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孔明の転職活動
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第08章 柴桑の謀反/3節
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魯粛は早足で、政堂の裏から入った。孔明もそれに従った。門兵が咎めたが、魯粛の顔を確認すると、槍を取り下げた。
魯粛が乱暴に扉を開けると、孫権が肘をついて1人で座っていた。この座り方は、彼のくせらしい。
「孫権殿、いいか」
魯粛は主君の返事を待たずに、どかりと孫権の前に座った。
「曹操に降伏、で宜しいのですか」
「ううむ」
訊かれた孫権はろくに返答せず、魯粛を見ている。
孫権は、追い詰められていた。本心では曹操と戦いたい。なぜなら、武力のみが今日の地位を保てる唯一の根拠だからだ。だが若い彼は、求心力の獲得が遅れている。だから重臣の会議を大切にするし、会議では中立の姿勢を取る。
孫権ははじめ、「余計な策は聞きたくない」と大喝して、孔明を黙らせようとした。あれは、最も保守的な人の意見を代弁したものだ。孫権の本心ではない。孫権はいつからか、重臣たちの溜飲を下げさせる方法を体得した。議論を活性化させ、存分に意見を言ったという満足感を、重臣に感じてもらうことが大切だった。 孔明は、魯粛が用意した最良の一石であった。波紋が、派手に広がった。曹操に降伏すべきか否かという議論が、充分に尽された。たとえ内容が不充分であったとしても、議論をしたという雰囲気は得られた。
だが結論は、孫権が望まない方に大きく傾いた――。
「孫権殿、聞きなさい。曹操に靡いていた名士たちは、家柄が良く、曹操に降伏すれば高位が保障されています。牛車に乗り、従者を従えて、やがて太守や刺史になるでしょう」
これは、事実である。魯粛は続けた。
「私だって富家に生まれたから、下曹従事よりも低い位を与えられることはない。しかし孫権殿、あなたはどうですか。わざわざ申し上げて悪いが、あなたの孫氏は新興の家だ。あなたは祖父の名すら分からない。万が一曹操に降伏を赦されても、高い位には就けない。惨めな思いをするだけです」
「そうじゃなあ」
孫権はため息をついた。孫権は、つくづく優柔不断の人だ。決断が遅い。9年も費やして、斬った将は黄祖だけ、取った郡は江夏だけ。この鈍さは、重臣の妨げだけではなく、孫権の性格も原因だろう。また、彼の立場の弱さが、茫洋とした性格に拍車をかけたかも知れない。きちんと意見表明しては、君臣の間に火種を生む。
「むう」
孫権が、またため息をついた。
(孫権に特有の事情とは、この性格だったか)
孔明は合点がいったが、これは甚だ困る問題である。
「孫権殿、あなたは愚か者か」
魯粛は前触れなく轟然と憤り、床を殴りつけて怒鳴った。すごい迫力である。孔明が見たところ、魯粛は怒っているというより、焦っている。
「揚州の人は、孫権殿への忠が欠片もない。これは、孔明が暴露した彼らの本音です。確かに見たでしょう、薛綜と孔明が論戦したときの、座の空気を。あれを見せられても、孫権殿は平気か。父上や兄上に恥ずかしくないか」
さっき孔明は、薛綜に、孫氏が衰えたら主君を代えるのかと聞いた。一同は無言で肯定した。 揚州の内臣同士では、あそこまでの応酬はやらない。暗黙の諒解だから話題にしないし、わざわざ孫権の前で言う必要もない。だが、外から来た孔明が改めて問うたから、彼らが懐に密かに持っている本心が、孫権の目に晒された。
孫権の顔が崩れた。泣いたのだ。孫権は、全身を震わせて泣き始めた。大粒の涙が、四角い頬から分厚い手のひらを伝って、孫権の袖の中に吸い込まれていく。
「魯粛、お前だけが私の心を分かってくれるな。政堂の奴らは、わしを誤らせようと企んでおるだけじゃ」
海千山千の名士を従えてきたが、孫権はまだ27歳の若者なのだ。孔明の1つ下である。強い父と兄を、早くに失った孤児でもある。
「それで魯粛、わしはどうしたらいい」
孫権は素顔ですがった。
「謀反です」
「あるじのわしが、誰に謀反するのか」
孫権は常識的なことを、魯粛に訊いた。
「揚州の重臣に、孫権殿が謀反をするのです。すでに周瑜が、政堂を遠巻きに包囲しています。周瑜は、鄱陽郡
へ山越討伐に行ったことになっていますが、虚報です。巴丘に伏せてありました」
孔明は、あっ、と気づいた。荊州から揚州に来る途中で、周瑜の艦隊と会った。あれは魯粛が、駐屯を命じたものだったのだ。そして魯粛が俄かに怒ったのは、孫権の決心が遅れるせいで、周瑜の埋伏が露見するのを怖れたからだろう。 孔明に論戦を挑ませて重臣の気を引き、その隙に魯粛は兵は動かしていた。
「張昭は怒るだろうな」
孫権が言った。養父の機嫌を損ねることに怯えているようであり、養父をやり込めることを楽しんでいるようでもあった。
「魯粛、わしはどうしたらいい」
「席に戻り、もう少しだけ議論をさせなさい。結論が出せないのは、孫権殿の常です。ましてやこれは、曹操に降るか否かを決める場です。だらだらと引き延ばしても、不自然ではない。私は周瑜に合図を出します」
孫権は、よし、と言って角ばったあごを上下させ、戸の外に消えていった。長く鬱屈していたものが、霧消した背中だった。
魯粛が立ち上がった。
「孔明は、ここに残れ。以降は、我らだけの話だ」
魯粛に怒気は残っていない。演技だったのだ。
「孔明、ありがとう。君が議論を挑んだおかげで、揚州の重臣は腹の内を隠し切れなかった。孫権殿は、重臣の臓物のにおいを嗅がなければ、開戦を決断できなかっただろう」
魯粛は、夜闇に消えていった。
孔明は、こっそり部屋を出た。他国のことではあるが、孔明の利害にも繋がることだ。孫権が開戦しないと、劉備が飛躍する機会を得られない。気が気ではない。 複雑な建物ではなかったから、部屋の構成はだいたい予想できた。孔明は、細い隙間から、政堂を覗けるところを見つけた。隙間は、孫権の席の後ろに空けられているようで、政堂内が見渡せる。建築の不備で、たまたま隙間があったのではない。政治的な意味合いを込めて、わざと作られた覗き穴だろう。記憶をたぐれば、孫権の後ろの壁には、複雑な文様の絵が描かれていた。
孔明は隙間に張り付いた。
「もういい加減、議論は尽されたと思うがどうか。劉備は曹操の敵だから、劉備と接点を持つことを想定するから、おかしなことになる。降伏だ抗戦だとか、そんな話の枠組みを設けることが、そもそも違う。会稽太守である孫権殿が、遥かに高位である丞相に行政の視察を受ける。そう捉えなさい」
張昭が、孫権を諭している。
「うううむ」
孫権は机に肘を乗せて、唸っている。あの装飾机は、いつも孫権が身を預けてきたものだろう。意思を決めかねるとき、もしくは意思を表に出せないとき、言葉にできない煩悶を机上に落としてきた。
――外で、鬨の声が上がった。
何事が起きたのかと、重臣たちは色めき立った。きょろきょろと辺りを見回したり、とっさに立ち上がったりした。
周瑜が鎧に身を固めて、白刃をかざして踏み込んできた。
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このコンテンツの目次
>孔明の転職活動
第01章 許都の冷笑
第02章 汝南の剣客
第03章 新野の孤雲
第04章 隆中の懐思
第05章 樊城の新鋭
第06章 襄陽の城壁
第07章 長坂の財主
第08章 柴桑の謀反
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