いつか書きたい『三国志』
三国志キャラ伝
登場人物の素顔を憶測します
『晋書』の翻訳
他サイトに翻訳がない列伝に挑戦
三国志旅行記
史跡や観光地などの訪問エッセイ
三国志雑感
正史や小説から、想像を膨らます
三国志を考察する
正史や論文から、仮説を試みる
自作資料おきば
三国志の情報を図や表にしました
企画もの、卒論、小説
『通俗三国志』の卒業論文など
春秋戦国の手習い
英雄たちが範とした歴史を学ぶ
掲示板
足あとや感想をお待ちしています
トップへ戻る

(C)2007-2009 ひろお
All rights reserved. since 070331
孔明の転職活動 第08章 柴桑の謀反/4節
張昭は少しも動揺せず、周瑜を指差して咎めた。
「無礼であるぞ、周瑜。何の真似か知らんが、兵を収めて去れ。さすれば、礼を失した罪は、重くはならん」
周瑜は張昭を無視して、重臣を睥睨した。
「揚州の文官諸君。我ら孫権殿の臣は、曹操と開戦することとする。それに伴い、兵5万を動かす印綬を、揚州から借り受ける。否と申されるならば、この剣でお応えしましょう」
流麗でよく通る声だ。さすが周瑜だ。
周瑜は自分たちを、孫権の臣と呼んだ。
漢の皇帝の臣でなければ、漢に属する揚州の臣でもない。孫権の私臣、いや孫権の作る国のだと自己表明したのだ。三国時代の鼎の一足である「呉」が、初めてここに産声を上げた。
孔明の口の中に、苦味が広がった。
――私は、将来の敵に加担している。
壁をただ一枚隔てた近さで、周瑜が独立を宣べた。怒気と嫉妬で卒倒しそうだ。孔明は周瑜に迫り、前言を撤回させたい。衝動が抑えられない。
だが、今は時ではない。
――遠回りなようでも、天下三分。
孫権に曹操との戦端を開かせ、その間に劉備に荊州と益州を取らせる。孫権は、曹操と劉備を隔てる緩衝材として必要だ。
――奪いたければ、いったん与えよ。
老子だ。
だから孔明は、壁と破ってはならない。好きではないが、孔明は老子の言葉を胸の中で何度も唱えた。右手で羽扇を握り締め、左手で右手首を握った。力を入れたから、ぶるぶると手が震えた。
何年かの後、曹操は劉備の下の孔明を認めるだろう。その頃合に、孔明はついに統一事業へと乗り出す。すなわち、荊州と益州の地図を持参して、曹操が主宰する漢へ国土を返上するのだ。
揚州は、単独では国を保てないから、立ち枯れるだろう。曹操は、益州と荊州から長江を下り、孫権を降伏させる。これにて漢はひとつとなり、復活を遂げる。劉備には安楽な老後でもくれてやれば良かろう。孫権は、死ねばいい。それまでの辛抱だ。
魯粛と孔明は、互いを利用しあう同盟関係だ。魯粛は孫権を焚きつけることに成功し、孔明より先に利潤を受け取った。だが孔明は、後にもっと大きな利潤を受け取る心算だ。利潤は、手に入れるのを待てば待つほど、大きくなるものだ。
政堂では、百官が争鳴した。
「許されることではないぞ。肝に銘じよ」
張昭は周瑜を押しのけて、退出しようとした。周瑜は張昭の衣を後ろから踏み、叱り付けた。
「立場を弁えられよ、ご老人。あなたは曹操側の捕虜だ。逃げることは出来ない」
周瑜は、張昭を席に押し戻した。周瑜の白刃が、火を反射した。それを見た諸葛恪が泣き出して、周瑜の足に取り付いた。屁理屈ばかりはうまいが、心胆は幼児のままである。この幼児は、擁護者である張昭が乱暴に扱われたのを見て、恐慌してしまった。
「恪よ、国家の大事に首を突っ込むな」
「あ、父上――」
周瑜の後ろから鎧を着た人が現れて、諸葛恪をつまみ上げた。諸葛瑾である。孔明の兄で、恪の父だ。彼は会議に出ていなかったが、周瑜と共に行動していた。孫権から個人的に信任が厚かったから、周瑜の味方を選んだのだろう。
諸葛瑾は、驢馬のように長い顔を振るって演説した。孔明は、8年ぶりに兄を見たが、昔よりも顔が長い。
「皆さま、非礼をお詫びします。しかし有事ですから、やむを得ずこのような手段を取らせて頂きました」
黙れ諸葛瑾、という罵声が交ったが、演説は続いた。
「どうかご安心下さいませ。これは、曹操と我らの私闘です。もし我らが曹操に破れたら、皆さまは漢臣として仕官できるでしょう。我らが斬られれば、それで済むはずです。皆さまが漢室に忠誠を誓っておられることは、我が弟の諸葛亮が見届けているはずです」
孔明は、見透かされているような気がして、どきりとした。まさか壁の隙間から見ていることを、兄は知りはしまいが、不気味な言い回しではある。
諸葛瑾が言い終わる前に、2人の武将が踏み込んできた。すでに50歳は越えているだろうが、覇気は少しも衰えていない。丸太のような指を折り、孫権に拱手した。
「程普、黄蓋か」
孫権は彼らの名を呼んだ。
程普と黄蓋は膝を付いて、孫権に「ご決断を」と促した。どちらも、孫権の父の代から仕えている老将である。当主を立て続けに失っても孫氏が消えなかったのは、彼らのような武人が支えたからである。政治者として国境を容易に越える名士とは違い、孫氏と侠気によって強固に結びついた郎党たちだ。
孫権は紫の髯をしごくと、ゆっくりと剣を抜いた。
「わしは、曹操に決戦を挑むことにした。これまでは自由な発言を認めたが、以後は許さん。もし曹操に降ると口走るような人があれば、このようになると知れ」
孫権は雷のように言い切ると、剣を一直線に振り下ろした。孫権が肘を乗せていた装飾机は、真っ二つになった。 孫権の躊躇いの年月とともに、机は壊れた。
「周瑜と程普を左右ノ督とする。それぞれ1万を率いて長江を遡れ。黄蓋は周瑜に、部将として付いてくれ。魯粛は賛軍校尉だ」
政堂の内外から、盛大な雄たけびが上がった。
やっと赤壁が開戦した。

周瑜は捕虜だと言ったが、重臣たちは解放され、帰ることができた。こういう采配は周瑜には出来ない。やったのは魯粛である。重臣はこれ見よがしに嘆いてから、座を去った。
「私は周瑜に賛成していない。暴力で黙らされただけなのだ。もし孫権が首だけになって長江に浮かんでも、私は知らぬ」
命が惜しいから、面と向かっては言わないが、文官たちは丸めた背中でありったけの弁明と悪態をぶちまけて、政堂を出て行った。孫権は腕組みをして、それをじっと見ていた。
政堂の門の外には、武装をした軍人がずらりと並んでいた。彼らは魯粛の命令で、退出してくる文官に危害を加えることが禁じられていた。もし孫権が曹操に勝てば、再び名士層の協力が必要となる。
――孫権は、名士を軽んじる。
そういう評判が広がることが、最も危険であった。武人だけでは、広い揚州と荊州を治めることができない。今日の政堂にいた重臣は、感情が反発して揚州から去ってしまうかも知れない。それは止められない。だが在野には、まだいくらでも賢者はいる。
文官は潮が引くように消えたが、張昭だけが動かなかった。いよいよ反対派で残ったのは、張昭1人となった。
「腰が抜けて立てませんか」
周瑜が典雅に言った。
「竪子が何をほざくか」
張昭は素早く立ち上がると、指を周瑜の鼻先に突きつけた。孫権は腕を組んだまま、視線を外さない。
「周瑜の馬鹿者。お前は孫権殿を誤らせようとしている。孫権殿の亡き父・孫堅殿は、漢室に尽した将軍だ。焼けた洛陽を復興した快挙は、人民の心に刻まれている。孫堅殿のご努力を無にするか」
張昭は名士の価値観を代表する。だから秩序を支持し、漢臣としての立場を譲らない。既存の価値を肯定することは、保身に徹することと似ている。だが両者は、見た目に区別が付きにくくても、同じではない。
事実として、柴桑の政堂にいた名士の中には、保身で頭がいっぱいの人が多かったかも知れない。張昭は彼らから、首魁と目されていた。だが張昭その人は、決して保身だけの人間ではない。この老人は、孫権を我が子のように思っている。
孫権の兄・孫策は、孫権を張昭に託して死んだ。
――もし権が無能なら、あなたが代わってくれ。
それが孫策の遺言だった。
孫策は、君主権力の授受を話題にしていない。揚州を治める地方官として孫権が不足ならば、張昭が代わりに政務を見てくれという頼んだ。少なくとも張昭は、そう聞いた。治世ならば、州牧は数年で交代する。
だから張昭は、揚州の長として、孫権を育ててきた。孫権が乱世の群雄に転落しないように、見張ってきた。
「孫権殿は会稽太守として丞相・曹操をもてなし、次の命令を待つべきだ。率いている兵の多さに驚き、いたずらに曹操に戦闘を仕掛けるなど、児戯以下だぞ。曹操は物量にものを言わせ、揚州がどれだけ教化されているか試しに来たのだ。曹操の南征を、そう見よ」
周瑜の回路は単純だから、張昭の話を受け付けない。敵か味方の二元論である。だが孫権は、張昭の心が痛いほどに伝わった。
孫権は張昭に歩み寄った。
「すみません、義父上。この開戦は、わしの我がままから出たものです。しかし、わしは戦いたい。だから、やらせて下さい」
孫権は最敬の礼をもって、張昭に謝った。
監禁されていた孫権の自尊心が、孔明という部外者の闖入によって封印を解かれてしまった。張昭は若者の心の動きを知らないではなかったから、孫権を赦した。
前頁 表紙 次頁
このコンテンツの目次
>孔明の転職活動
第01章 許都の冷笑
第02章 汝南の剣客
第03章 新野の孤雲
第04章 隆中の懐思
第05章 樊城の新鋭
第06章 襄陽の城壁
第07章 長坂の財主
第08章 柴桑の謀反