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孔明の転職活動
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第08章 柴桑の謀反/1節
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朝、柴桑に入った。孔明は、魯粛に宛がわれた宿に入った。魯粛は、しばらく孔明の前から姿を消した。
落ち着かなかったから、孔明は通りに出た。柴桑は、飾り気がない。しかし物量は豊富で、軍事要塞のような街だ。鍛冶の音が鳴り止まず、20歳のときに孔明が訪れた許都と、空気が似ていた。
孫権の兄・孫策は、はじめ揚州の呉郡のあたりを根拠とした。柴桑は呉郡よりずっと西にある。
――荊州を切り取るための前線基地、
に君主が自ら出向いていることを意味するのだろう。城壁が低いから、防戦が想定されていないことが知れる。あくまで攻めるための足がかりとして、築かれた城市だ。余計な労働を一切省き、孫権は攻めることに国力を集中している。 揚州を主体にして経緯を組み立てなおせば、先年に孫権は江夏郡の黄祖を討ったのだから、漸次の西進政策を取っていることが分かる。江夏の次は、軍資が蓄えられた江陵を取る。そして、襄陽だ。勢いに乗って益州を取れば、孫権は大陸の南を治めることとなり、曹操との天下二分が成る。
もし曹操が北伐にあと3年を費やしたら、孫権の思惑は実現していただろう。だが、曹操は速かった。いや、孫権が遅かった。すでに兄・孫策が黄祖を破っていたのに、これに止めを刺すのに9年を要してしまった。ただ1郡に9年。これは、曹操と伍すためには致命的な遅さだ。
――孫権を足止めしたのは、揚州の臣だ。
孔明はよく知っているつもりだ。
もし孫権が敵ならば、内部を撹乱してやれば、容易に転ぶだろう。だが、孔明の使命はその逆である。揚州を団結させ、曹操にぶつけねばならぬ。黄祖に苦戦した人を、曹操に勝たせる。これは、曹豹に苦戦した人を、呂布に勝たせるようなものである。
(私にできるだろうか)
孔明は頭を抱えた。
「おじちゃん」
柴桑の市街を歩く孔明の後ろで、声がした。孔明は自分のことを呼ばれていると気づかないから、そのまま歩き続けた。幼児の声が今度は、孔明おじちゃん、と呼んだので、驚いて振り返った。老人が、5歳くらいの男の子を抱いて、立っていた。
「諸葛亮ですね。我が揚州へようこそ」
老人は、忌々しそうに言った。眉間や目尻の皺は深く、眉は長く垂れている。白髪の上に乗せている冠が、不自然に大きい。黄色く骨ばった手が、幼児の尻の下から出ていた。
「私は孫権の臣、張昭です。そしてこの子は、諸葛瑾の長男です。名は恪、諸葛恪だ。あなたは恪の叔父だ」
「私が、叔父ですか――」
孔明は、甥だという幼児を見た。顔が長いから、兄の子だと知れる。幼児に顔を寄せてまじまじと見ていると、諸葛恪が言った。
「よくも揚州を乱しに参ったな、叔父よ」
まだ乳くさそうな幼児に、大人びた口調を当てられて、孔明は目を丸くした。張昭が、かっかっかと笑った。
「諸葛恪は、神童だと評判だ。生まれてすぐ喋り、2歳で文字を読み、3歳で文字を書いた。5歳の今では、立派に論を為す。諸葛亮は、臥龍として荊州で評判だったそうだが、甥子の方が逸材ではないかな」
張昭は、大事そうに諸葛恪の頭を撫でた。 ここに現れた張昭は、孫権に重用されている人だ。そして、孫権を足止めした主犯である。もし柴桑の政堂で論戦をすることになれば、もっとも手ごわいのは、張昭であろう。中原と人脈を持ち、孫権その人ですら手を焼いている名士なのだ。
夕方に宿に帰ると、魯粛が待っていた。
「勝手に出歩かれては困る。些細な行動が、外交に影響を与えてしまうと自覚してほしい」
魯粛がでっぱった頭で詰め寄るので、孔明は降参して謝った。
「今日は昼から、重臣の会議が行われます。しかし曹操に降伏するという意見が優勢で、今にも決しそうです。だから、来てもらいたい」
孔明は、頷くよりなかった。
魯粛に先導されて、府堂の大門の前に立った。魯粛がゆっくり門を押した。孔明の前には、百官がずらりと並んで、荊州からの新奇な客を眺めている。臣の列の中に、兄の諸葛瑾はいなかった。まだ重臣の席を与えられていないのだろうか。 正面の奥には、おそらく孫権。江東の若い君主が、夕日に映えた。碧い瞳に、紫の髯。噂には聞いていたが、そのとおりの風貌だ。大きく鰓の張ったあごを動かして、入られよ、と孔明を促した。
孔明は羽扇を握りなおすと、一歩を踏み出した。
「こちらは、諸葛亮殿。揚州の臣・諸葛瑾殿の弟だ」
魯粛が大声で紹介した。
「ほお。兄の後を追って、今さら揚州に仕えたくなったか」
上座で声がした。声の主は、張昭だ。 張昭の膝の上には、孔明の甥の諸葛恪が座っている。昼前に会ったのは、張昭がこの会議に赴く道中だったらしい。しかし公式の場に、年端も行かぬ幼児を連れているとは異常だ。張昭はよほど諸葛恪が可愛いのだろう。そして誰も張昭の無作法を指摘できないのであろう。
魯粛が、張昭に慌てて反論した。
「諸葛亮殿は、仕官の申出に来たのではない。彼は、揚州のために大略を持参した。孫権殿にどうしてもお伝えしたいと言うから、私が連れてきた」
張昭が意地悪を返そうとすると、大喝がそれに被さった。
「余計な策は要らん。わしは聞きたくない」
建物どころか、大地が震える声だ。孫権である。主戦派であるはずの孫権は、諸葛亮の策なんか必要ないと言った。魯粛は顔色を変えて、食らい付いた。だが孫権は、他国の人の詭弁は聞けないと言った。百官は、ぱちぱちと拍手を始めた。
孔明は入場した直後なのに、進退窮まった。孔明に入れと許したのは、孫権ではなかったか。この矛盾した態度は、何であろうか。孔明は魯粛を見たが、硬直してしまっている。 すると孔明に、話しかけた人があった。張昭だ。孫権と張昭は、感情的に反発するところがある。だから孫権が孔明の話を聞かんと言えば、この老人は逆に、話を聞いてやろうと思ったのだろう。
「諸葛亮、君は劉備の臣だ。まさか孫権殿に、劉備と同盟せよと説くわけではあるまい」
孔明は無言で張昭を見た。 張昭は続けた。
「いま劉備は曹操に敗れて、荊州を南下中と聞きました。臥龍と呼ばれたあなたが付いていて、なぜ劉備軍は惨めに敗北しましたか」
論戦の開始である。孫権が曹操に降ってしまっては、劉備は天下に居所を失い、そして孔明は曹操の主催する廟堂に居所を失う。勝たねばならない。できなくとも、やるだけだ。 さて、これまで劉備は、樊城で曹操の急襲を知り、襄陽に行ったが城門が開かれず、長坂で散り散りになった。張昭は、劉備は戦略も戦力もないから、同盟相手とは見なせないと言ったのだ。
孔明は羽扇を胸に引き寄せた。
「劉備様が襄陽を取ろうと思えば、取れました。しかし敢えて取りませんでした。理由は2つ。まず同姓の劉表様の恩義に報いたから。恩人が死ぬや、その遺子を攻めるなど人道ではない」
襄陽を攻めよと進言したのは、徐庶であり、孔明だった。だが劉備はそれを退けた。悔しかったのは孔明自身であるが、柴桑でそれを打ち明ける必要はない。孔明は、すこし間を取った。
「次の理由は、百年の大計があったから。劉備様は、長く国を持たぬ君主でした。いきなり荊州を持たせるのは、瀕死の病人に生肉を与えるようなものです。百戦百敗し、最後に一勝して天下を取ったのは、漢ノ劉邦です。張昭様は、大計をご理解なされないから、劉備様の小さな敗北に目を奪われて、騒ぎ立てるのではありませんか」
張昭は黙りこくった。 個人攻撃をするとは、議論の公平を欠くが、孔明は確信犯だ。舌戦の御前試合をしているのではなく、命がけの外交をやっている。感情を逆撫でしてでも、相手を圧倒すればよい。
張昭は立場が重く、人に批判されることに慣れていないから、血を逆流させてしまった。張昭は孔明に恥をかかせて、早々に追い返すつもりだった。だからわざと、発言の機会を孔明に与えた。しかし、孔明は予想外に弁が立つ。張昭の目論み違いであった。 張昭を救ったのは、張昭の膝の上にいる諸葛恪だ。まだ5歳だが、奇跡の舌を持つ童だ。
「叔父貴、あなたこそ理解が不充分だ。張昭様は、いま劉備殿と同盟を結ぶ可否を知るため、現在の戦力のありようを尋ねた。それをあなたは、将来の劉備殿の可能性とすり替えた。曹操は目前に迫っているのでしょう。百年先の成長を待っていては、滅びあるのみだ」
あちこちから笑いが起きた。孔明は、このおかしな甥っ子に反論すべきかどうか、迷った。真面目に矛を交えたら、孔明の品格と説得力を落とすことにならないか。
「ちょっと、いいか」
新たに論戦に加わった人がある。会稽の虞翻だ。孫策が友人の礼をもって迎えた人物で、中原の名士と繋がりを持つ。
「曹操は荊州の兵を加えて、百万に膨らみました。対する劉備殿は、やっと逃げ延びたという状況です。どうして曹操に敵することができますか」
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このコンテンツの目次
>孔明の転職活動
第01章 許都の冷笑
第02章 汝南の剣客
第03章 新野の孤雲
第04章 隆中の懐思
第05章 樊城の新鋭
第06章 襄陽の城壁
第07章 長坂の財主
第08章 柴桑の謀反
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