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孔明の転職活動
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第08章 赤壁の××/1節
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孔明は柴桑に留められた。
協力に報いると言って、魯粛が孔明に毎夜馳走をしてくれた。周瑜は軍務が忙しいとのことで、席には来なかった。周瑜の直情を、孔明は好きではなかったので、救われた思いだった。
「我らの諜報によると、劉備殿は関羽・劉琦と無事に合流され、こちらに向かっているようだ」
「良い報せです」
孔明は単身で柴桑に乗り込んできたから、劉備との通信が途絶えてしまった。劉備軍は長坂で曹操に壊滅させられたから、孔明に護衛や伝令を付けられない。情報はもっぱら、魯粛に頼った。魯粛がたくさんの食客を抱えていて、彼らが大陸全土からの情報を集めてくれるのだ。
「九江の蒋幹という人を知っているか」
魯粛が切り出した。
「いいえ、知りません」
孔明は怪しいと思った。孔明が知る由のない人のことを、魯粛はわざわざ聞いてきた。魯粛の話は、必ず裏があると思っていい。
「孔明よ、蒋幹と会わないか。彼は周瑜と同じ揚州の生まれでね。懐かしくて、周瑜を訪ねてきたようなのだ。私用の旅だと言ってる」
孔明は警戒した。 同じ郡の旧友が訪ねてくるという話は、よくある。面識がなくても、意気投合することは多い。それくらい、同郡出身と他国で会うことは珍しい。だが、同じ州とは何事だ。揚州は広大だから、それくらいの接点では縁と見なされない。下手な口実である。その上に、曹操迎撃のために殺気立っている柴桑で、物見遊山とは不自然きわまりない。
(蒋幹には計略があり、その計略への対処を、魯粛は私に押し付けるつもりだ)
孔明は魯粛の目的を見抜いたが、迷いの色を全く出さずに承諾した。柴桑に孔明の味方はなく、劉備たちがどこにいるのか正確な情報を持っていない。まさかとは思うが、魯粛が孔明を殺すことは自由だ。魯粛はやらないにしても、周瑜が独断で兵を向けてくるかも知れない。
「会ってみましょう。蒋幹殿はどちらに――」
「実はもう呼んである。私は戦争の準備に戻るから、孔明が相手をしてやってくれないか。彼が軍営を見たいと言ったら、自由に見せていい。通行証は渡しておこう。孔明の後学のためにもなるだろう。周瑜が蒋幹を案内するのが本当だが、あいつは忙しい」
孔明に拒否する権利はなく、また孫権軍を見ておきたかったので、快い態度で受け容れた。
小柄だが、目鼻の整った人物が入ってきた。
「周瑜殿は立派だ。同郷として、とても鼻が高い」
挨拶もそこそこに、蒋幹は酒を手酌で注ぎ、周瑜の賛美を始めた。周瑜は多忙だが、この蒋幹という客のために僅かな時間を割き、いかに自分が孫権に頼りにされているかを喋ったらしい。初対面の人に、ろくな前置きもなく自慢話を聞かせたのは、周瑜らしいと思った。 曹操との戦を控えているからら、周瑜の性格は、いい時間の節約になっただろう。孔明は苦笑せざるを得ない。
「周瑜殿は、珍宝を見せてくれた。孫権殿からの下賜品だ。よほどの信頼を得ていないと、あんなものは得られないだろうよ」
孔明は適当に相槌を打って受け流した。蒋幹は、興奮が冷めやらぬという顔をして続けた。
この時代に他国から素性のおかしな客が来たとき、大抵は離間を期している。すなわち、蒋幹は周瑜を孫権の下から引き剥がして、別の主を紹介しようとした。周瑜はそれを見抜き、現状への満足を語り、遠回しに断ったということだ。
蒋幹は続けた。
「周瑜は私にこう言った。もし蘇秦や張儀がこの世によみがえり、孫権殿を裏切れと説いたところで、私は心を動かすことはない、と」
蘇秦と張儀は、人を説き伏せることの代名詞のように使われる。孔明は先日の政堂で、この2人に準えられたばかりだ。その2人は周瑜すら論破できないとされたのだから、ずいぶん安く言われるものである。史書への侮辱だと思ったが、孔明はここでは黙っていた。
蒋幹は盃を干し、吐息混じりに言った。
「おお、困ったことだ。帰ったら曹丞相に、周瑜を得られなかったと報告せねばならん」
「曹丞相にですか」
孔明が透かさず反応した。曹丞相とは、曹操だ。
「ああ、喋ってしまった。ままよ。もういいだろう。曹丞相は周瑜殿の評判を聞き、配下に加えたいと思し召した。私は舌に自信があったから、柴桑に来たんだ」
孔明は孫権の臣ではないから、その気安さも手伝って、蒋幹はぺらぺら喋った。周瑜を騙して、曹操軍に引き込むという密命を帯びてきた。心の重圧は大きかっただろう。しかし失敗したにせよ、密命は終了したので、もう黙っておく必要がなくなった。
(蒋幹が周瑜の前で、これほど流暢に喋っていたら、ひょっとすると周瑜を宗旨替えさせることが出来たのではないか) と孔明が思うほど、蒋幹の舌は回った。
孔明も曹操に己を売り込むという、密命を持った人である。その密命が終わりを告げて、蒋幹のように心置きなく喋ってしまえたら、どんなに楽だろうかと思った。
――いや、待て。
孔明は酒を飲む手を止めた。
――天下三分という回りくどいことをしなくても、眼前の蒋幹と人脈を結べたら、曹操に仕官できるのではないか。
孔明にはつねに、許都で荀彧と話したときの苦さを思い出してきた。もしあのとき上手に受け答えできたら、人生は楽に好ましい軌道に乗っていた。なぜ、一瞬の会話に失敗しただけで、何十年もの辛苦を支払わなければならないか。理不尽である。
いま孫権を開戦させるところまで到ったが、劉備は実際のところは行方知れずである。天下三分が成るには、不確定要素が多すぎる。
――劉備よりも蒋幹だ。
幸い蒋幹は、感動癖があるようである。彼と懇ろになってしまえば、一足飛びに夢が実現するではないか。
孔明は考えを改めて、蒋幹と真剣に付き合うことにした。 翌日から蒋幹と孔明は、柴桑の軍容を見て回った。孔明は、ありったけの知識を蒋幹に話した。孔明は孫権軍のことなど知らないが、そうでなくても話はできる。兵の身体の鍛え方、士気の保ち方、兵糧の栄養と調理法、武器の正確で簡便な管理、何十もの陣形と戦術。 蒋幹はいちいち感心した。孔明は手応えを感じていたが、この手応えは見当違いである。 「ああ、周瑜の優れたることよ」 蒋幹は、孔明を孫権軍の解説者としてのみ位置づけている。孔明が立派なことを言うたびに、周瑜への評価を上げた。 孔明は蒋幹の心の在処に気づかず、日夜喋り続けた。10日経ち、蒋幹が北へ帰ると言っても、引き止めた。孔明は、「諸葛殿もなかなかだ」という一言を蒋幹からもらいたいばかりに、全霊で没頭した。
孔明は自分を失っているから、魯粛の陰の思惑に気づかない。
周瑜は蒙衝・闘艦を率いて、長江を遡上していた。部将として補佐を任された黄蓋が、周瑜に聞いた。
「曹操を討つには、準備が足りないようだが」
この老将は、周瑜の副に徹している。戦歴が長いから、周瑜の性質をよく知っている。周瑜は強いが、先走るところがある。
「黄蓋殿、まだ曹操に仕掛けませんよ。我らが曹操を討つために足りないものは、何ですか」
「兵力」
「そうです。黄蓋殿が心配しているのはそれで、私も同じ憂いを持っています。孫権軍は5万。山越への防禦がいるから、曹操に当てられるのは3万が精一杯です。曹操の水軍は、実数に絞っても20万」
黄蓋は首をかしげた。
「分かりませんか、黄蓋殿。兵を刈り取りに行くのです」
周瑜は遙かな山を指差した。
「劉備」
周瑜は呟いた。
「劉備を殺すか」
「ええ。孔明は、魯粛の計により、柴桑に縛り付けました。すなわち劉備軍は、頭脳を失った元の野獣。せいぜい3日持てばと思っていましたが、孔明はまだ柴桑を動かない。天がこの周瑜に、劉備の兵を取れと勧めているに等しい」
黄蓋は、怖ろしいことだ、と言った。周瑜は笑った。 「劉備を殺せば、劉表の孤児・劉琦は逃げるでしょう。1万は固く、2万の増兵も望めます。おまけに関羽・張飛が手に入ります」
「関羽と張飛は、劉備と義兄弟の契りを結んでいると聞いたが」
「いいえ、私なら使いこなして見せます。彼らは、大きな岩と同じです。動かすまでの苦労はあるが、転がり始めれば、高きから低きへ、猛烈な破壊力で転がるだけです。岩の意思など関係ない」
周瑜と黄蓋が率いる船団は、樊口に着いた。 魯粛からの依頼で、劉備たちはここに留まり、孫権との同盟が成るのを待っている。もちろん依頼とは書状の修辞だけで、劉備軍を守りに適さない地に留まらせる口実だ。
「敗残兵が、同盟を気取るとはおこがましい」
周瑜が包み隠すところのない苛立ちを、劉備の幕営に放った。
(つづく)
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このコンテンツの目次
>孔明の転職活動
第01章 許都の冷笑
第02章 汝南の剣客
第03章 新野の孤雲
第04章 隆中の懐思
第05章 樊城の新鋭
第06章 襄陽の城壁
第07章 長坂の財主
第08章 柴桑の謀反
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