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孔明の転職活動 第01章 許都の冷笑 /1節
管仲や楽毅のような宰相になりたい――。
諸葛亮は若いとき、そう語ったという。彼は、劉備が建国した漢(蜀漢)で丞相になったのだから、天下統一こそ果たせなかったが、所期の夢だけは実現できたように思われがちだ。
しかし陳寿の『三国志』のみならず、管仲や楽毅について読んでみると、孔明の陰の思惑が見えてくる。その思惑は、孔明が蜀漢の丞相として命を終えてしまったために、史書へ浮かび上がることはなかった。
いま孔明の真の志を、描き出してみたいと思う。

*****

「きみの話は分かりにくいな。抽象的なんだ。つまり、こういうことかね。諸葛孔明くんは、曹操様の下で働きたい、と」
荀彧は、うすい髭をひっぱりながら、長身の青年の顔を覗き込んだ。青年は、幼い顔を上気させながら、そうなります、と答えた。
荀彧は、ため息をついた。
「知ってると思うけど、曹操様は今、官渡で袁紹と対峙している。非常時なんだ。きみのような子に、構っていられない」
「官渡は、知っております」
「だったら、早く帰ってくれないかな。私は曹操様に留守を任されている。やることが無限にある。時間がないんだ」
荀彧は形式ばった礼をして、歩み始めた。
荀彧は侍中・守尚書令である。政務をこなすため、早朝に登庁したところを、門前で青年に捕まった。青年は、諸葛亮と書いた木片を突き出すと、いきなり「曹操様に取り次いでくれ」と騒ぎ出したのだ。
青年すなわち孔明は、荀彧の袖を引いた。小柄な荀彧は、重心を崩して引っ張られた。振り向くと、孔明が顔をゆがめ、目を潤ませた。
「諸葛孔明くん、そんな顔をしたって、不可なものは不可だ。私は忙しい。放してくれ」
「荀彧様は、曹操様の信任が厚く、多くの人材を推挙されていると聞いて、このように参ったのです」
孔明の声が、語尾でおかしな調子に裏返った。
「くどいな。では最後の機会をやろう。もう一つだけ、問うてやる。曹操様の今の敵は、兵力が十倍以上もある袁紹だ。曹操様が袁紹を破るには、どうしたらいいか」
「大義によって威圧し、鬼謀によって翻弄し、勇力によって撃破します」
「だから、それはどういうことかね」
「森羅万象は、天によって成り立っています。大義とは、天に感応する志のこと。鬼謀とは――」
「ああ、もう分かった」
荀彧が、声を荒げて遮った。
「お分かりいただけたんですね」
「そう。分かった。だからもう、帰りなさい」
荀彧は早足で門内に吸い込まれた。孔明が追いすがろうとすると、衛兵が矛を鼻先に当てた。孔明は、ひっ、と小さな声を上げると、きびすを返して立ち去った。歩きながら、胸の底が振動し始め、気が付くと涙を落としていた。

建安5年の許都に、孔明はいる。孔明は、20歳である。
幼くして父を亡くした孔明は、叔父に引き取られた。叔父は豫章太守だったが、3年前に農民の叛乱に遭って死んだ。
孔明には、兄と弟がいる。兄は諸葛瑾という。
今年の正月、諸葛瑾は江東の孫権の臣となった。孫権はまだ19歳の、新しい君主である。孫権は先頃、兄を失い、弟の彼が君主として立った。しかし権力が安定せず、人材の層も薄いことから、広く才能を求めた。諸葛瑾は、その呼び声に応えた1人である。
諸葛瑾は、弟たちが自活できないことを心配し、兄と一緒に江東へ来ないか、ともに孫権殿に仕えないか、と誘った。孔明は、「断じて、いやだ」と言った。
孔明の双眸には、1人の英雄しか映らない。
「私は、曹操の臣となる。曹操を支えて、天下に名を轟かす」
胸を張って高らかに宣言し、諸葛瑾を呆れさせた。孔明は、兄の好意を踏み躙ったことに気づかず、思いつきをぶち撒けた。
「江東などという辺境には、短慮の武辺者ばかりが群れているに違いない。孫権の軍閥などに入り、理不尽で惨めな思いをするのは御免だ。新興勢力だから、字面だけは立派な肩書きを、すぐにもらえるかも知れない。安っぽい自尊心の持ち主なら、小さな箱庭の中で偉ぶって、それだけで満足するだろう。だが、この国の中心は皇帝であり、皇帝は曹操とともにある」
諸葛瑾は、その長い顔をしかめもせず、そうなのかも知れないね、とだけ答えた。
孔明の弟は、諸葛均という。諸葛瑾は末の弟に、お前はどうするかね、と優しく聞いた。諸葛均は、この時の選択の意味を半分も理解せず、孔明について行くことを選んだ。諸葛均は、2人の弟を荊州に残し、1人で江東へと去った。
諸葛瑾を見送ると、時をおかず孔明は、諸葛均を人に預けた。
「待っていろ。私は曹操に認められて、役割を得るだろう。そうしたら、お前を迎えにきてやる。しばらくかかるかも知れないが、大人しく学問をしていなさい」
そう言い含めて、孔明は荊州を出た。
孔明は、曹操に仕官することだけを考えた。道中は、一歩地を踏むたびに勇み、ついに許都に入った。城内で聞き込みをして、荀彧と話す機会を、朝駆けにて手繰り寄せたのだ。孔明としては、いっぱしの兵法のつもりだ。
だが結果は、虚しい玉砕である。
孔明は、酒を買い求めて、飲んだ。酒は薄くて、ちっとも酔えなかった。それもそのはずで、曹操の領国では、あらゆる穀物が兵糧に注ぎこまれている。戦時下の許都は、殺伐としていた。

孔明の乾ききった脳には、あちこちで木魂す鍛冶の音が入った。官渡に供給するために、武器の製造が盛んなのだろう。
孔明は大通りを逸れ、民家の間をふらふらと歩き続けた。
軒先で、人が死んでいるのを見つけた。孔明は、前にしゃがみ込んだ。
女性だ。それほど老齢ではなさそうだ。土色の肌をして、窪んだ顔面を、長く垂れた髪が覆っていた。孔明が手を伸ばそうとすると、一斉に羽虫が死体から飛び上がった。
「飢えたのかな、病かな」
孔明はつぶやいた。
家の中は影だった。どうやらこの女性は、暗い家に住んでいた最後の1人で、死体を片付けてくれる身内は残っていないのだろう。
孔明が生まれたのは光和4年だ。その3年後に、黄巾ノ乱という農民の武装蜂起が起きて、この国は乱れた。
孔明が少年時代を思い返したとき、覚えているのは、死体だけだった。斬り死にした死体を見つけたときは、虫が湧いて朽ちていく過程を、じっと見ていた。
孔明が死体以外に見てきたものと言えば、志に燃える自分だ。
建安元年、孔明が16歳のとき、曹操は関中を流浪していた皇帝を保護した。いつからか孔明は、曹操に自分を認めさせることだけを念じ、乱世に食いつないできた。
「それなのに――」
荀彧は、何を不足としたのか、よく分からない。荀彧との会話を思い出してみるが、何をどう直せば正解だったのか見つからない。門前のやりとりを、5回ほど思い起こすうちに、胃の辺りを冷たく感じた。10回ほど思い起こすうちに、先ほど飲んだ酒が立ち上ってきて、とても喉が臭くなったので、孔明は思考をやめた。
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このコンテンツの目次
>孔明の転職活動
第01章 許都の冷笑
第02章 汝南の剣客
第03章 新野の孤雲
第04章 隆中の懐思
第05章 樊城の新鋭
第06章 襄陽の城壁
第07章 長坂の財主
第08章 柴桑の謀反