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孔明の転職活動
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第07章 長坂の財主/2節
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魯粛は精悍な笑みを見せながら、孔明に説明した。
「私は商人だ。だが、ものを売り歩くような商人ではない。1人の男が履をすり減らして稼げる金など、たかが知れている。だから私は、人に投資する。人に財貨を持たせて稼がせ、分け前をもらう」
孔明は、なぜ魯粛がこんなことを言っているのか、理由を考えた。魯粛のような目ざとい男が、無駄話をするはずがない。すなわち何かを暗示し、何かを狙っているのだ。
「いい投資先を見つけたのですね」
孔明は、機転で調子を合わせた。
「さすが諸葛瑾の弟御だ。話が早い。俺は荊州で余らせた銭を、君に使わせたいと思う」
「劉備様ではなく、私ですか」
孔明は、少々驚いた。謙虚で、こんなことをいう孔明ではない。ただ魯粛の思考に追いつかず、戸惑っているのだ。銭とは暗喩である。襄陽で持て余した労力を、孔明のために提供してくれるという。魯粛がこんなことを申し出た理由が、孔明には分からない。
「劉備は、あれは駄目だ。しかし君は、芽を持っている人間だと見た。君の兄から、聞いたことがあるぞ。君は曹操に仕えたかったのだろう。人が幼少時代に素直に願ったことは、終生消えない。それなのに、君はいま劉備の下にある。曹操と劉備は、好対照であるにも関わらずだ」
魯粛が、ここで言葉を切った。
「だから裏に、何かあると踏んだ。数万の民を連れての逃避行も、前代未聞。隆中で説いたという、天下三分も秀逸。君に投資すれば、でかい収益が上がりそうな予感だ」
孔明は顔色を変じた。羽扇を帯から引き抜いて、魯粛の口を封じんとした。天下三分の真意はばれていないだろうが、見透かした物言いは、気分の良いものではない。 孔明は神経質な目線で、魯粛を睨み付けた。魯粛は鼻で笑った。
「心配いらない。投機は、極秘裡に行うものだ。すでに君の心中に何かあることを確かめられたのだから、もう言わぬよ。では、手始めに柴桑に来ないか。孫権に会わせてやる。私が見たところ、君の作戦は、劉備を江陵に入れたぐらいで完了ではあるまい」
渡りに舟である。 孔明は江陵を抑えたら、孫権を動かし、曹操に歯向かわせたい。曹操優勢を混ぜっ返し、劉備に活躍させる機会を作らねばならない。そのための一石が、孫権だ。輪郭だけだった構想が、実現への梯子を得た。
「諸葛、柴桑に行くのか」
張飛が幕をこじ開けて入ってきた。孔明は驚いて、胡床から跳ねた。張飛は、いつから幕の外にいたのか。孔明が、劉備でなく曹操を慕っていることを、魯粛に暴かれた。それを聞かれてしまったのではないか。
張飛が空中に拳を撃った。
「なぜだか、今夜は眠れなくってな。胸騒ぎがするんだ」
張飛は、がりがりと胸をかいた。孔明は生きた心地がしなかった。
翌朝、劉備を生命の危機が襲った。
長坂で、奇襲を受けたのだ。
なかば油断して、悠長な進軍をさせていた劉備である。斥候の数も減らしていた。だが曹操がそれほど甘いわけもなく、間道を縫って、突如として劉備たちの横腹を突いた。 劉備軍は、裸である。馬を持った裕福な民や、体力に自信のある民が同行していたが、その数は少ない。ただの軍と軍との衝突となれば、曹操は容赦しなかった。兵はみるみる討ち取られ、劉備は家族の輿をしてて逃げねばならなかった。
大将の劉備ですら、双剣を振るって戦った。護衛兵が、曹操軍に斬られた。劉備は味方の血を、全身に浴びた。
関羽は水軍を率いて離脱しているから、長坂にいない。張飛が使命感に燃えて、猛った。たった20騎を連れて引き返すと、曹操の大軍を相手に蛇矛を振り回した。個人の武勇を競うことが目的ではないから、曹操軍は手出しを辞めた。正規軍とは、そういうものである。だが張飛は、己の迫力が敵を圧倒したと喜んだ。
張飛は川を見つけると踏みとどまって、劉備軍の撤退を促した。殿軍となる覚悟を決めたようだ。橋を落としてしまえば、曹操軍の追撃は避けられる地形だ。 孔明は武術が使えないから、ひたすら干戈を潜った。羽扇は、血をたっぷりと吸った。孔明も想定していなかった急追である。
――これが曹操の戦だ。
孔明は、嬉しいような怖ろしいような、おかしな心持だった。
雑然とした人波に揉まれて、孔明は橋に差し掛かった。橋を渡るとき、鬼のようにまなじりを裂いた張飛と、視線が交錯した。
――魯粛との密談を聞かれていたら、私は斬られる。
孔明は刹那に張飛の鉄槌を懼れた。二心があるのだから、斬られる理由は充分にある。しかし長坂の鬼神は、蛇矛を下げて孔明に道を与えてくれた。
張飛は橋の前に立ちはだかり、
「我こそは、燕人・張飛だ。命の要らん奴は、かかって来い」
と怒鳴った。対岸の森で戦局を見守りながら、孔明は張飛の大見得を聞いた。曹操軍は、肝を潰したようだ。
「燕人か」
孔明は、ぽつりと言った。 張飛は最北の幽州出身で、そこには戦国時代に、燕という国があった。はじめ中華の領域には属さなかったから、雄雄しい強兵の産地だと言われている。だから張飛は名乗るとき、自分は燕人だと言う。 孔明の横にいた魯粛は、
「燕人がどうかしたか」 と聞いた。
「あなたには隠さずに言うが、私の目標は楽毅です。楽毅が仕えたのは、燕でした。また、楽毅の祖国は中山です。劉備様は、中山靖王の末裔を名乗っている。だから何だと聞かれれば答えに困りますが、わずかでも楽毅と縁を持てて、幸福だと思っています」
「よほど楽毅を慕っているのだな」
魯粛は微笑んだ。9歳上のこの男は、兄の友人だという。敗軍の中で志を捨てていない孔明という青年を、魯粛は弟のように思い始めているのかも知れない。
血みどろの劉備が、孔明のところに来た。孔明が怪我を気遣うと、劉備は激しく首を振った。俺の血ではない、と言った。そして、ぼろぼろと涙を落とした。 ――俺の血ではなく、仲間の血だ。
劉備は、こういうことに最も耐えられない種類の人間だ。自分の無力を呪っているに違いない。今日のような壊走を、数え切れないほど経験しているはずだが、決して慣れることをしない。それが劉備の魅力だ。
「臥龍、俺はどうしたらいいのか」
「東の夏口に向かって下さい」
孔明は、江陵を諦めた。民を切り離せば江陵を取れると、孔明は思っていた。劉備を慕う人口と、江陵の物資と裏づけとして、孫権と同盟交渉をする。そういう設計だった。
だが烏桓の軽騎兵の速度は、孔明の想像を凌駕する。まだ江陵の情報は入ってこないが、曹操のことだから、すでに兵を送り込んでいる可能性がある。もし先手を取られていたら、劉備軍は江陵に近づいた途端に、挟撃されて全滅である。
「夏口は、劉琦様が1万で守っています」
劉琦は、亡き劉表の長子である。前に孔明を老師と仰ぎ、生き残るための方法を乞うた。あのときは劉琦が邪魔だったから、孔明は彼を葬るつもりで辺境に行かせた。だが劉備が曹操に追い落とされて来ると、ただひとつの寄る辺が劉琦となった。 孔明は劉琦に対して、最後まで心ある師匠として接した。だから、劉備を拒まないだろう。むしろ、曹操の接近で眠れぬ夜を過ごしているだろうから、慌てて劉備に夏口を差し出すかも知れない。
「関羽将軍の舟にも、江陵行きを中止させて下さい。途中の漢津で合流しましょう」
劉備は手に付いた血を舐めながら、孔明に礼を言った。
「分かった。俺はここで生き残った奴らを集めて、漢津を目指す。漢津で関羽と会ったら、次は夏口に行く。これでいいか」
孔明は頷きを見せた。劉備は大勢の仲間を失った後でも、感情を抑えて、虚心に話を聞ける人だ。孔明は、劉備への信頼を深めた。
「そんで孔明は、今からどうするのだ」
劉備が問うてきた。
「柴桑に行こうと思います」
「よし、行ってこい」
劉備は、血に塗られた巨大な顔を向けて、にこっと歪めた。孔明は拍子抜けして、羽扇を落とした。まだ何も説明していない。それなのに劉備は、命運を孔明に託したという。孔明は、劉備の器の大きさが分からない。だが、にわかに使命感が高ぶった。
魯粛が羽扇を拾い上げて、土を払い、孔明に差し出した。羽毛が血に染め抜かれ、黒くなっていた。
「孔明、柴桑には舟で行く。この季節の長江は、白い鳥が飛ぶ。俺が射落としてやるから、扇を作り直せ。今からが君の本当の戦だ」
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このコンテンツの目次
>孔明の転職活動
第01章 許都の冷笑
第02章 汝南の剣客
第03章 新野の孤雲
第04章 隆中の懐思
第05章 樊城の新鋭
第06章 襄陽の城壁
第07章 長坂の財主
第08章 柴桑の謀反
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