-後漢 > 『資治通鑑』建安5年を抄訳(二袁以後への移行)

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『通鑑』建安5年 春夏、顔良文醜と孫策が死ぬ

なぜだか建安5年だけ、やってなかった。

正月、董承を殺し、劉備を曹操が撃つ

孝獻皇帝戊建安五年(庚辰,公元二零零年)
春,正月,董承謀洩;壬子,曹操殺承及王服、種輯,皆夷三族。操欲自討劉備,諸將皆曰:「與公爭天下者,袁紹也,今紹方來而棄之東,紹乘人後,若何?」操曰:「劉備,人傑也,今不擊,必為後患。」郭嘉曰:「紹性遲而多疑,來必不速。備新起,眾心未附,急擊之,必敗。」操師遂東。

春正月、董承の謀議がもれた。正月壬子、董承、王服、種輯は、夷三族。
曹操はみずから劉備を討ちたい。諸将はいう。「いま曹操は袁紹と天下を争う。袁紹が来寇しそうなのに、袁紹を無視して、東して劉備を攻めてどうするの」と。曹操「劉備は人傑である。いま撃たねば、あとで必ず憂患となる」と。郭嘉「袁紹は決断が襲い。劉備は徐州を入手したばかりで、兵心は劉備につかない。いま急撃すれば、劉備を敗れる」と。曹操は東した。

冀州別駕田豐說袁紹曰:「曹操與劉備連兵,未可卒解。公舉軍而襲其後,可一往而定。」紹辭以子疾,未得行。豐舉杖擊地曰:「嗟乎!遭難遇之時,而以嬰兒病失其會,惜哉,事去矣!」曹操擊劉備,破之,獲其妻子;進拔下邳,禽關羽;又擊昌豨,破之。備奔青州,因袁譚以歸袁紹。紹聞備至,去鄴二百里迎之,駐月餘,所亡士卒稍稍歸之。

冀州別駕の田豊は、袁紹にいう。「曹操と劉備が戦うが、まだ決着がつかない。袁紹が背後をつけば(河南を)平定できる」と。袁紹は子が病気なのでゆかず。田豊は杖で地をたたく「惜しいかな」と。
曹操は劉備の妻子をとらう。

『考異』はいう。『魏書』はいう。劉備は曹操が東征できないと考える。曹操がきたら、驚いてにげたと。劉備はここまで(物わかりと諦めは良くないはずで、弱くもないはずで)『魏書』にはウソがある。

下邳で関羽をとらう。また昌豨を破る。劉備は青州ににげ、袁譚をたより、袁紹の帰する。袁紹は、鄴県から200里でて、劉備を迎える。1月余とどまり、士卒が劉備においつく。

2月、袁紹が黎陽にゆき、開戦する

曹操還軍官渡,紹乃議攻許,田豐曰:「曹操既破劉備,則許下非復空虛。且操善用兵,變化無方,眾雖少,未可輕也,今不如以久持之。將軍據山河之固,擁四州之眾,外結英雄,內修農戰,然後簡其精銳,分為奇兵,乘虛迭出以擾河南,救右則擊其左,救左則擊其右,使敵疲於奔命,民不得安業,我未勞而彼已困,不及三年,可坐克也。今釋廟勝之策而決成敗於一戰,若不如志,悔無及也。」紹不從。豐強諫忤紹,紹以為沮眾,械系之。於是移檄州郡,數操罪惡。二月,進軍黎陽。

曹操は軍隊を官渡にもどす。田豊「曹操は劉備を破ってしまった。袁紹は兵事も農事もつよく、曹操は兵事も農事もよわい。3年以内に、座して勝てる。いま決戦するべきでない」と。袁紹は田豊をつなぐ。州郡に檄文をうつし、曹操を悪くいう。
2月、袁紹は黎陽にすすむ。

沮授臨行,會其宗族,散資財以與之曰:「勢存則威無不加,勢亡則不保一身,哀哉!」其弟宗曰:「曹操士馬不敵,君何懼焉?」授曰:「以曹操之明略,又挾天子以為資,我雖克伯珪,眾實疲敝,而主驕將□,軍之破敗,在此舉矣。揚雄有言:『六國蚩蚩,為嬴弱姬。』其今之謂乎!」

沮授は出発にあたり、宗族に資材を散じた。弟の祖宗「曹操の士馬は、袁紹より弱い。何を懼れるか」と。沮授「曹操は戦略に明るく、また天子をたすける。袁紹軍は公孫瓚との戦いで疲弊し、また袁紹も将軍もおごる。揚雄はいった。六国が悖悖とし、周家を侵弱したので、秦家に併合されたと。いまの袁紹は、これをいう」と。

『方言』はいう。蚩とは、悖である。
『漢辞海』はいう。【蚩】おろかな、醜悪な、あざわらう。
ぼくは思う。戦国六国は、おろかであり、周家をちゃんと盛りたてなかった。そのせいで、秦家によって天下統一が行われたと。つまり、袁紹はおろかにも献帝を蔑ろにしたので、曹操による併合を許してしまうと。沮授は、献帝を尊重する観点で、袁紹にタテついたのだ。


振威將軍程昱以七百兵守鄄城。曹操欲益昱兵二千,昱不肯,曰:「袁紹擁十萬眾,自以所向無前,今見昱少兵,必輕易,不來攻。若益昱兵,過則不可不攻,攻之必克,徒兩損其勢,願公無疑。」紹聞昱兵少,果不往,操謂賈詡曰:「程昱之膽,過於賁、育矣!」

振威将軍の程昱は、700で鄄城を守る。

曹操が2000を増やしたい。程昱は断った。「700なら袁紹軍に無視してもらえるが、兵を増やしたら無視してもらえない」と。程昱の言うとおり。曹操は賈詡にいう。「程昱の胆力は、夏賁や夏育に勝るなあ」と。

夏4月、顔良を白馬、文醜を延津で斬る

袁紹遣其將顏良攻東郡太守劉延於白馬,沮授曰:「良性促狹,雖驍勇,不可獨任。」紹不聽。夏,四月,曹操北救劉延。荀攸曰:「今兵少不敵,必分其勢乃可。公到延津,若將渡兵向其後者,紹必西應之,然後輕兵襲白馬,掩其不備,顏良可禽也。」操從之,紹聞兵渡,即分兵西邀之。操乃引軍兼行趣白馬,未至十餘里,良大驚,來逆戰。操使張遼、關羽先登擊之。羽望見良麾蓋,策馬刺良於萬眾之中,斬其首而還,紹軍莫能當者。

顔良が東郡太守の劉延を、白馬で攻めた。

李賢はいう。白馬県は、東郡に属する。

沮授「顔良だけに任せるな」と。袁紹はゆるさず。
夏4月、曹操は北して劉延をすくう。延津にゆく。

杜預はいう。延津は、陳留の酸棗県の北である。曹操が向かったのは、延津の南岸である。

荀攸は「顔良を捕獲できる」という。張遼と関羽が、顔良を斬った。

遂解白馬之圍,徙其民,循河而西。紹渡河追之,沮授諫曰:「勝負變化,不可不詳。今宜留屯延津;分兵官渡,若其克獲,還迎不晚,設其有難,眾弗可還。」紹弗從。授臨濟歎曰:「上盈其志,下務其功,悠悠黃河,吾其濟乎!」遂以疾辭。紹不許而意恨之,復省其所部並屬郭圖。

白馬の包囲がとける。曹操は白馬の民をうつし、黄河にそって西する。

『漢辞海』はいう。【循】そってゆく。

袁紹が曹操を西に追撃したい。沮授「袁紹は延津に留まれ」と。袁紹は従わず。沮授は「悠々たる黄河よ」といい、病気だといって辞した。袁紹は沮授の部曲を、郭図に属させた。

紹軍至延津南,操勒兵駐營南阪下,使登壘望之,曰:「可五六百騎。」有頃,復白:「騎稍多,步兵不可勝數。」操曰:「勿復白。」令騎解鞍放馬。是時,白馬輜重就道,諸將以為敵騎多,不如還保營。荀攸曰:「此所以餌敵,如何去之!」操顧攸而笑。紹騎將文丑與劉備將五六千騎前後至。諸將復白:「可上馬。」操曰:「未也。」有頃,騎至稍多,或分趣輜重。操曰:「可矣!」乃皆上馬。時騎不滿六百,遂縱兵擊,大破之,斬丑。丑與顏良,皆紹名將也,再戰,悉禽之,紹軍奪氣。

袁紹は延津の南にいたる。曹操は南阪のもとにいる。

胡三省はいう。このとき曹操は、黄河にそって、酸棗の境界にゆく。ほかに『水経注』があるが、はぶく。中華書局版2027頁。

このとき、白馬の輜重が道につく。曹操の諸将は「袁紹の騎兵がおおいから、(輜重の輸送をやめて)軍営にもどって防備するべきだ」という。荀攸はいう。「輜重はエサなのだ」と。文醜と劉備は、5、6千騎である。曹操は文醜を斬った。
顔良と文醜を撃たれ、袁紹の士気はがっかりした。

初,操壯關羽之為人,而察其心神無久留之意,使張遼以其情問之,羽歎曰:「吾極知曹公待我厚;然吾受劉將軍恩,誓以共死,不可背之。吾終不留,要當立效以報曹公乃去耳。」遼以羽言報操,操義之,及羽殺顏良,操知其必去,重加賞賜。羽盡封其所賜,拜書告辭,而奔劉備於袁軍。左右欲追之,操曰:「彼各為其主,勿追也。」

曹操は関羽の人となりをほめた。関羽が袁紹軍のなかの劉備にもどるとき、曹操は追わせなかった。。

操還軍官渡,閻柔遣使詣操,操以柔為烏桓校尉。鮮於輔身見操於官渡,操以輔為右度遼將軍,還鎮幽土。

曹操は官渡に兵をもどす。閻柔が曹操に使者をよこし、閻柔は烏桓校尉となる。鮮于輔は、みずから曹操と官渡で会見する。鮮于輔は、右度遼将軍となり、幽州にかえって鎮する。

胡三省はいう。このとき幽州は袁紹の領土である。許県からとおい。だが閻柔と鮮于輔は、曹操に心をよせた。
ぼくは思う。赴任はもうちょい、あとの時期なのでは。袁紹が公孫瓚を倒したばかりだから、幽州が袁紹に帰服してなかったのかも。袁紹の子たちが、幽州に逃げこめるのは、官渡の以後、袁紹の生前に、恩徳を施したからかも。もちろん袁紹は、公孫瓚を殺す前から、北方の異民族との関係は構築していたが、いかんせん公孫瓚を殺した翌年に官渡だから、時間が少なすぎる。袁紹が倉亭で敗れる前後も、異民族への政策は機能していたのでは。
胡三省はいう。漢家の度遼将軍は、范明友にはじまる。後漢にて、度遼将軍が南羌渠を護して、西河に屯した。いま鮮于輔は、幽州の地にもどり、右度遼将軍となる。中原から北を見ると、西河は左、幽州は右である。へえ。


孫策が陳登を攻める前に死ぬ

廣陵太守陳登治射陽,孫策西擊黃祖,登誘嚴白虎餘黨,圖為後害,策還擊登,軍到丹徒,須待運糧。

廣陵太守の陳登は、射陽を治所とする。孫策が西して黄祖を撃つ。陳登は厳白虎の余党を誘い、孫策の後ろを害そうとする。孫策はもどり、陳登を撃つ。孫策は丹徒にもどり、糧秣の運送をまつ。

ぼくは思う。補給を待っていて、孫策は殺されたのか。
胡三省はいう。射陽県は、前漢では臨淮に属し、後漢では広陵に属する。応劭はいう。射水の陽(北)である。
胡三省はいう。丹徒県は、前漢では会稽に属し、後漢では分けられて呉郡に属する。春秋期の朱方である。秦代に望気者が「天子の気がある」というから、始皇帝が城をこわし、丹徒と改めた。
『考異』はいう。『通鑑』本文は、『江表伝』にもとづく。孫策伝では、孫策が許県を攻めようとして、発する前に死んだ。
陳嶠伝では、陳登が孫権によって匡奇で包囲された。陳登は陳矯に、曹操への救援を依頼した。曹操が救いにきた。孫権の呉軍はすでに撤退した。陳登は伏兵により、孫権をおおいに破った。
ぼくは思う。陳矯伝では、孫権と曹操が明瞭に敵対する。だがどうやら、陳登がみずから孫権をやぶったようであり、曹操からの具体的な援助は不明である。
『先賢行状』はいう。陳登は、江南を呑滅する志があった。孫策は、陳登を匡奇城で攻めた。陳登は孫策をおおいに破った。孫策軍はうらみ、おおいに兵を起こして陳登を責める。陳登は、功曹の陳矯を曹操におくり、救援をもとめた。
など、胡三省いわく、記述がバラバラである。
孫盛『異同評』はいう。袁紹が建安5年に黎陽にくる。孫策は4月に殺された。だが『志』によると、孫策は曹操が袁紹と官渡で向きあうと聞いたという。誤りである。孫策が陳登を討伐してたというのが、ほんとうである。


初,策殺吳郡太守許貢,貢奴客潛民間,欲為貢報仇。策性好獵,數出驅馳,所乘馬精駿,從騎絕不能及,卒遇貢客三人,射策中頰,後騎尋至,皆刺殺之。策創甚,召張昭等謂曰:「中國方亂,以吳、越之眾,三江之固,足以觀成敗,公等善相吾弟!」呼權,佩以印綬,謂曰:「舉江東之眾,決機於兩陳之間,與天下爭衡,卿不如我;舉賢任能,各盡其心以保江東,我不如卿。」丙年,策卒,時年二十六。

はじめ孫策は、呉郡太守の許貢を殺した。

『考異』はいう。『江表伝』はいう。はじめ許貢は漢帝に上表した。孫策は強いから、中央に召すべきである。もし地方に放置したら後患となると。孫策はこれを見て、許貢を殺した。
ぼくは思う。許貢の言うことは正しそうw
司馬光はいう。許貢はさきに、朱治に迫られている。すでに厳白虎を頼って、郡を去っている。どうして孫策と再会するか。けだし孫策が厳白虎を破ったとき、許貢もセットで殺された。

許貢の食客が、孫策の中頬を射た。四月丙午、孫策は死んだ。

『考異』はいう。虞喜『志林』は、孫策が4月4日に死んだという。ゆえに『通鑑』は、ここに孫策の死をおく。
『三国志』孫策伝はいう。孫策は許県を襲って、献帝を迎えようとした。発する前に殺されたと。郭嘉伝はいう。孫策が長江をわたって許県を襲うと聞き、みなおそれる。郭嘉は「匹夫に殺されるから許県にこない」という。はたして孫策は殺されたと。
司馬光はいう。郭嘉には先見があったが、どうして孫策が許県を襲う前に死ぬとわかったか。けだし当時の人は、孫策が長江に臨んで兵を治めるので、許県を襲うと疑った。郭嘉は、その計画が実現しないと見抜いたのだ。


權悲號,未視事,張昭曰:「孝廉,此寧哭時邪!」乃改易權服,扶令上馬,使出巡軍。昭率僚屬,上表朝廷,下移屬城,中外將校,各令奉職,周瑜自巴丘將兵赴喪,遂留吳,以中護軍與張昭共掌眾事。時策雖有會稽、吳郡、丹楊、豫章、廬江、廬陵,然深險之地,猶未盡從,流寓之士,皆以安危去就為意,未有君臣之固,而張昭、周瑜等謂權可與共成大業,遂委心而服事焉。

孫権は悲号する。張昭が「孝廉さん、哭いている場合でない」といい、

胡三省はいう。孫権はさきに陽羨長となる。呉郡に察挙され、孝廉となる。

孫権に督軍させた。周瑜が巴丘からきて、呉郡に留まる。中護軍の張昭と周瑜が、政治をやる。

胡三省はいう。秦制は護軍都尉をおく。漢制もおなじ。高祖が、陳平を護軍中尉とした。武帝も護軍都尉をおき、大司馬に属させた。三国期、はじめて中護軍という官職がおかれた。以下、官制について、中華書局版2029頁。

ときに孫策は、会稽、呉郡、丹陽、豫章、廬江を領有するが、深険の地は服従しない。君臣の関係もゆるい。だが張昭と周瑜は頼れた。130627

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『通鑑』建安5年 秋、曹操が汝頴を平定する

秋,七月,立皇子馮為南陽王;壬午,馮薨。

秋7月、皇子の劉馮を南陽王とした。7月壬午、劉馮は薨じた。

李通が、袁紹と劉表を拒んで納税

汝南黃巾劉辟等叛曹操應袁紹,紹遣劉備將兵助辟,郡縣多應之。紹遣使拜陽安都尉李通為征南將軍,劉表亦陰招之,通皆拒焉。或勸通從紹,通按劍叱之曰:「曹公明哲,必定天下;紹雖強盛,終為之虜耳。吾以死不貳。」即斬紹使,送印綬詣操。

汝南の黄巾の劉辟らは、曹操にそむき、袁紹に応じる。袁紹は劉備を汝南にゆかす。郡県のおおくが、劉備に応じる。袁紹は、陽安都尉の李通を征南將軍とした。劉表もひそかに李通を招く。李通は、袁紹も劉表もこばむ。或者が李通に「袁紹に従え」という。李通は剣をあんじて「曹公は明哲」という。袁紹の使者をきり、印綬を送って、曹操をもうでた。

ぼくは思う。こんな劣勢でも、曹操に味方する者があるから、官渡の戦いに勝つのだ。いくら曹操が劣勢でも、兵数がゼロじゃない。
ぼくは思う。史料の編者は、「曹操は天子をささえ、袁紹は天子にそむく」という単純化をしがち。もしくは「曹操は賢者で、袁紹は愚者だから」という単純化をしがち。曹操が天子を支援するためには、官渡の勝利が必要だった(袁紹に天子を奪われるようでは、天子を奉戴したとは見なされない)。曹操が賢者であると証明するためには、官渡の勝利が必要だった(官渡で袁紹に敗れるようでは、曹操は賢者とはいえない)。というわけで、官渡の勝敗を、天子への忠義や、個人の素質のそとに求める必要がでてくる。原因と結果を取り違えることなく、原因を抽出せねば。


通急錄戶調,朗陵長趙儼見通曰:「方今諸郡並叛,獨陽安懷附,復趣收其綿絹,小人樂亂,無乃不可乎?」通曰:「公與袁紹相持甚急,左右郡縣背叛乃爾,若綿絹不調送,觀聽者必謂我顧望,有所須待也。」儼曰:「誠亦如君慮,然當權其輕重。小緩調,當為君釋此患。」乃書與荀彧曰:「今陽安郡百姓困窮,鄰城並叛,易用傾蕩,乃一方安危之機也。且此郡人執守忠節,在險不貳,以為國家宜垂慰撫。而更急斂綿絹,何以勸善!」彧即白操,悉以綿絹還民,上下歡喜,郡內遂安。通擊群賊瞿恭等,皆破之。遂定淮、汝之地。

李通は、戸調(県に納められる綿絹)をきびしく徴発した。朗陵長の趙儼が李通にいう。「諸郡は叛かれるが、李通の陽安だけが叛かれない。いま李通は綿絹を徴発した。なぜか」と。李通はいう。「曹操と袁紹は、きびしく対立する。左右の県は、みな(献帝=曹操)にそむく。もし(献帝=曹操)に綿絹を送らなければ、私は袁紹に心を寄せると見られるだろう」と。張𠑊はいう。「すこし徴発をゆるめたほうが、李通の苦患がゆるむのでは」と。
張𠑊は荀彧に「陽安の百姓は困窮し、倒れそうだ(いつ袁紹になびくか分からない)。綿絹の分量を減らしてくれないか」と。荀彧は曹操にいい、綿絹を陽安の百姓に返還させた。
陽安の郡内は、ついに安寧となる。李通は、群賊の瞿恭らを破る。ついに、淮汝之地を平定した。

ぼくは思う。淮汝は、袁氏の根拠地である。李通のエピソード1つに象徴させて、「こうして曹操は、袁氏の根拠地を平定しました」と、理解したふりを、してよいものか。いや、できない。
ともあれ李通に見られるように、「曹操を支持するか、袁紹を支持するか」というのは、抽象的な志向の表明ではなく、徴発した金品の送り届けという、きわめてリヤルなかたちで表明された。


何夔が曹操に、ゆるい法律の適用を願う

時操制新科,下州郡,頗增嚴峻,而調綿絹方急。長廣太守何夔言於操曰:「先王辨九服之賦以殊遠近,制三典之刑以平治亂。愚以為此郡宜依遠域新邦之典,其民間小事,使長吏臨時隨宜,上不背正法,下以順百姓之心。比及三年,民安其業,然後乃可齊之以法也。」操從之。

ときに曹操は、新らたな科(規則)を制定する。州郡にくだす。規則はきびしく、ひどく綿絹を徴発した。長廣太守の何夔は曹操にいう。

胡三省はいう。長広県は、前漢では瑯邪に属する。後漢では東莱に属する。けだし曹操は、楽進を青州に入れて、新たに長広郡を収拾させたのだろう。

「先王は、九服の賦(税)を決めるとき、遠近に差異をつけた。

『周官』職方氏にいう、九服の邦国である。はぶく。

三典の刑を定めて、乱をおさめた。

『周官』大司寇にある。はぶく。近い国の刑罰はおもい、遠い国の刑罰はかるい。遠くには、裁量を残しておかないと、うまく治まらない。

私が考えるに、この郡(長広)は遠いから、新邦の典(軽い法律)を適用してほしい。小さな問題なら、長吏がその場に応じて判断するから。3年たったら、ひとしい(重い法律)を適用しても良いから」と。曹操はみとめた。

ぼくは思う。曹操は、刑罰や徴税の規則をいじりながら、献帝への臣従のどあいを試した。「曹操は天子を入手したので、刑罰や徴税を自由にやれる」のではない。曹操が刑罰や徴税を変更しつつ、それへの反応によって、天子がもつ権威の内実が明らかになる。という実験的な期間である。
ぼくは思う。何夔は、もと袁術の勢力圏から、曹操が獲得した人材である。官渡の戦いで、塗りつぶして終わりそうな西暦200年を、このように、政治や法律の話でふくらます。さすが『通鑑』です。


劉備が、頴水と汝水であばれる

劉備略汝、穎之間,自許以南,吏民不安,曹操患之。曹仁曰:「南方以大軍方有目前急,其勢不能相救,劉備以強兵臨之,其背叛故宜也。備新將紹兵,未能得其用,擊之,可破也。」操乃使仁將騎擊備,破走之,盡復收諸叛縣而還。備還至紹軍,陰欲離紹,乃說紹南連劉表。紹遣備將本兵復至汝南,與賊龔都等合,眾數千人。曹操遣將蔡楊擊之,為備所殺。

劉備は、汝水と頴水のあいだを略する。許県から南で、吏民は安定しない。曹仁「あらたに劉備は袁紹の兵をひきいるが、破ることができる」と。劉備は袁紹のもとにもどる。
劉備は袁紹を離れたい。袁紹は、ふたたび劉備を汝南にゆかせる。賊の龔都とあわさる。曹操は、蔡楊をおくるが、蔡楊は劉備に殺された。

ぼくは思う。劉備つよい! そして蔡楊って誰?


8月、袁紹は陽武・沙堆にすすむ

袁紹軍陽武,沮授說紹曰:「北兵雖眾而勁果不及南,南軍谷少而資儲不如北;南幸於急戰,北利在緩師。宜徐持久,曠以日月。」紹不從。八月,紹進營稍前,依沙堆為屯,東西數十里。操亦分營與相當。
九月,庚午朔,日有食之。

袁紹は陽武に進軍する。

陽武県は、河南尹に属す。官渡水の北にある。

沮授はゆくなという。だが8月、袁紹は進んで、沙堆に屯する。東西は数十里。曹操も、軍営を分割して、袁紹にあわせた。
9月庚午ついたち、日食あり。

秋、曹操が兵糧に苦しみ、韓猛を破る

曹操出兵與袁紹戰,不勝,復還,堅壁。紹為高櫓,起土山,射營中,營中皆蒙楯而行。操乃為霹靂車,發石以擊紹樓,皆破,紹復為地道攻操,操輒於內為長塹以拒之。操眾少糧盡,士卒疲乏,百姓困於徵賦,多叛歸紹者,操患之,與荀彧書,議欲還許,以致紹師。彧報曰:「紹悉眾聚官渡,欲與公決勝敗。公以至弱當至強,若不能制,必為所乘,是天下之大機也。且紹,布衣之雄耳,能聚人而不能用。以公之神武明哲而輔以大順,何向而不濟!今谷食雖少,未若楚、漢在滎陽、成皋間也。是時劉、項莫肯先退者,以為先退則勢屈也。公以十分居一之眾,畫地而守之,扼其喉而不得進,已半年矣。情見勢竭,必將有變。此用奇之時,不可失也。」操從之,乃堅壁持之。

曹操は勝てずに籠城する。発石、地道など。曹操は荀彧に「許県にかえりたい」という。荀彧はいう。「至弱で至強にあたる。がんばれ」と。

操見運者,撫之曰:「卻十五日為汝破紹,不復勞汝矣。」紹運谷車數千乘至官渡。荀攸言於操曰:「紹運車旦暮至,其將韓猛銳而輕敵。擊,可破也!」操曰:「誰可使者?」攸曰:「徐晃可。」乃遣偏將軍河東徐晃與史渙邀擊猛,破走之,燒其輜重。

曹操は、兵糧を運搬する者にいう。「あと15日で、きみのために袁紹を破ろう。もう苦労はかけない」と。袁紹は兵糧の数千乗せを、官渡にはこぶ。
荀攸は曹操にいう。「韓猛が兵糧を監督するが、破ることができる。徐晃にやらせよ」という。偏将軍する河東の徐晃と、史渙とに韓猛を破らせ、輜重を焼いた。

沈約によると、曹魏は将軍号を40おく。偏将軍、裨将軍は、その末席である。

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『通鑑』建安5年 冬、冀州は袁紹、揚州は孫権に

10月、烏巣が焼かれ、官渡が決着する

冬,十月,紹復遣車運谷,使其將淳於瓊等將兵萬餘人送人,宿紹營北四十里。沮授說紹:「可遣蔣奇別為支軍於表,以絕曹操之鈔。」紹不從。許攸曰:「曹操兵少而悉師拒我,許下餘守,勢必空弱。若分遣輕軍,星行掩襲,許可拔也。許拔,則奉迎天子以討操,操成禽矣。如其未潰,可令首尾奔命,破之必也。」紹不從,曰:「吾要當先取操。」會攸家犯法,審配收系之,攸怒,遂奔操。

冬10月、ふたたび袁紹が穀物をはこぶ。淳于瓊がおくる。沮授「蒋奇に別軍をひきいさせろ。曹操の攻撃をとめろ」と。袁紹は従わず。
許攸子遠「許県を急襲すれば、天子を奉迎できる。曹操を捕らえられる」と。袁紹は従わず「天子より先に曹操をつかまえる」という。

ぼくは思う。袁紹の優先順位がわかる。袁紹は、献帝がいようが、いまいが、あまり気にしていない。献帝に敵対するのでなく、献帝に無関心である。袁紹が、いかにも判断を狂わせて南下したのは、ただ曹操その人との決戦をしたいからでは。まったく小説的で、予備知識もなにもいらない結論になっちゃうけど。

許攸の家人が法を犯した。審配がつなぐ。許攸は曹操にはしる。

操聞攸來,跣出迎之,撫掌笑曰:「子卿遠來,吾事濟矣!」既入坐,謂操曰:「袁氏軍盛,何以待之?今有幾糧乎?」操曰:「尚可支一歲。」攸曰:「無是,更言之!」又曰:「可支半歲。」攸曰:「足下不欲破袁氏邪!何言之不實也!」操曰:「向言戲之耳。其實可一月,為之奈何?」攸曰:「公孤軍獨守,外無救援而糧谷已盡,此危急之日也。袁氏輜重萬餘乘,在故市、烏巢,屯軍無嚴備,若以輕兵襲之,不意而至,燔其積聚,不過三日,袁氏自敗也。」

はだしで「子卿よ」迎えた曹操に、許攸が烏巣のことを教えた。

胡三省はいう。許攸のあざなは、子遠である。いま原文で曹操は「子卿」というのは、許攸を貴んだからである。或者はいう。曹操は許攸のあざなをよび、「子遠よ、卿(あなた)が来たから、わがことは救われた」とするのが、文法として正しい。
『水経注』によると、烏巣沢は、陳留の酸棗の東南にある。


操大喜,乃留曹洪、荀攸守營,自將步騎五千人,皆用袁軍旗幟,銜枚縛馬口,夜從間道出,人抱束薪,所歷道有問者,語之曰:「袁公恐曹操鈔略後軍,遣軍以益備。」聞者信以為然,皆自若。既至,圍屯,大放火,營中驚亂。會明,瓊等望見操兵少,出陳門外,操急擊之,瓊退保營,操遂攻之。

曹操はよろこび、曹洪と荀攸を軍営にとどめた。曹操はいつわって「袁公は、曹操が後ろから攻めるのを恐れるので、防備の兵を増やすのだ」といって、袁紹軍に入りこむ。烏巣を焼いた。

紹聞操擊瓊,謂其子譚曰:「就操破瓊,吾拔其營,彼固無所歸矣!」乃使其將高覽、張郃等攻操營。郃曰:「曹公精兵往,必破瓊等,瓊等破,則事去矣,請先往救之。」郭圖固請攻操營。郃曰:「曹公營固,攻之必不拔。若瓊等見禽,吾屬盡為虜矣。」紹但遣輕騎救瓊,而以重兵攻操營,不能下。

袁紹は袁譚にいう。「曹操の本営をぬけば、曹操は帰還する場所がなくなる」と。高覧と張郃に、曹操の本営を攻めさせる。張郃「淳于瓊が死んだら、もうダメだ」と。郭図が曹操の本営を攻めたがる。張郃はいう。「曹操の本営は守備がかたい。攻めても抜けないかも。もし淳于瓊が捕らわれたら、私たちは全て捕らわれる」と。袁紹は軽騎だけで、淳于瓊を救わせる。重兵が曹操の本営を攻める。本営はおちない。

紹騎至烏巢,操左右或言:「賊騎稍近,請分兵拒之。」操怒曰:「賊在背後,乃白!」士卒皆殊死戰,遂大破之,斬瓊等,盡燔其糧谷,殺士卒千餘人,皆取其鼻,牛馬割脣舌,以示紹軍,紹軍將士皆恟懼。郭圖慚其計之失,復譖張郃於紹曰:「郃快軍敗。」郃忿懼,遂與高覽焚攻具,詣操營降。曹洪疑,不敢受,荀攸曰:「郃計畫不用,怒而來奔,君有何疑!」乃受之。

袁紹の騎兵が烏巣にきた。曹操の左右の或者は「兵を分けて、袁紹の騎兵を拒もう」という。曹操は怒って「袁紹軍はすぐ後ろにいる」という。死戦して淳于瓊を斬る。郭図は張郃をそしって「張郃の軍が早くに負けた」という。張郃は高覧とともに、攻具を焼いて曹操にくだる。
曹洪が張郃の降伏を疑う。荀攸「張郃は計略が用いられず、怒って降ってきた。曹洪は張郃を疑うな」と。降伏を受けた。

ぼくは思う。なぜ郭図が発言力をもち、袁紹軍をダメにすることができたか、を考えねば。郭図が単なるバカなら、こんなに周囲を巻きこまない。史家がスケープゴートにしたにしては、途中で天子の奉戴を言ったり、ちょっと賢そうだったりするのだ。


袁紹が敗北し、図書が曹操に取られる

於是紹軍驚擾,大潰,紹及譚等幅巾乘馬,與八百騎渡河。操追之不及,盡收其輜重、圖書、珍寶。餘眾降者,操盡坑之,前後所殺七萬餘人。沮授不及紹渡,為操軍所執,乃大呼曰:「授不降也,為所執耳!」操與之有舊,迎謂曰:「分野殊異,遂用圮絕,不圖今日乃相禽也!」授曰:「冀州失策,自取奔北。授知力俱困,宜其見禽。」操曰:「本初無謀,不相用計,今喪亂未定,方當與君圖之。」授曰:「叔父、母弟,縣命袁氏,若蒙公靈,速死為福。」操歎曰:「孤早相得,天下不足慮也。」遂赦而厚遇焉。授尋謀歸袁氏,操乃殺之。操收紹書中,得許下及軍中人書,皆焚之,曰:「當紹之強,孤猶不能自保,況眾人乎!」

袁紹と袁譚は、幅巾で乗馬して、8百騎で黄河をわたる。

幅巾という服装について、中華書局版2035頁。

曹操は追いつけない。輜重、図書、珍宝をえる。7万余人を殺した。

ぼくは思う。袁紹が残していった「図書」って、河図洛書のことだろうか。つまり、袁氏に天命が降るという類いの。袁氏に天命があるという符瑞が、曹操の手に奪われたって、なんだか象徴的な出来事!これをもって、袁氏が皇帝になるという話は潰えて、献帝が安泰になるのだ。
『考異』はいう。『後漢書』袁紹伝では、8万人が殺される。だが『献帝起居注』で曹操は、7万余級の首を斬ったという。
ぼくは思う。どちらにせよ、壊滅だなあ。袁術に従軍し、青州から回りこんだ者も含まれていたかも。 だって、劉備のように、危険な地域を往復し、敗退を繰り返しても、死なないやつがいる。袁術の兵が、いくらか紛れていても、おかしくない。

曹操は沮授を従えられず、殺した。曹操は文書を焼却した。

田豊を殺し、審配を用い、冀州を再平定

冀州城邑多降於操。袁紹走至黎陽北岸,入其將軍蔣義渠營,把其手曰:「孤以首領相付矣!」義渠避帳而處之,使宣號令。眾聞紹在,稍復歸之。

冀州の城邑は、おおくが曹操にくだる。袁紹は、黎陽の北岸ににげる。袁紹は、将軍の蒋義渠の軍営に入る。蒋義渠の手をとり、「私は首領(蒋義渠)をもって相い付す」という。蒋義渠は帳を避けて(袁紹と距離をおいて)これに処す。「袁紹がここにいる」と号令させた。軍衆は、袁紹がいると聞いて、集まってきた。

ぼくは思う。袁紹には徳があるなあ!
ところで、蒋義渠って誰だろう。『後漢書』袁紹伝のみ登場か。


或謂田豐曰:「君必見重矣。」豐曰:「公貌寬而內忌,不亮吾忠,而吾數以至言迕之,若勝而喜,猶能赦我,今戰敗而恚,內忌將發,吾不望生。」紹軍士皆拊膺泣曰:「向令田豐在此,必不至於敗。」紹謂逄紀曰:「冀州諸人聞吾軍敗,皆當念吾,惟田別駕前諫止吾,與眾不同,吾亦慚之。」紀曰:「豐聞將軍之退,拊手大笑,喜其言之中也。」紹於是謂僚屬曰:「吾不用田豐言,果為所笑。」遂殺之。初,曹操聞豐不從戎,喜曰:「紹必敗矣。」及紹奔遁,復曰:「向使紹用其別駕計,尚未可知也。」

袁紹が敗れると、田豊は「必ず袁紹に重んじられる」と言われた。だが田豊は「怨まれてる」という。袁紹の軍士は「田豊がいれば、敗れなかった」という。
袁紹は逢紀に「別駕の田豊だけは、前に私に諫言したので(袁紹が敗れ、田豊の見解の正しさが証明されて)みんなと違う(敗戦を悔やまない)」という。逢紀は「田豊は大笑してる」という。袁紹は田豊を殺した。
はじめ曹操は、田豊が従軍しないと聞き、「袁紹は必ず敗れる」といった。袁紹が逃げたあと「もし袁紹が田豊の計略を使えば、どうなったか分からない」といった。

審配二子為操所禽,紹將孟岱言於紹曰:「配在位專政,族大兵強,且二子在南,必懷反計。」郭圖、辛評亦以為然。紹遂以岱為監軍,代配守鄴。護軍逄紀素與配不睦,紹以問之,紀曰:「配天性烈直,每慕古人之節,必不以二子在南為不義也。願公勿疑。」紹曰:「君不惡之邪?」紀曰:「先所爭者,私情也;今所陳者,國事也。」紹曰:「善!」乃不廢配,配由是更與紀親。冀州城邑叛紹者,紹稍復擊定之。紹為人寬雅,有局度,喜怒不形於色,而性矜愎自高,短於從善,故至於敗。

審配の2子が曹操に捕らわれた。袁紹軍の孟岱は袁紹にいう。「審配は権限があり、族兵はつよく、2子は曹操のもとだ。必ず曹操につく」と。郭図と辛評も合意した。
ついに袁紹は、孟岱を審配に代えて、鄴城を守らせた。護軍の逢紀は、ふだんから審配と仲がわるい。袁紹が逢紀に問うと「審配は裏切らない」という。袁紹は審配を廃さない。審配と逢紀は親しくなった。
冀州の城邑のうち、袁紹に叛いた者も、ようやく平定された。袁紹の人となりは寛雅である。局度があり、喜怒の感情をあらわさない。だがプライドが高く、(自分より)善いものを悪いという。だから敗れた。

ぼくは思う。この人物評価で、すべて言い尽くされてしまったw


冬、曹操が揚州に、劉繇と張紘を送る

冬,十月,辛亥,有星孛於大梁。

廬江太守李術攻殺揚州刺史嚴象,廬江梅乾、雷緒、陳蘭等各聚眾數萬在江淮間。曹操表沛國劉馥為揚州刺史。時揚州獨有九江,馥單馬造合肥空城,建立州治,招懷乾、緒等,皆貢獻相繼。數年中,恩化大行,流民歸者以萬數。於是廣屯田,興陂堨;官民有畜,乃聚諸生,立學校;又高為城壘,多積木石,以修戰守之備。

廬江太守の李術は、揚州刺史の厳象を殺す。廬江の梅乾、雷緒、陳蘭等は、それぞれ数万で江淮の間にいる。曹操は、沛国の劉馥を揚州刺史とした。ときに揚州(の郡)には、九江だけがある。

胡三省はいう。廬江、丹陽、会稽、呉郡、豫章は、みな孫氏に属した。劉馥が揚州刺史となったとき、九江しかなかった。

劉馥は単馬で合肥の空城に入り、州治とする。

『郡国志』はいう。漢代は揚州刺史は、歴陽を治所とする。いま韓馥は、合肥にうつす。のちに寿春にうつす。東晋では、揚州の州治は建業。揚州は分けられた。

梅乾ら雷緒らをまねく。みな貢献しにくる。
数年で恩徳がいきわたる。流民の1万がくる。屯田して、堤防つくる。家畜がいる。諸生があつまり、学校をたてる。城壁を高くして、守備する。

胡三省はいう。ゆえに孫権は、合肥をおとせず。


曹操聞孫策死,欲因喪伐之。侍御史張紘諫曰:「乘人之喪,既非古義,若其不克,成仇棄好,不如因而厚之。」操即表權為討虜將軍,領會稽太守。操欲令紘輔權內附,及以紘為會稽東部都尉。紘至吳,太夫人以權年少,委紘與張昭共輔之。紘惟補察,知無不為。
太夫人問揚武都尉會稽董襲曰:「江東可保不?」襲曰:「江東有山川之固,而討逆明府恩德在民,討虜承基,大小用命,張昭秉眾事,襲等為爪牙,此地利人和之時也,萬無所憂。」權遺張紘之部,或以紘本受北任,嫌其志趣不止於此,權不以介意。

曹操は、孫策が死んだので、そのすきに伐ちたい。侍御史の張紘が諫めた。

建安3年、孫策は張紘に貢献させた。許県で侍御史となる。

「ひとの喪に乗じるな」と。曹操は孫権を討虜将軍、会稽太守とした。曹操は、張紘に孫権を輔けさせ、孫権を曹操の味方になるよう仕向けたい。張紘を会稽東部都尉とした。

沈約はいう。臨海太守は、もとは会稽東部都尉の治所にいる。前漢の都尉は、治所をキンとする。後漢は、会稽を分けて呉郡をつくる。会稽東部都尉とは、治所が章安だろうか。

張紘は呉郡にくると、張昭とともに孫権をたすけた。
太夫人は、揚武都尉する会稽の董襲にいう。「江東を保てるかな」と。董襲はいう。「私が爪牙になる。保てる」と。張紘は曹操から官職をもらっているが、孫権は気にしない。張紘を信頼して、赴任させた。

ぼくは思う。劉表のところの韓嵩と比較すべきだ。おいしいネタ!!


魯粛、呂蒙、駱統が孫権につかえる

魯肅將北還,周瑜止之,因薦肅於權曰:「肅才宜佐時,當廣求其比以成功業。」權即見肅,與語,悅之。賓退,獨引肅合榻對飲,曰:「今漢室傾危,孤思有桓、文之功,君何以佐之?」肅曰:「昔高帝欲尊事義帝而不獲者,以項羽為害也。今之曹操,猶昔項羽,將軍何由得為桓、文乎!肅竊料之,漢室不可復興,曹操不可卒除,為將軍計,惟有保守江東以觀天下之釁耳。若因北方多務,剿除黃祖,進伐劉表,竟長江所極,據而有之,此王業也。」權曰:「今盡力一方,冀以輔漢耳,此言非所及也。」張昭毀肅年少粗疏,權益貴重之,賞賜儲偫,富擬其舊。

魯粛が北方に還ろうとすると、周瑜がとめた。

劉秀が孫策に従ったことは、建安3年にある。
『考異』はいう。魯粛伝はいう。劉曄は、魯粛に「鄭宝を頼れ」という。魯粛は鄭宝に従おうとする。周瑜は孫権の助けになると思い、劉秀をとどめる。司馬光は考える。劉曄は鄭宝を殺し、鄭宝の軍と劉勲とあわさる。劉勲は孫策に滅ぼされる。鄭宝が、どうして孫権のときに存在するものか。

周瑜は魯粛を孫権にすすめる。魯粛は、孫権に「漢室は復興できない。孫権が長江をとれ」という。孫権は「漢室をたすけたいだけ」という。張昭は魯粛をきらう。

ぼくは思う。魯粛の天下への眼差しは、袁紹と袁術が敗れたあとに、『資治通鑑』に載っている。孫策でなく孫権に仕えるのだから、この位置で良いのだろう。袁紹と袁術が倒れて、なおこの見通しである。黄巾の乱の前後、または董卓の執政期と同じでは、あり得ない。袁氏の野望が存在したのに(野望が挫折してなお)漢家を救えないという。魯粛は、かなり、ひねくれている。「袁氏が漢家に交替することは、同意できない。しかし、漢家を見限ったという袁氏の認識は、私と共通のものである」と魯粛は言っている。袁術と孫策の横死にガッカリして、張昭と周瑜と、再出発しようとしている孫権にとっては、「何を言うのだ」という感じだろう。


權料諸小將兵少而用薄者,併合之。別部司馬汝南呂蒙,軍容鮮整,士卒練習。權大悅,增其兵,寵任之。
功曹駱統勸權尊賢接士,勤求損益,饗賜之日,人人別進,問其燥濕,加以密意,誘諭使言,察其志趣。權納用焉。統,俊之子也。

孫権は、若者がひきいる兵を解散して、併合した。別部司馬する汝南の呂蒙は、孫権に悦ばれ、兵を増やされた。

『続漢書』はいう。司馬とは、、中華書局版2039頁。

功曹の駱統は、孫権に賢者の尊重をすすめた。駱統は駱俊の子。

駱俊は、建安2年にある。


曹操と孫権の外交;孫輔、華歆、李術

廬陵太守孫輔恐權不能保江東,陰遣人繼書呼曹操。行人以告,權悉斬輔親近,分其部曲,徙輔置東。

廬江太守の孫輔は、孫権が江東を保てないことを恐れた。ひそかに曹操に文書をおくる。孫権は、孫輔に親近する者を、すべて斬った。部曲を分割した。孫輔を呉郡の東にうつした。

曹操表徵華歆為議郎、參司空軍事。廬江太守李術不肯事權,而多納其亡叛。權以狀白曹操曰:「嚴刺史昔為公所用,而李術害之,肆其無道,宜速誅滅。今術必復詭說求救。明公居阿衡之任,海內所瞻,願敕執事,勿復聽受。」因舉兵攻術於皖城。術求救於操,操不救。遂屠其城,梟術首。徙其部曲二萬餘人。

曹操は華歆をめして、議郎とした。司空の軍事に参じる。廬江太守の李術は、孫権に仕えたくない。孫権は曹操にいう。「揚州刺史の厳象は、曹操が用いたが、李術に殺された。はやく李術を誅滅すべきだ。曹操は阿衡の任にあり、海内に注目されている。宜しくたのむ」と。

胡三省はいう。李術は、もとは孫策が置いた。
阿衡とは、孫権が曹操を伊尹に例えたのだ。

孫権が李術を皖城にかこむ。李術は曹操に救援をもとめるが、曹操は李術を救援しない。李術の首はさらされ、部曲2万余人が(孫権の配下に)徙された。

ぼくは思う。孫権は曹操に「李術のことは、口も手も出すな」と言ったのだろう。曹操がその気になれば、廬江まで浸食できたことを示す。もしくは、孫権の背後を突っつくことを、孫権は嫌ったのか。曹操による揚州刺史の劉馥は、廬江の雷緒たちを手なずけている。このページの『資治通鑑』にあった。


劉表が天子を模し、趙韙が劉璋を攻む

劉表攻張羨,連年不下。曹操方與袁紹相拒,未暇救之。羨病死,長沙復立其子懌。表攻懌及零、桂,皆平之。於是表地方數千里,帶甲十餘萬,遂不供職貢,郊祀天地,居處服用,僭擬乘輿焉。

劉表は張羨を攻めるが、連年くだせず。

張羨は、建安3年から、劉表にそむく記事あり。

曹操が袁紹と戦うとき、余裕がなくて袁紹を救えない。張羨が病死して、長沙では子の張懌がたつ。劉表は、零陵と桂陽を平定した。劉表は、領地が方数千里、帯甲は10余万となる。献帝への職貢をやめる。

ぼくは思う。袁紹も劉表も、わりと近い態度で、曹操による献帝の奉戴を否定する。だが、張羨と張懌のせいで、劉表と袁紹が協力するタイミングがなかった。袁紹が滅びた直後、劉表が曹操に本格的に対抗できるようになった。このタイミングは、曹操の幸運である。

天地を郊祀し、天子の服装や乗輿をつかう。

張魯以劉璋暗懦,不復承順,襲別部司馬張修,殺之而並其眾。璋怒,殺魯母及弟,魯遂據漢中,與璋為敵。璋遣中郎將龐羲擊之,不克。璋以羲為巴郡太守,屯閬中以御魯。羲輒召漢昌賨民為兵,或構羲於璋,璋疑之。趙韙數諫不從,亦恚恨。

張魯は、劉璋が暗懦なので、劉璋の別部司馬の張修を殺した。劉璋は怒り、張魯の母と弟を殺した。張魯は漢中によって、劉璋と敵対した。

ぼくは思う。張魯もまた、二袁の滅亡の直後に、独立する。つまり、赤壁前後に劉備が巻きこむあたりの勢力が、中原の二袁からちょっと遅れて(もしくは中原で二袁が片づくことにより、その影響を受けて)勢力を固めた。
ぼくは思う。光武帝ですら、荊州や益州は、すぐには平定できなかった。中原に目処がたつと、ようやく周辺に着手する。中原の統一勢力が着手することにより、周辺の勢力が地盤を固める。闘争が始まる。この浸透は、いつでも同じなんだろう。中原が騒がしいうちは、周辺の勢力は、地盤があやふやのまま、自然に暮らしている。

劉璋は、中郎將の龐羲をやるが、張魯に勝てず。龐羲を巴郡太守として、閬中で張魯を防がせる。龐羲は、漢昌の賨民を召して兵とする。或者が、龐羲と劉璋の関係をくずす。趙韙が諫めたが、対立はふかまる。

初,南陽、三輔民流入益州者數萬家,劉焉悉收以為兵,名曰東州兵。璋性寬柔,無威略,東州人侵暴舊民,璋不能禁。趙韙素得人心,因益州士民之怨,遂作亂,引兵數萬攻璋;厚賂荊州,與之連和。蜀郡、廣漢、犍為皆應之。

はじめ、南陽と三輔の民は、数万家が益州に流入した。劉焉はすべてを兵として、東州兵とよぶ。劉璋がゆるいので、東州の人々を制御できない。趙韙は人心を得ている。

胡三省はいう。趙韙は、劉焉に従って入蜀した。劉璋もまた、趙韙に擁立された。趙韙は、益州の大吏である。

益州の士民が劉璋を怨むので、趙韙は劉璋を攻めた。趙韙は、荊州に賄賂して連和する。蜀郡、広漢、犍為も、趙韙に応じた。130627

ぼくは思う。ふつうに劉璋が片づいて終わりそうなのに。劉備が入蜀して、乗っ取りをやるけれど。そもそも劉璋には、こういう危うさがあったのだ。
ぼくは思う。官渡の直後、のちの勢力図が一気に固まる。『資治通鑑』200年、曹操が袁紹を破り、張魯が自立し、劉表が張羨の子を破り、孫権が継承し、劉璋と趙韙が競い、劉備が荊州に流れた。この配置は「二袁の滅亡により」形成されたと言えそう。たまたま時系列の前後があるだけでなく、二袁からの有機的な働きかけによって、中原の周囲がこうなった。
また、「曹操が正統な天子を頂くから有利」という図式も200年に定着した。それまでは、献帝がだれのものとも定まらない。献帝が正統かいなか、という議論が、袁術と袁紹の勢力が盛んであるという事実によって、継続していた。献帝を持っていても、あまり規制力がなく、立ち枯れる可能性だってあったのだ。
ぼくは思う。魯粛が「漢室は救えない」と孫権に説くのは、二袁の敗北の直後。リアルタイムの大事件は、黄巾や董卓でなく二袁の敗北。つまり魯粛は、思想における正統の一般論でなく、漢室という言葉にて「二袁を破った曹操が奉戴する献帝」を限定的に指し、曹操への帰順を否定した。言葉は大きいが、内容は「アンチ曹操」以上ではないかも。孫権は、曹操に通じた孫輔を、遠ざけている。その点で孫権は、「魯粛の言い方には賛同できないが、意見は同じ」となる。たとえば、「にんじんを食べたいから、カレーを食いに行こう」と魯粛が言ったら、孫権が「私はにんじんに特段の興味はないが、カレーは食べたい」と、結論が一致するのと同じだ。

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