理由だ。たしかに魏公就任は、曹丕が禅譲を受けるステップになった。だがこの時点で、禅譲なんて、まるで見えていないことだ。
ぼくが思うに荀彧は、曹操の功績が、公爵に匹敵しないから反対している。魏公という爵位そのものに、反対しているのではない。もし曹操が、魏公に匹敵するほどの功績(孫権を片づけるとか)を達成したら、荀彧の意見は変わったかも知れない。変わらないかも知れない。
ぼくは思う。「漢に忠であること」と、「王爵や公爵を受けない」ことは、必ずしも同義ではない。功績を上回る官爵をもらえば、その官爵がどれだけ低いものでも「不忠」である。功績を下回る官爵であれば、その官爵がどれだけ高いものだっても「忠」である。できた。できた。できてしまった。


會征孫權、表請彧勞軍于譙。因輒留彧、以侍中光祿大夫持節、參丞相軍事。太祖軍至濡須、彧疾、留壽春。以憂薨、時年五十。諡曰敬侯。明年、太祖遂爲魏公矣。

曹操は、孫権を征伐しようとした。表して、荀彧に譙県で軍をねぎらわせ、荀彧を譙県に留めた。荀彧を、侍中・光祿大夫・持節・参丞相軍事とした。

『范書』荀彧伝と比べよと。
ぼくが3年前に書いたこと。曹操はふたたび、荀彧を後方に置いて、作戦を練らせようとしている。曹操のやり方は、まるで、ドラえもんへの丸投げである。曹操が、魏公に反対した荀彧を疎んじていたら、重要な職位を、荀彧に与えるだろうか。違うよなあ。

曹操は、濡須に到った。荀彧は病気のため、寿春に留まった。荀彧は薨じた。

『范書』荀彧伝はいう。献帝は哀惜して、祖日、荀彧のために[言燕]楽を廃した。
ぼくは思う。曹操の「監視」のもとでも、これぐらいのことはできる。というか、荀彧が献帝の忠臣で、曹操の敵対者であれば、献帝は荀彧を哀惜するという理由で、礼楽を縮小できない。逆説的だけど、献帝と曹操を対立的にとらえ、かつ荀彧を献帝派とするなら、そうなる。

50歳だった。

潘眉はいう。荀彧は初平2年(191)に29歳だった。薨じたのは50歳で、建安17(212)年である。本伝で曹操が濡須に至り、荀彧は病気で寿春に止まって、憂死したとある。武帝紀によると、曹操が濡須口に進軍したのは、建安18年正月である。呉主伝もおなじ、建安18年正月に、曹操が濡須を攻めた。荀彧の死は、曹操の濡須到着のあとであれば、建安18年とすべきか。だが「明年、曹操が魏公となる」とあるから、建安17年でなければ合わない。曹操が「濡須に到達する前に」荀彧が死んだとすべきだ。『魏志』荀彧伝がおかしい。
盧弼はいう。『文選』が載せる『檄呉将校部曲文』で、荀彧の名が最初にある。文中では、馬超、宋建、張魯のことが書いてあり、みな荀彧の死後の話である。荀彧でなく荀攸とすべきか。荀攸は、列伝の注釈で建安19年に死ぬから、荀攸としても合わない。荀攸が、建安21年に卒したとすれば合う。
ぼくは思う。『文選』を疑ってみてはどうだろう。

敬侯と諡された。翌年、曹操は魏公となった。

李光地はいう。朱子は陳群を「賊のために佐命した」という。詞は厳しく、義は正しい。荀攸と賈詡も、同じだとされる。だが荀彧は侍中であり、漢官である。いまだ曹操に仕えない。曹操が建国して「魏」と称するとき、荀彧が死んだ後に建国した。董昭をはばみ、身を殺して一節を致せば、また自ら取ってもよい。荀彧の罪は、まさに末減に従ったこと(当従末減)。ぼくは思う。荀彧が曹操を倒せと言ってる?
潘眉はいう。荀彧は、まえに九州制の復古をはばみ、のちに九錫の議をはばむ。荀彧が薨じて、曹操は魏公となった。この歳、九州制にもどした。
魏公について、
ぼくは思う。曹操の魏公就任は、「孫権との戦いが打開しないから」という判断ではないか。荀彧の死は、直接は関係がなく。というか、曹操の読みでは「荀彧に作戦を立案させれば、孫権を下せる」と思ったが、荀彧が死んだので、孫権を下す目処が立たなくなった。だから、見切り発車でも魏公を称さねば、求心力を保てなくなった。という思考経路ではないか。荀彧の死は魏公就任と「先後関係」も「因果関係」もある。だが一般に言われるように、「荀彧は漢の忠臣として、魏公就任に反対した」とか「荀彧が死んだから、曹操は魏公に進めた」のではない。
功績以上の爵位はハイリスクなのに。荀彧は、これにこそ反対したのに。「孫権を下さずに、魏公になる」とは、「魏公になったから、求心力が生じる」と思いがち。だがこれは、袁術の思考法である。功績が大きすぎるので、ちょいちょい後追いで爵位をあげてゆく。ぐらいの慎重な姿勢でないと、『贈与論』的に失敗する。
魏公への勧進は、董昭が曹操の功績を過大に再評価したこと(董昭伝注引『献帝春秋』)に基づいた政策。荀彧は、この思考法をこそ戒めた。
曹操の魏公就任は、躍進や横暴として簡単に把握できない。爵位があがって求心力が高まり、既成事実が作れるというメリットと、『贈与論』的な失墜のデメリットを賭けたバクチだった。荀彧は賭けるなといい、董昭は賭けろといった。その意見の違いだけ。より具体的には、曹操の功績が、どの爵位に見合うかという評価のちがい。もしくは、交換レートにたいする感覚の違い。
董昭「この絵画は100百万円の価値がある。歴代の名画(蕭何とか)に並べて陳列しよう」、荀彧「いいえ、10百万円がせいぜいだ。歴代の名画に並べたら、引き立たない。むしろ後ろ指を指される(袁術と同じ理由で)」と。


魏氏春秋曰。太祖饋彧食、發之乃空器也、於是飲藥而卒。咸熙二年、贈彧太尉。

『魏氏春秋』がいう。曹操は、荀彧に食品を贈った。荀彧が開封すると、カラの器だった。荀彧は、薬を飲んで死んだ。咸熙二年(265) 荀彧は、太尉を贈られた。

『通鑑考異』はいう。『魏志』荀彧伝では、憂をもって薨じる。『范書』荀彧伝では、曹操が食事を贈って、空器である。孫盛『魏氏春秋』もまた空器である。荀彧の死について、曹操は誅殺を隠したのだ。陳寿は「憂」というが、けだし欠文を疑う。「薬を飲む」という語を正さねば、後世の人の上となる者が、誅殺を隠して(魏公就任のような悪事?を)やって良いと考えることを、盧弼は恐れる。


荀彧の人柄をあらわす裴註から

ぼちぼち、抄訳を追加します。

彧別傳曰。彧自爲尚書令、常以書陳事、臨薨、皆焚毀之、故奇策密謀不得盡聞也。是時征役草創、制度多所興復、彧嘗言于太祖曰(中略)彧從容與太祖論治道、如此之類甚衆、太祖常嘉納之。彧德行周備、非正道不用心、名重天下、莫不以爲儀表、海內英雋咸宗焉。司馬宣王常稱書傳遠事、吾自耳目所從聞見、逮百數十年間、賢才未有及荀令君者也。


前後所舉者、命世大才、邦邑則荀攸、鍾繇、陳羣、海內則司馬宣王、及引致當世知名郗慮、華歆、王朗、荀悅、杜襲、辛毗、趙儼之儔、終爲卿相、以十數人。取士不以一揆、戲志才、郭嘉等有負俗之譏、杜畿簡傲少文、皆以智策舉之、終各顯名。荀攸後爲魏尚書令、亦推賢進士。太祖曰「二荀令之論人、久而益信、吾沒世不忘。」鍾繇以爲顏子既沒、能備九德、不貳其過、唯荀彧然。或問繇曰「君雅重荀君、比之顏子、自以不及、可得聞乎?」曰「夫明君師臣、其次友之。以太祖之聰明、每有大事、常先諮之荀君、是則古師友之義也。吾等受命而行、猶或不盡、相去顧不遠邪!」

荀彧が挙げた者は、十数人が卿相になった。荀攸ものちに曹魏の尚書令になり、賢を推し、士を進めた。太祖「2荀令が人を論じれば、

荀彧の死は、伏氏の曹操暗殺計画のせい

獻帝春秋曰。董承之誅、伏后與父完書、言司空殺董承、帝方爲報怨。完得書以示彧、彧惡之、久隱而不言。完以示妻弟樊普、普封以呈太祖、太祖陰爲之備。彧後恐事覺、欲自發之、因求使至鄴、勸太祖以女配帝。太祖曰「今朝廷有伏后、吾女何得以配上、吾以微功見錄、位爲宰相、豈復賴女寵乎!」彧曰「伏后無子、性又凶邪、往常與父書、言辭醜惡、可因此廢也。」太祖曰「卿昔何不道之?」


彧陽驚曰「昔已嘗爲公言也。」太祖曰「此豈小事而吾忘之!」彧又驚曰「誠未語公邪!昔公在官渡與袁紹相持、恐增內顧之念、故不言爾。」太祖曰「官渡事後何以不言?」彧無對、謝闕而已。太祖以此恨彧、而外含容之、故世莫得知。至董昭建立魏公之議、彧意不同、欲言之於太祖。及齎璽書犒軍、飲饗禮畢、彧留請閒。太祖知彧欲言封事、揖而遣之、彧遂不得言。彧卒於壽春、壽春亡者告孫權、言太祖使彧殺伏后、彧不從、故自殺。權以露布於蜀、劉備聞之、曰「老賊不死、禍亂未已。」


臣松之案獻帝春秋云彧欲發伏后事而求使至鄴、而方誣太祖云「昔已嘗言」。言既無徵、迴託以官渡之虞、俛仰之閒、辭情頓屈、雖在庸人、猶不至此、何以玷累賢哲哉!凡諸云云、皆出自鄙俚、可謂以吾儕之言而厚誣君子者矣。袁暐虛罔之類、此最爲甚也。


荀彧の子孫は、魏晋の高官

子惲、嗣侯、官至虎賁中郎將。初、文帝與平原侯植並有擬論、文帝曲禮事彧。及彧卒、惲又與植善、而與夏侯尚不穆。文帝、深恨惲。惲、早卒。子甝、霬、以外甥故、猶寵待。後略。

荀彧の子・荀惲は、公爵を嗣ぎ、官は虎賁中郎將に至る。

ぼくは思う。荀彧が罪より死んだら、爵位は返上だろう。また子孫が、ブランクを置かずに高位につくことは難しい。直接的には「曹操に殺された」のではない。少なくとも政権の見解においては。

はじめ、曹丕と平原侯の曹植は、2人で擬論する。文帝は、礼をまげて荀彧につかえる。荀彧が卒したら荀惲もまた曹植と仲がよい。

ぼくは思う。荀彧の「薨」と「卒」。荀彧が死ぬとき、陳寿『魏志』荀彧伝の本文が、彼の死を「薨」と書いているのは、有名な話。でもすぐ後の本文で「及彧卒」と書いてる。陳寿に緊張感がないのか、なにか意味があるのか、もしくはなにか裏の意味があるのか。すなわち「薨」と書いたほうが、冗談もしくは不本意ですよと。

だが荀惲は、夏侯尚と穆さず。曹丕は、ふかく荀惲を恨んだ。荀惲が早卒した。荀惲の子たち(荀彧の孫)は、曹丕の外甥だから、寵待された。後ははぶく。

ぼくは思う。荀彧の子孫が、官爵や曹氏とのつきあいにおいて、なんのハンデも背負わされていないことを確認したかった。
ぼくは思う。『漢辞海』によると、【薨】とは、高位の者が死ぬ。周代では諸侯の死。のちに大官の死のこと。死に対する礼制上の階層差による言い換え;帝王は「崩」、諸侯は「薨」、大夫は「卒」、士は「不禄」、庶人は「士」。陳寿は、荀彧の死を諸侯(万歳亭侯)として「薨」とし、直後に大夫なみに「卒」とした。一貫していない。
荀彧は諸侯として死が記され、その死後は、いきなり大夫なみ(諸侯未満)として扱われた。陳寿から、ここまで読み取るのは、危険だろうか。地の文で、死にかんする字づかいが異なる人物を探さねば。

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荀彧の死の経緯を『資治通鑑』から抜粋

荀彧の死に到る時代について、『資治通鑑』を抜粋して確認。
勉強会の本番では、ぼくがザッと読み流して、確認することになるのかな。あんまり時間をかけても、仕方がないので。テキストを削った結果が、下記のとおり。

孝獻皇帝庚建安十三年(戊子,208年)

冬十二月,孫權自將圍合肥,使張昭攻九江之當塗,不克。

孝獻皇帝辛建安十四年(己丑,209年)

春,三月,曹操軍至譙。
孫權圍合肥,久不下。揚州別駕楚國蔣濟密白刺史,偽得張喜書,雲步騎四萬已到雩婁。三部使繼書語城中守將,一部得入城,二部為權兵所得。權信之,遽燒圍走。
秋,七月,曹操引水軍自渦入淮,出肥水,軍合肥,開芍陂屯田。

冬,十二月,操軍還譙。
廬江人陳蘭、梅成據灊・六叛,操遣蕩寇將軍張遼討斬之;因使遼與樂進、李典等將七千餘人屯合肥。
周瑜攻曹仁歲餘,仁委城走。權以瑜領南郡太守,屯據江陵;程普領江夏太守,治沙羨;呂范領彭澤太守。備立營於油口,改名公安。

孝獻皇帝辛建安十五年(庚寅,210年)

冬,曹操作銅爵台於鄴。
十二月,己亥,操下令曰:「征為典軍校尉,意遂更欲為國家討賊立功,使題墓道言『漢故征西將軍曹侯之墓』,此其志也。定劉表,遂平天下。身為宰相,人臣之貴已極,意望已過矣。設使國家無有孤,不知當幾人稱帝,幾人稱王!或者人見孤強盛,又性不信天命,恐妄相忖度,言有不遜之志,每用耿耿,故為諸君陳道此言,皆肝鬲之要也。然欲孤便爾委捐所典兵眾以還執事,歸就武平侯國,實不可也。何者?誠恐己離兵為人所禍,江湖未靜,不可讓位。」

劉備自詣京見孫權,求都督荊州。呂範亦勸留之。權以曹操在北,方當廣攬英雄,不從。
周瑜還江陵為行裝,於道病困,卒於巴丘。權以魯肅為奮武校尉,代瑜領兵,令程普領南郡太守。魯肅勸權以荊州借劉備,與共拒曹操,權從之。乃分豫章為番陽郡,分長沙為漢昌郡;復以程普領江夏太守,魯肅為漢昌太守,屯陸口。
孫權以番陽太守臨淮步騭為交州刺史,士燮率兄弟奉承節度。權加燮左將軍。由是嶺南始服屬於權。

孝獻皇帝辛建安十六年(辛卯,211年)

春三月,操遣司隸校尉鐘繇討張魯,使征西護軍夏侯淵等將兵出河東。關中諸將果疑之,馬超、韓遂、楊秋等十部皆反,屯據潼關。
秋,七月,操自將擊超等。九月,操與韓遂書,多所點竄,如遂改定者;超等愈疑遂。韓遂、馬超奔涼州,楊秋奔安定。
冬,十月,操自長安北征楊秋,圍安定。秋降。十二月,操自安定還,留夏侯淵屯長安。
劉璋遣法正將四千人迎備。備北到葭萌,未即討魯,厚樹恩德以收眾心。

孝獻皇帝辛建安十七年(壬辰,212年)

春,正月,曹操還鄴。詔操贊拜不名,入朝不趨,劍履上殿,如蕭何故事。
夏,五月,癸未,誅衛尉馬騰,夷三族。
秋,七月,馬超等餘眾頓藍田,夏侯淵擊平之。

九月,庚戌,立皇子熙為濟陰王,懿為山陽王。邈為濟北王,敦為東海王。
初,張紘以秣陵山川形勝,勸孫權以為治所。權於是作石頭城,徙治秣陵,改末陵為建業。
呂蒙聞曹操欲東兵,說孫權夾濡須水口立塢。遂作濡須塢。

冬,十月,曹操東擊孫權。董昭言於曹操曰:「自古以來,人臣匡世,未有今日之功;有今日之功,未有久處人臣之勢者也。今明公恥有慚德,樂保名節。然處大臣之勢,使人以大事疑己,誠不可不重慮也。」乃與列侯諸將議,以丞相宜進爵國公,九錫備物,以彰殊勳。
荀彧以為:「曹公本興義兵以匡朝寧國,秉忠貞之誠,守退讓之實。君子愛人以德,不宜如此。」操由是不悅。及擊孫權,表請彧勞軍於譙,因輒留彧,以侍中、光祿大夫、持節、參丞相軍事。操軍向濡須,彧以疾留壽春,飲藥而卒。彧行義修整而有智謀,好推賢進士,故時人皆惜之。

ここで司馬光のコメントが入る。下でやる。

孝獻皇帝辛建安十八年(癸巳,213年)

春正月,曹操進軍濡須口,號步騎四十萬,攻破孫權江西營,獲其都督公孫陽。權率眾七萬御之,相守月餘。操歎曰:「生子當如孫仲謀;如劉景升兒子,豚犬耳!」權為箋與操,說:「春水方生,公宜速去。」操語諸將曰:「孫權不欺孤。」乃徹軍還。
詔並十四州,復為九州。
夏四月,曹操至鄴。五月、以冀州十郡封曹操為魏公、以丞相領冀州牧如故。又加九錫。
秋,七月,魏始建社稷、宗廟。魏公操納三女為貴人。

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『資治通鑑』での司馬光のコメント

平凡社が1970年に出した抄訳より、司馬光のコメントを翻訳。
図書館で再び借りてきたら、書き足します。

臣光曰:孔子之言仁也重矣,自子路、冉求、公西赤門人之高第,令尹子文、陳文子諸侯之賢大夫,皆不足以當之,而獨稱管仲之仁,豈非以其輔佐齊桓,大濟生民乎!齊桓之行若狗彘,管仲不羞而相之,其志蓋以非桓公則生民不可得而濟也,


漢末大亂,群生塗炭,自非高世之才不能濟也。然則荀彧捨魏武將誰事哉!齊桓之時,周室雖衰,未若建安之初也。建安之初,四海蕩覆,尺土一民,皆非漢有。荀彧佐魏武而興之,舉賢用能,訓卒厲兵,決機發策,征伐四克,遂能以弱為強,化亂為治,十分天下而有其八,其功豈在管仲之後乎!管仲不死子糾而荀彧死漢室,其仁復居管仲之先矣!


而杜牧乃以為「彧之勸魏武取兗州則比之高、光,官渡不令還許則比之楚、漢,及事就功畢,乃欲邀名於漢代,譬之教盜穴牆發匱而不與同挈,得不為盜乎?」臣以為孔子稱「文勝質則史」,凡為史者記人之言,必有以文之。然則比魏武於高、光、楚、漢者,史氏之文也,豈皆彧口所言邪!用是貶彧,非其罪矣。且使魏武為帝,則彧為佐命元功,與蕭何同賞矣;彧不利此而利於殺身以邀名,豈人情乎!


■平凡社の抄訳を、4年前に抜粋したもの
孔子は「仁」を重視した。だから孔子の人に対する評価は辛かったが、管仲だけは認めた。斉ノ桓公はイヌやブタのような人だったが、管仲は「桓公でなければ、生民を救えない」と思っていたから、補佐をした。これが「仁」である。
荀彧は管仲と同じである。もし曹操がイヌやブタであっても、民を救うためには、最も優れた君主だった。
荀彧の時代は、管仲のときより乱れていた。荀彧は曹操を助けて、天下の8割を治めた。彼の功績は、管仲に決して劣らない。
杜牧は荀彧を批判した。「荀彧は曹操をさんざん助けておきながら、いざ曹操が魏王になろうとしたら、漢に名声を求めた。盗賊に協力して壁を壊し、宝箱の開け方を教えておきながら、一緒に運び出さなかった。荀彧の生き方はこれと同じであり、盗賊の一味であることに変わりない」
この批判は、間違っている。もし曹操が皇帝になっていれば、荀彧は元勲として史書に記され、蕭何と同じように賞されたはずだ。結果から遡って荀彧を責めるのは、実情に合わない。

司馬光をヒントに、ぼくが考えたこと

ぼくは思う。司馬光「もし曹操が皇帝となれば、荀彧は蕭何のように佐命の功績を賞された」と。ぼくは思う。荀彧の扱いが微妙(漢の忠臣か、曹操の謀主か)なのは、荀彧の業績および死の事情に原因がないかも。曹操が「王以上・帝未満」で死んだという結果を受けて、荀彧は彼の死の約10年後、初めて評価が浮いた。
生前の評価が、死後に変わる。当人にとっては、全くの不可抗力である。だが、そういう転換や不安定も含めて、歴史の考察対象であり、かつ魅力的な部分だ。

A・ダントーが言うような、「同時代の完全なる叙述者」にとって荀彧の死は、「漢の忠臣の死であり、かつ曹操の謀主の死である」と書かざるを得ない。曹操もまた漢臣なんだから、これは矛盾しない。
むしろ、矛盾すると唱える者が、頭がおかしくなったと思われるほどだ。「なぜ私の頭がおかしくないか」という論証を、ネットリやらねばならない。そしてその論証は、必ずや支持されない。
少なくとも曹操が、荀彧の死の約10年後の段階ですら、漢魏革命が成功するという確信がなく、実行に移さなかった。「矛盾を唱える私は、頭がおかしくない」と証明するのは、漢魏革命を成功させるのと、同じ水準・同じ種類の難しさがある。まさに同じ問題なのだ。

ダントーが思考のために設定した「同時代の完全なる叙述者」は、例えば155年の、ある子供の誕生を、「曹嵩に男子が産まれた」と書くことができるが、「のちに魏王となる曹操が産まれた」とは書けない。なぜなら、この叙述者は未来のことを知らないのだから。それと同じで、212年時点までの全てを知り、かつ213年以降を全く知らない叙述者は、荀彧の死が、不審をもって観察されることも、正統をめぐって議論されることも、まったく予想することができない。
もしぼくらが、「荀彧の死」そのものを考察の対象にするなら、この212年時点に固執すべきだ。漢魏革命や魏晋革命の正統について、正否の判断をくだすのが、ぼくらの仕事ではないからだ。

◆三点で成り立つことの歴史哲学
ぼくは思う。三点を指定したら、幾何学でははじめて「面積」が発生する。もしくは、たて・よこ・高さが決まれば、三次元のなかでの座標の位置が、1とおりに決まる。もしくは、足が3本あって初めて、鼎は立てることができる。それ未満なら倒れる。
歴史もまた、3つの点をカウントに入れて、図形を描き、位置を定め、鼎を立てるべきだと思う。出来事の発生時点、史料の記述時点、史家の読解と考察の時点の3つである。「荀彧の死そのもの」を考えるなら、史料の記述時点をできるだけ廃して、出来事の発生時点に「完全なる叙述者」を送り込み、彼と話をしなければならない。すなわち、212年に叙述者を置くべきである。
もちろん歴史は、史料ありきだから。
まんなかの叙述者は、排除すべき悪者ではない。むしろ大恩人である。荀彧の件は、いかに叙述者が悪さをするか、を、叙述者がこれ見よがしにやる。だから、その故意の見え見えの悪さを、ていねいに除去することが、ぼくらの職務になるのだ。叙述者を敵対者にするのでなく、むしろその逆をゆくべきだ。叙述者を「手の内を知らせ合った、勝手知ったる仲間」に引きずり込むイメージである。
勉強会のスタンスが見えてきたなあ!130917

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曹植の誄、潘勗の碑文

荀彧に関する『三国志』以外の史料
xiaoq氏の『香炉待薫記』 http://xiaoq.exblog.jp/ を参考にしています。
有坂文氏の『私家版 曹子建集』 http://sikaban.web.fc2.com/ より。

曹植による誄

藝文類聚 捲第四十九 職官部五 光祿大夫
【詩】魏陳王曹植光祿大夫荀侯誄曰.
如冰之清、如玉之潔。法而不威、和而不褻。百寮欷歔、天子霑纓。機女投杼、農夫輟耕。輪結輒而不轉、馬悲鳴而倚衡。

冰の清き如く、玉の潔き如し。法にして威れず、和にして褻(けが)れず。百寮 欷歔し、天子 纓を霑す。機女は杼を投じ、農夫は耕すを輟む。輪は結輒として轉(まわ)らず、馬は悲鳴して倚衡す。

書き下しは、有坂文氏の『私家版 曹子建集』より。
xiaoq氏はいう。「氷のように清らかで、玉のように澄んでいる。法を厳格に守りながら権力を濫用せず、周囲と協調しながら馴れ合わない」こんな訳でいいでしょうか。
有坂氏はいう。氷のように清く、玉のように潔白な方だった。威厳に満ちていたが威張らず、和やかだったが礼を欠くことはなかった。臣僚たちは嘆き悲しみ、天子も頬を濡らされる。機織り娘は杼(ひ)を投げ出し、農夫は耕すのを止めた。車輪は軋むばかりで巡らず、馬は悲しい声をあげて前に進みません。


潘勗による碑文

ネットで書き下しを見つけられなかったので、自分でやります。

捲第四十八 職官部四 尚書令
又曰.太祖進荀彧為漢侍中.守尚書令.
【碑】後漢潘勗尚書令荀彧碑曰.夫其為德也.則主忠履信.孝友溫惠.高亮以固其中.柔嘉以宣其外.廉慎以為己任.仁恕以察人物.踐行則無轍跡.出言則無辭費.納規無敬辱之心.機情有密靜之性.若乃奉身蹈道.勤禮貴德.動咨事閒.匪雲予克.然後教以黃中之叡.守以貞固之直.註焉若洪河之源.不可竭也.確焉若華岳之停.不可拔也.故能言之斯立.行之斯成.身匪隆污.直哉惟情.紊綱用亂.廢禮復經.於是百揆時序.王猷允塞.告厥成功.用俟萬歲.

夫れ其の(荀彧の)徳たるや。則ち、主忠は信を履み、孝友は恵を温む。高亮たること、以て其の中に固く、柔嘉たること、以て其の外に宣し。廉慎たること、以て己の為に任ず。仁恕たること、以て人物を察す。踐み行うこと 則ち轍跡なし。言を出さば則ち辞費なし。規を納れ、敬辱之心なし。情を機し、密靜之性あり。若乃奉身蹈道.禮を勤め、德を貴しとす。動咨事閒.匪雲予克.然る後、以て黃中之叡を教し、守以貞固之直.註焉若洪河之源.不可竭也.確焉若華岳之停.拔くべからざる也.故に之を能言し、斯立す。之を行いては斯成す。身匪隆汚.直なるかな、惟情.綱を紊し、亂を用う。禮を廢し、經を復す。是に於いて、百揆は時序.王猷は允塞.厥の功を成したるを告げ、萬歲を俟つを用う。

あとでちゃんとやります。

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