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孔明の転職活動 第08章 柴桑の謀反/2節
孔明は虞翻を見た。
「曹操の百万とは虚仮脅しで、実数はその7割でしょう。それも、旧袁紹・旧劉表様の軍を寄せ集めたに過ぎません。だが劉備様の軍は、選りすぐりの仁兵です。それに比べて、揚州の皆さんはどうですか。長江を擁して守りやすい国土をお持ちなのに、曹操に降ろうとしている。最も弱いのは、あなたたちでしょう」
虞翻は顔を紅くした。孔明の作戦は、論者の足元をすくうことだ。揚州では君主の権力が弱く、名士が重んじられている。だから皆、人身攻撃に弱い。
諸葛恪がまた喋った。
「虞翻殿は、兵数の話をしています。それを重臣の態度の話にすり替えた。叔父貴の分析には、劉備や揚州の兵数が出てこなかった。そもそも虞翻殿への答えになっていない。不誠実ではありませんか」
また笑いが起きた。虞翻の表情が和らいだ。
諸葛恪は、孔明を叔父貴と呼ぶ。すなわち孔明を、劉備の使節ではなく、血縁者として扱っていることになる。だから孔明は、堂々と言い返すことが出来ない。反論するなら叔父としてであるが、孔明は甥との接し方が分からない。到らぬ甥を躾けることなど、28歳でいきなり叔父になってしまった孔明には、出来ない。人情の機微は苦手なのだ。
「甥子の方が賢いようだな」
張昭は、孔明に聞こえるように独語して、ほくそ笑んだ。
張昭は、口の減らない子供をわざと遊ばせて、国に禍いをもたらす使者を追い返してしまう腹だ。孔明を叔父貴と呼ばせているのは、張昭の入れ知恵であろう。
「あんたは、蘇秦や張儀のように遊説するのが狙いか」
と孔明をからかったのは、歩騭である。呉郡の名族だ。彼が名前を挙げた2人は、戦国時代の弁舌の徒だ。強国の秦や斉を軸として、諸国を同盟・対立させて天下を揺るがした。
孔明はゆっくり振り返った。故事は得意分野だ。
「逆に問う。あなたは、蘇秦と張儀を、ただの口八丁の人物だとお思いか」
ここから孔明の、歴史講義が始まった。歩騭は、しまった、という顔をしたが、言い返す暇を与えてもらえない。孔明がたっぷりと持論を説教した後に、高い目線で歩騭を圧倒した。
諸葛恪が口を挟んだ。
「叔父貴の話は長い。歩騭殿は、そんな腐った学者みたいな議論を欲したのではないでしょう。孫権様と劉備殿が同盟をすべき理由を、分かりやすく説いてくれと言ったのです」
孔明のあごから、汗が落ちた。熱弁を振るって体温が上がったのであるが、ひとしずく汗が落ちただけで寒くなってしまった。
陸績が進み出た。歩騭と同じで、呉郡の名族である。ちなみにこの一族は、のちに呉ノ丞相・陸遜を輩出する。
「劉備は貧しい家に生まれ、むしろを織って商っていたと聞きます。孔明殿は、何とかして劉備殿を売り込みたいようだが、そもそも無理というものではないか」
陸績はとどめを刺したつもりだ。
「血筋の貴い人が、草莽に紛れ込み、土に汚れて商いをすることに、何の卑しみがあろうか。民の生活を見下す為政者こそ、この国の弊害となろう。あなたは、そういう種類の人間ではありませんか」
孔明はあらん限りに喚いた。
だが、諸葛恪が飛び出して、
「見苦しいですよ、叔父貴。舌鋒の先を論者に向けるのは、そろそろお辞めになったらどうですか。舌鋒は、論の中身を斬るべきです。それとも、落ち着いて客観的に話し合っては、叔父貴の不利になる事情でもあるのですか」
と言ってしまった。
劉備が弱いのは事実だから、孔明は正々堂々と答えることを避けてきたのである。矜持にあふれた重臣たちを論破すれば、一気に開戦させることが出来ると思っていた。だが、諸葛恪がいちいち水をかけるから、政堂が過熱しない。

孔明は、魯粛を盗み見た。木像のようだ。
彼はただ、孔明の舌が戦端を開くことを祈っているのか。投資者は、結果だけを享受するもので、過程に手を出さないものだ。またもし、ここで魯粛が孔明を援護しても、決して好転はしない。魯粛は破天荒だから、保守的な重臣には疎まれている。とくに張昭は、魯粛を傲慢だと決め付けて嫌っていた。
孫権を見ると、感心がなさそうな無表情で、ぼおっとしている。諸葛恪を止めるでもなく、この場を中立の視点で見届けようという腹だろうか。上奏文を載せる机に肘を突き、呆けた顔だ。
「曹操とは何者か」
早口をぶつけて来たのは、薛綜だ。
孔明は咄嗟に、
「新しき世の宰相」
と答えてしまいそうになった。それが本心だ。だがこの場で、それは相応しくない回答だ。曹操を悪く言わねばならない。
「か、漢室の賊臣」
即答すべきだったが、孔明はひと呼吸遅れてしまった。薛綜は、心理的な余裕を見せて言った。
「今は劉氏の漢が天下を握っているが、天下は劉氏の私物ではない。歴代の皇帝は、天下を異姓の有徳者に譲ってきた。もう劉氏の天命は尽きて、曹操が実力を握っているから、曹氏が皇帝になっても良い。賊臣というのは間違いではありませんか」
――曹操には、皇帝ではなく宰相として大成してほしい。先に管仲・楽毅となり、今の世に宰相としての道を示してほしい。
これが孔明の願いであるが、それを言ったら、どのみち曹操を認めたことになってしまう。違うことを言わねばならない。
「曹操は、祖父の代から漢室に仕えています。漢室が衰えたからと言って、乗っ取って良いわけがありません。あなたの理屈に沿えば、もし孫権様の家が衰えたら、あなたは孫氏を乗っ取ることになります。あなたは、そういう臣なのですか」
こう言えば、薛綜は叱られた子供のように、うなだれるはずだった。だが、そうならない。柴桑の空気は異様である。誰もが、
――孫氏は仮の君主に過ぎないよ、
と暗黙に諒解しているらしい。文官たちは誰も首を動かさないが、孔明が持ち出した仮定にしきりに頷いている。魯粛の肩が、ぴくりと動いた。
(なんという君主権力の弱さよ)
孔明は、落胆するしかなかった。孫権はこの時点で、ただの討虜将軍・会稽太守である。揚州の刺史や牧ではないから、命令に強制力がなく、立場が弱い。法家の観点から見れば、揚州の文官の態度は頷けるものであるが、天下三分には揚州の決起が必要なのだ。
「諸葛亮、もういいだろう。帰れ」
孫権が、ずっと閉ざしていた口を開いた。孫権は君主の尊厳を穢されたばかりであるが、眉ひとつ動かさない。孫権は孔明に対し、親しみを見せず、軽蔑を向けず、憐憫を示さず、無色の声で退出を命じた。
「魯粛よ、諸葛亮を宿まで案内せよ。皆の意見は、確かに聞いた。しばし休憩としよう。わしは衣を換えてくる」
外はすっかり日が沈んでいる。いくら国論をまとめようという議論だとしても、長すぎる。だが孫権は休憩だと言って、さらに引き伸ばすようなことをした。
(魯粛の話によると、孫権は戦いたいのではなかったか。なぜ消極的な議長に甘んじているのか)
孔明はそう感じたが、すでに退場を命じられてしまった。口を挟む権利がない。孔明は、揚州を開戦に導くことが出来なかった。舌戦に敗北した。許都で荀彧に門前払いを食らったことを思い出した。心の傷が増えた。

孔明は自失して、魯粛に導かれた。魯粛は、来たときとは違う道を歩いた。孔明は落ち込んでいたから、これに気づかなかった。しかし再び大きな門を潜ったから、異変を知った。
「宿はこちらでしたか」
「寝ぼけるな、孔明。これは柴桑の政堂の裏門。私たちは、外塀を迂回してきただけだ。さあ入れ。奥に、孫権殿がいる」
「なにゆえに孫権様ですか。もう話は済んだでしょう。魯粛殿は、今さら何をなさろうと――」
「謀反だ」
魯粛は低い声で、短く言った。
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このコンテンツの目次
>孔明の転職活動
第01章 許都の冷笑
第02章 汝南の剣客
第03章 新野の孤雲
第04章 隆中の懐思
第05章 樊城の新鋭
第06章 襄陽の城壁
第07章 長坂の財主
第08章 柴桑の謀反