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孔明の転職活動 第07章 長坂の財主/3節
魯粛は道すがら、孔明に国情を説明した。
「揚州の当主は孫権殿。中華を見渡したところ、曹操に立ち向かう気概を持っているのは、彼だけだと言える。だが孫権殿は、志のままに曹操と戦うことは出来ない」
魯粛は、謎かけのようなことを言った。
「在地の豪族が、曹操に降伏したがっていますか」
「そうだ。よく分かった」
揚州は、西隣の荊州と同じ状態にある。かつて荊州の劉表は、豪族の均衡を心がけるだけで、人生を使い尽くしてしまった。後を継いだ劉琮は、豪族に押し切れらて、降伏を選んだ。
「加えて孫権殿には、別の特有な事情もあるのだが、それはおいおい孔明にも分かるだろう」
魯粛は謎を残すようなことを言った。
魯粛は地図を広げて、孔明に見せた。
「柴桑には1日では着かないから、途中で停泊する。今夜は巴丘で眠ろう。孔明に会わせたい男が、来ているからな」
「誰ですか」
「俺が最初に投資した男だ。周瑜という名だ」
魯粛が生まれたのは、東城の富豪だ。周瑜がこの地方に赴任してきたとき、魯粛は大きな倉をまるまる1つ献じた。これは魯氏の資産の半分を占めたが、魯粛は倉を指さして、こともなげに「あれをやる」と言った。魯粛は商人として、周瑜の人物を目利きしたのだろう。
「俺の生家の倉は2つあった。残してあった2つ目は、孔明、君にくれてやろうと思う」
魯粛の故郷の地は曹操が治めているから、もう倉はない。魯粛はまた例え話をしているのだが、目は真剣そのものである。
「孔明は周瑜と協力して、曹操と孫権殿を開戦させてくれ。周瑜が去年から画策しているが、なかなか手こずっている 」
「微力ながら、やってみましょう」
魯粛は孔明を、奇貨としたようだ。だが、同じ主君を頂く仲間として迎えたわけではない。
魯粛には、実現したいことがある。孔明は詳細を聞かされていないが、おそらく孫権に天下を取らせるための戦略をやっているのだろう。
魯粛は、孔明を利用しようとしている。また孔明の方でも、孫権を利用しようとしている。長江に浮かんだ2人は、利害が一致した。
だがこの蜜月は、いずれ決裂することが約束されている。決裂が分かっていて親睦を深めるためには、心に強さが要る。孔明は、劉備と孫権の二方面へ、本心を韜晦すべき外交対象を抱えることとなった。
日が暮れて、長江の輪郭が見えなくなった。
「夜襲です。包囲されました」
舟を漕いでいる者が、悲鳴のような声を上げた。孫権は新興の君主で、まだ従わない勢力が多い。山越などの異民族は、その代表だ。孫権が拡張政策を取らないのは、内憂が大きすぎるからだ。
「篝火を消せ。敵の数は――」
魯粛が闇に声を放った。
「分かりません。10とも100とも。とにかく八方に敵です」
「当てにならん奴め」
魯粛は立ち上がると、舟の先頭に立ち、見えない江面を見た。流矢があるからやめて下さい、と従者が制止したが、魯粛は振り払った。彼は商人だと言っていたが、戦場では度胸の人だ。関羽のような風格があると、孔明は思った。
「諸君、騒がなくていい」
魯粛は笑った。
「これは敵ではない。周瑜の出迎えだ」
その指摘を待っていたかのように、一斉に周囲で火が点った。ひときわ大きな楼船が近づいてきて、その上で美声が鳴った。珍しい楽器のような和音が、ひとりの声の中に含まれている。
「魯粛、久しく。私の指揮の手並はいかがですか。あなたの舟を、気づかれもせずに囲みました。なかなかのものでしょう」
周瑜は、飛び跳ねて嬉しがった。

舟を板で渡し、魯粛と孔明は楼船に移った。
「これが周瑜。こちらが孔明」
魯粛が順に紹介して、2人の間を取り持った。
周瑜は、まるで腕のいい彫師が作ったような、白面の美丈夫だった。玉璧のような顔を、長江の上の火がゆらめいて照らしているから、孔明は見とれた。
「これはこれは、孔明殿ですか。私は周瑜です。従祖父の周景は大尉、その子の周忠も大尉でした。よろしく」
おかしな自己紹介だな、と孔明は思った。何も言う前から、祖先の自慢である。大尉とは三公、すなわち軍事担当の宰相である。孔明は宰相になることを祈念しているから、敏感に反応してしまった。周瑜は嬉しそうに孔明を見守った。
「私は瑯邪の諸葛亮です。よろしくお願いします」
周瑜は、まるで勝利したかのような満足げな表情で、孔明たちを楼内に招き入れた。すでに席は用意されていて、南方の酒が出された。
「孔明殿は、どんな特長の人ですか」
周瑜は酒が1巡すると、遠慮なく聞いてきた。嫌がらせをしているのかと思ったが、孔明が表情を覗きこんだところ、悪意はないように思われた。底抜けに明るく、包み隠すところがない人なのだ。
「私は大した人間ではありません」
「そんなわけ、ないでしょう。魯粛があなたを買いました」
「買い被りです。恐縮するばかりです」
孔明の胸には、管仲と楽毅が棲んでいる。だが、おいそれと開陳するべきだとは思わなかった。周瑜がどんな人なのか、まずは見極めてやろうと思った。
「私は孫権殿を支える将軍です。孫権殿は、ただこの周瑜と魯粛さえあれば、天下を握ることができます。しかし魯粛は、君のような若造を新たに招いた。蛇足です。鬱陶しい」
酒が2巡し、周瑜は口を尖らせた。だが、何を言われても不快の残らない声である。魯粛は、にこにこしている。おそらく周瑜が正直すぎるのは、普段の姿なのだろう。だから魯粛は発言を止めないし、気にもしていない。
孔明は、孫策を思った。
孫策とは、いま揚州を治めている孫権の兄である。周瑜は、孫策と兄弟の契りを結んだ。2人は同じ年齢で、生まれたのは孫策がひと月だけ早かった。周瑜は、孫策の母と交流もあり、双子に等しかった。
2人は果敢に外征をくり返し、神兵のように連勝し、今日の孫権の領土の基礎を築いた。だが急ぎすぎる孫策のやり方は、多くの人の恨みを買い、最期は暗殺されたと聞く。
――周瑜が付いていながら、なんと惜しいことか。
揚州の人は、そう嘆いたらしい。孫策は全てが陽の人だったから、一緒にいた周瑜にはいくらかの陰が想定された。だが孔明の目の前にいる周瑜は、ただ陽ばかりが眩しい人である。まるで童子のように、臆面なく自らを誇る。孫策と周瑜は補完していたのではなく、全く一致して高めあっていたのだ。
周瑜は、玩具に夢中になる少年のように、魯粛の前に木の駒を並べた。さっき魯粛を包囲したときの船の動きを、再現するらしい。孔明は横目で見た。彼は船戦に疎かったから、学ぶところがあった。だが、手の内を嬉しそうに宣伝する周瑜の態度には、懐の浅さを思った。
――周瑜は、天性の軍人なのだ。
孔明はそう思った。
確かに周瑜では、保身を視野に入れた揚州の文官たちを、納得させることは出来ないだろう。芳醇な容姿は神がかっているが、それだけで人を説き落とすことは無理だ。彼が正攻法で勝ち取れるのは、少女の心ばかりであろう。
――だから私は、魯粛に招かれた。
孔明はついに思い到ったが、何も気づかない振りをして、料理を口に運び続けた。
周瑜は船に楽隊を載せていた。彼は音楽に興じ、もう孔明に絡んではこなかった。孔明のことを忘れてしまったのかも知れないし、客を無視することが彼なりの復讐かも知れなかった。
翌日は早朝に出発したが、周瑜の見送りはなかった。小さく霞んでいく楼船を眺めながら、魯粛は「周瑜はまだ寝ているそうだ」と言った。友と言うよりは、弟を見守るような温かい顔だと、孔明は感じた。
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このコンテンツの目次
>孔明の転職活動
第01章 許都の冷笑
第02章 汝南の剣客
第03章 新野の孤雲
第04章 隆中の懐思
第05章 樊城の新鋭
第06章 襄陽の城壁
第07章 長坂の財主
第08章 柴桑の謀反