-後漢 > 『後漢書』党錮伝に現れた范曄の思想と歴史観

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1.党錮伝は「つまらない」からおもしろい

いま(2013年5月)党錮伝がおもしろい。
厳密に言うと、つまらないから、おもしろい。

党錮伝のつまらなさを展開する

ぼくはずっと、党錮伝がつまらないと思っていた。厳密には、「なぜつまらないか、よく分からないから、気持ちが悪い」という、棚上げ状態になっていた。
なに言ってんねん、という感じなので補足します。
『後漢書』は、わりと楽しく読めるのだが、党錮伝だけは、なぜか「読めない」と感じてきた。へんなの。
例えるなら、自分がファンの映画監督のシリーズ作品があったとして、どれか1つの作品だけが、「異様におもしろくない」という気持ち悪さに似ている。このつまらない作品をキッカケに、監督に対する評価を落としてしまえれば、ラクである。自分のなかに不整合が残らないから。しかし、監督がわりと好きなままである。というわけで、つまらない理由を、自分のなかに見つけ出さねばならない。

党錮伝については、いちど目を通したことがある。
『後漢書』列伝57・党錮列伝を抄訳
しかし、あまりに粗雑すぎて(だって、つまらないんだもん)得るものが少なかった。というわけで、今回は、党錮伝の内容ではなく、その背景に透けて見える(はずの)范曄の思想と歴史観について、書きたいと思います。
というか、「范曄の思想と歴史観」というページのタイトルを、先につけてしまった。いまからぼくは、『後漢書』党錮伝を再読して、強引にでも、思想と歴史観を透けて見通さねばならない。范曄は、なににこだわって(なにを賭金にして)党錮伝を書いたのだろうか。
まさに、タイトルありき。見切り発車。しかし、何か見つけるに違いにないという確信があるから、こんなムチャをやるのです。

テーマが近接する記事としては、こんなの書きました。
吉川忠夫「『後漢書』解題」で剥がすニセ後漢史の仮面
3年半ぶりのアップデートです。

たまたま昨日『蒼天航路』の冒頭を読んだ。連載開始は19年前かあ。欲望の怪物「トン」とか、悪役の張譲と蹇碩とか。『後漢書』の歴史認識を忠実に継承してる印象。「正史準拠だから良い」とか「史料批判が不足」とかは言いません。連載初期の「不用意さ」もあるでしょう。少なくとも范曄の歴史観への理解が深まる。


にゃもさんのブログ記事

にゃもさんの記事を、抜粋して転載させていただきます。

(ここから引用です)
以前にひろおさんに教えていただいた話を、改めて自分用にまとめました。
尹勳は、党人番付「八顧」のひとりでして、このように『後漢書』党錮伝に列伝が載せられています。(引用者が史料を省略)ところが、同じく『後漢書』の劉瑜伝には、かかる文章が含まれています。(引用者が史料を省略)劉瑜伝の附伝という形でこちらにも尹勳の列伝があり、つまり『後漢書』の中で「尹勳伝」が重複している訳です。比較するに文辞はだいぶ違っていますし、「竇武の敗るるに及び、劉瑜・尹勳 並びに誅せらる。事は竇武傳に在り。」とあるように、この文章は明らかに党錮伝の存在を失念しています。
『後漢書』の一貫性が欠けていると言えましょう。
これで思い出されるのは、同じく党人番付「八俊」のひとり趙典の列伝であります。
以前に紹介した通り、趙典は『後漢書』巻二十七に独立した列伝を持ちながら、党錮伝の方では「唯だ趙典の名のみ見ゆるのみ(で事績は不明である)」と書かれており、ここでも『後漢書』と党錮伝とで矛盾が発生していました。
尹勳も趙典も、いずれも「党錮伝」と『後漢書』別箇所とで重複や矛盾が起こっている事例です。「党錮伝」が『後漢書』の整合性から外れて、浮いた印象を受けます。 (ここまで引用でした)

党錮に対する一点突破の問題関心

にゃもさんのブログを見てから、ぼくは連想しました。
『後漢書』党錮伝について、「整合性から外れて、浮いた印象」というのは、ほかにも掲載された場所について感じます。
たとえば、個人でなく、同類の人物群(循吏、酷吏、宦者等)の列伝は、『史記』『漢書』では個人のあとに載っています。しかし『後漢書』党錮伝は、列伝58郭泰~列伝65劉焉を飛び越えて、前に出ています。活躍時期に照らせば、党錮伝の位置が誤りとは言えませんが、『史記』『漢書』とは違います。党錮伝は別系統(范曄の師匠筋か、初期の范曄)で作られ、それに肉付けしたのが『後漢書』かも!

予想される反論とその回答。
循吏、酷吏、宦者などは、収録されている人物が、後漢代をつうじて、時期が散らかっている。だから、特定の場所に挿入することができなかった。だから末尾にあるのでは。という解釈&反論は成立するでしょう。党錮伝は、特定の時期にかたまっているから、人物の列伝のまんなかに、入れることができたと。
しかし、それなら「党錮伝」とまとめずに、姓を羅列すれば良いじゃないか。「党錮」というカテゴリに属する人間がいた!という、范曄の強烈な主張を、感じずにはいられない。
たとえば、
『三国志』巻18に「二李臧文呂許典二龐閻傳」という、長ったらしい名前の列伝がある。収録する人数が多すぎて、こうなった。党錮伝だって、これで良かった。むしろ、人物ごとに分解したほうが、巻数をかせげた。
そういうわけで、ぼくは、
『後漢書』党錮伝は、べつの編纂史料から合流したものだと思う。
「1件の編纂史料」という単位は、なかなか定義できない。いまだって、古典的な作家の長編は、出版社の都合によって、切れ目やまとめ方がかわる。全集をつくると、また単位がかわる。「1件」とは、なかなか把握しづらい。
ともあれ『後漢書』党錮伝は、なんだからべつの事情(執筆動機)をもって、范曄がつくったという気がする。事後的に、『後漢書』の一部に位置づけたが、どうしても糊しろが見えたままになってしまった。

ツイッター上で、連想をふくらました。
「注釈」という語に込められる思想と気迫について。
「20世紀の思想は、全てヘーゲルへの注釈」だそうだ。またぼくの三国志の一連の勉強は、袁術伝の注釈である。特に「オレは四世三公で強く、劉氏は弱いから、オレが皇帝になる」という袁術の台詞への注釈である。同じことが范曄の営みに関しても言えそう。
にゃもさんによると、『後漢書』党錮伝は「整合性から外れて、浮いた印象」。
ぼくは党錮伝が、別系統(例えば、范曄の師匠、范曄の父祖、もしくは初期の范曄)によって、作られたと感じる。
史家の素養ある范曄は、まず最も関心のある党錮伝を書き上げる。もしくは、師匠か父祖がまとめた党錮伝を目にする。つぎに范曄は、党錮伝への「注釈」として後漢の全体を描いた。
すなわち、党錮伝への説明として光武帝紀以下がある。党錮が発生した経緯を明らかにするために、光武帝紀を書き起こす。面倒くさいが、避けてとおることはできない。また、党錮の結果を明らかにするために、袁紹伝などを書いてやる。面倒くさいが、避けてとおることはできない。
もしくは、この面倒くささこそが、楽しい。

ぼくは、9年前に読んだ柴田錬三郎氏の『三国志/英雄ここにあり』は、冒頭の張飛の肉団子事件を除き、あとがきしか記憶にない。「出師の表の場面を書きたくて三国志を描いた」と。柴田氏にとって官渡も赤壁も、出師の表への「注釈」だったようだ。どれだけ長くて、どれだけ詳しくてもね。
こういう倒錯的な(興味をもったキッカケである「1」に取り組むため、イモヅル式に派生した「1000」に対処する)知的活動のありかたって、わりに「あり」なんだと思う。というか、人間の頭って、そういう構造になっているんじゃないか。一点突破型の関心の持ち方って、テーマを究めるための持久力を高めてくれそう。
20世紀の思想にとってのヘーゲル、ぼくにとっての袁術伝、柴田錬三郎氏のとっての出師の表が、范曄にとっての党錮伝なのだと思う(もちろん、これは仮説に過ぎません)。というわけで、『後漢書』党錮伝を読みます。

後漢を議論しなおす手がかり

後漢に対する時代認識は、おもに『後漢書』を経由して行われる。戦後の研究、たとえば清流と濁流とか、豪族と官僚とか、「名士」とか、おもに『後漢書』の上に築かれたものだ。
范曄がかけているメガネの色を言いあてることで、後漢の研究に、新たな道が見えないかなあと。そういう希望的観測があります。
局地的にいえば、後漢の人は、どういう時代認識があったから、袁術にNOを突きつけたのか。そこに尽きるのだけどw 130519

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2.党錮伝の序文;不可逆的な下降史観

范曄による通史;春秋戦国期

孔子曰:「性相近也,習相遠也。」言嗜惡之本同,而遷染之塗異也。[一]
注[一]嗜猶好也。惡音烏故反。言人好惡,各有本性,遷染者,由其所習。尚書曰:「唯人生厚,因物有遷。」墨子曰:「墨子見染絲者,泣而歎曰:『染於蒼則蒼,染於黃則黃,故染不可不慎也。非獨染絲然也,國亦有染。湯染於伊尹,故王天下;殷紂染於惡來,故國殘身死,為天下僇。』」

孔子はいう。先天的な性質は近いが、後天的な習慣により、人間は互いに遠いものになる。
注。『尚書』君陳はいう。人間は生まれつき敦厚であるが、外物の影響によって変遷すると。『墨子』所染はいう。糸を染色したら、その色になる。国も同じである。殷湯王は伊尹に染まり、天下の王となる。殷紂王は悪来に染まり、敗残した。

ぼくは思う。范曄は、成立したばかりの王朝(生まれたばかりの人間)には、とくに特徴がないという立場をとる。これは、王朝の成立に託して、「こんな素晴らしい王朝だぜ。なぜなら、こういう由来があってね」と雄弁に語る論調とは、立場が異なる。
すなわち范曄は、「光武帝は、とくに特徴がないよ」というのだ。「正史は自王朝の正統性を宣伝するために、勅命で編纂される」となるのは、もっと後の時代である。范曄の時点では、「南朝宋を正統化するために、後漢を語る」のではない。というか、あいだに魏晋がはさまっているから、とても南朝宋の説明にはなり得ない。
范曄は、後漢初期には、今日(南朝宋)につながる萌芽を見いださない。後漢の途中に、今日(南朝宋)につながる前提が誕生したという立場だろう。より具体的な起点を、党錮に求めるのだ。おそらく。
この思い入れは、まさに范曄の主張であり、おもしろい。ただし、なにかを主張すれば、当然ながらその分だけ「歪曲」される。不可避的なトレードオフだ。そのゆがみ方を計測してみよう、というのが今回の目標。
たとえば、日本史で「応仁の乱以前は、今日につながるところが少ない」という人は、応仁から戦国時代を、過度に重視して歴史をながめるだろう。鎌倉幕府は「無色の政権」と見なして無関心である。しかし江戸幕府の功罪については、おおくを語りたくて仕方がない。


夫刻意則行不肆,牽物則其志流。[二]是以聖人導人理性,裁抑宕佚,慎其所與,節其所偏,雖情品萬區,質文異數,至於陶物振俗,其道一也。[三]
注[二]刻意,刻削其意不得自恣也。莊子曰:「刻意尚行,離時異俗。」行音下孟反。肆猶族縱也。牽物謂為物所牽制,則其志流宕忘反也。淮南子曰:「非拘緊牽連於物,而不與推移也。」
注[三]陶謂陶治以成之。管子曰:「夫法之制人,猶陶之於埴,冶之於金也。」埴音植。

意志を制限して、ほしいままに行動しない。外物に制限されないと、意志は流れてしまう。ゆえに聖人は、放縦を抑制した。人間の性質は、質朴や文華など(の対立を含んで)多様だが、粘土におす金型のように、ガイドをつける方法は1つである。
注。『荘子』刻意、『淮南子』要略に共通した発想がある。

ぼくは思う。王朝を正しく維持するためには、欲望を抑制しなければならない。というのが、范曄の基本的な発想。おそらく、全員が主体的な意志をもって、教育を受けろとまではいってない。金型のように、外部から強制的にしばる。つまり、法の強制力、もしくは道徳的な環境のなかで、おのずと欲望が抑制されるように仕向ける。その「仕組みづくり」が重要だと。
范曄は、そんな発想で、党錮伝を書いているようです。わりに、バラバラと、いろんな古典を切り貼りしながら。


叔末澆訛,王道陵缺,[四]而猶假仁以效己,憑義以濟功。舉中於理,則強梁簡氣; 注[四]叔末猶季末也。謂當春秋之時。
注[五]褫猶奪也,音直紙反。□台,賤人也。齊侯伐楚,楚子使與師言曰:「君處北海,寡人南海,唯是風馬牛不相及也,不虞君之涉吾地也。何故?」管仲對曰:「爾貢苞茅不入,王祭不供,無以縮酒,寡人是征。」對曰:「貢之不入,寡君之罪也。」遂使屈完與齊盟於召陵。此強梁褫氣也。

叔末(末世=春秋時代)に王道はすたれたが、仁によって功をなした。挙動に理があれば、狂暴な者でも気をうばわれる。

ぼくは思う。史家が『春秋』を手本にして史書を書く弊害とは。春秋時代は「理想的な秩序が喪失した時代」である。各伝の注釈も、秩序の欠落の仕方に関する議論がおおい。結果、すべての史書が「理想的な秩序が喪失した時代」の書き方になる。党錮伝も『春秋』に基づいて書かれる。後漢の桓霊期が、東周みたいになるw

注。『左氏伝』僖公4年、楚成王が管仲に「斉国は北にあり、楚国は南にある。両国は関係ないから、ほっとけ」という。管仲はいう。「楚成王も、きちんと周国に朝貢しろよ。関係なくはないぞ」と。

ぼくは思う。秩序が乱れたなかでも、正論を述べれば、状況を切り開いてゆける。そういう理想論である。范曄は、楚成王のような悪者が、後漢をダメにしたという認識がある。楚成王〔052-097〕おぼえておきましょう。


片言違正,則□台解情。蓋前哲之遺塵,有足求者。[五]
又晉呂甥、卻苪將焚公宮而殺晉侯,寺人披請見,公使讓之,且辭曰:「汝為惠公來求殺余,命汝三宿,汝中宿而至。雖君有命,何其速也?」對曰:「臣謂君之入也,其知之矣。若猶未也,又將及難。君命無二,古之制也。除君之惡,唯力是視,蒲人狄人,余何有焉。今君即位,其無蒲、狄乎?」此為□台解情也。並見左傳。

わずかな発言でも不正であれば、賤人から見損なわれる。先哲の言行は(誤った強者に対抗し、正しい賎者に支持されるため)参考になるのだ。
注。『左氏伝』僖公24年、晋人の呂氏らが、晋文公=重耳を殺そうとした。重耳は呂氏をせめた。「私を殺害せよと命令が出ているのは分かった。だが殺害命令は、3日後だった。なぜ1日早く、私を殺しにきたのか」と。「あんた=晋文公が、君主の道を知らないからだ。君主の道を知らない者は、(君命と日程がズレてしまっても)できるだけ早く殺したい」と。刺客の呂氏は賤しい者だが、殺害の日程を早めた動機は、ごもっともである。

ぼくは思う。重耳のような、トータルでは名君とされる人物でも。わずかな瑕疵があれば、誰にでも暗殺する権利がある。たとえ君命に基づかなくても、暗殺する権利がある。きっと范曄は、これを言いたい。
これと同じ構造は「有名税」に見られる。つまり有名な人物は、わずかな失言でも許されない。有名な人物を仰ぎ見る人々(有名人に声援を送るが、じつは嫉妬深い人々)は、いくらでも揚げ足をとれる。しかし有名人は、立場があるので、揚げ足取りにたいしても、誠実に対応しなければならない。誠実に対応しなければ、さらなる批判を生んでも文句を言えないと。
ぼくは思う。范曄が重耳に重ねているのは、後漢の桓帝や霊帝だろう。つまり、桓帝や霊帝は、どれだけ善政(らしきもの)をやっても、ひとつでも瑕疵があれば、范曄から批判されねばならない。反論は許されない。范曄が正しい。という、不均衡な戦いである。政治的発言のゲリラ戦である。
まあね、『左氏伝』の故事は、晋文公を殺そうとした者に、ハナを持たせつつも、トータルでは、晋文公が名君です。晋文公はこの機会に殺されるのではない。范曄は、晋文公の全体の評価から目をつぶって、きわめて限定的な『左氏伝』逸話から、党錮伝の態度をふくらましたのだ。


霸德既衰,狙詐萌起。[一]強者以決勝為雄,弱者以詐劣受屈。至有畫半策而綰萬金,開一說而錫琛瑞。[二]或起徒步而仕執珪,解草衣以升卿相。[三]士之飾巧馳辯,以要能釣利者,不期而景從矣。[四]自是愛尚相奪,與時回變,其風不可留,其敝不能反。
[一]強者以決勝為雄,弱者以詐劣受屈。至有畫半策而綰萬金,開一說而錫琛瑞。
注[二]蘇秦說趙王,賜白壁百雙,黃金萬鎰。虞卿一見趙王,賜白璧一雙,黃金百鎰。見史記及戰國策。
注[三]史記曰,楚惠王言「莊舄,越之鄙細人也,今仕楚執珪,貴富矣」。解草衣謂范睢、蔡澤之類。注[四]韓子李斯曰「韓非飾辯詐謀,以釣利於秦」也。賈誼過秦曰「贏糧而景從」也。

覇徳が衰え(戦国時代となり)強者が弱者を屈服させた。
わずかな策略や発言で(『戦国策』で蘇秦は趙王から)膨大な報奨をもらう。ちょっと仕えるだけで(『史記』の范雎と蔡沢のように)宰相になれる。弁舌をふるい(『韓非子』『過秦論』の韓非子のように)利にむらがる。
時流のわるい方向への変化は、止められない。

ぼくは思う。范曄は「だんだん悪くなる」という下降の歴史観をもっていた。日本仏教の末法思想も、釈迦の入滅から、どんどん時間がたって、悪くなる一方だった。そして范曄は、南北朝時代にいたるまで、下降線をたどり、みずからを歴史に接続する。
たかが1列伝の導入なのに、通史を語ってしまう范曄。気合いの入り方がちがう。というか、テキストの由来がちがいそう。


范曄による通史;両漢期

及漢祖杖□,武夫□興,憲令寬賒,文禮簡闊,緒余四豪之烈,人懷陵上之心,輕死重氣,怨惠必讎,令行私庭,權移匹庶,任俠之方,成其俗矣。自武帝以後,崇尚儒學,懷經協術,所在霧會,至有石渠分爭之論,黨同伐異之說,守文之徒,盛於時矣。

漢高帝が武力討伐すると、法令はゆるい。儀礼はあらい。漢初には、四豪(戦国の四君=信陵君、平原君、春申君、孟嘗君)の風潮がのこっているので、独自の規則にもとづき、上下の秩序が転倒し、匹夫が権力をにぎる。

ぼくは思う。輝かしい漢家なのに、ちっとも褒められていない。むしろ、周家の衰退の延長にしか、位置づけられていない。

任侠=私的な信義(荀悦『漢紀』巻28)が主流である。
武帝期より以後、儒学を重んじるが、統一見解がない。石渠でも、論争ばかりである。「守文」と徒が、時勢にのる。王莽が簒奪したので、みな退官して、山谷で隠棲することを誇りとした。

ぼくは思う。武帝には、ちょっと肯定的かと思いきや、まったく周家の秩序を回復するには、いたらない。すると、あれか。党錮期は、春秋~両漢にわたり、すでに弱まっていた周家の理想が、決定的に破壊された時期という認識だろうか。


注[三]武帝詔求賢良,於是公孫弘、董仲舒等出焉。宣帝時,集諸儒於石渠閣,講論六蓺。召五經名儒太子蕭望之等大議殿中,平公羊、谷梁同異,同己者朋黨之,異己者攻伐之。劉歆書曰:「黨同門,妒道真。」

注。武帝は賢良を求めた。公孫弘、董仲舒がきた。宣帝期、石渠閣で儒者があつまる。『公羊伝』と『穀梁伝』の異同を議論した。意見がおなじ者を朋党として、意見がちがう者を攻伐する。

ぼくは思う。儒教は、范曄の文脈(とそれを注釈した李賢の解釈)において、周家の秩序を回復するものではない。儒家がどれだけ理想を語ろうが、周家の秩序を回復しない。党派を形成して、対立を助長するネタにすぎない。党派の形成とは、党錮につうじる。漢武帝による「儒教の国教化」は、ディスタンクシオンの呼び水にすぎない。
おお、悲観的に下降する歴史観である。

李賢注はいう。王莽をさけたのは、襲勝、薛方、郭欽、蔣詡らである。王莽に召されたが、応じなかった。

雖中興在運,漢德重開,而保身懷方,彌相慕襲,去就之節,重於時矣。

光武帝による中興があったが、みな保身ばかりに熱心で、去就の節度が重んじられた。

ぼくは思う。光武帝の中興は、周家の衰運を、回復させない。よくて現状維持、悪ければ更なる衰退。范曄の歴史観である。
ぼくは思う。『後漢書』のほかの類型の列伝(循吏伝など)は、たいていが後漢について語る。さかのぼっても前漢である。党錮伝のように「そもそも人間とは、孔子によると」という、肩肘の入り方をしていない。宦者列伝が、ちょっと『易経』を引きながら気合を入れるが、これは党錮のライバルだからか。宦者列伝ですら、党錮列伝ほどは膨らまない。党錮列伝だけで、すべての空間と時間を描ききる。すべてをダラダラ書くのではなく、党錮列伝に凝縮&象徴して表現する。そういう気負が感じられる。

李賢はいう。出処進退を重んじたのは、逢萌、嚴光、周黨、尚長である。『後漢書』列伝73 逸民伝にある。

ぼくは思う。後漢は、輝かしい王朝ではない。むしろ、周家の劣化コピーである後漢から、いかに距離をとるか。後漢に仕官しない逸民がほめられる。王莽を避けるように、後漢を避けることが、「是」とされている。そんな価値観の范曄がかいた『後漢書』なんて、信頼できるのかw


逮桓靈之閒,主荒政繆,國命委於閹寺,士子羞與為伍,故匹夫抗憤,處士橫議,遂乃激揚名聲,互相題拂,品核公卿,裁量執政,婞直之風,於斯行矣。

桓帝と霊帝のとき、皇帝は政治をあやまり、宦官に政治をゆだねた。士仁は、皇帝や宦官につるむことを恥じた。ゆえに匹夫は興奮して、処士はむちゃな議論をした。

『孟子』滕文公下はいう。諸侯は放恣なので、処士は横議したと。
【横】決まりにもとる。好きかってである。よこしまである。【横議】気ままに議論する。物議のこと。
ぼくは思う。これは悪い意味なのね!つい「党人は六朝貴族の祖先である。范曄は党人をほめて、宦官をけなした」だと思っていた。ちがう。范曄は党人にすら批判的である。不可逆的な歴史の下降線のなかの、1つの登場人物にすぎない。

名声をたかめあい、たがいに格付した。公卿を品定し、政策を論評した。まっすぐの気風が行われた。

【婞】まっすぐ。ケイ。
ぼくは思う。范曄から見ると、光武帝にケチがつくのだから、桓帝と霊帝は「話にならない暗君」である。宦官もダメ。ただし、宦官に阻害された士大夫も、ダメである。議論はムチャで、名声を高めるのは自分勝手である。政治家や政策に対するコメントも、つっぱしっている。


夫上好則下必甚,矯枉故直必過,其理然矣。[一]若范滂、張儉之徒,清心忌惡,終陷黨議,不其然乎?
注[一]禮記曰:「下之事上也,不從其所令,從其所行。上好是物,下必有甚者矣。」矯,正也。正枉必過其直,見孟子。

上位者が好めば、下位者は増幅してその風潮にしたがう。

『礼記』はいう。下位者は、上位者の命令でなく、上位者の行動にしたがう。上位者が好んだことは、下位者が増幅して、それにしたがう。

上位者がまがったことを正せば、下位者は過剰にまっすぐにする。范滂と張倹が、清すぎるので党議におちいったのは、これが原因である。

ぼくは思う。キッカケとなる范滂と張倹は、清すぎて、まっすぐ過ぎた。ゆえに、どんどん増幅されて、ひっこみがつかなくなった。党人もまた「やりすぎ」として、范曄に批判されている。
ぼくは思う。范曄ははじめに「人間は無色で生まれてきて、事後的に染まる」という話をしていた。初期条件(周家)は、バランスがとれていた。やがて、春秋戦国期をへて、両漢と王莽を通じて、よけいな色がつき過ぎてしまった。後漢もまた、汚染の過程にすぎない。過剰な着色により、毒々しいヴィヴィッドな色になったのが、党錮である。洗ってもおちない染料によって、人間が汚れていく過程。これが范曄の歴史観である。
ぼくは思う。光武帝紀より以下、載せるべき内容が多ければ、字数がふえるが、反比例して范曄の歴史観は見えなくなる。党錮列伝のように、ピュアで経験不足なときに書いたものが、范曄のはだかの発想を教えてくれる。


つぎから党錮列伝の内容がはじまる。130519

ツイッター用まとめ。ぼくはいう。
范曄は『後漢書』党錮伝で「そもそも人間とは!孔子によれば!」と根本的な議論から開始する。つぎに、春秋戦国からの通史を概観する。他の列伝で、これほど肩肘を張ったものはないはず。目次の構成のなかで、まったく浮いている。
若き范曄は、党錮の人々の運命に仮託して、人間それ自体を象徴的に叙述したかった。その肉付けが『後漢書』に結実した。そういう思想的な変遷があるのでは。「1人の思想家=歴史家の一生」としては、いい例だと思う。
范曄は「人間は無色で生まれ、事後的に染まる」という。人間史の初期(西周)は純白だった。春秋戦国と両漢を経て、人間は汚れた。後漢もまた汚染の過程。過剰な着色で、毒々しくヴィヴィッドに染まった結果が党錮である。落とせぬ染料で、不可逆に人間が汚れる。これが党錮伝に現れた范曄の歴史観。
范曄は、後漢王朝も党人もほめない。范曄は『後漢書』の編者のくせに、春秋戦国-前漢-王莽-後漢を、不可逆的な人間性の喪失の過程と見る。後漢を聖視しない。范曄は党人の後継者(南朝貴族)のくせに、後漢皇帝-宦官-党錮を同類としてそしる。けんか両成敗と言わんばかりである。党人は「横議」して極端に走った者。救いのない下降史観。党錮は、その下降がガクッとくる地点である。この地点を詳細に描くことで、范曄は自分の人間観=歴史観を、すべてこめた。

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3.三国志をおもしろくする范曄の読解

『後漢書』列伝57・党錮列伝を抄訳
から、原文と抄訳を持ってきて、ぼくなりの読解を追記。
まだ党錮列伝は本文に入らず、前振りがつづいている。

党錮は李膺がキッカケ

初,桓帝為蠡吾侯,受學于甘陵周福,及即帝位,擢福為尚書。時同郡河南尹房植有名當朝,鄉人為之謠曰:「天下規矩房伯武,因師獲印周仲進。」二家賓客,互相譏揣,遂各樹朋徒,漸成尤隙,由是甘陵有南北部,黨人之議,自此始矣。

桓帝が蠡吾侯のとき、甘陵の周福に学問を習う。桓帝が即位し、周福は尚書となる。同郡の河南尹する房植は、名声がある。郷人は謠言した。「天下の規矩たる、房植。桓帝の師ゆえに印綬を得た、周福」と。

ぼくは思う。かたや学問と、皇帝との人脈を強みにして。かたや名声を強みにして。同郡のライバルが競っている。おそらく両者は、社会的なリソースの総量が伯仲しているのだろう。だから、郷里で囃したてられる闘争を演じた。范曄は「学問は身を助ける」「皇帝との人脈は身を助ける」「名声は身を助ける」の、いずれも言っていない。おそらく「学問、人脈、名声などを武器する連中は、みんな最悪だよ!」と言いたいのだ。
ぼくは思う。范曄は、人間の先天的な性質は、みな似たり寄ったりとする。後天的な獲得により、競争の優劣が生じる。その優劣のことを、悪く言っていた。いま列伝に出てきた、周福も房植も、当初は(范曄ごのみの)ピュアな人物だったに違いない。しかし、なまじっか社会的なリソースを獲得したばかりに、醜悪な闘争を演じた。そういう話である。

房植と周福の賓客は、そしりあった。

ぼくは思う。生物学は、人間の種類としての進化と、個体としての成長が、かさなるという。つまり、受精卵として誕生したヒトは、魚類や両生類のような過程をへて、哺乳類になるのだと。
范曄の発想も、おそらくそれである。つまり、周室から下降する一方の中華の歴史と、純粋な子供から下降する一方のオトナの人生史を重ねている。前漢の儒学をキッカケにして、中華の人々は賢くなった。そのぶんだけ、賢しらに学問を競うようになった。さらに、後漢の中興をキッカケに、官職の制度などが整備された。官職をめぐって、社会的な威信を傾けるようになった。というか官職が、社会的な威信を傾けるべき、欲望の対象と見なされるようになった。
ぼくは思う。人間の思考パターンは、いくらかは類型化する。「知恵の実をかじったばかりに、知恵がついたが堕落した」というのは、聖書のお話。范曄から見れば、儒学という「勉強すると社会的威信を増せるもの」が確立し、官職という「社会的威信を表現したもの」が整備されたので、人間は醜悪な争いを演じるようになった。純白の糸でなく、また金型にハマる粘土ではなく。自覚的に血眼になってライバルと戦う存在になった。
周福と房植は、アダムとイブなのだ。おお!我ながら名言w

党派をつくる。ゆえに甘陵の南北は、対立した。

『資治通鑑』でも、時系列がいつと断定せず、書いてあった。象徴的なできごと。
ぼくは思う。范曄は、党派を組んだ党争に否定的である。
歴史学の用語もふくめて、混乱がある。というか、歴史学が、用語の混乱の解消に努めている。「党人」というのは、桓帝や霊帝に疎外された人々のみを指すのではない。言葉にさかのぼって、慎重に考え直したい。
混乱させた原因は、范曄にある。と、これを言いたい。
【党】集落の編成単位、5百戸。親族、姻戚=母党。ともがら、くみ、なかま=朋党。利害関係をともにした集団、それを悪くいう=徒党。ひいきする、かたよる、へつらう。さとらせる、わからせる。
【党錮の禍】桓帝のとき、李膺らが朋党を結び、宦官を攻撃した。宦官の恨みを買って、2百余人が終身官職をうしなった。また霊帝のとき、李膺が竇武らと宦官の殺害を計画し、1百余人が処刑された。
ぼくは思う。『漢辞海』では、つねに李膺が主語だった。李膺が主体的にうごき、宦官から報復されるという事件だった。「禍」というのだから、主語は李膺なのね。桓帝のとき禁錮、霊帝のとき殺害という、対句的なエスカレートである。

党人の議は、ここに始まった。

ぼくは思う。范曄が党錮列伝で言っているのは、『漢辞海』に現れた通史的な理解にもとづく、李膺らの事件ではない。原義どおり、党派をくんで、いがみあう人たちの話である。つまり、范曄は、
党錮列伝は、李膺の事件を描きたいのではない。李膺の事件は象徴的で目立つけれども、ワンオブゼムなのだ。後漢期に行われた、党派をくんだ争いについて描きたい。『後漢書』党錮列伝は、「人間とは、孔子いわく、」という壮大な思想の表明であった。若い書き手(きっとね)である范曄が、すべてを描ききった力作なのだ。その内容は、1つの列伝にとどまらない。おそらくは、范曄が全人格を投入した思想書を、『後漢書』に再利用したものだ。
范曄が伝えたいのは、列伝を立てられた人々の記録ではない(そんなの通常の列伝と同じじゃないか)。范曄が伝えたいのは、李膺の清廉さと、宦官の邪悪さでない(李膺の仲間たちだって、徒党と格付けを范曄に責められているじゃないか)。范曄が伝えたいのは、生まれたての、まっしろな周室の秩序である。もしくは周室の秩序がムリでも、教育や環境によって、なかば強制的に(そして強制されたことを意識しないで)人の道を踏み外さないことの素晴らしさである。


後汝南太守宗資任功曹範滂,南陽太守成瑨亦委功曹岑BF40,二郡又為謠曰:「汝南太守范孟博,南陽宗資主畫諾。南陽太守岑公孝,弘農成瑨但坐嘯。」

のちに汝南太守の宗資は、功曹の範滂を任じた。南陽太守の成瑨もまた、功曹の岑シツを任じた。2郡は謠言した。「汝南太守は范滂みたいなもの。南陽の宗資は、押印して書類に同意するだけ。南陽太守は岑公孝みたいなもの。弘農の成瑨は、すわってうそぶくだけ」と。

ぼくは思う。後漢は、儒学による人格の修錬を、官僚としての力量に取り込んだ。「儒教国家」としては完成されている。しかし范曄は、儒学の素養と、政治の力量が「両替可能な貨幣」として流通することを嫌っている。両替可能に流通すれば、当然ながら「少しでも多く貯めてやろう」という欲望がおこる。手持ちの貨幣をながめ、多い少ないを計量して、対抗意識がでてくる。范曄が理想とする、『後漢書』逸民伝の生き方から、離れてしまう。
ぼくは思う。范曄は後漢がにくいから(後漢の正統性を否定したいから)逸民伝の人々をほめるのではない。後漢がいかなる王朝であっても、党派をくんで、社会的リソースを投入して戦うことそのものに、うんざりしている。10円玉を10円の価値をもつ記号として使わずに、缶詰のフタを開ける人々に対して、好感を抱いている。ただし范曄は、10円玉を「なんの交換価値もないぞ。ただ使用価値しかないぞ」という種類の主張は持たない。交換価値をもった貨幣は必要だが、その運用はほどほどにね、カネに人生を買われないでね、と言っているのだろう。たぶん。
ぼくは思う。後漢末の社会を、社会関係資本が争奪する、ディスタンクシオン的な社会だと見なすのは、范曄のマジックに引っかかっている。というか范曄は、もう少しだけ屈節していて、「そういうディスタンクシオン的な社会は、良くないよ。ほら、こんなに醜悪じゃないか」という戒めをしているのだ。
ここから、2つに思考が分岐するだろう。
1つ、後漢後期を、ディスタンクシオン的な社会と見なす。たしかに范曄は賛同していないが、ともあれ後漢後期がディスタンクシオン的な社会であることには変わりが無いよね、と考える立場。
2つ、范曄は人間の劣化をディスタンクシオン的な闘争に託したけれど、それは范曄の人間観を投影した、過剰な脚色である。実際の後漢後期は、それほどディスタンクシオンしてないよと考える立場。
渡邉先生の「名士」論は、前者の立場に基づいていると思う。班固が描いたディスタンクシオンな世界を、『ディスタンクシオン』によって読み解いている。ぼくも『後漢書』を虚心坦懐によむと、ディスタンクシオン的な社会が立ち上がってくるのを見てしまう。だって范曄が、そのように描いているから。『後漢書』の基本的な態度が、分かりやすすぎるくらい明確に、党錮列伝の執筆態度として表明されている。しかし、それで良いのかな、と。2つめの立場の可能性を探らなくて良いのかなと。ちょっと考え込んでしまう。


因此流言轉入太學,諸生三萬余人,郭林宗、賈偉節為其冠,並與李膺、陳蕃、王暢更相褒重。學中語曰:「天下模楷李元禮,不畏強禦陳仲舉,天下俊秀王叔茂。」又渤海公族進階、扶風魏齊卿,並危言深論,不隱豪強。自公卿以下,莫不畏其貶議,屣履到門。

この流言は、太学にとどく。

ぼくは思う。なに、このザツな記述は。というか、事実としての前後関係ではなく、「行論の都合上、こう書いてみました」という性質の記述である。范曄は、まず甘陵を南北に分割した、バカバカしい議論を紹介した。南陽の「めくら印」太守を小馬鹿にした。甘陵と南陽の件は、スケールが小さいし、政治的な正邪や優劣が見えにくい。だから「甘陵のやつら、バカじゃないの」「南陽のやつら、視野がせまいなあ」と、みなが冷静に捉えることができる。
同じくらい「どっちもどっち」なのが、宦官と太学生の対立なんだと思う。
もし范曄が太学生をほめたければ、つまり「李膺は正義なのだ」と主張したければ、冒頭で、どうでも良い派閥の対立を持ってこないだろう。どうでも良い対立を導入において、議論を拡張しないだろう。范曄が、太学生の格付けや、仲間うちでのウヤウヤシサを詳述するほど、それはバカにして(さえ)いるのである。

諸生は3万余人。郭林宗、賈偉節がトップ。李膺、陳蕃、王暢も、重んじられた。太学の中で語られた。「天下の模楷は、李元禮。不畏強禦は、陳仲舉。天下の俊秀、王叔茂」と。
また渤海の公族進階、扶風の魏齊卿は、直言して、豪強から隠れない。公卿より以下は、けなされることを畏れた。名声ある人を、そそくさ訪問した。

ぼくは思う。やっぱり太学生に加担してないよね、范曄は。
思うに范曄は、政治闘争がきびしい南朝宋のなかで、「政治闘争に熱心なやつらって、迷惑だよね」と考えているのではないか。さすがに范曄は、じぶんが政治闘争に敗れて、悲惨な末路をたどるところまで、見通していない。しかし、「権謀術数を嬉嬉として分析し、実生活の参考とした」というタイプでないのは確かだ。両方の派閥を、わりに単純な二元論のなかに押し込めて、分かった気になる。「どっちもどっち」と総括することで、それ以上は考えるのをやめる。范曄は、ディスタンクシオンの内実に対して、ものぐさ(もしくは淡泊)である。
きっと范曄は、「政治闘争がきわまると、こんなに醜悪である」から「ああ、儒家が文化資本の管理者として君臨していない、春秋時代ってすばらしいな」と思っていたんだろう。古典中国に対する憧憬が、『後漢書』党錮列伝を通じて表明されているのだろう。
ぼくは思う。歴史を扱う態度は、「昔は良かった」「今が良いでしょ」「いつでも同じ」などのパターンに分類できるだろう。大まかに図形をかけば、こんなもんかな。范曄は「昔は良かった」である。


時,河內張成善說風角,推占當赦,遂教子殺人。李膺為河南尹,督促收捕,既而逢宥獲免,膺愈懷憤疾,竟案殺之。初,成以方伎交通宦官,帝亦頗誶其占。成弟子牢B13F因上書誣告膺等養太學遊士,交結諸郡生徒,更相驅馳,共為部黨,誹訕朝廷,疑亂風俗。於是天子震怒,班下郡國,逮捕黨人,佈告天下,使同忿疾,遂收執膺等。其辭所連及陳寔之徒二百餘人,或有逃遁不獲,皆懸金購募。使者四出,相望於道。明年,尚書霍諝、城門校尉竇武並表為請,帝意稍解,乃皆赦歸田裏,禁錮終身。而黨人之名,猶書王府。

ときに河内の張成は、よく風角を説く。張成は、恩赦があると占った。子に殺人させた。李膺は河南尹となり、張成を收捕したが、赦免された。李膺は怒り、張成を殺した。

これが、直接のキッカケです。
ぼくは思う。范曄は、李膺の正しさを主張したいのではない。「正しすぎる」ことも災難を招くと言いたいのだ。いったい誰が、『後漢書』は清流の正しさを称揚している、というデマ(ぼくに言わせれば、まさにデマ)を広めたのでしょう。ぼくが勝手に誤解しただけか。もしくは宮城谷『三国志』で、イメージを擦りこまれてしまったかw

はじめ張成は宦官と交通した。桓帝も、張成の占いを信じた。張成の弟子・牢修は、桓帝にむけて、李膺を誣告した。「李膺は、太学の遊士をやしなう。諸郡の生徒と交結し、部黨をつくる。朝廷を誹訕する」と。桓帝は震怒し、郡國に黨人を逮捕させた。李膺を收執した。陳寔ら200余人が、連座した。党人を逃がすまいと、金をバラまいた。四方の道で、党人を見張った。
翌年、尚書の霍諝、城門校尉の竇武は、桓帝にねがい、党人を赦してもらう。田里にかえり、禁固は終身。黨人の名は、王府のブラックリストに記されたまま。

(中略)中平元年,黃巾賊起,中常侍呂強言於帝曰:「黨錮久積,人情多怨。若久不赦宥,輕與張角合謀,為變滋大,悔之無救。」帝懼其言,乃大赦黨人,誅徙之家皆歸故郡。其後黃巾遂盛,朝野崩離,綱紀文章蕩然矣。

中平元年、黄巾。中常侍の呂強が霊帝に言った。「黨錮久積,人情多怨。若久不赦宥,輕與張角合謀,為變滋大,悔之無救。」と。党人を大赦した。誅徙された人の家族は、みな故郡に帰る。黄巾により、朝野は崩離した。

ぼくは思う。「党錮と黄巾は関係ないように見えて、じつは関連がふかい」と言えば、そこそこ事情通な感じがするのかな。でも范曄は、わりと直接的に党錮と黄巾を結んでいる。党錮と黄巾の関係がうすいと思うのなら、それは『後漢書』の誤読だ。農民による革命が、、とか、ぼくにはまったく利害関係がないイデオロギーで、目がくらんでいるのか。引用された上表文にも、また党錮をとく命令にも、党錮と黄巾の関係は明確に記されている。
ぼくは思う。范曄にとって黄巾もまた、悪しきディスタンクシオンの結果なんだろう。限られたリソースを血眼で奪い合っているから、その土台そのものが腐食しているよと。


凡党事始自甘陵、汝南,成于李膺、張儉,海內塗炭,二十餘年,諸所蔓衍,皆天下善士。三君、八俊等三十五人,其名跡存者,並載乎篇。陳蕃、竇武、王暢、劉表、度尚、郭林宗別有傳。荀翌附祖《淑傳》。張邈附《呂布傳》。胡母班附《袁紹傳》。王考字文祖,東平壽張人,冀州刺史;秦周字平王,陳留平丘人,北海相;蕃向字嘉景,魯國人,郎中;王璋字伯儀,東萊曲城人,少府卿:位行並不顯。翟超,山陽太守,事在《陳蕃傳》,字及郡縣未詳。朱,沛人,與杜密等俱死獄中。唯趙典名見而已。

党錮の事件は、甘陵、汝南から始まり、李膺、張儉の事件で成立した。海內の塗炭は、20余年だ。三君、八俊ら35人の行状を、記録しよう。陳蕃、竇武、王暢、劉表、度尚、郭林宗は、べつに列伝がある。荀昱は、荀淑伝につく。張邈は、呂布伝につく。胡母班は、袁紹伝につく。

ぼくは思う。編集がツギハギなのは、もともと党錮列伝が完結した思想書で、そこから各伝が自立して、巣立っていったからだろう。三君とか八俊とかは、范曄による「党錮に関する思想書」の目次のような役割だったのかも知れない。
ぼくは思う。いま省いたが、格付けの詳細と、その種類の多さについて、范曄が書いている。現代の専門書でも、党人たちの称号は、まとまりがなく、各地で言いたい放題で、恣意的にながれ、統一した勢力を築くには到らなかった、、という評価がされていたと思う。それもそのはず。范曄は「ちまちま格付けに熱中しているが、くだらなぬことだよ」というメタメッセージがこもっているのだ。闘争への熱中は、范曄が忌むところだから。

王考は、あざなを文祖という。東平の壽張の人だ。冀州刺史となる。秦周は、あざなを平王。陳留の平丘の人だ。北海相となる。蕃向は、あざなを嘉景という。魯國の人だ。郎中となる。王璋は、あざなを伯儀という。東萊の曲城の人だ。少府卿となる。官位と行状は、明らかでない。
翟超は、山陽太守となる。陳蕃伝につく。あざなと出身は未詳。朱ウは、沛の人。杜密らとともに獄死した。趙典は、名が見えるだけで、ほかは不明。

ぼくは思う。このような発想をもつ(とぼくが想定する)范曄による『後漢書』を、どのように読み解くべきか。やっと、本題を問わねばならない。
たとえば、戦争の悲惨さを訴えるために、非人道的でグロテスクな描写をたくさんした本があったとしよう。この本と付き合うとき、どんな態度をとるか。「戦争は、そこまで非人道的じゃないよ」と、割り引いてはいけない。少なくとも事実を記しているなら、否認することはできない。ぼくは「どんな戦争だって、わりに非人道的でグロテスクだ。珍しいことじゃない」という態度で読みたい。
范曄は、ディスタンクシオンにいそしむ人間の醜悪さを、嘆きながら記した。後漢の歴史を描くというのが、第一の目的ではない。范曄の人間観や思想を表明することが、第一の目的であった。党錮列伝は、范曄のおもう人間像を象徴化したものである。「ウソではないが、そこまで特異でもない」んだと思う。ほら、ハトは平和の象徴だけど、ハトばかりが平和じゃないでしょ。
ぼくは思う。政治的な闘争と、それにともなう腐敗と無念は、いくらでもあった。べつに春秋期にもあったし、魏晋期にもあった。ただし范曄は、後漢の後期を詳細に描くことで、「実証的に描き出す」ことに成功した。だからぼくらは、後漢の後期を、ディスタンクシオンが高まったと「錯覚」するのだ。
膨大な情報量のもと、通史を描くばかりが、歴史の叙述ではない。限られた地域をコッテリ描くという方法もある。石母田正『中世的世界の形成』とか。
つまりですよ。後漢の滅亡に向かうにあたって、『後漢書』が描くほどハッキリとした、党派や階層のあいだの闘争はなかった。すなわちね。これを言うとガッカリするけれど、後漢末は時代の転換点ではない。少なくとも『後漢書』から受ける印象ほどには、転換点ではない。「桓帝と霊帝のとき、いかにも社会の矛盾が吹き出して、革命せずには、いられなくなり、」という風潮は、『後漢書』が描くほど顕著ではなかったのだ。
ぼくは思う。もっと「仲良くけんかする」というか、「コップのなかの嵐」みたいな、後漢の後期像があっても良いんじゃないか。
これを発想すると、なにが嬉しいか。
二袁による190年代の対立、もしくは200年代の曹操による統一の失敗(赤壁)が、おおきな意味をもつ。つまり、まとまった秦漢帝国から、わかれた魏晋南北朝に移行した原因を、後漢の献帝期に求めざるを得なくなる。もちろん桓帝期や霊帝期に、過酷なディスタンクシオンによって、分裂時代への萌芽はあったかも知れない。しかし『後漢書』が言うほど、分裂を必然的にまねくほどの混乱はなかった。
よし。范曄の「党錮列伝の原作となった思想書」を措定することで、『三国志』を読むのがおもしろくなる。「ご飯がおいしくなるスーパー」と同じニュアンスでの「三国志がおもしろくなる范曄の読解」である。
ぼくは思う。范曄の袁紹伝などを見て、なにかを言えたら良いのだが。どうも、各資料を「仕事」として切り貼りした感じがする。范曄の思想性は、党錮で出尽くしている感じがする。それはちょっと残念である。しかし、消化試合に全力をつくすのは、難しいのだ。范曄は後漢の歴史を描きたいのではなく(そこまで言ったら語弊があるけど)人間観を論説したいのだから。


党錮列伝の読解を膨らましてみました。130521

ぼくは思う。党錮列伝を割り引き、二袁から赤壁まで(190-200年代)を、秦漢から魏晋に転換する画期と見なすことで、三国志がおもしろく読めそう!でもこれって、范曄が党錮に対してやったことを、ぼくが建安期に対してやろうとしているだけでは。いいのかなあ。きっといいんだろうw
ぼくの考える「人間」とか「歴史」ってものが、この時期にもっとも典型的に表出する。だから、そこを基軸にして、突破口にして、全体をえがく。その他の部分は、いくら分量がおおくても、副次的な注釈に過ぎない。とかね。
じゃあ、ぼくの考える「人間」や「歴史」とは。いい問いに到達した。かなり難敵なんだが、こうやって「ふらっと散歩するような感覚で、なにげなく難所を登り始めている」のって、いいことです。

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