両晋- > 『資治通鑑』晋紀を抄訳 305年-308年 懐帝の前期

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305年、司馬顒と司馬越が対立し、陳敏が割拠

夏、

【晉紀八】 起旃蒙赤奮若,盡著雍執徐,凡四年。孝惠皇帝下永興二年(乙丑,公元三零五年)
夏,四月,張方廢羊後。

夏4月、張方は羊皇后を廃した。

ぼくは思う。羊皇后の往復運動に「構造」を見出すことで、恵帝期の情勢を整理できるかも。恵帝があまりに「うつろ」なので、皇后が指標になるかも知れない。


游楷等攻皇甫重,累年不能克,重遣其養子昌求救於外。昌詣司空越,越以太宰顒新與山東連和,不肯出兵。昌乃與故殿中人楊篇詐稱越命,迎羊後於金墉城。入宮,以後令發兵討張方,奉迎大駕。事起倉猝,百官初皆從之;俄知其詐,相與誅昌。顒請遣御史宣詔喻重令降,重不奉詔。先是城中不知長沙厲王及皇甫商已死,重獲御史騶人,問曰:「我弟將兵來,欲至未?」騶人曰:「已為河間王所害。」重失色,立殺騶人。於是城中知無外救,共殺重以降。顒以馮翊太守張輔為秦州刺史。

游楷らは、皇甫重を攻めるが、累年しても克てず。

游楷らは、大安2年から皇甫重を攻めて、3年にわたる。

皇甫重は、養子の皇甫昌に外を救いを求めさせた。皇甫昌は、司空越を詣でる。司馬越は、太宰の司馬顒が新たに山東と連和したので、出兵を肯んじない。

司馬顒と山東の連和は、上巻の上年(304年)にある。

皇甫昌は、もと殿中人の楊篇とともに、司馬越の命を詐稱して、羊皇后を金墉城に迎えた。入宮して、羊皇后に兵を発して張方を討ち、大駕を奉迎せよという。

胡三省はいう。この年の4月、張方は羊皇后を廃した。そのとき張方はすでに恵帝を奉じて入関させたい。けだし威令をもって(関中から洛陽に)遙かに脅して、百官を脅して羊皇后を廃したのだろう。いま皇甫昌が皇后を迎えて入宮させたのは、起兵をするため。洛陽にいるときの張方を討つためでない。

事の起こりが倉猝なので、百官は初め皆な従った。にわかに詐りと知り、ともに皇甫昌を誅した。司馬顒は、御史をつかわし、皇甫重に降れという。
これより先、城中では司馬乂と皇甫商がすでに死んだと知らず、皇甫重は、重ねて御史・騶人を獲えて問う。

司馬乂は前年に死んだ。皇甫商は太安2年に死んだ。
御史が来て詔を宣したので、騶人を得ることができた。

「わが弟(皇甫商)が兵をひきいて来るはず。まだ到着しないか」と。騶人「すでに司馬顒に殺害された」と。皇甫重は失色して、立ちに騶人を殺した。ここにおいて城中では、外救がないと知り、ともに皇甫重を殺して(司馬顒に)降る。司馬顒は、馮翊太守の張輔を、秦州刺史とした。

司馬顒は劉沈を破った功績で、張輔を用いる。


六月,甲子,安豐元侯王戎薨於郟。
張輔至秦州,殺天水太守封尚,欲以立威;又召隴西太守韓稚,稚子樸勒兵擊輔。輔軍敗,死。涼州司馬楊胤言於張軌曰:「韓稚擅殺刺史,明公杖鉞一方,不可以不討。」軌從之,遣中督護汜瑗帥眾二萬討稚,稚詣軌降。未幾,鮮卑若羅拔能寇涼州,軌遣司馬宋配擊之,斬拔能,俘十餘萬口,威名大振。

6月の甲子、安豐元侯の王戎が郟県で薨じた。

王戎は、前年に(張方から逃れて)郟県にきた。

張輔は秦州に至り、天水太守の封尚を殺して、立威したい。隴西太守の韓稚を召した。韓稚の子・韓璞は、張輔を撃つ。張輔の軍は敗れて死んだ。

張輔が韓氏を召したが、韓氏が(自分に命令をしてきた)張輔を攻撃して、張輔に勝っちゃった。

涼州司馬の楊胤は張軌にいう。「韓稚は、ほしいままに刺史を殺した。明公は一方を杖鉞する(涼州刺史である)。韓氏を討て」と。張軌は従い、中督護の汜瑗に2万をつけ、韓稚を撃たせる。韓稚は張軌に詣でて降った。

中督護とは、中軍督護である。

すぐに、鮮卑の若羅拔能が、涼州を寇した。張軌は、司馬の宋配に鮮卑を撃たせて、拔能を斬った。10余万口を俘した。張軌の威名は大振した。

史家はいう。張軌は尊主攘夷して、強盛に到る。


漢王淵攻東贏公騰,騰復乞師於拓跋猗□,衛操勸猗□助之。猗□帥輕騎數千救騰,斬漢將綦毋豚。詔假猗□大單于,加操右將軍。甲申,猗□卒,子普根代立。

漢王の劉淵は、東贏公の司馬騰を攻めた。司馬騰は、復た拓跋猗_に乞師した。衛操は猗_に「司馬騰を助けろ」と勧めた。猗_は輕騎の數千を帥いて司馬騰を救う。漢將の綦毋豚を斬った。詔して、猗_を大單于に假し、衛操に右將軍を加えた。

北狄伝に、匈奴の綦毋氏がある。勒氏がある。
『考異』はいう。『後魏書』桓帝紀と劉淵伝によると、みな劉淵は南に走り、蒲子にゆくという。『晋書』載記では、劉淵は蒲子にゆかず、そのあとに離石から黎亭にゆくとある。けだし『後魏書』がちがう。

6月の甲申、猗_が卒して、子の普根が代りに立つ。

7月、司馬越が張方に起兵、石勒の登場

東海中尉劉洽以張方劫遷車駕,勸司空越起兵討之。秋,七月,越傳檄山東征、鎮、州、郡云:「欲糾帥義旅,奉迎天子,還復舊都。」東平王楙聞之,懼;長史王修說楙曰:「東海,宗室重望;今興義兵,公宜舉徐州以授之,則免於難,且有克讓之美矣。」楙從之。越乃以司空領徐州都督,楙自為兗州刺史;詔即遣使者劉虔授之。是時,越兄弟並據方任,於是范陽王虓及王浚等共推越為盟主,越輒選置刺史以下,朝士多赴之。

東海中尉の劉洽は、張方が車駕を劫遷したので、司空越に起兵して張方を討てという。

晋制で諸王国には、郎中令、中尉、大農の三卿がいる。

秋7月、司馬越は山東に傳檄して、鎮・州・郡を徵した。「義旅を糾帥し、天子を奉迎し、舊都にしよう」と。東平王の司馬楙はこれを聞き、懼れた。長史の王修は、司馬楙に説いた。「東海王の司馬越は宗室の重望である。いま義兵を興した。あなたは徐州を挙げて、司馬越を(徐州刺史を)授けろ。そうすれば難を免れる。克讓之美となる」と。司馬楙は従う。司馬越は、司空を以て徐州都督を領した。司馬楙は自ら兗州刺史となる。詔して、使者の劉虔をやり、徐州刺史を司馬越に授ける。

司馬楙は徐州を督するのは、永寧元年より。去年、司馬虓は荀晞を兗州刺史とした。荀晞を許昌に留め、荀勖はまだ兗州に着任しない。司馬楙がみずから兗州を領した。
ぼくは思う。司馬楙と司馬虓の関係は、どうであったか。司馬楙は、司馬虓の党与(荀晞)から、兗州を奪ったのだから。

このとき、司馬越の兄弟は、並せて方任に拠る。范陽王の司馬虓と王浚らは、ともに司馬越を盟主に推した。刺史より以下を選置した。朝士は多くが司馬越に赴いた。

恵帝を長安に置くことに従わない者が、司馬越に赴いた。


成都王穎既廢,河北人多憐之。穎故將公師籓等自稱將軍,起兵於趙、魏,眾至數萬。初,上黨武鄉羯人石勒,有膽力,善騎射。并州大饑,建威將軍閻粹說東嬴公騰執諸胡於山東,賣充軍實。勒亦被掠,賣為茌平人師懽奴,懽奇其狀貌而免之。懽家鄰於馬牧,勒乃與牧帥汲桑結壯士為群盜。及公師籓起,桑與勒帥數百騎赴之。桑始命勒以石為姓,勒為名。籓攻陷郡縣,殺二千石、長史,轉前,攻鄴。平昌公模甚懼;范陽王虓遣其將苟晞救鄴,與廣平太守譙國丁紹共擊籓,走之。

成都王の司馬穎は廃され、河北の人は、多くが憐れんだ。

胡三省はいう。司馬穎は鄴県にあるとき、時誉があった。のちに驕侈で禍いを致すが、河北の人は乱を厭い、旧を思う。だから司馬穎を憐れんだ。

司馬穎の故將・公師籓らは、将軍を自称して、趙国・魏国で起兵した。衆は数万に至る。
はじめ上党の武郷の羯人の石勒は、膽力があり、騎射に善い。并州は大饑し、建威將軍の閻粹は東嬴公の司馬騰に、山東で諸胡を執え、売って軍実に充てろという。石勒も掠われ、茌平(平原)の人・師懽に奴として売られた。師懽は、石勒の狀貌を奇として、奴から免れさせた。師懽の家は、隣で馬牧がある。石勒は、牧帥する汲桑と壯士を結び、群盜となる。公師籓が起つと、汲桑と石勒は、数百騎で赴く。

ぼくは思う。劉淵といい石勒といい、のちに中原に建国する五胡たちは、成都王の司馬穎との接点から始まる。鄴県という場所にいたからだろうか。袁紹も曹操も、鄴県にいることで北方の異民族と接点を持ち、軍隊を強化した。

汲桑は石勒に「石」姓を名乗らせた。公師籓は、郡県を攻陥させ、二千石・長史を殺した。轉前して、鄴県を攻めた。平昌公の司馬模は甚懼した。范陽王の司馬虓は、荀晞に鄴県を救わせる。廣平太守する譙國の丁紹とともに、公師籓を撃って走らす。

ぼくは思う。司馬模とか司馬虓とか、「八王」に含めてもらえない皇族が、陰影の部分を作って、ふちどっている。彼らにも目を向けるべきだが、ぐちゃぐちゃになるな。


8月、

八月,辛丑,大赦。

8月の辛丑、大赦した。

司空越以琅邪王睿為平東將軍,監徐州諸軍事,留守下邳。睿請王導為司馬,委以軍事。越帥甲士三萬,西屯蕭縣,范陽王虓自許屯於滎陽。越承製以豫州刺史劉喬為冀州刺史,以范陽王虓領豫州刺史;喬以虓非天子命,發兵拒之。虓以劉琨為司馬,越以劉蕃為淮北護軍,劉輿為穎川太守。喬上尚書,列輿兄弟罪惡,因引兵攻許,遣其長子祐將兵拒越於蕭縣之靈壁,越兵不能進。東平王楙在兗州,徵求不已,郡縣不堪命。范陽王虓遣苟晞還兗州,徙楙都督青州。楙不受命,背山東諸侯,與劉喬合。

司空の司馬越は、琅邪王の司馬穎を平東將軍、監徐州諸軍事として、下邳を留守させる。司馬穎は王導を司馬にしたいと請い、軍事を委ねたい。

『考異』はいう。王導伝では、元帝は下邳に鎮して、王導を安東司馬にしたいと。ときに元帝は平東将軍であり、揚州に移った。ゆえに安東とするのだと。「安」と「平」がよく分からないので、『通鑑』は「司馬」とだけした。
ぼくは思う。三国末の名族が、それぞれの王を補佐している。瑯邪の王氏は、たまたま縁があった司馬睿が皇帝になったから、貴族となり栄えた。しかし、盧志とか陸機にもその資格があった。むしろ司馬穎のほうが、領地も人材も、胡族との接点においても、恵まれていた。八王の乱は、まずは司馬穎を主人公にまとめると、収拾がつくのかも。

司馬越は甲士3万を帥し、西して蕭縣に屯する。
范陽王の司馬虓は、許県より滎陽に屯する。司馬越は承制して、豫州刺史の劉喬を冀州刺史とした。范陽王の司馬虓は、豫州刺史を領した。劉喬は、司馬虓が天子の命でないで、發兵して拒んだ。司馬虓は、劉琨を司馬とした。司馬越は、劉蕃を淮北護軍として、劉輿を穎川太守とした。

劉輿と劉琨は、劉蕃の子である。ぼくは思う。この劉氏は、どういう家系だっけ。司馬虓と司馬越が取り合いをやっている。よほど重要なのだろう。

劉喬は尚書に上り、劉輿の兄弟の罪惡を列挙して、引兵して許昌を攻めた。

豫州刺史は、ときに項県にいる。

劉喬は、長子の劉祐に兵をつけ、司馬越を蕭縣の靈壁で拒ませた。司馬越は進めない。東平王の司馬楙は兗州にて、徵求してやまず。郡縣は命に堪えず。范陽王の司馬虓は、苟晞を兗州に還した。司馬楙を、都督青州にうつす。司馬楙は命を受けず。司馬楙は、山東の諸侯の背き、劉喬と合わさる。

司馬虓は荀晞を兗州刺史としたのは、上年にある。
ぼくは思う。司馬楙と司馬虓の位置が、わからなくなってきた。


太宰顒聞山東兵起,甚懼。以公師籓為成都王穎起兵,壬午,表穎為鎮軍大將軍、都督河北諸軍事,給兵千人;以盧志為魏郡太守,隨穎鎮鄴,欲以撫安之;又遣建武將軍呂朗屯洛陽。

太宰の司馬顒は、山東の兵起を聞き、甚懼した。公師籓が成都王の司馬穎のために起兵したので、9月の壬午、司馬穎を表して、鎮軍大將軍、都督河北諸軍事として、兵1千人を給う。盧志を魏郡太守として、司馬穎に隨えて鄴県に鎮させる。公師籓を撫安したい。司馬顒は、建武將軍の呂朗を洛陽に屯させる。

ぼくは思う。西晋の洛陽が匈奴に陥落されることは、ショックだが。それ以前に、だいぶ洛陽の放棄が行われていた。あくまで「皇帝の身体」が劫略されたことをショックとすべきなのだ。
ぼくは思う。のちに司馬睿が東晋の皇帝になるとき、鮮卑は「まだ晋家の天祚は終わってないから、支持しておこう。官職をもらおう」という。胡族は同じ思想の上で、内部から自立したのだ。
ぼくは思う。城壁と国境について。『進撃の巨人』は城壁を侵入する。城壁は国境の比喩にもなってる(1巻だけ立ち読みした)。西晋末を考えるとき、袁紹や曹操が胡族を移住させた政策により、中原に胡族が散在する。晋家の天命、官爵の授受、司馬睿の正統性につき、漢族ばりに議論を展開してから、胡族は自立する。明代に現在の形になったとされる「万里の長城」は、近代の国民国家の国境(ベルリンの壁とか)を、偶然にも比喩的に連想でき、『進撃の巨人』のモチーフも同じ線上にあるはず。だが西晋末、個別の城壁の攻防が散在こそするが、長城=国境の侵犯はない。むしろ足下から自壊。下克上の1パターン。実態を正しく捉えてイメージすることは、難しいなあ。


冬10月、

顒發詔,令東海王越等各就國,越等不從。會得劉喬上事,冬,十月,丙子,下詔稱:「劉輿迫脅范陽王虓,造構凶逆。其令鎮南大將軍劉弘、平南將軍彭城王釋、征東大將軍劉准,各勒所統,與劉喬並力;以張方為大都督,統精卒十萬,與呂朗共會許昌,誅輿兄弟。」釋,宣帝弟子穆王權之孫也。丁丑,顒使成都王穎領將軍樓褒等,前車騎將軍石超領北中郎將王闡等,據河橋,為劉喬繼援。進喬鎮東將軍,假節。

司馬顒は詔を発した。東海王の司馬越らは就國せよと。司馬越らは従わず。たまたま劉喬の上事を得た。

上事とは、司馬越の起兵と、劉喬が司馬越を防いだこと。

冬10月の丙子、下詔した。「劉輿は、范陽王虓を迫脅して、造構・凶逆した。劉輿は、鎮南大將軍の劉弘、平南將軍する彭城王の司馬釋、征東大將軍の劉准に、劉喬と力を合わさせた。張方は大都督となり、精卒10萬を統いて、呂朗とともに許昌で会し、劉輿の兄弟を誅せよ」と。

『帝紀』はいう。8月、車騎大将軍の劉宏は、平南将軍の司馬釈を宛県で逐ったと。劉弘伝と司馬釈伝には、どちらもない。劉弘伝は、ただ彭城(司馬釈)が東奔したことを、善くないという発言があるだけ。胡三省が按じるに、龍虎は晋室の純臣である。劉喬と司馬虓が対立すると、劉弘は文書で和解させた。司馬釈は王命を受けて宛県に鎮するのだから、劉弘がそれを逐うことなんてないはずだ。

司馬釋は、司馬懿の弟の子・穆王の司馬權の孫である。
10月の丁丑、司馬顒は、成都王の司馬穎に將軍の樓褒らを領させ、等,前車騎將軍の石超に北中郎將の王闡らを領させ、河橋に拠って、劉喬の継援とした。劉喬を鎮東將軍・假節に進めた。

劉弘遺喬及司空越書,欲使之解怨釋兵,同獎王室,皆不聽。弘又上表曰:「自頃兵戈紛亂,猜禍鋒生,疑隙構於群王,災難延於宗子。今夕為忠,明旦為逆,翩其反而,互為戎首。載籍以來,骨肉之禍未有如今者也,臣竊悲之!今邊陲無備豫之儲,中華有杼軸之困,而股肱之臣,不惟國體,職競尋常,自相楚剝。萬一四夷乘虛為變,此亦猛虎交斗自效於卞莊者矣。臣以為宜速發明詔詔越等,令兩釋猜嫌,各保分局。自今以後,其有不被詔書,擅興兵馬者,天下共伐之。」時太宰顒方拒關東,倚喬為助,不納其言。

劉弘は、劉喬と、司空の司馬越に文書をつかわし、解怨・釋兵して、王室を同獎させたい。どちらも聽かず。劉弘はまた上表した。仲直りしろよと。はぶく。

2711頁。胡三省は劉弘が、劉聡や石勒による禍いを、予知していたと考える。

弘又上表曰:「自頃兵戈紛亂,猜禍鋒生,疑隙構於群王,災難延於宗子。今夕為忠,明旦為逆,翩其反而,互為戎首。載籍以來,骨肉之禍未有如今者也ときに太宰の司馬顒は関東を拒み、劉喬を倚てて助とする。劉弘の言を納れず。

喬乘虛襲許,破之。劉琨將兵救許,不及,遂與兄輿及范陽王虓俱奔河北;琨父母為喬所執。劉弘以張方殘暴,知顒必敗,乃遣參軍劉盤為督護,帥諸軍受司空越節度。

劉喬は、虚に乗じて許昌を襲って破る。
劉琨は兵をひきい、許昌を救うが及ばず。ついに兄の劉輿と、司馬虓とともに、河北に奔った。劉琨の父母は、劉喬に執われた。

劉喬は、同じ劉姓をやっつけてる。出身地が違うのか。ややこしい。やめてほしい。
黄中通理を知っているか?劉廙、孫劉喬伝
『晋書』列32、西晋末に并州をキープした劉琨の兄弟

劉弘は、張方が殘暴なので、司馬顒が必敗すると知る。參軍の劉盤をつかわし、督護として、諸軍を帥いて、司空の司馬越の節度を受ける。

けだし行営の諸将(複数の軍営)を護する者を都護とする。督護は、一軍を督するにとどまる。ぼくは思う。「都」の字意から広げただけ。


時天下大亂,弘專督江、漢,威行南服。謀事有成者,則曰「某人之功」;如有負敗,則曰「老子之罪」。每有興發,手書守相,丁寧款密。所以人皆感悅,急赴之,鹹曰:「得劉公一紙書,賢於十部從事。」前廣漢太守辛冉說弘以從橫之事,弘怒,斬之。

ときに天下は大乱する。劉弘は、江漢を專督し、威は南服に行わる。謀事・有成したら「誰々の功」という。負敗したら劉弘は「私の罪だ」という。興發あるごとに、手ずから守相を書き、丁寧に款密する。人は感悅し、劉弘のために急赴する。みな「劉公の1紙書を得れば、十部從事より賢し」という。

州には部従事がある。管内の諸郡を部した。
ぼくは思う。部従事に取り締まってもらうよりも、劉弘の文書を裏づけにした方が、州内がうまく治まるのだと。

前の廣漢太守の辛冉は劉弘に、從橫之事を説く。劉弘は怒って、辛冉を斬った。

益州が李雄に破られると、辛冉は羅尚を去り、劉弘に従った。辛冉は、羅尚から劉弘に移ったが(二君に事えたが)誅殺をまぬがれた。まして横説したら、誅殺を免れるか。劉弘は忠純なんだから。


有星孛於北斗。平昌公模遣將軍宋冑趣河橋。

星孛が北斗にある。平昌公の司馬模は、將軍の宋冑を河橋にゆかす。

馬茂は、鄴県から宋冑を進兵させた。


11月、司馬顒が羊皇后を殺そうとする

十一月,立節將軍周權,詐被檄,自稱平西將軍,復立羊後。洛陽令何喬攻權,殺之,復廢羊後。太宰顒矯詔,以羊後屢為奸人所立,遣尚書田淑敕留台賜後死。詔書累至,司隸校尉劉暾等上奏,固執以為:「羊庶人門戶殘破,廢放空宮,門禁峻密,無緣得與奸人構亂。眾無愚智,皆謂其冤。今殺一枯窮之人,而令天下傷慘,何益於治!」顒怒,遣呂朗收暾。暾奔青州,依高密王略。然羊後亦以是得免。

11月、立節將軍の周權は、檄を被ったと詐り、自ら平西將軍を称して、復た羊皇后を立てた。洛陽令の何喬は、周権を殺して、また羊皇后を廃した。

詐りとは、司空の司馬越の檄をもらったというウソ。
ぼくは思う。羊皇后は、まじで往復する。

太宰の司馬顒は、矯詔して「羊皇后はしばしば奸人に立てられる。尚書の田淑に敕して、台に留めて、羊皇后に死を賜え」という。

ときに荀藩、劉トン、周馥は、留台に居る。

詔書は累ねて至るが、司隸校尉の劉暾ら上奏して、固執するらく。「羊庶人の門戶は殘破し、廢放・空宮する。門禁は峻密である。縁なく、奸人とともに構亂した。衆は愚智(の区別)なく、みな冤罪である。いま1つの枯窮の人(羊皇后)を殺せば、天下は傷慘となる。統治になんの益があるか」と。
司馬顒は怒り、呂朗に劉暾を收させた。劉暾は青州に奔った。劉暾は、高密王の司馬略に依る。

『考異』はいう。劉暾伝では、司馬顒は陳顔と呂朗に、騎5千をつけて、劉暾を収めさせたと。劉暾は匹夫である。5千もいらん。けだし呂朗は洛陽にいて、司馬顒が勅して、劉暾を捉えさせただけ。大げさ。

羊皇后は免れることができた。

このあと羊皇后は、さらわれて劉曜の皇后になる。ここで殺しとけば、「恵帝より劉曜のほうが、いい男」という話は出てこなかった。


12月、司馬虓と王浚が勝ち、司馬越に突騎を貸す

十二月,呂朗等東屯滎陽,成都王穎進據洛陽。

12月、呂朗らは東して滎陽に屯する。成都王の司馬穎は、進んで洛陽に拠る。

ぼくは思う。司馬穎はみごとに洛陽に返り咲く。司馬穎を基軸にすると、いろいろ描けそうで面白い。


劉琨說冀州刺史太原溫羨,使讓位於范陽王虓。虓領冀州,遣琨詣幽州乞師於王浚;浚以突騎資之,擊王闡於河上,殺之。琨遂與虓引兵濟河,斬石超於滎陽。劉喬自考城引退。虓遣琨及督護田徽東擊東平王楙於廩丘,楙走還國。琨、徽引兵東迎越,擊劉祐於譙;祐敗死,喬眾遂潰,喬奔平氏。司空越進屯陽武,王浚遣其將祁弘帥突騎鮮卑、烏桓為越先驅。

劉琨は、冀州刺史する太原の温羨に説き、范陽王の司馬虓に譲位せよという。

魏收はいう。袁紹と曹操が冀州牧となると、鄴県に治した。魏晋のとき、州治は信都である。

司馬虓は冀州を領した。劉琨を幽州に詣でさせ、王浚に乞師した。王浚は、突騎を以て資けとした。

突騎は天下の精兵である。劉邦をたすけた。光武帝は、漁陽と上谷の突騎で、河北を平らげた。
『考異』はいう。劉琨伝では、突騎8百を得るという。劉喬伝をみると、劉琨は突騎5千で、劉喬を攻めたとある。8百では少なすぎる。つぎの文に、東海汪の兵数を迎えたとあるが、これと混同されたか。

王闡を河上で撃って殺した。劉琨は、ついに司馬虓と引兵・濟河した。石超を滎陽で斬った。

ぼくは思う。石超は、メインのキャラっぽかったのに。残念です。

劉喬は、考城(陳留)より引退する。

郡名について、2713頁。

司馬虓は、劉琨と督護の田徽に東させ、東平王の司馬楙を廩丘(兗州の治所)に撃つ。司馬楙は走って国に還る。劉琨と田徽は、引兵・東して、司馬越を迎える。劉祐を譙県で撃つ。劉祐は敗死した。劉喬の衆は、ついに潰えた。劉喬は平氏に奔る。

『考異』はいう。『帝紀』によると、劉喬は南陽に奔ったと。だが南陽に平氏県はない。場所について、2714頁。どうにも決まらないらしい。

司空の司馬越は、陽武(河南)に進屯する。王浚は、將の祁弘に、突騎の鮮卑・烏桓を帥させ、司馬越の先駆とする。

ぼくは思う。幽州にいて、冀州にいる司馬穎に刃向かっていた王浚が、司馬越に起兵を貸し出した。べつに手を抜いているわけじゃないのに、情勢がまじ分からん。しかも次に、長江の話に飛ぶから、余計にわからん。


陳敏が揚州の名士を集め、劉弘が対抗する

初,陳敏既克石冰,自謂勇略無敵,有割據江東之志。其父怒曰:「滅我門者,必此兒也!」遂以憂卒。敏以喪去職。司空越起敏為右將軍、前鋒都督。越為劉祐所敗,敏請東歸收兵,遂據歷陽叛。吳王常侍甘卓,棄宮東歸,至歷陽,敏為子景娶卓女,使卓假稱皇太弟令,拜敏揚州刺史。敏使弟恢及別將錢端等南略江州,弟斌東略諸郡,江州刺史應邈、揚州刺史劉機、丹楊太守壬曠皆棄官走。

はじめ陳敏は(太安2年)石冰に克ち、みずから「勇略で無敵」という。江東に割據する志がある。陳敏の父は「我が門を滅するのは、こいつ」といい、憂卒した。陳敏は、喪で去職した。司空の司馬越は、陳敏を起して右將軍・前鋒都督とした。司馬越は、劉祐に敗れた。陳敏は、東歸・收兵したいという。ついに歷陽(九江)に拠って叛した。

ぼくは思う。陳敏は、司馬越にひっぱられ、司馬越を裏切って、自立することになった。みんな八王と接点があるのだ。

吳王常侍の甘卓は、棄宮・東歸した。

西晋の諸王の国には、大国には左右の常侍が1人ずつ。
『考異』はいう。甘卓伝で甘卓は、州の秀才にあがり、呉王の常侍となった。石冰を撃った功績で、と抵抗となった。司馬越に引かれて参軍となる。出て離狐令を補した。官職を棄てて東帰した。陳敏に遭遇したと。
陳敏伝はいう。呉王の常侍である甘卓は、、と。甘卓が常侍のままなら、石冰の討伐をやるまい。離狐令となり、応じずに(県令に着任せず)洛陽から陳敏のところに至ったのだ。陳敏伝にしたがう。

甘卓は、歷陽に至る。陳敏は、子の陳景に甘卓の娘を娶らせる。甘卓に皇太弟令を假稱させ、陳敏は揚州刺史を拝した。陳敏は、弟の陳恢および別將の錢端らに、南して江州を略させる。弟の陳斌に東して諸郡を略させる。江州刺史の応邈、揚州刺史の劉機、丹楊太守の壬曠は、みな官を棄てて走った。

ときに揚州刺史は、けだし丹陽太守とともに秣陵で治した。ぼくは思う。胡三省がこう推測するのは、揚州刺史と丹陽太守が、同時に逃げているからか。ひどい地方長官たちだ。こんなことで、東晋の受け皿になれるのだろうか。「江南に逃れる」は、決して予定調和でなく、わりに幸運である。


敏遂據有江東,以顧榮為右將軍,賀循為丹楊內史,周□為安豐太守,凡江東豪傑、名士,鹹加收禮,為將軍、郡守者四十餘人;或有老疾,就加秩命。循詐為狂疾,得免,乃以榮領丹楊內史。□亦稱疾,不之郡。敏疑諸名士終不為己用,欲盡誅之。榮說敏曰:「中國喪亂,胡夷內侮。觀今日之勢,不能復振,百姓將無遺種。江南雖經石冰之亂,人物尚全,榮常憂無孫、劉之主有以存之。今將軍神武不世,勳效已著,帶甲數萬,舳艫山積,若能委信君子,使各得盡懷,散蒂芥之嫌,塞讒諂之口,則上方數州,可傳檄而定;不然,終不濟也。」敏乃止。敏命僚佐推己為都督江東諸軍事、大司馬、楚公,加九錫,列上尚書,稱被中詔,自江入沔、漢,奉迎鑾駕。

陳敏は、ついに江東に拠る。顧榮を右將軍、賀循を丹楊内史、周玘を安豊太守とする。凡そ江東の豪傑と名士は、みな收禮を加える。將軍や郡守となる者は40余人。或者は老疾であるが、秩命を加えた。

ぼくは思う。東晋の前身みたいなものだ。

賀循は、詐って狂疾となり、免を得た。顧榮は(賀循のかわりに)丹楊內史を領した。周玘も稱疾して、安豊に着任せず。
陳敏は、名士を自分のために活用できないので、すべて殺そうとした。顧榮は陳敏に「やめとけ」といった。

顧榮の説得は、2715頁。情勢を語っており、胡注もある。

陳敏は、僚佐に命じて、みずから陳敏を、都督江東諸軍事・大司馬・楚公とし、九錫を加え、列は尚書の上とさせた。中詔を被ったと称した。長江より沔水や漢水に入り、鑾駕を奉迎した。

ぼくは思う。公爵である。王爵でない。わりに慎重だ。呉地の名士たちの顔色を窺っているのだろう。「名士による掣肘」というのは、ほんとうにあるのだろう。


太宰顒以張光為順陽太守,帥步騎五千詣荊州討敏。劉弘遣江夏太守陶侃、武陵太守苗光屯夏口,又遣南平太守汝南應詹督水軍以繼之。侃與敏同郡,又同歲舉吏。隨郡內史扈懷言於弘曰:「侃居大郡,統強兵,脫有異志,則荊州無東門矣!」弘曰:「侃之忠能,吾得之已久,必無是也。」侃聞之,遣子洪及兄子臻詣弘以自固,弘引為參軍,資而遣之。曰:「賢叔征行,君祖母年高,便可歸也。匹夫之交,尚不負心,況大丈夫乎!」

太宰の司馬顒は、張光を順陽太守(もと南陽)とした。步騎5千を帥いて、荊州に詣でて、陳敏を討つ。劉弘は、江夏太守の陶侃、武陵太守の苗光を夏口に屯させる。また南平太守する汝南の応詹に、水軍を督させて、継とする。
陶侃は陳敏と同郡であり、同年に吏に挙がる(京師に赴く)。
随郡(南陽)内史の扈懐は、劉弘にいう。「陶侃は大郡にいて、強兵を統する。(劉弘の指揮を)脱して異志がある。(陶侃が叛けば)荊州に東門がなくなってしまう」と。劉弘「陶侃の忠能を、私は久しく得てきた。必ず異志はない」と。
陶侃はこれを聞き、子の陶洪と、兄子の陶臻を劉弘に詣でさせ、自固した。劉弘はひいて(預けられた陶氏を)参軍として、物資を持たせてあげた。劉弘「賢叔(賢い叔父の陶侃)が征行する。きみの祖母は高齢である。すぐに帰りなさい。匹夫之交は、なお心に負かず。いわんや大丈夫(劉弘と陶侃の関係性)をや」と。

敏以陳恢為荊州刺史,寇武昌;弘加侃前鋒督護以御之。侃以運船為戰艦,或以為不可。侃曰:「用官船擊官賊,何為不可!」侃與恢戰,屢破之;又與皮初、張光、苗光共破錢端於長岐。

陳敏は、陳恢を荊州刺史として、武昌を寇させる。劉弘は、陶侃に前鋒督護を加えて、陳恢を御させる。陶侃は、運船を戰艦とする。或者が反対すると、陶侃はいう。「官船を用いて、官賊を撃つのだ。どうしてダメなことがあろう」と。陶侃は陳恢をしばしば破る。また陶侃は、皮初・張光・苗光とともに、錢端を長岐で破る。

張光伝によると、長岐の戦いは、張光が歩路に伏兵を設ける。苗光が水軍となり、沔水に船をかくす。長岐は、江夏郡の境界にある。


南陽太守衛展說弘曰:「張光,太宰腹心,公既與東海,宜斬光以明向背。」弘曰:「宰輔得失,豈張光之罪!危人自安,君子弗為也。」乃表光殊勳,乞加遷擢。

南陽太守の衛展は、劉弘に説く。衛展「張光は、太宰(司馬顒)の腹心である。あなたはすでに司馬越とともにある。張光を斬って、向背を明らかにしろ」と。劉弘「宰輔の得失は、張光の罪であろうか。人を危くして、自らは安じる。君子のすることでない」と。張光の殊勲を表して、遷擢を加えろと乞う。

ぼくは思う。なぜ史家は、劉弘に手厚いのだろうか。


是歲,離石大饑,漢王淵徙屯黎亭,就邸閣谷;留太尉宏守離石,使大司農卜豫運糧以給之。

この歳、離石は大饑である。漢王の劉淵は、徙って黎亭(上党)に屯する。邸に就き、穀を閣する。太尉の宏を留めて、離石を守らす。大司農の卜豫に、運糧させて供給する。131031

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306年、司馬穎と司馬顒が死に、恵帝も崩ず

春、司馬顒が張方を疑い、親友に殺させる

孝惠皇帝下光熙元年(丙寅,公元三零六年)
春,正月,戊子朔,日有食之。

春正月の戊子ついたち、日食あり。

初,太弟中庶子蘭陵繆播有寵於司空越;播從弟右衛率胤,太宰顒前妃之弟也。越之起兵,遣播、胤詣長安說顒,令奉帝還洛,約與顒分陝為伯。顒素信重播兄弟,即欲從之。張方自以罪重,恐為誅首,謂顒曰:「今據形勝之地,國富兵強,奉天子以號令,誰敢不從,奈何拱手受制於人!」顒乃止。及劉喬敗,顒懼,欲罷兵,與山東和解。恐張方不從,猶豫未決。

はじめ、太弟中庶子する蘭陵の繆播は、司馬越に寵される。繆播の從弟である右衛率の繆胤は、司馬鄴の前妃の弟である。司馬越が起兵すると、繆播と繆胤をつかわし、長安にゆき司馬顒を説かせた。「恵帝を奉じて洛陽に還れ」と。司馬顒と約して、分陝して伯とする。

周公と召公の故事だと、まえに胡三省がいっていた。

司馬顒は、もとより繆播の兄弟を信重する。すぐに従いたい。張方は自らの罪が重いから、

洛陽を剽掠し、天子を劫して西遷したことをいう。

誅首されるのを恐れて司馬顒にいう。「いま形勝之地(長安)に拠る。國富・兵強であり、天子を奉して號令する。誰が従わないものか。なぜ拱手して、人に受制されるか」と。司馬顒は止めた。
劉喬が敗れると、司馬顒は恐れて、罷兵して、山東と和解したい。張方が従わないことを恐れて、司馬顒は決められない。

ぼくは思う。劉喬が、司馬顒にとっては軍事的に頼りなのね。話を組み立てていかないと、この抄訳の小見出しすら、満足に立てられない。


方素與長安富人郅輔親善,以為帳下督。顒參軍河間畢垣,嘗為方所侮,因說顒曰:「張方久屯霸上,聞山東兵盛,盤桓不進,宜防其未萌。其親信郅輔縣具其謀。」繆播、繆胤復說顒:「宜急斬方以謝,山東可不勞而定。」顒使人召輔,垣迎說輔曰:「張方欲反,人謂卿知之。王若問卿,何辭以對?」輔驚曰:「實不聞方反,為之奈何?」垣曰:「王若問卿,但言爾爾;不然,必不免禍。」輔入,顒問之曰:「張方反,卿知之乎?」輔曰:「爾。」顒曰:「遣卿取之,可乎?」又曰:「爾。」顒於是使輔送書於方,因殺之。輔既暱於方,持刀而入,守閣者不疑。方火下發函,輔斬其頭。還報,顒以輔為安定太守。送方頭於司空越以請和;越不許。

張方は、長安の富人である郅輔と親善する。郅輔を帳下督とした。司馬顒の參軍する河間の畢垣は、かつて張方に侮られた。畢垣は司馬顒にいう。「張方は、久しく霸上に屯する。山東の兵が盛んと聞き、盤桓して(旋して)進まず。

司馬顒は張方をつかわし、呂朗とともに劉喬を許昌に攻めた。張方は覇上に屯して、いまだ進まず。(張方が戦わないうちに)劉喬は敗れた。

張方の未萌を防ぐべきだ。張方の親信たる郅輔は、智謀を具える」と。

ぼくは思う。張方をにくむ畢垣は、「じつは張方は司馬顒に協力しないどころか、司馬顒に敵対するかもよ」と言っている。司馬顒ならずとも、手下が強すぎれば警戒するのだ。「八王とそのトレーナー」は、両者の関係性が盛衰のキモになる。

繆播と繆胤もまた、司馬顒にいう。「急いで張方を斬って謝せよ。山東は労せずに定められる」と。
司馬顒は人をやって(張方を悪くいう)郅輔を召した。畢垣は郅輔にいう。「張方は反しそうだ。人はあなたがこれを知るという。もし司馬顒に問われたら、なんと答えるか」と。郅輔は驚いた。「じつは張方が反するとは聞かない。どうして畢垣は張方が反すると思うか」と。畢垣「司馬顒がもしきみに問うなら、ただ爾爾(如此如此=そうそう)とだけ言え。さもなくば、禍いを免れない」と。
郅輔は司馬顒の前に入った。司馬顒は郅輔に問う。「張方が反するというが、知っているか」と。郅輔「そうです」と。司馬顒「きみに張方を取らせたいが、できるか」と。郅輔「そうです」と。
ここにおいて司馬顒は、郅輔から張方に文書を送らせ、張方を殺そうとする。郅輔は張方と親しいから、持刀して入っても、守閣する者は疑わず。張方は、火下・發函した。郅輔は張方の頭を斬った。還って報せる。司馬顒は、郅輔を安定太守とした。張方の頭を司馬越に送り、請和した。司馬越は許さず。

えー。なんで司馬越は許してくれないの。


宋冑襲河橋,樓褒西走。平昌公模遣前鋒督護馮嵩會宋冑逼洛陽。成都王穎西奔長安,至華陰,聞顒已與山東和親,留不敢進。呂朗屯滎陽,劉琨以張方首示之,遂降。甲子,司空越遣祁弘、宋冑、司馬纂帥鮮卑西迎車駕,以周馥為司隸校尉、假節,都督諸軍,屯澠池。

宋冑は河橋を襲う。樓褒は西して走げた。平昌公の司馬模は、前鋒督護の馮嵩をつかわし、宋冑と会して洛陽に逼らす。成都王の司馬穎は、西して長安に奔り、華陰(弘農)に至る。司馬顒がすでに山東と和親したと聞き、留まり敢えて進まず。呂朗は滎陽に屯まる。劉琨は、張方の首を示して、ついに降る。
2月の甲子、司空の司馬越は、祁弘と宋冑をつかわす。司馬纂は、鮮卑を帥いて、西して車駕を迎える。周馥を司隸校尉・假節として、諸軍を都督させ、澠池に屯させる。

3月、王弥が青州で登場し、寧州刺史が没す

三月,惤令劉柏根反,眾以萬數,自稱惤公。王彌帥家僮從之,柏根以彌為長史,彌從父弟桑為東中郎將。柏根寇臨淄,青州都督高密王略使劉暾將兵拒之;暾兵敗,奔洛陽,略走保聊城。王浚遣將討柏根,斬之。王彌亡入長廣山為群盜。

3月、惤県(東莱)令の劉柏根が反した。衆は1万を数える。みずから「惤公」を称した。王彌は、家僮を帥いて従う。劉柏根は、王弥を長史とする。王弥の從父弟・王桑は東中郎將となる。劉柏根は臨淄を寇する。青州都督する高密王たる司馬略は、劉暾に拒ませる。劉暾の兵は敗れ、洛陽に奔る。司馬略は、走って聊城(東郡)を保つ。王浚は、将を使わし、劉柏根を斬った。王弥は長廣山(もと東莱)に亡入して、群盜となる。

ぼくは思う。王弥が登場したわりには、地味だった。


寧州頻歲饑疫,死者以十萬計。五苓夷強盛,州兵屢敗。吏民流入交州者甚眾,夷遂圍州城。李毅疾病,救援路絕,乃上疏言:「不能式遏寇虐,坐待殄斃。若不垂矜恤,乞降大使,及臣尚存,加臣重辟;若臣已死,陳屍為戮。」朝廷不報,積數年,子釗自洛往省之,未至,毅卒。毅女秀,明達有父風,眾推秀領寧州事。秀獎厲戰士,嬰城固守。城中糧盡,炙鼠拔草而食之。伺夷稍怠,輒出兵掩擊,破之。

寧州は、頻歲に饑疫である。死者は10万をかぞえる。五苓夷は(太安2年より)強盛であり、しばしば州兵は敗れた。吏民で交州に流入する者は、甚衆。夷はついに州城を囲む。李毅は疾病で、救援は路に絶える。上疏していう。「寇虐を式遏できない。坐して殄斃を待つ。若し矜恤を垂れ、大使を乞降して、私が生きれば、臣に重辟を加えてくれ。もし私が死ねば、屍を陳して戮される」と。朝廷は報せず、数年がたつ。
子の李釗は、洛陽より(寧州に)往て(父に)省ようとする。子が到着する前に、李毅は卒した。娘の李秀は、明達で父風あり。衆は李秀を推して、寧州事を領させる。李秀は、戰士を獎厲して、城を嬰して固守する。城中は糧が尽きた。鼠を炙り、草を拔いて食らう。夷の稍怠を伺い、輒ち出兵・掩擊して破る。

『考異』はいう。懐帝紀で、永嘉元年5月、建寧郡の夷は、寧州を攻め陥とした。死者は3千余人と。李雄載記はいう。南夷の李毅は、固守して降らず。李雄は建寧の夷をさそい、李毅を撃たせた。李毅は病卒した。城は陥ち、壮士3千余人を殺した。婦女1千余を成都に送ったと。王遜伝はいう。李毅が率すると、城中は娘を奉り、数年、固守したと。『華陽国志』は、李毅の卒した年月と、娘の李秀が守ったことがある。いまこれに従う。


范長生詣成都,成都王雄門迎,執版,拜為丞相,尊之曰范賢。

范長生は(青城山から)成都に詣でる。成都王の李雄は門迎した。版を執り、拝して丞相となる。尊んで「范賢」とよぶ。

ぼくは思う。あえて范長生が李雄に仕えた時期が、月単位で特定できるのだろうか。不思議な感じ。


夏4月、恵帝を洛陽に還し、司馬顒は長安のみ

夏,四月,己巳,司空越引兵屯溫。初,太宰顒以為張方死,東方兵必可解。既而東方兵聞方死,爭入關,顒悔之,乃斬郅輔,遣弘農太守彭隨、北地太守刁默將兵拒祁弘等於湖。五月,壬辰,弘等擊隨、默,大破之。遂西入關,又敗顒將馬瞻、郭偉於霸水,顒單馬逃入太白山。弘等入長安,所部鮮卑大掠,殺二萬餘人,百官奔散,入山中,拾橡實食之。己亥,弘等奉帝乘牛車東還。以太弟太保梁柳為鎮西將軍,守關中。六月,丙辰朔,帝至洛陽,復羊後。辛未,大赦,改元。

夏4月の己巳、司空の司馬越は、引兵して温県に屯する。
はじめ司馬顒は、張方が死んだので、東方の兵が必ず解けると思った。東方の兵は、張方の死を聞き、爭って入關する。司馬顒は悔いて、郅輔を斬った。弘農太守の彭隨、北地太守の刁黙をつかわし、祁弘らを湖県で拒んだ。
5月の壬辰、祁弘らは、彭隨と刁黙を大破した。ついに西して入関した。司馬顒の将・馬瞻と郭偉を、霸水で破る。司馬顒は、單馬で太白山(武功)に逃入した。祁弘らは長安に入った。部する鮮卑が大掠して、2万余人を殺した。百官は奔散し、山中に入る。橡實を拾って食した。5月の己亥、祁弘らは恵帝を奉じて、牛車に乗せて東還する。太弟太保の梁柳を鎮西將軍として、関中を守らせる。

胡三省はいう。古代において、貴者は牛車に乗る。漢武帝、漢霊帝など。2719頁。

6月の丙辰ついたち、恵帝は洛陽に至る。羊皇后を復した。

『考異』はいう。羊皇后伝では、張方の首は洛陽にいたり、即日に皇后の位に復したと。張方の首が伝えられて久しい。即日に復したのではない。『帝紀』にしたがう。

6月の辛未、大赦・改元した。

馬瞻等入長安,殺梁柳,與始平太守梁邁共迎太宰顒於南山。弘農太守裴廙、秦國內史賈龕、安定太守賈疋等起兵擊顒,斬馬瞻、梁邁。疋,詡之曾孫也。司空越遣督護麋晃將兵擊顒,至鄭,顒使平北將軍牽秀屯馮翊。顒長史楊騰,詐稱顒命,使秀罷兵,騰遂殺秀,關中皆服於越,顒保城而已。

馬瞻らは長安に入る。梁柳を殺した。始平太守の梁邁とともに、司馬顒を南山に迎えた。

始平郡について、2720頁。

弘農太守の裴廙、秦國內史の賈龕、安定太守の賈疋らは、起兵して司馬顒を撃つ。馬瞻と梁邁を斬った。賈疋は、賈詡の曽孫である。

恵帝が即位すると、扶風を秦国と改め、司馬カンを秦王とした。

司空の司馬越は、督護の麋晃をつかわし、司馬顒を撃たせる。鄭県にいたる。

『考異』はいう。牽秀伝では、司馬顒はひそかに司馬越に迎えてくれと求めた。司馬越は麋晃をつかわし、司馬顒を迎えた。

司馬顒は、平北將軍の牽秀を馮翊に屯させる。司馬顒の長史の楊騰は、司馬顒の命令だと詐り、牽秀に罷兵させた。馬瞻はついに牽秀を殺した。関中はみな司馬越に服した。司馬顒は(長安)城を保つのみ。

ぼくは思う。長安城を保つだけの「衰退して惨めな」皇族は、のちの西晋の愍帝と同じである。


成都王雄即皇帝位,大赦,改元曰晏平,國號大成。追尊父特曰景皇帝,廟號始祖;尊王太后曰皇太后。以范長生為天地太師;復其部曲,皆不豫徵稅。諸將恃恩,互爭班位,尚書令閻式上疏,請考漢、晉故事,立百官制度,從之。

成都王の李雄は皇帝に即位して、大赦して「晏平」と改元した。国號を「大成」とする。

即位の時期について、史料で食い違う。即位こそ、もっとも分かりやすそうなものだが、なぜズレるのか。年号もズレているらしい。国号も史料ごとに異なると。どういう種類の不備なんだろ。

范長生を天地太師として、部曲を復する。

太師に天地の号をくっつける。南朝の侯景を怪しむに足りない。官号を私的に立てているのだ。 『華陽国志』はいう。范長生を尊び「四時八節天地太師」とした。しま『晋書』載記に従う。

徵稅を豫さず。諸將は恃恩し、互に班位を争う。尚書令の閻式は上疏して、漢晋の故事により、百官の制度を立てろという。李雄は従う。

ぼくは思う。また魏制が無視された。


秋、司馬穎が殺された

秋,七月,乙酉朔,日有食之。

秋7月の乙酉ついたち、日食あり。

八月,以司空越為太傅,錄尚書事;范陽王虓為司空,鎮鄴;平昌公模為鎮東大將軍,鎮許昌;王浚為驃騎大將軍、都督東夷、河北諸軍事,領幽州刺史。越以吏部郎穎川庚敳為軍諮祭酒,前太弟中庶子胡母輔之為從事中郎,黃門侍郎河南郭象為主簿,鴻臚丞阮修為行參軍,謝鯤為掾。輔之薦樂安光逸於越,越亦辟之。敳等皆尚虛玄,不以世務嬰心,縱酒放誕;敳殖貨無厭;象薄行,好招權;越皆以其名重於世,故辟之。

8月、司空の司馬越を太傅・錄尚書事とする。范陽王の司馬虓を司空とし、鄴県に鎮させる。

『考異』はいう。司馬虓伝では司徒とするが、『帝紀』に従う。

平昌公の司馬模を鎮東大將軍として、許昌に鎮させる。王浚を驃騎大將軍として、都督東夷・河北諸軍事とし、幽州刺史を領させる。

ここまでが恵帝の再末期の方鎮の編成である。
王浚は鮮卑・烏桓をたのみ、羽翼とした。ゆえに督「東夷」諸軍である。

司馬越は、吏部郎する穎川の庚敳を軍諮祭酒とした。前の太弟中庶子の胡母輔を從事中郎とする。黃門侍郎する河南の郭象を主簿とする。鴻臚丞の阮修を行參軍とする。謝鯤を掾とした。

参軍について、2721頁。

胡母輔は、樂安の光逸を司馬越に薦める。司馬越は光逸も辟した。庚敳らは、みな虛玄を尚び、世務に嬰心しない。縱酒・放誕する。庚敳は、殖貨して厭きない。郭象は薄行で、招權を好む。司馬越は、みな名が世に重いので、辟したのである。

胡三省はいう。史家は司馬越が辟して置いた者が、虚名ばかりで実用がないという。ぼくは思う。司馬越の政権のお手並み拝見である。まずは恵帝を殺すのだ。「名より実」を取っているように見えるのだが、気のせいかなあ。


祁弘之入關也,成都王穎自武關奔新野。會新城元公劉弘卒,司馬郭勱作亂,欲迎穎為主,治中順陽;郭舒奉弘子璠以討勱,斬之。詔南中郎將劉陶收穎。穎北渡河,奔朝歌,收故將士,得數百人,欲赴公師籓。九月,頓丘太守馮嵩執之,送鄴;范陽王虓不忍殺而幽之。公師籓自白馬南渡河,兗州刺史苟晞討斬之。

祁弘は関に入ると、成都王の司馬頴は、武関より新野(義陽)に奔る。ちょうど新城元公の劉弘が卒した。司馬の郭勱が作亂して、司馬穎を迎えて主とした。郭舒は、劉弘の子・劉璠を奉り、郭勲を斬った。詔して、南中郎將の劉陶に司馬穎を收めさせた。司馬穎は北して渡河して、朝歌に奔る。もとの將士を收め、数百人を得る。公師籓のところに赴きたい。
9月、頓丘太守の馮嵩が司馬穎を執えて、鄴県に送った。范陽王の司馬虓は、殺すに忍びず、幽した。公師籓は白馬より南して渡河した。兗州刺史の苟晞が、公師籓を討って斬った。

ぼくは思う。司馬虓は、司馬穎の最期を管理するのか!
荀晞は、せっかくの司馬穎が頼りにする将軍を斬る役回りである。


進東贏公騰爵為東燕王,平昌公模為南陽王。

東贏公の司馬騰を東燕王とする。平昌公の司馬模を南陽王とする。

ぼくは思う。司馬越に近いから、持ち上げられたのだろう。功績により爵位があがるという「普通のこと」が、わりと珍しい。


冬10月、劉輿が司馬穎を殺し、司馬越に重用さる

冬,十月,范陽王虓薨。長史劉輿以成都王穎素為鄴人所附,秘不發喪,偽令人為台使稱詔,夜,賜穎死,並殺其二子。穎官屬先皆逃散,惟盧志隨從,至死不怠,收而殯之。太傅越召志為軍諮祭酒。

冬10月、范陽王の司馬虓が薨じた。長史の劉輿は、成都王の司馬穎が鄴人に付されるので、秘して喪を発せず、詐って人を台使(司馬虓の使者)として、夜に司馬穎に死を賜った。2子も殺した。司馬穎の官属は、先にみな逃散した。ただ盧志だけが隨從した。死に至っても怠けず。司馬穎の死骸を收めて殯した。太傅の司馬越は、盧志を召して軍諮祭酒とした。

ぼくは思う。盧志というキャラがいるおかげで、司馬穎の人生に筋道がとおる。盧志が最期まで面倒を見てくれた。


越將召劉輿,或曰:「輿猶膩也,近則污人。」及至,越疏之。輿密視天下兵簿及倉庫、牛馬、器械、水陸之形,皆默識之。時軍國多事,每會議,自長史潘滔以下,莫知所對;輿應機辨畫,越傾膝酬接,即以為左長史,軍國之務,悉以委之。輿說越遣其弟琨鎮并州,以為北面之重;越表琨為并州刺史,以東燕王騰為車騎將軍、都督鄴城諸軍事,鎮鄴。

司馬越は劉輿を召そうとした。或者がいう。「劉輿は、なお膩(垢)である。近づけば人を汚す」と。劉輿が至ると、司馬越は劉輿を疏んじた。劉輿は、ひそかに天下の兵簿と倉庫、牛馬、器械、水陸の形をみて、黙って暗記した。
ときに軍國は多事であり、会議ごとに、長史の潘滔より以下、みな答えられない。劉輿は、機に應じて辨畫する。司馬越は膝を傾け、酬接した。劉輿を左長史とした。軍國之務は、すべて劉輿に委ねた。劉輿は司馬越に「弟の劉琨を并州に鎮させろ。北面之重となる」という。司馬越は表して、劉琨を并州刺史とした。

ぼくは思う。劉輿と劉琨の兄弟も、きちんと整理しないと。劉氏がおおくて、よく分からなくなる。

東燕王の司馬騰を車騎將軍とし、都督鄴城諸軍事させ、鄴県に鎮させる。

11月、羊皇后が司馬覃を立て、太后になりたい

十一月,己巳,夜,帝食餅中毒,庚午,崩於顯陽殿。羊後自以於太弟熾為嫂,恐不得為太后,將立清河王覃。侍中華混諫曰:「太弟在東宮已久,民望素定,今日寧可易乎!」即露版馳告太傅越,召太弟入宮。後已召覃至尚書閣,疑變,托疾而返。癸酉,太弟即皇帝位,大赦,尊皇后曰惠皇后,居弘訓宮;追尊母王才人曰皇太后;立妃梁氏為皇后。

11月の己巳の夜、恵帝は、食餅して毒にあたる。11月の庚午、顯陽殿で奉じた。

恵帝が食べたものにつき、2723頁。48歳だった。
ぼくは思う。恵帝が生まれたのは、259年。曹髦が死ぬのが260年だから、とても近い。存在感がないが、けっこう長い期間を生きていて、いろいろ見聞きはしてきたみたい。

羊皇后は、自らが太弟の司馬熾の嫂(兄嫁)なので、太后になれないと恐れた。清河王の司馬覃を立てそう。侍中の華混は諫めた。「太弟は東宮にいて久しい。民望は定まってる。今日、なぜ変えて良いものか」と。
華混は露版して、太傅の司馬越に馳告した。太弟を召して入宮させた。羊皇后は、すでに司馬覃を召して、尚書閣に至らせる。変を疑い、托疾させて返す。
11月の癸酉、太弟が皇帝に即位した。大赦した。羊皇后を恵皇后として、弘訓宮に居らせる。母の王才人を追尊して、皇太后とした。妃の梁氏を立てて皇后とした。

ぼくは思う。羊皇后は、皇太后になれなかった。


懷帝始遵舊制,於東堂聽政。每至宴會,輒與群官論眾務,考經籍。黃門侍郎傅宣歎曰:「今日復見武帝之世矣!」

懷帝は、始めは舊制を遵り(大極殿の)東堂において聽政した。宴會ごとに、群官と衆務を論じ、經籍を考した。黃門侍郎の傅宣は歎じた「今日、復た武帝之世を見られるとはなあ」と。131031

ぼくは思う。懐帝の善政に期待します。会社いかねば。


12月、司馬顒を殺し、并州の人口が冀州へ

十二月,壬午朔,日有食之。
太傅越以詔書征河間王顒為司徒,顒乃就征。南陽王模遣其將梁臣邀之於新安,車上扼殺之,並殺其三子。

12月の壬午ついたち、日有あり。
太傅の司馬越は、詔書で河間王の司馬顒を徵して司徒とする。司馬顒は徵に就いた。南陽王の司馬模は、將の梁臣に新安(弘農)で邀させ、車上で司馬顒を扼殺して、3子も殺した。

司馬模は司馬越の弟である。司馬顒の父子を殺して、司馬越の兄弟の患をなくした。だが石勒や趙染の禍(自分たち兄弟も殺される)を知らなかった。
『考異』はいう。『三十国春秋』と『晋春秋』は、司馬越が司馬顒を殺したとある。いま司馬顒伝に従い、司馬模とする。ぼくは思う。けっきょくは司馬越の差し金なんだろうけど。司馬模というキャラが導入できるので、「司馬越の話し相手」ができる。


辛丑,以中書監溫羨為左光祿大夫,領司徒;尚書左僕射王衍為司空。 己酉,葬惠帝於太陽陵。

12月の辛丑、中書監の温羨を左光祿大夫として、司徒を領させた。尚書左僕射の王衍を司空とした。
己酉、惠帝を太陽陵に葬った。

劉琨至上黨,東燕王騰即自井陘東下。時并州饑饉,數為胡寇所掠,郡縣莫能自保。州將田甄、甄弟蘭、任祉、祁濟、李惲、薄盛等及使民萬餘人,悉隨騰就谷冀州,號為「乞活」,所餘之戶不滿二萬,寇賊縱橫,道路斷塞。琨募兵上黨,得五百人,轉斗而前。至晉陽,府寺焚毀,邑野蕭條,琨撫循勞徠,流民稍集。

劉琨は上党に至り、東燕王の司馬騰は、井陘より東下した。ときに并州は饑饉である。しばしば胡族(劉淵の党)に寇掠された。郡県は自保できない。并州の將の田甄と、田甄の弟の田蘭、任祉、祁濟、李惲、薄盛らと民1万余人は、すべて司馬騰に従い、冀州の穀物を食べにゆく。「乞活」と号した。のこる戸は2万にに満たず。寇賊は縱橫して、道路は斷塞した。

ぼくは思う。もう并州を「匈奴に譲った」と同義である。州とは、けっきょくは人口のことなので。人口をまるごと冀州に遷してしまえば、并州は消滅するのだ。もともと曹操のときから人口が少なくて、5郡を1郡にくっつけたりしていた。

劉琨は上党で兵をつのり、5百人を得た。轉闘して前する。晉陽に至り、府寺(府舎)は焚毀し、邑野は蕭條たり。劉琨は、撫循・勞徠して、流民は稍よ集まる。131101

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307年、荀晞が河北を転戦、揚州で陳敏から司馬睿

春、「名士」顧栄が、陳敏を白羽扇で殺す

孝惠皇帝下永嘉元年(丁卯,公元三零七年)
春,正月,癸丑,大赦,改元。
吏部郎周穆,太傅越之姑子也,與其妹夫御史中丞諸葛玫說越曰:「主上之為太弟,張方意也。清河王本太子,公宜立之。」越不許。重言之,越怒,斬之。

春正月の癸丑、大赦・改元した。
吏部郎の周穆は、太傅の司馬越の姑子である。妹夫の御史中丞する諸葛玫とともに司馬越に説く。「主上(懐帝)が太弟となったのは、張方の意思だった。

成都王の司馬頴が廃され、河間王の司馬顒が、司馬熾を皇太弟とした。これを張方の意思というのだ。

清河王はもとは太子だった。清河王を皇帝に立てるべきだ」と。周穆と諸葛玫がなんども言うので、司馬越は怒って2人を斬った。

二月,王彌寇青、徐二州,自稱征東大將軍,攻殺二千石。太傅越以公車令東萊鞠羨為本郡太守,以討彌,彌擊殺之。

2月、王弥は、青州と徐州の2州を寇した。征東大將軍を自称して、二千石を攻殺した。太傅の司馬越は、公車令する東萊の鞠羨を東莱太守として、王弥を撃たせる。王弥は鞠羨を撃殺した。

『晋志』はいう。公車令は衛尉に属する。


陳敏刑政無章,不為英俊所附;子弟凶暴,所在為患;顧榮、周□等憂之。廬江內史華譚遺榮等書曰:「陳敏盜據吳、會,命危朝露。諸君或剖符名郡,或列為近臣,而更辱身奸人之朝,降節叛逆之黨,不亦羞乎!吳武烈父子皆以英傑之才,繼承大業。今以陳敏凶狡,七弟頑冗,欲躡桓王之高蹤,蹈大皇之絕軌,遠度諸賢,猶當未許也。皇輿東返,俊彥盈朝,將舉六師以清建業,諸賢何顏復見中州之士邪?」榮等素有圖敏之心,及得書,甚慚,密遣使報征東大將軍劉准,使發兵臨江。己為內應,剪髮為信。准遣揚州刺史劉機等出歷陽討敏。

陳敏の刑政は章らかでない。英俊が所附しない。子弟は凶暴で患われた。顧榮と周玘らは憂いた。廬江内史の華譚は、顧榮らに文書をやる。「陳敏を排除しろ。第二の孫呉にならない」と。顧榮も、陳敏を殺したいと思っていた。文書を受けとり、甚だ慚じた。ひそかに使者を征東大將軍の劉准にやり、兵を発して臨江させた。内応を、剪髮して証拠とした。劉准は、揚州刺史劉機らを歴陽に出して、陳敏を討つ。

敏使其弟廣武將軍昶將兵數萬屯烏江,歷陽太守宏屯牛渚。敏弟處知顧榮等有貳心,勸敏殺之,敏不從。

陳敏は、弟の廣武將軍の陳昶に、兵数万で烏江に屯させる。

将軍号と地名について、2725頁。

歷陽太守の宏は、牛渚に屯する。陳敏の弟・陳処は、顧榮らに二心があるのを知り、陳敏に「顧榮を殺せ」と勧めた。陳敏は従わず。

『考異』はいう。陳敏伝では、陳昶が顧榮を殺せと勧める。『晋春秋』によると、陳敏が死に臨み、陳処にいう。「私はきみに負いた(顧榮を殺しとけば良かったのにゴメン)」と。ときに陳昶は先に死んでいる。いま『晋春秋』に従い、陳処の台詞とする。
ぼくは思う。「名士」の面目躍如です。


昶司馬錢廣,周□同郡人也,□密使廣殺昶,因宣言州下已殺敏,敢動者誅三族。廣勒兵硃雀橋南;敏遣甘卓討廣,堅甲精兵盡委之。顧榮慮敏疑之,故往就敏。敏曰:「卿當四出鎮衛,豈得就我邪!」榮乃出,與周□共說甘卓曰:「若江東之事可濟,當共成之。然卿觀茲事勢,當有濟理不?敏既常才,政令反覆,計無所定,其子弟各已驕矜,其敗必矣。而吾等安然受其官祿,事敗之日,使江西諸軍函首送洛,題曰『逆賊顧榮、甘卓之首』,此萬世之辱也!」卓遂詐稱疾,迎女,斷橋,收船南岸,與□、榮及前松滋侯相丹楊紀瞻共攻敏。
敏自帥萬餘人討卓,軍人隔水語敏眾曰:「本所以戮力陳公者,正以顧丹楊、周安豐耳;今皆異矣,汝等何為!」敏眾狐疑未決,榮以白羽扇麾之,眾皆潰去。敏單騎北走,追獲之於江乘,歎曰:「諸人誤我,以至今日!」謂弟處曰:「我負卿,卿不負我!」遂斬敏於建業,夷三族。於是會稽等郡盡殺敏諸弟。

陳昶の司馬する錢廣は、周玘と同郡である。周玘はひそかに、銭広に陳昶を殺させたい。銭広は硃雀橋の南(建業の城南)にきた。陳敏は甘卓に銭広を討たせる。顧栄は、陳敏に疑われそうなので、陳敏のもとにいく。
陳敏「きみは四方の鎮衛を(私を討つために)動員しながら、なぜ私のもとにきたか」と。顧栄は退出して、周玘とともに甘卓にいう。「陳敏に味方するなよ」と。甘卓は詐って稱疾し、陳敏を見限る。周玘、顧栄、前の松滋(廬江)侯相した丹楊の紀瞻らとともに、陳敏を攻めた。
陳敏は1万余人で自ら甘卓を討つ。軍人は水を隔てて、陳敏の衆に語る。「もとより陳敏に戮力するのは、顧丹楊(丹陽太守の顧栄)、周安豊(安豊太守の周玘)である。どちらも陳敏につかない。(有力な味方を失って)お前らはどうするのか」と。陳敏の衆は、狐疑して決さず。周栄は、白羽で扇麾した。陳敏の衆は、みな潰去した。

ぼくは思う。「名士」の白い羽扇。孫呉の丞相・顧雍の孫は、顧栄である。顧栄は西晋末、呉地の反乱勢力の陳敏に加担したが、とちゅうで陳敏を見限った。陳敏の兵は、顧栄が敵に回ってしまったので戦意をそがれた。顧栄が白い羽扇をふると降伏した。顧栄は「軍師」諸葛亮より強いんじゃないか。

陳敏は單騎で北走した。江乘でつかまった。陳敏「諸人が私を誤らせ、今日に至った」と。弟の陳処にいう。「私はきみにそむいたが、きみは私にそむかなかった(顧栄を殺しておけば良かった)」と。陳敏は建業で斬られ、夷三族となる。ここにおいて会稽らの郡では、陳敏の諸弟を殺し尽くした。

3月、司馬越が顧栄を中央に引きずり出す

時平東將軍周馥代劉准鎮壽春。三月,己未朔,馥傳敏首至京師。詔征顧榮為侍中,紀瞻為尚書郎。太傅越辟周□為參軍,陸玩為手彖。玩,機之從弟也。榮等至徐州,聞北方愈亂,疑不進,越與徐州刺史裴盾書曰:「若榮等顧望,以軍禮發遣!」榮等懼,逃歸。盾,楷之兄子,越妃兄也。

ときに平東將軍の周馥は、劉准に代わって寿春に鎮する。
3月の己未ついたち、劉馥は陳敏の首を京師に伝える。詔して顧榮を徵して侍中とし、紀瞻を尚書郎とする。太傅の司馬越は、周玘を辟して參軍とする。陸玩を掾とする。陸玩は、陸機の從弟である。顧栄らは徐州にいたり、北方が愈亂と聞いて、疑って進まず。

ぼくは思う。在地(今回は呉地)の人を、中央に持ってくる。それをまた別の地方に動かす。この強制力が、王朝の権力そのものである。それ以上でも以下でもないと言えるほど。西晋では強制力が働かない。

司馬越は、徐州刺史の裴盾に文書を与えた。「もし顧栄らが顧望したら、軍禮で發遣しろ」と。顧栄らは懼れて逃歸した。裴盾は、裴楷の兄子であり、司馬越の妃兄だった。

ぼくは思う。司馬越のやり方が、ぼくが上で書いたばかりのことを裏づけた。


西陽夷寇江夏,太守楊鈱請督將議之。諸將爭獻方略,騎督硃伺獨不言。鈱曰:「硃將軍何以不言?」伺曰:「諸人以舌擊賊,伺惟以力耳。」鈱又問:「將軍前後擊賊,何以常勝?」伺曰:「兩敵共對,惟當忍之;彼不能忍,我能忍,是以勝耳。」鈱善之。

西陽夷が江夏を寇した。江夏太守の楊鈱は、督將に議させた。騎督の朱伺だけが何も言わない。楊鈱が聞くと、朱伺はいう。「諸人は舌で賊を撃つ。私は力で撃つのだが」と。朱伺に任せた。

西陽について、地理を2727頁。


詔追復楊太后尊號;丁卯,改葬之,謚曰武悼。
庚午,立清河王覃弟豫章王詮為皇太子。辛未,大赦。
帝親覽大政,留心庶事;太傅越不悅,固求出籓。庚辰,越出鎮許昌。

詔して楊太后の尊号をもどす。丁卯、改葬して「武悼」と諡する。
庚午、清河王覃の弟・豫章王の司馬詮を皇太子とする。辛未、大赦した。

ぼくは思う。なんで司馬覃じゃダメなんだっけ。司馬越が気に入らないからか。

懐帝が大政を親覽し、庶事に留心する。太傅の司馬越は悦ばず、固く出籓を求めた。庚辰、司馬越は許昌に出鎮した。

ぼくは思う。司馬越がふつうに競り負けた。
司馬越が繆播らに殺される張本であると。


以高密王略為征南大將軍,都督荊州諸軍事,鎮襄陽;南陽王模為征西大將軍,都督秦、雍、梁、益四州諸軍事,鎮長安;東燕王騰為新蔡王,都督司、冀二州諸軍事,仍鎮鄴。

高密王の司馬略は、征南大將軍・都督荊州諸軍事となり、襄陽に鎮する。南陽王の司馬模は、征西大將軍・都督秦雍梁益四州諸軍事となり、長安に鎮する。東燕王の司馬騰は新蔡王となり、都督司冀二州諸軍事となり、鄴県に鎮する。

司馬騰は、去年に并州から鄴県に移った。
ぼくは思う。ポスト八王の乱の、藩鎮の配置である。だが彼らが主役になって、構想をすることがない。まあ懐帝が名君っぽいので、その必要も機会もない。


夏、汲桑が司馬穎の棺を担ぎ、鄴県を焼く

公師籓既死,汲桑逃還苑中,更聚眾劫掠郡縣,自稱大將軍,聲言為成都王報仇;以石勒為前驅,所向輒克,署勒掃虜將軍,遂進攻鄴。時鄴中府庫空竭,而新蔡武哀王騰資用甚饒。騰性吝嗇,無所振惠,臨急,乃賜將士米各數升,帛各丈尺,以是人不為用。

公師籓が死んで、汲桑は苑中に逃還した。

[草+仕]平の牧苑である。汲桑はここにおいて起兵して、公師籓に赴いた。公師籓が死んだので、逃げ還った。

聚衆を更めて、郡県を劫掠して、大將軍を自称した。汲桑は「成都王の司馬穎の報仇のため」という。
石勒を前駆として、向かえば克つ。石勒を掃虜將軍として、ついに鄴県に進軍する。

ぼくは思う。石勒は「司馬穎の亡霊」として勝ち進んだ。

鄴中の府庫は空竭である。新蔡武哀王の司馬騰は、資用は甚だ饒たり。司馬騰の性は吝嗇で、振惠しない。急に臨み、將士に米を数升と帛を丈尺ずつ賜ったが(ケチりすぎて)使いものにならない。

夏,五月,桑大破魏郡太守馮嵩,長驅入鄴,騰輕騎出奔,為桑將李豐所殺。桑出成都王穎棺,載之車中,每事啟而後行。遂燒鄴宮,火旬日不滅;殺士民萬餘人,大掠而去。濟自延津,南擊兗州。太傅越大懼,使苟晞及將軍王贊等討之。

夏5月、汲桑は、魏郡太守の馮嵩を大破して、長驅して鄴に入る。司馬騰は、輕騎・出奔した。汲桑の將・李豊に殺された。汲桑は、成都王の司馬穎の棺を出し、車中に載せた。每事に棺に啓いてから後に行う。

司馬穎が死んだとき、盧志が収めてモガリしたが、いま汲桑が出したのだ。
ぼくは思う。政治「生命」の長さ。ふつうは生物学的「生命」のほうが、政治「生命」より長い。失脚して死ぬ場合も、政治「生命」が生物学的な「生命」を追い越すことはない。だが西晋末に汲桑(石勒の上官)は、成都王の司馬穎の棺を掘り出し、すべて棺に報告してから政策を実行した。政治「生命」のほうが長い。まあ実態は「汲桑が司馬穎を利用した」と言うべきだろうが。普通に論じても、おもしろくない。

ついに鄴宮を焼いた。火は旬日に滅さず。

袁紹が鄴県により、はじめて宮室を営んだ。曹操が増やして広げた。いま、袁紹と曹操からの宮室が焼けてしまった。

士民1万余人を殺し、大掠して去った。延津より黄河を渡り、南して兗州を撃つ。太傅の司馬越は大懼した。苟晞および將軍の王贊らに、汲桑を討たせる。

秦州流民鄧定、訇氐等據成固,寇掠漢中,梁州刺史張殷遣巴西太守張燕討之。鄧定等饑窘,詐降於燕,且賂之,燕為之緩師。定密遣訇氐求救於成,成主雄遣太尉離、司徒雲、司空璜將兵二萬救定。與燕戰,大破之,張殷及漢中太守杜孟治棄城走。積十餘日,離等引還,盡徙漢中民於蜀。漢中人句方、白落帥吏民還守南鄭。

秦州の流民である鄧定と訇氐らは、成固に拠って、漢中を寇掠した。梁州刺史の張殷は、巴西太守の張燕に流民を討たせた。流民の鄧定らは、饑窘して、張燕に詐降した。張燕は師を緩めた。鄧定は、訇氐を大成におくり、求救した。成主の李雄の援軍が、張燕を大破した。梁州刺史の張殷と漢中太守の杜孟治は、城を棄てて走った。漢中の民は蜀地に徙された。漢中の人・句方と白落は、吏民を帥いて、還って南鄭を守る。

梁州刺史と漢中太守は、どちらも南鄭で治した。


秋、荀晞が汲桑を逐い、司馬穎が建業に

石勒與苟晞等相持於平原、陽平間,數月,大小三十餘戰,互有勝負。秋,七月,己酉朔,太傅越屯官渡,為晞聲援。
己未,以琅邪王睿為安東將軍,都督揚州江南諸軍事,假節,鎮建業。

石勒と苟晞らは、平原と陽平の間で相持すること數月。大小の30余戦があるが、互いに勝負あり。秋7月の己酉ついたち、太傅の司馬越は、官渡に屯する。荀晞のために声援する。
7月の己未、琅邪王の司馬睿は、安東將軍・都督揚州江南諸軍事となる。假節して建業に鎮する。

ぼくは思う。司馬睿も、ポスト八王の、ちょっとスケールダウンした皇族たちが、再設置された一連で、揚州にいった。司馬炎と近い者がみんな殺しあったので、王爵をもらえる範囲がひろがった。
胡三省はいう。ときに周馥は寿春に鎮する。揚州の江北を督する。ゆえに司馬睿は江南を督する。ぼくは補う。孫呉の領域よりも、さらに狭そう。孫呉は、長江の北側にも広がっていた。
『考異』はいう。元帝紀によると、司馬越は下邳の兵をおさめ、司馬睿に揚州を督させた。司馬越は西して大駕を迎え、元帝を留めて居守させた。永嘉初、王導の計を用いて、はじめて建業に鎮したと。
揚州を都督するなら、下邳にいるのがおかしい。また懐帝紀では、明らかに「7月己未、司馬睿は揚州を督して、建業に鎮する」とある。いま懐帝紀に従う。


八月,己卯朔,苟晞擊汲桑於東武陽,大破之。桑退保清淵。
分荊州、江州八郡為湘州。

8月の己卯ついたち、苟晞は汲桑を東武陽で撃ち、大破した。汲桑は退き、清淵(魏郡)を保つ。

東武陽と清淵について、2729頁。

荊州と江州から8郡を分けて、湘州とする。

湘州の構成について、2729頁。
そろそろ妹の結婚式にいかねば。って、この注釈は日記か。


9月、王導と王敦が、司馬睿の名論を高める

九月,戊申,琅邪王睿至建業。睿以安東司馬王導為謀主,推心親信,每事咨焉。睿名論素輕,吳人不附,居久之,士大夫莫有至者,導患之。會睿出觀禊,導使睿乘肩輿,具威儀,導與諸名勝皆騎從,紀瞻、顧榮等見之驚異,相帥拜於道左。導因說睿曰:「顧榮、賀循,此土之望,宜引之以結人心。二子既至,則無不來矣。」睿乃使導躬造循、榮,二人皆應命而至。

9月の戊申、司馬睿が建業に至る。司馬睿は、安東司馬の王導を謀主とした。推心・親信して、すべて王導に咨った。司馬睿の名論は軽いので、呉人が付かず。久しく居ても、士大夫で司馬睿に(会いに来て)至る者がない。王導は患いた。
ちょうど司馬睿が觀禊に出た。

『漢儀』いわく、、『風俗通』いわく、、2730頁。

王導は司馬睿を肩輿に乗せて、威儀を具えさせた。王導とともに、名勝たちが騎從した。紀瞻と顧栄らは、これを見て驚異した。誘いあって道左で司馬睿に拝した。

ぼくは思う。王導は瑯邪の出身だから、江東においては「ソトモノ」なのね。そして在地の有力者は、紀瞻と顧栄だと。王導のこの演出は、司馬睿のためであると同時に、ソトモノである自分のためでもある。

王導は司馬睿にいう。「顧栄と賀循は、此土之望である。彼らを引き、人心を結べ。2人が至れば、来ない者はない」と。司馬睿は王導に、賀循と顧栄との接点をつくる。2人とも命に応じて至る。

『考異』はいう。王導伝によると、司馬睿が着任して1ヶ月余で、士庶がだれも来ない。従兄の王敦が来朝したので、王導はいう。「司馬睿は仁徳が厚いが、名論が軽い。王敦の威風で、支援してあげて」と。ちょうど3月上巳に観禊があり、王導と王敦が騎従した。
王敦伝はいう。司馬越が繆播を誅したのち、王敦は揚州刺史となる。のちに徴されて尚書を拝する。就かずと。
周玘伝はいう。銭カイは劉聡が洛陽に逼ると聞き、あえて進まずに謀反した。ときに王敦は尚書に遷り、銭カイとともに西した。銭カイが王敦を殺そうとしたので、王敦は司馬睿に奔って告げたと。
懐帝紀はいう。永嘉元年7月、司馬睿は建業に陳した。永嘉3年3月、繆播を殺した。永嘉4年2月、銭カイがそむいたと。
司馬光はいう。このとき司馬睿は建業にいて、すでに3年(永嘉元年から4年で)がたつ。なぜ王導伝のように「月余」なのか。また司馬睿の名論が軽くても、どうして数年も都督して、士庶がだれも来ないか。陳敏が江東を得ると、周玘や顧栄を用いて、人望をおさめた。王導が司馬睿を補佐して、どうして数年も経ってから、顧栄を勧めるか(陳敏の方法をマネれば、すぐに顧栄を誘うことは思いつくはずだ)。王導伝をベースにして、『通鑑』を書いてみた。
ぼくは思う。東晋の建国をドラマチックするために、「初めは司馬睿はショボかったが、王導さんの!おかげで!政権を樹立できた」という演出が過剰である。時系列とか、ことの軽重が分かりにくくなった。


以循為吳國內史;榮為軍司,加散騎常侍,凡軍府政事,皆與之謀議。又以紀瞻為軍祭酒,卞壺為從事中郎,周□為倉曹屬,琅邪劉超為舍人,張闓及魯國孔衍為參軍。壺,粹之子;闓,昭之曾孫也。王導說睿:「謙以接士,儉以足用,用清靜為政,撫綏新舊。」故江東歸心焉。睿初至,頗以酒廢事;導以為言。睿命酌,引觴覆之,於此遂絕。

賀循を吳國內史とする。顧栄を軍司とし、散騎常侍を加える。軍府の政事は、すべて賀循と顧栄とともに謀議する。紀瞻を軍祭酒とする。卞壺を從事中郎とする。周玘を倉曹屬とする。琅邪の劉超を舍人とする。張闓および魯國の孔衍を參軍とする。
卞壺は、卞粹の子である。張闓は、張昭の曽孫である。

卞粹のことは、恵帝の太安2年にある。張昭とは、あの張昭。

王導のアドバイスのおかげで、江東は心を帰した。
司馬睿が着任した直後、酒の失敗があった。王導が注意した。司馬睿は王導に酒を酌させ、引觴して酒を覆し、これっきり酒を絶った。

荀晞が石勒を破って兗州を固め、苛政する

苟晞追擊汲桑,破其八壘,死者萬餘人。桑與石勒收餘眾,將奔漢,冀州刺史譙國丁紹邀之於赤橋,又破之。桑奔馬牧,勒奔樂平。太傅越還許昌,加苟晞撫軍將軍、都督青、兗諸軍事,丁紹寧北將軍,監冀州諸軍事,皆假節。

苟晞は汲桑を追撃して、8塁をやぶる。死者は1万余。汲桑と石勒は、余衆を收め、漢に奔ろうとする。冀州刺史する譙國の丁紹は、赤橋で汲桑と石勒をふさぎ、破る。汲桑は馬牧に奔る。石勒は樂平(并州)に奔る。

ぼくは思う。晋軍が勝つことがあるのか。でも(司馬穎の残党から出発した)石勒が、劉淵と合体してしまう。詰めが甘かったというべきだ。西晋が滅びるカウントダウンが進んでいる。

司馬越は許昌に還る。苟晞に撫軍將軍・都督青兗諸軍事を加える。丁紹に寧北將軍・監冀州諸軍事を加える。荀晞と丁紹は、どちらも仮節。

晞屢破強寇,威名甚盛,善治繁劇,用法嚴峻。其從母依之,晞奉養甚厚。從母子求為將,晞不許,曰:「吾不以王法貸人,將無後悔邪!」固求之,晞乃以為督護;後犯法,晞杖節斬之,從母叩頭救之,不聽。既而素服哭之曰:「殺卿者,兗州刺史;哭弟者,苟道將也。」

荀晞は、しばしば強寇を破る。威名は甚だ盛ん。繁劇を善治する。用法は嚴峻である。荀晞の從母は、荀晞に養ってもらう。從母は「わが子を将にしてほしい」という。荀晞は許さない。荀晞「私は王法によって(職務権限に忠実に振る舞い)人に貸さない(実績以上の官職を与えない)。後悔しないために」と。従母がそれでも求めるので、従母の子を督護とした。のちに犯法したので、荀晞は節を杖いて、従母の子を斬る。従母が叩頭して救いたがるが、聴さず。荀晞は素服して哭した。「きみを殺すのは兗州刺史(として官職にある私)。弟のために哭くのは、苟道將(従母の子としての私)」と。

ぼくは思う。近代の「公私」の概念を単純に当てはめるべきでないが、なかなか面白い。
そして荀晞は、この時局を解決するための、ひとつの有力者である。兗州刺史として、戦績があり、執政もきっちり。司馬越とぶつかるから、最期は悪く書かれて、ぐちゃぐちゃになっちゃうが。


冬10月、石勒が胡族を集め、劉淵に帰させる

胡部大張C111督、馮莫突等,擁眾數千,壁於上黨,石勒往從之,因說C111督等曰:「劉單于舉兵擊晉,部大拒而不從,自度終能獨立乎?」曰:「不能。」勒曰:「然則安可不早有所屬!今部落皆已受單于賞募,往往聚議,欲叛部大而歸單于矣。」C111督等以為然。冬,十月,督等隨勒單騎歸漢,漢王淵署C111督為親漢王,莫突為都督部大,以勒為輔漢將軍、平晉王,以統之。

胡部の大張ハイ督と馮莫突らは、衆を数千ずつ擁する。上党に壁する。石勒がゆき、説得した。「劉淵は晋国を撃つ。劉淵に従わずに、独立できるか」と。胡部「できない」と。石勒「ならば早く劉淵に帰せよ」と。
冬10月、胡部らは劉淵に帰した。親漢王にしてもらった。石勒は、輔漢將軍・平晉王となり、胡部を統率する。

ぼくは思う。爵位の名に、雑号将軍のような職務の目的が入ってきた。晋国を平らげると。いや、たとえば「魏興郡」みたいに、スローガンを地名にして、そこに郡王を封じれば「魏興王」が誕生する。目標が爵号になっても、変じゃないのか。


烏桓張伏利度有眾二千,壁於樂平,淵屢招,不能致。勒偽獲罪於淵,往奔伏利度;伏利度喜,結為兄弟,使勒帥諸胡寇掠,所向無前,諸胡畏服。勒知眾心之附己,乃因會執伏利度,謂諸胡曰:「今起大事,我與伏利度誰堪為主?」諸胡鹹推勒。勒於是釋伏利度,帥其眾歸漢。淵加勒督山東征諸軍事,以伏利度之眾配之。

烏桓の張伏利度は、衆2千がいる。樂平に壁する。しばしば劉淵が招くが、致らない。石勒は詐って劉淵から罪を獲て、烏桓に奔るふりをする。烏桓は喜び、石勒と兄弟を結ぶ。石勒は(烏桓の一員として)勝ちまくり、諸胡は畏服した。石勒は己に心を付けてから、烏桓をまとめて劉淵に帰させる。
劉淵は石勒に、督山東征諸軍事を加える。烏桓の伏利度の衆を、石勒に配置する。

11月、和郁が冀州、司馬澄が荊州に鎮し、頼りない

十一月,戊申朔,日有食之。
甲寅,以尚書右僕射和郁為征北將軍,鎮鄴。

11月の戊申ついたち、日食あり。
甲寅、尚書右僕射の和郁を征北將軍として、鄴県に鎮させる。

この和郁が、こともあろうか鄴県を手軽に手放してしまうから、ガッカリなのだ。でも汲桑だかが、袁紹と曹操からの蓄積を焼き払った。もう鄴県に戦略的な価値はないのか。


乙亥,以王衍為司徒。衍說太傅越曰:「朝廷危亂,當賴方伯,宜得文武兼資以任之。」乃以弟澄為荊州都督,族弟敦為青州刺史,語之曰:「荊州有江、漢之固,青州有負海之險,卿二人在外而吾居中,足以為三窟矣。」澄至鎮,以郭舒為別駕,委以府事。澄日夜縱酒,不親庶務,雖寇戎交急,不以為懷。舒常切諫,以為宜愛民養兵,保全州境,澄不從。

11月の乙亥、王衍を司徒とする。王衍は司馬越にいう。「朝廷は危亂である。方伯を頼れ。文武を兼ね資える者を任じろ」と。司馬越の弟の司馬澄を荊州都督とする。族弟の司馬敦を青州刺史とする。

『考異』はいう。『晋春秋』によると、王衍は司馬越に、司馬澄と司馬敦を名指で推薦した。司馬越が従った。司馬澄と司馬敦は同時に発したので、司馬越がはなむけしたと。
司馬敦伝はいう。青州より入って中書監となる。司馬越が繆播を誅して後、はじめて司馬敦が揚州刺史となったと。繆播の死は永嘉3年3月である。この年(永嘉元年)司馬越は許昌にいて、洛陽にいない。ゆえに『晋春秋』でなく『晋書』に基づき、『通鑑』を書いた。
ぼくは思う。繆播の死ぬタイミングが、どうも史料のあいだで違い、混乱の原因になる。司馬睿のときも、繆播が死ぬタイミングのせいで「着任して3年たつのに、誰も会いに来ない」なんて不自然が起きた。

司馬越はいう。「荊州と青州は要地である。そこに司馬澄と司馬敦がいれば、”三窟”になるに足りる」と。

『戦国策』からの引用だが、彼らは役割を果たせなかった。司馬澄と司馬敦は魚肉となり、王衍もまた石勒に殺された。2732頁。

司馬澄は鎮府に至り、郭舒を別駕として、府事を委ねる。司馬澄は、日夜に縱酒して、庶務に親まず。寇戎が交急でも、気にしない。つねに郭舒が切諫するが、司馬澄は従わない。

司馬澄が荊州を保てなくなる張本である。
ぼくは思う。『通鑑』は王衍が、司馬澄を指名したとは書いてない。有能なやつを任命しろといい、かってに司馬越が身内を任じたという話になっている。こちらのほうが、真実味が増している。王衍が、わざわざ酒びたりの司馬越の近親を推薦する理由がない。
結果から遡り、史料のなかの台詞を整合的に書いてしまうと、なんだか実態から離れてしまう。司馬光がこれを匡正した。


12月、司馬越ば荀晞を兗州から青州にずらす

十二月,戊寅,乞活田甄、田蘭、薄盛等起兵,為新蔡王騰報仇,斬汲桑於樂陵。棄成都王穎棺於故井中,穎故臣收葬之。
甲午,以前太傅劉實為太尉,實以老固辭,不許。庚子,以光祿大夫高光為尚書令。
前北軍中候呂雍、度支校尉陳顏等,謀立清河王覃為太子;事覺,太傅越矯詔囚覃於金墉城。

12月の戊寅、乞活の田甄・田蘭・薄盛らは起兵した。新蔡王の司馬騰のために報仇する。汲桑を樂陵(平原)で斬った。

ぼくは思う。わりに司馬穎の視点からは、メインキャラであったはずの汲桑が、あっさり斬られてしまった。まあ鄴県を、司馬騰もろとも屠ったから、復讐をされても仕方ないか。

成都王の司馬穎の棺を、故い井中に棄てた。司馬穎の故臣は、棺を收めて葬った。
12月の甲午、前の太傅の劉実を太尉とした。劉実は老を以て故事した。許さず(太尉を拝させた)。12月の庚子,光祿大夫の高光を尚書令とする。
前の北軍中候の呂雍、度支校尉の陳顏らは、清河王の司馬覃を太子に立てようとした。発覚した。司馬越は、司馬覃を金墉城に囚えた。

初,太傅越與苟晞親善,引升堂,結為兄弟。司馬潘滔說越曰:「兗州衝要,魏武以之創業。苟晞有大志,非純臣也,久令處之,則患生心腹矣。若遷於青州,厚其名號,晞必悅。公自牧兗州,經緯諸夏,籓衛本朝,此所謂為之於未亂者也。」越以為然。癸卯,越自為丞相,領兗州牧,都督兗、豫、司、冀、幽、並諸軍事。以晞為征東大將軍、開府儀同三司,加侍中、假節、都督青州諸軍事,領青州刺史,封東平郡公。越、晞由是有隙。

はじめ司馬越と苟晞は親善である。引いて升堂させ、兄弟を結ぶ。司馬の潘滔は司馬越に説く。「兗州は衝要である。曹操が創業した。荀晞に大志があれば、純臣でなくなる。久しく荀晞を兗州に処させると、患は心腹に生じる。

ぼくは思う。曹操は兗州から始まったが、すぐに頴川(豫州)やら鄴県(冀州)やらに移動する。兗州そのものは、本拠地としては、あまり美味しくないのでは。

もし荀晞を青州に遷せば、名號は厚くなり、荀晞は必ず悅ぶ。

ぼくは思う。戦国斉があったからか。それとも、もっと遡って周公旦の国だからか。

司馬越はみずから兗州を牧し、諸夏を經緯して、本朝を籓衛しろ。これは『老子』のいう”未亂”である」と。

『老子』の周辺のテキストについて、2733頁。

司馬越は、潘滔に同意した。
12月の癸卯、司馬越はみずから丞相となり、兗州牧を領した。都督兗、豫、司、冀、幽、並諸軍事となる。

杜佑はいう。晋制で、司徒と丞相は職務が通じる。片方しか置かれない。永嘉元年(いまでしょ)はじめて両方が置かれた。王衍が司徒となり、司馬越が丞相となり、並立した。

荀晞を、征東大將軍・開府儀同三司とし、侍中を加え、假節、都督青州諸軍事とする。青州刺史を領させ、東平郡公に封じた。司馬越と荀晞は、これにより仲が悪くなった。

のちに荀晞が、司馬越の罪状について、馳檄する張本である。


晞至青州,以嚴刻立威,日行斬戮,州人胃之「屠伯」。頓丘太守魏植為流民所逼,眾五六萬,大掠兗州,晞出屯無鹽以討之。以弟純領青川,刑殺更甚於晞。晞討植,破之。

荀晞は青州に至り、嚴刻を以て立威する。日に斬戮を行う。青州の人は荀晞を「屠伯」とよぶ。

鄧展はいう。殺人するさまが、屠児が六畜するのに似ているから。「伯」とは長のこと。

頓丘太守の魏植は、流民に逼られ、衆5-6万で、兗州を大掠した。

ぼくは思う。荀晞を兗州からはずした瞬間に、反乱がおきて、けっきょく荀晞が討伐にする。司馬越が、無用の撹乱をしたとしか思えない。度量が小さいのだから、早く退場すればいいのに。

荀晞は無鹽(東平)に出屯して、魏植を討つ。弟の苟純に青州を領させた。苟純がやる刑殺は、荀晞よりもひどい。荀晞は魏植を破った。

寧州刺史が空席、拓跋猗廬と慕容廆が結ぶ

初,陽平劉靈,少貧賤,力制奔牛,走及奔馬,時人雖異之,莫能舉也。靈撫膺歎曰:「天乎,何當亂也!」及公師籓起,靈自稱將軍,寇掠趙、魏。會王彌為苟純所敗,靈亦為王贊所敗,遂俱遣使降漢。漢拜彌鎮東大將軍、青徐二州牧、都督緣海諸軍事,封東萊公;以靈為平北將軍。

はじめ、陽平の劉霊は、貧賤だが、力は奔牛を制し、走れば奔馬に及ぶが、挙げてもらえない。劉霊「天よ。乱を起こして」と。公師籓が起つと、劉霊は将軍を自称して、趙地や魏地を寇掠した。王弥が苟純に敗れると、劉霊も王贊に敗れた。使者をだし、劉淵に降った。劉淵は、王弥を鎮東大將軍・青徐2州牧、都督緣海諸軍事とした。東萊公に封じた。劉霊を平北將軍とした。

李釗至寧州,州人奉釗領州事。治中毛孟詣京師,求刺史,累上奏,不見省。孟曰:「君亡親喪,幽閉窮城,萬里訴哀,精誠無感,生不如死!」欲自刎,朝廷憐之,以魏興大守王遜為寧州刺史,仍詔交州出兵救李釗。交州刺史吾彥遣其子咨將兵救之。

李釗は寧州に至る。州人は李釗を奉り、領州事させる。

光煕元年、李毅が卒した。李釗はいま寧州に至る。

治中の毛孟は京師を詣でて「寧州刺史を任命して」と求めるが、返答なし。毛孟「君は亡び、親は喪す。窮城は幽閉され、萬里は訴哀する。もう死んだも同然」と。自刎しそう。朝廷は憐み、魏興大守の王遜を寧州刺史とした。

『考異』はいう。『華陽国志』は広漢太守の王遜が、寧州刺史になったとする。広漢はすでに李雄に陥落されているので(西晋に広漢太守がいないから)王遜伝に従い、もとの官職を魏興太守とする。

詔して交州から出兵して李釗を救えと。交州刺史の吾彦は、子の吾咨に救いにゆかせる。

慕容廆自稱鮮卑大單于。拓跋祿官卒,弟猗盧總攝三部,與廆通好。

慕容廆は、みずから「鮮卑大單于」を称した。拓跋祿官が卒した。弟の拓跋猗盧が、3部を総摂した。慕容廆と通好した。131102

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308年、王弥が洛陽に迫り、劉淵が皇帝となる

春、司馬越が司馬覃を殺す

孝惠皇帝下永嘉二年(戊辰,公元三零八年)
春,正月,丙午朔,日有食之。丁未,大赦。
漢王淵遣撫軍將軍聰等十將南據太行,輔漢將軍石勒等十將東下趙、魏。

春正月の丙午ついたち、日食あり。丁未、大赦した。
漢王の劉淵は、撫軍將軍の劉聡ら10将を南させ、太行に拠る。輔漢將軍の石勒ら10将は、東下して、趙地や魏地にゆく。

『考異』はいう。石勒載記によると、劉淵は劉聡に壺関を攻めさせ、石勒に7千をつけて前部都督とした。劉琨は、護軍の黄秀に壺関を救わせたが、石勒は黄秀を白田で殺した。ついに壺関が陥ちたと。ことは翌年にある。いまは『十六国春秋』に従う。


二月,辛卯,太傅越殺清河王覃。
庚子,石勒寇常山,王浚擊破之。

2月の辛卯、司馬越が清河王の司馬覃を殺した。
庚子、石勒が常山を寇したが、王浚が撃破した。

涼州刺史の張軌の後継問題

涼州刺史張軌病風,口不能言,使其子茂攝州事。隴西內史晉昌張越,涼州大族,欲逐軌而代之,與其兄酒泉太守鎮及西平太守曹祛,謀遣使詣長安告南陽王模,稱軌廢疾,請以秦州刺史賈龕代之。龕將受之,其兄讓龕曰:「張涼州一時名士,威著西州,汝何德以代之!」龕乃止。鎮、祛上疏,更請刺史,未報;遂移檄廢軌,以軍司杜耽攝州事,使耽表越為刺史。

涼州刺史の張軌は風を病み、口がきけない。子の張茂に州事を摂させる。隴西內史する晉昌の張越は、涼州の大族である。

恵帝は、敦煌と酒泉を分けて、晋昌郡をおく。

張越は、張軌を逐って代わりたい。兄の酒泉太守の張鎮と、西平太守の曹祛とともに、長安に使者をやる。南陽王の司馬模に「張軌は廃疾だから、秦州刺史の賈龕を代わりに涼州刺史にしてくれ」という。賈龕が受けようとしたが、その兄が譲した。「張涼は州一時の名士である。威は西州に著らか。賈龕は、なんの徳により、張茂の代わりができようか」と。賈龕は涼州刺史を受けない。

ぼくは思う。秦州刺史を務められる賈龕でも、涼州刺史はとてもムリ。「徳」が足りないと。涼州は難しいという認識が、共有されている。

張鎮と曹祛は上疏して「張軌の後任の刺史を任命してくれ」という。返事がない。ついに「張軌を廃そう」と移檄する。軍司の杜耽に州事を摂らせる。杜耽から司馬越に上表して「涼州刺史になりたい」といわせる。

ぼくは思う。これは西涼の「建国史」である。いつ自立するのか、見極めが大切です。「地方長官は世襲を許さない」というのが、郡県制の構造=根幹なのだ。


軌下教,欲避位,歸老宜陽。長史王融、參軍孟暢蹋折鎮檄,排閣入言曰:「晉室多故,明公撫寧西夏,張鎮兄弟敢肆凶逆,當鳴鼓誅之。」遂出,戒嚴。會軌長子實自京師還,乃以實為中督護,將兵討鎮。遣鎮甥太府主簿令狐亞先往說鎮,為陳利害,鎮流涕曰:「人誤我!」乃詣實歸罪。實南擊曹祛,走之。

張軌は下教して、避位して、宜陽に歸老したいという。

張軌はわかいとき、宜陽の女几山にいた。ゆえに宜陽に還りたい。

長史の王融と、參軍の孟暢は、張鎮の檄を蹋折して、排閣・入言する。「晉室は多故である。あなたは西夏(河西)を撫寧する。張鎮の兄弟は、敢肆・凶逆である。鳴鼓して張氏を誅すべき」と。ついに出て、戒嚴する。
張軌の長子・張実は、みずから京師に還る。張実は中督護となり、將兵して張鎮を討ちそう。張鎮の甥・太府主簿する令狐亞は、先にゆき張鎮に利害を説いた。張鎮は流涕して「人は私を誤らせた」という。

ぼくは思う。張軌を維持するのが正しく、張軌を排除するのが「誤りだ」と認識を改めたのだ。正しいかどうかは別として、そのような(結果からみると)正しい判断ができるだけの情報を得た。

張実を詣でて、罪に帰した。張実は南して曹祛を撃ち、走らす。

朝廷得鎮、祛疏,以侍中袁瑜為涼州刺史。治中楊澹馳詣長安,割耳盤上,訴軌之被誣。南陽王模表請停瑜,武威太守張琠亦上表留軌;詔依模所表,且命誅曹祛。軌於是命實帥步騎三萬討祛,斬之。張越奔鄴,涼州乃定。

朝廷は、張鎮と曹祛が疏なので、侍中の袁瑜を涼州刺史とした。治中の楊澹は、長安に馳詣し、耳を盤上に割き、「張軌は罪がないのに、誣られた」と訴えた。南陽王の司馬模は表して、袁瑜(の涼州の赴任)を停めた。武威太守の張琠もまた、上表して張軌を留めたい。
詔して、司馬模の上表にもとづき、曹祛を誅せと命じた。張軌は、張実に歩騎3万で、曹祛を討って斬らせた。張越は鄴県に奔った。涼州は乃ち定まった。

ぼくは思う。張軌に涼州を任せ続ける、ということで決着した。だが張軌の病気な治っていないので、本質的な解決はしていない。


三月,太傅越自許昌徙鎮鄄城。

3月、司馬越は許昌より移り、鄄城に鎮した。

夏、王弥が洛陽に迫るが、王斌と北宮純が守る

王彌收集亡散,兵復大振。分遣諸將攻掠青、徐、兗、豫四州,所過攻陷郡縣,多殺守令,有眾數萬;苟晞與之連戰,不能克。夏,四月,丁亥,彌入許昌。

王弥は、亡散を收集した。兵は復た大いに振う。諸將を分けて、青・徐・兗・豫の4州を攻掠させる。通過した郡県は攻陷され、多くの守令が殺された。王弥の衆は数万。苟晞は王弥と連戦するが勝てない。
夏4月の丁亥、王弥は許昌に入った。

太傅越遣司馬王斌帥甲士五千人入衛京師,張軌亦遣督護北宮純將兵衛京師。五月,彌入自轘轅,敗官軍於伊北,京師大震,宮城門晝閉。壬戌,彌至洛陽,屯於津陽門。詔以王衍都督征討諸軍事。甲子,衍與王斌等出戰,北宮純募勇士百餘人突陳,彌兵大敗。乙丑,彌燒建春門而東,衍遣左衛將軍王秉追之,戰於七里澗,又敗之。彌走渡河,與王桑自軹關如平陽。漢王淵遣侍中兼御史大夫郊迎,令曰:「孤親行將軍之館,拂席洗爵,敬待將軍。」及至,拜司隸校尉,加侍中、特進,以桑為散騎侍郎。

司馬越は、司馬の王斌に甲士5千を帥させ、入って京師を衛らせる。張軌もまた、督護の北宮純に兵をつけ京師を衛らせる。
5月、王弥は轘轅より入る。王弥は、官軍を伊水の北で破る。京師は大震した。宮城の門は昼から閉じた。壬戌、王弥は洛陽に至り、津陽門に屯した。

津陽門について、2737頁。

詔して、王衍を都督征討諸軍事とする。
甲子、王衍と王斌らは出戰する。北宮純は勇士1百余人をつのり、突陳する。王弥の兵は大敗した。乙丑、王弥は建春門を焼いて、東する。王衍は、左衛將軍の王秉に追わせ、七里澗で王弥をやぶる。

ぼくは思う。王弥はいちどは洛陽に来たのだが、ぶじに追い返した。もし洛陽が陥落していたら、ここで西晋は終わりだったのだが。あと5年ちょい、長らえるのだ。

王弥は走げて渡河した。王桑とともに、軹關(河内)より平陽にゆく。劉淵は、侍中兼御史大夫に、王弥を郊迎させる。劉淵は令した。「私が自ら将軍の館にいこう。私が席を拂い、爵を洗い、將軍(王弥)を敬待する」と。

ぼくは思う。劉淵の目標は、西晋をつぶすこと。だから、洛陽に逼った王弥を、逆「見せしめ」として大切にしている。「王弥の路線でいきたいのだ」とアピールしたのだ。

王弥は平陽に至り、司隸校尉を拝し、侍中・特進を加えられた。王桑を散騎侍郎とした。

北宮純等與漢劉聰戰於河東,敗之。
詔封張軌西平郡公,軌辭不受。時州郡之使,莫有至者,軌獨遣使貢獻,歲時不絕。

北宮純らは、劉聡と河東で戦い、これを敗る。
詔して、張軌を西平郡公に封じた。張軌は辞して受けず。ときに州郡之使で、皇帝に至る者はない。張軌だけが、項県の使者をだし、(張軌の出費のおかげで)歲時は絶えず。

ぼくは思う。のちに西涼が自立しても、張軌が謀反したのでない。むしろ西晋がかってに滅んで、中原から退場したから、地理において張軌が浮いてしまった。編纂者は、これを強調したいらしい。


秋、劉淵が河北に領土を拡大する

秋,七月,甲辰,漢王淵寇平陽,太守宋抽棄郡走,河東太守路述戰死;淵徙都蒲子。上郡鮮卑陸逐延、氐酋單征並降於漢。 八月,丁亥,太傅越自鄄城徙屯濮陽;未幾,又徙屯滎陽。

秋7月の甲辰、劉淵は平陽を寇した。平陽太守の宋抽は、郡を棄てて走げた。河東太守の路述は戦死した。劉淵は都を蒲子に徙した。

蒲子は、戦国晋の重耳が居た。漢代は河東、晋代は平陽である。
『考異』はいう。劉琨が司馬越府に応じた文書はいう。「劉淵は、私=劉琨によって、離間されることを恐れて、蒲子に移った」と。劉琨伝にもある。だが司馬光が考えるに、劉琨は弱くて、劉淵は強い。劉琨は自分のことを過大にアピっただけ。

上郡の鮮卑である陸逐延と、氐酋の單征は、劉淵に降った。

『考異』はいう。載記では、氐酋の大単于の「徴」とする。このとき戎狄の酋長には、みな「大」をつける。「徵」とは、光文単后の父である。「大単于」でなく「単(氏)」が正しい。

8月の丁亥、太傅の司馬越は、鄄城より移り濮陽に屯する。すぐに移って榮陽にゆく。

九月,漢王彌、石勒寇鄴,和郁棄城走。詔豫州刺史裴憲屯白馬以拒彌,車騎將軍王堪屯東燕以拒勒,平北將軍曹武屯大陽以備蒲子。憲,楷之子也。

9月、漢の王弥と石勒は、鄴県を寇した。和郁は鄴城を棄てて走げた。詔して豫州刺史の裴憲を白馬に屯させ、王弥を拒がせる。車騎將軍の王堪は東燕に屯して、石勒を拒ぐ。平北將軍の曹武は大陽に屯して、蒲子(劉淵)に備えた。裴憲は裴憲の子である。

裴憲は、武帝と恵帝につかえた。
東燕について、2738頁。


冬、劉淵が皇帝となる

冬,十月,甲戌,漢王淵即皇帝位,大赦,改元永鳳。十一月,以其子和為大將軍,聰為車騎大將軍,族子曜為龍驤大將軍。
壬寅,并州刺史劉琨使上黨太守劉惇帥鮮卑攻壺關,漢鎮東將軍綦毋達戰敗亡歸。
丙午,漢都督中外諸軍事、大司馬、領丞相右賢王宣卒。

冬10月の甲戌、漢王の劉淵が、皇帝に即位した。大赦して「永鳳」と改元した。
11月、子の劉和を大將軍、劉聡を車騎大將軍、族子の劉曜を龍驤大將軍とした。
11月の壬寅、并州刺史の劉琨は、上党太守の劉惇に鮮卑を帥させ、壺關を攻めた。漢の鎮東將軍の綦毋達は(西晋の上党太守に)戰敗して亡歸した。
丙午、漢の都督中外諸軍事・大司馬・領丞相右賢王の劉宣が卒した。

石勒、劉靈帥眾三萬寇魏郡、汲郡、頓丘,百姓望風降附者五十餘壘;皆假壘主將軍、都尉印綬,簡其強壯五萬為軍士,老弱安堵如故。己酉,勒執魏郡太守王粹於三台,殺之。

石勒と劉霊は、衆3万を帥して、魏郡、汲郡、頓丘を寇した。百姓のうち、石勒に望風・降附する者は50余塁。みな壘主・將軍・都尉の印綬を假る。強壯な者5万を簡して軍士とする。老弱の安堵はもとのまま。己酉、石勒は魏郡太守の王粹を三台で執えて殺した。

三台の注釈は、永嘉6年に胡三省がやる。


十二月,辛未朔,大赦。
乙亥,漢主淵以大將軍和為大司馬,封梁王;尚書令歡樂為大司徒,封陳留王;後父御史大夫呼延翼為大司空,封雁門郡公;宗室以親疏悉封郡縣王,異姓以功伐悉封郡縣公侯。

12月の辛未ついたち、大赦した。
乙亥、劉淵は、大將軍の劉和を大司馬とし、梁王に封じた。尚書令の歡樂を大司徒として、陳留王に封じた。皇后の父・御史大夫の呼延翼を大司空として、雁門郡公に封じた。宗室は親疏を以て、すべて郡縣の王に封じられる。異姓は功伐を以て、すべて郡縣の公侯に封じられる。

成尚書令楊褒卒。褒好直言,成主雄初得蜀,用度不足,諸將有以獻金銀得官者,褒諫曰:「陛下設官爵,當網羅天下英豪,何有以官買金邪!」雄謝之。雄嘗醉,推中書令杖太官令,褒進曰:「天子穆穆,諸侯皇皇。安有天子而為酗也!」雄慚而止。

成蜀の尚書令の楊褒が卒した。

『考異』はいう。載記では、丞相の楊褒とある。

楊褒は直言を好む。成主の李雄は蜀地を得たとき、用度が足らないので、諸將のうち金銀を献じた者に官職をあげた。楊褒は諫めた。「陛下が官爵を設けるなら、天下の英豪を網羅すべきだ。なぜ官職をカネで買わせるか」と。李雄は謝った。

ぼくは思う。君主になるとは、金銀ではなく官職によって、人間関係を構築すること。その集中と再分配の中心に、みずからを置くことである。

李雄が酔って、中書令を推し、太官令を杖うつ。楊褒は進んでいう。「天子は穆穆たれば、諸侯は皇皇たり。なぜ天子なのに酒乱をやるか」と。李雄は慚じて止めた。

『礼記』曲礼からの引用だそうだ。


成平寇將軍李鳳屯晉壽,屢寇漢中,漢中民東走荊沔。詔以張光為梁州刺史。荊州寇盜不禁,詔起劉璠為順陽刺史,江、漢間翕然歸之。

成蜀の平寇將軍の李鳳は、晉壽に屯して、しばしば漢中を寇する。漢中の民は、東して荊沔に走げる。

沔水は梁州から荊州に入る。その境界を荊沔という。

晋帝は詔して、張光を梁州刺史とした。
荊州の寇盜を禁じられない。詔して劉璠を起てて順陽刺史とした。,江漢の間は、翕然と劉璠に歸した。131102

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