表紙 > 曹魏 > 武帝紀の建安17年-21年を読む

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建安17年、贊拜不名,入朝不趨,劍履上殿 open

春正月、贊拜不名,入朝不趨,劍履上殿

十七年春正月,公還鄴。天子命公贊拜不名,入朝不趨,劍履上殿,如蕭何故事。馬超餘眾梁興等屯藍田,使夏侯淵擊平之。

建安17年(212)春正月、曹操は関中から鄴県にかえる。天子は曹操に命じて、贊拜不名,入朝不趨,劍履上殿とした。

ぼくは思う。『三国志集解』は、この特権について、おおくの出典を載せる。上海戸籍148頁。書き写すのがしんどいし、おそらく理解しきらんので、出典のタイトルだけでも抜粋する。それも力尽きる。
『礼記』曲礼篇上、玉藻篇、『左伝』宣公4年、『説苑』、賈誼『新書』、『漢官旧儀』など。内容が気になったら、『三国志集解』にもどってこればよい。

蕭何の故事と同じである。

『史記』蕭相国世家はいう。消化に、帯剣履上殿、入朝不趨を賜った。『漢書』蕭何伝もおなじ。『史記』『漢書』どちらにも、贊拜不名がない。
ぼくは思う。贊拜不名は、どこから出てきた? 『通鑑』孝質皇帝元嘉元年に「冀入朝不趨,劍履上殿,謁贊不名,禮儀比蕭何」とある。蕭何は不名じゃないのに、梁冀がかってに不名をくっつけた。
康発祥はいう。この殊礼は、蕭何だけでない。梁冀と董卓もおなじだ。胡玉シンはいう。履上殿は、前漢の高帝と蕭何のあいだに始まったのでない。周公、韓侯にさかのぼる。詳しくは、馮景『解春集』にある。蕭何は漢家への勲実が第一であり、曹操もそれを踏まえたものだ。
ぼくは思う。ぎゃくにいうと、漢代では、蕭何、梁冀、董卓、曹操だけの特権だとわかる。周公の故事をまねた高帝よりも、蕭何と自分を等号でむすんだ梁冀のほうが、クリエイティビティがあると思う。お前、ちがうじゃん。不名を捏造して、くっつけたし。梁冀をマネた董卓、董卓をマネた曹操と、代がくだるにつれて、創造性のカケラもなくなっていく。

馬超の余衆である梁興らが、藍田に屯した。夏侯淵に平定させた。

『郡国志』はいう。司隷の京兆尹に藍田がある。美玉がでる。
『後漢書』献帝紀はいう。夏5月癸未、衛尉の馬騰を誅して、夷三族した。袁宏『後漢紀』も同じ。馬超伝にひく『典略』にある。
ぼくは思う。なぜ馬騰の話が出てこないのか。馬超伝の本文にないから、「陳寿はほかを参照すれば充分と考えた」のではない。つまり馬騰の死は、『三国志』本文に載せるほどの事件でもないことになる。陳寿がウッカリ忘れたとしても、結果的には軽んじたことになる。また、陳寿の無意識がウッカリさせたのだ。この歳は、武帝紀の記事が少ないのに。おかしいなあ。


魏郡を拡げるが、献帝の諸王を封じる

割河內之蕩陰、朝歌、林慮,東郡之衛國、頓丘、東武 陽、發干,鉅鹿之廮陶、曲周、南和,廣平之任城,趙之襄國、邯鄲、易陽以益魏郡。

河内から県を割いて、魏郡にくわえた。蕩陰、朝歌、林慮である。

朝歌は、袁紹伝にひく『英雄記』にもある。

東郡から県を割いて、魏郡にくわえた。衛國、頓丘、東武陽、發干である。

頓丘は、武帝紀の巻首にある。東武陽は初平2年にある。發干は初平3年にある。
ぼくは思う。曹操にとってゆかりのある土地が、魏郡に繰りいれられた。曹操が河南にいて、袁紹が河北にいるころ、曹操が切りとっていた領地。いま曹操が袁紹の代わりに河北にいて、河南まで「進出」している。

鉅鹿から県を割いて、魏郡にくわえた。廮陶、曲周、南和である。

『郡国志』はいう。冀州の鉅鹿の郡治は、えいとうである。

廣平から県を割いて、魏郡にくわえた。任城である。

趙一清はいう。『続郡国志』鉅鹿郡の注はいう。秦代におく。建武13年、広平国をはぶき、鉅鹿に広平の県をあわせた。『漢書』地理志はいう。任城とは広平国である。このとき広平国はない。旧名をひっぱって、魏郡にあわせたか。広平郡は曹魏の黄初2年に置かれた。黄初2年より前に、あるはずないのに。
銭大昕はいう。光武帝は広平国を鉅鹿郡にあわせたが、ふたたび置かない。任城は兗州に属するので、魏郡にあわせにくい。ミスではないか。
ある人はいう。劉昭注『続漢志』は、ここを引用して「広平の広平、任城」とする。すでに広平があったのでは。だが『献帝起居注』建安18年に冀州32郡をのせるが、広平はない。『晋書』地理志でも、広平郡は曹魏がおくという。
盧弼はいう。鉅鹿のもとにある、広平県、任県のことである。ただし銭大昕は、任城が兗州に属するから、魏郡への編入がムリというが、そうでもない。東郡は兗州にあり、河内は司隷にあるが、魏郡に県を吸いこまれた。州境がネックなのでなく、兗州の任城が、魏郡から離れていることを、編入がムリな理由とせよ。
ぼくは思う。人騒がせな混乱だが、盧弼が結論を出してくれてよかった。

趙国から県を割いて、魏郡にくわえた。襄國、邯鄲、易陽である。

趙国の治所は邯鄲である。易陽は建安9年にあり。

魏郡をふやした。

『後漢書』献帝紀はいう。この歳、9月庚戌、献帝の皇子を王にした。劉熙を済南王、劉懿を山陽王、劉邈を済北王、劉敦を東海王とした。
李賢のひく『山陽公載記』はいう。ときに許靖は巴郡にいた。曹操が、献帝の諸王を立てたと聞いた。「奪いたければ与えるとは、曹操のことだ」と。
ぼくは思う。献帝の諸王を封じたことも、武帝紀の本文から落ちている。まあ『後漢書』献帝紀でなく、『魏書』武帝紀だから、書く義務はないかも知れないが、とても重要なことだ。陳寿、お腹でも痛かったのだろうか。


冬、孫権を攻めて、荀彧が死ぬ

冬十月,公征孫權。

冬10月、曹操は孫権を征した。

梁商鉅はいう。『文選』は陳琳『檄呉将校部曲文』をあげる。このとき作られた。淩廷堪はいう。この檄文は『文選』にあるが、陳寿と裴注にない。曹操が孫権を攻めたのは、建安17年、建安19年、建安21年である。陳琳は「朔日」とあるが、何年のものか分からない。荀彧伝で、荀彧は建安17年に寿春で死ぬ。檄文に「尚書令の荀彧が」と出てくるから、建安17年のときに書かれたと特定できる。
張雲ゴウはいう。荀彧は建安17年死んだ。檄文に、夏侯淵が馬超を討ち(建安18年)、宋建を討ち(19年)、韓遂を斬って張魯を降す(20年)がでてくる。建安17年に書かれたなら、未来が見えていておかしい。
姜コウはいう。「尚書令の荀彧」は「尚書令の荀攸」の誤りだ。荀攸は、建安18年に尚書令となる。武帝紀の注にある。だが荀攸伝で、荀攸は孫権攻めに従軍して、建安19年に死ぬ。建安20年の事件が出てくるのは、やっぱりおかしい。荀攸が建安21年に死んだと考えたらツジツマがあう。
盧弼はいう。『文選』は阮瑀『曹操のために阮瑀が代筆して、孫権に与えた文書』を載せる。これは建安17年に作られたと特定できる。しかし、孫輔について前後関係があわない。孫輔は建安17年、孫権に捕らわれている。だが阮瑀の文中で、孫権に殺されたとある。『文選』の檄文は、後から作ったのかも。
ぼくは思う。荀攸ファンは、荀攸を長生きさせるチャンス! どんな曲解と憶測にまみれたことでも、好きな人を長生きさせる立論は、心躍るものだと思う。
ぼくは補う。いま出てきたように、曹操のこの遠征で、荀彧が死ぬ!
この歳、やたら記述が少なく、季節すら分からないのだが、なんらかの「削除」圧力が働いたのかも。そのぶん「1日、武帝紀を1年読む」という目標のぼくは、ラクができるのですが。

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建安18年、九錫,魏公を受け、3娘を嫁がせる open

春、濡須で孫権を破り、冀州を32郡に拡大

十八年春正月,進軍濡須口,攻破權江西營,獲權都督公孫陽,乃引軍還。詔書并十四 州,復為九州。

建安18年春正月、濡須口に進軍した。

『寰宇記』はいう。濡須水は、素県の西を源とする。巣湖の東南で長江に入る。『通鑑地理通釈』はいう。はぶく。
胡三省はいう。李賢はいう。濡須は水名(かわのな)である。孫権が、濡須をへだてて塢を立てた。偃月のかたちだえる。
趙一清はいう。『御覧』75は『続捜神記』をひく。廬江の箏笛浦には、難破船のなかに魚人がいた。魚人の箏笛の音にさそわれて、曹操の船はくつがえった。盧弼はいう。はいう。どうして箏笛の音で、船がひっくりかえるか。ぼくは思う。えー。

孫権が長江の西につくった軍営をやぶる。

胡三省はいう。長江は東北に流れる。ゆえに、歴陽から濡須口は長江の西となる。建業は長江の東となる。顧炎武はいう。長江は、歴陽から京口まで、斜め北にながれる。ゆえに「東西」という。
『史記』項羽本紀はいう。江西がそむいたと。
『三国志』孫権伝はいう。廬江、九江、薪春、広陵から10万余戸が、長江を東に渡った。江西は空虚になったと。
『晋書』地理志はいう。廬江、九江、合肥より北、寿春までは江西である。

曹操軍は、孫権の都督たる公孫陽をとらえて、帰った。

孫権伝はいう。孫権は1ヶ月余、曹操と向き合った。曹操は孫権軍が整粛なので、退いたと。注引『呉歴』はいう。孫権は曹操に文書をおくった。「春水がでるので、お早めのお帰りを」と。
ぼくは思う。曹操と孫権、どちらが勝ったのか。曹操は孫権の都督を捕らえた。だが曹操は帰った。孫権は軍規が行きとどいた。都督が捕らわれたにも関わらず、孫権の勝ちなのか? 曹操は、軍規を見て帰った。つまり曹操の勝利条件は、孫権と本格的に戦わずに、曹操から孫権に官位を与えること。楊秋にやったみたいに。曹操は、孫権を奪っても勝ちではない。都督を捕らえたのは、残念な結果である。都督を捕らえたのをキッカケに、孫権が曹操になびくかと思いきや、孫権の軍規は行きとどいていたのだ。

献帝は詔書して、14州をあわせ、9州にもどした。

『後漢書』献帝紀はいう。建安18年春正月庚寅、禹貢の9州にもどした。
章懐は『献帝春秋』をひく。幽州と并州をはぶき、冀州にあわせた。司隷校尉と雍州をはぶき、雍州にあわせた。交州をはぶき、荊州と益州にあわせた。益州はなくて、梁州がある。
『続百官志』に注する劉昭は『献帝起居注』をひく。建安18年3月庚寅、州郡を再編した。冀州は32郡ある。魏郡、安平、鉅鹿、河間、清河、博陵、常山、趙国、渤海、甘陵、平原、太原、上党、西河、安嚢、雁門、雲中、五原、朔方、河東、河内、涿郡、漁陽、広陽、右北平、上谷、代郡、遼東、遼東属国、遼西、玄菟、楽浪。同じように雍州もひろがり、22郡。はぶく。兗州と雍州は、増減なし。
胡三省はいう。司隷の河東、河内、馮翊、扶風は冀州となる。京兆は涼州となる。弘農、河南は豫州となる。曹操は冀州牧として、広くを治め、天下を制した。
ぼくは思う。司隷を解体するとは、後漢の長安や洛陽を、特別でなくすること。冀州が広くて、曹操が偉いことよりも、司隷の解体のほうが興味ぶかい。だって、行政区分がどうあれ、曹操はもともとエライじゃん。だからぼくは、胡三省を司隷に関するところだけ引用した。「禹貢の故事」なんて口実である。
趙翼はいう。荀彧伝で建安9年、荀彧は曹操に「9州に復古しよう」という。冀州を拡げるためである。荀彧のときは、河東、馮翊、扶風、西河だけを増やす計画だった。いま、幽州と并州、関中の外敵を倒したので、荀彧のときより多くを冀州にくっつけた。この歳、河東ら10郡に、曹操を魏公として封じた。禹貢の九州制に戻したのは、禅譲の準備である。


夏、郗慮が持節・策命、魏公に封じられる

夏四月,至鄴。五月丙申,天子使御史大夫郗慮持節策命公為魏公。

夏4月、曹操は鄴県にくる。

まるで凱旋だなあ。孫権の都督を捕らえたことは、戦果としては、ボチボチだが。戦場とは異なる、背後の本拠地で、統治できる範囲を拡大した。

5月丙申、献帝は、御史大夫の郗慮に持節させ、策命して曹操を魏公とした。

胡三省はいう。『姓譜』はいう。郗氏は高平の望姓である。
「策」は『文選』で「冊」である。李善は『説文』をひく。冊とは符命である。諸侯が進んで王から受けるフダである。2枚セットで、1枚が長く、1枚が短い。
何焯はいう。関中を定めたのち、魏公と九錫をもらった。魏公の命は、曹丕が禅譲を受けるとき、ただ「冊書」と出てくるだけである。陳寿は文面を載せない。他の史書と、編集方針がちがう。
梁商鉅はいう。『後漢書』荀彧伝で、建安17年に董昭らが、曹操に魏公、九錫を与えようとして、荀彧にはかった。荀彧が反対した。中止された。
盧弼はいう。『文選』は冊文を載せる前に、「制詔使持節丞相領冀州牧武平侯」14文字をおく。


續漢書曰:慮字鴻豫,山陽高平人。少受業于鄭玄,建安初為侍中。
虞溥江表傳曰:獻帝嘗特見慮及少府孔融,問融曰:「鴻豫何所優長?」融曰:「可與適道,未可與權。」慮舉笏曰: 「融昔宰北海,政散民流,其權安在也!」遂與融互相長短,以至不睦。公以書和解之。慮從光祿勳遷為大夫。

『続漢書』はいう。郗慮は、あざなを鴻豫という。山陽の高平の人。鄭玄の学業を受け、建安初に侍中となる。

山陽は、武帝紀の初平元年にある。

虞溥『江表伝』はいう。献帝は、(光禄勲の)郗慮と、少府の孔融と会った。孔融は「郗慮は道に適うが、"権"を與せない」という。郗慮は「孔融は北海相のとき、政治に失敗した。お前こそ"権"がない」と。孔融と郗慮はケンカした。曹操が仲直りさせた。郗慮は、光禄勲から御史大夫に遷った。

『晋書』虞溥伝はいう。『江表伝』を書いた虞溥は、、前やった。
『晋書』虞溥伝を訳し、『江表伝』の作者を知る
孔融のことは、『三国志』崔琰伝の注釈、『三国志』孔融伝にくわしい。
ぼくは補う。"権"なんて、理解を放棄したような抄訳をしたのは、なぜか。これが『論語』の孔子の言葉だからである。盧弼が教えてくれた。孔子の台詞をつかう孔融って、サイテーだな。
ぼくは思う。郗慮と孔融は、どちらも九卿である。こういう並び立つ官位って、ライバルになるのかな。三公の意見が割れるという史料が、『後漢書』にわりとある。孔融は曹操に殺されたが、郗慮は、曹操が魏公になる手伝いをした。曹操との関係において、郗慮の勝ちである。後漢末、政治に失敗してオロオロし、"権"がないのは、郗慮も孔融もお互いさまである。鄭玄から習った郗慮、孔子の子孫の孔融、どちらも後漢の知識人である。その勝敗を分けたのが、曹操の関係でしたとさ。えー、説明になってないじゃない。つまらない。差異はどこにあるんだ。
郗慮が、光禄勲から御史大夫になったのは、建安13年の注釈にあった。


献帝が曹操を魏公に封じる文書

曰:朕以不德,少遭愍凶,越在西土,遷於唐、衞。當此之時,若綴旒然,

公羊傳曰:「君若贅旒然。」何休云:「贅猶綴也。旒,旂旒也。以旒譬者,言為下所執持東西也。」

朕は不徳だから、西に連れ去られ、唐・衛をひきずられた。

李善はいう。初平元年、長安に遷都した。興平2年、黄河を渡り、安邑にいく。建安元年、聞喜にくる。7月、洛陽にくる。河東郡の、安邑県と聞喜県である。洛陽にくるため、必ず河内をとおる。河内は、もとの衛国である。河東は、もとの唐堯の封地である。ぼくは思う。旧国名でいうと、オシャレだなあ。

『公羊伝』に「旒」があり、何休が注釈する。天子が下位者によって、ハタのように持ち歩かれたことをいう。

沈家本はいう。『漢書』春秋家はいう。『公羊伝』は、、はぶく。上海古籍154頁をみる。『春秋公羊伝』について、いろいろ書いてある。むずかしいので後日。
以下、この献帝の文書に対して、『春秋』学など儒学系の人たちから、裴松之が注釈する。盧弼が、さらにコテコテに注釈する。ただの字義に関するもの、出典に関するものは、はぶきます。手に追えないので。


宗廟乏祀, 社稷無位;羣凶覬覦,分裂諸夏,率土之民,朕無獲焉,即我高祖之命將墜於地。朕用 夙興假寐,震悼於厥心,曰「惟祖惟父,股肱先正,其孰能恤朕躬」?乃誘天衷,誕育 丞相,保乂我皇家,弘濟於艱難,朕實賴之。今將授君典禮,其敬聽朕命。

文侯之命曰:「亦惟先正。」鄭玄云:「先正,先臣。謂公卿大夫也。」

宗廟も社稷も祭られない。高祖の天命も、地におちようとした。私は「父祖よ! たすけて!」と寝不足で願った。父祖が天のたすけを誘い、曹操を誕育させてくれた。たすけてもらった。

ぼくは思う。ロジックが複雑。献帝が曹操に助けてもらったのでない。献帝が父祖に願い、父祖が天に頼み、天が曹操を「誕育」させ、曹操が献帝を助けたのである。このムダな遠回りに、絶対におもしろい意味がある。構想あり。
あっさり流してしまいそうだけど。若いころの献帝の苦しみを、代筆にせよ、ここで読むことができる。もっと感情移入して、献帝の苦悩を味わうべきだな。献帝が主人公って、ワリとない。

いま曹操に典礼を授けるから、敬んで朕の命を聴け。

ぼくは思う。曹操に典礼を「授ける」主語はダレ? そりゃ一義的には献帝だが。父祖とか、天とか、いろんな登場人物が他にいる。無意味に、ほかの登場人物を出したわけじゃなかろう。


昔者董卓初興國難,羣后釋位以謀王室,

左氏傳曰:「諸侯釋位以閒王政。」服虔曰:「言諸侯釋其私政而佐王室。」

むかし董卓が国難をおこし、群臣が王政を私物化した。

『漢書序例』はいう。服虔は滎陽の人。後漢の尚書侍郎、高平令、九江太守。『春秋左伝解誼』をかく。『後漢書』儒林伝にいる。『左伝』に関して、はぶく。
ぼくは思う。おもに『春秋』を典拠として、献帝のこの文が書かれている。そして『公羊伝』『左氏伝』の両方から引用がある。いまのぼくにはアクセスできない知性だが、ここに「入り口」があることを確認して、当面はヨシとする。


君則攝進,首啟戎行,此君之忠於本 朝也。後及黃巾反易天常,侵我三州,延及平民,君又翦之以寧東夏,此又君之功也。 韓暹、楊奉專用威命,君則致討,克黜其難,遂遷許都,造我京畿,設官兆祀,不失舊物, 天地鬼神於是獲乂,此又君之功也。袁術僭逆,肆於淮南,懾憚君靈,用丕顯謀,蘄陽 之役,橋蕤授首,稜威南邁,術以隕潰,此又君之功也。迴戈東征,呂布就戮,乘轅將 返,張楊殂斃,眭固伏罪,張繡稽服,此又君之功也。袁紹逆亂天常,謀危社稷,憑恃 其眾,稱兵內侮,當此之時,王師寡弱,天下寒心,莫有固志,君執大節,精貫白日,奮其武怒,運其神策,致屆官渡,大殲醜類,

詩曰:「致天之屆,于牧之野。」鄭玄云:「屆,極也。」鴻範曰:「鯀則殛死。」

曹操が進んで漢室に忠をやった。黄巾が、青州、冀州、兗州を攻めると、曹操が功績をたてた。韓暹と楊奉が威命を専らにすると、曹操が許都をつくってくれた。文物をのこせた。

ぼくは思う。董卓、黄巾、韓暹と楊奉、という思い出の順番なのか。韓暹と楊奉は、わりと重大なトラブルだったようだ。つぎの重大なトラブルが、袁術である。

袁術が僭逆し、淮南でほしいままにした。だが袁術は、曹操の靈を懾憚した。曹操は、丕顯なる謀を用いた。蘄陽之役にて、橋蕤はクビを曹操に授けた。曹操の稜威は南邁した。袁術は隕潰した。曹操の功績である。

ぼくは思う。「君の霊」って何だろう。曲解したら楽しそう! 曹操から袁術にすでに与えていたものがあり、それが袁術を呪って、、また後日論じたい。
橋蕤は、曹操にクビを奪われたのでない。曹操が素晴らしいから、ウッカリして曹操に、クビを差しだしてしまったのである。あまりに素晴らしい演奏を聴かせてくれた路上ミュージシャンに、なんの義理もないのに、ウッカリして、1万円札を差し出してしまうようなものだ。そういう語法で記されている。
盧弼はいう。建安2年9月である。『後漢書』袁術伝はいう。袁術は陳国を攻めたが、ミスって淮河をわたって逃げた。橋蕤を「薪陽」に留めた。
ぼくは思う。袁術が臆病だが。代理のために残した橋蕤は、オオモノである。橋玄の親戚とか、そういう人物のレベルだろう。親戚だと言いたいのではない。笑
胡三省はいう。袁術が陳国を攻めたとき、曹操は東征した。袁術は橋蕤に曹操を防がせた。橋蕤が敗死すると、袁術は淮河をわたった。この戦いは、淮外(淮水の流域あたり)で行われた。『後漢書』袁術伝では「薪陽」とあるが、それは江夏郡の地名である。ちがう。沛国の「薪県」である。陳国の東である。
薪陽は、『三国志』何夔伝の注釈にある。

呂布、張楊、眭固、張繍を片づけた。袁紹が社稷を危うくしようと大軍で攻めてきたとき、王師(曹操軍)は少なかったが、勝ってくれた。
『詩経』とその鄭玄の注釈がある。はぶく。

俾我國家拯于危墜,此又君之功也。濟師洪 河,拓定四州,袁譚、高幹,咸梟其首,海盜奔迸,黑山順軌,此又君之功也。烏丸三種, 崇亂二世,袁尚因之,逼據塞北,束馬縣車,一征而滅,此又君之功也。劉表背誕,不供 貢職,王師首路,威風先逝,百城八郡,交臂屈膝,此又君之功也。馬超、成宜,同惡相 濟,濱據河、潼,求逞所欲,殄之渭南,獻馘萬計,遂定邊境,撫和戎狄,此又君之功也。 鮮卑、丁零,重譯而至,箄于,白屋,請吏率職,此又君之功也。君有定天下之功, 重之以明德,班敍海內,宣美風俗,旁施勤教,恤慎刑獄,吏無苛政,民無懷慝;敦崇帝 族,表繼絕世,舊德前功,罔不咸秩;雖伊尹格于皇天,周公光于四海,方之蔑如也。

袁譚、高幹、黒山、烏丸、袁尚、100城で8郡をもつ劉表、馬超、成宜、鮮卑、箄于、白屋をかたづけた。伊尹と周公も、曹操ほどすごくない。

『三国志集解』では、劉表の8郡がどこかをモメている。竟陵郡を含むか、これがいつ置かれたか、分からないらしい。上海古籍159頁を見れば、いかに分からないかは分かる。竟陵郡、迷ったらここに!
異民族の「箄于」が、モメている。張華『博物志』など。単于じゃない! が結論。


朕聞先王並建明德,胙之以土,分之以民,崇其寵章,備其禮物,所以藩衞王室,左 右厥世也。其在周成,管、蔡不靜,懲難念功,乃使邵康公賜齊太公履,東至於海,西 至於河,南至於穆陵,北至於無棣,五侯九伯,實得征之,世祚太師,以表東海;爰及 襄王,亦有楚人不供王職,又命晉文登為侯伯,錫以二輅、虎賁、鈇鉞、秬鬯、弓矢,大啟 南陽,世作盟主。故周室之不壞,繄二國是賴。今君稱丕顯德,明保朕躬,奉答天命, 導揚弘烈,緩爰九域,莫不率俾,

盤庚曰:「綏爰有眾。」鄭玄曰:「爰,於也,安隱於其眾也。」君奭曰:「海隅出日,罔不率俾。」率,循也。俾,使也。四海之隅,日出所照,無不循度而可使也。功高於伊、周,而賞卑於齊、晉,朕甚恧焉。朕以眇 眇之身,託於兆民之上,永思厥艱,若涉淵冰,非君攸濟,朕無任焉。

先王は明徳ある人に、土地と人民をあたえ、王室の藩衞とする。周成王のとき、管と蔡がそむき、邵康公を使者にして、斉太公に、モノと土地と権限と太師をあたえた。周襄公のとき、楚がそむき、晋文侯に、侯伯とモノをあたえた。周室が壊れなかったのは、斉太公と晋文侯のおかげである。曹操のほうが、これら前例よりも功績があるのだから、もらってくれ。

やばい! 超おもしろい! 逆くれくれくれはである。あげあげあげは。
斉太公の国境は、孔頴達、梁履縄、顧棟高、高士奇がいう。晋文侯のもらいものは、『左氏伝』僖公28年、その杜預注、『左氏伝』僖公25年、その杜預注、梁履縄などがいう。上海古籍161頁。


◆ついに曹操が魏公に封ぜられる!

今以冀州之河東、河內、魏郡、趙國、中山、常山、鉅鹿、安平、甘陵、平原凡十郡,封君為魏公。錫君玄土, 苴以白茅;爰契爾龜,用建冢社。昔在周室,畢公、毛公入為卿佐,周、邵師保出為二 伯,外內之任,君實宜之,其以丞相領冀州牧如故。又加君九錫,其敬聽朕命。以君 經緯禮律,為民軌儀,使安職業,無或遷志,是用錫君大輅、戎輅各一,玄牡二駟。君勸 分務本,穡人昏作,

盤庚曰:「墮農自安,不昏作勞。」鄭玄云:「昏,勉也。」

冀州の、河東、河內、魏郡、趙國、中山、常山、鉅鹿、安平、甘陵、平原の10郡をもって、

呉増僅はいう。甘陵郡は、もと清河国である。『郡国志』注はいう。桓帝の建和2年、甘陵と改めた。『後漢書』献帝紀はいう。建安11年、国から郡とした。『輿地広記』はいう。曹魏が、清河郡にもどした。
沈家本はいう。この年、14州を9州とした。ゆえに州と郡の対応は、『続郡国志』とちがう。『続百官志』注はいう。冀州は32郡ある。紀中山だけがない。ミスか。
盧弼は考える。甘陵と清河は、ダブルカウントである。冀州32郡というとき、1つ足りなくなる。ぼくは思う。盧弼は、中山を増やせと言ってる?

曹操を魏公に封じる。

『文選』魏公には「使使持節御史大夫(郗)慮、授君印綬冊書、金虎符一至第五、竹使符第一至第十」の31字がある。梁商鉅はいう。けだしすでに、五月丙申にあるように、天子は御史大夫に郗慮に持節させ、これらの冊書を与えていたのだ。

丞相、冀州牧はもとのとおりだ。周室で、畢公や毛公が内部にいて、周公や邵公が外部にいて、周公をたすけた前例があるからである。九錫をくわえる。

『文選』で曹操は、武平侯の印綬をかえす。九錫などのギフトについては、『漢書』武帝紀、その注釈(応劭、張晏、顔師古など)、王莽伝など。はぶく。上海古籍163頁。
『後漢書』献帝紀はいう。建安18年夏5月丙申、曹操はみずからを魏公に立て、九錫を加えた。章懐注で、九錫を説明する。梁商鉅はいう。九錫の数は『公羊伝』より前にない。王莽が簒奪するために、九錫を開発したのだ。
ぼくは思う。九錫がどういうものか、内容を検討する準備がない。だが、こういう「ギフト」を、わざわざ受け取る側(王莽さん)がつくったというのが重要。また『後漢書』で曹操が「みずから」と言われるように、曹操が人材を献帝のために投入し、その人材がギフトを開発し、それを献帝の名前で、曹操にプレゼントさせた。「だから王莽や曹操は邪悪なんだ」なんて結論では、なにも生まない。
儀礼の本質が見える。おもしろいことだなあ!


粟帛滯積,大業惟興,是用錫君袞冕之服,赤舄副焉。君敦尚 謙讓,俾民興行,少長有禮,上下咸和,是用錫君軒縣之樂,六佾之舞。君翼宣風化,爰 發四方,遠人革面,華夏充實,是用錫君朱戶以居。君研其明哲,思帝所難,官才任賢, 羣善必舉,是用錫君納陛以登。君秉國之鈞,正色處中,纖毫之惡,靡不抑退,是用錫 君虎賁之士三百人。君糾虔天刑,章厥有罪,

「糾虔天刑」語出國語,韋昭注曰:「糾,察也。虔,敬也。刑,法也。」

犯關干紀,莫不誅殛,是用錫君鈇鉞 各一。君龍驤虎視,旁眺八維,掩討逆節,折衝四海,是用錫君彤弓一,彤矢百,玈弓 十,玈矢千。君以溫恭為基,孝友為德,明允篤誠,感于朕思,是用錫君秬鬯一卣,珪瓚 副焉。魏國置丞相已下羣卿百寮,皆如漢初諸侯王之制。往欽哉,敬服朕命!簡恤爾 眾,時亮庶功,用終爾顯德,對揚我高祖之休命!

魏国には、丞相より以下、羣卿百寮は、漢初の諸侯王之制と同じとする。曹操にいろいろプレゼントするから、わが高祖のためにがんばってね!

裴注、『国語』にからみ、韋昭『漢書』注など。上海古籍164頁。
「朱戸」などの特権は、『漢書』王莽伝をみよ。
ぼくは思う。曹操は、献帝のために働くのでなく、高祖のために働くらしい。献帝は、曹操にいろいろプレゼントして、曹操が高祖のために働くように焚きつける役割。前半の献帝の苦労話は、「私なんかでは、高祖のために働く能力がないから、代わりに曹操ががんばってね」というところに着地する。なんて献帝だ。


後漢尚書左丞潘勗之辭也。勗字元茂,陳留中牟人。

後漢の尚書左丞する潘勗が、献帝が曹操を魏公にする文書をつくった。潘勗は、あざなを元茂。陳留の中牟の人である。

『続百官志』はいう。尚書は6人、6百石。左右丞が1人ずつ、4百石。文書をつかさどる。蔡質『漢儀』はいう。尚書は、宮廷のすべてを見た。潘勗のことは、『三国志』巻21衛覬伝とその注にある。せっかくだから、引用する。
建安末, 尚書右丞河南潘勖,(陳寿ここまで、つぎ裴注)
文章志曰:勖字元茂,初名芝,改名勖,後避諱。或曰勖獻帝時為尚書郎,遷右丞。詔以勖前在二千石曹,才敏兼通,明習舊事,敕并領本職,數加特賜。二十年,遷東海相。未發,留拜尚書左丞。其年病卒,時年五十餘。魏公九錫策命,勖所作也。勖子滿,平原太守,亦以學行稱。ふーん!
康発祥はいう。潘勗が書いたかも知れないが、かならず曹操の意図を反映したものである。ねじまげられている。盧弼はいう。潘勗の魏公と九錫の策文は、口先では天命を記しているが、後世の批判に堪えられない。潘勗の従子たる潘岳は、愍懐太子(司馬遹、西晋の恵帝の太子)と、文書をめぐってモメた。
『晋書』列伝23、司馬遹「愍懐太子伝」翻訳!
顧炎武はいう。王莽のとき、揚雄が美文をかいた。曹操のとき、潘勗が美文をかいた。こんな美文のせいで、乱が起きるのである。
ぼくは思う。どうして「禅譲は悪」「王莽も曹操も悪党」「文面は口先だけ」という論評がおおいのだろう。まるで正史は、この「禅譲による悪」を隠すために書かれるようですらある。王朝の交代を「悪」は「悪」でも「必要悪」としつつ、それでも「悪」と言いつつづける精神構造は、どこからやってくるのでしょう。潘勗や潘岳が、こんなにも顧炎武に批判されて、なんとなく「そうだよね」と思ってしまうのは、なぜでしょう。
儒教の正義から自由なはずのぼくたちも、王莽や曹操は悪者で、曹操の九錫文は「歯の浮くような建前」に見えてしまう。この、自分にもインストールされた読解のクセを、掘り下げて理解すると、おもしろいことが言えそうだ。「誰かにプレゼントすることは損失である。本心から自発的にプレゼントをするはずがない」という人間のモデルが、背後にあるのだろう。このモデルは、果たして顧炎武のものと同じか。顧炎武は、ぼくとは全くちがうモデルで人間を理解しているが、たまたま「王莽と揚雄、曹操と潘勗、邪悪なやつめ」と、ぼくら? と同じように憤っているのかも知れない結論が同じだから、結論にいたるまでの経路の違いが、意識されなくなっているのではないか。おお!
っていうか「できごとを記述する」ことで「毀誉褒貶する」という、メンタリティは、どこからやってくるのでしょう。『春秋』の筆法は、自然に抵抗なく、それゆえに吟味することなく、ぼくに受容されている。それじゃ、ダメじゃん。


曹操が魏公と九錫を3譲する

◆曹操が魏公をことわる

魏書載公令曰:「夫受九錫,廣開土宇,周公其人也。漢之異姓八王者,與高祖俱起布衣,剏定王業,其功至大,吾 何可比之?」前後三讓。

『魏書』は曹操の令をのせる。「九錫と広い領地をもらったのは、周公である。前漢の異姓8王は、高祖をたすけた者である。私は彼らに及ばない」と。
曹操は、前後3譲した。

◆曹操を魏公に勧進した顔ぶれ

於是中軍師陸樹亭侯荀攸、前軍師東武亭侯鍾繇、左軍師涼茂、右軍師毛玠、平虜 將軍華鄉侯劉勳、建武將軍清苑亭侯劉若、伏波將軍高安侯夏侯惇、揚武將軍都亭侯王忠、奮威將軍樂鄉侯劉 展、建忠將軍昌鄉亭侯鮮于輔、奮武將軍安國亭侯程昱、太中大夫都鄉侯賈詡、軍師祭酒千秋亭侯董昭、都亭侯 薛洪、南鄉亭侯董蒙、關內侯王粲、傅巽、祭酒王選、袁渙、王朗、張承、任藩、杜襲、中護軍國明亭侯曹洪、中領軍 萬歲亭侯韓浩、行驍騎將軍安平亭侯曹仁、領護軍將軍王圖、長史萬潛、謝奐、袁霸等勸進曰:

ここにおいて、みなが曹操を魏公に勧進した。

ぼくは思う。固有名詞の羅列は、翻訳もなにもない。ここは、見やすく改行することで、付加価値とする。

中軍師_陸樹亭侯_荀攸、 前軍師_東武亭侯_鍾繇、
左軍師_涼茂、 右軍師_毛玠、

中、前、左、右軍資は、どれも曹操が置いた。

平虜將軍_華鄉侯_劉勳、 建武將軍_清苑亭侯_劉若、

劉勲は、建安4年にある。また司馬芝伝にある。司馬芝伝で、劉勲は征虜将軍である。また、文紀評にひく『典論』にある。賈逵伝にひく『魏略』、楊沛伝および杜畿伝にひく『杜氏新書』にある。『呉志』孫策伝の注釈にもある。
ぼくは補う。劉勲って、重要人物だったのか! 袁術の遺族を保護した人。
文帝紀の注引では、劉若は、輔国将軍である。
ぼくは思う。劉勲と劉若は、どちらも劉姓である。関係があるのかな。そして、署名が夏侯惇より前にある。重要人物なんだなあ。

伏波將軍_高安侯_夏侯惇、 揚武將軍_都亭侯_王忠、

夏侯惇伝では、高安郷侯である。王忠は建安4年の注釈にある。

奮威將軍_樂鄉侯_劉展、 建忠將軍_昌鄉亭侯_鮮于輔、

潘眉はいう。『典論』では鄧展である。沈家本はいう。顔師古『漢書序例』はいう。鄧展は南陽の人なり。建安のとき、奮威将軍となる。高楽郷侯に封ぜらると。「高」楽郷侯が正しい。
ぼくは思う。姓も爵位も誤られて、かわいそう。南陽の鄧氏といえば、光武帝の姉が嫁いだのが、南陽の新野の鄧晨だった。
鮮于輔のことは、建安10年と、『三国志』公孫瓚伝にある。『魏公卿上尊号碑』では、鮮于輔は南昌亭侯である。

奮武將軍_安國亭侯_程昱、 太中大夫_都鄉侯_賈詡、
軍師祭酒_千秋亭侯_董昭、 都亭侯_薛洪、 南鄉亭侯_董蒙、

賈詡伝では都亭侯である。のちに賈詡は、魏寿亭郷侯に進む。ここは都亭侯とすべきである。
董昭伝では、董昭は軍祭酒である。軍師祭酒でない。

關內侯_王粲、 傅巽、

傅巽は傅嘏伝にある。文帝紀にひく『献帝伝』と、『三国志』劉表伝にひく『傅子』にでてくる。

祭酒_王選、 袁渙、 王朗、 張承、 任藩、 杜襲、

袁渙伝では、祭酒ではなく、丞相軍祭酒である。
王朗伝では、祭酒ではなく、軍祭酒である。
張承のことは、張範伝にある。祭酒ではなく、丞相参軍祭酒である。
杜襲伝では、祭酒ではなく、丞相軍祭酒である。
ぼくは思う。あんまり官職を厳密に記すつもりがないのだろうか。マジメにやっているのなら、ミスが多すぎる。もしくは、固有名詞の連続は、いまも昔もツライということか。

中護軍_國明亭侯_曹洪、 中領軍_萬歲亭侯_韓浩、

『三国志』荀彧伝はいう。荀彧を万歳亭侯とした。子の荀惲がついだ。
胡三省はいう。荀惲と韓浩の封地がかぶってしまった。また、武文世王公伝の曹茂伝で、建安22年、曹茂を万歳亭侯とする。かぶりまくりである。韓浩のことは、夏侯惇伝にある。

行驍騎將軍_安平亭侯_曹仁、 領護軍將軍_王圖、
長史_萬潛、 謝奐、 袁霸 らが勧進した。

◆臣下たちからの勧進の文

「自古三代,胙臣以 土,受命中興,封秩輔佐,皆所以褒功賞德,為國藩衞也。往者天下崩亂,羣凶豪起,顛越跋扈之險,不可忍言。 明公奮身出命以徇其難,誅二袁篡盜之逆,滅黃巾賊亂之類,殄夷首逆,芟撥荒穢,沐浴霜露二十餘年,書契已 來,未有若此功者。

功績がある臣下には、土地をあたえて、国を守らせる。曹操は、簒奪者の二袁を誅し、黄巾をうち、20余年も戦ってきた。

曹操の功績に「誅二袁篡盜之逆」を数える。袁術だけでなく、袁紹も簒奪者で、曹操がそれを防いだというのが、公式見解なのね。曹操の戦いのハイライトが、二袁と黄巾である。つぎで群臣は、曹操の戦歴が長いことをいう。曹操の戦歴のスタートが、二袁との戦いと、黄巾との戦いにあったという解釈である。


昔周公承文、武之迹,受已成之業,高枕墨筆,拱揖羣后,商、奄之勤,不過二年,呂望因三分有 二之形,據八百諸侯之勢,暫把旄鉞,一時指麾,然皆大啟土宇,跨州兼國。周公八子,並為侯伯,白牡騂剛,郊祀 天地,典策備物,擬則王室,榮章寵盛如此之弘也。

曹操の功績は、周公や呂望よりも功績がでかい。周公も呂望も、曹操より戦った期間が短く、ラクだった。周公は、周文王と周武王をついだだけ。呂望は、天下の3分の2を領有したところからスタートした。だが周公と呂望は、広い封地をもらった。

逮至漢興,佐命之臣,張耳、吳芮,其功至薄,亦連城開地,南 面稱孤。此皆明君達主行之於上,賢臣聖宰受之於下,三代令典,漢帝明制。今比勞則周、呂逸,計功則張、吳 微,論制則齊、魯重,言地則長沙多;然則魏國之封,九錫之榮,況於舊賞,猶懷玉而被褐也。且列侯諸將,幸攀 龍驥,得竊微勞,佩紫懷黃,蓋以百數,亦將因此傳之萬世,而明公獨辭賞於上,將使其下懷不自安,上違聖朝歡 心,下失冠帶至望,忘輔弼之大業,信匹夫之細行,攸等所大懼也。」

漢代になると、張耳や吳芮は、功績もないのに南面させてもらった。上に名君がいて、下にいる賢臣に土地を与えるのは、漢代の明制である。曹操は、魏国と九錫を受けなさい。

古代も漢代も、名君が賢臣に与えるのがルール。受け取らないのはナンセンス。へえ!おもしろい『贈与論』である。
長いこと苦労すれば、それで功績がデカいというのは、正しいかどうか分からないが。マルクスの労働価値説でも、平均労働の概念をもちこんで、このパラドクスを薄めている。

もし曹操が辞退するなら、下位者を不安にさせ、上位者の歓心をたがえる。漢室を補弼した大業を忘れて、匹夫の細行をしないでね。

受けないことが、これほど荀攸に責められる。


曹操が魏公と九錫を受納する

於是公敕外為章,但受魏郡。

曹操は、魏郡だけを受けた。

ジラすなあ。すごい戦争!


◆荀攸からのダメおし

攸等復曰:「伏 見魏國初封,聖朝發慮,稽謀羣寮,然後策命;而明公久違上指,不即大禮。今既虔奉詔命,副順眾望,又欲辭多 當少,讓九受一,是猶漢朝之賞不行,而攸等之請未許也。昔齊、魯之封,奄有東海,疆域井賦,四百萬家,基隆業 廣,易以立功,故能成翼戴之勳,立一匡之績。今魏國雖有十郡之名,猶減于曲阜,計其戶數,不能參半,以藩衞 王室,立垣樹屏,猶未足也。且聖上覽亡秦無輔之禍,懲曩日震蕩之艱,託建忠賢,廢墜是為,願明公恭承帝命, 無或拒違。」

荀攸らは、またいう。
曹操は魏公を受けたが、9を断り、1を受けただけである。漢朝之賞が行われず、攸等之請が許されていない。周室が封じた斉と魯は、領土と戸数が多いから、功績を立てられた。曹操は、領土と戸数が少ない。魏国は10郡というは、戸数は周代の魯の3分の1である。漢室は、封国がないせいで滅びた秦室と同じ失敗をしないように、曹操を封国にしたい。皇帝の命令にしたがえ。

公乃受命。

曹操は、九錫をふくめて受命した。

ぼくは思う。荀攸は、曹操のためでなく、皇帝のために受命を勧めている。曹操が拒絶すれば、それは「匹夫の細行」である。どういう論理によって、こうなるのか。仮説があるが、また今度。まずは史料の整理をやろう。


◆曹操が魏公を受ける文書

魏略載公上書謝曰:「臣蒙先帝厚恩,致位郎署,受性疲怠,意望畢足,非敢希望高位,庶幾顯達。會董卓作亂,義 當死難,故敢奮身出命,摧鋒率眾,遂值千載之運,奉役目下。當二袁炎沸侵侮之際,陛下與臣寒心同憂,顧瞻京 師,進受猛敵,常恐君臣俱陷虎口,誠不自意能全首領。賴祖宗靈祐,醜類夷滅,得使微臣竊名其間。陛下加恩, 授以上相,封爵寵祿,豐大弘厚,生平之願,實不望也。口與心計,幸且待罪,保持列侯,遺付子孫,自託聖世,永 無憂責。不意陛下乃發盛意,開國備錫,以貺愚臣,地比齊、魯,禮同藩王,非臣無功所宜膺據。歸情上聞,不蒙 聽許,嚴詔切至,誠使臣心俯仰逼迫。伏自惟省,列在大臣,命制王室,身非己有,豈敢自私,遂其愚意,亦將黜 退,令就初服。今奉疆土,備數藩翰,非敢遠期,慮有後世;至於父子相誓終身,灰軀盡命,報塞厚恩。天威在 顏,悚懼受詔。」

『魏略』は曹操が皇帝に感謝する上書を載せる。
霊帝の厚恩をもらい、郎官にしてもらった。私はダラけて、高位を望まず。董卓が暴れたので、私はがんばるチャンスを得ました。二袁が炎のように沸きたち、漢帝を侵し侮った。私と献帝はいっしょに二袁を恐がった。私は祖先の霊を頼り、二袁を破りました。私は名声をぬすんだ。陛下に恩を加えられ、官爵をもらった。九錫、斉魯に劣らぬ封地をもらった。私が断っても、許してくれないので、受けた。私のために受けたのでなく、父子で死ぬまで陛下に尽くすために受けたのです。

贈与が何往復したかなー。おもしろい。後日やりたい。
『三国志集解』の注釈が、ほぼない。このあたりは、事実、制度、地名、ではなく、意見を述べる文書だから、注釈すべきものがないのだろう。


秋、社稷と宗廟、曹貴人と金虎台

秋七月,始建魏社稷宗廟。天子聘公三女為貴人,少者待年于國。

獻帝起居注曰:使使持節行太常大司農安陽亭侯王邑,齎璧、帛、玄纁、絹五萬匹之鄴納聘,介者五人,皆以議郎 行大夫事,副介一人。

秋7月、はじめて魏の社稷と宗廟をたてる。

『晋書』礼志上はいう。漢から魏にいたり、ただ太社には稷があるが、官社には稷がない。ゆえに、つねに2社(太社と官社)に1稷(太社だけ)だった。またいう。王制では、天子は7廟、諸侯より以下は差等あり。建安18年5月、河北12郡をもって、曹操を魏公とした。同年7月、はじめて宗廟を鄴県にたてた。諸侯の礼にもとづき、5廟だった。のちに魏王に進んでも、5廟のままだった。『宋書』もおなじ。
ぼくは思う。さっき曹操は「祖先の霊を頼って」二袁を破り、献帝を救うことができたと言った。たしかに5廟は制度に違いないが、そういう形骸化したところ以外でも、いま曹氏の祖先を祭ることを皇帝が許すことには、かくれた意味がある。

天子は、曹操の3人の娘を貴人とした。年少の娘は、魏国で待つ。

『後漢書』曹皇后紀を見よ。上海古籍171頁で、3人のうち、何番目がのちに皇后となるか、その諱は何か、モメている。范曄『後漢書』が正しい。次女の曹節が皇后となり。『続漢書』は、曹憲が皇后になるというが、諸史料に照らすと合わない。
梁商鉅はいう。これは献帝が、自ら曹操との関係を結ぶために、娘をもらったのだ。
『陳思王集』に叙愁賦序がある。献帝に嫁ぐのを、さみしいよと悲しがった。この結婚は、曹氏が望んだのでない。
盧弼はいう。曹操の意図で、結婚したのである。梁商鉅がいうように、献帝が望んだのでない。梁商鉅が「献帝の意図だ」というが、それは誤りである。董承の謀略がモレたところで、献帝は曹操を嫌って怨んでいた。
ぼくは思う。献帝の意図か、曹操の意図か、という問題の立て方が、文化人類学を分かっていない。魏公と九錫を賜り、つぎに娘を贈与する。なんてエロティックな段取なんだ。どちらの意図とか、そんなんじゃない。3つの義務だ。
ぼくは思う。先週まで、ほんとにちょうど1週間前のこの瞬間まで、文化人類学で汝南袁氏を読んでいた。「もう煮詰まって、書くことがない!」と思ったので、武帝紀にきた。武帝紀を1週間だけ読んだら、文化人類学で曹氏を読みたくて仕方がない。むしろ武帝紀が誘っていると感じるほどだ。
汝南袁氏は、記述が足りないところが多かったから、仮説として設定した理論と、なんとなくの嗅覚と直観で、論じた。そのとき、ぼくが推測によって穴埋めしていたこと、すなわち「理論に説得力を持たせるためにほしかった史料X」が、やまのように武帝紀にある。さすが、8月3日(ハチミツの日)である。ヒキがある。

『獻帝起居注』はいう。使持節_行太常_大司農_安陽亭侯_王邑が、鄴県にモノを届けた。

ぼくは思う。曹操の娘への、とりあえずの返報。いわゆる結納。結納というと、なんだか現代日本の習俗とかってに同定して、思考停止するので注意! 原理は同じだが「当たり前のこと」として、スルーしてはいけない。分析の対象。
『晋書』職官志はいう。使持節、持節、仮節、の順序である。
ぼくは思う。王邑って、どこの王邑さんだっけ。『三国志集解』に注釈なし。


九月,作金虎臺, 鑿渠引漳水入白溝以通河。冬十月,分魏郡為東西部,置都尉。十一月,初置尚書、侍中、 六卿。

9月、金虎臺をつくる。渠水をうがち、漳水にひき、白溝で黄河に通じる。

金虎台は、銅雀台の注にある。潘眉はいう。九錫を受けた者は、かならず金虎符の第1から第5をもち、竹使符の第1から第10をもつ。この年、曹操は九錫をもらったから、金虎台をつくった。
曹操の銅雀台から60歩の距離に、金虎台がある。銅より金、スズメよりトラのほうが、高級そうだが、銅雀台がメイン。金虎台は、九錫をもらったモニュメント。あれだけ九錫を拒否ってたのに、パーッと金虎台を作っちゃって、カワの水まで引くのだから、豪勢である。「気前がよい」は、キーワードなのだ。
『水経』淇水はいう、、はぶく。白溝は建安9年の注釈にもある。


冬、魏郡を3つに分ける

冬十月,分魏郡為東西部,置都尉。十一月,初置尚書、侍中、 六卿。

冬10月、魏郡をわけて、東西の部をつくり、それぞれ都尉をおいた。

建安17年、魏郡を大きくしたから、分けたのである。『水経』濁漳水注はいう。魏郡をわけて、東西に部都尉をおくから「三魏」という。
文帝紀はいう。黄初2年、魏郡の東部を陽平郡とした。西部を広平郡とした。『続百官志』はいう。属国に都尉1名をおく。比2千石である。前漢の武帝は、三輔都尉をおく。建武6年、光武帝が諸郡の都尉をはぶく。職務を太守にあわせた。ただ辺境には、都尉や属国都尉がいた。郡のように、治民した。

11月、はじめて尚書、治中、六卿をおいた。

趙一清はいう。これは初めて置かれた、曹魏の官位である。
『宋書』百官志はいう。尚書は古官である。魏代には、吏部など5曹尚書がいた。侍中は、もとは秦代の丞相史である。魏晋より以来、4人をおく。べつに侍中の加官もあり、これは定員なし。比2千石。
六卿は、漢代の九卿から、廷尉、少府、宗正を除いたものである。つまり、王国の六卿とは、太常、光禄勲、衛尉、太僕、大鴻臚、大司農である。『漢旧儀』より。
しかるに建安21年の裴注で『魏書』はいう。はじめて奉常をおくと。奉常とは、宗正である。建安22年、『魏書』をひく。はじめて衛尉をおくと。建安22年、九卿がそろってしまった。魏国になかった3卿は、廷尉と少府ではない。ゆえにはじめて魏国を建てたとき、大理の鍾繇を相国とした。大理とは、廷尉である。19年の注釈で、曹魏は貴人を送って少府におく。ここでは漢代の王国の制度に従い、3卿がはぶかれている。曹魏は、名目では3卿を減らしつつ、じわじわと官位を増やしたのだろう。『漢旧儀』どおりでない。六卿の官名は、黄初元年の記事で改められてる。


魏氏春秋曰:以荀攸為尚書令,涼茂為僕射,毛玠、崔琰、常林、徐奕、何夔為尚書,王粲、杜襲、衞覬、和洽為侍中。

『魏氏春秋』はいう。荀攸は、曹魏の尚書令となる。

尚書令は荀攸伝にある。尚書令についての史料をひく。はぶく。『続百官志』、『宋書』百官志、応劭『漢官儀』、蔡質『漢儀』など。上海古籍172頁。

涼茂は僕射となる。毛玠、崔琰、常林、徐奕、何夔は、尚書となる。

毛玠伝、何夔伝では、尚書僕射となる。ぼくは思う。ちゃうやん。官名は、流動的だったり、わりに自由に省略したりするのかも知れない。研究者を泣かせるのだろう。

王粲、杜襲、衞覬、和洽は、侍中となる。

胡三省はいう。これより以後、侍中は定員4名となる。


馬超が漢陽で氐族をあおる

馬超在漢陽,復因羌、胡為害,氐王千萬叛應超,屯興國。使夏侯淵討之。

馬超が漢陽にいる。羌胡をたより、曹操に害をなす。氐王の千萬が、馬超に応じて叛いた。

『郡国志』はいう。涼州の漢陽郡、治所は冀県である。胡三省はいう。冀県は、涼州刺史の治所である。盧弼はいう。涼州刺史の治所は、もとは隴県である。霊帝の中平から建安末まで、冀県にうつった。
閻温伝はいう。馬超は涼州の治所たる冀城を囲んだ。楊阜伝はいう。ただ冀城のみ、州郡を奉じてまもった。このように、涼州刺史が冀城にいる。
氐王の千万のことは、『三国志』烏丸鮮卑東夷伝にひく『魏略』西戎伝にある。

千万は、興國に屯する。

『一統志』はいう。後漢の初平のとき、略陽の氐族のリーダーたる阿貴は、みずから興国氐王を称した。建安18年、馬超が冀県によると、氐王の先晩が馬超に応じて、興国に屯した。ぼくは思う。阿貴ちゃんと、千万の関係は?

曹操は、夏侯淵に、氐王の千万を討たせた。

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建安19年、諸侯王の上、金璽,赤紱,遠遊冠 open

春、曹操が魏国で籍田を耕す

十九年春正月,始耕籍田。南

建安19年春正月、はじめて籍田を耕した。

『漢書』文帝紀はいう。前漢の文帝は詔した。農業は天下のモトである。籍田をひらけと。応劭はいう、韋昭はいう、臣瓚はいう。顔師古はいう。どれもはぶく。『続漢書』礼儀志はいう。正月、始耕する。天子、三公、九卿、諸侯、百官はもって次耕する。劉昭は『月令』をひく。天子は、三公や九卿をひきいて、自ら耕すと。
盧弼はいう。古礼で、漢代の礼でもある。いまは魏公が鄴県で耕した。天子が許県で耕したのでない。建安21年にも、曹操が自ら籍田をたがやすという記述がある。くわしくは、明帝紀の太和元年「帝耕籍田」に注釈した。
ぼくは思う。こういう、農業の儀礼は、どこの文化圏にもあるんだろうなあ。


春、夏侯淵が、馬超と韓遂を片づける

安趙衢、漢陽尹奉等討超,梟其妻子,超奔漢中。韓遂徙 金城,入氐王千萬部,率羌、胡萬餘騎與夏侯淵戰,擊,大破之,遂走西平。淵與諸將攻興 國,屠之。省安東、永陽郡。

南安の趙衢、漢陽の尹奉らが、馬超の妻子を梟した。馬超は関中ににげた。

くわしくは閻温伝、楊阜伝にある。
『郡国志』漢陽郡にひく『秦州記』はいう。中平5年、南安郡をわけた。『寰宇記』はいう。後漢末、[豕原]道県に南安郡をおく。盧弼はいう。『魏志』龐徳伝では、狟道県とある。
漢中は建安16年の注釈にある。

韓遂は金城にうつる。韓遂は、氐王の千万のところで、羌胡1万余騎をひきい、夏侯淵とたたかう。西平ににげる。

金城は、武帝紀の巻首にある。
西平は、斉王紀の嘉平5年にある。呉増僅はいう。『通典』『元和志』『寰宇記』では、西平は建安におかれる。『水経』では黄初におかれた。『魏志』王修伝にひく『魏略』によると、郭憲は建安に西平の郡功曹となる。杜畿伝で、杜畿は西平太守となる。張既伝にひく『魏略』で、韓遂は閻行を西平にゆかせる。以上から、黄初でなく建安がただしい。
盧弼はいう。『元和志』はいう。建安のとき、金城を分けて西平をおく。胡三省も同じことをいう。『一統志』はいう。西平は、もとは漢代に臨羌県だった。後漢末に、西都県をわけて、西平郡をあわせておいた。

夏侯淵は、興國をほふった。安東郡と永陽郡をはぶいた。

銭大昕はいう。『献帝起居注』は初平4年、漢陽をわけて、永陽と安東をおく。これより前に、郡名は出てこない。ただ『晋書』は、霊帝が南安郡をおき、また漢陽郡の地でもあったという。『続百官志』にひく『献帝起居注』で、建安18年に曹操が9州にまとめたとき、東安郡と南(安)郡が出てくる。明帝紀の太和2年、天水、南安、安定がそむく。まだ南安が残っているじゃないか。
何承天はいう。南安は、曹魏が天水から分けて立てた。だが『魏志』にない。建安にはぶかれ、曹魏にもどされたか。べつの人は、瑯邪の東安と混同して、ぐちゃぐちゃにする。盧弼はいう。南安、永陽は、漢末に増設され、戦後にはぶかれた。


安定太守毌丘興將之官,公戒之曰:「羌,胡欲與中國通,自當遣人來,慎勿遣人往。善人難得,必將教羌、胡妄有所請求,因欲以自利;不從便為失異俗意,從之則無益事。」興至,遣校尉范陵至羌中,陵果教羌,使自請為屬國都尉。公曰:「吾預知當爾,非聖也,但更 事多耳。」

安定太守の毌丘興は、属官をひきいて、安定に赴任する。

安定は、建安16年の注釈にある。毋丘興は、黄初のとき、武威太守となる。子の毋丘倹伝にある。
ぼくは補う。 安定は楊秋がいた。楊秋は、馬超とともに潼関で対峙し、安定に撤退。安定をかこんで、曹操が楊秋をくだし、もとのまま安定を任せたのだった。いま馬超と韓遂が片づいたので、中央から太守を送るらしい。

曹操は毋丘興を戒めた。「羌胡から使者が来るのをまて。こちらから使者するな。善人は得がたい。こちらから使者を立てれば、その使者が羌胡をそそのかして、羌胡に利益の要求を出させ、使者が仲介手数料を得ようとする。使者がナカヌキをして、羌胡とこちらとの信頼をくずせば、関係の修復がむずかしい」と。

ぼくは思う。ミエを張って、羌族の使者を待てというのでない。中原の官人は、辺境の仕事をすると、ナカヌキを熱心にするからである。これは、その使者が邪悪なのでなく(まだ使者がだれか決まっていない)、そもそも人間が利益に甘やかされるからである。大企業の買付担当が、地方の仕入先からリベートをもらうようなものだ。買付担当という権限をふるって、ムチャな要求をする。よくある。

毋丘興は、校尉の范陵を羌族にゆかせた。はたして范陵は、羌族をそそのかし、屬國都尉の地位を要求した。曹操はいう。「私は聖人だから、范陵の要求を予知したのでない。ただ知識があるだけだ」と。

梁商鉅はいう。まえに曹操は、潼関で羌族に「目は4つなく、口は2つないが、智がおおい」といった。ここの「知識があるだけ」も同じ意味である。
ぼくは思う。范陵のように、中間利権をほしがるのは、人間のサガである。儒学の教義うんぬんでなく、人間に対する経験の豊富さなんだよと。このあたり、リアリストの曹操が好きな人は、もっと引用してもいい逸話だと思う。それよりも毋丘興、ふつうに曹操の言いつけを破っている。いいのか? 息子が無惨な死に方をするよ?


春、曹貴人が入宮し、魏公は諸侯王の上に

獻帝起居注曰:使行太常事大司農安陽亭侯王邑與宗正劉艾,皆持節,介者五人,齎束帛駟馬,及給事黃門侍郎、 掖庭丞、中常侍二人,迎二貴人于魏公國。二月癸亥,又於魏公宗廟授二貴人印綬。甲子,詣魏公宮延秋門,迎 貴人升車。魏遣郎中令、少府、博士、御府乘黃廄令、丞相掾屬侍送貴人。癸酉,二貴人至洧倉中,遣侍中丹將冗 從虎賁前後駱驛往迎之。乙亥,二貴人入宮,御史大夫、中二千石將大夫、議郎會殿中,魏國二卿及侍中、中郎二 人,與漢公卿並升殿宴。

『献帝起居注』はいう。行太常事_大司農_安陽亭侯_王邑と、宗正_劉艾は、持節して、魏国から曹貴人2名をむかえた。2月癸亥、魏公の宗廟で、貴人に印綬をさずけた。2月乙亥、2名は入宮した。魏國の2卿と、侍中、中郎2名は、漢の公卿とならんで殿宴した。

上海古籍176頁。黄門次郎、掖庭丞、郎中令、少府、などに注釈がある。はぶく。
趙一清はいう。魏国の2卿とは、郎中令と少府である。中郎とは、虎賁中郎である。


三月,天子使魏公位在諸侯王上,改授金璽,赤紱、遠遊冠。

獻帝起居注曰:使左中郎將楊宣、亭侯裴茂持節、印授之。

3月、魏公を諸侯王上とした。金璽、赤紱、遠遊冠をさずけた。

『漢書』百官公卿表はいう。諸侯王は、金璽とミドリ綬である。『後漢書』徐璆伝にひく衛宏はいう。ぼくは思う。これは、徐邈が袁術の印綬を引き上げたところの注釈だ。まえ、引用した。
盧弼はいう。前漢の諸侯王は、ミドリ綬だったが、後漢にアカ綬となった。『輿服志』はいう。諸侯はアカ綬である。以下、はぶく。上海古籍177頁。
趙一清はいう。曹操は、いまだ王爵を受けていないが、王爵の印綬をもらったのである。
ぼくは思う。魏公と魏王のあいだ。建安18年5月丙申、曹操を魏公とする策命。建安19年3月、魏公を諸侯王の上として、金璽と赤綬を与える。建安21年5月に魏王。魏公と魏王のあいだに「爵位は公だが、印綬は諸侯王なみ」という過渡期が2年弱あった。ゆるやかな離陸のために、気をつかうなあ!
ぼくは思う。諸侯王は、何によって諸侯王になるのか。「肩書だよ」という答えは、もちろん成り立つ。もっとも正しそうだ。だが、その肩書によって与えられるのが、印綬だとしたら、諸侯王であることと、印綬をもらうことはイコールだ。ぎゃくに、「印綬をもらったから諸侯王である」という、命題の逆転もないわけじゃない。っていうか、人間はロジカルに考えられない動物なので、命題の順逆をゴチャゴチャにすることがおおい。曹操は、それとなく魏王になることができる。魏王に封じるとなると、議論が百出するけど、印綬の変更は、なんとなく通り過ぎてしまう。

『献帝起居注』はいう。左中郎將の楊宣、亭侯の裴茂が、持節して曹操に印綬をさずけた。

左中郎将は、建安4年の注釈にある。裴茂は裴潛の父である。董卓伝にある。また、裴潛伝にひく『魏略』にもある。
ぼくは思う。さっきの王邑と劉艾が出てきた。いま、楊宣と裴茂が出てきた。こういう、漢側の人間として、曹操の昇進を手伝うのは、どういうポジションの人間なんだろう。彼らの人脈とか、主義主張とか、子孫の扱われ方とか。考えてみたい問題。


秋、合肥を攻め、河首平漢王の宋建を降す

秋七月,公征孫權。

九州春秋曰:參軍傅幹諫曰:「治天下之大具有二,文與武也;用武則先威,用文則先德,威德足以相濟,而後王 道備矣。往者天下大亂,上下失序,明公用武攘之,十平其九。今未承王命者,吳與蜀也,吳有長江之險,蜀有崇 山之阻,難以威服,易以德懷。愚以為可且按甲寢兵,息軍養士,分土定封,論功行賞,若此則內外之心固,有功 者勸,而天下知制矣。然後漸興學校,以導其善性而長其義節。公神武震於四海,若脩文以濟之,則普天之下, 無思不服矣。今舉十萬之眾,頓之長江之濱,若賊負固深藏,則士馬不能逞其能,奇變無所用其權,則大威有屈 而敵心未能服矣。唯明公思虞舜舞干戚之義,全威養德,以道制勝。」公不從,軍遂無功。
幹字彥材,北地人,終 於丞相倉曹屬。有子曰玄。

秋7月、曹操は孫権を征した。

『呉志』孫権伝はいう。建安19年5月に曹操が攻めた。孫権は皖城を攻め、閏月にかった。廬江太守の朱光と、参軍の董和、男女数万口を孫権がとらえた。『魏志』曹植伝で、このとき曹植が鄴県を留守したとある。
ぼくは思う。1年前に、馬超と韓遂を片づけたばかりである。休むヒマがない。でも、魏公になり、金璽と赤綬をもらってしまったから、曹操は孫権を攻撃せねばならない。しかも、どうやら孫権が、さきに皖城を落としたらしいので、取り戻しにゆかねば。

『九州春秋』はいう。参軍の傅幹は曹操をいさめた。「武でなくて文で呉蜀を従わせるべきだ。すべきことは、攻撃ではない。分土定封と論功行賞である」と。

ぼくは思う。傅幹が言っている、「分土定封と論功行賞」は、おもしろい。表現においては、「武力よりも教化だよ」と言っている。これは正しいだろう。また、辺境に入りこんで苦戦することの悪を説いているから「コストがかかりすぎる」という意味もあるだろう。だが、手懐ける手段が「封じてあげる、賞してあげる」というのが、さらにおもしろい! べつに儒学的に正しいとか、経済的に正しいとかじゃなくて、贈与論的に正しい。
ところで、思いついた。コンフュシアン・コレクト。言説を評価して「オモテだって反対できないが、実態には合わない」と留保するとき、「政治的には正しい」という。ポリティカリー・コレクト。『三国志』に引用された文書は、同じように「儒教的には正しい」が出てくる。Confucian correct、便利な言葉! 自分のなかでだけ、流行りそうな予感がする。勝手にします。すみません。

曹操は傅幹に従わず。
傅幹は、あざなを彦材という。北地の人。

章懐はいう。『幹集』によると、傅幹はあざなを彦林。傅幹のことは、鍾繇伝にひく司馬彪『戦略』にある。
『後漢書』傅燮伝はいう。傅幹の父・傅燮は北地の霊州人。漢陽太守となり、賊に囲まれる。傅燮は、子の傅幹にいう。「父ちゃんは後漢のために死ぬけど、お前はがんばれ」と。傅幹は扶風太守にまでなる。
ぼくは補う。傅燮は『通鑑』にも出てくる。
186年、傅燮と、車騎将軍の趙忠187年、張挙と張純が、幽州で革命
『晋書』傅玄伝はいう。傅玄は北地の泥陽の人。傅玄の父は傅幹である。
『郡国志』はいう。霊州とは泥陽である。霊州は、漢末に廃された。泥陽は、漢末に馮翊に管轄された。ぼくは補う。祖父の傅燮と、孫の傅玄は、地名がちがうけど同じ出身である。傅幹は『王命叙』を記した。『芸文類集』は載せない。北地と泥陽については、『魏志』傅嘏伝の注釈にある。

傅幹は、丞相倉曹屬となる。傅幹の子が傅玄である。

『続百官志』はいう。倉曹は、倉穀のことをつかさどる。
傅玄は、建安9年の注釈にある。


◆宋建のこと

初,隴西宋建自稱河首平漢王,聚眾枹罕,改元,置百官,三十餘年。遣夏侯淵自興國 討之。冬十月,屠枹罕,斬建,涼州平。

はじめ、隴西の宋建は、河首平漢王をなのる。枹罕にいて、改元して百官をおくこと30余年。

『郡国志』はいう。涼州の隴西は、治所は狄道。宋建は、『後漢書』献帝紀では、朱建とする。盧弼はいう。夏侯淵伝、張郃伝で、宋建とする。『通鑑』もおなじ。
李賢はいう。宋建は、黄河の最上流にいるから「河首」という。胡三省はいう。枹罕県は、前漢では金城、後漢では隴西に属した。『水経』などはぶく。
呉増僅はいう。曹操が宋建を破ったが、枹罕のあたりの諸県は廃された。のちに姜維が曹魏を伐ち、枹罕のあたりを取った。魏蜀の境界にあって、ちゃんと県を置かずに棄てられたのだろう。ゆえに、羌氐がおおく城内に住んだ。
ぼくは思う。魏蜀が棄てると、羌胡が住むのかあ。政治的に正しくない表現。笑

夏侯淵が興国からゆき、宋建をやぶる。

夏侯淵伝はいう。宋建と、宋建がおいた丞相より以下を斬る。河西の諸羌がことごとく降る。隴右は平らいだ。なぜか前にやった。
韓遂よりもシブトイ涼州の自称王・宋建の史料をぬきだす


冬、伏皇后を殺し、理曹掾属をおく

◆伏皇后を殺す

公自合肥還。十一月,漢皇后伏氏坐昔與父故屯騎校尉完書,云帝以董承被誅怨恨公,辭甚醜惡, 發聞,后廢黜死,兄弟皆伏法。

冬10月、曹操は合肥から帰る。11月、伏皇后は、父のもと屯騎校尉_伏完の文書に連坐した。伏完の文書はいう。皇帝は董承が殺されたので、曹操を怨んでいると。皇后は廃されて死んだ。伏氏の兄弟も裁かれた。

董承の事件は、建安4年にある。
『後漢書』伏皇后紀がある。ぼくは思う。『三国志集解』は長文を引用しているので、ぼくも引用しちゃえ。おもしろくて、はぶくところが少ない。
獻帝伏皇后諱壽,琅邪東武人,大司徒湛之八世孫也。父完,沈深有大度,襲爵不其侯,尚桓帝女陽安公主,為侍中。
初平元年,從大駕西遷長安,后時入掖庭為貴人。興平二年,立為皇后,完遷執金吾。帝尋而東歸,李傕、郭汜等追敗乘輿於曹陽,帝乃潛夜度河走,六宮皆步行出營。后手持縑數匹,董承使符節令孫徽以刃脅奪之,殺傍侍者,血濺后衣。既至安邑,御服穿敝,唯以棗栗為糧。
建安元年,拜完輔國將軍,儀比三司。完以政在曹操,自嫌尊戚,乃上印綬,拜中散大夫,尋遷屯騎校尉。十四年卒,子典嗣。
自帝都許,守位而已,宿衞兵侍,莫非曹氏黨舊姻戚。議郎趙彦嘗為帝陳言時策,曹操惡而殺之。其餘內外,多見誅戮。操後以事入見殿中,帝不任其憤,因曰:「君若能相輔,則厚;不爾,幸垂恩相捨。」操失色,俛仰求出。舊儀,三公領兵朝見,令虎賁執刃挾之。操出,顧左右,汗流浹背,自後不敢復朝請。董承女為貴人,操誅承而求貴人殺之。帝以貴人有,累為請,不能得。后自是懷懼,乃與父完書,言曹操殘逼之狀,令密圖之。完不敢發。
至十九年,事乃露泄。操追大怒,遂逼帝廢后,假為策曰:「皇后壽,得由卑賤,登顯尊極,自處椒房,二紀于茲。既無任、姒徽音之美,又乏謹身養己之福,而陰懷妒害,苞藏禍心,弗可以承天命,奉祖宗。今使御史大夫郗慮持節策詔,其上皇后璽綬,退避中宮,遷于它館。嗚呼傷哉!自壽取之,未致于理,為幸多焉。」又以尚書令華歆為郗慮副,勒兵入宮收后。閉戶藏壁中,歆就牽后出。時帝在外殿,引慮於坐。后被髮徒跣行泣過訣曰:「不能復相活邪?」帝曰:「我亦不知命在何時!」顧謂慮曰:「郗公,天下寧有是邪?」遂將后下暴室,以幽崩。所生二皇子,皆酖殺之。后在位二十年,兄弟及宗族死者百餘人,母盈等十九人徙涿郡。
ぼくは思う。建安19年の事件のことは、つぎにある『曹瞞伝』から、わりに引用されている。「どこまで事実か」という問いが立てられやすい、曹操が悪者のエピソード。


曹瞞傳曰:公遣華歆勒兵入宮收后,后閉戶匿壁中。歆壞戶發壁,牽后出。帝時與御史大夫郗慮坐,后被髮徒跣 過,執帝手曰:「不能復相活邪?」帝曰:「我亦不自知命在何時也。」帝謂慮曰:「郗公,天下寧有是邪!」遂將后 殺之,完及宗族死者數百人。

『曹瞞伝』はいう。華歆が伏皇后を引きずりだした。皇帝は、御史大夫の郗慮とともに座っていた。伏皇后が逃げこんだ。伏皇后が皇帝に「たすけて」と言うと、皇帝は「私もいつ殺されることか」と言った。皇帝が郗慮に「天下にどうしてこんなことがあるのか」と言った。

胡三省はいう。華歆は、邴原と管寧とともに3人で龍とされた。華歆も邴原も、曹操にへつらった。龍のアタマの華歆が曹操にへつらい、龍のシッポの管寧だけが曹操にへつらわなかった。龍のどの部位にあたるかは、官位の高さで決まるのかよ。ああ!
胡三省はいう。御史大夫は三公であるから、献帝は郗慮を「郗公」とよぶ。
袁宏『後漢紀』はいう。伏完と宗族1百余人が殺されたと。伏完は建安14年に死んだから、このとき死んでいない。『山陽公載記』はいう。劉備が喪を発したと。
ぼくは思う。劉備は「曹操が漢室をおびやかすので、代わりに漢室をたすける(もしくは継承する)という政権の態度を、もう表明していたのか。忘れずに喪に服するのが、えらいなあ。
厳衍『通鑑補』はいう。伏氏は、伏生にはじまって15代。経学をやった。
孫星衍はいう。15代が伏完、16代が伏典、17代が伏𠑊である。姚振宗はいう。この系図からすると、伏𠑊は伏完の孫であり、曹魏に生きていたことになる。本家でないのだろう。もしくは、幸運にも生き残った。


十二月,公至孟津。天子命公置旄頭,宮殿設鍾虡。

12月、曹操は孟津にゆく。皇帝は曹操に、旄頭をおき、宮殿に鍾虡をもうけよと命じた。

孟津は、初平元年にある。
『宋書』巻18礼志はいう。曹魏は晋王に、天子の旌旗をたて、、はぶく。いろいろ書いてあるけど。上海古籍181頁にある。ここで、ぶわーっと長い注釈を引用して、諸史料の差異を検討して、あわよくば自分の意見をのべたら、ホンモノなんだろうけど。


◆理曹掾屬をおく

乙未,令曰:「夫有行之士未必能 進取,進取之士未必能有行也。陳平豈篤行,蘇秦豈守信邪?而陳平定漢業,蘇秦濟弱 燕。由此言之,士有偏短,庸可廢乎!有司明思此義,則士無遺滯,官無廢業矣。」又曰:「夫 刑,百姓之命也,而軍中典獄者或非其人,而任以三軍死生之事,吾甚懼之。其選明達法理 者,使持典刑。」於是置理曹掾屬。

12月乙未、曹操は理曹掾屬をおく。曹操は令する。
陳平と蘇秦は、信頼できないが、仕事はできた。わが軍の典獄には、適任者が就いて、きちんと仕事をしているだろうか。チェックせよ。

『史記』蘇秦伝にある。
『魏志』高柔伝はいう。魏国が初めて建つとき、高柔は丞相理曹掾を拝した。胡三省はいう。「理曹」は、漢代の公府にない。けだし曹操が新たに置いた。

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建安20年、承制して官爵を発行 @漢中 open

春、曹皇后がたち、陳倉へゆく

二十年春正月,天子立公中女為皇后。省雲中、定襄、五原、朔方郡,郡置一縣領其民, 合以為新興郡。

建安20年春正月、献帝は、曹操の次女を皇后とした。

くわしくは建安18年の注釈。
『後漢書』献帝紀はいう。曹氏を皇后として、天下の男子に1等級の爵位をくばった。孝悌で力田する者には2等級をくばった。皇后紀はいう。曹魏が受禅すると、曹皇后は怒って曹丕に印綬を与えなかった。盧弼はいう。曹皇后のエピソードを『通鑑考異』は誤りとする。文帝紀の延康元年の注釈にある。

雲中、定襄、五原、朔方郡をはぶいて1県として、新興郡をつくった。

後漢でこの4郡は、并州に属した。建安18年、冀州にあわされた。いま新興郡となり、黄初元年に并州にもどった。ぼくは思う。9州への再編は、漢魏革命が終わってしまえば、もう用途がすんだ。曹魏は、後漢の通常とおなじような州郡の編成にちかい。ロコツだな。魏晋革命のとき、編成はどうなったんだっけ。
『十三州志』はいう。漢末に大乱し、匈奴が侵入した。定襄より西は、雲中や雁門まで、空白になった。建安のとき曹操は、郡が荒れて、戸数が県レベルしかないから、新興郡にまとめた。人民を九原の境界に集めて、新興郡として、治所を九原県とした。并州に属した。


三月,公西征張魯,至陳倉,將自武都入氐;氐人塞道,先遣張郃、朱靈等攻破之。

3月、曹操は西して張魯を征した。陳倉にくる。武都から氐族のエリアに入る。氐族が道をふさぐので、さきに張郃と朱霊を先行させた。

『郡国志』はいう。司隷の右扶風の陳倉である。劉昭は『三秦記』をひく。秦の武公は、雍県に都した。陳倉である。諸葛亮が諸葛瑾に送った文書に、陳倉への言及がある。
『郡国志』はいう。涼州の武都は、郡治が下弁である。『華陽国志』はいう。建興7年、諸葛亮が武都と陰平を平らげて、益州に属させた。諸葛亮、魏延、姜維らは、武都から秦川に出兵した。
呉増僅はいう。建安24年、劉備は漢中をとり、下弁にせまる。曹操は武都が孤遠なので、郡治を小槐里にうつして、楊阜を武都太守とした。楊阜伝にある。太和初年、韋端が武都太守となる。『晋書』衛恒伝にある。このとき、武都はまだ曹魏に属し、武都太守は遙領した。蜀漢の建興7年、武都が蜀漢に属した。
胡三省はいう。武都は白馬羌が住んでいたが、前漢の武帝が郡をおいた。
武都、下弁は、夏侯淵伝にもある。


夏、韓遂のクビが西平や金城から届く

夏四月,公自陳倉以出散關,至河池。氐王竇茂眾萬餘人,恃險不服,五月,公攻屠之。西平、金 城諸將麴演、蔣石等共斬送韓遂首。

夏4月、曹操は陳倉から、散關をでる。河池にいたる。

『元和郡県志』はいう。散関は、宝鶏県の西南52キロ。『宋中興四朝志』はいう。大散関は、秦と蜀のあいだの要道である。以下、地形について。はぶく。
『郡国志』はいう。武都の河池県である。

氐王の竇茂が、1万余人をひきいる。地形をたよって曹操に服さず。5月、曹操は氐王の竇茂をほふる。

張郃伝では、興和氐王の竇茂である。

西平や金城の諸將は、麴演や蔣石らである。彼らが韓遂の首を斬って、曹操におくった。

西平は前年にある。金城は、武帝紀のはじめにある。
韓遂を斬ったことは、王脩伝にひく『魏略』にある。『後漢書』董卓伝にある。林国賛はいう。王脩伝にひく『魏略』、張既伝にひく『典略』、周羣伝にひく『続漢書』では、韓遂は病死である。諸将は、病死した韓遂のクビを斬ったのか。
『魏略』では、田楽と陽逵が、韓遂のクビを斬る。本文とちがう。ぼくは思う。『魏略』『典略』は、どちらも魚豢が書いた。魚豢だけが、なにか勘違いをしていた可能性がある。名前までちがう。病死してクビを斬られるのは、張角と皇甫嵩だなあ。


典略曰:遂字文約,始與同郡邊章俱著名西州。章為督軍從事。遂奉計詣京師,何進宿聞其名,特與相見,遂說進使誅諸閹人,進不從,乃求歸。會涼州宋揚、北宮玉等反,舉章、遂為主,章尋病卒,遂為揚等所劫,不得已,遂 阻兵為亂,積三十二年,至是乃死,年七十餘矣。
劉艾靈帝紀曰:章,一名允。

『典略』はいう。韓遂は、あざなを文約。同郡の邊章とともに、西州で知られた。

『典略』について、ここで盧弼が注釈する。はぶく。上海古籍184頁。
『後漢書』董卓伝の章懐注『献帝春秋』はいう。涼州義従の宋建と王国がそむき、、詐金城郡降,求見涼州大人故新安令邊允、從事韓約。約不見,太守陳懿勸之使往國等便劫質約等數十人。金城亂,懿出,國等扶以到護羌營,殺之,而釋約、允等。隴西以愛憎露布,冠約、允名以為賊,州購約、允各千戶侯。約、允被購,「約」改為「遂」、「允」改為「章」。もう引用しちゃった。
盧弼はいう。韓遂のことは、張既伝にひく『典略』にもある。ぼくは思う。韓遂とか、西方の話になると『典略』が大活躍する。どんな理由があるのだろう。

辺章は督軍從事となる。韓遂は洛陽で、何進に宦官を殺せという。涼州で宋揚、北宮玉らが反した。辺章と韓遂をトップにした。辺章は病没したが、韓遂は担がれた。23年も反乱して、70余歳で死んだ。

『後漢書』董卓伝はいう。三年冬,徵張温還京師, 韓遂乃邊章及伯玉、文侯,擁兵十餘萬,進圍隴西。太守李相如反,與遂連和,共殺涼州刺史耿鄙。而鄙司馬扶風馬騰,亦擁兵反叛,又漢陽王國,自號「合眾將軍」,皆與韓遂合。共推王國為主,悉令領其眾,寇掠三輔。五年,圍陳倉。乃拜卓前將軍,與左將軍皇甫嵩擊破之。韓遂等復共廢王國,而劫故信都令漢陽閻忠,使督統諸部。忠恥為眾所脅,感恚病死。遂等稍爭權利,更相殺害,其諸部曲並各分乖。盧弼はいう。これによると、辺章は韓遂に殺された。『通鑑』もおなじ。しかし辺章が病死したともいう。
ぼくは思う。中央の目が届かなかったところで、有力者が死んだら、病死なのか殺害なのか、区別がつかない。いや、区別がつかないところに意味がある。「病死」というと、利益があるとか、名誉がもらえる人が、「病死だった」という。「殺害」も同じである。韓遂の最期も、かなり恣意的に操作できるものである。結果として、死んでるのだから、純粋な解釈の問題である。
『文選』陳琳の檄文への注釈で、『典略』は韓遂が建安20年に死んだという。
盧弼はいう。曹操はこのとき61歳である。韓遂と曹操は同年配である。

劉艾『靈帝紀』はいう。辺章は、一名を辺允という。

秋、張魯をやぶり、3巴に官爵をバラまく

秋七月,公至陽平。張魯使弟衞與將楊昂等據陽平 關,橫山築城十餘里,攻之不能拔,乃引軍還。賊見大軍退,其守備解散。公乃密遣解、 高祚等乘險夜襲,大破之,斬其將楊任,進攻衞,衞等夜遁,魯潰奔巴中。公軍入南鄭,盡得 魯府庫珍寶。

魏書曰:軍自武都山行千里,升降險阻,軍人勞苦;公於是大饗,莫不忘其勞。

秋7月、曹操は陽平にくる。張魯は、弟の張衛、将の楊昂に陽平関を守らせる。曹操はぬけず、軍をかえす。張魯が守備をといたとき、曹操は夜襲して、楊任を斬った。張燕はにげた。

『水経』沔水注が、地形をいう。上海古籍186頁。 『魏志』劉曄伝で、劉曄が作戦をたてる。張魯伝にひく『魏名臣奏』で董昭はいう。曹操は、涼州従事と武都の降人から「張魯を攻めやすい」と聞いた。だが陽平山の上にいる張魯軍をぬけない。「聞くと見るとでは違うなあ」といった。また、揚キ伝は表した。曹操が張魯と3日むきあい、兵を還そうとしたら、曹魏の天命がかがやき、張魯が自壊したと。また『世語』では、曹操軍がまちがって張衛と遭遇した。
『通鑑考異』はいう。董昭が述べたのが、ほんとうであろう。地形のせいで、張魯は手ごわかったのだ。「魏の天命のせいで自壊」なんてない。何焯はいう。曹操は用兵がうまい。今回だけマグレでラッキーということはない。
ぼくは思う。曹操には、いろんなタイプの「建国神話」が必要である。袁紹は、弱者が強者をたおすパタン。馬超は、物理的な勇者にキモをひやすパタン。こんどの張魯は、奇跡的に勝利するパタン。これなら、既存のパタンと重ならない。もしここで、ふつうに努力して勝利しても、パタンの数が増えない。だから「地形が険阻」だけど「短期間で勝った」という2つの事実を、もっとも効果的につなぐかたちで、張衛の自壊という逸話がつくられた。勝因なんて、しょせんは勝者がつくる物語だからなあ。だからビジネス本によくあるジャンルのうち、成功者の自伝は参考にならないのだ。

張魯は巴中ににげた。曹操は南鄭に進軍した。張魯の府庫と珍宝をえた。

胡三省は『一統志』『元和志』などから、地形をいう。孤雲山、両角山、米倉山などがある。上海古籍186頁。巴中は張魯伝にもある。
南鄭は、建安16年の漢中郡の注釈にある。

『魏書』はいう。武都からの進軍はしんどいので、大饗して労苦をわすれた。

巴、漢皆降。復漢寧郡為漢中;分漢中之安陽、西城為西城郡,置太守; 分錫、上庸郡,置都尉。

巴と漢がどちらも降ると、漢寧郡を漢中郡にもどした。漢中の、安陽と西城を分けて、西城郡とした。

『後漢書』劉焉伝はいう。朝廷は、張魯を鎮夷中郎将、漢寧太守とした。章懐注がひく袁山松はいう。建安20年、漢寧郡をおいたと。銭大昕はいう。曹操がくる前から、張魯が漢寧太守ならば、袁山松があわない。袁山松の誤りである。
趙一清はいう。『宋書』州郡志はいう。建安20年、漢寧から漢中にもどしたのだ。など、漢寧なのか漢中なのか、名称でモメている。
盧弼はいう。『後漢書』劉焉伝、『魏志』張魯伝で、張魯は漢寧王になりたがる。『蜀志』先主伝で、劉備は漢中王になる。早くから漢寧の名があったのである。章懐注らは、誤って袁山松を引用した。
漢寧王のこと。 211年、漢寧王の張魯が独立し、曹操と劉備を振り回す

西城太守をおいた。

『宋書』州郡志はいう。安康令は、漢代の安陽県である。漢中郡に属す。漢末、はぶかれた。曹魏がもどした。魏興郡に属した。西晋の太康元年、改名した。
馬與龍はいう。後漢の安陽県は、蜀漢に属する。曹魏が魏興の安陽県とし、西晋が安康県としたのは、これより遠い場所である。『宋書』は、後漢の安陽と曹魏の安陽を同じとするが、これは誤りである。
『水経』沔水注はいう。韓遂は、東して西城県をとおる。漢末に西城郡をおかれた。建安24年、劉備が申儀を西城太守とした。申儀は、西城郡ごと曹魏にくだった。曹丕は、西城郡を魏興郡とあらためた。治所は、もとの西城県のまま。
ぼくは思う。こんな「重要な」事件の舞台だったとは!! ところで劉備は、曹操から領地を切りとる仕事をしながら、曹操がさっき設置したばかりの郡の区画を引き継ぐのか。やっぱり後漢に寄生するだけの勢力。
謝鍾英はいう。建安20年、曹操は、安陽県と西城県をわけて、西城郡とした。これが西城郡のはじめである。建安24年、劉備は申儀を西城太守とした。これより西城は蜀漢に属する。黄初元年、申儀が曹魏にくだったので、曹魏は申儀を魏興太守に仮した。これより西城は曹魏に属して、魏興となる。

錫県と上庸県をわけて、上庸(郡)都尉をおいた。

潘眉はいう。安陽、錫、襄陽は、みな漢中郡の属県である。曹操は、安陽県と西城県の2県をわけて、西城郡とした。錫県と上庸県の2県をわけて、都尉をおいた。上庸は郡でないから、本文を「錫県と上庸郡をわけて」と読んではならない。銭氏『通異』はいう。上庸太守の申耽がいた。上庸にも太守がいた。潘眉が考えるに、劉封伝にひく『魏略』で、進退は曹操から上庸都尉にしてもらう。耽は、はじめは上庸都尉だったが、のちに上庸太守になったのではないか。劉備も申耽を上庸太守いしている。蜀漢でも上庸太守という認識であった。黄初元年、新城をあわせた。太和2年、また立てた。太和4年、はぶかれた。景初元年、また立てられた。甘露4年、新城郡をわけて、また上庸郡をおいた。以上が曹魏の廃置の全てである。
盧弼はいう。『郡国志』では、辺境には都尉をおくが、治民は太守と同じようにやったと。この理解でよい。錫県は『左氏伝』文公11年に出てくる。
ぼくは思う。このあたりの郡の廃置は、「漢中をいかに支配するか」「曹魏と蜀漢がどのように戦うか」に直結する問題である。張魯をつぶした直後、この区分変更があったことが、その証拠。行政区分で、戦況や政治が見える。


八月,孫權圍合肥,張遼、李典擊破之。

8月、孫権が合肥をかこむ。張遼と李典が、孫権をやぶる。

合肥は、建安13年に注釈した。
曹操はさきに教えをあたえた。張遼伝にある。


九月,巴七姓夷王朴胡、賨邑侯杜濩舉巴夷、賨民來附。於是分巴郡,以胡為巴東太守,濩為巴西太守,皆封列侯。

9月、巴の七姓たる夷王_朴胡と、賨邑侯_杜濩は、巴夷、賨民をあげて、曹操についた。

『後漢書』南蛮伝はいう。板楯蛮の渠帥には、7姓ある。租賦をおさめない。『風俗通』はいう。巴には賨人がいる。高祖が募ったが、租賦を供さず。胡三省はいう。これは7姓の夷王である。揚雄『蜀都賦』にある。
『晋書』李特載記はいう。巴の人は、賦を「賨」という。だから「賨人」という。張魯が漢中にいるとき、賨人は張魯を信奉した。曹操が張魯をやぶると、李特の祖父は、5百余家をひきいてくだり、将軍にしてもらった。略陽の北にうつり、また「巴氐」とよばれた。へえ! 『晋書』載記より、「李流・李庠・李雄伝」を翻訳

ここにおいて、巴郡をわけて、胡県を巴東太守とし、濩県を巴西太守とした。どちらも列侯とした。

『華陽国志』はいう。献帝の初平元年、征東中郎将する安漢の趙頴(趙韙)は、巴郡を分けて2郡を立てよという。趙頴は、巴の旧名を使いたいから、益州牧の劉璋に「墊江より上流を"巴郡"とし、江南の龐羲を太守として、安漢を治所とせよ。江州をもって寧江までを"永寧郡"とし、胊忍から魚復までを"固陵郡"とせよ」という。巴郡が分けられた。建安6年、魚復の蹇胤は、巴郡の名をあらそう。劉璋は、永寧を巴郡として、固陵を巴東として、龐羲を巴西太守にうつした。これで3巴とした。
『水経』江水はいう。江水は東北に流れ、巴郡の江州県の東にいたる。酈注はいう。江州県は、もとは巴子の都である。秦が巴郡をおいて、江州を治所とした。献帝の初平元年、巴郡を3つに分けた。江州は永寧郡の治所となった。建安6年、劉璋は蹇胤の主張をきき、巴郡をもどし、厳顔を巴郡太守とした。
呉増僅はいう。建安19年、諸葛亮は、張飛と趙雲とともに巴東を破った。この巴東とは、もとの固陵である。江州で、巴郡太守の厳顔をやぶった。この巴郡とは、もとの永寧である。つぎに諸葛亮は巴西をくだすが、これはもとの巴郡である。ある人がいう。曹操は巴郡を分けて、巴東と巴西をつくったというが、すでに劉璋が分けたものをくっつけ、また曹操が分けたのか。
建安18年に、法正から劉璋への手紙では「すでに巴東と巴西は、劉備にとられた」とある。建安19年、張郃が巴東と巴西の2郡を降しており、曹操が新たに設置したのではない。曹操が張魯を降したあと、三巴の郡を曹操が再編成や改名をしたので、陳寿は「曹操が巴西と巴東をおいた」と書いたのか。
銭大昕はいう。巴東と巴西は、すでに劉璋が置いた。朴胡と杜濩は、すでに劉備に殺されたので、曹操に降ることはできないと。趙一清はいう。曹操が巴東と巴西を置いたのは、名目だけで、異民族を従えたと示したのだ。
盧弼はいう。『通鑑』では、朴胡、杜濩は、任約(『華陽国志』では袁約)に対してである。このとき任約は、巴郡太守だった。胡三省はいう。のちに3人は劉備に破られた。
ぼくは補う。混乱してるけど、彼らは張魯や劉璋の領域にいて、曹操に破られ、曹操にくだり、のちに劉備に殺された。張魯と劉璋のあいだで「どっちの味方なの?」という争いはなかったのかな。
巴東と巴西は、『魏志』張郃伝と『蜀志』劉璋伝にもある。
ぼくは思う。曹操は本紀だからね。「未開の不服従な地に乗りこんで、異民族を降らせ、そこに郡県を設置してくる」という文法が定型なんだろう。曹操がくる前に、劉璋が巴西と巴東を落ちていたとしても、そんなのは中央の意向を無視したこと。認められない。だから公式見解としては「曹操がおいた」となるんじゃないか。事実よりも、本紀が要請する"文体"の制約のほうが強かろう。考証学者たちは、文字の異同は論じるけど、劉璋が郡を設置することの意味と、曹操が郡を設置することの意味がもつ差異を気にしない。どちらも「書いてあること」で同列にしてしまう。限界があるなあ。


天子命公承制封拜諸侯守相。

孔衍漢魏春秋曰:天子以公典任於外,臨事之賞,或宜速疾,乃命公得承制封拜諸侯守相,詔曰:「夫軍之大事,在 茲賞罰,勸善懲惡,宜不旋時,故司馬法曰『賞不逾日』者,欲民速覩為善之利也。昔在中興,鄧禹入關,承制拜軍 祭酒李文為河東太守,來歙又承制拜高峻為通路將軍,察其本傳,皆非先請,明臨事刻印也,斯則世祖神明,權達 損益,蓋所用速示威懷而著鴻勳也。其春秋之義,大夫出疆,有專命之事,苟所以利社稷安國家而已。況君秉任 二伯,師尹九有,實征夷夏,軍行藩甸之外,失得在於斯須之間,停賞俟詔以滯世務,固非朕之所圖也。自今已 後,臨事所甄,當加寵號者,其便刻印章假授,咸使忠義得相奬勵,勿有疑焉。」

天子は曹操に承制させ、諸侯を封じ、守相を拝させる権限をあたえた。
孔衍『漢魏春秋』はいう。天子は、曹操が出張先でタイミングよく賞罰できるように、承制の権限をあたえた。光武帝のとき、鄧禹は関中で軍祭酒の李文を河東太守とした。来歙は、高峻を通路将軍とした。どちらも現場での対応である。曹操は現場で、かりに印章をけずり、授けてよい。

『晋書』儒林伝はいう。孔衍は、魯国の人。孔子の22世孫である。江東に避け、限定から安東参軍にしてもらう。広陵相となる。
光武に天下統一をあおる鄧禹伝隗囂への使者、刺殺された来歙伝
ぼくは思う。曹操が巴郡あたりで、勝手に官位や爵位をバラまいたから、この権限がついてきたのだろう。さきに権限があるのか、さきに曹操の独断専行があるのか、区別がむずかしい。曹操が勝たないことには、この権限を使う機会がない。「いつでも承制を許せる」状態にしておいて、曹操が巴郡で勝ったときに、それを発動させたので、陳寿はここに書いたのだろう。
「曹操の意向を反映して、天子が任命する」と、「曹操が承制して、曹操がかりに任命する」とのあいだは、どれくらいの距離があるのだろう。今回は、ただ距離的によるタイムラグが論じられている。ゼロ距離(鄴県や許県)で、曹操の権限はどんなものだったのかな。
ちょっと想像を膨らますと、このときから曹操は、劉備と孫権を、降伏させる準備ができたといえる。劉備と孫権は、それなりに大きな政権をつくった。その政権を解体したら、その場でおおくの官爵を発行しないと、事態が収拾できない。ゆえに曹操は、遠隔地で独自に振る舞えるようになった。ぎゃくに言うと、この建安20年まで、曹操はこれができなかったことになる。
もし劉備と孫権を解体したら、官爵をくばるのは曹操である。劉備と孫権は、天子に対して降伏するが、実態は曹操に対して降伏するに等しくなる。なぜなら、承制して官爵をくばってくるのが曹操だから。降伏の本質は、官爵の再配分、序列の構築だ。
曹操は、後漢初の鄧禹や来歙になぞらえられてる。献帝から、鄧禹や来歙と同じ役割が期待されてる。つまり、戦況を膠着させて後方に下げられ、暗殺されることが期待されている。ええ!?


冬、爵制を変更し、張魯の子を封じる

冬十月,始置名號侯至五大夫,與舊列侯、關內侯凡六等,以賞軍功。

魏書曰:置名號侯爵十八級,關中侯爵十七級,皆金印紫綬;又置關內外侯十六級,銅印龜紐墨綬;五大夫十五 級,銅印環紐,亦墨綬,皆不食租,與舊列侯關內侯凡六等。
臣松之以為今之虛封蓋自此始。

冬10月、はじめて名號侯をおく。五大夫まで、もとの列侯、關內侯とあわせて、6等級ある。爵位をあたえて、軍功を賞した。
『魏書』はいう。名号侯の爵位は18級。関中侯は17級。どちらも金印紫綬である。また關內外侯は16級、銅印龜紐墨綬である。五大夫は15級、銅印環紐、また墨綬である。みな租を食まず。もとの列侯、關內侯とあわせて、6等級ある。

『漢書』百官公卿表はいう。爵は、1級を公士といい、(中略)、5級を五大夫といい、(中略)、19級を関内侯、20級を徹侯(列侯)という。関内侯は、「関内」というが国邑がない。列侯はもっとも天子にちかい。
『続漢書』百官志、劉昭のひく如淳、劉劭『爵制』など。はぶく。
銭大昕はいう。黄初元年、後漢の諸侯王を崇徳侯とした。黄初二年、孔羨を宗聖侯とした。どちらも名号侯である。
盧弼はいう。この本紀で「はじめて置く」とあるのは、これらの爵位の新設ではない。漢制では、爵位は20級あった。いま、爵18級の名号侯(1)、爵17級の関内侯(2)、爵16級の関内外侯(3)、爵15級の五大夫(4)を、もとの列侯(5)と関内侯(6)とあわせて、6等級(カッコ内数字はぼくがつけた)とした。旧制を改めたから、武帝紀に書かれたのだ。上海古籍192頁。 むずかしいから、全部を理解せずに抜粋した。

裴松之はいう。虛封(国邑なき封侯)は、これより始まる。

そうでもない、と『三国志集解』で判明する。
つぎが張魯の記事。曹操が爵位を整備するのは、直接的には、張魯への対処が、政権のテーマだからである。 張魯より前に、これほど大々的な爵位の再編成が必要になるような勝利は、なかったのかも。もし孫権を降していたら、前倒しして、爵制が変更されたかも知れない。張魯を降したことは、曹操にとって画期だなあ。
やっぱり、劉備と孫権への対処が、準備されているように見える。


十一月,魯自巴中將其餘眾降。封魯及五子皆為列侯。劉備襲劉璋,取益州,遂據巴 中;遣張郃擊之。

11月、張魯は巴中から降った。張魯の5子を列侯とした。

『後漢書』献帝紀、袁宏『後漢紀』では、秋7月に張魯が降ったという。『通鑑』は11月とする。陽平関の戦いが7月だが、張魯は巴中に逃げた。降ったのは11月だろう。
『通鑑』はいう。程銀、侯選、龐徳は、張魯に従って曹操にくだった。胡三省はいう。彼らは関中の部帥である。龐徳は、馬超の部将である。渭南と冀城で敗れて、張魯のもとにいた。
張魯はロウ中侯となる。張魯伝にある。『後漢書』劉焉伝はいう。張魯の5子と、閻圃らは列侯となると。『魏志』張魯伝でも、閻圃が列侯になる。ぼくは思う。張魯はイイとしても、閻圃まで列侯になるとは。閻圃は、張魯政権で、どういう位置だっけ。

劉備が劉璋を襲い、益州をとった。劉備が巴中による。張郃が巴中を撃つ。

『蜀志』先主伝はいう。建安19年夏、劉備は成都城をかこみ、数十日でくだした。劉備が成都を降したのは、19年である。この武帝紀は、建安20年である。このとき張郃が劉備と戦ったから、説明のために遡って書かれたのだ。19年、劉曄と司馬懿は、曹操が漢中を破ったとき「蜀をとれ」と言ったが、曹操は従わず。
張郃は、巴西太守の張飛と瓦口で戦った。張飛に敗れて、南鄭にもどった。


十二月,公自南鄭還,留夏侯淵屯漢中。

是行也,侍中王粲作五言詩以美其事曰:「從軍有苦樂,但問所從誰。所從神且武,安得久勞師?相公征關右,赫 怒振天威,一舉滅獯虜,再舉服羌夷,西收邊地賊,忽若俯拾遺。陳賞越山嶽,酒肉踰川坻,軍中多饒飫,人馬皆 溢肥,徒行兼乘還,空出有餘資。拓土三千里,往反速如飛,歌舞入鄴城,所願獲無違。」

12月、曹操は南鄭にもどる。夏侯淵を漢中にとどめる。
このとき、侍中の王粲が、五言詩で曹操をほめた。

ぼくは思う。盧弼は『文選』と比べ、文字の異同をいう。けっこう違う。同じような意味や音の漢字で、置き換えられる。高級な知識人が筆写したわりには「単純ミス」が多すぎる。「だから、むかしの人はバカなんだ」という結論は、絶対にちがうだろう。むかしも現代も、知性が一定の割合で分布しているだろう。少なくとも漢詩をつくるのは、「ぼくら」より知性に優れた人である。近代的な意味での、「一字一句のつづりまで作者の所有物」「一字一句までもが作品の個性」という発想が薄かったのかなあ。一字一句にこだわらないから、一字一句が正しく伝えられない。当然の帰結。
胡三省みたいに、記憶に頼ったせいで、誤りが生じることもあろうが。パソコンというコピペ自在のツールと、ネットのおかげで、ぼくらが賢くなった部分と、愚かになった部分、両方を見ないとなあ。なんの話だっけ。

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建安21年、魏王となり、呼廚泉が来朝 open

春、クツを脱がずに祖廟を祭る

二十一年春二月,公還鄴。

建安21年春2月、曹操は南鄭から鄴県にもどる。

魏書曰:辛未,有司以太牢告至,策勳于廟,甲午始春祠,令曰:「議者以為祠廟上殿當解履。吾受錫命,帶劍不解 履上殿。今有事於廟而解履,是尊先公而替王命,敬父祖而簡君主,故吾不敢解履上殿也。又臨祭就洗,以手擬 水而不盥。夫盥以潔為敬,未聞擬(向) 〔而〕而 意改不盥之禮,且『祭神如神在』,故吾親受水而盥也。又降神禮訖,下階 就幕而立,須奏樂畢竟,似若不(愆) 〔衎〕衎 據文館詞林六九五改烈祖,遲祭(不)不 據錢儀吉說刪速訖也,故吾坐俟樂闋送神乃起也。受胙納(神) 〔袖〕,袖 從文館詞林六九五改(下同) 以授侍中,此為敬恭不終實也,古者親執祭事,故吾親納于(神) 〔袖〕,終抱而歸也。仲尼曰『雖違眾,吾從下』,誠 哉斯言也。」

『魏書』はいう。2月辛未、曹操は大牢をささげ、策勲を父祖の廟に報告した。2月甲午、はじめて春祠した。

ぼくは思う。漢中の討伐は「策勲」として、優れたものだった。だから、祖先に報告できた。このパタンで、外征-降伏-封爵-帰還-報告、というサイクルを回していくのが理想だ。天下も統一できるはず。
春のお祭りは、ほんとうは正月にやるもの? 帰還が遅れたので、2月になってしまった? 張郃を劉備にあてがい、夏侯淵に漢中をあずけてくるという手間があったから、1ヶ月遅れたのかな。

曹操は令した。「議者はいう。祖先の廟にまいるとき、礼制ではクツをぬぐ。しかし私は皇帝から、クツを脱がない特権をもらった。クツを脱がねば、祖先を侮辱することになるが、クツを脱がずにおこう。その他、形骸化した礼制に従わない。本来の目的を推測して、その目的にかなうように行動する」

『三国志集解』は、手を洗うとか、座るか立つかとかの礼制について、裴注と『文館詞林』の異同をいう。はぶく。
ぼくは思う。曹操は礼制よりも、父祖との関係よりも、皇帝との関係を優先した。現実にあわないルールを、現実に都合よく読み換えていくのは、曹操らしいなあ。「孔子だって、雖違眾,吾從下(みんなと違うけど、自分は降りる)」と言ったから、それを自分にもあてはめて、自分の思うとおりにやるのだ。
孔子には、孔子の思うとおりにやる「権利」があるが、後世の人間は、孔子の思うとおりにやる「義務」だけがあり、後世の人間の思うとおりにやる「権利」がない。これが、儒教の原理的な立場なのかな。この論理に照らせば、曹操は、孔子とおなじ「権利」が自分にあることを主張したことになる。「合理的で曹操らしいなあ」と、生半可に理解するのでなく、曹操のこの横暴? に着目すべきだ。


三月壬寅,公親耕籍田。

魏書曰:有司奏:「四時講武於農隙。漢承秦制,三時不講,唯十月都試車馬,幸長水南門,會五營士為八陳進退, 名曰乘之。今金革未偃,士民素習,自今已後,可無四時講武,但以立秋擇吉日大朝車騎,號曰治兵,上合禮名, 下承漢制。」奏可。

3月壬寅、曹操はみずから籍田を耕した。

籍田は、建安19年の注釈にある。

『魏書』はいう。有司は奏した。「秦制では、農閑期の冬10月だけに軍事訓練をした。漢制の皇帝も、10月に長水南門にゆき、閲兵した。いまは実戦があるから、訓練をやめても、閲兵だけして「治兵」と呼べば、制度を守ったことになる」と。皇帝は認めた。

上海古籍196頁より、「長水南門」について注釈あり。はぶく。どのような門があったか、どのような部隊がいたかについて、諸史料を検討してある。
『宋書』礼志には、続きがある。これを認めた皇帝は、冬に治兵をやった。曹操が、みずから金鼓をたたき、兵を進退させた。ほー。


夏、献帝が自筆した詔書で、魏王となる

夏五月,天子進公爵為魏王。

夏5月、天子は曹操の爵位を魏王にすすめた!

◆献帝から曹操への詔書1

獻帝傳載詔曰:「自古帝王,雖號稱相變,爵等不同,至乎褒崇元勳,建立功德,光啟氏姓,延於子孫,庶姓之與親, 豈有殊焉。昔我聖祖受命,剏業肇基,造我區夏,鑒古今之制,通爵等之差,盡封山川以立藩屏,使異姓親戚,並 列土地,據國而王,所以保乂天命,安固萬嗣。歷世承平,臣主無事。世祖中興而時有難易,是以曠年數百,無異 姓諸侯王之位。

『献帝伝』は詔を載せる。

章宗源はいう。『献帝伝』は巻数が分からない。『隋書』に載ってない。『献帝伝』から引かれるのは、『魏志』武帝紀の詔詞、文帝紀にひく禅代衆事、明帝紀の秦宜禄、青龍2年の山陽公の死亡記事、袁紹伝注などである。編者がわからない。沈家本は、『献帝伝』と献帝紀は同じ文書であるという。ちらかった霊帝紀と献帝紀を、晋代に合わせたのではないか。など。
ぼくは思う。曹操を魏王に封じる詔なんて、最重要な文書だ。陳寿が残さなかったのは罪深いし、陳寿が残さないにせよ、どこかに「典拠ハッキリ、字句クッキリ」で残っていてほしい。ともあれ『献帝伝』という、よく分からない書物は、その信憑性までは疑われていないようなので、この詔を安心して読んでもいいと思う。

古代の帝王の時代から、爵位の名称は変わった。だが、功績のある人物に爵位を与えるというルールは代わらない。劉氏であるか否かは本質でない。ゆえに高祖(高帝)は、前漢初に異姓王を建てた。

ぼくは思う。献帝は構造主義者だなー!
曹操を異姓王にするとき、漢室の前例をギチギチに守ろうとすると、「異姓王はOK」となる。なぜなら高祖が異姓王を封じたから。この論理を、献帝が使ってしまうのだから、すごい。途中でできた規則とか、前例の蓄積とか、そういうものを排除して、より原初的なところにどんなルールがあったかを探る。この発想は構造主義。
封じる君主が代わり、封じる爵位の名称が変わり、封じられる臣下が変わり、臣下の姓が君主の同じだったり異なったりする。これらは末節であって、根幹にある構造ではないのよ! と。こういう原理的なことを言い始めると、シガラミがなくなり、問題を突破できる。しかし、末節の前例で塗りかためてきた集団は、問題を解決する代償として、滅びてしまう。
例えば会社は「もうけるため」に始まる。やがて社員が増えて、いろんなシガラミが生じる。部署のあいだの対立、人事制度や待遇への不満が蓄積する。社内の軋轢が最大になったとき、社長が言い出すのだ。「いまの人事制度はリセットだ。そもそも、もうかれば、何でもいいじゃないか。もうける社員に、もうけた分だけ報酬を出す。この原理に立ち返ろう」と。この宣言があった瞬間、社内の軋轢は解消するが、それとともにこの会社も解消する。シガラミは、組織の維持には大事なんだよ。なんて、おじさん的なことを言ってみる。
もう1つ。 高祖は、いちど異姓王を許すが、のちに異姓王を討伐する。献帝が「異姓王を封じた高祖」と「異姓王を滅ぼした高祖」を、あたかも別人のように分節しているのがおもしろい。もし「同一人物は、統一した政策理念をもち、矛盾したことをしない」という人間の見方をすれば、高祖は結果的には「異姓王を滅ぼした」人物である。最終的な意見が、その人の本質っぽく思いがちだ。だが献帝は、高祖を「異姓王を封じた」人物だとして、その部分だけ選択して引用してくることができた。献帝が、構造主義的な発想をするからである。
っていうか、この事態においては、いわゆる「ふつう」の、ぼくらに照らせば、近代的で安定した(小中学校で習うような) 考え方をしていては、乗り切ることができないのか。だから献帝は、思想的にひねったような詔書を出したりする。

世祖(光武帝)のとき、難易があったが、異姓王はずっとなかった。

ぼくは思う。難易があって、というのがクセもの。いま献帝は、漢室の危機にあっては、「功績の大きな者は、異姓でも王にする」という原理を唱えたい。だが光武帝は、異姓王を作らずに後漢をつくり、今日まで維持してしまった。献帝にとっては、目を背けたい事実である。
だから「なんやかんや、いろいろあって」と、ごまかしている。「いちおう光武帝のことは認識している。もし光武帝の反例を持ちだしても、その反例をもって私を論破できないからね」という、念のための布石である。
ぼくは思う。前漢と後漢のあいだには、断絶がある。後漢は、おおくを前漢からマネているが、「光武帝は前漢の皇族だから、全国を統一できた」わけじゃない。同じような前漢の皇族がライバルに多かった。光武帝は血筋が本流でない。ゆえに、前漢と後漢は、べつの王朝でしょう。いま献帝は、後漢を改革するために、後漢の前例がないことをやる。べつの王朝である前漢の前例で、論理を補強している。そりゃ滅びるよ、後漢。言ってることがムリだから「政治的に」滅びる。
べつに邪悪な曹操が、謀略と暴力で「うおお!」てやらなくても滅びる。


朕以不德,繼序弘業,遭率土分崩,羣兇縱毒,自西徂東,辛苦卑約。當此之際,唯恐溺入于難, 以羞先帝之聖德。賴皇天之靈,俾君秉義奮身,震迅神武,捍朕于艱難,獲保宗廟,華夏遺民,含氣之倫,莫不蒙 焉。君勤過稷、禹,忠侔伊、周,而掩之以謙讓,守之以彌恭,是以往者初開魏國,錫君土宇,懼君之違命,慮君之 固辭,故且懷志屈意,封君為上公,欲以欽順高義,須俟勳績。韓遂、宋建,南結巴、蜀,羣逆合從,圖危社稷,君復 命將,龍驤虎奮,梟其元首,屠其窟栖。暨至西征,陽平之役,親擐甲冑,深入險阻,芟夷蝥賊,殄其兇醜,盪定西 陲,懸旌萬里,聲教遠振,寧我區夏。

不徳な私のせいで、全土が乱れた。曹操のおかげで回復した。后稷、夏禹、伊尹、周公よりもすごい。だから魏公を贈与したが、曹操は受納をしぶった。韓遂、宋建、巴蜀をくだした。陽平で張魯をくだした。曹操は、がんばった。

抄訳してサボってるけど、『三国志集解』もめぼしい注釈がない。


蓋唐、虞之盛,三后樹功,文、武之興,旦、奭作輔,二祖成業,英豪佐命;夫以 聖哲之君,事為己任,猶錫土班瑞以報功臣,豈有如朕寡德,仗君以濟,而賞典不豐,將何以答神祇慰萬方哉?
今 進君爵為魏王,使使持節行御史大夫、宗正劉艾奉策璽玄土之社,苴以白茅,金虎符第一至第五,竹使符第一至 十。君其正王位,以丞相領冀州牧如故。其上魏公璽綬符冊。敬服朕命,簡恤爾眾,克綏庶績,以揚我祖宗之休命。」

曹操は、唐虞のときの伯夷、夏禹、后稷のようで、周の文武のときの周公、召公のようで、漢の高祖や世祖のときの英雄たちのようだ。聖哲な君は、功績がある臣下に、錫土班瑞を授けて、功績に応えるのだ。

このルールが「構造」なんだなー。

いま使持節_行御史大夫_宗正_劉艾に、策書と印璽と玄土之社(くろつち)、金虎符の第1から第5、竹使符の第1から第10を持たせる。

『漢書』文帝紀はいう。はじめ郡守に銅虎符と竹使符をあたえる。応劭はいう。銅虎符第1から第5は、国家が兵を発するとき、使者を郡におくり、国家の符と太守の符を合わせるためにある。張晏はいう。符とは、古代の圭璋を簡略したものである。ぼくは補う。むかしは、ギョクを2つに割って、中央と地方で持ち合ったのか。
銭大昭はいう。『説文』によると、[王虎]で、兵を発する瑞玉のこと。虎文となる。兵を用い、トラの威武をとるため、玉銅をトラの形にした。

丞相と冀州牧はもとのまま。魏公の璽綬と符冊は返上せよ。

◆献帝から曹操への詔書2

魏王上書三辭,詔三報不許。又手詔曰:「大聖以功德為高美,以忠和為典訓,故剏業垂名,使百世可希,行道制義,使力行可效,是以勳烈無窮,休光茂著。稷、契載元首之聰明,周、邵因文、武之智用,雖經營庶官,仰歎 俯思,其對豈有若君者哉?朕惟古人之功,美之如彼,思君忠勤之績,茂之如此,是以每將鏤符析瑞,陳禮命冊, 寤寐慨然,自忘守文之不德焉。今君重違朕命,固辭懇切,非所以稱朕心而訓後世也。其抑志撙節,勿復固辭。」

曹操は上書して3回ことわった。献帝は3回詔して、辞退をゆるさず。また献帝は手ずから詔した。

ぼくは思う。これまでの詔書は、全部が代筆。わざわざ「手」と書いてないときは代筆。忘れがちだけど。と思ったら、会社の書類で部長名で出ているものは、ぼくが代筆しているんだった。

大聖なる君主は、臣下の功績をほめて、後世の模範となる。稷と契は、周公と邵公は、曹操のように(謙譲しまくるという仕方で)爵位と接したか。私は曹操の功績を評価するから、爵位を与えようと思う。受けとれ」

献帝のいう「以忠和為典訓」「行道制義」あたりが、曹操がきちんと受け取らなければならないことの理由づけである。曹操の辞退は、古代の前例を逸脱してひどいものだから、献帝は曹操を攻めている。「強い曹操と、弱い献帝」という構図で見てはならない。献帝が曹操を叱っているのだ。
資本主義の経済的合理性から見ると、「与えれば損をする」から、献帝が損をして、曹操が得をするように見える。献帝が損をしてまで、曹操に魏王をもらってもらおうとするから、「そこまで脅された献帝って、かわいそう」となる。しかし、その理解は誤りである。
また、ある集団のなかで政治的に正しいとされる、「弱い者をイジメてはいけません」という立場から、「献帝かわいそう。曹操は悪いやつだ」というのは、もっと破滅的に理解を誤っている。
曹操の「簒奪」が儒教的に批判されることがある。曹操の儒教的な「悪さ」は、上の経済的合理性とか、ある集団の道徳とか、いずれとも別の観点から、曹操を批判しているものである。現代のぼくらは、儒教的な「悪さ」と、自分たちの価値観をゴチャゴチャにして、儒者のいう曹操への批判に合意してしまうが、それは最低である。結論が同じだけで、結論にいたるまでの理路が違うのだから、それはもう別の議論である。別であることを、意識しなければならない。
だが、いま献帝が曹操を叱っているのは、以上のいずれでもない観点から、曹操がルール違反を犯していることを、献帝が責めているのである。よく分かるなあ!
さらに。曹操の漢室への所業って、どのあたりが「儒教的に」過失だったか。なにが「儒教的に」糾弾されるべきなのか、ぼくがよく分かっていないことが、分かってきた。
@Golden_hamster さんはいう。『論語』で孔子は、魯の君主をないがしろにする三桓氏を批判的に扱ってるので、同じように傀儡化したり君主をないがしろにしていると認定されればそれがまず該当するでしょう。あとは、これがどこまで「儒教的」か分かりませんが、禅譲を受け即位しながら天下を治められず反乱ばかり起これば、天命の存在自体を抹殺され、天命なしに即位した簒奪者ということになるでしょう。王莽のように。これは晋の正当化に寄与したのではないかと思います。


◆司馬防のこと

四體書勢序曰:梁鵠以公為北部尉。
曹瞞傳曰:為尚書右丞司馬建公所舉。及公為王,召建公到鄴,與歡飲,謂建公曰:「孤今日可復作尉否?」建公曰:「昔舉大王時,適可作尉耳。」王大笑。建公名防,司馬宣王之父。
臣松之案司馬彪序傳,建公不為右丞,疑此不然,而王隱晉書云趙王篡位,欲尊祖為帝,博士馬平議稱京兆府君 昔舉魏武帝為北部尉,賊不犯界,如此則為有徵。

『四體書勢序』はいう。梁鵠は、曹操を北部尉にした。

建安13年の注釈にある。

『曹瞞傳』はいう。曹操を北部尉にしたのは、尚書右丞の司馬防である。魏王になった曹操は、司馬防に「今日でも私を北部尉にするのか」と聞いた。司馬防は「あのときの曹操は、尉に向いていた」と言った。司馬防は、司馬懿の父である。

尚書右丞は、建安18年の尚書左丞にある、潘勗の注にある。
司馬防は、『魏志』司馬朗伝にひく司馬彪『序伝』にある。

裴松之は司馬彪『序伝』をみる。司馬防は右丞にならない。『曹瞞伝』がウソくさい。だが王隠『晋書』で、趙王の司馬倫が簒奪したとき、博士の馬平がいう。「むかし京兆尹の司馬防が、曹操を北部尉に挙げたとき」と。『曹瞞伝』はホントかも。

ぼくは思う。せっかくの『曹瞞伝』の逸話を、ウソだと切り捨てるのは惜しい。右丞は、最終的な官位ではないから、こまかく列伝に残らないだけかも知れない。司馬防は「京兆尹の人」として記録されただろうから。「京兆府君」が尊称だし。司馬倫のときに、馬平が口走っていることのほうが、真実味がある。
ぼくは思う。曹操と司馬防が、王位に関する会話をしていることと、司馬防の子孫が曹魏で晋王になることのあいだに、どんな「皮肉」が含まれているのか。小説のネタとして、とても創作意欲を駆り立てるだろう。


秋、呼廚泉が来朝し、鍾繇を相国とする

代郡烏丸行單于普富盧與其侯王來朝。天子命王女為公主,食湯沐邑。秋七月,匈 奴南單于呼廚泉將其名王來朝,待以客禮,遂留魏,使右賢王去卑監其國。

代郡の烏丸から、行單于の普富盧と、単于の侯王が来朝した。

代郡の烏丸は、建安12年の注釈にあり。

天子は、王女を公主とした。湯沐邑を食んだ。

盧弼はいう。これは、成長を国元でまっていた曹操の娘である。
『公羊伝』隠8年伝はいう。諸侯はみな「湯沐之邑」がある。『続百官志』はいう。公主が湯沐を食むところを国という。銭大昕はいう。『続百官志』は「邑という」とすべきだ。李祖楙はいう。『漢書』百官公卿表では、列侯が食む県を国といい、皇后や公主が食むところを邑という。

秋7月、匈奴の南單于である呼廚泉が、名王をひきいて來朝した。客禮で待遇され、魏国にとどまった。右賢王の去卑に、匈奴の国を監させた。

匈奴の南単于は、初平3年に注釈あり。
『後漢書』南匈奴伝はいう。單于於扶羅立七年死,弟呼廚泉立。單于呼廚泉,興平二年立。以兄被逐,不得歸國,數為鮮卑所鈔。建安元年,獻帝自長安東歸,右賢王去卑與白波賊帥韓暹等侍衞天子,拒擊李傕、郭汜。及車駕還洛陽,又徙遷許,然後歸國。二十一年,單于來朝,曹操因留於鄴,而遣去卑歸監其國焉。
章懐はいう。於扶羅即劉元海之祖。呼廚泉即元海之叔祖。
『晋書』から劉元海伝を訳し、西晋から自立する
『晋書』載記の劉淵伝より、劉和と劉宣
胡三省はいう。左右前後中の5部にわけて、并州の諸郡に住まわせた。監国する者は、平陽にいた。盧弼はいう。右賢王は、匈奴の官号。『史記』匈奴伝にある。


八月,以大理鍾 繇為相國。

魏書曰:始置奉常宗正官。

8月、大理の鍾繇を、相国とした。

建安13年、丞相をおく。これは漢の丞相である(曹操が就く)。建安18年、魏国に丞相より以下、群卿百僚をおく。みな漢の諸侯王の制である。いま置かれたのは、魏国の丞相である。建安21年、丞相を相国と改めた。黄初元年、相国を司徒と改めた。大理は、漢の廷尉である。鍾繇伝はいう。魏がたち、鍾繇は大理となる。黄初元年、大理は廷尉と改められる。
ぼくは思う。けっきょく魏国は、官名を漢制と同じにすることがゴールだったのかな。丞相、相国などは由緒ある官名だが、「平時の漢制」で司徒が長く使われたから、魏制でも司徒に落ち着きたかった? 通常営業の官名とは違うものを使い出すと、王朝が滅亡する兆候かもしれない。組織は、余命が短くなると、組織をかえたり、肩書をかえたりする。ドラスティックな改革に見えて、ただの言葉遊びだという。
同じことが、会社でも言えそうだ。「グローバル」なんちゃら、という部署を大量生産して、海外展開を強めたが、直後に兵站線が切れて赤字をだし、「グローバル」を部署名から片っ端から排除していったように。
@Golden_hamster さんはいう。魏国が司徒を置いたのは「どうせ禅譲になるからそのまま横すべりさせるため」でいいと思いますけどね。漢制と同じというか、魏国をそのまま漢王朝にハメ込むための措置じゃないかと。 ぼくはいう。「魏国をそのまま漢王朝にハメ込む」というのは、言葉の意味は理解できますが、実際にどういうことを指しているのか、どんな意義があるのか、いろいろ検討したい気がします。官位と人材がスライドするという意味かと思いますが、直感的な部分で「よく分からない」です。
@Golden_hamster さんはいう。宮崎市定氏の『九品官人法の研究』が古典的だけど一番理解しやすいんじゃないでしょうか。
ぼくは思う。直感的な部分で「よく分からない」とき、いろいろ発見がある。このモヤモヤを、勉強につなげたい。宮崎氏の本は、たしかコピってもっている部分があるので、部屋をさぐってみよう。
@bb_sabure さんはいう。魏は曹操の軍閥が巨大化する形で国家として成立しました。私兵を抱える人もお墨付きを与える事で勢力に組み込んでいます。軍閥の人事が漢の官制と齟齬を起しつつある状況を上手く摺り合せるように融合しようとする苦闘がこの時の流れではないでしょうか。漢魏それぞれの官位が常に対比するものではないと考えてます。そのため、魏が中央政府になる時、軍閥内序列を漢官の中でも通用するようずれる部分を整合させ名前を変更し、曹操が漢を掌握するために使った官位の権限を縮小したのではないでしょうか。足りない部分は新設で。 (これを考えた) きっかけは夏侯惇の不臣の礼です。漢魏は官位の価値や序列が異なり、漢臣が曹操の臣下ではない発想は魏は個人的な軍閥に近い性質だったと考える根拠になりました。また魏では都督という官を新設し曹操が征○将軍として運用してた方面軍をしっかりと制度化したと思ってます。

『魏書』はいう。はじめて奉常、宗正の官をおく。

奉常とは、漢代の太常である。黄初元年、奉常を太常に改めた。
ぼくは思う。これも「平時の漢制」に、魏制を近づけていったパタン。っていうか、前漢の諸侯王の制が、どういうもので、どういう官僚がいたのか、全然わかってないじゃん。漢魏革命をやるなら、前漢初と王莽をとばせない。やることが多いのは、嬉しいなあ!


冬、孫権攻めに向かい、献帝の長子を殺す

冬十月,治兵,遂征孫權,十一月至譙。

魏書曰:王親執金鼓以令進退。

冬10月、曹操は治兵した。

趙一清はいう。『方輿紀』巻49で、講武城がある。曹操が建てた。
ぼくは思う。この年の3月、「軍事訓練をしなくても、閲兵だけやれば充分」といい、これを「治兵」と言った。実際にやったんだなあ。

『魏書』はいう。治兵のとき、曹操は、みずから金鼓をとり、兵を進退させた。
ついに孫権を征した。

趙一清はいう。『文選』に、阮瑀がつくった、曹操が孫権に与えた文書が載っている。梁商鉅も同じという。盧弼はいう。阮瑀の文書に「離絶から3年たった」とある。また「赤壁で船を焼いてくれたね」とある。建安20年、孫権が合肥で敗れたことに触れてない。だから阮瑀は、建安17年に書いたとすべきだ。

11月、譙県にいたる。

『後漢書』献帝紀はいう。この年、曹操は、瑯邪王の劉熙を殺した。瑯邪国は除かれた。
ぼくは補う。建安17年に盧弼がいう。『後漢書』献帝紀はいう。9月庚戌、献帝の皇子を王にした。劉熙を済南王、劉懿を山陽王、劉邈を済北王、劉敦を東海王としたと。いま死んだのは、長男で、もと済南王の劉熙さんかな。曹操は、魏王にしてもらいながら、献帝の長男を殺した。何があったんだろう。「ただ漢室の力を削ぐために、殺してみました」ではなかろう。 『後漢書』を読む。

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